ネタバレ無し! 未視聴者向けの『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズざっくり解説。

突然ですが、皆さんは『戦姫絶唱シンフォギア』というアニメをご存知でしょうか。  

「少女たちが歌いながら怪物と戦う」というおよそ正気とは思えない番組コンセプト。超豪華な声優陣。「急に歌うよ」でお馴染み (?) の『Synchrogazer』、「シ・ン・フォ・ギィィッ――ヴウゥワアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」という謎の咆哮……等々、何かと話題性には事欠かない『シンフォギア』。しかし、既に10周年を迎え、TVシリーズも通算5作品……という現状から、どことなく本作に入り辛さを感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。少なくとも、そのような方が筆者の周りには既に数名いらっしゃる状態。   

しかし先日行われた『シンフォギアライブ2020→2022』ではなんとシリーズの新プロジェクト始動が発表。「シンフォギアに興味があるけど、まだ触れられていない」という方には、まさに今こそが『シンフォギア』に追い付く絶好のタイミング……! 

 

そこで、今回の記事ではシンフォギアが気になるけど、どういう順番で見ればいいのか分からない、どんな作品なのか分からない」という方に向けた簡易的なプレゼンとして、極限までネタバレを削りつつ、各シリーズの概要とその繋がり、魅力や視聴方法などを簡単に解説。 

シンフォギア 』に触れる最初の一歩として、あるいは『シンフォギア』を誰かに勧めるアイテムとして、本記事を活用してくださいますと幸いです。

 

《目次》

 

 

"戦姫絶唱シンフォギア" とは

 

概要

戦姫絶唱シンフォギア』シリーズは、サテライト製作のTVアニメ『戦姫絶唱シンフォギア』から続く一連のシリーズ作品。大まかなジャンルとしては、『プリキュア』や『セーラームーン』のような「変身ヒロイン」ものを、『スクライド』のような熱血SFバトルアニメと足して2で割り、そこに『マクロス』のような「歌×バトル」要素を混ぜたもの。謂わば「歌う熱血SFバトルヒロインアニメ」とでも呼ぶべき作品になっている。何このジャンル……?

しかも、そんないかにもな「イロモノ」でありながら、メインキャストに名を連ねているのは悠木碧水樹奈々高垣彩陽日笠陽子南條愛乃茅野愛衣……といった、実力・知名度ともに抜群の人気声優兼アーティストの方々。これら錚々たるメンバーが、“歌を唄いながら” 熱いバトルを繰り広げる熱血SFバトルヒロインアニメ。それが『シンフォギア』なのである……!! 

 

そんな本シリーズは、「真の最終回」「これを見なきゃ終われない」とさえ言われるライブイベント (シンフォギアライブ) の他、現在スマートフォンゲーム兼外伝作品である『戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED』やパチンコ筐体が好評稼働中、またスピンオフ漫画も連載中……と様々なメディアにて展開しているが、あくまでその軸にあるのはTVアニメ。  

13話×5シーズン (計65話) と少々ボリュームがあるものの、『第1期』『第2期』『第3~5期』という括りで綺麗に終わるため、見始めた結果「合わなかった」場合などは途中で切り上げやすいのが嬉しいポイントだ。 

(本記事では、ボリューム上の都合から「TVアニメ」についてのみ解説していきます。ご了承ください……!)

 

 

 

その物語

舞台は「少し先の未来」の日本。人間を炭化させる謎の怪物 “ノイズ” に対抗できる唯一の戦力= “シンフォギア” を纏う少女たちが、時にすれ違い、時にその手を繋ぎながら、ノイズを始めとする様々な脅威に立ち向かっていく……というのが、その大まかな物語。しかし、本作の大きな特徴は「真の敵が “人と人との不和” である」こと。ノイズのような怪物との戦いは勿論描かれていくのだが、それ以上に本作では「思いのすれ違い」「相容れない信念の激突」といったものにスポットが当たり、そのような “不和” こそが登場人物たちの最大の敵として立ちはだかる。 

つまるところ『シンフォギア』とは、単なる「可憐な少女たちがカッコよく敵を倒すバトルストーリー」というだけではなく、「等身大の少女たちが泥臭く悩み、苦しみ、その果てに  “手を繋ぐ” ことで希望を掴み取っていく物語」でもあり、このことが本シリーズの大きな魅力と言えるだろう。  

 

 

 

 “歌って戦う” とは

前述のように、等身大のドラマが魅力である『シンフォギア』。しかし、やはりその最大のトピックと言えばシンフォギアを纏う少女たちが、歌いながら戦う」こと。  

このことに関しては劇中で根拠が説明されるものの、それは当然「後付けで考えた理屈」であって、本作でシンフォギアを纏う少女=「シンフォギア装者」たちが歌うのは、それはもうその「歌いながら戦う」姿が魅力的であるからに他ならない。これは決して比喩でもなんでもなくて、この一見違和感満載で「なんだこれ……?」となる演出が、一度慣れてしまうとたまらなく熱いものに見えてくるのである。 

それは、シンプルな「画・アクションと音楽のシンクロ」という点では勿論のこと、それ以上に「物語を彩る演出」としての意味合いが大きい。というのも、彼女たちの歌は「シンフォギアの力で、胸に秘めた想いが自然と口から流れ出した」というもの。だからこそ、彼女たちの歌は時にその心を歌い上げ、時に彼女たちの成長の証となるし、「デュエット」や「唄う歌が変わる」といった瞬間には、他のアニメでは得られない圧倒的なカタルシスがある。ある意味、「挿入歌」という文化の一つの到達点と言えるかもしれない。

 

 

 

音楽面の魅力

「歌」を中心に据えたアニメであるシンフォギア。であれば、やはり「歌が好みに合うかどうか」が気になるというもの。 

本作の楽曲を担当するのは、人気音楽製作ブランド「Elements Garden」。その代表である上松博康氏は、水樹奈々氏の『ETARNAL BLAZE』を始めとする数々の名曲を手掛けた他、『シンフォギア』のみならず『うたの☆プリンスさまっ♪』などの原作・楽曲提供も行うヒットメーカーで、そんな幅広い実績・ノウハウが遺憾なく注ぎ込まれた 『シンフォギア』の楽曲群は、非常に多彩な顔と一貫した「熱さ」を併せ持った逸品がこれでもかと揃っている。

 

Synchrogazer

Synchrogazer

 

シリーズを通して、OP主題歌は水樹奈々氏、ED主題歌は高垣彩陽氏がそれぞれ担当。それらの主題歌は挿入歌としても用いられ、特に第1期のOP主題歌である『Synchrogazer』や第1期のED主題歌である『Meteor Light』が挿入歌として使用された際は、そのあまりにも熱い演出から大きな話題となっていた。 

更に、水樹奈々氏はいくつかのシーズンにおいて、OP主題歌だけでなく「もう一つの主題歌」あるいは「テーマソング」とでも呼ぶべき歌も担当。中でも下記の『Glorious Break』は、OP曲の対になる歌詞や挿入歌としての見事な演出・存在感からOP主題歌を食ってしまうほどに高い人気を誇っており、シリーズを代表する楽曲の一つと言えるだろう。

 

Glorious Break

Glorious Break

 

また、『シンフォギア』の楽曲といえば外せないのが数々のキャラクターソング。 

シンフォギア装者ごとに楽曲のテイストが大きく異なっている……というのは「キャラクターソング」としては当然なのだけれど、問題なのはそのテイストの違い=個性が非常に強く、「シリーズファンなら、新しい / 知らない歌だとしても、そのイントロだけで “それが誰の歌なのか” 分かってしまう」程のものであること。 

ここでは、その一例として主人公=立花響 (CV.悠木碧) と、準主人公とも言える響の先輩装者=風鳴翼 (CV.水樹奈々) の歌を挙げてみたい。 

ALL LOVES BLAZING

ALL LOVES BLAZING

月煌ノ剣

月煌ノ剣

 

方や、コーラス (合いの手) が印象的な「切なくも熱いヒーローソング」。方や、琴や三味線の音色が印象的な「和ロック」……と、このように『シンフォギア』のキャラクターソングはまさに三者三様。更に、シリーズを重ねていく毎に各々の「色」が洗練されていくため、シーズンを重ねる度に「今回はどんな歌を歌うのか」が非常に大きな注目ポイントとなっていた。  

更に、これらのキャラクターソングは、ただ個性的なだけでなく歌そのものに「仕掛け」が施されていたり、同じ歌でも戦闘スタイルによるバージョン違いが存在したりと、単なるキャラクターソング・挿入歌に留まらない「作品の重要なギミック」にもなっている。歌一つ取っても、そういった様々な楽しみを毎シーズン「新しい形」で提供してくれる本シリーズは、今もって「アニメ×音楽」の最先端を行く優れたエンターテインメント作品と言えるだろう。

 

 

 

 ”アクションアニメ” としてのシンフォギア

シンフォギア』の見所と言えば欠かせないのが、装者たちのスタイリッシュなアクション・バトルシーン。特にTVアニメ第2期=『戦姫絶唱シンフォギアG』以降はそのクオリティが跳ね上がっており、美麗な作画で繰り広げられるケレン味たっぷりのアクションと、まるでゲームのようにド派手なカットイン演出を伴う必殺技 (勿論、カットインのスタイルも必殺技のネーミングも装者ごとに大きく異なる) 、そしてシリーズを重ねる度に何でもありな超兵器と化していくシンフォギアのダイナミックな演出……と、その「ぶっ飛んだ」熱さとロマンは、TRIGGER製作の人気アニメ『キルラキル』などに通ずるものかある。 

しかし、そこで終わらず「装者が歌いながら戦う」という劇薬が放り込まれるのが『シンフォギア』という作品。実際の「歌って戦う」とはどのようなものなのか……については、細かく話すより実際の映像を見て貰った方が早いため、下記の動画を見て頂きたい。 

※核心に迫るようなシーンではないものの、第5期『戦姫絶唱シンフォギアXV』の映像であるため、どうしても一部ネタバレが含まれます。そちらがNGという方は無視して下へ進んでください……! 

 

諸々気になることや「どういうこと!?」となる部分はあると思う。しかし、ご覧の通り本作の「歌って戦う」という描写は、スタイリッシュなアクション/画と様々な形でシンクロすることでそのテンションを大きく押し上げ、こちらの抱く困惑以上の痛快なカタルシスを作り出すものとなっている。  

「台詞と歌詞が重なる」クライマックスや、戦闘中に仕込まれた複数の音ハメなど、その魅せ方は “ミュージカルの手法を部分的に持ち込んだアクションアニメ” という表現が相応しいかもしれない。

 

 

 

シンフォギア』シリーズ各作品解説

 

第1期『戦姫絶唱シンフォギア

2012年の放送から今年で10周年を迎える、記念すべきTVアニメ第1作にしてシリーズの原点 (全13話) 。 

戦いに巻き込まれ、「人助け」の為に奮戦する主人公=立花響の成長と、それ故に起こる親友=小日向未来 (CV.井口裕香) とのすれ違いや、先輩装者=風鳴翼との衝突などといった「少女たちの確執と絆」が丹念に描かれるのが特徴で、ドラマの丁寧さはシリーズ随一のもの。肝心要の「楽曲」とその演出も本作で既に高いレベルで完成されており、中盤における「ある歌」の初登場シーンや、終盤における怒涛の展開は、今尚シリーズ中屈指の盛り上がりを見せる伝説のシーンとして語り継がれている。  

「突飛なコンセプトを持つシリーズの第1作」特有のぎこちなさが何かと目立つものの、その粗を補って余りある魅力を備えた「原点にして頂点」とすら言える作品だ。  

「最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線に! 胸の響きを、この想いを……! 伝えるためにいぃぃぃーーーーーッ!!」

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(ネタバレ込みの感想・レビューはこちらから↑)

 

第2期『戦姫絶唱シンフォギアG

前作の放送終了から約1年半後、キャラクターデザインが一新されるなど鳴り物入りで始まったシリーズ第2作 (全13話) 。第1期の数ヶ月後を舞台に響のものと似て非なるシンフォギア「黒いガングニール」を擁する武装組織「フィーネ」との戦い、そして少女たちの “お互いを想う心” によって生まれてしまう「すれ違い」と「試練」が軸となる物語だ。 

第1期から大幅に洗練されたビジュアル・楽曲群や「歌×アクション」の描写、毎話のように衝撃的な展開が繰り出されるジェットコースターめいた群像劇に、前作ファン号泣必死の粋なファンサービス……。本作は、これらの要素が綺麗に噛み合った結果「ケレン味と丁寧さのバランス」が非常に高いレベルでまとまっており、新たなメインキャラクターである3人のシンフォギア装者の魅力も相まってシリーズ屈指の完成度を誇る作品。その甲斐もあって高い人気を博し、『シンフォギア』シリーズ化に大きく貢献した立役者でもある。  

「楽しいな……。あたし、こんなに楽しく歌を唄えるんだ……。そっか、ここはきっと…… “あたしがいてもいいところ” なんだ」 

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第3期『戦姫絶唱シンフォギアGX

2015年に全13話が放送されたTVアニメ第3作 で、「世界の解剖」を目的に現れた強敵「錬金術師」と、彼女が従える自動人形 (オートスコアラー) たちとの激戦が描かれる。 

緻密な群像劇を描く前作までの路線から「よりバトル / アクションに特化した内容」へと舵を切っており、その魅力が遺憾なく発揮された本作前~中盤は、さながら「少年漫画の一番面白い時期」とでも言うような熱いシーンが続く、シリーズ全体を見渡しても屈指の「アツい」時期。これまでの集大成と言える楽曲群や、中盤で発現する「新たなシンフォギア」が見せる驚愕の演出も手伝って、見事「シリーズ中トップクラスの瞬間最大風速」を持つ伝説級のシーンをいくつも産み出してみせた。 

しかし、その一方ではこれまでの魅力だった「ドラマ面」が些かおざなりになっているという欠点も併せ持つ……という、まさしく “一長一短” を地で行くかのような作品だ。 

「当たると痛いこの拳……。だけど未来は、誰かを傷付けるだけじゃないって教えてくれた!!」

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第4期『戦姫絶唱シンフォギアAXZ

2017年に全13話が放送され、今年で5周年を迎えるTVアニメ第4作。前作のバトル路線を継承しつつ、これまでの事件に深く関わっていた謎の組織「パヴァリア光明結社」と、その幹部である新たな錬金術師たちとの戦いが描かれることになる。 

前作『シンフォギアGX』の補完や第5作『シンフォギアXV』に繋がる種蒔きを担っているためか非常にスロースターターで、本作前半は画もドラマも些か盛り上がりに欠けるという大きな欠点がある……のだが、後半では一気にそのポテンシャルが爆発、シリーズ中でも本作でしかお目にかかれない特殊なタイプの楽曲群が披露されたり、そこから続く最終章が凄まじい盛り上がりを見せたりと、絵に描いたような「大器晩成型」作品だ。  

「いつだって、何かを変えていく力は…… “だとしても” という、不撓不屈の想いなのかもしれない」

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第5期『戦姫絶唱シンフォギアXV』

2019年に全13話が放送されたTVアニメ第5作にして、(2022年11月時点での) シリーズ完結編。シリーズ中でその存在が仄めかされていた「かつて世界を支配していた上位種」との対峙、そしてこれまで積み重ねられてきた物語の「決着」が描かれる。

……と並べると、非常に「完結編らしい、箔がある作品」のようにも思えるが、その実「これまで以上の壮大なスケールの物語である反面、その反動で尺不足となってしまった」節がある悲しき完結編でもある。そのことが如実に反映された展開は大いに賛否を呼んだものの、全編に散りばめられたシリーズファン感涙必至の展開や「集大成」に相応しいクオリティの作画・楽曲演出、そして、この激動のシリーズを見事締め括ってみせた圧巻の最終回……など評価が高い点も多く、ともすれば前述の『GX』以上、シリーズ随一の賛否両論となっている作品だ。 

「人が人である以上、傷付け合わずに繋がることは難しい。だけど、繋がれないもどかしさに流した血からは……たくさんの尊いヒカリが生まれている」

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(ネタバレ込みの感想・レビューはこちらから↑)

 

Lasting Song

Lasting Song

  • 高垣 彩陽
  • アニメ
  • ¥255

 

 

視聴方法


TVアニメ第1期『戦姫絶唱シンフォギア

TVアニメ第2期『戦姫絶唱シンフォギアG

TVアニメ第3期『戦姫絶唱シンフォギアGX

TVアニメ第4期『戦姫絶唱シンフォギアAXZ

TVアニメ第5期『戦姫絶唱シンフォギアXV』 

は、各種レンタルショップでDVDがレンタル中。また、下記の動画配信サイトにて見放題配信中となっています。それぞれ無料お試し期間もあるため、是非ご活用ください! 

・U-NEXT (全シーズン見放題)

・Hulu (全シーズン見放題)  

dアニメストア (『G』のみ未配信 ) 

(時期によっては上記配信サイトでも見放題ではなくなっている可能性があるため、お手数ですが事前にご確認くださいませ……)

 

逆光のフリューゲル

逆光のフリューゲル

 

 

終わりに


戦姫絶唱シンフォギア』プレゼン、いかがだったでしょうか。 

ご覧の通り、『シンフォギア』はただでさえ癖が強い作品であるにも関わらず、『G』以前と『GX』以降で作風が変わるため、ドラマの面白さや丁寧な作風が好みの方は『GX』以降が、派手でケレン味のあるバトル / アクションが好きな方は『G』以前が肌に合わない……という可能性も大いにあります。  

しかし、その上でもし興味を持って頂けたのなら、もし「シンフォギアに触れてみたい」……と思って頂けたのなら、こんなに嬉しいことはありません。前述の通り『第1期』と『G』はそれぞれ綺麗に終わるため、合わないと感じられたらそこで切り上げても問題はありませんし、全65話という長丁場故、無理のない範囲でお楽しみ頂ければと思います。「一人でも多くの方が『シンフォギア』に触れてくれること」それ自体が、ファンとしては何より嬉しいことなのですから……!

 

そして、もし上記の内容で「自分には合わなそう」と感じられた……上で、ここまで読んでくださったそこの優しく親切な貴方様。騙されたと思って、是非こちらのPVをご覧頂けないでしょうか。  

(第2期『シンフォギアG』のネタバレが満載のPVです、ご注意ください!)

 

 

シリーズ10周年、そして新プロジェクトの始動と、これからますます盛り上がっていく『戦姫絶唱シンフォギア』。そんなシリーズの更なる未来=「見たことのない世界の果て」を共に追い、一喜一憂できる方が一人でも増えてくださることを、心からお待ちしております。  

ここまで読んで頂きありがとうございました、『戦姫絶唱シンフォギア』をどうぞよろしくお願いします……!!

 

総括感想『戦姫絶唱シンフォギアXV』 賛否両論のシリーズ完結編が描いた、目一杯の祝福と “有終の美”

今から約3年前、2019年9月29日。この日放送された『戦姫絶唱シンフォギアXV』最終回をもって、2012年1月にスタートした『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズはその幕を下ろした。 

初めてリアルタイムで視聴した『戦姫絶唱シンフォギアG』に心を掴まれ、以来6年に渡って追いかけ (=Blu-ray購入マラソンをし) 続けた『シンフォギア』シリーズ。しかしどういう訳かその完結作=『XV』は、自分の中で「あまり記憶に残っていない」作品に分類されてしまっていた。 

2年ごとに放送されるのが「当たり前」になってしまい、シリーズ終了に実感が湧かなかったのか、それとも、当時ちょうど転職活動真っ只中だったためそれどころではなかったのか。その真相は今となっては知る由もないけれど、一つハッキリしているのは「自分はまだ『シンフォギアXV』に向き合えていない」という事実。そんな甘ったれた状態で『シンフォギアライブ2020→2022』に行くなんて、そんなの他の適合者に、そして何より『シンフォギア』に失礼極まりない……!!

と、そんな思いで3年ぶりに向き合った結果、怒りで叫び、見覚えのない名シーンに困惑し、感動でぐちゃぐちゃに号泣させられてしまった『XV』。そんな本作が果たしてどのように『シンフォギア』のフィナーレを描いたのか、自分なりに向き合った結果をここに記しておきたい。

 

kogalent.hatenablog.com

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(前々作『GX』と前作『AXZ』の記事はこちらから、『第1期』『G』の記事は、カテゴリータグなどからどうぞ!)

 

※以下には『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズのネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

戦姫絶唱シンフォギアXV』は、2017年の夏期アニメとして放送された『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』の放送開始からちょうど2年後、2019年7月から全13話が放送されたTVアニメ作品であり、5期に渡って製作されてきた『シンフォギア』シリーズの完結編でもある。 

その舞台は前作『AXZ』の数ヵ月後、クリスの卒業が間近に迫った冬。第1期から存在が示唆され、『AXZ』でその降臨が仄めかされていた『シンフォギア』世界の支配者「カストディアン」そして、その正体である高位種族「アヌンナキ」との対峙が描かれる……というシリーズ完結編に相応しい壮大な物語となっている他、本作は様々な点で完結編らしい「集大成」ぶりを見せてくれた。 

そのことを語る上で最も分かりやすいのは、やはりシンフォギア装者6人の変身バンクだろう。 

 

一から十まで「キレてる」圧倒的な作画、『SYSTEM ALL GREEN』→『NORMAL OPERATION』というロマン溢れるガイド表示、そして何より第1期の変身シーン×割れるラピス・フィロソフィカスという過去作のオマージュ/リスペクト演出! シリーズを追いかけてきたファンならこれだけでもう涙が出てしまうような、文字通り「シリーズの集大成」に相応しい変身バンクだ。 

更に、響は「首を覆うマフラーから口を出す決めカット」(上記サムネイル参照)、切歌は衝撃的なポールダンス、クリスはまさかの「ばぁーん!」復活など、各装者ごとに個性的な「魅せ」が用意されているのも粋な演出。それぞれに好みはあるだろうけれど、そのクオリティは極めて高く、過去最高クラスのものと言って差し支えないのではなかろうか。

 

 

また、もう一つ本作の「集大成」ぶりが伺えるのがシンフォギアには欠かせない「楽曲演出」。 

本作は、その初回=EPISODE 1『人類史の彼方から』で早くも、これまでの『シンフォギア』が築き上げてきた全てを注ぎ込んだとてつもない演出を披露。本作が最終作であるという現実を、その圧倒的な熱量をもって叩き付けてきたのである。

 

 

EPISODE 1で響たちの前に立ちはだかるのは「棺」と呼ばれる超古代の遺跡。遺跡とは名ばかりに自立行動し、錬金術でも異端技術でもない謎の力――埒外物理学を振るう強敵を相手に、敢然と立ち向かう我らが一番槍・立花響! 

 

そんな彼女が歌うのは、どこか第1期の『撃槍・ガングニール』を思わせるメロディが胸を高鳴らせる『ALL LOVES BLAZING! 

この歌を背にして、初の「EPISODE 1での6人共闘」という豪華なシチュエーションを見せてくれる装者たち。その熱い歌×熱い画はそれだけで作中中盤のような熱さを醸し出しているのだけれど、『シンフォギア』、それも最終作のEPISODE 1がそれでいいのか……!? という70億の期待に応えるように、響たちの反撃に併せて流れ出す『六花繚乱』! 

 

え……「EPISODE 1から6人ユニゾン」だとォ!?!? 

この時点でもう変な笑いを浮かべながら拍手するしかなかったのだけれど、これで終わりだと思っていた自分が甘かった。 

6人の連携攻撃を受け、棺が更なる戦闘形態を見せた瞬間、どこからともなく流れ出す『Synchrogazer -Aufwachen Form-』のようなイントロ。間違いなくその血潮を宿したそれは、なんと『Glorious Break』に続く「サプライズ披露されるもう一つの主題歌」=『FINAL COMMANDER -Aufwachen Form-』!! 

初回からの6人共闘、6人ユニゾン、からの第2主題歌初披露、しかもそれが『Aufwachen Form』……という、訓練された適合者の想像をどこまでも越えていく想像を絶する最強コンボに涙でぐちゃぐちゃになる中、遂に掴んだ勝機に響たちは叫ぶ。

 

『ギア・ブラストッ!!』

『G3FA・ヘキサリヴォルバぁぁぁーーーーーーッ!!』

 

これが、1話。 

この、最終回も同然の展開から『FINAL COMMANDER』の黒バックエンドロールに続く圧巻の流れが、全て1話なのである。それはまさに、20分間に惜しげもなく詰め込まれた『シンフォギア』シリーズの集大成であり、転じて「この先、それ以上のものを見せていく」というスタッフの決意と覚悟そのものでもあったと言えるだろう。

 

……しかし、EPISODE 2からいざ始まった『XV』の本筋は、どうにも非常に怪しい雲行きを見せていくことになる。物語として不穏なのは確かにその通りだったけれど、そこに『GX』や『AXZ』に見られた欠点の匂いが漂っていることの方が、自分にとってはよほど恐ろしい「不吉な予感」だったのだ。

 

 

EPISODE 2で本格的なスタートとなる『シンフォギアXV』。前述の通り「神との対峙」が仄めかされ、事実その通りの展開になっていく本作だけれど、なんとその「神」が降臨するにはなんと8話のラストまで待たなければならず、それまではこれまでとあまり変わらない……というより、むしろこれまでよりも地味めな『シンフォギア』が繰り広げられることになる。 

そんな本作の「敵チーム」枠として装者たちの前に立ちはだかるのは、サイボーグ×ドラキュラ×狼少女という異色の3人組「ノーブルレッド」。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

左からドラキュラの力を持つミラアルク (CV.愛美)、サイボーグのヴァネッサ (CV.M・A・O) 、そして狼少女のエルザ (CV.市ノ瀬 加那) 。彼女たちは、かつて所属していたパヴァリア光明結社において、それぞれ事故や実験によって「人間としての身体」を失い、元の身体を手に入れることを夢見て戦う「怪物」たちだ。 

彼女たちは、出自や戦闘スタイルは勿論、そのパーソナリティも非常に個性的。というのも、彼女たちノーブルレッドはF.I.S.組のように「優しいが為に、悪になりきれない」訳でもなく、キャロル&オートスコアラーやパヴァリア組のように「己の信念に生きる」訳でもなく、その折衷=お互いを家族と想い合う優しい側面を持つ反面、自身の目的のためにはいかなる非道も厭わないという、ある意味 (皮肉にも) 非常に人間らしい3人組なのである。 

彼女たちは、誰かの悪意で人の身体、あるいは人の尊厳を剥奪されてしまったという悲しいキャラクターたち……なのだけれど、しかし、問題は彼女たちがそのように人間臭い上に、オートスコアラーやサンジェルマンたちに比べて大きく戦闘力で劣ること。つまり、このノーブルレッドは最終作の敵としては些かパッとしないのだ。更に、そんな彼女たちと合わせて本作の「地味さ」の大きな原因となってしまっているのが、彼女たちを裏で操る存在=風鳴訃堂。 

 

前作『AXZ』で初めて表舞台に現れた翼の血縁上の父親=訃堂。風鳴機関 (特異災害対策機動部二課やS.O.N.G.に先駆けて聖遺物の研究を行ってきた特務室、兼国防諮問機関) を統べる彼が、「神の力」を目的にノーブルレッドを利用したことが本作の発端なのだけれど、このことが本作の「地味さ」の大きな原因にもなっている。 

というのも、前述のように本作で「神」が降臨するのはEPISODE 8。風鳴訃堂はその次のEPISODE 9で(実質的な)退場となるため、実にEPISODE 2から8話分が「VS風鳴機関 編」となり、一方ではシンフォギア装者VSノーブルレッド、もう一方では弦十郎や八紘による風鳴機関との情報戦という多面的な戦いが展開される……のだが、ノーブルレッドは前述のように決して派手な敵ではなく、当然ながら風鳴機関との情報戦にも絵面的な派手さはない。その結果、本作の前~中盤はおよそシリーズ最終作とは思えないほどに地味で、『シンフォギア』らしいカタルシスから大きく遠ざかったものになってしまっていた。 

(こういった展開そのものが悪いとは言わないし独自の面白さもあるが、最終作でこういった展開にしなくても……とはどうしても思ってしまう)

 

そして、この「風鳴機関」絡みの問題がもう一つ。それは、本作におけるキーパーソン=風鳴の血を引くシンフォギア装者である翼の扱いが想像を絶するほどに悪いことだ。

 

 

EPISODE 2『天空が堕ちる日』にて『GX』以来のライブを披露。シンフォギアの象徴たるライブシーンが消滅するという『AXZ』のような惨事は回避したものの、そのライブがミラアルクにより襲撃され、翼の目の前で数多くの観客が虐殺されるという正真正銘の大惨事が発生してしまう。 

以来、翼は「人々を守れなかった後悔と焦り」に苛まれ続ける上、ミラアルクの「刻印」によって、徐々に「S.O.N.G.ではなく、自分の元で戦うことが正しい防人の務め」という訃堂の思想を刷り込まれてしまう……と、この筋書きの時点でかなり悲惨ではあるが、悲惨な目に遭うことと扱いの良し悪しは全くの別問題。そもそも、どんな方法にせよ最終作である『XV』で翼にスポットライトが当たることは非常に納得感がある……のだけれど、問題はそれらの展開が翼の株をひたすらに下げていくことだった。 

 

上記の出来事を経た結果、翼は「自分の感情よりも国の判断を優先する」「周囲と壁を作り、冷淡になる」「奏に縋るようになる」……と、ほぼほぼ第1期の精神状態に退行してしまう。心を閉ざし、人に強く当たり、周囲の気持ちを考えられない……という有り様は、ともすれば第1期のそれより深刻な状態と言えるかもしれない。 

そんな翼の姿は見ていて辛い、というより、正直「納得がいかない」という気持ちの方が強かった。ライブ会場での虐殺という最悪のトラウマを刺激され、目の前でファンを殺され、自分の力不足を思い知らされた……というのは確かに翼を追い詰めるには十分過ぎる悲惨な出来事だけれども、「痛めた心を一人で抱え込む」ことがどういう結果を招くか分からない翼ではないはずだし、ましてや「苛立ちに振り回されて他人に当たる」など、これまでの翼の成長からは不自然に過ぎる行動だ。何より、この一件のせいで『XV』の翼は出番の大半が「曇っているか株を下げるかの2つに1つ」という壮絶な不遇キャラと化しており、あまりに (彼女も、彼女を応援している視聴者も) 報われないのだ。 

勿論、彼女の異常な行動には訃堂による「歌で世界は守れない」「S.O.N.G.は翼の居場所ではない」「自分の下で戦うのが正しい防人の務め」という刷り込みが影響しているのだろう。しかし、ここで厄介なのが、訃堂の仕込みはあくまで「刷り込み」に留まっているため、前述のような翼の「印象の悪い行動」のうち、どこまでが刷り込みの結果で、どこまでが翼自身によるものなのかが分からないこと。つまり、翼が株を下げる行動を取ったとしても、それを一概に「洗脳されているから」と割り切ることができないのである。 

 

例えば、EPISODE 5『かばんの隠し事』において、翼は「響に誘われたカラオケで終始不遜な態度を取り、エルフナインの歌に耳を傾けさえしない」「陽動作戦の可能性に気付いた響の意見を聞かずに、市民の避難誘導のみに専念する」……といった、これまでの翼からはおよそ考えられないような行動を見せる。 しかし、それらのシーンにおいて「刻印」が発動している様子は見られないため、彼女の行動が訃堂によって歪められたものなのか、彼女自身が自分の意思で取っている行動なのかの判別が極めて難しい。 

特に「避難誘導に専念し、陽動の可能性を見落とす」件については、翼がライブのトラウマによって「人々を守らねばならない」という強迫観念に駆られた結果とも、一時的な管制指示を担っていた査察官一派が訃堂の手の者だった=「刻印の影響」と取ることもできてしまうため、一視聴者としては翼にどういう感情を持てばいいか分からず、ただモヤモヤした気持ちだけが募っていく。このような頭の痛い状況が本編の半分近く続くのだから、視聴に多大なストレスを感じたのは自分だけではないだろう。

 

更に、これらのような翼の異常な行動は、彼女の株を下げ、視聴者にストレスを与えるだけに留まらず (最終作であるにも関わらず) 「シンフォギア装者たちのチームワークに亀裂を入れかける」という最悪一歩手前の状況まで招いてしまう。それがEPISODE 6『ゼノグラシア』冒頭、敵の陽動作戦によって、未来とエルフナインが行方不明になってしまった場面における下記のやり取りだ。  

「それにしても、まさかというより、やっぱりの陽動だったデス!」
「あの時、管制指示を振り切ってさえいれば……」
「月読と暁は、私の状況判断が誤っていたとでも言いたいのか?」
「え、えーと、そうじゃなくてデスね……」
「ならばどういう……!」
「いい加減にして!」
「誰よりも取り乱しそうなコイツ(響)が、自分の成すべきことに向き合おうと努めてるんだ! 頼むよ、先輩……!」

・判断が誤っていたかどうかはともかく「敵の罠にハマり、未来とエルフナインを危険に曝す」という結果をもたらしたことは事実なのに、そこに目を向けていない 

・最年少の調と切歌に八つ当たりまがいの行為をする 

・クリスの言う通り、最も心穏やかでない (+年下の) 響が折れそうな心を必死で保っているのに、自身は苛立ちを隠そうともしない 

・自分を気遣ったマリアの手を弾く 

・響、調、切歌の誰にも謝らずに去る 

見事なまでに、悲しいほどに役満最終作で一番輝くべきポジションにいながら、こんな情けない姿を曝す翼さん、見たくなかった……。 

確かに、翼の精神が追い込まれているのは明白で、加えて訃堂の仕込みで「自分の思ったことと違う行動を取ってしまっている」であろうことも考えれば、翼が苛立ってしまうのも無理はない。しかし、そういった状況にまんまとしてやられて冷静さを欠き、仲間に当たってしまうのは、あまりにも装者を率いてきた頼れる防人=翼らしくない。それに加えて、前述のようにその「キャラ崩壊」ぶりが本当にキャラ崩壊なのか、それとも刻印によるものなのかが判断できないからこそ、結果的に居心地の悪さだけが残されてしまうのである。 

(他にも翼の気になる行動は無数にあるが、個人的に辛かったのは、EPISODE 8の決戦シーンで「命を盾に、希望を防れッ!」という非道な指示を出すシーン。せっかく『FINAL COMMANDER』が流れる熱いシーンに、こんな形で水を差してしまうのは、勿体無い……というか、演出としても如何なものだろうか)

 

 

しかし、ここまで株を落としたのであれば、訃堂との決着回ではさぞや盛大な巻き返しがあるのだろう……と期待するのが当然というもの。自分も当時はそう思っていたし、だからこれらの散々な仕打ちに耐えることができたとも言える。しかし、肝心の決着エピソード=EPISODE 9『I am a father』で待っていたのは、株を上げるどころか更に地の底へと叩き落としていく翼の姿だった。

刻印に掌握され未来を連れ去った翼、そして訃堂を追って風鳴邸に乗り込むマリアとS.O.N.G.の面々。それを翼が迎え撃つという展開そのものは熱い……のだけれど、このシーンがこれまでと違うのは「翼が、明確に訃堂側についている」という点。 となると、やはり問題はこの時の翼の自意識であり、そのことを伺い知れるのが未来を連れ帰ってきた場面における翼のこの台詞だ。  

「そうしなければならぬと囁かれ、あの時は疑いもせずに行動した……。なれど、それが本当に正しかったのか……!?」

最初は「ようやくか!?」と思った。これが反逆フラグでなくて何なのかと。 

ここまできたらもう翼も「自分がおかしくなっている」と気付いていいはずだし、自問できるほどの自我があるなら、目の前で道具にされている未来の姿に黙っていられるハズがない……のに、翼は訃堂に従ってマリアを迎え撃っており、しかも(マリアとの問答からして)どうやら未来誘拐時のように完全に操られている訳でもないらしい。それはつまり、彼女は少なからず自分の意思で訃堂に従っている=「未来を神の器にし、兵器として運用する」という訃堂の行動を是としてしまっているのだ。 

いくら「大勢の犠牲を出したことで、周りが見えなくなるほど追い詰められている」としても、いくら度重なる刻印の影響で自我が揺らいでいたとしても、翼が目の前で行われている悪行を、僅かでも自分の意思で「是」としているだなどとは到底信じられないし、信じたくない。前作『AXZ』で訃堂に対し「私に流れているのは、天羽奏という一人の少女の生き様だけだ!」と言い放ってみせた彼女の輝きは、一体どこに行ってしまったのだろう……。

 

 

こうして、汚名返上の絶好の機会ながら既に不安しかないEPISODE 9。しかし、衝撃的だったのはこの1話だけで翼がその株を更に何度も落としていくことだった。 

・マリアに自身の弱さを看破され、平手打ちされたことで刻印が解除される(翼自身に解除してほしかった……) 

・刻印こそ解除されたものの、そのまま錯乱してしまい戦闘不能に陥る 

そんな翼を八紘が庇い、絶命してしまう 

・怒りで我を失い、訃堂を切り捨てようとしたところを弦十郎に止められる 

そう、なんとこの局面において翼は一方的に救われてばかりで、自身は一切成長しないまま終わってしまうどころか、本話で八紘に「人は弱いから守るのではない、その価値があるから守るのだ」と諭されたことで、逆説的に翼はこれまでそのことを分からないまま戦っていたことにされてしまった。響に助けられつつも、自分自身で己の弱さを乗り越え、「守るべき人の価値」をその目に焼き付けた第1期の翼とは、まるで別人のようになってしまってはいないだろうか。

 

(あまりにも “見たかったもの” すぎる弦十郎VS訃堂。しかし翼の状況が状況なので、素直に喜べないのが辛いところだ)

 

これら一連の事態は、『GX』『AXZ』でもクリスなどに見られた「キャラを掘り下げるために精神状態・成長の蓄積を退行させ、克己によって最終的に±0になる」という悪癖と似ており、キャラクターが株を落とす点も「とっくに分かっているであろう大切なことに “気付いていなかった” ことにされる」という点も共通している……が、こと『XV』の翼において問題なのは「最終的に±0になる」という最低限のフォローが行われたかどうかさえ怪しいこと。

EPISODE 10『卑しき錆色に非ず』以降の翼は、刻印から解放こそされたものの、罪悪感から周囲に一層高い壁を作ってしまっており、仲間たちと一人だけ (物理的に) 距離を置いていたり、響から差し出された手を取れなかったりと、まるで本作で仲間入りした元敵キャラクターのようになってしまっている。これが、シリーズ最古参かつリーダー格キャラクターの振る舞い……? 

