感想『シン・ウルトラマン』 ヒットへの期待と “一般受け” への懸念が渦巻くシン・エンターテインメント 〈ネタバレあり〉


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※以下、映画『シン・ウルトラマン』のネタバレが含まれます。また、内容も本作への賛否が入り混じったものとなるため、ご注意ください ※

 

 



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「ねぇこれヒットする!?!?!?!? 大丈夫!?!?!?!?!?!?」

 

 

というのが、第一の感想だった。


自分で言うようなことではないけれど、筆者はそれなりの熱量を持ってウルトラシリーズに入れ込んでいる生粋のオタクだ。 

ウルトラマンダイナ』でシリーズに出会い、『ガイア』で育ち、『コスモス』に色濃く影響され、『ネクサス』の難しさに置いていかれ、『マックス』で戻り、『メビウス』に信じられないくらいハマり、『大決戦!超ウルトラ8兄弟』にトドメを刺されて今に至る、というのがこれまでの経緯。 

そんな自分にとって、ウルトラシリーズは誇張なく青春そのものであり、何度も救われたある種の恩人 (?) でもある。だからこそ、シリーズの新作に何より願うことは「自分の好きなものでなくてもいいから、ヒットしてほしい」の一点。 

勿論自分にとっても面白い作品であってほしいけど、それで一般層に届くことなくシリーズが途絶えることが何より恐ろしい。大好きでかけがえのない恩人だからこそ、自分から離れたとしても、子どもたちや世界中の最高のヒーローであってほしい。 

ウルトラショットに人が並んでいないウルトラマンフェスティバルも、劇場がスカスカの劇場版作品も、二度と見たくないしあってほしくないのだ。

 

 

だからこそ『シン・ウルトラマン』にかける期待は、自分で言うのも変な話だが凄まじかった。

一昨年、ネット流行語大賞6位という功績を掴み取った『ウルトラマンZ』でも突破できたかどうか怪しい「一般受け」という高すぎる壁を突破し、ウルトラマンという作品が、より広い意味で老若男女に愛される……要は『仮面ライダー』のような域に達してほしいというその願いを、筆者は身勝手ながら『シン・ウルトラマン』に託していた。


だからこそ、開幕およそ1分で発狂させられたのは最高の “予想外” だった。

 

「えっちょっ……ゴメッ! ゴメスゥ!?!?!?!?!?!?!? 嘘ゴメスだけじゃなっマンモスフラワー!?!?!?!?!? ペギラ!?!?!?!?!?!? ちょっ待っ早っ顔良く見せ……ラルゲユウス!?!?!?!?!?!?あっだからリトラ出さなかったのね (冷静) って誰やこの貝!?!?!?!?!?!?!? パゴs…………お前その顔やっぱそういうことかお前ェ!!!!!!!!!」

 

やられた!!!!! という気持ちと感謝とで発狂して、直後、ひどく安心した。 

ウルトラQ』を間に挟むことで『シン・ゴジラ』との橋渡しにする、という手腕の上手さもあるけれど、それ以上に宮内國郎氏のオリジナル劇伴を使うのはここなんだな」ということに安心感があった。

 

 

 

『シン・ウルトラマン』を語るにおいて欠かせない作品になるであろう『シン・ゴジラ』。もはや語るまでもなく大好きな作品だ。 

その好きなポイントは山ほどあるけれど、個人的に大きいのが「劇伴の使い方」。

 

前半の「無音→ゴジラ登場と共に不気味な劇伴」は、自分自身がゴジラシリーズに持っていた「先入観」を粉々に粉砕する最高の立役者になってくれた。 

一方で中盤においては、鷺巣詩郎氏の重厚で緊迫感を煽るBGMがゴジラの進化を「カタルシス」にせず「未知のものが始まってしまうことへの不安」として演出しつも、見所であるハイテンポな対策会議シーンでは『新世紀エヴァンゲリオン』の例の曲 (『DECISIVE BATTLE』) のアレンジが流れ、「あの曲だ!」と否応なしにこちらのテンションを引き上げ、同時に張りっぱなしの緊張の糸を和らげてもくれていた。要は「見ている側の気持ちの持ち方」を音楽で自然に誘導(コントロール)してくれていたのだ。

 

