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感想『進撃の巨人 The Final Season』- エレン・イェーガーが未来に遺したもの、私たちに刻み付けたもの

※以下、漫画・アニメ『進撃の巨人』のネタバレが大量に含まれます、ご注意ください※

 

2023年11月に始まり、その約半年後=2024年4月7日に終わりを迎えた『進撃の巨人 』視聴マラソン。半年間に凝縮された壮絶な旅のゴールで自分が真っ先に抱いたのは「喪失感」だった。

 

 

第93話『長い夢』でエレンの最期を見届け、最終回でエレンの真意を知り、それでも争いが消えなかった世界を目の当たりにして――加えて、気持ちのやり場を探して再生した『進撃の巨人 The Final Season 完結編 後編』のエンドロールで「歴史が繰り返す」様を見せ付けられ、ただでさえ沈んでいた気持ちが地に堕ちてしまった。 

けれど、このラストが単なる「エレンは悪者として皆のために討ち取られ、それでも世界は変わりませんでした」というバッドエンドであるハズがない。私たちの世界にも通ずる「残酷な現実」を真正面から描き、少しずつ、少しずつその世界に抗う火を燃やしてきたのが『進撃の巨人』ではなかったか。 

なら、本作が描いた結末とは何だったのか。エレン・イェーガーの生き様は、あの世界や仲間たち、そして私たちに何を残したのか。その答えを『The Final Season』を振り返ることで考察していきたい。

 

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(Season1~3の感想はこちらから)

 

引用:TVアニメ「進撃の巨人」最終PV | The Final Season完結編 (後編) PV第3弾 - YouTube

《目次》

 

『The Final Season』冒頭雑感

 

進撃の巨人 The Final Season』は、アニメ『進撃の巨人』の第60話『海の向こう側』から最終回に至るまでの呼称。「製作会社の変更をはじめ、製作体制に様々な変更があった」という事情もあり何かと不安もあった本作だけれど、いざ蓋を開けてみるとそのような背景事情が気にかかるようなことは一切なかった。それもそのはず、The Final Seasonはもっと根本的な所=物語の開幕からし「異常事態」だったからだ。

 

 

The Final Season初回となる第60話『海の向こう側』で描かれたのは、海を隔てた大陸側の物語。そこにエレンたちパラディ島組の姿はなく、回想シーンでもないのに「主人公一行の消息が数話かけても明かされない」というまさかの展開には驚きを隠せなかった。ともすれば、製作体制の変更もその異常ぶりを後押ししていた一因なのかもしれない。 

しかし、このThe Final Seasonにおける「異常」はそれだけではなかった。

 

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軍歌を思わせる凄絶なメロディ、歌詞がほぼ全て英語 (異国の言葉、という点に大きな意味を感じてしまう) な上に(たった一人を除いて)キャラクターが登場しない」という異質極まるOPテーマ『僕の戦争』。初見時は「なんだこれは……」と困惑しきりだったけれど、マーレ側が描かれたことで「何が正義なのか / 誰が主人公なのか」が分からなくなった世界で、残酷で乾いた戦争が描かれていくのがこのThe Final Season。振り返ってみれば、この『僕の戦争』ほど本シーズンの開幕を飾るに相応しい楽曲もないのだろう。 

(フルサイズ版のラストでは、いじめのような「学校における孤独」を連想させる日本語の歌詞がある。ミクロな「戦争」は私たちのすぐ側にも潜んでいる、という示唆は、『進撃』の「これはフィクションであってフィクションではない」という姿勢とも重なるものではないだろうか)

 

そして、このOPにおいて唯一登場する「キャラクター」こそが、ラストカットに映る巨人態のエレン。全てが崩壊した世界で何処かへと手を伸ばすその姿がどうしようもなく不穏に感じられ、一層強く「エレンが虐殺者になるようなことがありませんように」と願っていたのは自分だけではないはず。 

……が、そんな希望は早々に打ち捨てられてしまった。

 

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第63話『手から手へ』ラストで遂に登場したエレン。変わり果てた姿に「ファルコを利用しているのでは」という疑惑が高まる中、ライナーと再会した彼はヴィリー・タイバーの演説会場を襲撃。ヴィリーや戦鎚の巨人はおろか、数多くの罪なき人々の命を奪ってしまう――。 

ものの数話で訪れた最悪の事態に絶句していると、ミカサたち調査兵団も登場。エレンを止めるのかと思いきや、なんと彼らもマーレ側との戦闘を開始。彼らが人間と戦う姿、中でもあのサシャが「ガビの知己を目の前で撃ち殺す」という姿には、一新されより兵器的になった戦闘服・武装も相まって「彼らはこの数年間で別人になってしまったのか」と大きなショックを受けてしまった。 

けれど、彼らは決して「変わった」訳ではなかった。そのことを教えてくれたのは、皮肉にもそんなサシャを襲った悲劇だった。

 

 

サシャ・ブラウスが遺したもの - 「森」から出る為に

 