そんな翼に入れられるフォロー (らしき) 描写と言えば、最初に挙げられるのが同じくEPISODE 10で「月に帰還しようとするヴァネッサたちを妨害、自身も諸共に転移を試みる」シーンだが、「この命に代えても!!」と言う翼は明らかに周りが見えておらず、償うことに躍起になってまたしても視界が狭まっているようにしか思えない。 

更に、続くEPISODE 11『ハジメニコトバアリキ』では宿敵ミラアルクを相手に、マリアと共に『不死鳥のフランメ』を歌いながら戦うという衝撃的なサプライズがあったものの、翼は終始マリアに引っ張られるばかりで、ミラアルクへのリベンジという局面に何かを感じたり、ましてや「訃堂の一件を踏まえ、ミラアルクへの憎しみを乗り越える」といったシチュエーションも何もなくそんなサプライズを出されてしまうため、肝心の翼が全く成長していない=こちらは画のテンションに乗れず置いてきぼりにされてしまうという、クライマックスではあまりに致命的な事態が発生してしまう。 

結果、翼の復調にはEPISODE 12『戦姫絶唱』のラストという超ド終盤まで待たなければならないが、そのシチュエーションは「翼が響の手を取り、自ら手を差し出すことにどれだけ勇気がいるかを実感する」という、またしても「あなたそれとっくに乗り越えてたんじゃないの……?」案件。そんな煮え切らない顛末を持って『シンフォギア』シリーズ、そして風鳴翼の物語は完結。第1期に逆戻りするどころかその下を突き抜けていき、更にその後のフォローもズレにズレているという、長年彼女を追いかけてきた果てに突き付けられたゴールとしてはあまりに辛辣で、承服しかねる有様だった。

 

 

凄まじい字数で翼の扱いについての不満を並べてしまったけれど、本作は何も他の装者の扱いが良かったかというと別にそういう訳でもない。 

ようやく「翼に毅然とものを言えるパートナー的存在」としての一面を見せてくれたものの、Appleやアガートラームといった美味しい要素に縁がありつつも、そのことがストーリー上の活躍・存在感に反映されることのなかったマリア。 

ヴァネッサとの戦いが唯一の大見せ場だったが、なぜか響とのユニゾンが与えられなかったクリス。 

戦闘面の見せ場は多かったものの、ストーリー上の存在感は激減していた調&切歌……と、これらも本作が「最終作らしくない」要因だろう。

 

他にも本作は何かと難点が目立っており、その多くは (翼の一件も含めて)「尺不足」に起因している。ただでさえ「アヌンナキとバラルの呪詛」という大きすぎるお題目を回収するのに、そこに風鳴家問題の決着にノーブルレッドといった要素を絡めるのは土台無茶な話だったのだ。 

しかし『XV』は4期『AXZ』と同時に製作が決定していた作品。であれば、この1クールに全てを詰め込むのではなく、『AXZ』も含めて、逆算して物語をスケジューリングしていくべきだったのではないだろうか。既に後の祭りではあるものの、もしそうしてくれていたら……と、シリーズファンとしては残念でならない。

 

 

気が付けば既に10000字。その大半を難点の列挙に使ってしまったけれど、本作にはしっかりと魅力……そして「最終作に相応しい要素」も数多く存在している。先の変身バンクや、EPISODE 1に見られる楽曲の使い方、そして『XV』と言えば欠かせないのが新たなシンフォギア=アマルガムの存在だ。 

 

ファウストローブとシンフォギアが融合して生まれた新たな決戦機能であり、その力は「極限の攻撃力」と「極限の防御力」を使い分けるという非常にピーキーなもの。誕生経緯もスペックもビジュアルも、イグナイトに次ぐ進化形態として申し分ない魅力的な姿と言えるだろう。 

しかし、このアマルガムの最たる魅力は、このギアというより、上記のEPISODE 4『花の名は、アマルガム』における初起動シーンを彩った奇跡のユニゾン=『花咲く勇気 Ver. Amalgam』! 

 

これまで響は様々な相手と対峙し、その度に分かり合い、時にそんな相手と共に歌を歌ってもきたけれど、意外なこと、彼女は(TVアニメ本編では)フィーネやクリス、マリア、キャロル……といった、所謂「ライバル枠」と言える面々と2人で歌を歌うことはなかった。その唯一の例外と言えるのがこの一曲! 

前作『AXZ』において、響との関係性を「終生分かり合えぬ敵同士」と評したが、その言葉の裏を掻くかのように、自らの生を終えることで響に「リビルドギア」という新たな力を託したサンジェルマン。そんな彼女が遂に響の手を取り、その結果「ファウストローブとシンフォギアの融合」であるアマルガムが生まれるばかりか、シンフォギアライブ2018』で披露された「悠木碧氏×寿美菜子氏による『花咲く勇気』デュエット」が『Ver. Amalgam』という名で本編に逆輸入される……という展開は、衝撃的でこそあれ、それ以上に大きな納得と感動を呼ぶものになっていた。 

Blu-rayのCMでは「とうとう死人まで歌い出した」と言われており、言われてみれば確かに全くもってその通りのよく分からない事態ではあるのだけれど、この一連はそのような「正気」を「だとしてもッ!」と粉砕するだけのエネルギーに満ちた、実に『シンフォギア』らしい名演出だったと言えるだろう。

 


また、本作の魅力を語る上で、EPISODE 7における「この一連」は絶対に外せないだろう。

 

界隈に激震を走らせた、EPISODE 7『もつれた糸を断ち切って』終盤におけるキャロル&オートスコアラーの復活劇……! 

エルフナインが使っている身体が本来キャロルのものであることに加えて、『AXZ』以降エルフナイン自身がレギュラーキャラクターとして着実に成長を積み重ねていたことや、Blu-ray特典アニメ『戦姫絶唱しないフォギア』において、休暇中のエルフナインが「ダイレクトフィードバックシステムを応用して “大切な相手” を探している」ことが判明する (それだけでもう泣いてしまう…………) といった描写もあり、おそらく大方のファンが予想していたであろう「キャロルの復活劇」。しかし、まさかオートスコアラーの4人まで復活するとは、一体誰に予想できただろうか。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

解体途中のチフォージュ・シャトーのエネルギー源として用意されていた無数の「遺棄されたオートスコアラー」たち。ガリィたち4人はそれらを新たなボディとして蘇った……というが、考えてみれば不明瞭な点も多い。いつ廃棄駆体に彼女たちのデータがダウンロードされたのか。なぜ彼女たちはかつての記憶を持っているのか。それらは特に作中で明言されないけれど、おそらく「キャロルが、自身を復活させたのと同じ要領で、彼女たちの人格を自身の中に再生させておき、チフォージュ・シャトーとエルフナインがリンクしたタイミングでそのデータ/想い出を流し込んだ」……のではないだろうか。 

しかし、そんな理屈はこの際どうだっていいのだ。場所がチフォージュ・シャトー、廃棄されたオートスコアラー、そしてキャロルの復活とピース=公式からのヒントは揃っているし、そうした「最低限のピースは揃えておきつつ、限られた尺をギリギリまで使って熱い展開に全力を注ぐ」というのは『シンフォギア』の十八番。そんな熱すぎる「全力」=彼女たちのサプライズ復活劇を浴びた時は、その理由を考える余裕さえなく涙が止まらなかったし、この一連にはそれほどまでに力が込められていたように思う。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

何から何まで驚きづくしだったこのEPISODE 7終盤。しかし、放送が終わって涙が引っ込んだ辺りで気付き、驚いたのは「自分は、この一連で大泣きするほどオートスコアラーたちのことが好きだったのか」ということ。 

F.I.S.やパヴァリア組、ノーブルレッドのように重く悲しい過去を持つ訳でもなく、あくまでキャロルに仕える人形でしかないオートスコアラー。『GX』当時は彼女たちの濃いキャラクター性やその強さに大いに魅力を感じていたものの、それぞれがあっさり退場してしまい「与えられた役割をこなす」以上の姿が特に見れなかったこともあって、正直なところ「面白いキャラクターたちだった」という程度の思い入れに留まっていた。 

しかし、その後『GX』を見直す中で「彼女たちがキャロルをベースに生み出された」という共通の背景を持つことに改めて気付いたり、Blu-ray特典の『しないフォギア』での微笑ましい様子を見て「彼女たち (特にファラ、レイア) にも人間らしい一面がある」ことを感じたりするにつれ、オートスコアラーたちもエルフナインと同じように「心」を持つ、謂わば「キャロルの家族」なのだと気付かされたのだ。

 

 

確かに、ガリィたち4人はキャロルの心をベースに「作られた」存在。しかし、それは現実の親子も同じではなかろうか。同じ遺伝子、同じ特性を持ちつつも、育った「子ども」は父母のどちらとも異なる人格を持った存在となるのが道理というもの。そして、そのことを誰よりも示してみせたのがエルフナインだった。 

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

キャロルのクローンボディでありながら、キャロルを正確にコピーできなかった「失敗作」のエルフナイン。そんな「キャロルとほぼ同一の身体」に「キャロルに転写された想い出」を持ちながらも、キャロルとは全く異なる性格に育った彼女が、キャロルと共に「父親から与えられた命題」に向き合う姿は、まるで家族……もとい、双子の姉妹そのものだった。 

だが、キャロルの「家族」はエルフナインだけではなかったのだ。クローンではないため、エルフナインのような「同じ姿」こそ持っていないものの、ガリィたちオートスコアラーも「キャロルをベースにして生まれた」という点では同じ。キャロルにとってエルフナインが双子の片割れなら、ガリィたちはキャロルの姉妹であり、子どもであり、親代わりでもあった。そして、件の『XV』での一連は、そんな彼女たちの「家族」としての姿が初めて本編内で描かれた場面だと言ってもいいだろう。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

『GX』では、前述のようにあくまで「与えられた役割をこなす」ことに徹していた4人。確かに、今回の出番もその点は同じなのだけれど、大きな違いはその一挙手一投足に「互いへの想い」が溢れていたこと。 

ノーブルレッドの3人を相手に先陣を切り、レイアと「背中を預け合う」ファラ。ミカに「お前が付いていれば、私もファラも憂いはない」と声をかけるレイア。「自分の手じゃマスターの手は握れないから」とガリィにエルフナインを託すミカ、まるで「心配をかけさせまいとするかのように」いつも通りの軽口を叩きながらエルフナインを庇うガリィ……。彼女たちの行動に互いへの信頼や愛情が見えたのは、あくまで「そう見えた」だけかもしれない。けれど、エルフナインがそうであったように「彼女たちも ”心” が育った」のだと、そう思わせてくれる程の「愛」に満ちていたのがこの一連だったのだ。 

(4人が次々と駆け付ける際のBGMが、『GX』におけるヒーローBGM=『抜剣――ダインスレイフ』という “粋” さも涙を誘う……!)

 


こうして最高の大舞台を見せてくれたオートスコアラーたち。しかし、いかにミカたちと言えど、廃棄されたスペアボディではノーブルレッドに対抗することはできず……という、この土壇場で遂に現れるキャロル! そして流れ出す『殲琴・ダウルダブラ』――ではなく、まさかの新曲『スフォルツァンドの残響』!! 

 

そのままお出ししても十二分に盛り上がったであろうキャロルの復活。しかし、製作陣の愛はそれを良しとしなかった。オートスコアラー4人それぞれに最高の舞台、そして「キャロルであってキャロルでない、もう一人のキャロル」=エルフナインだからこそ届けられる「ありがとう」の言葉を届け、その上で、エルフナインが彼女たちの想いに恥じないよう「立ち向かう」選択をしたことで遂に……という、あまりにも丁寧な積み上げがあったからこそ、彼女の復活は「奇跡」ではなく「必然」となったのだ。

「この土壇場でデタラメな奇跡を……!」
「奇跡だと? 冗談じゃない……オレは奇跡の殺戮者だ!!」

全キャロルファンが秒で爆ぜる最高の台詞、からの『スフォルツァンドの残響』で黒バックエンドロール……! ただでさえオートスコアラーとエルフナインにぐちゃぐちゃにされた情緒が木っ端微塵に弾け飛ぶ、シンフォギアシリーズでも指折りの瞬間最大風速のシーンと言っても過言ではないだろう。 

しかし、『XV』で復活したキャロルの魅力とは、この最高の復活劇がピークにならず、そのボルテージをここから更に上げていくことにある。

 

「思えば……。不要無用と切り捨ててきたものに、救われてばかりだな……」

 

EPISODE 8『XV』では開口一番にこれである。かつて不要無用と切り捨てたにも関わらず、時を経て自身を救ってくれた「忠臣」あるいは「家族」たちへの想いを募らせるこのシーンには、『GX』でのエルフナインやイザークとのくだりも込められているのだろう。そして、そのまま彼女に「ありがとう」と言わせまいとするノーブルレッドを寄せ付けない錬金術の痛快さたるや……! 

 

まるで『AXZ』で出番がなかった鬱憤 (この丁寧な復活劇のカタルシスを思うに、AXZで蘇らなかったのは大正解だと思うけど……!) を晴らすかのように大暴れするキャロルの姿は、「かつてのラスボスが味方として戦う」シチュエーションとしてそれだけでも500000000000億点案件なのだけれど、ここからキャロルはまさかの味方準レギュラー入り! どこぞのキング・オブ・デュエリストのように「一つの身体をエルフナインと共有する」という美味しすぎる設定を手にしたばかりか、その状態で見せるエルフナインとの会話は、その全てが「見たかったけれど、本編で見れると思っていなかった光景」ばかりだった。 

自分のような者には似合わないからと、オートスコアラーへの感謝の言葉をエルフナインに託す……という胸に染みるやり取りは勿論、ようやくキャロルと再会できたエルフナインの嬉しそうな姿も見逃せない。  

『祭壇から無理に引き剥がしてしまうと、未来さんを壊してしまいかねません!』
「ち……面倒だが、手順に沿って儀式を中断させるより他になさそうだ。……どうした?」
『意外だな……と思って。ボクはまだ、キャロルのことを全然知らないんですね』
「……っ! そうじゃない! 気に入らない連中に、貸しを押し付けるチャンスなだけだ!」
『はいっ!』

復讐から解放されたからか、優しい女の子としての「素」がさらっと顔を出しているキャロル、そしてそんなキャロルの姿に過去一番の笑顔を見せるエルフナイン。こんなの万病に効く至高の錬金術ですよ……!!

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

エルフナインの頼みを聞く形で未来救出に尽力、「70億の絶唱」でマリアたちのエクスドライブを起動させるという離れ業の代償として一時眠りに就いてしまうキャロルだったが、本作のラスボス=シェム・ハが覚醒、地球をユグドラシルで制圧し始めるEPISODE 12『戦姫絶唱』では再び目覚め、不在の装者たちに代わってその行く手を阻む。  

『怖いか?』
「あまりの怖さに腰が抜けそうです……!だけど、あの時未来さんは逃げなかった。だからボクも、怖くたって逃げたくありません!それに、今のボクは一人じゃありません!」
『……フッ』

この『……フッ』よ……!! 

エルフナインの純朴さにてんやわんやするキャロルが万病に効くなら、エルフナインの「強さ」を認めるキャロルもまた同じ。『GX』でキャロルに代わり父の命題に答えを出したこと、そして『AXZ』以降、一人の誇りある錬金術師として努力を重ね「自分なりの戦い」を貫いてきたエルフナインだからこそキャロルも手を貸したのだろうし、やはり並び立ってこその相棒、2人で1人の錬金術師なのだ。 

 

かくして繰り広げられる『GX』ラスボス=キャロル VS『XV』ラスボス=シェム・ハというロマンが天井知らずの対戦カード! しかも、その結末は「シェム・ハが纏っているのが神獣鏡でなければ、キャロルのアルカ・ヘストによる分解で未来の救出は完遂されていた」=キャロルの敗北があくまで相性の問題によるもの……という、彼女の株を落とさない絶妙すぎる塩梅だった。 

総じて、とことん暴れつつも一線は越えず、かといって自分の株は落とさずに、美味しいところはきちんと主役に譲る……と、まさに奇跡のような完成度の復活ぶりを見せた『XV』キャロル。後に控える「最期の戦い」とその顛末を含めて、彼女は『シンフォギア』シリーズは勿論、古今東西の「かつての宿敵が味方になる」というシチュエーションの歴史においてもその名を盛大に刻み込んだのではないだろうか。

 

Lasting Song

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  • 高垣 彩陽
  • アニメ
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そんなキャロルの奮闘が描かれたEPISODE 12『戦姫絶唱』ラストシーンでは、遂に月より響たちが帰還。「流れ星、堕ちて、燃えて、尽きて――」というシェム・ハの言葉を「そしてぇぇぇーーーーーッ!!」と突き破った6人が纏っていたのは、新たなるシンフォギア=バーニングエクスドライブ! 

「この最終局面で事実上の最強形態が誕生」という熱さに加え、そのサブタイトルやシチュエーションが『第1期のEPISODE 12』の (逆) オマージュだったりと、最終回への引きとしてこれ以上ないラストシーン……ではあったのだけれど、この時は何よりシンフォギア』を残り1話で終わらせられるのか、そして「響と未来の物語にはきちんと決着が付けられるのか」というのが気がかりでならなかった。

 

 

キャロルの復活と同じ……もとい、キャロルの復活以上に明らかなものとして、『AXZ』ラストシーンなどで執拗にプッシュされていたのが「未来が『XV』のラスボスになる」という展開。 

実際に、本作のEPISODE 1でも未来から響に「じゃあ、私が誰かを困らせてたら響はどうするの?」と訊ねる一幕があるという不穏さ以外の何者でもない露骨な前振りもあり、視聴者としてはぐんぐんハードルが上がっていたのだけれど、いざお出しされた「未来がシェム・ハの依り代になる」という展開は、正直なところ少し物足りなく感じてしまうものだった。

 

 

これまでのシリーズで未来が物語の縦軸に大きく関わったのは4作中2作。「シンフォギア装者として、辛いことや苦しいことを全て抱えて戦う響を “喪いたくない” というエゴを感じた」ことで、響の友達ではいられないと自ら彼女の元を去ってしまった第1期。そして、そんな自らのエゴ (愛) を歪められ、利用されることで神獣鏡に強制適合、響と戦わされてしまうものの、結果的には彼女の愛が響を救うことになったのが『G』でのこと……と、未来が物語の中心となる時は、常に彼女の持つ「愛」が「エゴ」という負の側面を併せ持つことや、それ故に起こる悲しいすれ違いが描かれてきた。 

では、本作『XV』において未来の物語はどのように描かれたのだろうか。

 

 

事の発端はEPISODE 5『かばんの隠し事』。響・未来・翼・エルフナインでカラオケに来た際に「翼が抱えている悩みを自分に相談しないまま、彼女をカラオケに連れてきた」響を未来が叱咤したこと。それがきっかけとなり、売り言葉に買い言葉で「自分が響をツヴァイウィングのライブに誘ったことを今も後悔しているが、響の気持ちを踏まえて、これまでずっとそのことを黙ってきた」という想いを明かしてしまうばかりか、その事について2人で話し合う前に、未来がシェム・ハの依り代となってしまう……というもの。正直、このくだりには思うところがある、というかむしろ思うところだらけだ。 

そもそも、響が翼をカラオケに誘ったのは翼のことを考えていない訳ではなく、彼女の言葉通り「響なりに考えた」結果だというのは明らかなこと。確かに未来にそのことを相談しなかったのは配慮不足だったかもしれないけれど、だからといってエルフナインが歌っているところで「響は勝手すぎるよ!」と叫ぶのは、(響も言っている通り) 些か急であるし、ヒステリックで未来らしくない。メタ的な見方にはなるけれど、まるで「2人のすれ違いを印象付ける」という演出上の目的で、未来に敢えてこう怒らせたようにも見えてしまう。 

(確かに『しないフォギア (AXZ) 』では、響がカラオケで「未来の注文内容を確認した」だけで「忘れるなんて酷い!かき氷!!」とヒステリックに叫ぶシーンがあったけれど、まさかそれが彼女の素だとでも……?)

 

 

また、問答の末「自分が響をツヴァイウィングのライブに誘ったことを今も後悔しているが、響の気持ちを踏まえて、これまでずっとその想いを押し留めてきた」という背景を吐露してしまう未来……というこのくだりも少し妙だ。 

これまでの演出から見るに「未来が誘ったライブがきっかけで、響の人生が滅茶苦茶になってしまった」ことについては、既に「未来が響に謝罪し、響がそれを許した」といったようなくだりがあると考えるのが自然。その上で尚、未来の中に「響をライブに誘わなければ良かった」という後悔がある=彼女の中で一生癒えない傷になっているというのは非常にリアルなのだけれど、それを、未来がこんなところで口にしてしまうだろうか。 

未来はこれまで「響をライブに誘ったことを今でも後悔している」という気持ちを口にしなかったのだというが、それはとても賢明な選択。なにせ、未来のこの後悔は「どうあっても覆せないもの」……つまりは、それを表に出してしまったが最後、未来は「誘った」ことによる罪悪感に、響は「自分といることで、未来がその罪悪感に苛まれる」ことによる罪悪感で苦しむ他になくなってしまうという、謂わば「口にしたが最後、2人を終生呪い続ける呪詛」とでも呼ぶべき代物だった。そのことを分からない未来ではないだろうし、きっと彼女は、そのことを理解し、恐怖していたからこそ、これまで一度もその気持ちを口にしなかったのだろう。そんな未来が (いくら翼に共感してしまったからとはいえ) 、こんなあっさりとその禁じられた想いを吐露してしまうことに、どうしても違和感を覚えてしまうのである。

 

最終的な結末を踏まえれば、未来と響の間にわだかまりを残す訳にはいかないため、未来の口からこの想いを明かすことはどのみち避けられないことだったし、それが2人をすれ違わせてしまうというシチュエーションには大いに納得感がある。しかし「それを未来の口から語らせるだけの、切羽詰まったシチュエーション」を用意できなかったことは間違いなく失策。結果として、本作における2人のすれ違いは、ストーリーの鍵でありながらも「未来が響の振る舞い逆上し、2人の関係性を破壊するレベルの発言を漏らしてしまう」という、文字にすると離婚寸前の限界ストレス夫婦のような極めて虚しいものになってしまっており、そのため、終盤で響が「あの時言えなかったことをちゃんと伝えるんだ!」と言う度に「響は悪くないよ……」と思わされてしまい、盛り上がっているストーリーに乗り切れなくなってしまうという作品上の大きな弊害にもなってしまっていた。 

「愛 / エゴ」を併せ持ち、極めてリアリティのある人間性が魅力だった未来。しかし、だからこそ『シンフォギア』シリーズは彼女の扱いにとても慎重だった。それを最後の最後で誤ってしまったこと、それによりストーリーの魅力が損なわれてしまったこと……。一ファンとして、そのことが残念でならない。

 

 

本作における未来の物語については、もう一つ首を傾げてしまうところがある。それは、本作のラスボス=シェム・ハが未来本人ではなく、あくまで「未来の肉体を乗っ取っただけの別人」であったことだ。

 

 

これはあくまで自分が勝手に抱いていた期待なのだけれど、本作『XV』の放送前、そのラスボスは小日向未来その人だと思っていた。その理由は、「響と未来が根本的な所で相容れない存在」である可能性を (勝手に) 感じてしまっていたから。 

たとえ敵対する相手であっても手を伸ばすことを躊躇わず「繋がり」に生きる太陽=立花響。そして、その太陽に手を伸ばしているのが未来。一見すると夫婦のような仲良しで、お互いに支え合っている響と未来だけれど響は「みんな」を見ており、未来は「響」を見ている。2人は同じ道を歩いているかもしれないけれど、未来は常に響を追いかけてばかりいたように思えるのだ。 

そして、そんな2人の視界の違いは、これまでのシリーズでも未来を通して度々形になっており、第1期では「響の望む生き方」を否定してしまう自分のワガママを嫌悪してしまい、『G』では、そんな自分の秘めたワガママ=愛、あるいはエゴを利用され「響が戦わなくていい世界」を作るシンフォギア装者へと変貌してしまっていた。皮肉なことに、未来の愛が表になる瞬間というのは、常に「響と未来がぶつかる場所」であり、一見綺麗に噛み合っていた響の生き方と未来の愛は、その実大きく食い違っていたのである。

 

 

そんな彼女の「愛」を考える上での大きなポイントとして、未来の「愛」が、シリーズを重ねる度に「友達に向ける親愛」ではなく、「極めて恋愛感情、ないしそれに近いもの」だと示唆されてきたことがある。そのことが (おそらく) 初めて明示されたのが、前作『AXZ』EPISODE 7『ARCANA No.00』において、響に想いを向けるようになった経緯が明かされた直後のこの台詞。  

「私の胸の内は、きっと誰にも打ち明けられないだろう。それでも想いをカタチにしたくて、いつかピアノを習いたいと願った」

「特別な背中」である響と「ずっと一緒に並んで歩いていきたい」という想い。それを未来が「誰にも打ち明けられない想い」と考えているのは、それはやはり自分の想いが「同性の友人に向けるべきものではない」ものだと感じている=ある種の後ろめたさがあるからなのではないだろうか。 

一方、当の響は第1期のEPISODE 6『兆しの行方は』でクリスに言い放った台詞「彼氏いない歴は年齢と同じッ!!」からしておそらく異性愛者。シンフォギア装者となってからはいざ知らず、それまではきっと当たり前のように2人で恋愛話に花を咲かせる場面もあっただろうし、そのことが「未来に想いを秘めさせる後押し」になっていたのだとしたら、それは未来にとってどれほど残酷なことだったか、およそ容易く想像できるものではないだろう。

 

 

人並み外れた愛を持ちつつも、それを「誰にも言えないもの」として胸にしまい続けた未来。そんな彼女の内に渦巻く想いが凄まじいエネルギーを持っていたことは想像に難くない。想いを伝えられないもどかしさ、伝えた結果「響に嫌われるかもしれない」という恐怖……。ただでさえ「その愛をしてシンフォギアを纏えてしまえる」ことからも想いの強さが示唆されている彼女だ、もしその想いが爆発してしまったら……と考えるとそれほど恐ろしいことはないし、前述の「響と未来が根本的にすれ違い続けている」可能性に照らしてみると、その「爆発」は何か一つきっかけがあれば十二分に有り得る話だと思えたのだ。 

そんな中、『AXZ』最終回で示唆された「未来が神の力の依り代たり得る」という事実。これはもう、未来と響の激突が世界を揺るがす展開を期待するなという方が無理であるし、ダメ押しとばかりに『XV』EPISODE 1で飛び出した「もし私が誰かを苦しめていたら、響はどうする?」という衝撃的な一言。それを自分は「覚悟決めとけよ」という忠告と受け取った――の、だけれども、実際にお出しされたのは、シェム・ハという「未来の肉体を乗っ取っただけの別人」。シェム・ハが誰かを苦しめたとして、それは確かに未来の身体かもしれないけれど、未来の意思ではない。最終回ではこれ見よがしに件の質問が響の脳裏にフラッシュバックするが、未来がその質問で本当に訊ねたかったのは「誰かを守るために自分を犠牲にしなくちゃいけないとしたら?」ということではなく、おそらく「自分が貴女と相容れない存在になったとしても、貴女は自分を選んでくれるのか」という内容……つまり、未来は (意識的にか無意識的にかは分からないけれど)「自分が “響のことを愛している” と伝えた時、響は受け入れてくれるのか」ということについてのヒントを得ようとしていたのではないだろうか。

 

「未来の秘めた想いは響に届くのかどうか」という命題は、人と人との不和を描く『シンフォギア』のテーマと密接に繋がったものであるし、だからこそ「未来がラスボスになる」展開はまさにうってつけなのでは……と、そういう意味でも期待が高まっていた『XV』。しかし上記の通り、未来やシェム・ハを通して紡がれていく展開はどこか予想していたものと違っていた。 

ところが、最終回ではシェム・ハ自身の口から「未来は、言葉では伝えられない想いを抱えていたからこそ自分を受け入れた」というカミングアウトもあり、一体響と未来の物語はどこに着地するのか、もとい製作陣はどこに着地させようとしているのか分からなくなってしまったし、そもそも「シェム・ハが未来の身体を使っている」という展開が『G』の「未来がその想いを歪められ、敵として立ちはだかる」展開より悲劇的でない / インパクトに欠けるということも手伝って、どうにも「シェム・ハ」というラスボスには終始乗り切れなかった……というのが、視聴当時の正直な感想である。

 

 

20000字を、越えました。 

それもこれも、この『シンフォギアXV』にそうせざるを得ないくらいギチギチに魅力や欠点が詰まっているから……なのだけれど、視聴当時はそんなことをのうのうと感じていられないほどにただただ先行きが不安だった。 

前述のように、ことEPISODE 12のラストに至っても、この物語が……もとい『シンフォギア』というシリーズがどのように幕を下ろすのかが見えてこなかったし、大好きな『シンフォギア』シリーズだからこそ生半可な終わり方をしてほしくはなかった。しかし、この『XV』は良し悪しがどちらも非常に極端、もとい (EPISODE 12時点では) どちらかと言えば「悪し」寄りだと感じていた作品だったため、正直最終回にはかなりハードルを下げながら臨んだ覚えがある。しかし、いざ始まった最終回=「LAST EPISODE」と銘打たれたそれは、文字通り「こちらの想像を越えていく」驚くべきものに仕上がっていた。

 

 

バーニングエクスドライブを発動し、キャロルと共にシェム・ハに相対する装者たち。おぉ、遂にキャロルと響たちが共闘するか……! と思ったその時だった。 

 

キャ……「キャロルと装者の7人ユニゾン」だとォ!?!? 