さながらスクリーンからレールが引かれているような鑑賞体験は実にストレスフリーで、みんな大好き「無人在来線爆弾のテーマ」と化した『宇宙大戦争』のマーチについてはその極致と言えるだろう。 

勇壮でノリが良く、けれど突如BGMの時代感が盛大に逆行したことに少し笑ってしまう……が、それで良かった。ゴジラとの最終決戦は沈痛な気持ちでなく、テンションを上げて「いけぇーーー!!」と叫ぶくらいのパッションで見て楽しめる「これまでとは違う」毛色のシーンであったし、結果的に、件のマーチは場の空気を盛り上げつつもほどよく緊張を緩和し、カタルシスを爆発させるための見事な起爆剤になっていた。

 


……と、だからこそ、筆者は『シン・ウルトラマン』で宮内国郎氏の楽曲がどうもそのまま使われるらしいということを (サウンドトラックの発売情報で) 知った時は、そのような使い方を期待していた。 

それがなんと『シン・ウルトラマン』では開幕から見れたのだ。

 

テーマ (M2) [『ウルトラQ』より]

テーマ (M2) [『ウルトラQ』より]

  • スタジオ・オーケストラ
  • サウンドトラック
  • ¥255

 

怒濤のサプライズと、バックに流れる『ウルトラQ』のメインテーマ。あの圧倒的な勢いはファンサービスであることを加味してもとかく異質だが、楽曲そのものも異質にすることで、シリーズに触れたことのない方でも「ここは何やら普通じゃないシーン」であり、これからスクリーンに広がるのは同様の「異質さ」を持った世界=アンバランスゾーンなのだという意図を直感的に伝えることができる。……と、ゴメスらの登場に発狂しつつも朧気に感じていた安心感を言語化すると、おそらくこういうことになると思う。 

しかしその直後、早くも雲行きが怪しくなり始める。

 

主にネロンガザラブ星人のパートまで、『シン・ウルトラマン』はかなり大胆に原作『ウルトラマン』のBGMをそのまま使用している。 

オタクの自分はそれはもう喜び勇んだ。過去作のBGMがそのまま使われる、そんなのオタクの大好物中の大好物だ。2020年放送の『ウルトラマンZ』にて、1972年に活躍したヒーローであるウルトラマンエースが原作の戦闘テーマをそのまま引っ提げてきたことに大興奮したオタクとしては、『シン・ウルトラマン』が何曲もオリジナルのBGMを使ってくれたのは非常に嬉しい。選曲を担当された庵野さんには拍手と感謝しかない。 

しかし、「『シン・ウルトラマン』の大ヒットを願う自分」はそこで猛烈に不安を感じた。

 

シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』において大きな差が出ていたと感じたのは「没入感」。   

2作品の主役である怪獣や外星人は、あくまで空想の産物。そして、ゴジラウルトラシリーズに限らず、これらを扱う作品が「子ども向け」として一般客層から敬遠されがちなのは、「空想の産物」というものに没頭することを「子どもっぽい」と認識する風潮があるからだろうと思う。 

だからこそ、その壁を突破できるかどうかが、一般層への訴求力に大きな差を付ける。

 

この点を見事にクリアしていたのが『シン・ゴジラ』だ。 

ゴジラ第2形態という隠し球と前述の音楽演出で「得体の知れない恐怖」を全力で創出し、「”空想の産物”がどうこう」という思考を押し流すほどの勢いで、あらゆる観客をスクリーンの中へと一気に引き込んでみせた。それが嫌悪感であれなんであれ、ゴジラという「空想の産物」そのものに強い興味を抱かせた時点で、『シン・ゴジラ』の強さは際立っていた。

 

 

では『シン・ウルトラマン』はどうだったかというと、これがどうして今もって非常に不安。  

まず最初の怪獣、もとい禍威獣として出現するのがネロンガ。動物然とした体躯と、透明化能力に雷撃光線といったイレギュラーな能力を併せ持つ点が魅力だが、ことこの映画においては、それは一方でマイナスポイントになりかねないのでは……という危惧があった。要は「最初に戦う禍威獣としては怪獣っぼすぎないか」という懸念だ。

 

シン・ゴジラ』のゴジラは「第2形態→第3形態」という、飛び道具を持たず、グロテスクで生物的な形態を経て初めて (我々のよく知るゴジラに近い姿の) ゴジラ第4形態という怪獣らしい怪獣形態に辿り着いていた。「我々の知っているゴジラ」が本来持っている恐怖や存在感をリアルに感じられるように、没入感の積み上げがかなり意識的に行われていると言える。 