『進撃』における貴重な癒しであり、自分にとっては本作を見る大きなモチベーションにさえなっていたサシャ。随分前、具体的にはSeason1序盤から既に「サシャが死ぬ」ことに対しては予防線を張り続けていたのに、いざ彼女が撃たれた時には文字通り絶句、何も言葉が出なかった。即死でなかったことでなまじ希望を持ってしまったし、「サシャが死んだ」と明言されて尚実感が持てなくて、涙が出たのはどうしようもない気持ちをテキストとしてぶちまけた後のことだった。

 

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ひとしきり泣いて、一晩明かして、ようやくサシャの死を実感できるようになっても、それでも頭の中がぐちゃぐちゃだった。サシャがいなくなったショックは勿論だけど、それを悪化させていたのが「憎しみの矛先がない」という状況。 

サシャを撃った張本人=ガビ・ブラウンは、認められたい、褒められたいという欲求から人殺しを躊躇わず、その上パラディ島民を悪魔と信じて疑わない、お手本のように「心の中の悪魔」を体現する少女。サシャの殺害を正義の為だ、悪魔は殺されて当然だ、と正当化する姿勢も相まって、彼女への憎しみはひたすらに増す一方だった。 

いっそ「復讐の為に殺した」と言ってくれたならどんなに良かっただろう。殺人という罪を自ら背負わず、歴史や大義に全てを押し付ける浅はかさと傲慢さは「子どもだから」の一言で片付けるには度が過ぎていたのだ。 

しかし、ガビが持つパラディ島への偏見は歴史が育てたもの。殺人さえ厭わない承認欲求は「マーレ領エルディア人」が強いられた過酷な環境が育てたもの。そして、ガビがサシャを殺したのは「友人たちの仇討ち」でもあった。確かに、サシャを撃ったのはガビ本人であり彼女が背負うべき罪だ。けれど、サシャを殺したのは果たして「ガビ・ブラウン」という個人だったのだろうか。そう思えてしまうからこそ、自分はガビを憎むに憎めない気持ちと、その後も悪化し続けるガビの態度に高まる怒りとの葛藤で苦しむことになった……のだけれど、今にして思えば、この心理状態は (皮肉なことに) 『The Final Season』を視聴する上で最適なものだったのかもしれない。そのことを痛感させられたのが、「ガビとファルコがブラウス厩舎に辿り着く」という皮肉な因果、そして、第27話『ただいま』でサシャに救われた少女=カヤが2人に手を差し伸べる様が描かれた第70話『偽り者』。

 

「お姉ちゃんが生きてたら、行く宛のないあなたたちを決して見捨てたりしない。私に、そうしてくれたように。……今度、マーレの人が働いてるレストランに招かれてるの。そこにあなたたちを連れて行けば、マーレに帰る方法が見付かるかもしれない」
「どうして……?」
「私は、お姉ちゃんみたいな人になりたいの」

-「進撃の巨人」 第70話『偽り者』より

 

現実の戦争がそうであるように、『進撃』世界における戦争も、その大元は遥か昔から積み重ねられてきた呪い。受け継がれ、肥大していった偏見や差別の歴史が互いを傷付け、もはやその歴史の正誤如何では覆らない領域に踏み込んでしまったその末路であり、サシャの死もまたパラディ島・マーレの双方に遺恨を残す「呪い」になってしまうと思うと目を伏せたくなる思いだった。捧げた心臓に意味を残すのが残された者たちなら、サシャが愛した仲間たちが自らの手で彼女の死を「呪い」にしてしまうのは、なんて虚しいことなのだろうと。 

しかし、その予想を覆してくれたのがカヤ。彼女にサシャの想いや勇気が受け継がれていることは、サシャ自身への何よりの手向けであることは勿論、同時に「世代を越えて受け継がれるものは “呪い” だけではない」という、負の連鎖を覆す希望のようでもあったからだ。

 

 

(第70話、カヤの「私は、お姉ちゃんみたいな人になりたいの」とオーバーラップしながらのED入りは、楽曲とのシンクロやこれまでの積み重ねが昇華される展開もあって、作中トップクラスに美しい名シーンだった。サシャという人物にこんなにも愛を注いでくれて、本当にありがとうございました……!)

 

そして、サシャに救われた人物がもう一人。マーレからやってきた調査隊の一人=料理人のニコロだ。

 

「ニコロさん! あなたは天才ですゥ!」
「……! き……汚ぇ食い方しやがって!」
「こんなん初めてでェ……!!」
「まだまだあるから、ゆっくり食え!」

-「進撃の巨人」 第68話『義勇兵』より

 

ニコロどころか自分含めた多くの視聴者を叩き落としたであろうこのシーン。こんなにも美味しそうに自分の料理を食べて貰えたら、そりゃあ惚れ込んでしまうのも当然――と思っていたら、ニコロにとってこの一連はもっと大きな意味を持っていたことが後に明かされた。

 

「彼女は、誰よりも俺の料理を美味そうに食った……。このクソみたいな戦争から俺を救ってくれたんだ。人を喜ばせる料理を作るのが、本当の俺なんだと教えてくれた!」

-「進撃の巨人」 第72話『森の子ら』より

 