スフォルツァンドの残響』という新曲が出てくることさえ予想できなかった自分は、今回の「最終回用スペシャルユニゾン」が7人ユニゾンである可能性に全く思い至っていなかった。いや待ってください、キャロルについてはもう「これ以上を望んだら罰が当たる」くらい至れり尽くせりの大盤振る舞いだったのだから、この上「キャロルが装者たちと一緒に歌う」という、そんな度が過ぎた超贅沢品を公式がお出ししてくれるだなんて、そんなこと流石に予想できませんって……!! 

しかも、この共闘の嬉しいポイントはキャロルが装者6人を率いるように戦っていること。シェム・ハと唯一本格的に戦ったキャロルが皆を指揮するのは理にかなっているのだけれど、それ以上にその連携ぶりからキャロルと装者たちとの間にある「絆」がしっかりと見えること、そして「ひとりぼっち」で、オートスコアラーたちも切り捨てるように使っていたキャロルが、装者6人と「フォーメーション」を組んで戦っていることが嬉しくてたまらないのだ。ただでさえ感慨深いシーンをいくつも叩き付けてきたキャロルにまだこんなポテンシャルが秘められていたのかと驚きつつ、これまで散々あれこれ文句を言っていた製作陣に頭が上がらない思いだった。


正直、この時点でもうLAST EPISODEは自分の中で「最高の最終回」と化してしまっていたのだけれど、『PERFECT SYMPHONY』が最後のサビに入ろうとするその一瞬、これ以上ない「キメ」のタイミングで入ったカットインで思わず号泣してしまった。  

「今が好機だ!」
『オーバーブレイク!!』

 

キャロルと、その呼び掛けに応える装者たちのこのカットイン! この (それこそ “奇跡” のような) 画が見れただけでも、ここまでシンフォギアシリーズを追いかけてきた甲斐があるというもの……!! しかし、これらキャロルの破格の優遇ぶりが「それが最期の活躍になるから」だからだと気付けない自分の鈍さが、この時ばかりは心底恨めしかった。

「キャロルちゃん! エルフナインちゃん!!」
「立花響……!お前はどうする、何を望む!?」
「私……?」
「そうだ!」
「私は……未来を奪いたい! 人助けなんかじゃなく、私の欲望剥き出しだ!!」
「だったら手を伸ばし続けろ!いつかのオレにそうしたように!!」
「だけど、繋ぐこの手は呪われて、未来を殺す力が……」
「 “呪い” と呪うソイツも呪い!その手にあるのは、見ず知らずの誰かの思いだッ!!」

響たちを守るために、自らの想い出を全て焼却しきるキャロル。そんな彼女が最期に残したのは「ガングニールに積層した呪いも、所詮は “誰かの思い” でしかない」というメッセージだった。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

かの聖者の生死を確認するために使われた槍=「ロンギヌスの槍」そして、それと同一視される「ガングニール」。この槍は、歴史の中でいつしか「神にトドメを刺したもの」と曲解されるようになり、その「神を殺せる」という人々の認識・信心が2000年に渡って積み重なった結果、後天的に「神殺し」の哲学兵装となったもの。つまり「人々の思いによって、その在り方を歪められてしまった / 呪われてしまった」聖遺物こそがガングニールであった。 

しかし、歴史の中では同じように「人々の思いによって在り方を歪められてしまった」存在が数多く存在している。その一人が、他でもないキャロルの父親=イザーク・マールス・ディーンハイム。 

人々を救いながらも、人々の「恐れ」によって、「神の奇跡を振るう異端者」にすり替えられてしまったイザーク。そして、そんなイザークが残した「世界を識るんだ」という赦しへの祈りを、「世界を解剖する」という復讐に変えてしまったキャロル……。そんな過去を持ち、『GX』では自らが呪いと放ったエルフナインによって祝福を与えられることになった彼女こそが、最も「祝福も呪いも紙一重であり、それを決めるのは人の意思」であることを知る者だったのだろう。キャロルが響に贈った「呪いと呪うソイツも呪い!」という言葉は、かつての自分のようにならず、むしろ「その呪いを祝福と変えてみせろ!」という彼女からのメッセージ=祈りだったのかもしれない。 

(キャロルが響という "後を託せる仲間" を得たこと、そして、彼女が残したこのメッセージが、結果的にシェム・ハを打ち倒し人々の未来を紡いだこと。それはきっと、イザークにとってもこの上ない手向けになったのだろう)

 

そんなキャロルの祝福を背負った響は、完全態となったシェム・ハに一人立ち向かう。バラルの呪詛が解除された状態で、人々の思考を強制的に「接続」するシェム・ハに対し、響は人々の「支配への抵抗」そして「未来 (あした) を取り戻す」という想いを拳に束ねてみせるのだった。 


(こちらの動画の 1:46~ をご覧ください) 

「不和」こそが敵として描かれてきた『シンフォギア』シリーズ。その最後に立ちはだかった敵=シェム・ハの真の目的は、個の統合を図り、争いのない「完全な世界」つまりは「究極の “和” 」を実現することだった。そんなシェム・ハに対し、小日向未来という “個” を奪還すべく、人々の「 “未来 (あした) を奪還する” という想い」を束ねる響……。究極の和を打ち破り、争いの可能性を孕んだ人の世界を取り戻すというこの構図は、これまでの『シンフォギア』同様に不和を否定しつつも、その到達点=完全な和をも一挙に否定してみせるものだった。  

「バラルの呪詛……。繋がりを隔てる呪いさえなくなれば、この胸の想いは全部伝わると思ってた。だけど、それだけじゃ足りないんだ」

未来のこの言葉が意味するもの。それは「想いが伝わり、不和が消えること」そのものが美しいのではなく、「異なる想いが繋がる」こと――『シンフォギア』シリーズが描き続けてきた「 “人と人との繋がり” が生み出すヒカリ」こそが何より美しいものなのだということ。この戦いは、人類と神との決戦であると同時に、『シンフォギア』シリーズそのものに終わりを告げるための、文字通りの「最終決戦」に相応しいものだったのだ。

 

METANOIA

METANOIA

 

一方で「シェム・ハから小日向未来という “個” を奪還すべく、人々の “未来 (あした) を奪還するという想い" を束ねる響」の姿は、響にとっての小日向未来が、人々にとっての「未来 (あした) 」であると示すものでもあった。 

これまで「一番あったかい、私の陽だまり」とのみ語られ、その機微は謎に包まれていた「響が未来をどう思っているのか」という命題。その答えとは、決して「一番の友達」などという生易しいものではなかった。響にとって、小日向未来とは人々にとっての「あした」と同義。つまり人助けも、誰かと手を繋ぐのも、響の「やりたいこと」は全て未来の存在という光があってのもの。未来は、自分が響を「追いかける」側であることに引け目を感じていたけれど、響が走っていけるのは、後ろで自分に元気をくれる / 見守ってくれる未来がいるから……。違うものを見ているように思えた2人は、その実「お互いがいて初めて自身の明日を歩んでいける、ある種の運命共同体」であり、そんな最愛のパートナー=未来を、響が「抱き締める」ことで救い出すというシェム・ハとの決着は、前作で「ぶん殴ることしかできなかった!」と涙した響に、そして未来に贈られた最大の祝福だったのではないだろうか。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

こうして、過去最高クラスのファンサービスと、シリーズ最終作としての答え、そして響から未来への想い……という『XV』に求められていたものをおよそ10分で描き切ってしまった驚愕の最終回。その圧倒的な熱量は、しかしなんとここで終わらなかった。 

 

ユグドラシルを止めるため、地球内部へと向かっていく装者6人。余力僅かな彼女たちの前に現れたのは、なんと神獣鏡をシンフォギアとして纏った未来!ウェディングドレスのような美しい衣を纏い、「響の隣を歩いて、同じ景色を見たい」と、その正直な想いを口にする未来。それは、さながらシェム・ハに対して響が放った叫びへのアンサーのようでもあった。 

これまでのシリーズで「未来が自分の意思でシンフォギアを纏う」展開がなかったのは彼女が「戦いから遠い場所にいる」ことにこそ意味があるキャラクターだったから。響の日だまりであり続ける彼女は、戦いの歌を歌うべき存在ではないのだ。しかし、そのことは他でもない『シンフォギア』製作陣が一番理解していること。未来の「戦い」は自動防衛装置を殲滅する一瞬で終わり、『FOR THE FUTURE』もインスト止まり。彼女が自らシンフォギアを纏い歌う「最初で最後の歌」とは、神に別れを告げ、人の不完全で儚い在り方を祝福する希望と別れの歌=『Xtreme Vives』。 

  

「7つの調和……まさか、統一言語を求めていた了子さんは、そのつもりで7つのシンフォギアを作ったんじゃ……!」
「真実を告げないまま言葉を奪われてしまった了子さんは、あらゆる方法で隔たりを乗り越えようとした……」
「そうして生み出されたのが、ノイズ、歌、様々な異端技術」
「 “ただ、繋がりたかった” という彼女の想いは、時を経て、人類全体を繋ぐ奇跡へと昇華した。それはアヌンナキからの脱却……人類の独立だ」

 

神の摂理に到達する「7つの音階の共鳴」が響く中、ユグドラシルの情報ライブラリから溢れ出す亡き人々たちの姿。フィーネとエンキ。奏と八紘。セレナ、ナスターシャ、ウェル。キャロルとイザーク。サンジェルマン、プレラーティ、カリオストロらパヴァリアの錬金術師。ヴァネッサ、エルザ、ミラアルクのノーブルレッド……。 

思えば、フィーネの “繋がりたい” という気持ちが発端で始まったのが『シンフォギア』という物語。そんなフィーネの想いの結晶=7つのシンフォギアが歌う中で、本シリーズが紡いできた絆=繋がりの歴史が輝くビジョンとして綴られるこの光景は、まさしくフィーネの抱いた想いへの祝福であり、彼女の努力に対する暖かな返礼。そして『シンフォギア』というシリーズそのものへの限りない「ありがとう」と「さようなら」のカタチだった。 

『XV』から3年が経ち、この作品が本当に『シンフォギア』シリーズの完結作だということを実感した今だからこそ、涙なしに見ることはできないこのシーン。しかし、それでもこのシーンが驚くほど暖かく感じられるのは、きっと「さようなら」の切なさよりも「ありがとう」が勝っているからこそ。だからこそ、このシーンは多くのファンの胸を揺さぶる「集大成」として、シンフォギアという物語をこれ以上ない美しさで締め括ることができたのだろうと思う。

 


「少女たちが歌って戦う」という、ちょっと何言ってるかよく分からないコンセプトを引っ提げて始まった『戦姫絶唱シンフォギア』から10年。当時こそイロモノとして扱われていたシンフォギアは、今やTVアニメ通算5作品が製作され、パチンコやスマートフォンゲームも人気を集め、10周年という節目で更なる盛り上がりを見せる一大コンテンツへと大成してみせた。 

今にして思えば、「色眼鏡で見られていた存在が、“歌” を通じてたくさんの人々と手を繋いだ」というその歩みは、まるで『シンフォギア』の紡いだ物語そのもの。シンフォギア』というシリーズは、作品の中で描かれていた世界への希望をその身をもって現実にしてみせたのである。

 

確かに『シンフォギア』シリーズは決して完璧な作品ではなかった。『GX』『AXZ』『XV』は各記事に記した通り大きな欠点を抱えているし、緻密で丁寧なストーリーを紡いだ『第1期』『G』にも、まだ「掴めて」いないが故のぎこちなさをはじめ、多くの欠点があることは否定できない。しかし、それでもこのシリーズが見事人気コンテンツとして大成してみせたのは、きっと最初から最後までスタッフ・キャストがこの作品に尋常ならざる愛を注いでくれていたから。作品の完成度を補って余りある圧倒的な「愛」がファンを魅了し、10年という時を繋いできたからこそ、今の輝かしいムーブメントがあるのだろう。 

そして、もう一つ。『シンフォギア』が今の今まで愛されている理由として、自分はこのシリーズがこの上ない「有終の美」を飾ったことを挙げておきたい。

 


(こちらの動画の 3:00~ をご覧ください)

 

「 “八千八声 鳴いて血を吐くホトトギス” ……。人が人である以上、傷付け合わずに繋がることは難しい。だけど、繋がれないもどかしさに流した血からは、たくさんの尊いヒカリが生まれている」

 

シリーズの始まりを飾った言葉を引用しつつ、『シンフォギア』を優しく締め括る未来。

 

「あのね、響……。ずっと、自分の言葉で響に伝えたいことがあったんだ」
「うん、私も」
「え?」
「私の伝えたいこと、未来と同じだったら……嬉しいな」

 

そんな彼女が、怯えながらも勇気を持って踏み出した一歩への「答え」は、ここでは明かされない……ように、見える。 

シンフォギア』という作品を歩き続け、支え続け、その果てに一つのゴールを迎えることができた2人。彼女たちのこれからに何が待っているのか、未来の想いを受けた響が何を語るのか……。この作品は『シンフォギア』だからこそ、それを「言葉」で紡ぐことはしない。全ては、この瞬間を彩る「歌」に込められている。

 

キミだけに

キミだけに

 

「未来から響に贈られる詩」に始まり、「響から未来に贈られる歌」に終わる――。こんなにも美しい物語を紡ぎ、たくさんのものを届けてくれた『戦姫絶唱シンフォギア』。その全てに、どうかこれからも暖かい祝福が溢れていますように。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

総括感想『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』アンバランスな「大器晩成型」作品に灯された、錬金術師たちの誇りと魂 

時に2016年2月28日。かつての雪辱を晴らし、遂に辿り着いた『戦姫絶唱シンフォギアGX』のライブ=『シンフォギアライブ2016』の会場で告げられたまさかの発表に、会場と自分は大いに沸き立っていた。 

 

そう、発表されたのは『シンフォギア』新作TVアニメ、第4期&第5期の製作発表。そんなことある……?????

 

2シーズン同時製作という報せは、何より『シンフォギア』というコンテンツが大いに盛り上がっている証左であったし、単純に最低でも2クール分の新作が確定したことが嬉しかった。 

しかし、いざTVアニメ第4期=『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』が始まると、自分はその物語を楽しむどころか、どこか「置いてけぼり」を食らうような気分になってしまい、悲しいことに最後までその物語に乗れることはなかった。シンフォギアを見た後に残ったのが「虚しさ」だった経験は、後にも先にもこの一度きりだったと思う。

 

それから5年、なんだかんだで通算3周視聴したことで、どうにか正面から向き合えるようになった『AXZ』。シンフォギアが10周年、そして本作が5周年を迎える今だからこそ、本作がどのような作品だったのか、その魅力や欠点に正面から向き合っていきたい。

 

kogalent.hatenablog.com

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(前々作『G』と前作『GX』の記事はこちらから、『第1期』の記事は、カテゴリータグなどからどうぞ!)

 


※以下には『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズのネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 


戦姫絶唱シンフォギアAXZ』は、2015年の夏期アニメとして放送された『戦姫絶唱シンフォギアGX』の放送開始からちょうど2年後、2017年7月から全13話が放送されたTVアニメ作品。   

その舞台は前作『GX』の数ヵ月後、響の誕生日を間近に控えた秋。キャロルと同じ「錬金術師」を相手に戦う直系の続編作品で、シリーズでは唯一、前作からシンフォギアのデザインが変更されないという変わった特徴があったりする。 

(その理由は特に明言されたりはしないが、作中終盤の展開を見ると何となく察することができる)

 

そんな『GX』の要素を色濃く持っている『AXZ』だが、肝心のその中身はというと、『GX』が打ち立てたバトルアニメとしての要素に『第1期』『G』で描かれた連続ドラマ的な要素を再投入した結果、それが非常にチグハグな形で合体し「極めてアンバランスな作品」になってしまっていたように思う。 

なぜ本作がそのように「アンバランス」だったのか、そんなアンバランスな本作の魅力とは何なのか。順を追って、その短所と長所を検証してみたい。

 

 

シンフォギアAXZ』の主軸となるのは、新たに立ちはだかる3人の錬金術師――そして、彼女たちが所属する秘密結社「パヴァリア光明結社」との戦いだ。 

このパヴァリア光明結社は「欧州に端を発する、錬金術士たちが集う組織」であり、古来より裏歴史に暗躍し、フィーネとも争っていたばかりか『G』や『GX』の事件にも深く関与していた……という、まさにシンフォギア装者たちの宿敵とも呼べる存在。しかし、このパヴァリア光明結社の描かれ方が本作においては非常に大きな問題点となっている。

 

 

まず第一に、本作は前述のように「パヴァリア光明結社」という一大組織との戦いが描かれる作品である……のだが、その実戦う相手はたったの5人。結社の幹部3人と統制局長、その付き人 (?) という、所謂「組織のボス格」としか戦わないのである。

 

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引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

中でも本作のライバル枠となるのが、左からサンジェルマン (CV.寿 美菜子) 、プレラーティ (CV.日高 里菜) カリオストロ (CV.蒼井 翔太) の3人。 

彼女たち3人の目的は、月遺跡によってコントロールされ、人類の相互理解を妨げる「バラルの呪詛」を解き放ち、相互理解による永久の平和をもたらすこと。そのために結社の一員として、時に非道な手段を持って「生贄」を集めており、カリオストロ曰く「ちょっと変わった正義の味方」なのだという。 

……ん? 「響たちとは相容れない正義を持った、3人組のライバル枠」……?

 

 

か、被ってる……!! 

そう、このパヴァリア光明結社の幹部3人 (パヴァリア組) の最も大きな問題点は、限りなくF.I.S.時代のマリア、調、切歌と似ていること。 

ちょっと待て待て待ちなさい、マリアたちはたった5人の独立軍、対するパヴァリア光明結社は世界を股にかける一大組織。似ているだなんてそんなそんな……と思われるかもしれないが、前述の通り、響たちと戦う=本編に顔を出すのはサンジェルマン、プレラーティ、カリオストロ、そして統制局長のアダム・ヴァイスハウプト (CV.三木 眞一郎) 、オートスコアラーのティキ (CV.木野 日菜) の合計5人であり、他の幹部はおろか、モブの構成員さえも最終回のワンカットくらいでしか画面に現れない。結果、このパヴァリア組はその規模に反してF.I.S.とそっくりな雰囲気を醸し出してしまっているのである。 

(ちなみに、「歯を食い縛って非道を行う優しい女性リーダー」「物静か×お調子者のコンビ」「白い服を着た横暴な大人」……と、この2組織はその構成メンバーのキャラクター性までもが非常に似ている。そりゃあ印象も被るよ……)

 

では、そんなF.I.S.組同様にパヴァリア組の3人も魅力的だったか? と言われると、個人的には手放しに「魅力的だった!」というのは少々躊躇ってしまうのが本音。なにせこの3人、何もかもが説明不足の塊なのだ。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアAXZ 公式ホームページ  

 

第1の説明不足は、そもそも彼女たちの目的=「バラルの呪詛の解除」が何をもたらすのかがよく分からないこと。 

 

上記リンク先の用語解説にある通り、言ってしまえばバラルの呪詛とは「統一言語を剥奪するシステム」。しかし、根本的な問題として、「統一言語」の存在によって何がどう変わるのかが分からない=「統一言語」を取り戻すことによって、彼女たちの言うように本当に平和が訪れるのか分からず、結果「生贄を集め、顕現させた神の力でバラルの呪詛を解除しようとする」というサンジェルマンたちに感情移入ができない。手段の非道さは分かるが目的の正当性が分からないので、彼女たちが正義なのか悪なのか、見ているこちらには何とも判断ができないのである。 

この点において、F.I.S.は見事なまでに対照的で、彼女たちの場合はその最終目的が「月の落下阻止」だとはっきりしていた。手段こそ終盤まで秘匿されていたが、目的は間違いなく「正当」なものだったため、「月の落下を阻止する手立てがないが、非道な行いを黙ってみていられない」響たちVS「月の落下を阻止するために、非道な手段を厭わない」F.I.S.という「正義VS正義」の図式が成立していたのである。


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引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

第2の説明不足は「パヴァリア組のキャラクター性」について。つまりは、彼女たちについて「キャラクター性に見合うだけの掘り下げがない」ことだ。


F.I.S.の面々が作品全体で非常に丁寧に掘り下げられていたことはもはや言うまでもない(詳細は冒頭記載の『シンフォギアG』記事を参照) が、一方のパヴァリア組は……というより、プレラーティとカリオストロは各々の掘り下げがあまりにも足りていない。
サンジェルマンについては (響と信念をぶつけ合う都合もあってか) その過去や信条が度々描写されていたが、残る2人=プレラーティとカリオストロについては「男性から女性に肉体を変化させた」という衝撃的な設定の割に、その背景は「以前はろくでもない生活を送っていたが、サンジェルマンの信念に共感し、共に歩むことを決めた」ということ以外何も語られない。なぜ女性の肉体が完全とされ、その身体になることが必要だったのか(アダムは男性型なのに)、2人は人生を捧げるほどの何をサンジェルマンに見たのか、錬金術師とは縁もなかった2人が、なぜサンジェルマンに認められ、パヴァリアの幹部にまで至ったのか……これら全てが特に語られないため、2人にもやはり感情移入することができないのだ。 

この原因はやはりというか何というか「尺不足」に尽きるのだろうけれど、同じ状況 (装者6人を描く都合上、敵方に割ける尺が少ない) だった『GX』においては、ガリィたち4人が「その背景を掘り下げる必要性が薄い」オートスコアラーとして設定され、そのおかげで描写不足を感じさせなかった……という見事な解決策が提示されていたため、尺不足を言い訳にすることはできないし、結果的に彼女たち3人は「F.I.S.と似ているが、彼女たちほど共感を呼べない」という些か不遇なキャラクターになってしまい、そのことが『AXZ』の作品としての個性を薄めてしまっていたとも言えるだろう。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアAXZ 公式ホームページ  

 

このように、その濃いキャラクター性に反し描写が少なく、(感情移入が前提となるストーリー構成であるにも関わらず)いまいち共感できないキャラクターになってしまっていたパヴァリア組の3人。しかし、本作の問題点は彼女たちだけでなく、響たちシンフォギア装者側にも散見されている。

 

 

本作の主軸は前述の通りパヴァリア光明結社との戦いであるが、それと同時進行していく2つの縦軸がある。「新たなLINKERの生成」と「クリスの過去を巡る物語」だ。

 

まずLINKERについて。これは、マリア、調、切歌の3人=LINKERで適合係数を引き上げなければギアを纏えない3人のための新たなLINKERを、エルフナインが生み出すという物語……なのだけれど、率直な感想が「まだできてなかったの!?」だった。  

LINKERを作れるのは、櫻井理論の提唱者=櫻井了子、そしてその理論を一定量ものにしていたウェル博士の2人だけ。しかし、前作『GX』終盤でそのウェル博士からLINKER生成に関わるメモリーチップが託されたため、新たなLINKERの生成は時間の問題……だと思っていたし、そもそもマリアや調、切歌が薬で戦うのは正直見ていていたたまれないため、いっそ脱LINKERの上で各々の聖遺物にちゃんと適合してほしかった。 

しかし、いざ『AXZ』本編を見てみると、新たなLINKERが生まれていないどころか、その目処さえ立っていないという始末。ウェルさえ修復できなかったアガートラームを何の苦労もなく修復したエルフナインが、そこまでLINKERの生成に時間がかかるの……? 

本作中盤で「LINKERを作用させるべき部位は、人の“愛”を司る脳領域」だったと明かされたことで、エルフナインがここまでLINKER生成に難航した理由は「彼女が人間の世俗・感情に疎いから」と辻褄はどうにか合うのだけれど、だとしても、シンフォギアの修復が一瞬で終わるのに対し、LINKERの生成が『AXZ』6話分もかかってしまうというのは、どうにも「製作上の都合」を感じてしまい、物語に乗り切れない大きな原因となっていた。 

(しかもその過程で、マリアはウェルがLINKER生成のために残した遺言=大きなヒントをほぼ忘れていたことが発覚。これはポンコツの謗りを免れないぞマリア……)

 

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そんな「LINKERの生成」と同時進行していくもう一つの縦軸。それが「クリスの過去を巡る問題」なのだけれど、これまたどうにも手放しには褒められない仕上がりになっていた。

 

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引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

クリスがかつて両親と共にバルベルデを訪れた際に友人となった少女=ソーニャ・ヴィレーナ (CV.藤原 夏海) と、その弟=ステファン・ヴィレーナ (CV.泊 明日菜) 。この2人とクリスを巡る物語が本作序盤~中盤に描かれるのだけれど、この一連も大きな問題を抱えている。 

一つは、これがあまりにも露骨な「クリスの優遇」であること。

 

GUN BULLET XXX

GUN BULLET XXX

 

『第1期』『G』『GX』と、これまでのシリーズでは、メインキャラクターたちは基本的に分け隔てなく描かれ、シンフォギアを纏わない未来の出番が少なかったり、逆に主人公格の響、マリアの出番が多かったり……といった差はあれど、それらはどれも作劇上の必然と言えるものだった。しかし『AXZ』では、明らかに「必然」ではないキャラクター格差が生まれている。そんな本作の物語を各装者ごとに振り返ると、下記のようになる。

 

響=終盤でメインになる 

翼=風鳴訃堂 (CV.麦人) との対立などがあるが、本作では回収されずに終わる。 

クリス=序盤~中盤のメイン 

マリア=序盤~中盤のメイン 

調=EPISODE 9『碧いうさぎ』のメイン 

切歌=EPISODE 10『アン・ティキ・ティラ』のメインだが、尺があまり割かれない

 

……と、かなり露骨な差が生まれており、特に翼はメインとなるエピソードがEPISODE 9『碧いうさぎ』しかなく、しかもそのエピソードの主役は翼というより調なので、実質的に彼女の主役回がないというかなり悲惨なことになっている。 

本作の時点で「後に訃堂とのくだりでメインとなる」ことは容易に想像できるものの、それにしたってこの扱いは主役級キャラクターのそれではなく、Blu-rayのCMで翼が待遇の改善を申し入れているシーンも笑い事で済ませられないし、むしろ自覚的なだけタチが悪いとも言えるだろう。 

(切歌も本作では影が薄い方だが、EPISODE 10で大見せ場があるほか、LINKERのくだりにおいてそもそもF.I.S.組3人の出番が多いため、翼ほどは気にならない)

 

響は主人公なので終盤のメインを張るのも当然として、残る問題はクリス・マリアの出番が多いこと。しかし、マリアが主役となるパート=「LINKER生成」のくだりについては、前作から引き継いだ内容ということもあって「作劇上の必然」があるもの。しかし、一方でクリスのバルベルデ問題は完全に無から生えてきたもの。裏設定が存在していたかどうかさえ怪しく、おそらくクリスの人気を踏まえ、彼女をピックアップするために生やされた一連だと見るのが妥当だろう。 

勿論、キャラクターの人気で格差が生まれてしまうのは多少は仕方のないこと。問題は、そのような「優遇」が、そういった背景事情を感じさせないような「必然」になっていること。クリスがステファンを助けるためにその足を撃ってしまうという悲劇が、ゆくゆくはパヴァリア光明結社や他の装者たちをも巻き込んだ大きなうねりに――


――ならないのである。

 

 

クリスとバルベルデ姉弟の一連。その真の問題点は、露骨な後付けであることでも、クリスの優遇ぶりでもなく、シンプルに「物語の縦軸として浮きすぎている」こと。 

クリスがステファンを撃ったことはパヴァリア光明結社との戦いにも他の装者にも全く影響せず、最初から最後まで「クリス個人の問題」として終わってしまう。EPISODE 2からEPISODE 8まで引きずり続け、しかもその間ずっとクリスは曇り続けているというのに、なんとこのくだりは『AXZ』から引っこ抜いたとしても物語に何の影響も出さないのだ。エンディングテーマの『Futurism』の映像はどう見てもこの問題やクリスの過去にスポットを当てているのに。

 

しかも、この問題の帰結として提示されるのは「過去は変えられなくても、未来は変えることができる」というメッセージ。それ自体は非常に意味のあるメッセージだが、こと『シンフォギア』シリーズ……しかもクリスにおいては、過去何度も問いかけられたものではなかったか。 

特に『G』後半では、クリスが「かつての自分の罪」に悩み、翼の協力でそれを払拭、最終決戦ではソロモンの杖と共に罪を償うという感動的なシーンが描かれていた。その上でこの展開を描くのは悪い意味での天丼……どころか、当のクリスに「まだそのことを理解していなかった」上に「G、GX、AXZと毎回悩んでいる」という余計な設定を付与してしまい、結果的に「彼女を優遇するはずが逆に株を下げている」という本末転倒に陥っている。この有様を見ると、むしろ、不遇だったがちゃんとEPISODE 9(や12)で良い見せ場があった翼の方が幸せだったのかもしれない……とさえ思えてしまう。

 

月下美刃

月下美刃

 

このように、次から次へと問題点が出てくる『AXZ』。あまり問題点ばかり取り上げるものではないけれど、最後に一つ言及しておきたいのが、本作の「日本語がよく分からない」現象について。 

細かい説明の前に、まずは下記の「錬金術師たちに対抗する術を見付けた」エルフナインの台詞を見て頂きたい。

「これは……?」
「以前ガングニールと融合し、謂わば生体核融合炉と化していた響さんより錬成されたガーベッジです」
「あぁ~! あの時のカサブタ!?」
「とはいえ、あの物質にさしたる力はなかったと聞いていたが……」
「世界を一つの大きな命に見立てて作られた賢者の石に対して、このガーベッジは響さんという一人の小さな命より生み出されています。つまりその成り立ちは正反対と言えます。今回立案するシンフォギア強化計画では、ガーベッジが備える真逆の特性をぶつけることで、賢者の石を相殺する狙いがあります」

『G』において、ガングニールの融合によって身体が金属化していた響から零れた「カサブタ」。それこそが事態を打開する切り札になる……という、この時点で奇妙な展開ではあるのだけれど、もっと分からないのは説明されたロジック。「一人の小さな命より生み出されたもの」が賢者の石の正反対の性質を持つというなら、それは髪の毛でもなんでも当てはまってしまわないだろうか……と、『AXZ』ではこのような「日本語の会話のはずなのに、その意味がとんちんかんで理解できない」シーン、つまり「作中での納得や理解が、視聴者を置き去りにする」場面が非常に多く、視聴者の感情移入を著しく妨げてしまっている。

 

更に、このような「視聴者を置き去りにした日本語」は、上記のような会話に留まらず、キャラクターたちの台詞それ自体にも散見されるようになり、特に響がその影響を色濃く受けてしまっている。 

例えば、EPISODE 2『ラストリゾート』ラストシーンのこの台詞。プレラーティとカリオストロが使役する無敵の怪物=ヨナルデパズトーリを、響が拳で粉砕してみせたシーンでのやり取りだ。

「うおおぉぉぉぉーーーーッ!!」
「ふ、効かないワケだ」
「それでも、無理を貫けば!」
「道理なんてぶち抜けるデース!」
「どういうワケだ……!?」
「もぉ~! 無敵はどこ行ったのよぉ!」
「だけど私は……ここにいる!!」

調と切歌の「それでも、無理を貫けば!」「道理なんてぶち抜けるデース!」は、これまでのシリーズでも見られた「ちょっと癖の強い日本語」だが、分からないのは響の最後の台詞。「だけど私は……ここにいる!!」の「だけど」がおそらくどこにも繋がっておらず、日本語として文字通り破綻してしまっているのである。 

『AXZ』は、新キャラクターのアダムは (新キャラクターなので) 良いとしても、響のような既存キャラクターがこのように破綻した日本語を口にするシーンがあまりにも多い。日本語としてギリギリ成立するからこそ旨味になっていた独特の台詞回しも、このように破綻してしまったら、視聴者としては感情移入が阻害……というか、そもそも作中の会話にさえ付いていけなくなってしまう。ここまでくると、それは作品の「味」ではなく、明確な「欠点」になってしまうのではないだろうか。 

(同様の理由で、本作はサブタイトルも難解なものが並び、EPISODE 12の『AXZ』さえその意味がよく分からないという、かなり致命的な事態に至ってしまっている。創作作品の在り方を考えさせられる、興味深い事例と言えるかもしれない)

 

負けない愛が拳にある

負けない愛が拳にある

 

このように、いくらなんでも目に余る欠点があまりに多い『AXZ』。欠点の多さといえば前作『GX』もそうだったけれど、同作はその欠点を補って余りあるほどの爆発的な熱量が随所に存在しており、そのおかげで欠点を±0……ないしプラスに持っていくことができていた。 

一方『AXZ』にはそこまでの「独自の魅力」があったのか……と考えると、それは個々の好き好みによるところも大きいだろうけれど、胸を張って「本作独自の魅力」と言えるものが名ユニゾン曲の数々だろう。

 

 

シンフォギアAXZ』そして「ユニゾン」……というこの2つの単語を見ると、真っ先に想像してしまうのはこちらのシーン。 

 

EPISODE 1『バルベルデ地獄変』において、藤尭とあおいの窮地に駆け付ける (涙が出るほどカッコいい) マリア・調・切歌! しかも流れる歌=『旋律ソロリティ』は、響たちの『RADIANT FORCE』や『激唱インフィニティ』に相当する3人の絆の歌。前作の『「ありがとう」を唄いながら』が普段の『シンフォギア』と毛色の違う特殊な歌だったため、この『旋律ソロリティ』は、文字通り待ちに待った「3人の絆の歌」だった。 

しかし、なんとこの『旋律ソロリティ』を初めとする合唱タイプの歌は、なんと本作で定義された「ユニゾン」には該当しないのだという。

 

激唱インフィニティ

激唱インフィニティ

 

一見するとこれまでのシリーズでも出ていたようで、その実おそらく『AXZ』が初出となる概念=「ユニゾン」。詳細は下記リンクを参照されたいが、厳密には『始まりの歌』や『RADIANT FORCE』といった楽曲群は「フォニックゲインの共鳴現象」であり、厳密にはユニゾンとは似て非なるものだったのだ。 

 

そんな中、明確な「ユニゾン」と定義されたのが、これまで毎シリーズで歌われてきた調×切歌のデュエット曲。このユニゾンこそ、イグナイトモジュールが泣き所となる対錬金術師戦の切り札になると判断した弦十郎は、各装者に「誰とのコンビネーションでもユニゾンを発動できるように」という特訓を課し、その結果、各錬金術師との決戦の中で3つの「新たなユニゾン」が披露されることとなった。

 