一方、『シン・ウルトラマン』においては (ゴメスらダイジェスト組を考えないとすれば) 最初に現れる禍威獣こそが問題のネロンガゴジラ第2形態に比べると、かなり「怪獣らしい」禍威獣である。

 


シン・ゴジラ』が行った没入感の積み上げをすっ飛ばすのだから、その補填をどこかで行わなければいけないだろうな……と思いきや、早々に使われる原作のBGM。 

いかに時代を越える名曲とはいえ、最新の画に対し、そこにはどうしても音質的な「錯誤」がある。そういった曲を聞き慣れている筆者のようなオタクはともかく、そうでない層にとって、その劇伴は「違和感」になっていないだろうか。あくまで没入感という点に鑑みるなら、これは悪手ではないのか……とどうしても思ってしまう采配だった。

 

とはいえ、このBGM問題については、ある程度製作陣も意図的だったのかもしれない。というのも、溜めに溜めた中盤、ウルトラマンVSニセウルトラマンにおいて『空中戦』など、ウルトラマンのメイン戦闘テーマが原曲ではなく「新規アレンジ版で」用いられたからだ。

 

侵略者を撃て 空中戦 (A2) [『ウルトラマン』より]

侵略者を撃て 空中戦 (A2) [『ウルトラマン』より]

  • スタジオ・オーケストラ
  • サウンドトラック
  • ¥255

(鷺巣氏によるアレンジ、最ッッ高にカッコよかった……!)


ウルトラマンVSネロンガガボラ、ニセウルトラマン……と『シン・ウルトラマン』では折に触れて戦闘パートが挟まれるが、後半のメフィラス、ゼットン戦とそれらの印象を被らせないためか、前半のネロンガガボラは原作BGMを引用、中盤は (中だるみを防ぐためか)、盛り上がりと画との親和性とを兼ね備えた「原作BGMのアレンジ」を採用する……という采配だったのかもしれない。

 

しかし、「没入感」という点に関わる問題はその後、話の進展に伴って原作BGMの使用が減っていっても度々顔を出してきた。中でも目立って感じられたのはテンポの悪さだ。 

 


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本作は「対ネロンガ」「対ガボラ」「対ザラブ」「対メフィラス」「対ゼットン」が並行して進むのではなく、順番通りにバトンタッチしていく、さながらダイジェスト映像のような構成になっている。

 

メフィラスとゼットンの登場は事前からほぼ確定していたため、公開前はこれら大量のトピックをどうまとめていくのかという点が非常に気がかりだった。ネロンガはあくまで冒頭で禍特対に倒されるデモンストレーション的な怪獣なんじゃないか、ザラブはメフィラスの部下として同時に暗躍し、そのメフィラスがゼットンを操る黒幕なのでは……等々。しかし蓋を開ければそんなことはなく、2時間という尺にかなりギリギリ、アウト寄りのセーフで収まっているという印象に仕上がっていた。 

そのため、内容には些か駆け足感があるのだけれど、かといって「スピーディーな展開」と表現するにはどうにも話の密度が濃すぎる。ネロンガガボラも律儀に「怪獣の出現」からその特性の分析、専門的な対処、ウルトラマンによる撃破……までをきっちり描いているくらいで、そのため一本の映画ではなく1クールの特撮ドラマを見ているような気分になる。シンプルに言うなら「ぶつ切り感」が顕著なのだ。

 

起承転結が終わる度にふうっと息をつき、また盛り上がっていく。その繰り返しはシンプルに疲れてしまうし、話の着地点が中々見えてこない物語なこともあり、鑑賞中に「どこが一番の盛り上がりどころなのか」判断に困ってしまうことが多々あった。 

(おそらく、ここも『ウルトラマン』のオムニバス形式へのリスペクトによるものなのかもしれないが……)


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前述の構成上の問題以外にも、本作では所々の演出にもテンポの悪いものが散見されていた。 

