『ウルトラマンブレーザー』も折り返しを過ぎた2023年10月。実に57年もの時を越えて、あの “生きたはんぺん” こと二次元怪獣ガヴァドンが帰還した。
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— ウルトラマンブレーザー公式 (@ultraman_series) 2023年10月21日
『ウルトラマンブレーザー』
第15話「朝と夜の間に」
🔹ゲントの息子ジュンが一風変わったクラスメイト・アラタの秘密基地で描いた怪獣ガヴァドン。夜空から怪光線がふりそそぐとガヴァドンの絵が鼓動し始める
⬇視聴はコチラhttps://t.co/dwVg8INwvk#ウルトラマンブレーザー pic.twitter.com/hkIv3nwCrp
次回予告の時点でもちもちふわふわ、それはもう心暖まる癒しエピソードを期待していたし、実際そういう場面もたくさん拝むことができた――のだけれど、このエピソードには、そんな癒しと同じかそれ以上に痛切な “祈り” が満ちていたように感じられて、そのことが視聴から数時間経っても頭を離れない。
こんな時代だからこそたくさんの人に触れてほしい傑作『朝と夜の間に』が少しでも広まるように、という自分自身の祈りも込めて、この30分に込められた「令和の子どもたちへのメッセージ」を紐解いてみたい。
引用:https://twitter.com/ultraman_series/status/1715533511862718658?t=wjr5Lc-s8WDxXZ8Zi_Hwbw&s=19
《目次》
“昭和 / 令和っぽさ” という「表層」
よもや「こんなこと」になるとは思いもしていなかった『朝と夜の間に』視聴中、真っ先に感じたのは「懐かしさ」。「子どもたちが主役で進むエピソード」……というのが、ウルトラシリーズでは随分久しぶり (『ウルトラマンマックス』第35話「M32星雲のアダムとイブ」以来?) のことのように思えたのだ。
加えて「変わり者の子ども」が軸ともなれば、本作の原典にあたる『ウルトラマン』第15話「恐怖の宇宙線」は勿論、昭和ウルトラシリーズでは十八番の展開。おお、昭和ウルトラっぽい……!と思いつつも、そんな「変わり者」=アラタ少年がいじめられている訳でも「変わったヤツ」と言われている訳でもないところに時代を感じたり。
また「時代を感じる」といえば今回の主人公=ヒルマ ジュン。「貴重な休みを自分のために使おうとするゲントを気遣う」という「相手の気持ちを先回りして、相手の為に自分が無理をすることを苦に感じない」姿は、まさに頭トントン→「俺が行く」が代名詞のゲントに瓜二つ。この時は、そんな彼の様子に「大人だァ……」と何も考えず感心してしまっていた。
が、そんなジュンとアラタ、その妹ツムギの引き起こす事態は、急激に「大人びた子ども」である彼らの手に負えるものではなくなっていく。
\X\#ウルトラマンブレーザー/X/
— ウルトラマンブレーザー公式 (@ultraman_series) 2023年10月21日
■ ■ ■ 怪獣大百科📚 ■ ■ ■
<二次元怪獣 #ガヴァドン>
身長:40cm~30m
体重:400g〜20,000t
【特徴】
特殊な宇宙線の影響で
落書きが実体化した怪獣。
太陽が沈むと落書きに戻る。
基本的に寝ているだけ。
▼見逃し配信で復習https://t.co/dwVg8INwvk pic.twitter.com/4QQbPFfYhg
宇宙線の影響で出現した怪獣=二次元怪獣ガヴァドン。ガヴァドンを可愛がっていくアラタたちだったが、小さくても怪獣は怪獣。大人の目に留まってしまったことでガヴァドンを守りきれなくなったアラタたちは「ガヴァドンを巨大怪獣=大人たちの手に負えない存在にする」というまさかの反撃に打って出てしまう。
当然そんなガヴァドンの前にはブレーザーが立ち塞がり、彼は子どもたちの「ガヴァドンに酷いことをしないで」という声の中で戦うことになる――と、ここまでは正直予想通り。「問題」はここからだった。
「ごめんガヴァドン、痛かっただろ……?」
「……?」
「ガヴァドン、君は何も悪くない……。でも、僕らが君を大きくし過ぎちゃったんだ……もう一緒にはいられないんだよ」
「……」
「さようなら、ガヴァドン……」
「おれ、お前と一緒に遊べて、本当に楽しかった……!」
そう、なんとブレーザーとガヴァドンの戦いを見ていたアラタたちは、誰に言われるまでもなく、自分達自身で「自分達の身勝手さがガヴァドンを苦しめている」ことを理解してしまい、その想いに応えるかのように、ブレーザーはガヴァドンを空の彼方へ運び去っていく。
「ウルトラマンが子どもたちに応えてガヴァドンを運び去る」という点では原典と全く同じながら、今回は子どもたちが自ら「ガヴァドンとの別れを決意する」――と、子どもたちが圧倒的に成熟しているのだ。この差に「感動」よりも「恐怖」を感じてしまったのは、果たして自分だけだろうか。
令和の「大人びた」子どもたち
思い返してみれば、今回の主役たち=アラタやジュンたちの行動には他にも「違和感」があった。
秘密基地へのガサ入れを (ガヴァドンありきとはいえ) 撃退してしまったり、見るからに噂好きなおばちゃんたちからガヴァドンを隠し通せてしまったり――。昭和シリーズなら「逃げろ~!」とか「ばれた~!」となるハズがそうはならず、彼らは見事に「大人を躱す」ことに成功してしまっている。この時点で、彼らの「異様に大人びた」パーソナリティが垣間見えていたと言えるかもしれない。
……けれど、彼らは本当に「異様」なのだろうか。大人を軽々と躱せてしまうこのような子どもたちこそ、むしろ今の「当たり前」なのではないだろうか。