イェレナに「マーレ料理の達人」と紹介されていたニコロ。しかし、パラディ島上陸時に先遣隊を務めていたことからして、その本職はあくまで兵士だった様子。かつて料理人だったのか、「趣味」として料理を嗜んでいたのかは分からないけれど、兵士になった彼が料理を作れるとすれば、それは「誰かを喜ばせる為の料理」である以上に、兵士に活力を与える=「人を殺させる」為の道具。料理を愛すればこそ、ニコロはそんな状況に思うところがあったのだろう。 

だとすれば、そんな背景も、戦いも、人種さえ関係なく、自分の料理に感動して涙さえ流してくれるサシャの存在が、彼にとってどれほど救いだったのかは考えるまでもない。彼にとって、サシャは自分を呪いから連れ出してくれた恩人であり、この2人の関係そのものが、本作における一つの「回答」だったとさえ言えるかもしれない。 

(ニコロとサシャの関係性については最後までぼかされていたけれど、2人が互いに向ける混じり気のない感情は見ているこちらまで幸せにしてくれるものだったし、2人が共にレストランを営む未来があったら……と思うと、思わず目頭が熱くなってしまう)

 

 

呪いばかりが受け継がれ、差別と偏見が広がっていく『進撃』世界に「それだけじゃない」という希望を残してくれたサシャ。彼女の無垢な想いや勇気が2人を救い、そしてカヤを介してガビやファルコにまで繋がっていく様は、作中何度も語られていた「後に生きる者たちが、散った命に意味を与える」という言葉を自分に深く打ち込んでくれたし、サシャがいなくなったことによる傷を塞いでくれる救いでもあった。 

もしかして、サシャの残したものが彼らを通して広がっていき、世界を変えてくれるのでは……。そんな期待を抱く傍らで、しかし「この作品が、そんな優しい世界を見せてくれるものだろうか」と疑ってしまう自分もいた。 

そして――事実、サシャを巡る物語はここからがある種の本番だった。

 

「やめて……! ファルコは違うの!」
「この坊主はお前の何だ! お前を庇ってこうなったよな!? お前の大事な人か? 俺にも大事な人がいた! ……エルディア人だ、悪魔の末裔だ! だが彼女は、誰よりも俺の料理を美味そうに食った……。このクソみたいな戦争から俺を救ってくれたんだ。人を喜ばせる料理を作るのが、本当の俺なんだと教えてくれた! それが、サシャ・ブラウス。お前に奪われた彼女の名だ!」
「私だって、大事な人たちを殺された! そのサシャ・ブラウスに撃ち殺された! だから報復してやった、先に殺したのはそっちだ!」
「知るかよ、どっちが先とか!」 

  (中略) 

「カヤ……」
「よくもお姉ちゃんを!! 人殺しッ!!」
「……!」
「友達だと思ってたのに!!」

-「進撃の巨人」 第72話『森の子ら』より

 

サシャを撃つに留まらず、自分に救いの手を差し伸べてくれたブラウン家やカヤに露骨なヘイトを向けたりと、改心するどころか悪化の一途を辿っていったガビ。それだけに、このシーンを目の当たりにした時の衝撃は凄まじかった。 

ガビへの憎しみが積もり積もっていたからこそ、ニコロとカヤの衝動に共感してしまう。自分も、同じ立場だったら同じことをしていたかもしれないと思ってしまう。「どれだけ尊いものが受け継がれても、それらは憎しみや怒りの前では何の意味も持たない」という非情な現実を身をもって痛感させることで、私たち視聴者 / 読者を傍観者ではなく当事者として作品に引きずり込む――。そんな常軌を逸した仕掛けこそが、サシャの死から始まった一連の正体だったのだ。

 

 

「どうすれば悲劇の連鎖は終わるのか」という問題に私たちを正面から向き合わせる一連の作劇には『進撃』という作品の巧さが凝縮されていたけれど、その巧さが光れば光るほど、提示されるであろう回答への期待=ハードルが高まっていったのもまた事実。ここまでその呪いの根深さが克明に描写され、私たちも当事者としてこの問題に巻き込まれてしまった以上、生半可な解決策では納得できるはずがないのだ。 

確かに、本作は過去何度もこちらの予想を裏切り、常に期待を上回ってくれる作品だった。しかし、今度ばかりはテーマがテーマ、納得できる回答が出てくるよりも、むしろ「ここから更に状況が悪化する」ことの方が現実的に思えたし、サシャの父=アルトゥルに包丁が渡された時は最悪の可能性を考えて必死に予防線を張っていた。 

……そう、彼こそがこの問題に対する最大のキーマンだったなんて、この時は予想だにしていなかったのだ。

 

「サシャは、狩人やった」
「はい?」
「こめぇ頃から弓を教えて、森で獣を射て殺して食うてきた。それが俺らの生き方やったからや……。けど、同じ生き方が続けられん時代が来ることは分かっとったから、サシャを森から外に行かした。で、世界は繋がり、兵士になったサシャはよその土地に棲み入り人を撃ち、人に撃たれた……。結局、森を出たつもりが、世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったや……」
「……!」
「サシャが殺されたんは、森を彷徨うたからやと思うとる。せめて子どもたちはこの森から出してやらんといかん。そうやないと、また同じ所をグルグル回るだけやろ……。だから、過去の罪や憎しみを背負うんは、我々大人の責任や」