Change the Future

Change the Future

クリス×マリアのユニゾン『Change the Future』。クリスが『Stand up! Ready!!』を、マリアが『GUN BULLET XXX』の歌詞をそれぞれ歌うという粋な歌詞に加えて、世界に敵対した過去を持つ2人が「未来を変える」と叫ぶ……と、ほぼ関わりがなかった2人に想定外の親和性があったことを教えてくれる名曲だ。惜しむらくは、尺の問題や、この歌がサプライズで披露される都合から「クリス×マリア」の掘り下げがあまりなかったことだろうか。

 

風月ノ疾双

風月ノ疾双

翼×調という、これまたほぼ関わりのなかった2人によるユニゾン『風月ノ疾双』。調の歌をベースに翼のエッセンス=和楽器が加えられた結果生まれた非常に美しいメロディを、よりによって水樹 奈々×南條 愛乃という究極のアニソンシンガータッグが歌うという、ユニゾンの中でも特に話題性の高い一曲。 

また、この歌が披露されたEPISODE 9『碧いうさぎ』は、これまでなかった「調の出自に迫る、彼女の単独エピソード」であり、その中で「心に壁を作っていた」経験を持つ翼が調と絆を結ぶという非常に完成度の高い一編。このエピソードもあって、殊更に印象深いユニゾン曲だ。

 

必愛デュオシャウト

必愛デュオシャウト

響の「コーラスが映えるヒーローソング」に、切歌の印象的なメロディラインを加えるという、本作特有の「2人の歌を融合する」というコンセプトで作られたユニゾン曲の中では最も高い完成度を誇る歌=必愛デュオシャウト。 

しかし、この歌が披露されたEPISODE 10『アン・ティキ・ティラ』は「響と切歌のエピソード」というより、「響」のエピソードと「切歌」のエピソードを同時に行うかのような内容であり、最後の大見せ場も切歌の絶唱に持っていかれてしまったため、その完成度に反して印象が薄いという不遇のユニゾン曲とも言えるだろう。

 

 

前作『GX』よろしく「各エピソードで一人ずつ錬金術士を倒していく」という展開になってしまったものの、これらのユニゾンの魅力でブーストをかけたかのように、この終盤からむしろ盛り返していくのも『AXZ』の魅力。

 

 

遂にサンジェルマンと響が共闘し、響の新曲『花咲く勇気』が披露される……ことを盛大な見せ球に、本作とも連動するスマートフォン向けゲーム『戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED』の主題歌『UNLIMITED BEAT』という予想外の真打を見せてくれたEPISODE 11『神威赫奕の極みに達し』。 

(響がこの超難読サブタイトルを台詞としてさらっと読み上げたのは、一体何だったんだろうか……)

 

そして、次回作『XV』への布石として、未来の「響! 私のおひさま……!」という台詞によって2人の関係を再定義するファインプレーを見せたEPISODE 12『AXZ』。しかし、このエピソードにおいてはやはりサンジェルマン、プレラーティ、カリオストロの3人による命懸けの錬金術をこそ取り上げるべきだろう。

 

 

未来たちの尽力で暴走した響が元に戻ったにも関わらず、日本に向けて放たれた反応兵器。その災禍から日本を守るため、天高く歌うサンジェルマン、プレラーティ、カリオストロ……。 

前述のようにF.I.S.と被っている他、キャラクターの掘り下げも不十分だったパヴァリア組の3人。しかし、Blu-ray特典の『戦姫絶唱しないフォギア』で描かれた彼女たちの実態は自らを「ちょっと変わった正義の味方」と定義し、理想ではなく「サンジェルマン」という孤独な戦士をこそ信じ、絆を結んだ気高い錬金術師たちだった。彼女たちがF.I.S.組と異なっていたのは、自分たちの行動に確かな信念を持ち、それが世界から疎まれると分かっていても貫ける強き者であったということ。彼女たちの行いは非道だったかもしれないが、その志は紛れもない「正義の味方」のものだったのだ。 

そんな長年の志を、統制局長=アダムの思惑によって踏みにじられたサンジェルマン。全てを喪ったかに見えた彼女が、プレラーティとカリオストロという「自分自身を信じ、付いてきてくれた」仲間と共に、最期の力で正真正銘の「正義」を成す姿……。リアルタイムで視聴した時には正直困惑もあったけれど、『しないフォギア』で全てを見届けてから改めて見た彼女たちの勇姿は、3人が口にする『死灯 -エイヴィヒカイト-』は、この作品を背負うに相応しい、切なく熱い「誇り」に満ちていた。

 

死灯 -エイヴィヒカイト-

死灯 -エイヴィヒカイト-

 

そんな凄まじい熱量のEPISODE 12に続く、EPISODE 13『涙を重ねる度、証明される現実は』。正直、ここまで嘘のように右肩上がりだった本作の勢いがどこまで保つのか、ちらつく「5期」の存在もあって不穏な結末に至りやしないかとビクビクしながら視聴に臨んだ最終回……だったけれど、それは、最終回で悉く伝説を築き上げてきた『シンフォギア』の名に恥じることなく、熱く燃え盛る「予想外」を見せ付けてくれるウイニングランだった。

 

アクシアの風

アクシアの風

 

6人ユニゾンアクシアの風』に追い詰められ、遂にその真の姿を晒け出したアダム。その圧倒的な力に苦戦する響の脳裏に、どこからか勇壮な声が届く。

「力負けている……!」
『まだだ、立花響ッ!!』
「何をするつもりだったのかなァ……サンジェルマンのスペルキャスターめぇぇーーッ!!」

サンジェルマンのスペルキャスター (銃型のファウストローブ装着用コンバーターユニット) に残されたエネルギーをそのまま火力として解き放つアダム。そして、その膨大なエネルギー=「サンジェルマンの遺した力」を正面から受け止めようとする響。 

そんな響をマリアたち5人が支え、エルフナインがエネルギーの負荷をイグナイトモジュールに肩代わりさせることで、本来なら相容れない「錬金術 (ラピス) 」を「歌 (シンフォギア) 」と一つにする……。それはまさしく、響が為そうとしたこと=「相容れない存在であるサンジェルマンと手を繋ぐこと」そのもの。敵わなかった理想を果たすべく、最後の「抜剣」が発動する。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアAXZ 公式ホームページ  

 

「抜剣!」
『ラストイグニッション!!』


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアAXZ 公式ホームページ  

 

黒い殻を破って現れたのは、エクスドライブでもイグナイトでもない、全く新しいギア=ラピスの力を宿し再構成された「リビルドギア」! 

TESTAMENT

TESTAMENT

 

錬金術師たちの想いを受け継いで生まれ変わった新たなシンフォギアを纏う6人は、更にその力を響に集約させていく。

「あたしの “呪りeッTぉ” デス!」
「借ります!」
「 “蒼ノ一閃” !」
「否定させない! この僕を、誰にも!!」
「みんなのアームドギアをッ!!」
「“禁月輪” ……!私たちの技を……ううん、あれもまた “繋ぐ力” 。響さんのアームドギア!!」

本作のキャッチフレーズにもある「一にして全なるモノ」とは、即ち「完全なもの」=錬金術師たちが希求してやまない到達点を指すのだという。その錬金術師たちを束ねる統制局長であり、神の力=完全へと至ろうとしたアダムは、たかが一人の人間に追い詰められている。 

それはきっと、その「たかが一人の人間」が、アガートラーム、イガリマ、天羽々斬、シュルシャガナ、イチイバル……それらあらゆる力や、仲間たちの想いさえも束ねてみせる存在だから。たかが一人だとしても、手を繋ぐことで無限にその可能性を広げていく響という存在は、全てを使い潰し、一人孤独に落ちていくアダムよりもずっと「一にして全なるモノ」あるいはそれ以上の存在と言えるのではないだろうか。 

そして、敵がアダムであり、彼女がそのような存在であるならば、錬金術師がそこに手を貸さない道理はない。

「無理させてごめん、ガングニール!一撃でいい……みんなの想いを束ねてアイツにッ!!」
『借りを返せるワケだッ!』
『利子付けて、のし付けて!』
『支配に反逆する、革命の咆哮を此処にッ!!』

響をして「終生分かり合えぬ仇同士」と語ったサンジェルマン。しかし、その生を終えたからこそ、彼女は想いのままに響と手を繋ぐことができた。 

様々な紆余曲折を見せた『シンフォギアAXZ』。しかし、本作が右肩上がりを続け、その勢いのままにアダムとの決着を描ききったこと。そして、その要が「手を繋ぐこと」だったこと。ここに自分は確かな『シンフォギア』の息吹を感じたし、一連の熱く心揺さぶるクライマックスには、前半の欠点を補って余りあるものがあったと、胸を張って言うことができるだろう。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアAXZ 公式ホームページ  

 

本放送時は、ひたすらに困惑し、どんどん視聴意欲が減退してしまった『AXZ』。しかし、何度も見返して、こうして改めて向き合うことでその魅力を再発見することができた。 

確かに、本作は「粗が多い物語」や「『GX』に劣る瞬間最大風速」その他諸々……と、どうしても欠点が目立つ作品には違いないかもしれない。しかし、本作の次に控えるはシリーズ最終作=『戦姫絶唱シンフォギアXV』。そのことを踏まえると、本作は「XVの前に、色々とやり過ぎた『GX』からその魅力を抽出しつつ、従来のような物語性に舵を切り直そうと奮闘した」実験作のようにも見えてしまうのだ。


これまでの3作品がただでさえハードルを高めに高めているというのに、その上で課せられる難題。(それを越えられたかどうかはともかく)本作はそれに全力で挑んだからこそ、しっかりと本作独自の魅力を生み出すことができていた。本作は『XV』の前座ではなく、『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』という、確固たるシリーズの一角だったのである。 

そのことに『AXZ』5周年の節目で気付けただけでも、この作品に改めて向き合った意味はあったし、むしろお釣りが来るものでさえあった。ありがとう、シンフォギアAXZ……!

 

 

シンフォギア10周年記念記事も、残すところ『シンフォギアXV』一作のみ。本作が描いた『シンフォギア』のフィナーレとは一体何だったのか、当時向き合いきれなかった分までしっかりと向き合っていくので、ついてこれるヤツだけ……と言わず、是非見守って頂けますと幸いです。 

それでは、次は『XV』記事でお会いしましょう!

総括感想『戦姫絶唱シンフォギアGX』“奇跡のカタチ” が呪いを祓う、シリーズの「底辺」にして「頂点」

時に2013年冬。大好評のうちに幕を閉じたシリーズ第2作『戦姫絶唱シンフォギアG』のライブ会場にて、続編となる「TVアニメ第3期」の製作が発表。当時大学生で、『シンフォギアG』のあまりに綺麗な終わり方に「次はないだろうな……」と思い込んでいた自分は、ライブにも負けないほどの熱気と歓喜の雄叫びを上げていた。部室で。 

そして、約1年半後に公開された本PVがこちら。それは、あらゆる「予告ムービー」の頂点に立つ、史上最高のプロモーションムービーとなっていた。 

 

涙を誘うイントロをバックに流れる『シンフォギアG』の(まるで走馬灯のような)クライマックス……から、一転して始まる怒濤のメロディ! 

シリーズでもトップクラスのボルテージを誇る最強無比のユニゾン曲『RADIANT FORCE』と共に流れ出す新規映像は、「F.I.S.組のその後」「翼とマリアが再びライブで並ぶ」「オートスコアラーとキャロル」といった気になる情報が満載なことは勿論、歌に合わせた編集がキマりすぎていて見ているだけでなんだか泣けてきてしまう程のとんでもない代物。数週間後に控えたTVアニメ第3期『戦姫絶唱シンフォギアGX』へのハードルを限界突破させるには申し分ない、令和4年の今に至っても文字通り「最高」のPVだった。

 

では、いざ開幕した本編はどうだったのか――というと、結論から言うならば、それはPVがブチ上げたハードルを越えていくシリーズ最高峰の熱量と、シリーズでもトップクラスの事故ぶりが同居する……という「一長一短」が極まったかのような劇薬。 

シンフォギア10周年の今だからこそ、そんな一長一短で、しかし、だからこそ愛おしい作品『戦姫絶唱シンフォギアGX』に改めて正面から向き合ってみたい。

 

kogalent.hatenablog.com

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(これまでのシリーズはこちらの記事からどうぞ!)

 

※以下には『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』『戦姫絶唱シンフォギアG』『戦姫絶唱シンフォギアGX』のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 


戦姫絶唱シンフォギアGX』は、2013年の夏期アニメとして放送された『戦姫絶唱シンフォギアG』の放送開始からちょうど2年後、2015年7月から全13話が放送されたTVアニメ作品。 

その舞台は前作『G』の約4ヵ月後で、「翼がリディアンを卒業」「特異災害対策機動部二課が、正式な国連直轄組織=超常災害対策機動部タスクフォース “S.O.N.G.” として再編」など様々な変化が起こっていたことに鑑みても、シンフォギアの「第2章」開幕編という側面を持っている作品とも言えるだろう。

しかし、この作品が「新章」らしさを放っている一番の理由は、その作風の大幅な転換。緻密な人間ドラマとしてあまりに完成されていた『第1期』『G』との重複を避けて新たな魅力を追求するためか、本作『GX』は「少年漫画的な作風で描かれるバトルアクションアニメ」として舵を切り、見事新たな魅力を打ち立ててみせたのである。

 

 

そんな本作の作風を象徴するのが、本作の敵として立ちはだかるオートスコアラー=自動人形たち。 

『GX』ではマリアたちF.I.S.組の参入によって、味方サイドの主要キャラが文字通り倍増したため、敵方を細かく掘り下げるだけの余裕がない。そのことを踏まえてか、本作の敵は、錬金術士キャロル・マールス・ディーンハイム (CV.水瀬 いのり) と、彼女を守る4人のオートスコアラーに絞られている。 

こうして見ると人数は多いが、オートスコアラーは「キャロルを守る為に産み出された自動人形」であり、人間のキャラクターほどその背景設定を描く必要がない。その点が効を奏し、彼女たちは「最低限の描写」の中でその魅力を遺憾なく発揮していた。

 

剣と定義されるものを破壊する哲学兵装「ソードブレイカー」を振るうファラ・スユーフ (CV.田澤 茉純)

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引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

「ソードブレイカー」持ちという特性通り翼と相対する彼女は、色物揃いのオートスコアラーの中でも「まとも枠」に見える存在。事実、オートスコアラーの参謀的な存在であり潜入任務なども器用にこなす彼女だが、舌が異様に長かったり、目付きが時々人間離れしていたりと、ある意味一番「自動人形らしい」キャラクターでもあったりする。 

(それが人によっては強烈に刺さったりトラウマになったりする)


そして、「地味」を嫌い「派手」に立ち回るレイア・ダラーヒム (CV.石上 静香)
f:id:kogalent:20221112214417j:image引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

いかにも強キャラ然としたクールな雰囲気の彼女は、「ワタシに地味は似合わない」という信条の通り、とにかく行動が派手……というか面白い。終始ジョジョ立ちなのも大概だが、それ以上に際立つのがなぜか投げ銭を武器としていること。その投げ銭 (よりによって) クリスと渡り合えるばかりか、後半ではその投げ銭トンファーを作って格闘戦をやってのけたりする、カッコよさと「変さ」が同居した、これはこれでオートスコアラーらしいキャラクターと言えるだろう。 

(ちなみに、妹は勿体ぶって中々出てこなかった果てに、EPISODE 11のアバンで敢えなく爆死する。そりゃないよ……!)

 

そんなファラ・レイアとは異なる「可愛らしい」見た目であり、放送前は一人だけキャラが薄そうと懸念されていたが全くそんなことはなかったガリィ・トゥーマーン (CV.村瀬 迪与)
f:id:kogalent:20221112214438j:image引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

ギャップ満載のオートスコアラーたちだが、それが特に図抜けているのがこのガリィ。この見た目でありながら、その正体は「可愛こぶっている腹黒」であり、手段を選ばない非道さや幻術を効果的に使う知略、「頭でも冷やせやァ~!!」等ヤクザめいた言動の数々で、製作者であるキャロルからも苦い顔をされる程の「濃すぎる」キャラクターに仕上がっていた。


そして、そんな色物だらけのオートスコアラーにおいて唯一の癒し枠と呼べるのが、よりによって4人中最強のパワーを持ち、いかにも怪物然としたビジュアルを持つミカ・ジャウカーン (CV.井澤 詩織)
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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ  

「~だゾ!」というどこぞの幼稚園児のよう口調の通り子どもっぽい人格の彼女だが、それだけに純粋で、なぜか4人の中で最も安心して見ていられるオートスコアラー。出番が他3人より遅いこともあってか語られなかった側面が多く、Blu-ray特典のショートアニメや裏設定などで多くのファンを葬ったという、いろんな意味で「最強」と呼べる存在だ。 

……と、簡単に並べただけでもその色物っぷりが凄いことになっているオートスコアラーたちだが、彼女たちの共通の魅力として挙げられるものに、その「圧倒的な強さ」がある。

 

 

その「強さ」を真っ先に見せ付けたのは、EPISODE 1『奇跡の殺戮者』において翼とマリアを襲撃したファラ。 

装者最強格の翼相手に互角以上の戦いを見せるばかりか、翼の新技『風輪火斬 月煌』にノーダメージ……という有様は、およそ初回で現れる敵のそれではなく、ネームドエネミーの登場に3話ラストまで待たなければならなかった第1期、そしてむしろF.I.S.の3人の方が響たちに怯えていた『G』とは比較にならない緊張感を生み出していた。 

続くEPISODE 2『世界を壊す――その前に』ではレイアがクリスを襲撃。超巨大な謎の存在=レイアの妹という更なる脅威が示唆される中、文字通りの「異常事態」が翼とクリスを追い詰める。

 

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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ

「どういうことだ!?」
「2人のギアが、分解されています!」
「ノイズでは……ない!?」
「アルカ・ノイズ……。何するものぞ、 シンフォギアァァァァーーーッ!!」

 

全国の適合者が息を呑んだであろうこのシーン。待っていたのは、なんと2話にして、それもノイズによって「翼とクリスがシンフォギアを破壊される」という衝撃の展開だった。 

オートスコアラー、レイアの妹、そして新型ノイズ=アルカ・ノイズ。開幕からこれだけの脅威を叩き付けてくる『シンフォギアGX』は、リアルタイム視聴時は毎話のように「どうするんだこれ……どうなるんだ……」とハラハラさせられていたし、この「新たな敵の圧倒的な強さに震える」スリルは、まさしく「少年漫画の新章」のそれと非常に近いものだったように思う。 

そして、そんな最初からフルスロットルな本作を更に加速させていくのがF.I.S.組=マリア、調、切歌3人の奮闘だ。

 

 

絶体絶命の危機に陥った翼をマリアが救出する一方で、クリスの元に駆け付けたのは調と切歌。2人は、なんとLINKERを使わずにシンフォギアを装着、間一髪のところでクリスを助け出す。 

 

アガートラームが破損したままのため、ギアを纏えない状況で奮闘するマリア。そして、LINKERを介さない状況で、その身を賭してクリスを救おうとする調・切歌!「圧倒的な脅威を前に、かつての敵が不完全な力で立ち向かう」だなんて、ただでさえロマン溢れる展開なのに、『シンフォギアG』を踏まえるともう熱すぎて頭がおかしくなりますよこんなの……!! 

オーバーキルサイズ・ヘル

オーバーキルサイズ・ヘル

 

シンフォギアG』が「第1期で見たかった」ものをこれでもかと詰め込んでくれた作品であったように、『G』で見たかったものがこれでもかと詰め込まれているのも『シンフォギアGX』の大きな魅力。 

それをEPISODE 3時点でこんなに贅沢に見せてくれるのも『G』譲りだが、『GX』はそこから休む間もなく更にエンジンをかけていく。

 

 

ギアを破壊された翼とクリス、そして「守るための力で誰かを傷付ける」ことへの恐れで歌えなくなってしまった響。彼女の手から離れたガングニールを代わりに掴み取ったのは、なんともう一人の「ガングニール」適合者=マリア!  

f:id:kogalent:20221112214909j:image引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ   

「『ガングニール、再び』というサブタイトルから、響の復活が予想されること」を完全に逆手に取ったまさかの展開とダブルミーニング。これには当時本当に驚かされたし、ダメ押しとばかりにちゃんと『烈槍・ガングニール』が流れたり、マリアの纏う黒いガングニールが「マントがなく、所々にオレンジ色が入っている」というイレギュラーな姿であるなど、オタクのフェチズムをこれでもかと刺激してくるそのこだわりようには、7年経った今見ても変な声を上げて唸ってしまう。 

「イレギュラーな不完全態が、前作要素を引っ提げて事態を打開する」という奇跡みたいなシチュエーションは『G』の翼が旧式ギアを纏うEPISODE 12が100億点を叩き出していただけに、まさかそれに匹敵するものを、しかもこんな序盤で見せてくれるとは思っていなかった。シンフォギアGX万歳!!!!!!!!!!

 

烈槍・ガングニール

烈槍・ガングニール

 

こうして「F.I.S.組のその後」という本作に求められていた高いハードルをいとも容易く越えてくる『シンフォギアGX』だけれど、本作の巧さはそれらの要素がしっかりとストーリーとして練り上がっていること。それを象徴するのが、EPISODE 5『Edge Works』におけるマリアのこの台詞だろう。  

「2人を連れ戻せッ!これ以上は……」
「やらせてあげてください。これは、あの日道に迷った臆病者たちの償いでもあるんです」
「臆病者たちの、償い……?」
「誰かを信じる勇気がなかったばかりに、迷ったまま独走した私たち。だから、エルフナインがシンフォギアを甦らせてくれると信じて戦うことこそ、私たちの償いなんです!」

キャロルからの離反者=エルフナイン (CV.久野 美咲) によって響・翼・クリスのシンフォギア復活が進められる中、時間稼ぎの為にLINKERを連続投与して戦う調と切歌。そんな2人を誰より案じ、自分だけが戦えない悔しさに唇を噛み切りながらも「それこそが自分たちの償い」と、2人の覚悟を尊重するマリア。 

そう、本作前半における彼女たちの奮闘は、シリーズ視聴者へのファンサービスというだけでなく、他ならぬ彼女たちによる「償い」として、物語上不可欠なものとして描かれているのである。 

 

そんな決死の覚悟で、オートスコアラー最強とされるミカ相手に戦う調と切歌。この防衛戦では調の歌=『ジェノサイドソウ・ヘヴン』が初披露されたのだけれど、切歌の歌『オーバーキルサイズ・ヘル』に続いてこの歌が解禁されたということは、ある問題について「答え」が出ることを意味している。 

オーバーキルサイズ・ヘル

オーバーキルサイズ・ヘル

ジェノサイドソウ・ヘヴン

ジェノサイドソウ・ヘヴン

 

やはり似ている、この2つの歌。 

それが意味するところは一つしかなく、スタッフもそのことは分かっていたのだろう。なんと『ジェノサイドソウ・ヘヴン』が解禁されたこのEPISODE 5において、「それ」もまた早々と解禁されることになる。 

Just Loving X-Edge

Just Loving X-Edge

 

調と切歌のLINKER再投与と共に流れ出す『Just Loving X-Edge』! 前作の『Edge Works of Goddess ZABABA』を継ぐ、2人の歌が1つになった新ユニゾンだ。 

マリアの先の台詞からここに繋がる熱いシチュエーション。この歌を勿体ぶらず即断即決で解放することで逆にインパクトを与える名采配。これらの展開を暗示していた『Edge Works』という粋なサブタイトル。そして何より、装者最年少の2人が、このユニゾンによってオートスコアラー最強のミカの喉元に迫るという手に汗握る名バトル……!! 『シンフォギアG』でシリーズの虜になった身としては、一から十までが感涙ものだったし、だからこそ「それでも調・切歌がミカに及ばない」ことの絶望感はひとしおだった。  

「誰か……助けてほしいデス……! 私の友達、大好きな調を……! 誰かぁーーーっ!!」
「“誰か” だなんて、ツレねぇことを言ってくれるなよ」
「剣……!」
「ああ。振り抜けば、風が鳴る剣だ――!」

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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ

 

2人の奮闘が実を結び、遂に成し遂げられた「翼とクリスの復活」!そして、この最高のシチュエーションを彩るのはまさかまさかのつばクリデュエット=『BAYONET CHARGE』! 

BAYONET CHARGE

BAYONET CHARGE

 

調と切歌の奮戦が無駄でなかったことも、2人を救う翼・クリスそれぞれの台詞の “粋” っぷりも、『G』で待望していた翼×クリスの歌が流れる (しかも黒バックスタッフロールでの初披露という厚遇ぶり!)  と、もう現段階で何度言ったか分からないけれど、最高……本当に、本当に最高……! 全てにありがとうシンフォギアGX……!! 

EPISODE 1の時点でこれ以上ないような熱さを見せてくれたのに、そこからこのEPISODE 5まで、毎話のように天井知らずの熱さを叩き付けてくる本作は、改めて見てもやはり非常に稀有な作品と言えるだろうし、少なくとも、この時点での面白さは間違いなく『シンフォギア』シリーズトップクラスと言えた本作。しかし「更に、この上」があると、この先にこれ以上の熱さが待っているなどとは、当時の自分にはとても予想できなかった。

 

 

調・切歌に代わり、アルカ・ノイズを一蹴した翼とクリス。その前に立ちはだかったのは、なんと大人へと姿を変え、神話の竪琴・聖遺物「ダウルダブラ」のファウストローブを纏ったキャロル。シリーズの折り返し地点でラスボスと相対するという熱い展開ではあるものの、オートスコアラーたちをも上回るキャロルの力に2人は苦戦を強いられる。 

そんな2人の元に駆け付けるは、復活したガングニールを纏う響!再び集結した3人は、強化型シンフォギアに秘められた新たな力を解放する。 

 

それは、シンフォギアの決戦機能「暴走」を、エルフナインが奪取した聖遺物「魔剣・ダインスレイフ」の力=「イグナイトモジュール」にて制御するというもの。 

自らの心の闇と向き合うという試練を乗り越え、3人が手にしたのは、禍々しくも美しい「黒いシンフォギア」! そして、流れ出すのは『RADIANT FORCE』……ではなく、その新たなアレンジこと『RADIANT FORCE (IGNITED arrangement) 』! 

RADIANT FORCE(IGNITED arrangement)

RADIANT FORCE(IGNITED arrangement)

 

シンフォギア同様、禍々しくアレンジされた『RADIANT FORCE』をバックに、キャロルの放った3000体ものアルカ・ノイズを「たかだか3000ッ!!」と蹴散らす3人。天使のようなエクスドライブに対し、悪魔のような姿を取るイグナイト。もはや不穏さを隠そうともしないその有り様には、しかし、それでも「カッコよさ」が勝っていた。 

それもそのはず、何せこのイグナイトは「代償を伴う強大な力」「闇堕ちのようなデザイン」「荒々しい戦闘スタイル」「ラスボスに新たな力で挑む」「変身することで既存曲がアレンジされる」という、不穏さを補って余りあるロマン要素のフルコース。この先何が起こるかよりも、今目の前で繰り広げられている極熱展開に喜び、叫び、発狂するしかなかった。 

熱い要素がてんこ盛りだったが、ずっと「オートスコアラーたちにしてやられてきたまま」だったEPISODE 1~5。それらの雪辱を晴らすというカタルシスも相まって、このEPISODE 6の盛り上がりは、シリーズでも指折りのもの。この瞬間、『シンフォギアGX』は間違いなくこれまでのシンフォギアシリーズを越え得る最高のポテンシャルを形にして見せ付けてくれたのである。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ


こうして見ると、まさに「完全無欠」な『シンフォギアGX』。しかし、皆様覚えているでしょうか、記事冒頭で本作を『PVがブチ上げたハードルを越えていくシリーズ最高峰の熱量と、シリーズでもトップクラスの事故ぶりが同居する……という「一長一短」が極まったかのような劇薬』と評したことを。 

そう、ここまでほぼ完全無欠の盛り上がりを見せてきた『シンフォギアGX』は、ここから急転直下、シリーズでも希に見るほどの事故を連発してしまうことになる。

 

Exterminate

Exterminate


まず挙げられるのが、そのものズバリ「ストーリーが一気に盛り下がる」こと。そんなまさか……と思われるかもしれないが、視聴当時の自分もそう思っていた。「ここまでずっと面白かったのに、ここまで盛り下がる」だなんて思っていなかったし、信じたくなかった。けれど、本当に盛り上がらないのだからしょうがないのだ。 

最も大きな問題は、EPISODE 7『輝きを継ぐ、君らしく』から、EPISODE 10『こんなにも、残酷だけど』が非常にワンパターンな展開になっていることだろう。

 

 

ここまで描かれてきた『シンフォギアGX』の面白さの肝は、敵であるオートスコアラーたちの強さや、それに伴う緊張感、状況をどう打開していくのかというスリルやカタルシスだった。その現状に風穴を開けたのがEPISODE 6『抜剣』で解放されたイグナイトという切り札であり、EPISODE 7以降は各オートスコアラーとの「決着編」となっていく。 

そのこと自体は特に問題ではないだろう。バトルものの作品において「今のままでは敵わない強敵の出現」→「新たな力で逆転」という展開は王道中の王道であるし、シンフォギアがそれをなぞることには何の問題もない。問題だったのは、その「やり方」と「尺不足」だ。

 

 

そもそも、何かが狂い始めたのはEPISODE 7冒頭、あっさりとマリアのギア=アガートラームが復活したことだった。 

『G』最終回で起きた奇跡でようやく起動したものの、これまでずっと復活しなかったアガートラーム。それが「他の装者が戦えない状況下」のような特段のお膳立てもなくあっさり蘇り、あまつさえ、そのデビュー戦においては特段の活躍もないままイグナイトモジュールを使用、制御できずに敗退するという醜態を晒してしまう。しかも、その後にガリィを倒したのもアガートラームというよりイグナイトモジュールの力であり、結果的に「アガートラーム」の特別感は地に堕ちてしまった。 

長いこと勿体ぶってしまったためハードルが上がってしまったが、製作陣はそのハードルを認識さえしていなかった(か、あるいは分かった上でスルーせざるを得なかったか)……というこの悲劇。なぜこんなことになったかの理由は明白で、とにもかくにも「ノルマが多すぎる」ことに尽きるだろう。

 

・マリアがガリィを倒す 

・アガートラームが復活する 

・マリアがイグナイトを制御するために、何らかの心の闇を乗り越える必要がある 

・それだけのストーリーが必要

 

この4つをたったの20分で描くのは土台無理な話で、その結果としてアガートラームはあっさり復活してしまうし、せっかくの新曲=『銀腕・アガートラーム』も、イグナイト前のかませ犬のような役割に甘んじてしまっていた。 

しかし、悲しいのはそんな本エピソードがそれでも「良い方」であること。というのも、本エピソードで描かれたマリアの「答え」=「自分の弱さを受け入れ、弱いままで強くなる」というのは『G』の顛末を踏まえた、マリアらしい成長の形として非常に説得力のあるもので、自分がエルフナインにかけた言葉が巡り巡ってマリア自身に答えをもたらす……というシチュエーションも胸を打つものになっていたからだ。残る3話では、そんな「ストーリー部分の魅力」さえもどんどん危うくなっていく。

 

 

マリア同様「まだ良い方」と呼べるのが、翼のエピソードであるEPISODE 9『防人の歌』。 

これまで裏設定だった「風鳴家」について初めて本格的に触れられる重要エピソードであり、翼と彼女の父親= 風鳴八紘(CV.山路 和弘)との和解が描かれることになる……のだが、そもそも、八紘は『GX』からの登場であり、2人の確執も作中で数度触れられた程度。その深堀りと和解をたった20分でいっぺんに消化するというのはかなり際どい荒業であり、エピソードそのものの魅力とは裏腹に、どうしても物足りなさが否めなかった。 

更に、その物足りなさ=消化不良感を高めているのが本作序盤で強豪としての存在感を発揮していたオートスコアラー=ファラがあっさりと退場してしまうこと。 

Beyond the BLADE

Beyond the BLADE

 

剣と定義されるものを破壊するソードブレイカーに対し、自身を「剣ではなく、夢へ羽撃く翼と定義する」ことで突破する……というロジックには唸らされるものの、絵面の印象としては「イグナイトの力で勝った」ようにしか見えないのが辛い所。EPISODE 7のマリアVSガリィも然り、ただでさえストーリーが尺ギリギリに詰め込まれた内容なので、決戦シーンではイグナイトモジュール発動からすぐに決着が付いてしまう=イグナイトの力で勝ったように見えてしまい、シチュエーションとしてはEPISODE 6でのキャロル戦の焼き直しのようになってしまう。 

そのためEPISODE 7以降の本作は、ずっと見せてきた「右肩上がり」が打ち止めになり、更に「誰かの主役回→その装者と縁のあるオートスコアラーと対決→イグナイトで倒す」というテンプレートが浮き彫りになってしまうため、前半の魅力だった「スリルとカタルシス」も減退。結果、本作の面白さは「打ち止め」どころか徐々に右肩下がりになってしまうのである

 

しかし、前述の通り翼とマリアのエピソードはまだ良い方。深刻なのは残る4人=調、切歌、クリス、そして響だ。

 

Just Loving X-Edge(IGNITED arrangement)

Just Loving X-Edge(IGNITED arrangement)

 

EPISODE 3などで過去の自分たちの行動を振り返り、「変わりたい」と願っていた調と切歌。子どもらしい大胆さの中に成長した顔を見え隠れさせていた2人だけれど、このEPISODE 8ではそれが退行、盛大に喧嘩を始めてしまう。 

2人の喧嘩と言えば『G』のクライマックスもそうだったし、そもそも『G』は中盤以降キャラクターたちが頻繁にすれ違っていた作品。しかし、お互いがお互いへの善意のために悩み、すれ違い、ぶつかっていた『G』に対し、本作のそれは「お互いへの善意」がどうにも伝わってこないのだ。 