その主な犠牲(?)になっているのが本作のヒロイン=浅見弘子(長澤まさみ)で、彼女周りのシーンには特に「力の入れ具合が奇妙」なものが多い。


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例えば、メフィラス編 (一本の映画でこういう表現をすること自体がかなり妙な感覚だ) の冒頭で出現した巨大弘子のシーンでは、禍特対が人々を掻き分けていくシーンが妙に長く撮られていたり、弘子がビルを破壊しようと足を上げたきり止まった状態をそのまま映すシーンがあったり……など、どこか妙なテンポ感が目立つだけでなく、その後、メフィラスの目論見を阻止するために神永新二 (斎藤工) が弘子の匂いを覚えるシーンに至っては、ただ長いだけでなく妙にフェティッシュなアングルが続き、どことなく『劇場版 ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』クライマックスにおけるダイゴとレナのディープキスシーンを思い出す気まずさを感じてしまった。 

(「匂いを覚えなければならない」→弘子の「え?」でバッサリカットしても良かったのでは……?)

 

また、演出のテンポそのものに問題はなくても、全体の流れにそぐわない演出で全体の流れに水を差してしまうようなシーンもちらほら。 

特に気になったのは、ゼットン編における滝明久 (有岡大貴) のリモート会議シーン。 


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物語としては、外星人との技術・知識レベルの差から自暴自棄になりかけていた滝が、新二=ウルトラマンからのメッセージを受け、妥当ゼットンの策を「人間のしぶとさ」で見付けていこうという、原作の名エピソード『小さな英雄』と『さらばウルトラマン』を再構成したと思しき非常に盛り上がる場面……なのだが、ここでは特にアップテンポなBGMがかかることもなく、VRゴーグルを付けて会議に励む滝を、船縁由美 (早見あかり) と田村君男 (西島秀俊) が「周りから見るとシュールだな」とうそぶく、熱いどころかコメディシーンのように演出されていた。

 

このような「個々の演出におけるズレ」と「構成上のテンポの悪さ」が組み合わさった結果、筆者は鑑賞中度々没入感を削がれてしまっていた。 

もしこのような問題がなければ、最終盤において禍特対の面々への感情移入がより緻密に積み上がり、カタルシスの大爆発に繋がっただろう……と思うと残念でならない。 

(没入感というと、衝撃のAタイプ登場やゼットンを使役するゾーフィ、ネロンガらのスーツネタ、スペシウム133などの細かい『ウルトラマン』ネタの多さに「この映画オタクすぎやしないか!?」とオタクな自分が顔を出し、その度に没入感が削がれてしまったという個人的な問題もあった。こんなにも自分がオタクだったことを恨めしく思うウルトラ作品もない……)

 


と、これらの理由などから「果たしてこの映画は一般受けするんだろうか」と不安でいっぱいになってしまった『シン・ウルトラマン』。あまりにも気が気でなく、映画を違う意味でハラハラしながら見てしまったし、正直、そこまで「のめり込めて」いなかった感覚さえある。 

……のだけれど、最後の最後、エンドロールに入った辺りで驚くことに泣いている自分がいた。

 

号泣というより、ポロポロと涙が零れる感覚。感慨深さとかそういうものではなく、ただただ純粋に、地球人を愛したウルトラマン=リピアが新二にその命を捧げ、遥か彼方の世界へと旅立ってしまった(であろう)ことが悲しかった。

 

「そんなに地球人が好きになったのか、ウルトラマン

 

ウルトラマン』最終回におけるゾフィーのこの台詞は、『シン・ウルトラマン』のティザービジュアルで取り上げられるや否やファンの話題をさらったように、予てからシリーズファンの間では人気の高い台詞だった。 

ウルトラマンたちからすれば、力も寿命もちっぽけな地球人。そんな地球人の心と生き様に心を打たれ、そこに命を差し出すとまで言ってのけたウルトラマンに対してゾフィーが漏らしたこの呟きは、その後もシリーズの核として描かれ続ける「ウルトラマンと人間との絆」を象徴する言葉として語り継がれ、放送から40年が経った『ウルトラマンメビウス』では、ゾフィー自身がその絆を手にするという衝撃の展開が描かれてもいた。

 

 

しかし、原作『ウルトラマン』の展開において残念だったのが、ゾフィーが命を2つ持ってきたことでウルトラマンも、その憑依先であるハヤタも無事に生還したということ。 

勿論、エンターテインメント作品としてウルトラマンもハヤタも生還することは理想的だし、記憶が朧気なハヤタがウルトラマン=赤い球を「(ハヤタが1話で激突したのは)あれですよキャップ!」と指摘する味わい深いエンディングはそのゾフィーの手柄があればこそだ。