-「進撃の巨人」 第72話『森の子ら』より

 

第27話『ただいま』で語られていた内容を踏まえると、「森」とは (「壁」がそうであるように) 物理的な森だけでなく、他者への恐怖や攻撃性、悪しき固定観念といった、人間が無意識下で抱え込んでいる弱さ、あるいは「業」を指す言葉でもある。アルトゥルがサシャを巣立たせたのは、愛娘にそのような弱さを克服する強さを身に付けさせたい、という目的もあったのだろうと思われる。 

しかし、外にいるのもまた業を抱えた人間。彼らが作る世界は、村よりもずっと広大で、ずっと深淵な歴史を持ち――それ故に、より深い闇を湛えた「森」であった。 

世界が広がっても、文明が発達しても、人の業は終わることがない。それどころか、複雑に絡み合った業はやがて世代を重ね、濁りきった「呪い」になっていく。サシャを撃ったのがガビという個人だったとしても、彼女を「殺した」のは、そんな世界=積み上げられてきた人の業そのものだったのではないだろうか。 

人が人である限り逃れられない「業」こそが全ての元凶であるなら、それは即ち、人は永遠に森から抜け出せないということでもある。アルトゥルはそのことにある種の諦観を持った上で、それでも「せめて子どもたちはこの森から出してやらんといかん」と語った。逃れられないのなら、誰かが引き受け、受け止める必要がある。それこそが大人の責任であり、狩って狩られる獣から「知恵」を得た人間の責務なのだと。 

しかし、大人が過去の罪や憎しみを引き受けたとしても、新たな「業」は今も絶え間なく生まれ続けている。だからこそ、次代を担っていく若者たちもまた、逃れ得ぬ業と戦い続けなければならない。

 

 

「ここなら火は回ってきません!」
「そうやけど、出口は炎で塞がれてしまっちょる」
「戦闘が終わるまで、この辺に隠れましょう」
「ミアとベンも逃げ出せたんかねぇ……」
「あん2人なら大丈夫やろう。逞しいらきい」
「あ……ぁ……」
「おい!」
「許せない……」
「!」
「どうしてお姉ちゃんを殺したヤツのことなんか心配するの? 私は……殺してやりたい」
「……」
「もう行ったみたいだ、俺たちも行くぞ。……ガビ?」
「悪魔なんていなかった。この島には……人がいるだけ。やっと、ライナーの気持ちが分かった」
「……」
「私たちは、見た訳でもない人たちを一方的に悪魔だと決め付けて……ずっと同じことを、ずっと同じことを繰り返してる……!」

-「進撃の巨人」 第77話『騙し討ち』より

 

第81話 氷解

 

「なんで、私を庇ったの?」
「そっちこそ……なんで私を助けたの? それも、命懸けで」
「さあ……」
「私は、あなたを殺そうとした。私……悪魔なんでしょ?」
「違う、悪魔は私」
「!」
「私は、人を何人も殺した……褒めて貰うために。それが、私の悪魔」
「ソイツは俺の中にもいる。カヤの中にも、誰の中にも。みんなの中に悪魔がいるから、世界はこうなっちまったんだ」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
「森から出るんだ。出られなくても、出ようとし続けるんだ……!」

-「進撃の巨人」 第81話『氷解』より

 

世界を覆う呪いは、何百年、何千年と積み重ねられてきたもの。そうして育ってきた「森」を、たかだか数年、数十年で変えることはできないのだろう。しかし、だからこそ人は抗い続けなければならない。呪いが何百年、何千年と積み重なってきたものであるなら、それを覆せるのは、何百年、何千年、あるいはそれ以上に及ぶ希望の積み重ね以外に有り得ないのだから。 

そして、その抵抗=胸の中にいる「悪魔」との戦いに特別な力や道具は必要ない。ニコロが恨みや憎しみに打ち克ったように、ガビが自らの罪に向き合ったように。そのような戦いこそが、この世界において「希望」を守り抜く手段であり、サシャのような誰かに報いる、唯一にして絶対の方法なのではないだろうか。 

(同様のメッセージは、後の第84話『終末の夜』において、なんとジャンを通して描かれていた。大義や正義の為でなく、あくまで友に報いる為に戦ってきた「一般人代表」である彼が、ライナーへの憎しみをぶちまけ、ガビを赦すまでの一連は、本作におけるある種の「御祓」にもなっていた。ライナーを救ったジャンの「俺たちは、諦めの悪い調査兵団だろ?」という台詞は、まさに「人はいつか森を出ることができる」という希望そのものだったように思えてならない)

 

 

ハンジが得た「自由の翼

 

前述の一連をはじめ、『The Final Season』を貫く骨子となっていた「森からの脱出」という概念。それは、見方を変えれば「自由への解放」=本作における原点でもある。 