三十路の自分にとって、小学生がスマホでLINEをしていたり、テレビよりもYouTubeだったり、夢はYouTuberやTiktokerだったり……と、そんな今の子どもを取り巻く話はまるで別世界のよう。その是非はともかく、自分はそのような話を耳にすると真っ先に「息苦しそうだな」と思ってしまう。
昨今の厳しい世相やコンプライアンスへの傾倒もあって、昨今の子どもを取り巻く環境は、自分から見れば「過保護」とも取れるように様変わりしている。
当然、このような過保護さは子どもの安全に配慮したものであるし、事実、このような変化によって守られた子どもたちが大勢いるのは間違いないだろう。けれど、こういった「過保護さ」に加えて、学歴社会や少子化までもが進行しているこの現代、子どもたち一人一人にのしかかっている「いい子であれ」という願いは、以前とは比べ物にならないほど――ともすれば、まるで呪いのような重圧になっているはず。だからこそ、アラタやジュンのような「物分かりの良すぎる子ども」は、この令和においてむしろスタンダードなのでは、と思えてしまうのだ。
(子どもの存在が当たり前でなくなっていることや、子どもたちのデジタルリテラシーの高さ、 “子ども向けコンテンツ” 離れなど、他にも様々な要因があってのことだとは思う)
だが、「物分かりが良すぎる」ことは果たして「良いこと」と言えるのだろうか。
親にとっては、自分の子どもが「物分かりが良すぎる」のはとても楽だろう。けれど、ガヴァドンとブレーザーの戦いを見て「ガヴァドンと別れなければならない」ことを自ら悟り、友達との別れに叫びもしない、親に対しても涙を見せない。そんな子どもの在り方が「良い」とは自分にはとても思えないし、そのことは自分よりも遥かに「製作陣」が感じているようだった。
「なんだジュンのやつ、随分早いんだな」
「友達と遊ぶんだって。……ねぇ、それより見てこれ」
「ん?」
「学校の大事なプリントに落書き」
「落書きくらいいいじゃないか」
「違うの。やっと子どもらしいことしてくれたな、って……」
「どういうこと?」
「あの子、自分から “何がしたい” って言ったことないの。私たちに気を遣って、先回りしてる子になってる気がする」
「そうなのか?」
「悪い子になるのも困るけど、空気ばっかり読んでる子にもなってほしくない」
ジュンが「子どもらしさ」を見せてくれないことに悩んでいたゲントの妻=サトコ。自分には子どもがいないけれど、それでも、もし彼らと同じ立場なら同じことを思ったのでは、と思う。
子どもが「他人を思いやる優しい子」なのは喜ばしいことであるけれど、それがもし過剰であるなら、それは彼が「周囲に束縛されてしまう」人間であること。この監視社会において、そんなパーソナリティを背負ってしまった人間が楽しく / 自分らしく生きることは難しいだろうし、何より「少年期」という最も未来への希望に溢れた時期を「自分」ではなく「他人」の為に捧げてしまうなんて、そんなことが幸せと呼べて良いはずがない。
だからこそ、このエピソードはゲントからジュンへの「遊んでくれ」で〆られる。彼の言葉は、ゲントからジュンへの言葉であると同時に、きっと作り手から現代の子どもたちへの「遊んでくれ」でもある。
朝日と共にガヴァドンと出会い、夜の訪れと共にガヴァドンと別れる。それはまるで「子どもが大人になる美しく切ない寓話」のようであるけれど、子どもが大人になることが常に正しいとは限らない。子どもには「子どもでいるべき」時期があるのだ。
だから、ジュンたちはもっと「朝と夜の間」に生きていていい。もっともっと子どもらしくあっていい。そのメッセージは、ガヴァドンが57年前の「子どもが子どもらしくいられた」過去から持ってきてくれた、令和の子どもたちへの贈り物だったのかもしれない。
ジュンたちはなぜ「怒られなかった」のか
今回のエピソード=『朝と夜の間に』に対しては、「ジュンたちがちゃんと怒られるべきだった」という意見がSNS上で多く見られている。
確かに、あの災害を引き起こしたこと、ガヴァドンの前に出ていったこと……と、彼らが危険を引き起こし、更に自らを危険に晒したことは「怒られて」然るべきこと。自分も、これが現実の出来事なら同じことを思っただろう。
けれど、きっと令和の子どもたちは、我々大人が思っているよりもずっと「縛られ続けている」。だからこそ、このフィクションという場でくらいは怒られてほしくない、縛られてほしくない――。彼らが (少なくとも、映像で描かれている範囲において) 怒られなかったことは、きっとそんな願いの現れなのだろうと思う。もし子どもたちがジュンたちのように危険な行いをした時、それを怒ることは我々「現実の大人」の役目なのだ。
けれど、この現実において、我々「現実の大人」にできることは果たしてどれほどあるのだろう。
近すぎるインターネット、終わりの見えないパンデミック、悪化し続ける社会問題、緊張が高まる世界情勢……。懐古主義と言われたらそれまでだけど、こんな時代に生まれた子どもたちは、その時点で抗いがたい「不幸」の中にいるように思えて仕方がない。
けれど、当然「生まれた子ども」に罪はない。自分はこの先子どもを持つつもりはないけれど、だからこそ、せめて今を生きる子どもたちや、ゲントのように「子どもの生に責任を持とうと奮闘する」=心から子どもを愛し、子どもと手を繋いで未来へ進んでいく「然るべき親」たちのことを全力で応援していきたい。
そして、更なる未来で生まれた子どもたちが、どうか「ガヴァドンとの別れに “嫌だ” と叫べる」そんな世界で暮らせていますように……。