 

……とはいえ、それでも「もしゾフィーが命を持ってこなかったら」と考えてしまうのが悪いオタクの性。だからこそ『シン・ウルトラマン』において、ゾーフィがそのくだりを口にせずに新二を分離し、その上で新二に何も言わせることなくエンドロール……という「あくまでこの物語の主人公はリピア」であることを示す潔い〆を見せてくれたのは、文字通り「望んでいたものが見れた」という感覚があり、無性に嬉しかった。 

嬉しかったのだけれど、『さらばウルトラマン』のあの展開を見過ぎていたせいで、その「もしも」がどれほど残酷で悲しい結末をもたらすのかという肝心な部分を見落としていた。

 

要は、想像以上に深く刺さった。
「地球にやってきた異星人が、その星のちっぽけな生命体を愛し、その命を捧げる」という原点の物語があまりに美しかったのは勿論のこと、神永新二ことリピアのキャラクター像が非常に好みだった。


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神永新二自身を口数の少ないキャラとすることで、合体後の彼の所作のどこまでがウルトラマンなのか、その行動の意図は何なのか……といった点をぼかして彼をミステリアスに見せつつ、徐々に徐々に、その行動が本当に純粋な興味と愛によるものであると明かしていくというこの見せ方が何より上手く、あのどこか人間臭く、純粋で、強く優しい我らのヒーロー、栄光の初代ウルトラマンを現在に甦らせる上での最適解のように思えてならない。 

(リピアが新二と合体していることや、その意図をすぐに明かさないという改編が非常に良い効果を出していた)

 

2時間という尺はそんなリピアと地球人の絆を描くには些か窮屈ではあったが、それでも、物語上十分なものだったと思う。特に、新二(リピア)と弘子の関係性に予め「バディ」という文言を据え置くことで、安易に恋愛然な形にしなかった点が個人的な白眉。もし恋愛的な側面が強くなってしまえば、それは「男と女」=地球人というガワの主張が強くなってしまう。そこを「バディ」と「信頼」を軸に構築し、更にはザラブ、メフィラスといった「邪悪な外星人」たちを「詰め込み」風になったとしても積極的に描いていくことで、新二を「外星人と人間の狭間」として見事に描ききっていた。それらの描写が効を奏していたからこそ、あのラストシーンは『ウルトラマン』の正統進化として、深く胸に突き刺さる名シーンとして成立していたのだろう。

 

前述のように思うところも多かった本作だが、この点=『ウルトラマン』という作品のアイデンティティーとさえ言える「星を越えた絆」という空想の浪漫と、リピアの下した決断に込められた想いは、はっきりと、可能な限りの全力を持って描かれていたように思う。   

そして、そんな『シン・ウルトラマン』の放つメッセージは、「人間の可能性」という原点から引き継いだエッセンスと共に、ウルトラマンに触れたことのない人々にもきっと (こんな世の中だからこそ、殊更に) 響いてくれるのだと信じたい。

 

M八七

M八七

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255

 

果たして『シン・ウルトラマン』はヒットしてくれるのだろうか。

 

公開初日である2022年5月13日時点、スクリーンの埋まり方はそれなりに良く、評価もどうやら上々らしい。 

内容についての私見は前述の通り、不安要素はあるが、響くものもある。正直、そのどちらに傾くかは個人によって異なると思うし、メッセージ性やサプライズの響き方がよりダイレクトだった『シン・ゴジラ』に比べると、どうしても不安は拭えない。  

思えば『シン・ゴジラ』との比較ばかりしている本記事だが、やはり “一般受け”した『シン・ゴジラ』と並んで……欲を言えば越えてほしいからこそ、同作との差が何より気にかかってしまうのだ。 

シン・ゴジラだって最初は一般受けするなんて誰も思ってなかった」というのはその通りだけど、だからといって『シン・ウルトラマン』が成功する保証なんてどこにもないのだから。

 

ただそれでも、どうか、と願わずにはいられない。『シン・ウルトラマン』のヒットがウルトラシリーズの未来を明るく照らしてくれますように、そして、リピアがその在り方をもって体現してくれた普遍の美が、一人でも多くの人々に届いてくれますようにと。