作中一貫して描かれてきた自由への問い掛け。それは当初「壁に覆われ、家畜のように生きる壁内人類の」という構図で描かれていたけれど、物語が進むにつれ、彼らを縛り付けるものが壁だけではないことが明らかになっていった。世界の摂理や血の運命、そして前述の「呪い」……。それらは、作中の人物だけでなく、視聴者 / 読者である私たちを縛り付けているものでもある。前述のガビやニコロ、ジャンと彼に救われたライナーのような「枷から解き放たれ、自由を掴み取っていく姿」に特別な感動を覚えるのは、彼らの姿が私たちをも枷から解き放ってくれるからなのかもしれない。 

そんな「解放」は本作終盤においても数多く描かれていたが、中でも印象的なものが二つある。一つは、第89話『自由の翼』におけるハンジの死闘だ。

 

 

登場からしばらくは「巨人を前にすると狂う面白 (くて、ポニーテールが艶かし) い人」という印象に留まっていたハンジだけれど、OAD『イルゼの手帳』などを経る中で、彼女の中にあるのはあくまで「未知を恐れず知ろうとする」探求心と勇気、そして、人類や仲間たちの未来を想う優しい心だということが明らかになっていった。エレンやエルヴィンのように狂気と紙一重の爆弾が多い調査兵団において、彼女はむしろ貴重な常識人枠であり、実は誰よりも「自由」に近い存在であったとさえ言えるかもしれない。 

しかし、それもSeason3までの話。エルヴィンから団長を引き継いだ『The Final Season』において、彼女はむしろ自由からかけ離れた存在になってしまっていた。

 

 

彼女の笑顔を奪っていたものは、敵=巨人という構図の崩壊は勿論、それ以上に「自身の選択に伴う重責」なのだろう。 

同じ人間を相手取り、時には罪のない人々にまで犠牲を出さなければならず、島に帰ればエレンを支持する島民との板挟みになってしまう……。優しさと強さを併せ持ち、決して対話を諦めないハンジは確かに「調査兵団の団長」に相応しい人物だった。しかしそれ故に、自分の信じた正義の為にあらゆるものを切り捨てなければならない「パラディ島の兵士長」という役割は、彼女にとっては不釣り合いなものだったのだ。 

エレンに振り回され、島の人々に口を閉ざし、仲間を疑う役回りを引き受けざるを得なかったハンジ。The Final Seasonにおける彼女は、沈痛な表情を浮かべているか「敢えてにこやかに振る舞っている」かの二つに一つで、リヴァイと共に戦線を離脱した際の「いっそ二人でここで暮らそうか」という貴重な弱音も、責任感の強い彼女がそう呟いてしまうほどに疲れ切ってしまったのだと思うと胸が痛むもの。そんな地獄のような日々を、彼女が「捧げられた心臓に見合わない、自身の不甲斐なさへの罰」と捉えているらしいことが傷口を一層広げていったし、終盤はひたすら「どうか彼女の努力と想いが報われますように」と祈り続けていた。 

しかし、そんな祈りに返されたのは「道半ばで彼女がアルミンを次期団長に指名し、アルミンが何かを察した表情を浮かべる」という最悪の死刑宣告だった。

 

「アルミン・アルレルト。君を、15代調査兵団団長に任命する」
「……!」
調査兵団団長に求められる資質は、理解することを諦めない姿勢にある。君以上の適任はいない……。みんなを、頼んだよ」 

  (中略) 

「……おい、クソメガネ」
「分かるだろう、リヴァイ。“ようやく来た” って感じだ。私の番が」
「……」
「今、最高にカッコつけたい気分なんだよ……! このまま行かせてくれ」

-「進撃の巨人」 第89話『自由の翼』より

 

ハンジの台詞が「このまま逝かせてくれ」に聞こえて、胸が詰まってしまったのは果たして自分だけだろうか。 

ハンジが調査兵団をアルミンに託した理由にも、自分が殿を務めるべきだという言葉にも嘘はないのだろう。けれど「ようやく、自分の番が来た」と笑顔で語るハンジは、どこかこの地獄から解放されることを喜んでいるように見えた。「このまま2人で~」のくだりも然り、リヴァイを相手にすると弱音を吐けてしまうのが彼女なら、これは「このまま死なせてほしい」という彼女なりの今際の言葉だったのかもしれない。 

そんな彼女の真意、あるいは「彼女が犠牲になる他に道がない」ことを察してか、ここでリヴァイは彼女を止めなかった。察して、考えて、躊躇って、受け止めて……。「目」で語られる彼の葛藤は、言葉以上に胸を打つものがあった。

 

「心臓を捧げよ」
「……あ」
「……」
「はは。君が言ってんの、初めて聞いたよ」
「ハンジさん!!」

-「進撃の巨人」 第89話『自由の翼』より 

 