事の発端は「ミカの攻撃に晒される響と切歌を、調が防御した」こと。誰かが攻撃を受けようとしたら、手の空いている誰かが守る……というのはシンフォギアシリーズでもよく見かける光景だったけれど、ここで切歌は調に憤慨、対する調も「自分が足手まといってこと!?」と逆上してしまい、2人はものの見事に険悪になってしまう。
曰く、切歌は「大切な調が実を呈して自分を守ったことが許せなかった」とのことだけれど、だからといって理由も言わずに調を責め立てる切歌も、そんな切歌の様子に疑問も持たず怒る調も、これまで……とりわけ、輝いていた本作前半の彼女たちから、むしろ精神的な成長が逆行しているように感じられてしまう。

 

 

そんな調&切歌と (非常に残念なことに) 似た状況に陥ってしまうのが、やはり本作前半で魅力的な活躍を見せていたクリス。 

彼女はEPISODE 3で調と切歌に助けられ「守るべき後輩に守られた」ことに悔しさを滲ませており、自分の至らなさから彼女たちを失ってしまうことを恐れていた……が、彼女はEPISODE 6でその心の闇と向き合い、乗り越えたからこそイグナイトの力をものにした。ハズだった。 

しかし、EPISODE 10においてクリスはその怯えから抜け出せていなかったどころか悪化していることが発覚。自分が後輩を守らなきゃ……と躍起になるあまり調を誤射しかけたり、「深海の戦いなのだから、慎重に戦え」という弦十郎の至極真っ当な指摘に逆上したりと、こちらもやはり精神的な成長が盛大に逆行していた。自分の身勝手を「先輩」である翼に救われたあの時に何を学んだのか……と、『G』での翼とクリスの物語が好きなだけに悲しくなってしまうし、没入感が大きく削がれてしまったのは極めて残念だった。

 

TRUST HEART

TRUST HEART

(クリスの歌『TRUST HEART』は個人的にクリスの歌で一番のお気に入りなのだけれど、この曲名でこの醜態を晒してほしくはなかった……)

 

このように、本作の「歪み」の犠牲になってしまっていたクリス、調、切歌。しかし、本作でその歪みが最も響いてしまっていたのが、誰あろう主人公=立花響だった。 

限界突破 G-beat

限界突破 G-beat

 

本作における響は、主に2つの問題に悩まされていた。1つは「人助けの為の力で戦いたくない」という葛藤、もう1つは父親=立花洸 (CV.関俊彦) を巡る問題。この2つの命題にたった1クールで向き合わされた皺寄せなのか、本作の響は非常に不遇……というか、響周りの印象が極めて良くないというおよそ主人公らしくない事態に陥ることになってしまう。

 

最初の問題はEPISODE 3。「キャロルを相手に戦いたくない」ということについて、響はこう説明している。  

「戦わずに分かり合うことは……できないんでしょうか」
「逃げているの?」
「逃げているつもりじゃありません! だけど、適合して、ガングニールを自分の力だと実感して以来、この人助けの力で誰かを傷付けることが……凄く嫌なんです」
「それは、力を持つ者の傲慢だ!」

第1期では、クリスを相手に「相手が人なら、戦うよりも話をしたい」と言い、『G』でもF.I.S.を前に「話し合おう」と提案した響。自分の拳で人を傷付けたくない、というのは彼女がずっと抱えてきた葛藤だったけれど、それでも彼女は「そんな理屈で通るほど世の中は甘くない」ことを知っているからこそ、クリスやF.I.S.を止めるべくその拳を振るってきた。その響が、キャロルを相手にこれまで以上の拒絶を見せる理由が件の台詞なのだけれど、なかなかどうして印象が良いとは言い辛い。 

響の言うことも筋は通っていて、彼女が人助けの為にガングニールを使うことでどれだけ満たされていたかはEPISODE 1の彼女の笑顔が物語っているし、「適合して意識が変わった」というのも分からなくはない。とはいえ、翼やクリスが戦線離脱、調や切歌のためのLINKERもなく、戦えるのが響だけ……という状況でそんなことを言うのは、マリアの言う通り「傲慢」であるし、「私に任せてください!」と答えつつ、影で悩んでいるところを未来にバレてしまうのが立花響ではなかっただろうか。 

続くEPISODE 4において、この葛藤のために歌えなくなってしまった響は「響のガングニールを纏ったマリア」によって助けられる。しかし、響はそのことに礼さえ言わず「私のガングニールですッ!」とマリアからガングニールを奪い取る。LINKERを用いないギア運用で血を流すマリアを前にそんな無礼を働く響なんて見たくなかったし、これはもう、調や切歌、クリスと同じ「精神的成長の逆行」が起きているように思えてならないのだ。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ  

 

EPISODE 4終盤、響は未来の「自分は響の拳で救われた」という言葉で復活、自分が「力の持つ責任から逃げ出そうとしていた」と自覚し葛藤を乗り越えるが、間もなくして「父親との再開」というイベントが発生し、結果、今度は響に「尺不足」という問題が襲いかかってしまう。 

 

響の父親として、実はその存在は『G』の段階で既に設定されていた (上記リンク参照) 立花洸。この解説を読むと仕方ないことだと思えてしまうが、それはそれとして、その振る舞いに響が憤るのもまた仕方のないことと言えるだろう。しかし問題なのは、そんなドン底の洸周りを「持ち上げる」為の積み立てがないせいで、せっかくの響の大舞台が盛り上がりに欠けたものになってしまったことだ。

 

 

EPISODE 7『輝きを継ぐ、君らしく』で響と再会、以来「家に戻りたい」と響に仲介役を頼み込むようになった洸。しかし、「自分から家に戻るのは男としてのプライドが許さない」と堂々と響に宣言したり、娘である彼女に食事を奢らせたりと、そのクズっぷりは散々なもの。そして、洸が一向に改心の様子を見せないまま突入したEPISODE 11『へいき、へっちゃら』で事件は起こった。

天から現れたキャロルの居城=チフォージュ・シャトーを呑気に写真に収める洸。しかし、キャロルが洸の「情けない父親」ぶりに痺れを切らし、彼を攻撃し始めるとその様子は一変する。  

「響! 今のうちに逃げろ! 壊れた家族を元に戻すには、そこに響もいなくちゃ駄目なんだ!……うわあッ!!」
「お父さん!? ……お父さぁん!!」
「これくらい……へいき、へっちゃらだ」

突如、数分前まで響に「自分から切り出すのは怖い」とか「男としてのプライドがある」とか宣っていたとは思えない気概を見せ始める洸。そして流れ出すBGM (名曲)『抜剣――ダインスレイフ』。  

「逃げたのではなかったのか?」
「逃げたさ、だけど、どこまで逃げても、この子の父親であることからは逃げられないんだ!」
「お父さん……」
「俺は生中だったかもしれないが、それでも娘は本気で、壊れた家族を元に戻そうと、勇気を出して向き合ってくれた!だから俺も、なけなしの勇気を振り絞ると決めたんだ!響、受け取れッ!!」

キャロルに石を投げる……と見せかけて、弾かれた響のギアペンダントを投げ渡す (=キャロルを響から引き離し、その攻撃を回避しつつ、ギアペンダントの方向に走っていた……!?)  という驚異的な男気と知略を見せる洸。彼からペンダントを受け取った響は、爆風の中で聖詠を口にする。  

「響ッ!」
「――へいき、へっちゃら」
「響……?」
「私、お父さんから大切なものを受け取ったよ。受け取っていたよ……!

リトルミラクル -Grip it tight-

リトルミラクル -Grip it tight-

 

流れ出す『リトルミラクル −Grip it tight−』。祈りのような歌声が涙を誘う名曲だけれど、どうしても、どうしても洸の豹変ぶりが飲み込めず、響に感情移入できない……! 洸お前、数分前まで響の「避難誘導を手伝って」という言葉を無視してチフォージュ・シャトーの写真撮ってただろ……!! 

おそらく「響が危機に瀕したことで、父親としての想いが蘇った」のだろうけれど、それにしても、それを感じさせるやり取りや洸の顔つきが変わるカットとか、そういったものが何もないので、どうしても洸の変わりようを「豹変」と言いたくなってしまうし、結果的に、響とキャロルの対立軸を「奇跡」と「父親」で二分し、ややこしくするというデメリットの方が大きく感じられる結果になってしまっていたように思う。 

洸役・関俊彦氏の名演もあって、上記の「逃げろ!」のくだりから見ると感動の名シーンになっているし、それだけに勿体無いこの一連。これもまた、洸の心情の変化を描くだけの余裕がなかった尺不足が祟ったものであろうし、そう考えると、響は「精神的な成長の逆行」と「尺不足」という、他の面々が被った被害を二重で受けてしまった、本作最大の被害者と言えてしまうかもしれない。

 

限界突破 G-beat(IGNITED arrangement)

限界突破 G-beat(IGNITED arrangement)

 

こうして、EPISODE 7からEPISODE 11にかけて、5話連続でどうにも盛り上がれない回が続いてしまった『シンフォギアGX』。もはやここからの挽回は不可能と思われていた……のだけれど、それでも本作は、最後の最後にその汚名を返上する輝きを「2つ」見せてくれた。その1つが、序盤から続いていたF.I.S.組の物語の結末である。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ

 

異端技術に関連した危険物や未解析品を収める管理特区――通称「深淵の竜宮」がキャロルとレイアに襲撃されたことで解放されたウェル博士。SNSは彼の復活に大騒ぎとなっていたけれど、個人的には、ここ数週間の『シンフォギアGX』が上記のような状態だったことに加え、作品全体の悪ノリが多かった (執拗な翼の胸いじりや、敢えてそうしているとしか思えない下ネタめいた台詞の多さなど) こともあって、ここでのウェル復活に感じていたのは「驚き」と、それ以上の大きな不安。 

しかし、だからこそ、本作終盤の彼が見せた動きは心から歓迎する「予想外」だった。

 

 

あらゆる聖遺物と融合し、制御できるネフィリムの左腕を買われ、チフォージュ・シャトーに同行するウェル。しかし、相変わらずの英雄願望から「世界を解剖する」というキャロルの目的に反発した彼は、キャロルの不意打ちで重症を負ってしまうことになる……と、この時点でも大概驚かされたのだけれど、更に驚いたのは、チフォージュ・シャトーを止めるために乗り込んできたマリア、調、切歌の前に彼が現れ、共闘を持ちかけたこと。 

その提案内容は「キャロルが響、翼、クリスと戦っている間にチフォージュ・シャトーのプログラムを書き換え、解剖された世界を再構築する」というもの。ここにきて「ウェルとマリア、調、切歌が共闘する」というシチュエーションが実現すること、そして、ここで満を持してマリア・調・切歌のユニゾン=『「ありがとう」を唄いながら』が披露されると予想できた視聴者が、果たしてどれほどいただろうか。 

「ありがとう」を唄いながら

「ありがとう」を唄いながら

 

まるで「過去を乗り越える」為の最終試験のように、チフォージュ・シャトーの防衛システムが変身した「黒いガングニールを纏ったマリア」と激突する3人も泣かせてくれるけれど、ともすればそれ以上にグッと来てしまうのが、英雄願望でも正義の心からでもなく、あくまで「自分を葬ろうとしたキャロルへの嫌がらせ」の為に命を懸けるウェルの姿だ。

 

 

前作『シンフォギアG』は様々なテーマを持った作品だったが、その1つが「英雄性の否定」だった。 

響の歌『正義を信じて、握り締めて』でも「ヒーローになんて なりたくない」と歌われているように、響は「ヒーローになりたいから戦っている」訳ではなかったが、しかし、その自分を省みず人助けに奔走する様はまさにヒーロー(英雄)であった。 

一方、もう一人の主人公であるマリアは、響の対極にある「世界のために、革命の英雄になろうとした」存在。しかし、彼女も結果的には響同様に自分をすり減らしながら戦い、失敗を重ね、最終的に「英雄になろうとした自分」を捨て去ることで世界を救うという夢を果たすことができた。そんな『シンフォギアG』において、「英雄になること」そのものが目的であったウェルは、まさに否定されるべき存在に他ならなかったのだ。

 

しかし『シンフォギア』という作品は、ずっと「本当は敵なんていない」ということを謳い続けてきた。おそらく、そのテーマを貫くためにウェルに与えられた「償いの場」こそが、このチフォージュ・シャトーの決戦であり、そこでウェルは「自らの英雄願望を捨て、あくまで嫌がらせのために」その命を賭してみせた。 

結果、無事世界を復元させたものの、キャロルの攻撃によるチフォージュ・シャトーの崩壊で致命傷を負ってしまったウェル。これまでの罪に対する報いのようにも思えるその傷は、マリアを助けるために負ったものだった。  

「ドクター・ウェル!」
「僕が守った……何もかもを」
「まさか、お前……」
「君を助けたのは、僕の英雄的行為を世に知らしめるため……。さっさと行って、死に損なった恥を晒してこい! それとも君は、あの時と変わらない、ダメな女のままなのかい……?」

今にも命が尽きようとする彼は、マリアに一枚のメモリーチップを差し出す。  

「“愛” ですよッ」
「なぜそこで愛……!?」
シンフォギアの適合に奇跡などは介在しない! その力、自分のものとしたいなら、手を伸ばし続けるがいい……!」
「ッ……!」
「マリア、僕は英雄になれたかな……?」
「ああ、お前は最低の――」

幾度となくその命を賭けて戦い、最後には「マリアが、セレナの姿をした幻影を切る」ことでその罪と弱さを清算したF.I.S.の3人。そして、彼女たちと同じ場所で、その命を持って自らの罪を祓ったウェル。皮肉にも、彼は己の英雄願望を捨て去ることで「世界」を守り「仲間」を助けるという、文字通りの「英雄的行為」を成し遂げたのである。   

ウェルは確かに悪人だったけれど、彼が英雄を目指す根底には、きっと「何か」があった……。そう思わせる程度にフォローを留め、彼の悪性を否定したり、なまじ綺麗事にしたりせずに彼を「英雄」として死なせてみせたこのくだり。これがあってこそ、『シンフォギアG』は真の完結を迎えた……と、そう思えてならない。


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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ

 

この『「ありがとう」を唄いながら』に始まる一連のシーンは今でも涙なくして見られないし、正直ウェル博士というキャラクター、そして『シンフォギアGX』を舐めてしまっていたと言う他ない。 

だからこそ、もしかしたら……と思ったのだ。もしかしたら、このアニメは「やってくれる」かもしれないと。 

そんなこちらの期待を受け取ったかのように、EPISODE 12『GX』クライマックスで繰り出される「イグナイト状態での6人絶唱」というとんでもない絵面。そして、キャロルの放つ圧倒的なフォニックゲインも併せた全てを「ガングニールで束ね」「アガートラームで制御」するという荒業、「S2CAヘキサコンバージョン」! 

無尽蔵のフォニックゲインを束ね、マリアと響は天に叫ぶ。  

「ジェネレートォォォォォっ!!」
「エクスッ!!ドラアァァァァァァァァァイブッ!!」

Generate eXdrive。それは、響が束ねた力をマリアが制御し、 負荷をイグナイトで抑えるだけでなく6人に再配置するもの。 フロンティア事変で見せた「奇跡」を6人のコンビネーションと、イグナイトの力=エルフナインの力を持ってして再現するという離れ業だ。  

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引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアGX 公式ホームページ  

EPISODE 1のサブタイトルであり、キャロルが自身を呼ぶ「奇跡の殺戮者」という言葉。それは、疫病から村を救った父、イザーク・マールス・ディーンハイム (CV.遠近孝一) が、その錬金術を「神の奇跡」とすり替えられたばかりか、当のイザークが危険人物として処刑された……という悲惨な過去から来ている言葉だった。キャロルが憎むのは、自分に理解できない物事を拒み、相互理解を焼き払う人間の愚かさ。つまり、キャロルの敵もまた「人と人との不和」であり、彼女にとっての「奇跡」とは、そんな衆愚の象徴だったのだ。 

しかし、対する響たちは、キャロルという最強の存在を前に、お互いの手を繋ぐ「絆」、そして知恵と勇気によってエクスドライブを発動。かつての「奇跡」を自分達の手で「必然」と掴み取ってみせた。それは、かつてのルナ・アタックやフロンティア事変で力を貸してくれた人々への回答――「皆と繋がり合った事実」の確かな肯定であり、かつてイザークを葬られ、人と人との相互理解という錬金術の理想に絶望したキャロルへの回答としての「奇跡のカタチ」でもある。  

「キャロル。生きて、もっと世界を知るんだ。それがキャロルの……」

イザークがキャロルに残した命題。キャロルはその言葉通りに「世界を知るために、世界をバラバラにする」ことを選び、一方エルフナインは、かの命題の答えを「赦し」と取った。 

万象を知ることで世界を解き明かし、バラルの呪詛で分かたれた世界を再び繋ぐこと=人と人とが分かり合う未来こそが錬金術の到達点。そこにキャロルが辿り着き、自らを殺した世界と調和すること。それこそ、キャロルが幸せに生きることを願ったイザークの、父親として託した祈りだったのだろう。 

しかし、その答えにエルフナインが辿り着いたのはきっと偶然ではない。 

そもそも、エルフナインはキャロルのクローンとして失敗作だったために、クローンではなく独立した個体=作業用ホムンクルスとして残された、謂わばキャロルの分身。そんな失敗作に、キャロルはわざわざ記憶まで転送複写してみせた。思うに、それはキャロルが「イザークの残した命題の答えを理解しつつも、それを拒んだ」からだったのではないだろうか。 

殲琴・ダウルダブラ

殲琴・ダウルダブラ

  • キャロル・マールス・ディーンハイム(CV:水瀬いのり)
  • アニメ
  • ¥255
 

父親の為に復讐する自分とは別の「もう一人の自分」が、父親の出した命題に正面から向き合って答えてくれること……。それを願ったからこそ、エルフナインはキャロルが辿り着けなかった、あるいは「辿り着きながらも拒んだ」答えに辿り着き、そんなキャロルの祈りは、巡り巡って響たちにイグナイトという新たな力を与え、自分自身の目の前で憎むべき「奇跡」を生み出してみせた。 

しかし、それはかつてイザークを焼き払った「不和の象徴」ではなく「相互理解の象徴」。キャロルの父イザークへの誠意が、彼女の目の前に「答え」を生み出してみせる……というこの数奇な運命の結末も、また「奇跡」と呼べるのかもしれない。 

Glorious Break

Glorious Break

 

エルフナインの出した答え、「自分を焼いた世界を許してほしい」という父の願いを拒むかのように、巨大な外装に自らを覆うキャロル。心を閉ざす彼女に思いを届ける為に、エクスドライブの輝きを纏った響が出現させる自らのアームドギア、それは巨大な「繋ぐ手」そのもの。  

「立花に力を!天羽々斬ッ!!」
「イチイバル!!」
「シュルシャガナ!!」
「イガリマ!!」
「アガートラーム!!」
「うおおぉぉああぁぁぁぁぁぁっ!! ガングニイイィィィィィーーーーーールッ!!」

父の祈りがキャロルにとって呪いと化してしまったように、当たると痛い響の拳が誰かを救っていたように、スパイとして送り込まれたエルフナインが響たちの希望となったように、過去に血を浴びてきた聖遺物もまた、今は人を救う力。どんな力も、背負った「願い」によって、その意味合いをいくらでも変えていくことができるのだ。 

キャロルと手を繋ぐ為に、仲間の想いと聖遺物の力を束ねて撃ち込む最後の拳『Glorious Break』。それはまさに、これまでのシンフォギアシリーズが描いてきたものを全て背負った渾身の一撃。 

BGMが『Glorious Break』から『Exterminate』にシームレスに繋がるという『シンフォギア』らしさが詰まった演出に乗って、響とイザーク、そしてエルフナインが伸ばした手を最後の最後でキャロルが取ったこと。そして、そのおかげでキャロルが生き永らえ、エルフナインと共に命を繋げたこと……。これら、『シンフォギアGX』の壮絶かつ胸を揺さぶるクライマックスは、これまで述べてきた数々の負債を返上して余りある程のもの。 

どこまでも極端な紆余曲折を描いてきた本作は、確かに手放しで褒めることはできない作品だけれども、その中に流れていた熱い血潮と魂は間違いなく他のシリーズを凌駕するものであったし、だからこそ、自分はこの『シンフォギアGX』に今でも魅せられているのだろうと思う。

 

Rebirth-day

Rebirth-day

  • 高垣 彩陽
  • アニメ
  • ¥255

 

放送から7年が経ち、ようやく……というより、この記事を書いてようやく、自分は『シンフォギアGX』に正面から向き合うことができたし、胸を張って「好き」だと言えるようになった。 

当時の自分は、本作が期待していたものと違ったことで落ち込んでしまい、その後の『AXZ』『XV』も(これらもこれらで手放しには褒められない完成度だったこともあって)どこか自分の中で受け入れられずにいた。しかし、どんなものも「願い」次第でいくらでもその意味を変じていくものと教えてくれたのがこの『シンフォギアGX』。来るシンフォギアライブに向けて、引き続き、残る2作品にも全力で向き合っていきたい。

 

それでは、最後に『戦姫絶唱シンフォギア 10周年記念展 -繋ぐ手と手-』でも上映されたシリーズ屈指の人気シーン、もとい、古今東西、全てのアニメ作品を超越する世界最高完全無欠のプロローグを見届けて、この記事を〆としたい。

 


(動画の5:10~頃から始まる、「ベスト・オブ・シンフォギア 1位」のシーンをご覧ください!)

 

ありがとうシンフォギア、ありがとうシンフォギアGX……!!!! 

 この奇跡に光あれええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!

 

RADIANT FORCE

RADIANT FORCE

総括感想『戦姫絶唱シンフォギアG』“繋いだ手” が紡ぎ出す、暖かな希望とシリーズの到達点

戦姫絶唱シンフォギア』のTVアニメ5作品のうち、最も印象深いものは? と訊かれたら、皆さんはどの作品を挙げるでしょうか。自分なら、いつ誰に訊かれても迷いなく挙げるのが第2期=『戦姫絶唱シンフォギアG』。

 

「前作『戦姫絶唱シンフォギア  (第1期)  』を友人に見せて貰った自分にとって、シリーズ初めてのリアルタイム作品だった」という思い入れも確かにあるけれど、それを差し引いても「人生ベスト級の大傑作」だと言える程に面白く、文字通りドハマりしていた本作。どのくらいハマっていたかと言えば、初めてアニメのBlu-rayを揃えたり、初めてライブに申し込んだりした (※落ちました) 程で、放送10周年を目前にした今もその輝きが全く色褪せていないことには、それだけでつい涙が出そうになってしまう。

 

今回は、そんな名作=『戦姫絶唱シンフォギアG』の魅力を振り返る、シンフォギアシリーズ10周年記念記事第2弾。同作を知る適合者もそうでない方も、ついてこれるヤツだけついてこいッ!!  

 

kogalent.hatenablog.com

(第1期の解説はこちらの記事からどうぞ!)

 


※以下には『戦姫絶唱シンフォギアG』と前作『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

戦姫絶唱シンフォギアG』は、2012年の冬期アニメとして放送された前作『戦姫絶唱シンフォギア(第1期)』の終了から約1年半後、2013年7月から3ヶ月間に渡って全13話が放送されたTVアニメ作品。 

前作の3ヶ月後を舞台に、特異災害対策機動部二課所属のシンフォギア装者たち=立花響、風鳴翼、雪音クリスらと、黒いガングニールを擁する武装組織「フィーネ」との戦いを描く本作。その魅力として真っ先に挙げられるのが、前作から大幅にブラッシュアップされたビジュアルだろう。 

 

こちらの動画や上記のCDジャケットの通り、本作はビジュアル面が従来のものから大幅にパワーアップ。キャラクターデザインの変更は賛否ある (自分は変更後の方が好み) が、前作から大きな進化を遂げたスピーディーなアクションや、ケレン味のある画作り、表面処理が大幅に変わり “未知の怪物” としての説得力が増したノイズなどについては、順当なグレードアップとして高い評価を集めている。

 

 

(変身バンクも超絶進化。クリスの「ばぁーん!」に射抜かれた群雀は数知れない……!)

 

更に、具体的な「変化」と言えば見逃せないのが響・翼・クリスの纏うシンフォギアのバージョンアップ。 

撃槍・ガングニール

撃槍・ガングニール

正義を信じて、握り締めて

正義を信じて、握り締めて

 

この2枚を見比べれて頂ければ一目瞭然だが、彼女たちのギアは白と黒が基調のものから白をベースにしたものへと大幅にデザインが変更されており、特に響のギアにはなんともヒロイックなマフラーが追加。 

槍型のアームドギアありきのデザインだったため、徒手空拳の響ではどこか不完全態感が拭えなかった第1期のものから、より格闘戦が映えるものにモデルチェンジしたこのギアデザインは、(第1期から跳ね上がったイケメンぶりと併せて) 彼女の人気にも大きく貢献していた。

 

ちなみにこのモデルチェンジ、当初は特に作中で言及されないため「敵のシンフォギアが黒いので、区別がつきやすいようにデザインが変更された」だけかと思われていたが、作中終盤にて「このデザイン変更は “ギアのバージョンアップがなされた結果” であった」ことが発覚。この事実が、とあるシーン (後述) において重要な意味を持つこととなる。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ


一方、ビジュアル面と並んで大きく進化した点として挙げられるのが、『シンフォギア』シリーズには欠かせない楽曲群。前作で作品の方向性がハッキリしたためか、BGMがより洗練されたものになっているほか、シンフォギア装者たちの歌もより個々のキャラクター性に紐付いたものとなっている。  

その変化が特に顕著なのが、翼の歌うこちらの2曲。 

絶刀・天羽々斬

絶刀・天羽々斬

月煌ノ剣

月煌ノ剣

 

『G』での翼が歌う『月煌ノ剣』は、しがらみから解き放たれた翼の成長を反映するように、第1期の『絶刀・天羽々斬』よりも明るく軽快なリズムに仕上がっているのが特徴。しかし、それ以上に目立つのは、三味線の音や

「防人の歌は 風林火山 念仏はもう 唱え終わったか?」

という歌詞など、全編に渡って彼女を象徴する「和」のテイストが取り入れられていること。
キャラクターとの親和性は勿論、各々の楽曲が異なるベクトルに特化して一層の独自性を持つことは、様々な歌が交錯する『シンフォギアG』における演出上の必然とも言えただろう。

 

 

こうして、進化を遂げた『シンフォギアG』のビジュアルと楽曲群。その効果は初回から遺憾なく発揮されており、EPISODE1『ガングニールの少女』では、開幕早々「超絶作画でノイズと戦う響&クリス」という画が飛び出し、ヒーローソングの王道を見せる (涙が出るほどカッコいい) 響の新曲『正義を信じて、握り締めて』と併せて大きな話題を呼んでいた。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

更に、続くEPISODE2『胸に力と偽りと』においては、無限に増殖する強力なノイズを前に響・翼・クリスの3人が最大火力のフォーメーション「S2CAトライバースト」を発動。3人が同時にシンフォギアの最終兵器「絶唱」を使用し、それを響が束ねることで、最大級の火力として解き放つという超大技だ。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

「Superb Song!」
「Combination Arts!」
「Set, Harmonics!」

3人同時絶唱、トライバースト専用に変形する響のシンフォギア、そして流れ出すシリーズ屈指の名BGM『S2CA/Voltage Maximum』!!

「これが私たちの……! 絶唱だぁぁぁぁッ!!」

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ


落涙……! ただひたすらに、落涙……ッ!!!!  

何度見ても、あまりの熱量に思わず涙してしまうこのシーン。そう、様々なブラッシュアップの結果、2話にして最終回クラスの圧倒的な熱量を叩き付けてくるとんでもないアニメ、それが『シンフォギアG』なのである。

 

(『S2CA/Voltage Maximum』が気になる方、是非こちらのBlu-ray特典のサウンドトラックをお聴きください……!)

 

こうして、序盤から早々にその「進化」ぶりを見せ付ける『シンフォギアG』。しかし、本作を語る上で何より欠かせないのは、やはり新たな敵として立ちはだかるシンフォギア装者たちの存在だろう。  

響たちと相対するシンフォギア装者=マリア・カデンツァヴナ・イヴ (CV.日笠陽子) 、月読調 (CV.南條愛乃) 、暁切歌 (CV.茅野愛衣) の3人。彼女たちが、本作の敵組織=「フィーネ」に所属するシンフォギア装者である。 

この「フィーネ」という組織の正体は、前作の黒幕=フィーネ由来の聖遺物研究機関である「F.I.S.」。マリアたち3人はこのF.I.S.で育てられ、シンフォギアをはじめとする聖遺物運用試験の被験者となっていた孤児……だったのだが、研究者の一人であるナスターシャ教授 (CV.井上喜久子) に連れ出され、ある目的のために奔走することとなる。 

それは、前作終盤の出来事に端を発する「月の落下」という未曾有の大災害から人類を救済すること。世界の首脳部により隠蔽され、響たち特異災害対策機動部二課さえ知らないこの事実に対し、可能な限り多くの人命を救済する――。それが、どう見ても悪役な彼女たちF.I.S.の真の目的なのである。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

そんな重い使命を背負い、「正義では守れないものを、守るために」と、月の落下という事実を知らない二課の装者とも火花を散らすマリア、調、切歌。 

「実験の被験者だったが故にシンフォギアの扱いに慣れている」というアドバンテージを持っている彼女たち……なのだが、3人は何も生粋の戦士という訳ではないし、彼女たちと同行するナスターシャ、そして組織の専属生科学者であるウェル博士 (CV.杉田智和) も、あくまで単なる一研究者でしかない。そんな素人集団であるF.I.S.が、果たして「人類の救済」という大きなお題目を背負えるのか――というと、背負えないのである。しかし、その「不釣り合いな重荷」こそが、彼女たち、もとい『シンフォギアG』の唯一無二の魅力に繋がっている。 

烈槍・ガングニール

烈槍・ガングニール

 

「フィーネ」……を名乗るF.I.S.、その表向きのリーダーであり、高圧的かつ毅然とした立ち振る舞いが特徴的な女性、マリア・カデンツァヴナ・イヴ。響のガングニールと出自を同じくする「黒いガングニール」を纏い、本作のラスボスらしい風格をこれでもかと放っている彼女だが、このマリアこそがF.I.S.の魅力を体現していると言っても過言ではない存在。というのも……。  

 

この始末。 

一見すると、よくあるネットの悪ふざけ=マリアの行動が視聴者に揶揄された結果かと思われるかもしれないが、ところがどっこい、マリアはこの見た目、この風格でありながら正真正銘のポンコツなのである。そこが良い……!!