死地に赴くハンジに託された「心臓を捧げよ」の言葉。一体どれほどの想いがこの一言に詰まっているのだろう。 

心臓を捧げるということは「自殺」ではなく、未来に命を繋ぐことであると。一人死地に赴くとしても、心臓を捧げてきた同胞たちの想いが共に在るのだと。そして、戦えない自分への忸怩たる思いや、ハンジの誇りある生き様への敬意、その命を無駄にしないという感謝と決意……。それら全てが融け合って、ようやく絞り出せたのが「心臓を捧げよ」という一言だったのかもしれない。 

けれど、思いのまま鮮やかに空を翔けていたあの頃のハンジを取り戻してくれたのは、間違いなくリヴァイのこの一言だったのだろう。

 

「あぁ……やっぱり、巨人って素晴らしいなぁ……!」

-「進撃の巨人」 第89話『自由の翼』より

 

長らく見せていなかった心からの笑顔を見せるハンジ。それは、相手が未知の巨人だからという文字通りの意味もあるのだろうけれど。ハンジがそんな「いつも通りの」思いを胸に戦えるのは、きっとリヴァイの言葉が彼女を重い枷から解き放ってくれたから。無数の巨人を圧倒するその強さも、彼女が纏う「自由」の力なのだろう。 

ハンジがここで散ってしまう悲しさと、彼女が長い旅路の果てに自分を取り戻し、自分の信じるものの為に力を尽くせたことへの嬉しさ。その二つをまとめあげて爆発させる劇伴『Bauklötze』。リヴァイが最後に残した「じゃあな、ハンジ。……見ててくれ」の言葉。そして、ハンジを迎えに来た「彼ら」の姿からエンディング『いってらっしゃい』に繋がる流れ……。この一連に涙が止まらなくなってしまったのは、それがどうしようもなく美しく、悲しく、そして同時に「暖かくもあった」からなのかもしれない。

 

 

誰もが持っていた「自由」 - ジーク・イェーガーという男について

 

ガビやニコロ、ジャンやハンジ等を通し、シリーズのテーマ=自由を再定義していく『The Final Season』終盤。中でも、彼らとは別方向での「生々しさ」「エグさ」をもって描かれたのが、意外にもエレンの異母兄=ジークであった。

 

 

マーレ軍の「獣の巨人」として圧倒的な力を振るう傍ら、密かに「始祖の巨人の力でエルディア人から生殖能力を奪い、エルディアの血を絶やす」計画=安楽死計画を進めていたジーク。 

彼は登場からずっと――何度リヴァイに倒されても、情けない逃げ方と最悪の手段で彼を追い詰めても、不思議とその大物感が損なわれない奇妙なキャラクターだったが、それは子安武人氏というキャスティングの妙や、ジーク自身の「自分は崇高な大義の為に戦っている」という自己暗示の賜物。そのことを暴き出したのは、皮肉にも彼の異母弟=エレン、そして憎むべき父親=グリシャだった。

 

「アンタが望んだ哀れな弟はどこにもいない。アンタの心の傷を分かち合う、都合の良い弟も……。ただ、ここにいるのは “父親の望んだエルディア復権を否定し続けることでしか、自分自身を肯定できない男” ……死んだ父親に囚われたままの、哀れな男だ」
「だとしたら、男は父親に感謝している。父親の行いが息子を目覚めさせ、エルディアの危機から世界を救うのだから……。ある意味、世界を救ったのはこの父親だ」

-「進撃の巨人」 第79話『未来の記憶』より

 

シガンシナ区でエレンとジークが接触、「座標」を通し過去の世界を巡る中、エレンはジークの安楽死計画を「グリシャの望みを否定し、自分を肯定する為の詭弁に過ぎない」と一蹴する。 

この時点ではエレンの指摘を戯言と受け流してみせたジークだけれど、彼の余裕はそのすぐ後に敢えなく崩れ去ってしまう。

 

ジーク……! お前なのか!? 大きくなったなぁ……。すまない、私は酷い父親だった! お前にずっと辛い思いをさせた……!」
「……!」
ジーク……お前を愛してる! もっと、一緒に遊んでやれば良かったのに……!」
「……父さん」

-「進撃の巨人」 第79話『未来の記憶』より

 

ジークが長年待ち焦がれていたであろう心からの謝罪。このシーンは本来なら「感動の和解」に見えて然るべきなのだろうけれど、ジークが「父さん」と漏らす前の表情など、自分の目にはどこか「不気味」に映ってしょうがなかった。その理由、ないしこの一連に秘められたグロテスクな真意に気付くのは、エレンが始祖の力を手にし、物語からフェードアウトしたジークが久しぶりに姿を見せた時のこと。

 

「こんにちは、ジークさん」
「こんにちは、エレンの友だち。君もユミルに喰われたか」

-「進撃の巨人」 第92話『心臓を捧げよ』より

 

約10話ぶりに登場したジーク。毛量こそ普段のものに戻っていたものの、彼からはすっかりかつての覇気や余裕が――そして「エルディア人の救済」という夢が抜け落ちていた。

 

「今から遥か昔、この世界に物質しか存在しなかった頃……有象無象の何かが生じては消えてを繰り返し、やがてあるものが生き残った。それを “生命” と呼ぶ。結果的に生命が残った理由は、生命が “増える” という性質を持っていからだ。増えるために生命は姿形を変えていき、あらゆる環境に適応し、今日の我々に至る。より多く、より広く、より豊かに……。つまり、生きる目的とは “増えること” だ。この砂も、石ころも、水も、増えようとはしない」 

  (中略) 

「僕は、何も諦めてません」
「どうして?」
「えっ、それは……」
「まだ増えるためか? 種を存続させることが、君にとってそんなに大事なのか? 今起きていることは、恐怖に支配された生命の惨状と言える。全く無意味な生命活動がもたらした “恐怖” のな」
「仲間が戦っているんです!今ならまだ多くの人々を恐怖から救えるから……恐怖と戦っているんです!」
「なぜ負けちゃ駄目なんだ? 生きているということは、いずれ死ぬということだろう?」
「……!」
「案外、事切れる前はホッとするのかもな。何の意味があるのかも分からず、ただ増えるためだけに踊らされる日々を終えて、“これで自由になった” って」

-「進撃の巨人」 第92話『心臓を捧げよ』より

 

「 “増える” という本能に従い、不幸ばかりを生み出す生命活動は “無意味” でしかない」……というのが、再び現れたジークの主張だった。それは一件安楽死計画の延長のようにも思えるけれど、その実二つの思想は大きく異なっている。というのも、安楽死計画とは「エルディア人は生まれない方が幸せであり、世界からも争いがなくなるから」という考えによるもの。つまり、名目としては「エルディア人と世界をどちらも救うため」のものと言える。にも関わらず、この時のジークは「生命活動そのもの」を否定しているのだ。 

なぜジークは、自らの思想を以前と違えてしまったのだろうか。エレンが始祖の力を掌握してからのことは分からないため断定はできないものの、この変化に辻褄を合わせる為のヒントは「エレンの台詞」という形で既に語られていた。

 

「アンタが望んだ哀れな弟はどこにもいない。アンタの心の傷を分かち合う、都合の良い弟も……。ただ、ここにいるのは “父親の望んだエルディア復権を否定し続けることでしか、自分自身を肯定できない男” ……死んだ父親に囚われたままの、哀れな男だ」

-「進撃の巨人」 第79話『未来の記憶』より

 

この指摘が正しかったとすると、彼の思想の変化にも筋が通ってしまう。 

安楽死計画とは、グリシャの願いを否定する為の道具=復讐の手段でしかなく、「エルディア人と世界の両方を救う」という目的も、それを正当化する為の大義名分に過ぎない。同様に「生命活動そのものを否定する」という現ジークの思想も「エレンに出し抜かれ、安楽死計画がご破算になった」という事実=自身の敗北を否定し、エレンによって人類が殲滅される現状を正当化する為の詭弁……。 

そう、ジークは常に高尚な思想を掲げてきたけれど、それらはいずれも、自身の現状を合理化する為の大義名分に過ぎなかった。彼の中で一貫していたのは、世界を救いたいという正義感でも、人類への諦観でもなく「他者の否定による保身」という逃避の姿勢。エレンが彼を拒絶し続けたのは (目的の不一致は勿論として) そんな後ろ向きな傲慢さが、あらゆるものに屈せず進み続ける進撃の化身=エレンとは相容れないものだったからなのかもしれない。 

(第79話の和解シーンでジークの表情が不気味に描かれているのは、この和解が単なるハッピーエンドではなく「これまでの積み重ねや偽りの信念等、ジークという人間を構成するものがあっけなく崩れ去ってしまった」というグロテスクさを示唆しているのではないだろうか)

 

 

……と、まるでジークを糾弾、あるいは罵倒するかのような文章になってしまったけれど、サシャを撃った後のガビ同様、だからといって彼を「責める」つもりにはこれっぽっちもなれなかった。 

というのも、ジークのこのような「弱さ」を形作った大きな要因は、間違いなく父・グリシャがジークをエルディア復権の道具として育て、その上「期待外れ」という深刻な自己否定を植え付けてしまったことにある。そうでなくとも、他者の否定で自分を肯定したり、自分の醜いエゴに理由を付けて正当化する……というのは、誰しもが持ち得るありふれた弱さだ。むしろ、彼の育った背景や『進撃』世界の歪さを思えば「この程度の歪みで済んでいる」ことをこそ賞賛すべきなのだろうし、それはきっと、クサヴァーというもう一人の父親との絆のおかげなのだろうと思う。 

(もっとも、ラガコ村の一件をはじめ、自分のエゴの為に多くの無実の人々を踏みにじったことは決して許されるべきではない彼自身の罪。ユミル・フリッツやエレンとの接し方も然り、人を道具にすることに疑問を持たない悪性は、皮肉にも父親譲りの気質だと言える)

 

そしてもう一つ、ジークを責められない理由は彼の最終的な拠り所=「反生命主義」とでも言うべきその思想にある。

 

「僕は、何も諦めてません」
「どうして?」
「えっ、それは……」
「まだ増えるためか? 種を存続させることが、君にとってそんなに大事なのか? 今起きていることは、恐怖に支配された生命の惨状と言える。全く無意味な生命活動がもたらした “恐怖” のな」