 

ただ、マリアがそんなポンコツと化してしまったのは、彼女の「能力が足りなかった」訳ではなく、彼女が「与えられた役割にとことん不向きだった」という、あくまで相性の問題。 

というのも、マリアはこんなカリスマ全開の見た目でありながら、その実非常に温厚で争いを嫌う、ごくありふれた優しい女性。そんな彼女が女王めいた振る舞いを見せるのは、切歌や調を引っ張り、「マム」と慕うナスターシャ教授の期待に応えるため。そして、かつてF.I.S.の実験中に命を落とした妹=セレナ・カデンツァヴナ・イヴ (CV.堀江由衣) の死を無駄にしないため。 

しかし、マリアが結果的に「表面的にはラスボスの風格を出しながらも、その裏で盛大に事故を連発する」……という、一風どころかかなり風変わりなキャラクターと化していたことを考えると、「強い人間」を演じることができるポテンシャルを持ってしまっていたこと自体が、マリアにとって大きな不幸だったのかもしれない。 

例えば、最初の「事故」として挙げられるのが、EPISODE 2『胸に力と偽りと』において、ライブ会場の聴衆を人質に取ったシーン。 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

人々の前でガングニールを纏い、「フィーネ」の名の下に世界へ宣戦布告するマリア。ナスターシャの計画では、おそらくここで月の落下についての情報開示や各国との交渉準備を行うなど何らかの目論見があったのだろうが、人質を前に動けない翼を見かねたマリアは、それを待たずして人質を解放してしまう……だけでなく、その行動を即座にナスターシャから窘められてしまう。  

その後も、民間人に死傷者が出たり、米国政府の罠に掛かった結果 (正当防衛とはいえ) 人間を手にかけなければならなかったりと、様々な形で罪を背負ってしまうマリア。その度に心を折り砕かれて泣き叫ぶ彼女の姿は、米国チャートを席巻する歌姫/世界を救済する武装組織フィーネの首魁という印象とは似ても似つかないもの。そう、彼女はとことんまで悪役が似合わない女性なのである。

 

一方、マリアの表立った立ち振る舞いはそんな「弱さ」とは無縁の、優雅かつ気高いもの。幼い頃から聖遺物実験の被験者だったこともあって極めて高い戦闘能力を持ち、ガングニールを纏った際は「アームドギアを使うことなく、最強の装者=翼と互角に渡り合う」という大金星を挙げていた。 

そんな「強者」としての顔と、まだ幼さを残した「ただの優しいお姉さん」としての顔。そんなギャップこそがマリア・カデンツァヴナ・イヴの真骨頂であるのだけれど、当の本人にとっては、そんな「重荷を背負い、偽りを演じ続ける」在り方は地獄そのもの。 

実際、作中の彼女はほぼ全てのシーンで無理をしているか、もしくは苦しみに顔を歪めており、見ているこちらも次第に「ポンコツ」だの「ただの優しいマリア」だのと言っている心の余裕がなくなってくる。本作後半の重くシリアスな雰囲気は、彼女の葛藤と苦悩によるものが大きいと言っても差し支えないだろう。

 

 

首魁であるマリアがこのようにおよそ「悪役らしくない」F.I.S.。では、残る2人のシンフォギア装者が悪役らしいかというとそんなことはなく、それどころか、問題の2人はむしろ本作の癒し枠として名高い最年少の装者コンビ。それが、鏖鋸・シュルシャガナのギアを纏う淑やかな黒髪の少女=月読調と、獄鎌・イガリマを振るう金髪の天真爛漫な少女=暁切歌の2人だ。  

  古代メソポタミア・キシュ市の都市神ザババが携える一対の武器=鏖鋸・シュルシャガナと獄鎌・イガリマ。そんな聖遺物と惹かれ合った調と切歌は、まるで姉妹のように仲良しで、常に行動を共にする親友同士でもある。 

しかし、彼女たちもマリア同様に「幼くして孤児となった」という悲痛な過去を持つ少女たち。そんな背景のためか、特に調は世界への不信感を強く持っており、響との初遭遇時においては彼女に容赦ない言葉を吐いてみせた。

「話せば分かり合えるよ! 戦う必要なんかッ」
「偽善者……」
「え?」
「この世界には、貴女のような偽善者が多すぎる……! “だから そんな 世界は 切り刻んであげましょう!”」 

(BGMとシームレスに繋がる形で、“だから~” 以降がそのまま歌になるという、シンフォギアならではの巧みな演出が光るシーンでもある) 

鏖鋸・シュルシャガナ

鏖鋸・シュルシャガナ

 

月の落下を知りながら、世間にそれを公表することなく己の利益で動く大人たち。そして、孤児であった自分たちを救ってくれなかった大人たち。閉じた世界で生きてきた調にとって、外の世界とはそんな「敵」が跋扈する世界であり、前作において地球を守り「ルナ・アタックの英雄」と讃えられる響たちが、調にとってそんな大人たちと同じ=「自分の利益のために善を行う偽善者」にしか見えなかったのも、彼女の境遇を思えば頷ける話だろう。

 

獄鎌・イガリマ

獄鎌・イガリマ

 

そして、そんな危なっかしい調のパートナーを務めるのがイガリマの装者=暁切歌。 

無口で少し抜けたところのある調に対し、快活で朗らか、常に調の前に立っている切歌は、一見すると調の姉のようにも見える……のだけれども、彼女の「調のお世話係」としてのメッキは、なんと僅か4話で剥がれ落ちてしまう。 

 

察しの良い方はお分かりかもしれないが、実のところこの2人は「調が切歌頼りに生きている」のではなく、「切歌こそが調に依存している節がある」という、見てくれと本質がまったく逆のコンビ。 

物静かな中に激情を秘めた調と、一見お調子者のようだが、その実生真面目で寂しがりな切歌……というこの2人の関係性が、本編終盤で大きな意味を持つことになってくる。

 

世界への敵意こそ持っているものの、まだ幼いきりしらコンビ、最年長の装者ではあるが、背負った重荷にはおよそ不釣り合いな精神性のマリア。こんなメンバーで、F.I.S.は本当に大丈夫なのだろうか……というと、ダメなのである。中でも、前述の「マリアによる人質の解放」が大きかったのか、EPISODE 2の戦い以降、F.I.S.は表立った活動を行うことがすっかりなくなり、次の動きを見せるまでの間=EPISODE3、4においては、装者たち……とりわけ、前作で描かれなかった翼とクリスの日常が描かれることになる。

 

 

シンフォギアG』の舞台は秋。そして、響、翼、そしてクリスが通うのは私立リディアン音楽院の「高等科」。ともなれば、当然行われることになるのが文化祭! その文化祭に向けてピックアップされるのが、なんとこれまでほとんど接点のなかった翼とクリスだというから、当時は手を叩いて喜んだものだった。  

作画や楽曲、演出などの著しいクオリティアップだけでなく、前作で「見たかったけど見れなかったシーン」を惜しみなく見せてくれることも『シンフォギアG』の大きな魅力。その一つが、前作においてはほとんど描かれなかった翼とクリスの日常だ。 

シンフォギア (第1期) 』において、翼・クリスが響と和解したのはどちらも後半。翼はEPISODE 9『防人の歌』でプライベートでの姿を見せてくれたが、クリスは和解直後にそのまま最終章へ突入してしまったため、響たちとの日常が描かれることはついぞないままに終わってしまっていた。 

そんな背景を経た本作で「満を持して」描かれた彼女たちの学園生活は、見ているだけで目が焼かれてしまいそうになるほど眩しく、幸せまっしぐらな素晴らしいものだった。

「ヤツらが……ヤツらに追われてるんだ!もう、すぐそこにまで!」
「何!? ……特に不審な輩など見当たらないようだが?」
「そうか、上手く撒けたみたいだな」
「ヤツらとは一体?」
「あぁ……。なんやかんやと理由を付けて、あたしを学校行事に巻き込もうと一生懸命な、クラスの連中だ」
「……ふふ」
「フィーネを名乗る謎の武装集団が現れたんだぞ? あたしらにそんな暇は――って、そっちこそ何やってんだ?」
「見ての通り、雪音が巻き込まれかけている “学校行事” の準備だ」

本当に、本っ当にさりげない日常の1コマ。けれども、幼少期に孤児となって以来「奴隷」あるいは「道具」としてしか生きてこれなかったクリスが、こうして級友に愛され「いてもいいところ」を得たこと。更には、第1期では同級生に「近寄りがたい」と距離を置かれていた翼がさらっと学校行事の準備に駆り出されているばかりか、クラスメイトに「翼さん」と呼ばれ、学友として親しまれていること……。 

そんな彼女たちの交わす一言一言が、第1期から彼女たちを見てきたファンとしてはずっと待ち焦がれてきた「戦いから離れた場所で手に入れた幸せ」そのものであったし、どこかかつての奏を感じさせる「学校の暖かさに戸惑うクリスに、柔らかい笑顔を浮かべる翼」は、彼女の成長を何より物語っている大切なシーンと言えるだろう。 

そして、そんな「これが見たかった」が爆発するのが、続くEPISODE 4『あたしの帰る場所』!

 

 

遂に始まったリディアンの文化祭=秋桜祭。その目玉イベントである勝ち抜き歌合戦の壇上に立つのは、なんと響・未来の級友であり、第1期終盤では未来と共に勝利に貢献した板場弓美 (CV.赤﨑千夏) 、安藤創世 (CV.小松未可子) 、寺島詩織 (CV.東山奈央) の、通称「シンフォギア3人娘」! 声優が声優だけに凄い歌を披露してくれるのかと思いきや、披露されたのは確かに「凄い歌」だった。 

 

Q「 (このキャストに歌わせる歌が) これでいいの?」
Aこれが “良い” んだッ!!!!!!!

 

   

上記リンクは公式サイトの用語解説ページなのだけれど、ねぇ、見てくださいこの文章量。そして迸る「昭和の特撮ヒーロー番組」への愛……! そう、とても今更だけれど、このシンフォギア』は異様なまでに特撮 (ヒーロー) 作品へのリスペクトに溢れたシリーズでもあったりするのである。 

そのうち、とても分かりやすいのがこの『電光刑事バン』のようなオマージュ要素。『バン』がメタルヒーローシリーズ第1作『宇宙刑事ギャバン』のオマージュであるのは勿論 (フォントまで一緒なところに凄まじいこだわりを感じる) 、本作『シンフォギアG』は、おそらくシリーズ中最も数多くのオマージュ/小ネタが散りばめられた作品。せっかくなので、その一例をご覧ください。

 

・翼の変身シーン、ギアを纏う際のSEが『ウルトラマンティガ』の変身ポーズ~巨大化シーンと同じもの 

・響の変身シーンや「S2CAトライバースト」発動時などいくつかのSEが『ウルトラマンダイナ』の変身シーンと同じもの 

・最終回に登場する敵の見た目が、ウルトラシリーズの敵怪獣である「ゼットン」に酷似しているばかりか、爆死する際に放つ温度が「1兆度」

(原作者がシンフォギアシリーズと同じゲーム『ワイルドアームズ』シリーズにも、ゼットンと酷似したボスエネミーが登場する) 

・EPISODE 6において、響の変身シーンなどいくつかの要素が『仮面ライダークウガ』のものに酷似 

他にも『ウルトラマンメビウス』のSEが頻繁に使われていたり、『ウルトラマンガイア』を思わせる着地シーンがあったり、後半で「メルトダウン」を起こしかけるキャラクターの行動可能時間が「2分40秒 (ウルトラマンレオの地球での活動限界時間) 」だったり、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。ありがとうシンフォギア!!大好き!!!!

 

しかも、これらのオマージュ(?)要素の数々は特撮作品に限った話ではなく、様々な映画・アニメ作品にも及んでいる。中でも、特に当時話題となったのがこちらの一曲。 

英雄故事(Ver.Training Day)

英雄故事(Ver.Training Day)

 

修行シーンで響、そして弦十郎が突如歌い出したこの歌は、なんとジャッキー・チェンの代表作『ポリス・ストーリー/香港国際警察』の主題歌! 往年のアクション映画によって (?) 常人を遥かに越える力を手にした弦十郎らしい選曲であるし、しかもこの歌が使われたエピソードのサブタイトルはそっくりそのまま『英雄故事』! 原作者である上松氏、そして金子氏の、もはや執念のような凄まじい愛を物語るエピソードだ。 

(しかも、この歌をバックに繰り広げられるシーンには『ロッキー』や他のジャッキー・チェンにまつわる小ネタが満載だったりする。お、オタク~~~!!!!!)

 

 

しかし、これら『電光刑事バン』『英雄故事』のシーンは決してオマージュネタのためだけにあるものではない。重要なのは、この世界に生きる人々は「誰もが心の中に歌を持っている」ということ。  

前作『シンフォギア (第1期) 』において、翼が「歌は戦いの道具ではない」ことを示したように、これらのシーンが『シンフォギア』の世界においても、現実同様あらゆる人が歌を愛し、歌と共に生きてきたことを教えてくれるのである。 

ファンとしては、ただでさえ「見たかったもの」である「装者以外の歌唱シーン」。それがこうした形で実現したばかりか、それぞれ個性たっぷりに描かれたことにはひたすら感謝しかないし、それがこうして作品において欠かせないピースになっていることは、間違いなく『シンフォギアG』の巧さの一つと言えるだろう。

 

そして、件の「秋桜祭勝ち抜き歌合戦」で歌への愛を示すキャラクターがもう一人。 

 

クリスがようやく手に入れた日常。その眩しさと幸せを具現化したこの2分半は、シリーズ随一の名場面と呼び声高い伝説のシーン。クリスの成長、この世界における「歌」の意味、ささやかな日常こそが持つ煌めき……。戦場だけが『シンフォギア』の魅力ではないと示す、『シンフォギアG』ひいてはシンフォギアシリーズを語る上で欠かせない名場面だ。

 


こうして、一躍勝ち抜き歌合戦のチャンピオンへと躍り出たクリス。こんな凄まじいものを見せ付けられて挑める者など――  

「チャンピオンに……」
「挑戦デェース!」

いた。  

あろうことか、敵陣ド真ん中で歌い始める切歌と調。しかも、その歌は在りし日の奏×翼のボーカルユニット=ツヴァイウィングのナンバー『ORBITAL BEAT』! 第1期ではインストが流れるに留まっていたこの歌が、形を変えてようやく歌われるという粋な演出だ。 

ORBITAL BEAT(Ver.ZABABA)

ORBITAL BEAT(Ver.ZABABA)

 

「優勝者に与えられる権限で、クリスのギアペンダントを奪う」という名目で歌合戦に参加した2人。しかし、心から楽しそうな彼女たちの姿は、歌を愛するごく普通の少女そのもの。響だけでなく翼とクリスも、ここで彼女たちと戦う必要がないこと、別の道があるはずだと確信することになる。

13話中5話で早くも生まれた「F.I.S.の装者と和解できるかもしれない」というささやかな希望。そのきっかけが「歌」というのは、シンフォギアであればこそ、なまじ言葉にするよりも真っ直ぐに感じられるもの。そんな演出の妙に魅せられていた視聴当時は、ここでクリスたちの平穏で幸福な日常が描かれ、そして「戦わない道」という希望が提示されたことが、全てこの先の地獄に対する前振り=嵐の前の静けさ、だなどとはこれっぽっちも思っていなかった。 

そう、ここからが『シンフォギアG』真の幕開けだったのである。

 

Vitalization

Vitalization

 

歌合戦の折、響らに対して独断で決闘を申し込んだ調と切歌。そんな彼女らの身勝手を利用したのが、F.I.S.所属の生科学者であるウェル博士だ。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

聖遺物を初めとする異端技術に精通しており、適合係数を高める薬剤「LINKER」を精製・改良したり、服用後の体内洗浄法を確立したりするなど非常に優秀な科学者で、余命いくばくもないナスターシャを延命できる数少ない人物でもあったウェル。 

彼はそんな優秀な能力の一方で「自分が “英雄” として讃えられる世界を作るためには、どんな犠牲も厭わない」という真性のエゴイストでもあり、ソロモンの杖でノイズを操り、人を容赦なく殺戮する姿が作中では度々描かれていた……のだけれど、F.I.S.のメンバーが「自分の手を血に汚すことを恐れるあまり計画を破綻させてしまう」マリア、「まだ幼く、使命感が希薄な」切歌と調、「彼女たちに非道を強いることを悔やむ」ナスターシャといった状況であるため、ウェルの悪辣な行動が命綱であったのもまた事実。「『シンフォギアG』における唯一の悪役」という一言では評しきれない複雑な背景の人物だ。 

(その割に、杉田智和氏の怪演や顔芸の数々もあってか非常に人気の高いキャラクターだったりもする)

 

そんなウェルが切歌・調の焚き付けた「決闘」を引き継ぐ形で響たちに挑んだのがEPISODE 5後半。マリアらのようにギアこそ持たない彼だったが、巧みにノイズを操る戦術、そしてF.I.S.の目的の鍵でもある完全聖遺物=生物兵器ネフィリムが3人を追い詰める。 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

「聖遺物を食らう生物兵器」であるネフィリム。この怪物を育てるためにウェルが画策したのが「シンフォギア装者」を餌とすること。いやいや、シンフォギアはそんな感じの作品では……と、当時の自分は油断していた。油断しきっていた。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

絶句。  

悲鳴を上げることもできず、「ヒッ」と小さく震え上がったあの感覚も、響の腕が食い千切られた状態でエンディングに入ってしまった時の絶望感も全部、10年近く経って尚鮮明に思い出せるし、当時もやはり思ったものだ。シンフォギアG、始まった…………」と。 

そして、残念なことにその不穏さを全く裏切らない展開を見せ付けてきたのが、続くEPISODE 6『奇跡――それは残酷な軌跡』。  

腕を食われた響は、その深刻なダメージがトリガーとなって第1期以来の「暴走状態」に陥るばかりか、なんとアームドギア生成の応用で腕を復元。ネフィリムをあっさり撃破してししまう。 

これは万事解決か……と思われたが、問題はその後。この6話をきっかけに、響たち二課、そしてF.I.S.、全ての歯車が最悪の方向に回り出していくのである。

 

 

メディカルチェックに入った響から採取されたのは、金属質でおよそ人間のものではない「体組織」。翼、クリス、そして未来は、弦十郎から「響の体内にあるガングニールが響を蝕んでおり、このままシンフォギアを纏い続ければ響は死ぬ」という事実を知らされる。これまでシンフォギアを纏ってきたことによる密かな蓄積に加えて、先の暴走がその進行を爆発的に早めてしまったのだ。 

しかし、その事実が明かされるより早く、当の響はウェル博士の暴挙に遭遇。翼の警告を振り切りシンフォギアを纏ってしまうばかりか、ウェル博士救出のために現れた調・切歌を救う代償に、ガングニールごとメルトダウン寸前に陥るという絶体絶命の危機に瀕してしまう。

「なはは~、つまり、胸のガングニールを活性化させる度に融合してしまうから、今後はなるべくギアを纏わないようにしろ、と! あは、ははっ」
「いい加減にしろ! “なるべく” だと? 寝言を口にするな! 今後一切の戦闘行為を禁止すると言っているのだ!」
「翼さん……」
「このままでは死ぬんだぞ……! 立花ッ!!」
「そんくらいにしときな! このバカだって、分かってやってるんだ……!」

「奏の残したものに響を殺させたくない」そして「二度と仲間を失いたくない」という思いからか、気丈に振る舞う響に正面から食ってかかる翼。そんな翼を止めはするが、「自分がフィーネの下でソロモンの杖を起動させなければ、こんなことにはならなかった」と思い悩むクリス……。 

こうした仲間同士の衝突や自責は、描写によっては不快に感じられたり、キャラクターの精神的な成長を逆行させたりといった多大なデメリットを孕むもの。しかし、響を巡る一連のくだりにそのようなマイナスな印象が一切感じられないのは、描かれる衝突が全て「互いへの親愛と善意」に基づくものだからだろう。  

響に死んでほしくないからこそ厳しく当たる翼も、その仲介をしつつ誰より自分自身を責めてしまうクリスも、どちらの行いも全てこれまでの積み上げと成長、そして響への親愛があればこそ。特にクリスは、本作前半において「新しい居場所を見付けたことによる幸せ」が印象的に描かれている分、尚更納得感の高い地獄が出来上がっているという始末。 

このように、これまでの丁寧な積み重ねが (最悪の形で) 活きているからこそ、この “善意の連鎖” は過酷ではあれど不快ではない見事なクリフハンガーに仕上がっており、それが皮肉にも本作後半の大きな見所になっている。そして、その最たるものが「翼を撃ち、F.I.S.へと寝返るクリス」という、多くの視聴者を驚愕させたEPISODE10のラストシーンだろう。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

一方、響たちと時を同じくして、マリアたちF.I.S.にも崩壊の足音が忍び寄っていた。
全ての始まりはEPISODE 7『君でいられなくなるキミに』終盤で起こったある異変。  

色々とややこしいからか、視聴者にも、弦十郎を初めとする二課の面々にも「F.I.S.」と呼ばれていたマリアたちだが、彼女たちの組織の名前は「フィーネ」。なぜその名を選んだのかと言えば、一つは彼女たちF.I.S.が、現代におけるフィーネ=櫻井了子由来の研究機関だったから。そしてもう一つは、首魁たるマリアが「転生したフィーネ本人」だったからだ。 

 

先史文明期の巫女にして、「自分の遺伝子を持つ人間を媒介に、何度でも復活する」という転生能力を備えた超常存在であるフィーネ。『シンフォギア (第1期) 』において、自身の末裔の一人=櫻井了子の人格を上書きする形で復活を遂げた彼女だったが、彼女は次の転生に備えてか、聖遺物の研究と平行して「自身の遺伝子を持つ孤児」=「レセプターチルドレン」と呼ばれる少女たちを集めていた。それが調、切歌、マリア、セレナたちであり、これこそがF.I.S.で彼女たちが育てられていた本当の理由。 

そのため、櫻井了子亡き今、マリアが新たなフィーネの転生先として目覚める……というのは十分に有り得る話で、ウェルが彼女たちに同行したのも、先端技術を牛耳る存在=フィーネと同行することが自身の目的にとって好都合だったからだ。 

しかし、マリアがフィーネであるということは、いつかはマリアの意識・人格がフィーネに塗り潰されるということ。フィーネを覚醒させまいと奮闘する調と切歌だが、その疲労で前後不覚に陥った調は、鉄骨の落下に巻き込まれかけてしまう。そんな調を切歌が庇った瞬間――  

2人を守ったのは、なんとフィーネが使う防護障壁。「マリア=転生したフィーネ」というのは、ナスターシャがウェルを引き込むためにでっち上げた全くの嘘だったのである。  

一方、ナスターシャは自分の身体の限界が迫るにつれ、自身を気遣うマリア・調・切歌に十字架を背負わせたことを悔やむようになり、(それが弱者を切り捨てる結果になりかねないことを分かった上で) 米国政府に世界を救う使命と異端技術を託すことを決意する。 

世界よりもマリアたち3人を取るという、身勝手だが美しい「親心」。しかし、この選択こそがF.I.S.の運命を決定付けてしまうターニングポイント。図らずも響たちと同じく、F.I.S.もまたそれぞれの善意によって歯車が盛大に狂い始めてしまうのだ。

 

 

会談に向かったナスターシャとマリアを待っていたのは、取引に応じず一方的に異端技術を接収しようと罠を張っていた米国政府のエージェントたち。窮地に陥った2人を「会談を破綻させようと、ウェルが放ったノイズたち」が救ったことで、自ずとウェルがF.I.S.の主導権を握ることとなってしまう。 

愛すべき「マム」だが、人類救済という目的を捨てようとしたナスターシャ……から、残虐な手段を厭わない外道だが、確かな能力と目的意識を持ち、人類救済というゴールに事実上最も近い男であるウェルに移った計画の主導権。
そんな状況下で、マリア・調・切歌の3人は改めて「自分は何のために、何を成すのか」を問われることになる。

 

「偽りの気持ちでは世界を守れない、セレナの想いを継ぐことなんてできやしない。全ては力……力を持って貫かなければ、正義を為すことなどできやしない! 世界を変えていけるのはドクターのやり方だけ。ならば私は、ドクターに賛同する!」

自分の甘さが計画を歪め、様々な「余計な犠牲」を生んでしまったことを悔やみ、犠牲を出してでも計画の完遂を目指すというウェルに賛同したマリア。

 

「マリアが苦しんでいるのなら……私が助けてあげるんだ」

かつての自分達のような「救われない弱者」を生みかねないウェルに反発し、苦しむマリアを救うためにF.I.S.を一人飛び出す調。

 

「たとえあたしが消えたとしても、世界が残れば、あたしと調の思い出は残るデス……!」

ウェルのやり方やF.I.S.の使命ではなく、「自分がフィーネに塗り潰される前に、調に世界を残したい」という思いで戦う切歌。 

初めは「世界を救う」という目的で団結していたF.I.S.。しかし、マリアはセレナ、調はマリア、切歌は調のことを想うあまり=響たち同様、彼女たちもまた “善意” によってバラバラになってしまうのである。

 

Dark Oblivion

Dark Oblivion

 

こうした “善意の連鎖” により悪化の一途を辿る本作中盤。注目すべきは、ここに至って尚「どうすれば彼女たちは救われるのか」も「どうすれば地球は守られるのか」も、何一つ示されていないことだろう。  

事態を悪化させているのは主にウェルの所業だが、彼は災厄の「元凶」ではない。更には、仮にウェルを倒すなり逮捕なりできたとしても、月の落下という未曾有の事態を知ったばかりの二課にはそれを打開する術がない。「ヒーロー/ヒロインもの」の文脈を色濃く持っている本作だが、同ジャンルで見られるような「○○を倒せば解決する」といった指針がないために、その物語の最終到達点が全く予測できないのである。 

にも関わらず、前述のように本作中盤は何もかもが悪化の一途を辿っていく。お先真っ暗な状況下で、破滅の足音だけが確かに近付いてくるというスリル。それが本作の面白さでもあるのだけれど、それはそれとしてED前の引きには毎回心臓が張り裂けそうになっていた。

 

響の腕が食べられて終わるEPISODE 5。「響の身体がガングニールに蝕まれている」ことが明かされた状態で彼女の変身を見せ付けられるEPISODE 6。切歌と調をフィーネのバリアが守るEPISODE 7。そして「ノイズとの戦いに巻き込まれた未来が爆発に巻き込まれてしまう」EPISODE 8のラストシーン。  

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

「 “戦いから遠ざけることで響を救う” という使命を弦十郎から託された未来が、そのために響と出掛けた先で行方不明になる」という、狂いに狂った歯車が導いた最悪の事態。善意が破滅を呼び、予測不能の展開を次々と叩き付けてくる『シンフォギアG』らしい展開と言えばそうなのだけれど、それさえも「未来がシンフォギアを纏い、響の前に立ちはだかる」ことの前振りに過ぎなかったなどとは、一体誰が予想できただろうか。

 

 

F.I.S.が保有する聖遺物の一つである「魔を払う鏡」こと歪鏡・神獣鏡 (シェンショウジン) 。この神獣鏡は「聖遺物由来の効果を除去する」という対魔の力を持っており、その力で、人々を救う人工大陸「フロンティア」の封印を解除することが彼らの計画における最終段階であった。 

その最終段階に備え、神獣鏡の出力増大=櫻井理論に組み込まれていた神獣鏡のシンフォギア化を進めていたウェル。そんな彼にとって、「マリアが見知らぬ少女を連れ帰ってきたばかりか、その少女はシンフォギアに対する高い適性を持っている」という報せは、まさに青天の霹靂だっただろう。 

しかし――と、「いくら私立リディアン音楽院の生徒=シンフォギアへの適性が見込まれた少女とはいえ、なぜそこまで高い適合係数を持っているのか」という至極当然の疑問を投げかけるナスターシャ。その質問に対し、ウェルは迷いなく答えてみせる。

 

「愛、ですよ」

 

 

(なぜそこで愛、と思った方はこちらをご参照ください。なんでちゃんと解説があるの……???)

 

そんな “愛” ――「響を戦わせたくない」という想いを「響が戦わなくていい世界を作る」という形に歪められ、即席のシンフォギア装者に変えられてしまった未来。「シンフォギアキラー」とでも呼ぶべき圧倒的な力を振るう彼女を止めるために、遂に戦場へと舞い戻る響。 

僅か2分40秒というタイムリミットの中で彼女で歌い上げるのは、後にも先にも「このたった一度きり」の歌『Rainbow Flower』! 

Rainbow Flower

Rainbow Flower

 

戦いではなく、人助けのため……それも、世界でたった一人の、かけがえのない「あったかい陽だまり」を救うために響くこの歌は、戦士としての響の生き様/魂を歌い上げる『正義を信じて、握り締めて』とは異なり、「人間」立花響の想いを言葉にして紡いだもの。 

そんな歌に、響の生存限界、そして「愛VS愛」という「善意が悲劇を呼んできた」本作において、まさに極限状況とでも呼ぶべきシチュエーション……。それは同時に、響にとって「破滅の運命そのものとの戦い」とも呼べる大舞台。シンフォギアG』の、そして「立花響」の大きなターニングポイントとして描かれる決死の人助けは、文字通り息もつかせぬ壮絶な展開を見せ付ける。 

 

響の決死の想い、そして、彼女を死なせないために全力を尽くす弦十郎、藤尭、あおいの3人。それを持ってでも圧倒的に不利な状況を覆したきっかけは、他ならぬ「未来の愛」。 

響の全てを受け入れ支える「良妻賢母」そのもののような存在である未来だが、彼女は何も最初からそのような存在だった訳ではない。そのことを顕著に表しているのが、『シンフォギア (第1期) 』EPISODE 8『陽だまりに翳りなく』におけるこの台詞だろう。

「私、響が黙っていたことに腹を立ててたんじゃないの! 誰かの役に立ちたいと思ってるのは、いつもの響だから……!でも、最近は苦しいこと、苦しいこと、全部抱え込もうとしていたじゃない? 私は、それがたまらなく嫌だった。また響が大きな怪我をするんじゃないかって心配してた! だけど、それは響を喪いたくない私のワガママだ!」

詳細は後に語られるが、未来のことを「陽だまり」と言う響こそが、未来にとっては眩しく輝く太陽そのもの。しかし、リアリストである未来には、そんな響を喪うことが (彼女の危なっかしさもあって) 何より怖かったし、彼女はそんな自分の気持ちが「独占欲」のような後ろめたい気持ちであることも自覚してしまっていた。 

少年漫画風味の作品である『シンフォギア』に不釣り合いな生々しい「愛」を持っていただけでなく、その醜さから目を背けない誠実さを併せ持ってしまったが故に悩む少女、それこそが小日向未来であり、響が未来を愛してやまないのは、そんな彼女の誠実な愛の所以でもあるのだろうと思う。 

しかし、響は響であるが故に、未来の「懺悔」に特に触れることも気にすることもなかった。響の「当たり前の日常」に戻ることができたのは、未来にとって何より嬉しいことだったのだろうけれど、それは同時に未来にとっての罪=自分のエゴで響を傷付けたことに対しての「罰を受ける/償う機会」=御祓の場を失ってしまったとも言えるのではないだろうか。

 

そして巡ってきた今回の『シンフォギアG』EPISODE 10において、自分の愛 (エゴ) を肥大化させられ、あろうことか響本人と戦わされてしまった未来。しかし、それは彼女へ与えられた御祓の場でもあった。 

歪鏡・シェンショウジン

歪鏡・シェンショウジン

 

「響を戦わせたくない」というのは、前述の通り彼女がずっと持ち続けてきた愛の一つだった。それは確かに響の意思と反するある種のエゴかもしれないが、客観的に見て「悪」とは到底思えないもの。しかし、響を支えたい・響とずっと一緒にいたいと願う彼女にとって、そんな気持ちが自分の中にあることが許せなかったというのは道理だろう。 

そして、件の戦いにおいて未来はそんな自分の忌むべき「エゴ」に、彼女自身の望む「愛」で打ち克ってみせた。

「戦うなんて間違ってる。戦わないことだけが、本当に暖かい世界を約束してくれる。戦いから解放してあげないと……」 

「違う! 私がしたいのはこんなことじゃない!こんなことじゃ……ないのにぃぃーー!!」

未来の「愛」が作ったこの隙が、響たちを助けて作戦の成功に繋がったこと。そして作戦が成功した結果、未来のギアが解除されただけでなく、響を蝕んでいたガングニールが除去されたこと。これこそ未来が第1期で果たせなかった「御祓」であり、それは響を解放するに留まらず、まるで『シンフォギアG』そのものを覆う呪いをも祓ったかのように、物語の流れを大きく変えていくことになる。  

未来の愛と、響の愛。いつだって、装者たちの運命を変えていくのは思いを重ねること=「手を繋ぐ」こと。響がギアを失い、敵味方が入り乱れるという混沌の中、残る少女たち――翼とクリス、調と切歌にはそれができるのか、ここから物語がどう転がっていくのか、当時は予想などこれっぽっちもできなかったし、何が待ち受けるのか分からない恐さこそあったけれど、それだけに目が離せないのもまた事実だった。

 

 

神獣鏡の光によって封印から解かれた、カストディアンの遺産=超巨大遺跡「フロンティア」。その中に秘蔵された異端技術で月の落下を食い止めること。それが成し得なかったとしても、人口大陸としての役割をも持ったフロンティアによって、可能な限り多くの人々を救い出すこと。それがF.I.S.の計画の全貌であった。 

しかし、フロンティアの制御を請け負ったウェルが真っ先に行ったのは、その力で「月の落下を早める」こと。「人類を減らせば、自分が人類を導く英雄になれる」と暴走を始めるウェル、そして落下する月を止めるべく、ナスターシャとマリアは、フロンティア内部で見付け出した「月の落下を食い止める、もう一つの手段」を実行に移す……と、こうして遂に始まる『シンフォギアG』最終章。 

絶望的の状況下で繰り広げられる最終決戦は、しかし、EPISODE 5以降の鬱屈とした空気を吹き飛ばして有り余るほどのカタルシスをもって、本作を右肩上がりに盛り上げていく。 

 

フロンティアへと向かう翼、そして、響の説得で「自分のやりたいこと」に向き合う覚悟を決めた調。彼女たちの前に立ちはだかるのは、F.I.S.の軍門に下ったクリス、そしてウェルの計画を守ることで調に世界を残そうとする切歌。 

リアルタイム当時は、まさかこんな対戦カードになるとは予想さえしていなかったし、それぞれの戦いが見せる「更なる予想外」は、それら一つ一つがまさに『シンフォギア』の真骨頂と呼ぶべきとんでもない代物だった。

 

 

世界への憎しみも、F.I.S.の正義を為そうとする信念も確かに持っていた調と切歌。しかし、まだ若干15才の子どもでしかない2人にとって、大義よりも何よりもお互いの存在やマリアのことが大切なのは当然のこと。だからこそ、この戦いにおいて2人はこれまでにない最大の気迫を持って力を振るう。 

響VS未来に続いて「エクストリーム痴話喧嘩」などと言われたりもする調VS切歌だが、この戦いに「シンフォギアらしさ」が満ちている理由はそこではなく、お互いがお互いへの “愛情” 故に戦うこと。そして、2人の戦いに合わせて流れ出す "この歌"にこそあるだろう。 

Edge Works of Goddess ZABABA

Edge Works of Goddess ZABABA

 

一見すると調・切歌のデュエット曲(ユニゾン)のようにも思えるこの歌。この局面で2人のデュエットというのはそれだけでも昂るものがあるけれど、この歌はその実「デュエット」の一言で済ませていい代物ではなく、謂わば『シンフォギアG』における最大の仕掛けの一つだった。というのも……。

 

調の歌、『鏖鋸・シュルシャガナ』。

鏖鋸・シュルシャガナ

鏖鋸・シュルシャガナ

 

切歌の歌、『獄鎌・イガリマ』。

獄鎌・イガリマ

獄鎌・イガリマ

 

そして問題の歌、『Edge Works of Goddess ZABABA』

Edge Works of Goddess ZABABA

Edge Works of Goddess ZABABA

 

お分かり頂けただろうか。 

そう、問題の歌=『Edge Works of Goddess ZABABA』とは、なんとこの2つの歌が文字通り一つに合わさって生まれた歌なのである。  

「2人で1人である調と切歌の在り方を表す最大の仕掛けが、2人の楽曲そのものに既に仕込まれていた」という凄まじい事実が、よりによって2人が戦う瞬間に明かされる……というこの演出は、もはや粋とかそういう次元を越えた達人技であるし、シンフォギアシリーズの楽曲を手掛ける音楽クリエイター集団「Elements Garden」、そしてその代表にして、このとんでもないギミックを考案した『シンフォギア』の音楽プロデューサー、上松範康氏の手腕が恐ろしいくらいに発揮された、文字通りの「伝説」と言えるだろう。 

(ちなみに、『シュルシャガナ』の作曲&編曲と『Edge Works~』の編曲を手掛けられたのは菊田大介氏だが、この“仕込み”が読まれないようにする狙いもあってか、なんと『イガリマ』は作曲:中山真斗氏+編曲:藤田淳平という全く別のタッグが担当している。プロデュースされた上松氏は勿論、この御三方の実力もあってこそ生まれた伝説……ッ!)

 

Next Destination

Next Destination

  • 高垣 彩陽
  • アニメ
  • ¥255

 

そんな調と切歌に続く戦いは、こちらも意外な対戦カード、翼 VSクリス! 

年齢で見ても「仲間たちのおかげで、新しい居場所を見付けたシンフォギア装者」としても先輩・後輩の2人であるが、クリスを友/後輩として受け入れている翼に対し、今一歩踏み出せず、彼女のことを名前 (名詞) で呼んだこともないクリス……という、何とも微笑ましいもどかしい関係性の2人。そんな2人がこのクライマックスでぶつかることになるのは予想外だったけれど、実際のところ、クリスが何らかの目的で寝返ったのは (視聴者からしても、翼たちからしても) 自明だったため、『Edge Works of Goddess ZABABA』の衝撃に比べると些か見劣りしてしまいそうなこのパート。しかし、そんなこちらの予想を軽々しく飛び越えていくからこそ『シンフォギアG』は名作なのである。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

ウェルによって爆発する首輪を嵌められ、否が応でも全力を出さざるを得ないクリス。そんな彼女の様子を察し、その狙いを探りつつ応戦する翼。「首根っこ掴んででも、居場所へ連れて帰る」という翼を前に、後のないクリスはある「懸け」に出る。

「風鳴、先輩。次で決める……昨日まで組み立ててきた、あたしのコンビネーションだ!」
「ならば、こちらも真打をくれてやる!」

波状攻撃を仕掛けるクリスと、一点突破からの面制圧でそれに対抗してみせる翼。戦場を爆発が包み込んだ後、フロンティアでウェルの前に現れたのは、傷付いた翼を運んできたクリスだった。

「約束通り、二課所属の装者は片付けた。だから、ソロモンの杖をあたしに――」

「ソロモンの杖の奪還」という真の目的を果たすべく、ウェルに迫るクリス。クリスの首輪(爆弾)が壊れているという“想定外”に動揺するウェルだったが、周到な彼はギアの適合係数を低下させる薬剤=アンチリンカーを散布。ただでさえ消耗した上でのアンチリンカー。そんな状況下では、さしものクリスもノイズに抗う術はなく……。 

絶刀・天羽々斬

絶刀・天羽々斬

「そのギアは……! まさか、アンチリンカーの負荷を抑えるために、敢えてフォニックゲインを高めずに “出力の低いギアを纏う” だと!? そんなことができるのかッ……!?」
「できんだよ。そういう先輩だ」

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

そう、『Edge Works of Goddess ZABABA』を越え得るジョーカーとは、「第1期バージョンの天羽々斬を纏う翼」というまさかまさかのサプライズ!! 

記事冒頭でも触れた通り、響・翼・クリスのシンフォギアのデザイン変更については、これといって作中で言及がされないため、当時は「敵のシンフォギアが黒いので、区別がつきやすいようにデザインが変更された」ものだと思っていたし、事実、こういった「作中では見た目が同じ扱いのデザイン変更」は特撮・アニメではよくあること。しかし、こちら側がそう思い込むことさえ作り手の想像通りだったのだろう。 

何もかもが予想外の展開に、ウェルよろしく「そんなことができるのか……ッ!?」と言わざるを得ない我々視聴者に投げ掛けられるのは「できんだよ、そういう先輩だ」の一言。そう、この演出は響でもクリスでもなく、誰あろう風鳴翼だからこそ担えたもの。 

思えば、『シンフォギア (第1期) 』ではイチイバルのクリスを圧倒、フィーネをも単身で追い詰めた他、『シンフォギアG』においても、マリアと唯一同等に張り合えただけでなく「切歌を一歩も動かさずに封殺する」など、翼はシリーズを通して「格が違う存在」として描かれ、それは水樹奈々氏というプロフェッショナルの演技・歌唱も相まって無頼の説得力を放っていた。そんな翼だからこそ、我々の想定を越えたこの演出も、「ギアを纏う際のフォニックゲインを微調整する」という、素人目に見てもとんでもない技量にも、困惑より先に「納得」が来てしまうし、ここに来て懐かしい「黒と蒼の天羽々斬」が復活するという超弩級のロマン展開に心から喜ぶことができるのだ。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

翼の活躍でノイズは殲滅、クリスの救出とソロモンの杖の奪還も完了し、全てが “作戦通り” に終わったことで無事を確かめ合う2人。 

しかし、“同士討ちしたと見せかけて、爆煙の中でクリスの首輪を切断する” という作戦には事前の打ち合わせなど一切なく、クリスの「風鳴、先輩。次で決める……昨日まで組み立ててきた、あたしのコンビネーションだ!」という一言から、翼がその狙いを汲み取り実現させたものだった。 

「共に研鑽し、組み上げてきた戦い方 (コンビネーション) だからこそ、どうすれば躱せるかも、どこに隙があるかも分かってくれている」というクリスの期待に見事応えた翼だったが、クリスには一つ疑問が残っていた。

「一人で飛び出して……ごめんなさい」
「気に病むな。私も、一人では何もできないことを思い出せた。何より、こんな殊勝な雪音を知ることができたのは僥倖だ」
「…………そっ……それにしたってよ、なんであたしの言葉を信じてくれたんだ?」
「雪音が “先輩” と呼んでくれたのだ。続く言葉を斜めに聞き流す訳にはいかぬだろう」
「それだけか?」
「それだけだ。さあ、立花と合流するぞ」

「守るべき居場所」だけでなく「自分を受け止めて貰える、頼もしい先輩」にも出会うことができたクリス。そして、亡き奏の想いを確かに継ぎ、先輩としてクリスを優しく受け入れる翼……。中盤以降すれ違ってきた2人の優しさがようやく報われ、お互いにありのままの想いをさらけ出せたこの暖かい「ゴール」は、彼女たちが1人ではなく「2人」だからこそ紡ぎ出せたものだった。 

どれだけ強く相手を想っていても、皆がその想いを一人で抱え込んでしまったがために悲劇が起こり続けた本作。それは翼とクリスも例外ではなく、2人がこうして真に分かり合えたのは、クリスが翼への想いを込めた「風鳴先輩」の一言を、翼が心でしかと受け止めたからこそ。響と未来がそうであったように、彼女たち2人もまた「互いの想いを繋げる」ことによって、悲劇の運命に抗ってみせたのである。

 

教室モノクローム

教室モノクローム

 

彼女たちが改めて示したように、シンフォギア』において、答えは常に繋いだ手の中にこそあるもの。そして、それこそが「不和」という敵に抗う唯一にして絶対の方法。しかし、彼女たちはまだ幼い子どもであり、その力にはどうあっても限界がある。 

彼女たちがそんな「どうにもならないこと」に直面した時、それを支えてきたのは常に大人たちの存在だった。

「敵とか味方とか言う前に、子どものやりたいことを支えてやれない大人なんて、カッコ悪くて敵わないんだよ」

第1期から『シンフォギア』の物語を支え、引き締めていた大人たち。その頼り甲斐は本作でも健在で、上記の言葉で調の背中を押した弦十郎をはじめ、藤尭やあおい、緒川たちによって、装者一同はこれまで数多くの窮地を救われてきた。 

本来、「世界を守る」といった重責や過酷な宿命は、子どもたちではなく大人たちこそが背負うべきもの。それを響たちに託さざるを得ない葛藤と「彼女たちが “子ども” であれるように」と奮闘する彼ら大人たちの背中は、この『シンフォギアG』においても印象的に描かれていた……が、調と切歌の窮地を救った「大人」は、あまりにも意外な存在だった。

 

 

切歌の刃が調を捉えようとしたその時、調が展開したのは「以前にも、切歌と調を守ったものと同じ」光波バリア。新たなフィーネの器とは、マリアでも切歌でもなく調だったのだ。 

そのことに誰より傷付いたのは、自身の早とちりで調に刃を振るってしまった切歌。「消えてなくなりたい」とイガリマで自害を試みる切歌、そして、そんな彼女を庇おうとする調……を守ったのは、誰あろう「調の中にいたフィーネ」その人だった。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

調の身代わりとなり、魂を刈り取るイガリマの一撃に消え行くフィーネ。彼女が響の想いを受け取り、「転生などせず、今を生きる人間に未来を託そうとしていた」という事実は勿論、バラルの呪詛という「不和を生むもの」を誰より嘆いていた彼女が、皮肉にも自分の身を呈して調と切歌の絆を守ることになったというこの一連は、「"本当は敵なんていない" 物語」ことシンフォギアとして、この上なく美しいものに感じてしまう。

 

かくして、切歌が試みた自害は、結果的に調の中にいたフィーネを消滅させ、他ならぬ調を救うことになった。切歌の罪悪感、彼女を守りたい調の愛情、そして、響から想いを受け取ったフィーネの誠意……。これまで牙を剥いてきた「善意の連鎖」がここに来て全てを救っていくのは、それが以前とは異なり、「調たちが ”自分自身の、偽りない信念" で戦ったからこそもたらされた "報い" 」だからであると、そう思えてならない。

そして、未だ救われぬ最後の一人=フロンティアで奮戦するマリアの元には、ガングニールを失った「ただの立花響」が駆け付ける。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

同じガングニールの装者であるマリアと響。しかし、傷付き失い続けるばかりのマリアに対して、響は融合症例として危機に瀕しながらも切歌や調、未来を救い、胸のガングニールを失って尚、調の冷えきった心を溶かしてみせた。そんな2人の明暗を分けたものは、EPISODE 11『ディスティニーアーク』における、響のこの台詞に象徴されていると思う。

「私、自分のやってることが “正しい” だなんて……思ってないよ。以前大きな怪我をした時、家族が喜んでくれると思ってリハビリを頑張ったんだけどね、私が家に帰ってから、お母さんもおばあちゃんもずっと暗い顔ばかりしてた……。それでも私は、自分の気持ちだけは偽りたくない。偽ってしまったら、誰とも手を繋げなくなる」

かつて、響がツヴァイウィングに救われ、奏や多くの観客が命を落とした災厄の日、最も多くの死傷者を生んだのは「ノイズそのもの」ではなく、ノイズによって「パニックになった群衆自身」だったのだという。そのため、響のような数少ない生存者に非難が集中、「人殺し」という事実無根のレッテルまで張られてしまい、結果、家族の為にリハビリに全力を尽くした響を待っていたのは「自分のせいで立花家そのものに矛先が向いてしまう」という残酷な現実だった。 

自分の行動が、どんな結果を招くかは誰にも分からない――。そんな世界の儚さ・残酷さを知った響が選んだのは、せめて自分の気持ちを偽らず、真っ直ぐに生きること。そして世界の残酷さに押し潰されることなく、本当の想いを伝え合えるように「人と手を繋いでいく」こと。 

「手を繋ぐ」ということは、自分の気持ちが相手にそのまま伝わってしまうこと。自分の気持ちをさらけ出すということ。だからこそ、響は「自分を偽ったら、誰とも手を繋げなくなる」と語ったのだろう。

そんな勇気ある行動=「手を繋ぐ」ことは、「不和」をこそ真の敵とする『シンフォギア』シリーズにおいて、常に事態を打開するきっかけになっていた。響が『シンフォギア』の主人公たりえていたのは、ガングニールの融合症例だからでもなく、弦十郎の弟子だからでもなく、何より彼女の信念が「手を繋ぐ」ことにこそあったからなのかもしれない。そして、彼女が貫いてきた曇りなき信念は、遂にその手に「槍」を手繰り寄せる。

「マムがこの男に殺されたのだ、ならば私もコイツを殺す! 世界を守れないのなら、私も生きる意味はないッ!!」
「意味なんて、後から探せばいいじゃないですか……! だから、生きるのを諦めないで!」

(奇しくも、奏の言葉をきっかけに) 響の口から聖詠が零れると、マリアのガングニールが強制解除、光子となって響に収束・再構成されていく。

「何が起きているの……!? こんなことってありえない! 融合者は適合者ではないハズ……!これはあなたの歌? 胸の歌がしてみせたこと!? あなたの歌って何? 何なの!?」
「撃槍ッ!! ガングニールだぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

「偶然から力を手に入れた」融合症例だった響が、この最終局面において遂にガングニールに「適合する」という衝撃的な展開は、響の雄叫びと共に身体が芯から震え上がってしまう名シーン……だけれども、このシーンが「シ・ン・フォ・ギィィッ――ヴウゥワアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」程話題に上らないのは、響がガングニールに適合する側で、全てを喪い絶望に暮れるマリアの姿があまりに痛ましいからかもしれない。

 

 

「自らの心を偽らない」という信念を貫く中で何度も傷付き、同時に多くの大切なものを手に入れ、遂にはガングニールに適合してみせた響。その傍らでは、「自分の心さえも偽る」ことで全てを背負おうとしたマリアが、その膝を折ってしまっていた。この状況を作り出した要因は、きっと響とマリア本人の資質ではなく、2人が「誰かと手を繋げたかどうか」……というその一点だろう。

 

響は、その胸に偽りなく歩んできたことで命を散らす寸前まで追い詰められたが、彼女を救ったのは弦十郎のような頼れる大人たち、そして未来をはじめとする仲間たちが手を差し伸べてくれたこと。響が繋いできた手そのものが、巡り巡って彼女をこの世に繋ぎ止めてくれたのだ。 

一方マリアは、自らに課せられた宿命全てに「誰かの手を借りることなく」一人で向き合っていた。それはセレナや調、切歌らを過酷な現実から守るために彼女が培ってきた「強さ」であったけれど、その強さのために、彼女は「世界に敵対する新生フィーネ」という分不相応な重荷を背負えてしまっていた。背負えてしまっていたからこそ、彼女は道を誤り、調は一人奔走し、切歌はフィーネの影に一人怯えてしまっていた。 

いくら強かろうと装者最年長だろうと、マリアはあくまでただの優しい少女に過ぎない。彼女に必要だったのは、罪を背負える「強さ」ではなく、むしろ誰かに手を伸ばし、助けを求める「弱さ」だったのではないだろうか。

 

事情があったとはいえ、ウェルの行いを是とし、自らの手を血に染めてしまったマリア。しかし、彼女もまた被害者の一人。罪こそあれ、彼女が救われてはいけない理由はない。響が、未来が、翼が、クリスが、調が、切歌が……。皆が運命のしがらみから解き放たれていくならば、彼女もまた、その貫いた正義に相応しい報いを受けてもいいはず。なのに、なぜ彼女は残された力=ガングニールまで奪われなければならないのか、響のガングニール適合は感動的だったけれど、響がまるでマリアから最後の希望を奪ったように見えてしまう……と、最初はそう思っていた。 

しかし、それは違った。マリアは、ガングニールを喪うことでこそ「救われた」のである。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

ナスターシャがフロンティアで発見した人類救済策。それは大量のフォニックゲインを月へ照射し、遺跡の機能を回復することで通常の軌道に戻すというもの。 

早速フロンティアの機能 (?) で全世界に向けて放送を行い、事の経緯を語った上で「皆の歌を貸して欲しい!」と自ら歌い出すマリア。しかし、誰も歌わない……というか、歌うに歌えないのだろう。それもそのはず、「月は巨大な人工物であり、機能不全に陥ったせいで間もなく地球に落下してしまう。その状況を打開するには歌の力で月の機能を回復する必要があるが、それには世界中の歌が必要」と突然言われても、信じられる訳がない。 

そもそも、この一連は本作を見ているこちらも「どういうことなの……」と困惑してしまうシーンなので、何も知らない『シンフォギア』世界の一般市民にしてみれば尚更だろう。手を挙げるだけで良かった『ドラゴンボール』、なんて親切だったんだ……。 

いくら彼女が切実であっても、そんな荒唐無稽な話を前にしては誰も動けるはずがなく、またしても挫けそうになるマリア。いろんな意味で「それはそうだろうよ……」と切なくなってしまうけれど、当人たちからすれば、他にやりようがない状況なのもまた事実。 

そんな状況下、追い討ちとばかりにウェルの手で区画ごとフロンティアから切り離されるナスターシャ、そして唯一残ったもの=ガングニールのギアさえも喪ってしまうマリア。こう追い込まれてはマリアでなくても再起不能になってしまうだろうし、彼女にとっての一番の問題は「降りかかる状況があまりに過酷すぎる」というその不幸だったのでは……と思わされてしまうほど、その絵面は痛々しいものだった。 

しかし、もし響がウェルに向けられた槍を止めていなかったら、一線を越えてしまったマリアは今度こそ立ち直れなくなっていただろうし、響がガングニールを解除していなければ、彼女は自分の本音を口にすることなどなかっただろう。 

不幸続きのマリアだったけれど、今ここで響と再会し、彼女がガングニールを纏ったことは彼女にとって間違いなく幸運だった。いつだって、響は誰かを苦しみから解き放ち続けてきたし、今この時も、響はマリアが誰とも手を繋げなかった原因である「責任を果たすための偽りの自分」=黒いガングニールを彼女から引き剥がすことで、マリア自身を覆っていた「殻」をも砕いてみせた。そう、彼女は「奪われた」のではなく「解き放たれていた」のである。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

そうしてマリアが本来の自分に戻ったからなのか、ここで彼女の前に現れたのは亡き妹=セレナの幻影だった。

『マリア姉さんのやりたいことは、何?』
「歌で……世界を救いたい。月の落下がもたらす災厄から、皆を助けたい」
『生まれたままの感情を、隠さないで』
「セレナ……」

常にセレナの形見=壊れたシンフォギア「アガートラーム」のペンダントを握り締め、彼女の遺志を継ぐことを自身に課していたマリア。しかし、セレナが願っていたのは、自分の犠牲を意味のあるものにすることでも、世界を守ることでもなく、あくまで「マリアが幸せである」こと。だからこそ、彼女は最期の瞬間にもマリアの無事に安堵していたし、この瞬間も彼女はマリアに「やりたいことは何?」と問いかけた。 

響と未来、翼とクリス、調と切歌。彼女たちは皆、お互いの想いがすれ違ったことで起こった悲劇に苦しみながらも、最終的にその想いを重ねる=手を繋ぐことで道を切り拓いてきた。そして、残されたマリア――セレナとの死別以降、自らを「偽りの自分」で覆い隠してきた少女もまた、ここでようやく「セレナを守れなかった自分」から解き放たれ、セレナ自身と手を繋ぐことができた。だからこそ、彼女が「本当の “やりたいこと” 」と共に口にした『Apple』が、これまでマリアの呼び掛けで動 (くに動) けなかった世界中の人々の心を動かし、莫大なフォニックゲインの共鳴現象を引き起こしたというのは、文面から滲み出るダイナミックさとは裏腹に、胸に染み入るような「納得」を伴う展開だった。 

うら若い少女たちが自らを曲げて、偽わらなければ救えない世界に価値なんてない。同時に、もし彼女たち自身が世界を救いたいと願ったならば、その想いは報われて然るべきなのだ。 

(『Apple』が引き起こした世界規模の共鳴現象は、後のシリーズで語られることを除いても、第1期と本作で描かれてきた描写を踏まえればいくらでも理屈だった説明をすることができる。しかし、マリアの純真が引き起こしたこの奇跡をあくまでロジックで語ろうとするのは、むしろ野暮というものだろう)

 

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フロンティアに収束された世界中のフォニックゲインは、ナスターシャ教授の尽力によって月遺跡へと照射され、遂に月はその恒点軌道を回復。地球の危機が回避されると共に、F.I.S.の正義はここに報われることとなった。そしてそれは、調、切歌、そしてマリアが、遂に自分達を縛る全てのしがらみから解き放たれたということでもある。 

月の落下を阻止した以上、残る問題は暴走するフロンティアの心臓=ネフィリム。同じ目的のために、満を持して装者6人が共闘するこの瞬間に込み上げる感動は、とても1クール作品のそれには思えない特大のもの。 

翼&クリスに響が合流し、次いで調&切歌が、そしてマリアが次々と駆け付けてくるだけでも感涙ものなのだけれど、ネフィリムの炎が彼女たちを包み込んでからの一連は「聖詠と絶唱のメロディ」から成る奇跡の楽曲『始まりの歌』もあって、文字通り涙なしには見られない最高のクライマックスだ。 


(動画冒頭、「ベスト・オブ・シンフォギア 3位」のシーンをご覧ください!) 

「惹かれ合う音色に、理由なんていらない」(『Vitalization』からの引用とは思えないほど、本作を体現する台詞になっているのがあまりに綺麗……!) と、調と手を繋ぐ翼。お互いに、自身の “やらかし” ぶりを笑いながら手を繋ぐクリスと切歌。 

これまでぶつかり続けてきた彼女たちだけれど、本作ではそれと同じくらい「彼女たちが通じ合える存在」であることも描かれてきた。そして、そんな彼女たちを阻んできた「月の落下」という大災害はもう存在しない。だからこそ、ここで彼女たちが分かり合えることに細かい説明なんて挟まれない。全てのしがらみから解き放たれ、信じ合える仲間たちと手を繋いだ少女たちにとって、全ての奇跡は――復活したセレナのギア「アガートラーム」にマリアが適合するという奇跡さえも、「安いもの」であって然るべきなのだ。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

ノイズたちの巣=バビロニアの宝物庫にて、最終形態となったネフィリム、そして無数のノイズたちを殲滅。最後の仲間=未来の助力もあって、無事に全てを終わらせることができた響たち。しかし、曲がりなりにも多くの罪を犯してしまったマリア、調、切歌には、避けられない迎えが待っていた。 

 

響の腕が食べられたEPISODE 5以降をはじめとして、非常にシリアスで胸が締め付けられるような展開が続いていた『シンフォギアG』だが、その締めくくりは、あまりにも爽やかで晴れやかなものだった。 

それは、月の落下阻止やネフィリムの撃破、ウェルの逮捕によって物語が綺麗なハッピーエンドを迎えたから……というのは勿論あるけれど、響たち全員=「逮捕されることになったマリアたちを含めた “全員” が、心からの笑顔を浮かべられていたこと」に尽きるだろう。

 

月の落下に端を発する一連の事件――後に「フロンティア事変」と呼ばれる本作の出来事に翻弄された7人の少女たち。そんな彼女たちが身を持って示してくれたのは「手を繋ぐ」ことの大切さだった。 

そのことについて、本作のラストシーンにおける未来と響のやり取りがある一つの「気付き」をもたらしてくれる。

「ねぇ、響」
「え?」
「身体は平気? おかしくない?」
「心配性だなぁ未来は……へへっ。私を蝕む聖遺物は、あの時全部綺麗さっぱり消えたんだって」
「響……」
「でもね」
「え?」
「胸のガングニールはなくなったけれど……奏さんから託された歌は、絶対に無くしたりしないよ。それに、それは私だけじゃない。誰の胸にもある――歌なんだ」

先代ガングニール装者=天羽奏。彼女から響に託された歌とは「ガングニールの聖詠」だけではない。それが彼女自身の口から語られたのは、第1期のEPISODE 8『陽だまりに翳りなく』におけるこの台詞。 

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

「戦っているのは私一人じゃない。シンフォギアで誰かの助けになれると思っていたけど、それは思い上がりだ……! 助ける私だけが一生懸命じゃない、“助けられる誰か”も、一生懸命……!」
『おい、死ぬな!目を開けてくれ……生きるのを諦めるな!!』
「本当の人助けは、自分一人の力じゃ無理なんだ。だから、あの日あの時、奏さんは私に “生きるのを諦めるな” と叫んでいたんだ!今なら分かる気がする……!」
「そうだ……! 私が誰かを助けたいと思う気持ちは、惨劇を生き残った負い目なんかじゃない! 2年前、奏さんから託されて、私が受け取った……気持ちなんだッ!!」

奏から響が託された歌。それはガングニールのシンフォギア=「誰かを守る力」、そして「生きるのを諦めるな」という言葉=誰かを助ける為に必要な「想い」。 

前述のように、本作において響たちシンフォギア装者が破滅に抗うことができたのは、それぞれの手を繋ぎ、想いを重ね合わせたからこそ。それを体現したのが立花響という少女だったが、彼女の「手を繋ぐ」という信念の一端を担っていたのは、他ならぬ天羽奏の存在。 

奏の「生きるのを諦めるな!」という言葉は、一人では何も変えられない / 誰も助けられないこと、想いを繋げてこそ運命は変えられるのだということ――即ち、『シンフォギア』世界における最大の「答え」を響に託すと共に、シリーズを貫くテーマを何より象徴する言葉だったのだ。

 

このように『シンフォギアG』が描いたものは、本質的には第1期から連なる「いつだって、“繋いだ手” だけが明日を拓く」という暖かで真っ直ぐなメッセージ。しかし、本作はそれをよりドラマチックに、ダイナミックに描き切り、カタルシス満載のエンターテインメント作品へと昇華させてみせた。   

そのクオリティや、作品に込められた「祈り」がもたらす感動は、本作を「『シンフォギア』シリーズのみならず、あらゆるアニメ作品の中でも指折りの傑作と言って差し支えないもの」たらしめていると感じるし、この文章を読んでくださった皆様に、そんな本作の魅力が少しでも伝わること、ないし、この文章が本作の魅力を思い出すきっかけとなることを、今はただ祈るばかりである。

 

虹色のフリューゲル

虹色のフリューゲル

 

人間への暖かな希望を謳った『シンフォギアG』放送から約10年。私たちが生きる令和の世は大きな病魔に蝕まれており、物理的に「手を繋ぐ」こととは縁遠い世界へと日々変化し続けている。 

しかし、本作が描いてきた「手を繋ぐ」ことは、何も物理的な意味合いとは限らない。
クリスの信頼を翼が受け止めて形にしてみせたように、切歌と調の想いが連なって運命を覆したように、響と未来がお互いに愛をぶつけ合ったことで呪いが解かれたように、そして、マリアが偽りの自分を脱ぎ捨ててセレナの願いに向き合ったことで、世界の救済を成し遂げたように……。そんな彼女たちのように、身近な友や大切な誰かと偽りない想いを伝え合うこと。これらもまた、シンフォギアが描いた「手を繋ぐ」ことに他ならないだろう。

 

現実とは過酷なもので、人と人とが分かり合うことは口で言うほど簡単なことじゃない。自分を偽らずに生きることは、途方もない覚悟と勇気がいることだ。 

しかし、響たちはそんな現実に全力で抗い続け、その果てに世界を救ってみせた。たとえフィクションの物語だとしても、その気高さや、彼女たちが示した「手を繋ぐことでこそ未来が拓ける」という答えに、一体何の疑いがあるだろうか。 

我々の生きるこの世界には、月の落下のような極大災厄こそないものの「病魔」や「天災」といった災害はごく身近に潜んでおり、いつ何が起こり、誰がいなくなってしまうとも分からない。その点では、ノイズが跋扈する響たちの世界と何も変わらないし、だからこそ、私たちも日々「真摯に想いを伝えること」を怠ってはいけないのだろうと思う。そして、「手を繋ぐこと」の難しさ、その大切さを伝えてくれる本作と出会えた幸運を、この先もずっと胸に刻んで噛み締めていたい。

 

 

しかし、そんな『シンフォギア』シリーズにはまだ「先」がある。 

フロンティア事変を乗り越え、ガングニールの正規適合者となった響、真に手を取り合えた翼とクリス、そして、新たな道を歩み出すことになるマリア、調、切歌……。彼女たちに一体どんな物語が待ち受けているのか、高い完成度を誇る『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』と『戦姫絶唱シンフォギアG』を経て生まれた第3作=『戦姫絶唱シンフォギアGX』は、我々に一体どんな景色を見せてくれたのか。 

10周年を迎えた『シンフォギア』シリーズの歩みを、この先も引き続き振り返っていきたい。

 

感想『仮面ライダーBLACK SUN』“大人向けの仮面ライダー” は何を描き、誰に刃を向けるのか

「大人向け」と「子ども向け」……そんな概念が特撮ヒーロー界隈を荒らすようになってから、一体どのくらい経つだろう。 

おそらく、それは筆者が生まれた平成の時代より前から続いている問題だろうし、非常に根深いものだなとしみじみ感じてしまう。それだけに「この問題には極力触れたくない」というのが本音であったし、「特撮ヒーロー番組に大人向けだ子ども向けだと議論するのは、もうそれ自体が野暮なこと」だと、この問題から知らず知らずのうちに目を背けるようになっていた。 

にも関わらず、『仮面ライダーBLACK SUN』を見終えて真っ先に感じたことの一つは、本作がキャッチフレーズ通りの「大人向けの仮面ライダー」そのものであったことへの感動だった。

 

正直、本作については良くも悪くも言いたいことが数多くあるのだけれど、主なトピックへの言及は有識者の皆様に託させて頂き、この記事では『仮面ライダーBLACK SUN』が「大人向け」だったと言える所以と、そして、そもそもの「特撮ヒーロー作品における “大人向け” という概念そのもの」について、自分自身の備忘録も兼ねて記していきたい。

 

 

※以下、『仮面ライダー BLACK SUN』や、一部仮面ライダーシリーズ作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

 

仮面ライダー BLACK SUN』は、つい先日、2022年10月28日にAmazon primeでの独占配信が開始された『仮面ライダー』シリーズ最新作。 

体裁としては、1987年放送のTV作品であり、シリーズでも屈指の人気を誇る『仮面ライダーBLACK』のリブート作品であるのだが、「40分×10話」という、限りなく一般層向けのドラマに準ずる作品フォーマットや、それが一度に解禁されるという大胆な配信スケジュール、そしてメガホンを取るのが『孤狼の血』などで知られ、バイオレンス描写に定評のある監督=白石和彌氏であるなど、どう考えても「ただのリブートでは終わらない」ことが配信開始前からほぼ確定。結果、多くの特撮ファンが配信初日から狂喜乱舞する程の「話題作」となっていた。 

かくして蓋を開けてみると、大方の予想通り、『仮面ライダー』シリーズの作品としても『仮面ライダーBLACK』のリブート作品としても、極めて異質……そして「大人向け」な仕上がりとなっていた本作。その是非を考えるためには、やはり「大人向け」という言葉について考える必要がある。 

まずは、この言葉の指す意味について2つの観点から考えてみたい。

 

 

何をもって「大人向け」と呼ぶのか、何をもって「子ども向け」と呼ぶのか。何かとややこしいこの問題には2つの観点がある。それは「外面的」な観点「内面的」な観点だ。 

 

まず「外面的な観点」について、これは比較的分かりやすいもので、謂わば番組としての枠組み (=体裁)  の問題。 

この観点からすると、大人向け作品と呼べるのは、相応のレーティングが設定されている『BLACK SUN』や『仮面ライダー THE NEXT』は勿論、レーティングこそ設定されていないものの、未成年者の鑑賞についての注意書きが行われており、『仮面ライダーアマゾン』のリブートという体裁で作られた『仮面ライダーアマゾンズ』や、作品コンセプトやセンシティブな描写が明確に高年齢層をメインターゲットとしていた『真・仮面ライダー 序章』などだろうか。

 

 

一方、TV作品においても『555』や『キバ』のように「大人向け」と言われる作品は数多く存在している。しかし、これらの作品についてその枠組みを考えるならば、大前提としてそれは「子ども向け」と言えるだろう。 

バンダイがスポンサーとなり、玩具を売ることを番組としての主目的の一つに据えているからこそ、そのメインターゲットは当然ながら子ども。内容の如何も加味するなら、それは「大人でも楽しめる子ども向け作品」と呼ぶのが相応しいのではないだろうか。

 


一方、もう一つの観点である「内面的な観点」……つまりは、その作品の「中身」がどこに向けて作られたか、という点だが、こちらも概ね「外面的な観点」と同じことが言える。 

分かりやすい例として、ここでは平成仮面ライダーシリーズ第1作こと『仮面ライダークウガ』を挙げてみたい。

 

 

本作は「クウガVSグロンギ」という『仮面ライダー』らしいシンプルな対立軸を据えつつも、濃密かつ幅広い人間ドラマを描いているのが特徴の作品。その中には、子どもの時分では明確に理解することが困難であるものも非常に多い。 

しかし、子どもにとって難解だからといって、それがイコール「大人向け」であるかというと、そうではないと思う。たとえ明確に理解できなかったとしても、それでも伝えたい、心の片隅に残っているだけでもいい、そんな想いを込めて、子どもにこそ向けられて作られたと思われる内容に仕上がっているのだ。  

居場所を求めて彷徨う少年少女の苦悩、すれ違いの中で深まっていく家族の絆、暴力と、それを背負うことの痛ましさ……それらは、初めてリアルタイムで見た仮面ライダーが『クウガ』であった当時の自分にとって鮮明に理解できるものではなかったけれど、それでも、クウガ=雄介は勿論、あの世界の「それぞれの場所」で戦う人々の生き様は強烈に胸に焼き付いていたし、そんな『クウガ』に幼いながらに衝撃を受けたからこそ、今でも自分は特撮ヒーロー番組を追い続けている。 

つまりは、作品の複雑さ (敷居の高さ) や雰囲気からだけでは、その作品が「大人向けか子ども向けか」と一義的に言うことはできないのではないだろうか。


そして『クウガ』は、メインターゲットを児童層として作られたものではあるが……もとい、子どもたちに向けて作られたものだからこそ、どこまでも真摯に、本気で作られた作品であった。 

その常識外れなほど作り込まれた物語は、必然、メインターゲットである子どもの親世代をはじめとした幅広い年代のファンの心を掴んでみせたし、その追い風となったのは『クウガ』が描く「子どもにこそ向けられたメッセージ」が、大人にも響くものであったことだろう。だからこそ、自分は『クウガ』をはじめとする、難解な物語性を持つ作品群も「大人でも楽しめる子ども向け作品」と呼ぶべきだと思うのだ。

 


一方で難しいのが、「内面的な観点」における「大人向け」とは何なのか……つまりは、「“大人に向けてこそ作られた”と言える内容の作品」とは一体何なのか、ということだ。

 

前述した『クウガ』などは、子どもには難しい内容であっても「子どもにこそ伝えたいメッセージ」が満ちており、また、それらが大人にも通ずるものを持っている=大人でも楽しめるものだからこそ、自分はそれらの作品を「大人でも楽しめる子ども向け作品」と表現した。ならば、大人向けの作品にはその逆=「大人にこそ伝えたいメッセージ」というものが存在するのではないだろうか。 

しかし、そう推測したまでは良かったものの、自分はこれまで腑に落ちる答えに出会えていなかった。というのも、「子どもではなく、大人にこそ伝えたいメッセージ」というものが、これまで見てきた「大人向けの仮面ライダー作品」群にはこれといって見受けられないように感じられたのである。 

 

 

『アマゾンズ』など、大人向けと呼ばれる作品群の特筆すべき個性と言えば、バイオレンス描写をはじめとする「子どもには刺激が強すぎる描写」でしか作れないカタルシスやエンターテインメント性といったものが挙げられる。 

では、その内容……メッセージ性などはどうか? というと、そういった作品群で描かれているメッセージ性は「子どもに向けられた」ものと、本質的には違うように思えなかった。これは決して悪い意味ではなく、「子ども向けの作品におけるメッセージが、大人にも通ずるものである」という、シンプルにそれだけのことであるのだと思う。

 

でも、だからこそ気になってしまうのだ。主に子ども向け作品として作られている仮面ライダーをわざわざ「大人向け」と大手を振って作るのなら、その中に込められているメッセージもまた「大人にこそ向けられたもの」になって然るべきではないのかと。 

では、大人にこそ向けられたメッセージとは、メインターゲットが子どもではなく、大人だからこそ伝えたいものとは一体何なのか……。それが自分には長らく分からなかったし、だからこそ『アマゾンズ』や、他の特撮ヒーローシリーズの「大人向け」として作られたシリーズに、面白いと思うことはあっても、胸にガツンと響くような視聴体験はそう多くなかった。 

そう、この『仮面ライダー BLACK SUN』を見るまでは。

 

 

では『BLACK SUN』がどれほど「大人向け」だったのか、どんな「大人にこそ向けられたメッセージ」を持った作品だったのか。そのキーになるのが、『BLACK SUN』の主題となる「差別問題」だ。

 

 

本作の舞台は、PVなどで大々的にアピールされている通り「人間」とは別に「怪人」という種族が存在しており、その怪人に対して激しい差別が行われている……という世界線現代日本。 

ここでまず触れておきたいのが、「異なる種の共存」をテーマに掲げた作品は多いが、「異なる種への差別」を作品のテーマとして掲げた作品は決して多くなかったということ。

 

例えば、作品そのもののテーマとして「怪人と人間の共存の可否を問う」ものとしては、真っ先に挙げられるのが『555』『剣』『キバ』といった作品群だろう。しかし、これらの作品が作品全体のテーマとして「差別」を描いたかというと、そういう訳ではないように思う。なぜなら、オルフェノクもアンデッドもファンガイアも「人間より遥かに高い能力を持つ種」であり、人間と明確な力関係の差が示されていたため、怪人側が人間を見下すことはあっても、所謂「差別」=怪人が人間を面と向かって蔑む、あるいはその逆のような描写は決して多くなかった。それもそのはず、人間社会における「差別」とは、社会性やルールをある程度同じくする者が、「自分より社会的に弱い」者を合法的に排除するために行われるものだからだ。 

(似たものとして挙げられる数少ない例の一つが、『劇場版仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』における、レジスタンス内での木場たちへの扱い。しかし、それは木場たちがレジスタンスの一員として、同じ文化・同じルールの中で人間と共闘しており、同時に人間に刃を向けないことが間違いなかったからこそ起こり得た特例と言えるかもしれない)

 

 

そんな「差別問題」を『BLACK SUN』が扱うにあたっては、本作の人間―怪人のパワーバランスが非常に珍しい形=「怪人は人間より強力だが、数の暴力や銃火器には勝てない」という、それこそ日曜朝の仮面ライダーシリーズでは有り得ない形で描かれていたことが大きい。 

『BLACK SUN』の世界では、人間と怪人の力関係は「絶対的」ではない。個体差はあるが、怪人の身体能力はおおよそ「プロレスラー」のようなものであり、並みの人間では太刀打ちできなくても、銃火器を持った警察や自衛官にかかれば容易に殺害することができる……というもの。それは即ち、弱い人間でも「法」を盾にしたり集団で襲いかかったりすれば、相手が怪人であっても優位を取れるということだ。 

実際に、作中ではバスの運転手に「怪人を乗せるの!?」などと堂々と言ってのける市民がいたし、雀怪人こと俊介 (演.木村航碁) は、逃げることさえ叶わずに一般人の手で虐殺されてしまった。 これらの描写は、前述した特異な設定背景があるからこそ描けた、『仮面ライダー』シリーズではおそらく初と言えるほどに露骨な「差別」描写と言えるだろう。

 

そして、問題はこの痛烈な差別描写が、非常に現実的かつ生々しいものだったこと。 

その描かれ方は、従来の「黒人差別」や「学生運動」など様々なものを混ぜ合わせたものになっていたけれども、個人的には、これは「怪人」という、現実には存在しない種に対する差別の描き方として非常にクレバーだったように思う。  

 

確かに、対象がフィクションの存在であれば、それに対する差別も劇中で根拠が描写され、それに対して積み上がってしまった独自の「差別」であるというのが自然な描写かもしれない。しかし、ここで忘れてはならないのが『BLACK SUN』はあくまで現実における差別問題や、人の悪性に深く切り込む物語であること。 

だからこそ、そこで行われている差別は現実のそれと似通ったものであったし、現実と似通ったものだからこそ、その痛ましさを視聴者である我々に最低限の描写で伝えることができる。「そうはならないだろう」と思われる危険を冒してでも、現実の差別描写と繋がりを持たせることで「怪人差別」の痛ましさを視聴者に効果的に伝え「他人事」感を弱めること。それが、一連の差別描写の狙いだったのではないだろうか。

 

 

一方、前述した差別描写が「現実」のそれに近かったということは、それを行う登場人物たちの悪性も現実のそれに限りなく近いことを意味している。 

反怪人団体の代表だった井垣 (演.今野浩喜) は、その物言いは勿論、自分は怪人たちに非道な行いをしておきながら、自分に反撃した俊介に対して尋常でない恨みを持ち、殺すだけに留まらず、晒し首にして自宅前に吊るすという極悪非道をやってのけた。 

このような、体の良い「正義」で自分を飾り、醜いエゴを傍若無人に気持ち良く発散するという振る舞いは、程度の違いはあれど「現実に存在している悪人」を高い精度でトレースしていたし、このような「現実的な悪辣さ・醜さ」の描写精度は、総理大臣である堂波 (演.ルー大柴) とその一派など、他の登場人物たちにおいても凄まじいものがあった。 

(この総理大臣周りの描写が、キャスティング含め特定個人を想起させる向きが強すぎるものだったのは流石にモラルとしてどうかと首を傾げてしまうけれど)

 

 

しかし、この『BLACK SUN』が大人向けだと感じたのは、何も差別描写があるから、それらを行う人間たちが生々しいから……という訳ではない。それら生々しい「悪性」が跋扈することで「現実の写し鏡」と化した世界に対し、主人公たちが突き付けた「答え」とその姿に、限りなく「大人にこそ向けられたメッセージ」を感じたからだ。

 

 

『BLACK SUN』のヒロイン兼、実質的な主人公でもある和泉葵 (演.平澤宏々路) は、自らが蟷螂怪人にされたこと、親友の俊介が殺されたこと、そして、光太郎 (演.西島秀俊) やビルゲニア (演.三浦貴大) らとの交流を経て、自身が当初掲げていた言葉を自ら否定し、世界に文字通りの「宣戦布告」を行ってみせる。 

「永遠に戦うのではなく、戦いを終わらせるために戦う」という彼女が背負うのが、無限のマークから変化した「線と "ピリオド" 」――同時に、かつての仮面ライダーBLACK (兼ゴルゴム) のトレードマークであるなど、一見ポジティブな描かれ方をしているこの選択だが、その実態が「テロ組織として世界に挑むこと」だと明かされるや否や意味合いが一変、視聴者である我々に、大きな揺さぶりがかけられることとなった。

 

 

『BLACK SUN』において大きな問題であった「怪人差別」は、創世王が死んだことでおそらく遠くないうちに (怪人の絶滅という形で) 終わりを告げるのだろう。しかし、その果てに待っていたのは「移民差別」という、その根本を怪人差別と同じ「人間の業と悪性、濁りきった世界構造」に持つ深刻な問題であった。 

一つ一つの問題を潰したとしても、すぐに「次」が現れる。それもそのはず、ただでさえ人間という不完全な生命体が平和な共同体を作る以上、どこかでその皺寄せが歪みとなって噴出し続けるのはある種の必然であるし、そんな問題が起こらない世界……葵の言う「命を奪い合わない世界」を目指すのなら、その方法は確かに「世界を根本から変える」ことだけなのかもしれない。 

しかし、その方法として葵が選んだ「テロ組織として戦う」という手段は、果たして正しいのだろうか。その正当性は、おそらく誰よりも製作陣自身が否定していると自分は感じた。 

なぜなら、葵の組織員への指導内容が「命を奪うこと」に特化したものであることを強調して見せているだけでなく、葵が少年兵を指導するシーンの直前に、彼女が子どもに手を差し伸べるシーンをわざわざ入れていることで、彼女の行為が「誰かを救える一方で、誰かを犠牲にするもの」であるという事実を浮き彫りにしているからだ。  

彼女がその事に自覚的な上で諦めているのかどうか、それとも、それを甘い考えとして切り捨ててしまったのかは分からないけれど、少なくとも、作中において彼女の選択が「肯定されていない」のは間違いないだろう。  

 

命を奪うことで生まれた平和は、いつか同じ状況を作り出してしまう。信彦 (演.中村倫也) が作り出そうとした世界が否定されたように、葵の行いもまた、否定されるべき世界のように描かれている。 

つまり、この『BLACK SUN』においては、人間の悪性が生む悲劇の連鎖を断ち切る希望=「光太郎と葵の紡いだ絆」が明確に描かれた一方、「その希望をどうすれば形にできるのか」までは描かれていない。それはつまり、この世界に「答え」がない=「この世界は既に“手遅れ”になってしまった」ことを意味しているのではないだろうか。 

(こう考えると、BLACKのマークが違う意味合いを匂わせてくるし、皮肉にも漫画版『仮面ライダーBlack』に通ずるものさえ感じてしまう)

 

 

そして、自分がこの『BLACK SUN』に感じた「大人にこそ向けられたメッセージ」の最たるものはここにある。 

本作で描かれた人間の悪性は様々だが、井垣のような「自分の正義に溺れて他者を傷付ける傲慢」も、堂波のような「私利私欲の為に人を欺く傲慢」も、そして何より、そんな世界の在り方に「見て見ぬふりをしようとする傲慢」も、そのどれもが、現実の大人なら誰もが持ち得る「ごく身近な悪性」なのだ。葵が最後の演説で画面越しに語りかけた真の相手は、そんな傲慢を持ちながらも、井垣や堂波たちを「他人/キャラクター」として見ている我々自身だったのだと思う。 

そう、『BLACK SUN』は、我々に警鐘を鳴らすのではなく、これらの傲慢の「当事者」であるかもしれない我々の喉元に「なぜ、他人事だと思えるのか」という刃を突き付けてくる物語。そのメッセージは、いつかの大人である子どもたちではなく、今、この世界に向き合っている我々大人にこそ向けられたものであり、だからこそ『BLACK SUN』は限りなく現実に近い形で描かれたのだろう。

 

そんな『BLACK SUN』は、前述のように限りなく希望のない結末を迎えた。光太郎と信彦に託された祈りが叶わずに潰えてしまったように、葵が光太郎の意思を受け継ぎながらも、テロという手段しか取れなかったように、あの世界は結果的に「救われなかった」のだ。 

しかし、それは決してあの世界に限った話ではない。あの世界と状況は違えど、我々も同じような悪性を持っている人間。いつかは我々の現実も『BLACK SUN』の世界のように、先のない、答えのないバッドエンドに至ってしまうかもしれない。そうならないように、我々大人が他人事ではなく当事者として向き合うべきなのだと、そんな「怒り」を自分は本作から感じたし、そういった意味で、本作は自分にとって紛れもない「大人向けの作品」だったのだ。

 

 

これらが『BLACK SUN』を見終えた筆者に去来した、最も大きな感想だった。つくづく『仮面ライダー』の感想には見えないと自分でも思ってしまう。 

勿論、光太郎と信彦が初めてライダーに「変身」する際のカタルシスが凄い! とか、西島秀俊中村倫也の変身ポーズがカッコよすぎる! とか、BLACKのオマージュが良くも悪くも愛に溢れていて俺は好きだぜ! とか、葵の変身や最後の「特訓」が活きてしまうシーンが良すぎたとか、「10話のドラマ」としてはメリハリに欠けるが「400分以上の映画」として見るとカタルシスが弱いというこのバランス感覚はいかがなものか、とか、総理の外見や戦争法案という単語などに個人的な思想が出すぎていて没入感が削がれるとか、仮面ライダーBLACKのリブートでこれをやらんでも……とか、そもそもこの作品が『仮面ライダー』としてどうだったのか……等々、本作に対しては良くも悪くも言いたいことが山ほどある。 

しかしそれでも、視聴後の自分が抱いたのは「大人にこそ向けられた仮面ライダー」を描いてくれたことの感動、そして突き付けられた刃の鋭さへの恐怖。それは、文字通りの類を見ない視聴体験だった。 

そんな『仮面ライダー』が生まれてくれたこと、そして、この作品が『仮面ライダーBLACKのリブート』だったことで大きな話題を呼び、多くの「大人」の目に触れたこと、そのことに、自分は好きとか嫌いとかそういった感覚以前の、とても大きな意義を感じたのである。

 

Did you see the sunrise?

Did you see the sunrise?

  • 超学生
  • J-Pop
  • ¥255

 

本作が突き付けてきた強烈すぎるメッセージ。詳しくはここで語るべきことではないけれど、自分にはとても刺さるものだった。 

自分が正しいからと内心で言い訳をしながら誰かに心ない行いをしたこと、私利私欲の為に嘘をついたこと、誰かの悪事に見て見ぬふりをしたこと、大なり小なり、そういった自分自身の「悪性」には心当たりがあるし、そんな自分をとても恥ずかしく思う。 

だからといって「具体的な行動を起こせるのか」と言われると、人生はそう簡単なものではないし、本作で見られたような行動に出て世界を変えるぞ! などとは到底思えない。けれど、誰かのために自分ができることは何なのか、自分が今生きている現実や、この社会に「当事者」として向き合うためにはどうするべきなのか、自分にこれからも問いかけ続けて、少しでもできることを形にしていかなければならないのだと思う。   

『BLACK SUN』が良い作品だったのかどうか、自分はこの作品が好きなのかどうなのか……と、そういった感想を出すにはまだ時間がかかってしまいそうだけれど、この作品を見ることに「価値があった」と思えた気持ちは確かなものであるし、そう思わせてくれる作品に出会えたことに、今はひとまず心からの感謝を捧げたい。

 

その上で、敢えて一つ願うことがあるとすれば、それはこの作品を製作した会社自身が、本作が突き付けてくる「刃」に正面から向き合ってくれること。 

仮面ライダースーパー戦隊といった作品に育てられ、彼らの背中に憧れてきた一ファンとして、同社が「見て見ぬふり」をしないことを、今はただ祈るばかりだ。

総括感想『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』祝10周年! “歌って戦う” 少女たちが魅せた、緻密で奇跡的なシンクロニシティ

シンフォギアって、何?」

 

もし、そう思われながらこのページに足を運んだ方がいるのなら、どうか何も言わずにこの動画を見て頂きたい。

 


※本動画は第3期『戦姫絶唱シンフォギアGX』の予告PVです。第2期終盤の映像も使われていますので、ご注意ください。

 

そう。

これが『シンフォギア』です。

 

 


そんな『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズは、2022年1月6日を持ってなんと放送開始から10周年。

 

 

「キャラクターが “歌いながら戦う”」という、常人が聞いたらおよそ正気とは思えないコンセプトを持ち、実際にイロモノアニメとしてその名を馳せたものの、気が付けばTVシリーズは通算5作品が製作され、全作品のキャラクターソングCDをまとめた豪華CD-BOXも発売され、更には各TVシリーズBlu-ray BOXも発売がほぼ確定。パチンコやスマートフォン向けゲームもヒットの真っ只中……と、いつの間にか大人気コンテンツとなっており、現在もU-NEXTやdアニメストアといった配信サイトで人気を集める『戦姫絶唱シンフォギア』。   

シンフォギアを知らない方にはその魅力を届けるため、適合者の方とは一緒にその魅力を噛み締めるため、10周年というこの絶好の機会に、同作品が築いた軌跡を各TVシリーズごとに振り返ってみたい。 

今回の記事で取り上げるのは、記念すべき第1作『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』。文中には本編の内容(ネタバレ)が含まれますが、特に核心的なものには踏み込まないよう留意しておりますので、是非お付き合いください。

 


戦姫絶唱シンフォギア』とは、2012年1月6日から全13話が放送されたTVアニメ作品。少し未来の日本を舞台に、人を炭化させる特異災害「ノイズ」に対抗できる唯一の手段となる外装「シンフォギア」を纏った少女たちの戦いを描いた物語だ。 

その最大の特徴は、シンフォギアを纏った少女たちが “歌いながら戦う” こと。要は、全ての戦いにおいて挿入歌が流れており、それを戦う彼女たち自身が歌っているのである。 

このことについては劇中や公式サイトに説明があるが、言ってしまえば全ては辻褄合わせ。要は、「キャラクターソング」と「挿入歌」という美味しい文化同士をくっつけた結果、このような演出になったというだけの話である。そうはならんやろ? なっとるやろがい!

 


(公式サイトによる説明。上手いことはぐらかされている気がしないでもない)

 

さて、では実際の “歌いながら戦う” とはどんなものなのか? というと、ズバリこんな感じ↓である。 


※本動画は第5期『戦姫絶唱シンフォギアXV』の映像です。  

諸々気になることや「どういうこと!?」となる部分はあると思う。けれど、そのスタイリッシュなアクションや画と歌のシンクロぶり (時には音ハメまで) には、その困惑以上のカッコよさが感じられないだろうか。  

映像のラストで「台詞と歌詞が重なる」ことが大きなカタルシスを生んでいる点も然り、感覚としては “ミュージカルの手法を部分的に持ち込んだアクションアニメ” という表現が適切かもしれない。

 

勿論というか何というか、筆者も『シンフォギア』を最初に見た時は「歌いながら戦う」という謎のシチュエーションに大困惑だったのだけれど、見ているうちにそれは段々気にならなくなってくる。それは、本作の魅力=「魅力的なシナリオ」「カタルシスに満ちた “歌” の演出」「ド派手で、ケレン味全開のアクション」の3点によるところが大きいだろう。 

そして、本記事で取り上げる『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』は、この3点のうち、とりわけ「シナリオ」と「演出」においてシリーズ屈指のクオリティを誇る、ある種「原点にして頂点」と呼べる作品なのである。

 


シンフォギア』の主人公を務めるのは、「人助け」を趣味とする高校1年生の少女=立花響 (CV.悠木碧) 。朗らかな顔をしているが、後に (作画の変化もあって) シリーズ随一のイケメンと呼ばれるようになったり、シリーズの度に熱い名言を残したりと、まさにザ・主人公と呼べる存在だ。 

撃槍・ガングニール

撃槍・ガングニール

しかし、響は物語開始時点ではシンフォギアを纏う能力を持っておらず、世界を襲う謎の怪物=特異災害「ノイズ」と戦っていたのは、天羽奏 (CV.高山みなみ) と風鳴翼 (CV.水樹奈々) の2人。 

本作は、そんな天羽奏の纏うシンフォギア=聖遺物「ガングニール」の破片で瀕死の重症を負ってしまった響を守るため、奏がシンフォギアの最終兵器「絶唱」を使い、大量のノイズ殲滅と引き換えにその命を散らすという衝撃的な展開で幕を開ける。 


(動画冒頭、「ベスト・オブ・シンフォギア 3位」のシーンをご覧ください!)


その2年後、再び襲来したノイズから少女を守ろうとする響の想いに応えるように、響の体内に眠っていた奏の忘れ形見=ガングニールが目を覚ます。 

本作は、こうしてシンフォギアを纏う「装者」となった響が、親友であり、本作の実質的なヒロインとも言える小日向未来 (CV.井口裕香) や、奏のパートナーだった風鳴翼たちと時にすれ違い、時に手を繋ぐことで、人として/ 戦士として成長していく……という物語になっている。

 

Synchrogazer

Synchrogazer

 

世界規模の災厄「ノイズ」が敵であることなどから、一見スケールの大きな物語であるような印象を受ける (し、実際終盤は物凄いことになっていく) ものの、本作のベースとなるのはあくまで等身大の少女たちの物語。  

確かに、本作にはノイズという明確な「敵」キャラクターがいるものの、響や翼たちシンフォギア装者がノイズに苦戦する様子にはさほどスポットが当てられることはない。その分、響や翼たちにとって大きな壁となるのが「不和」である。

 

シンフォギア』シリーズを貫く理念として「 “人と人との不和” こそが真の敵」というものがあり、本作はシリーズ第1作ということもあってかそのことが特に色濃く反映された作品。 

響は、機密情報保護の観点から親友=未来にシンフォギア装者であることを打ち明けられず、そのせいで徐々に疎遠になってしまうばかりか、翼に対しても「奏さんの代わりになります」と言ってしまったことで逆鱗に触れてしまう。そして、そんな未来や翼もまたそれぞれに葛藤を抱えており……と、本作ではこのような個々の葛藤・すれ違いが非常に丁寧に描かれており、「ノイズ以上にシンフォギア装者を苦しめる敵」としての説得力に満ちている。 

そんな繊細なドラマと、彼女たちがそれらの不和を乗り越え、手を繋いでいく姿。そして、彼女たち「子ども」を支える大人たち=ノイズ対策を担う政府組織、特異災害対策機動部二課の司令こと風鳴弦十郎 (CV.石川英郎) や、同じく二課のエージェントであり、翼の表の顔=歌手業を支えるマネージャーでもある緒川慎次 (CV.保志総一朗) といった、頼もしい大人たちが紡いでいく群像劇。それこそが、本作『シンフォギア (第1期) 』の大きな見所と言えるだろう。

 


さて、気になるのは「そんな魅力的な物語に“歌”がどう関わってくるのか」という点。 

シンフォギア』はその期待を裏切ることなく、他の作品群とは一線を画する……という言葉ではとても足りない程の、あまりにも「アツい」ないし「感動的な」形で“歌” を魅せてくれる。そして驚くべきことに、第1作からTVシリーズ第5期『XV』に至るまで、本シリーズは毎シーズンごとに新たな方向性で “歌” を魅せてくれるのである。

 

そんなシリーズの先陣を切った『シンフォギア (第1期) 』。本作における “歌” は「物語における画竜点睛」として、前述の通りシリーズの「原点にして頂点」たる眩い輝きを見せてくれていた。

 

 

シンフォギア (第1期) 』において、最も “歌” に近いポジションにいるのは、主人公の立花響よりも、むしろ彼女の先輩装者=風鳴翼である。 

絶刀・天羽々斬

絶刀・天羽々斬

表向きには大人気のアイドル歌手、しかしてその実態は聖遺物「天羽々斬」のシンフォギア装者として人々を守る防人である翼。 

敬愛するパートナー=天羽奏が死んだ原因が「己の未熟さ」にあるという後悔・自責に囚われながら戦い続けてきた彼女には、歌への愛も、ガングニールの継承者=響という存在を受け入れるだけの心の余裕も残っておらず、物語当初はクール……というより、まるで抜き身の刃のような危うい雰囲気を纏っていた。 

そんな彼女が、重傷を負って戦線離脱したことをきっかけに、自分の見ていた世界の狭さ、そして響の懸命で真っ直ぐな想いを知るのが物語中盤。そんな彼女が、遂に響と共闘するEPISODE 7『撃ちてし止まぬ運命のもとに』のカタルシスたるや (己の殻を破ったことで圧倒的な戦いを見せる翼の勇姿もあって) 凄まじいものだった。  

 

 

そうして、名実共に響の良き仲間となった翼。彼女の存在は響の先達/目標として作品に大きな影響を与えていたが、ある意味、それ以上に翼が『シンフォギア』で担っていた大きな役割が「歌は “戦うための道具” ではない」と示すことだろう。  

FLIGHT FEATHERS

FLIGHT FEATHERS

前述の通り、物語当初の翼は奏の死によって心を閉ざしており、歌手活動も文字通りの「仕事」として割り切って取り組んでいた。 

しかし、響との和解によって「日常」に触れたことや、イギリスの大手レコード会社から海外展開の打診があったことをきっかけに、彼女は「歌を愛し、歌で誰かに希望を届けることを愛した」かつての想いを取り戻すことになる。 

そして、EPISODE 9『防人の歌』終盤、翼はかつて奏が亡くなった場所で再び歌を歌い、「 (奏を守れなかった、不甲斐ない自分が) 自分の夢を追いかけたい……というワガママを、皆は許してくれるだろうか」と観客に問いかける。 

 

どこからともなく響いた奏の言葉、そして観客の暖かな歓迎という “赦し” 。この時歌う曲名『FLIGHT FEATHERS』の通り、翼が「抱き続けてきた後悔と自責から解放され、夢への一歩を踏み出す」姿は、まさに涙なくして見られないもの。 

二課のエージェントであり、彼女のマネージャーであった緒川と、翼に海外展開を打診したその人である音楽プロデューサー、トニー・グレイザー (CV.中村秀利) との粋なやり取りもあって、シリーズ中でも人気の高い屈指の名シーンだ。 

これら翼の物語は「『シンフォギア』においても、歌は “戦うための道具” ではない」ということをはっきりと示しており、この土台があるからこそ、『シンフォギア』シリーズは多彩な形で「戦いの歌」を描き続けることができたと言えるだろう。

 

 

こうして「風鳴翼が歌うのは、戦場ばかりでないと知れ」という言葉を自らの行動で示していった翼。その一方で、まさに「シンフォギアならでは」の形で歌を魅せてくれたのが、他ならぬ主人公=立花響だ。

 

 

「人助けが趣味」として日夜それを実践するものの、なぜ自分がそんな想いを抱くのかをはっきりとは自覚していなかった響。 

しかし彼女は、翼との衝突をきっかけに己の未熟さを知り、誰かを助けたいと願う理由が「惨劇から救われた分、今度は自分が誰かを助けたい」という想いにあること、そして後に、その想いの正体が「惨劇から生き残った負い目」ではなく「自分を救った存在=奏から、ガングニールと共に受け継いだ気持ち」だということを知る。 

こうして精神的に成長するだけでなく、二課の司令=風鳴弦十郎を師として修行に励み、肉体的にも大きな成長を遂げた彼女は、EPISODE 6『兆しの行方は』において遂に翼と和解。そして、以前翼と相討ちになった謎の敵=聖遺物「ネフシュタンの鎧」を纏う少女に挑むべくシンフォギアを纏う。すると―― 

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

流れ出す、これまで響の戦いを彩ってきた『撃槍・ガングニール』とは異なるメロディ。それは、なんと先代ガングニール装者=天羽奏の歌である『君ト云ウ 音奏デ 尽キルマデ』と全く同じもの!   

君ト云ウ 音奏デ 尽キルマデ

君ト云ウ 音奏デ 尽キルマデ

かつては何も知らぬまま「奏の代わりになる」と宣い、翼の逆鱗に触れてしまった響。そこから成長を遂げた彼女が「奏と同じメロディで、異なる歌詞を歌う」というのは、響が “奏の代わり” ではなく、あくまで “立花響” として奏と同じステージに立った=真のシンフォギア装者となったことの何よりの証左なのだろうと思う。

 

挿入歌でキャラクターの心情を表現する……というのは昨今多くの作品で見受けられるけれども、『シンフォギア』における歌は、シンフォギアを纏った彼女たちの秘めた想いが「言葉となって口から溢れ出ている」もの。 

挿入歌として流れているか、登場人物本人が作中で実際に歌っているか……。たったそれだけの違いかもしれないけれど、その違いこそ、シンフォギアの歌が印象的かつ、彼女たちの写し鏡となっている一番の理由。だからこそ「響の歌が変わる衝撃」も「響の抱いた覚悟」もこれ以上なくダイレクトに叩き込まれてくる。 

このように「歌が物語における画竜点睛として、特大のカタルシスを生む」ことこそがシンフォギア最大の魅力であり、真骨頂と呼べるもの。中でも「物語とのシンクロニシティ」という点においてシリーズ随一の輝きを見せてくれるのがこの『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』であり、その最大の魅力と言えるだろう。

 

 

こうして、等身大の丁寧なドラマと、カタルシス抜群の「歌」演出で右肩上がりに盛り上がっていく本作。その後半のキーパーソンとなるのが、4人目のシンフォギア装者=聖遺物「イチイバル」の適合者、雪音クリス (CV.高垣彩陽) である。 

魔弓・イチイバル

魔弓・イチイバル

戦地で両親を失って以降、本作の黒幕である「フィーネ」の手により道具として育てられた彼女は、当初は聖遺物「イチイバル」のシンフォギアや、シンフォギアとは系統を異にする鎧=完全聖遺物「ネフシュタンの鎧」を纏って響たち特異災害対策機動部二課を襲撃する。しかし、度重なる失敗からフィーネに見放され、更にはそのフィーネが操るノイズに追われる立場となってしまう。本作後半は、そんなクリスを中心として全てが一つに纏まっていく流れが大きな見所だ。 

響は「同じ人間なのだから、戦う必要なんてない!」とクリスを説得し、翼もまた「立花に当てられたのかもな」とクリスにその手を伸ばす。 

偶然にもクリスと出会った未来は、彼女を介抱する中で、その言葉から響との仲直りのきっかけを見付け出す。 

そして、二度も親を失ったクリスを救うために「大人」として奮闘する弦十郎……。彼女を軸として新たな物語が生まれ、それが響たちの成長を形にして紡いでいくのである。  

そんな積み重ねが結実するのが第10話『繋いだ手だけが紡ぐもの』のクライマックス、響・翼と手を繋ぐことで共闘を誓ったクリスが、空を飛びつつ雑兵を生み出す強敵・戦艦型ノイズを相手に自らの「切り札」を明かすシーン。 

   

『魔弓・イチイバル』から『繋いだ手だけが紡ぐもの』へ。響同様に「新たな歌」を口ずさみながら、超巨大ミサイルを始めとする全弾発射で戦艦ノイズを殲滅するクリス! 彼女の門出を飾るに相応しい、これもまた『シンフォギア』らしいロマン全開の名シーンだ。 

このクリスの全弾発射のような「ケレン味とロマン全開のアクションシーン」はシンフォギアシリーズの名物。ある意味、シンフォギアという作品の魅力がこれでもかと詰まった奇跡の2分と言っても差し支えないだろう。

 

繋いだ手だけが紡ぐもの

繋いだ手だけが紡ぐもの


シンフォギア』シリーズのうち、特に第1期が突出したもの=「魅力的なシナリオ」そして「カタルシスに満ちた “歌” の演出」について語って既に7000字オーバー。しかし、本作にはここまでの文章で語りきれなかった魅力が山ほどある。

 

未来と響の和解が描かれるエピソードで、個人的にシリーズ中1,2を争う名編だと感じているEPISODE 8『陽だまりに翳りなく』や、小日向未来というキャラクターの魅力。 

フィーネと装者たちの最終決戦が描かれる最終3部作 (ド傑作)。 

(クリスの項で少し触れたけれど) シンフォギアシリーズの名物であるケレン味溢れるバトルアクションや、ド派手で豪快な必殺技の数々。 

ワイルドアームズ』シリーズなどで知られるゲームクリエイターで、本作の脚本・シリーズ構成を務める金子彰史が紡ぐ癖になる名言たちや、「奏から響へ受け継がれたものは何だったのか」を巡るシナリオに代表される、ヒロイックなエッセンス。 

BanG Dream!プロジェクト』のプロデュースでも知られる音楽制作ブランド「Elements Garden」がほぼ全曲を手掛ける、シンフォギアと切っても切り離せない楽曲群。 

(この頃はまだ大人しいが)ウルトラマン』シリーズをはじめとする特撮・アニメ・映画作品への愛に溢れたオマージュの数々……。

 

これら全てについて語るのは難しいけれども、最後に一つ、自分が『シンフォギア』に惹かれてやまない一番の理由だけでも挙げておきたい。それは、この作品に製作陣の「好き」が溢れていること。   

逆光のフリューゲル

逆光のフリューゲル

音楽、ドラマ、アクション、設定……。『シンフォギア』はその要素全てに、製作陣の「これがやりたい!」「これが好き!」という熱い思いがこれでもかと詰まっている。あらゆるシーンが、こちらに向けて投げられる「俺たちの“好き”を喰らえェェーーーーッ!!」という魂の豪速球なのだ。 

勿論、そういった作品であるが故のバランスの悪さはある。これまで「丁寧に作られている」と述べてきたが、それはそれとして「歌で戦う」という設定をはじめ、本作は (理屈はちゃんと付けられていることが大半だけれども) ツッコミどころが多い部類の作品だ。だからこそ『シンフォギア』は「合わない人は合わない」作品だろうし、製作陣もそのことを自覚しているのか、続編の『G』では「ついて来れるヤツだけついて来い!」といういかにもな台詞があったりする。 

しかし、「ついて来れるヤツ」には……私のように、多少の粗があっても「この作品にしかないようなアツさ」を求めている人にとっては、『シンフォギア』は間違いなく唯一無二の作品となってくれる。この作品でしか得られない「歌」を核として爆発する圧倒的なカタルシスが、何より熱く魂を震わせてくれるのである。本作のクライマックスで描かれた、この伝説のシーンのように。 

 

Meteor Light

Meteor Light

  • 高垣 彩陽
  • アニメ
  • ¥255


改めて振り返っても……もとい、振り返れば振り返るほどに名作だと痛感する『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』。そして、名作であるからこそ、本作は「歴史の始まり」になった。 

戦姫絶唱シンフォギア』から『シンフォギアG』へ。そして『シンフォギアGX』『シンフォギアAXZ』と続き、5期『シンフォギアXV』にて完結した本シリーズ。そんな5作品の歴史を振り返る展示イベント『戦姫絶唱シンフォギア 10周年記念展 -繋ぐ手と手-』通称「シンフォギア展」が、現在東京都・渋谷にて開催中だ。

 

 

東京会場は10月9日までの開催となり、その後は大阪・名古屋にて順次開催となる本イベントは、おそらく初公開となる秘蔵の設定資料やライブ衣装の展示、そして立体音響による「シリーズ屈指のとある名シーン」の特別上映など見所満載。特に特別上映は想像を絶する落涙モノの仕上がりになっているので、ファンの方はこの千載一遇の機会を是非モノにして頂きたい。

 

 

それでは、今回の記事はここまで。 

次の記事では、シンフォギアシリーズの人気を確たるものとした歴史の転換点にして、第1期と並ぶ名作と名高い第2作=『戦姫絶唱シンフォギアG』を振り返っていきます。個人的な思い入れを差し引いても、シリーズの中で重要なポジションを占めている本作。適合者の方もそうでない方も、是非皆でこの記念すべき10周年を振り返っていきましょう!