-「進撃の巨人」 第92話『心臓を捧げよ』より

 

生命は例外なく「増える」という本能に縛られており、それ故に「恐怖」が生まれる。そして、その恐怖こそが争いや悲劇の根源である――。生命の在り方そのものを俯瞰し否定するジークの言葉に、胸を張ってNOを突き付けられる人が果たしてどれほどいるのだろうか。 

「増える」といえば生殖。生殖といえば恋愛。これが幸せと悲劇の表裏一体であることはわざわざここで語るまでもないだろうけれど、人を追い立て、いじめや差別を引き起こす「孤独への恐怖」や「それ故に、人は長いものに巻かれる」という習性、ひいては資源争いや戦争さえも、ジークの言う通り「生きようとする本能」によるもの。ジークの主張は極端でこそあれ、少なくとも「間違っていない」もののように思えるのだ。 

人は「増える」という本能に縛られ、様々な悲劇を生み出す存在。そして、その悲劇は「呪い」として次代へ受け継がれ、更なる悲劇の温床となっていく。結果、人は生まれながらにして呪われている「不自由」な存在であり、生まれないことが一番の幸せである――。それは、悲劇の絶えない『進撃』世界、あるいは現実に対する絶対的な回答のようでもあり、だからこそ、自分はそれを口にするジークと反論を潰されてしまったアルミン、二人の問答を「双方に感情移入しながら」見守っていた。我ながら傲慢な見方だとは感じるけれど、二人の対峙が「悲しいことや辛いこと、報われないことばかりの現実に疲れきった自分」と「それでも明日は良い日になると信じて足掻きたい自分」の対峙のように見えてしまったのだ。 

だからこそ、自分はアルミンに「覆して欲しい」と感じた。ジークを説き伏せて、この窮地を打開して欲しい……というよりも、むしろ「自分の中にいる “疲れきった自分” を打ち倒してほしい」「 “こんな世の中でも、人は自由に、幸せになれるのか” その答えを教えてほしい」というエゴ一色でアルミンの姿を見守っていた。

そして――アルミンは、予想も付かない形でその「答え」を示してくれた。

 

「あれは夕暮れ時……丘にある木に向かって、3人でかけっこをした。言い出しっぺのエレンがいきなり駆け出して、ミカサは敢えてエレンの後ろを走った。やっぱり僕がドベで、でも、その日は風が温くて……ただ走ってるだけで気持ち良かった。枯れ葉がたくさん舞った。その時、僕はなぜかこう思った。“ここで3人でかけっこをするために、生まれてきたんじゃないか” って」
「……!」
「雨の日、家の中で本を読んでいる時も、リスが僕のあげた木の実を食べた時も、みんなで市場を歩いた時も……そう思った。このなんでもない一瞬が、凄く大切な気がして」
「……それは」
「これは、砂に埋まってました」
「なぜ、それが」
「さあ。でも、僕にとってこれは……増えるために必要でも何でもないですけど、凄く大切なものなんですよ」
「ああ――そうだ。ただ投げて、捕って、また投げる。ただ、それを繰り返す……何の意味もない。でも、確かに……俺はずっと、キャッチボールをしているだけで良かったよ」

-「進撃の巨人」 第92話『心臓を捧げよ』より

 

決して特別でも何でもない、ほんの些細でありふれた日常の一コマ。……だからこそ、それはジークが並べる高尚な理屈よりもずっと胸に染みる「気付き」だった。 

アルミンにとってのかけっこ、ジークにとってのキャッチボール。そんな「自分はこの為に生まれてきたんだ」と思える瞬間が自分にもあった。その瞬間、自分の中に「幸せ」以外の感情なんて何もなかったと思う。 

確かに、人は生まれながらにして様々な呪いを背負ってしまうし、増えるという本能に縛られもする。しかし、人には間違いなく「自由」な瞬間がある。本能からも呪いからも、社会からもしがらみからも解放された、本当に「自由」な瞬間があったのだ。 

けれど、私たちは年を重ね、大人になる中でそんな他愛もない自由を忘れていってしまう。社会に囚われ、狡さを学び、物事の価値を「理屈」「利益」「打算」で計るようになってしまう。そして時には、かつて手にしていた自由を「大人になった証」として捨て去り、砂の中に置き去りにしてしまう。そんな自分自身の選択もまた、私たちを縛り付けている一因なのだろう。 

しかし、そこに選択の自由があるのなら、私たちはもっと自由でいいはずだ。どんな生き方を選んでもいい、それが社会で正しいとされるものでも間違っているとされるものでも (無論、他人を傷付けずモラルを守るなら、という前提の上で) 自分の望む道を行けばいい。アルミンにとってのかけっこのように、ジークにとってのキャッチボールのように、自分の幸福は、社会でなく自分が決め、感じて、その手に掴んでいくべきなのだから。 

そして、アルミンに「反生命主義」を説いたジークもまた、そんな「自分で自分を縛り付けていた」者の一人。父親への復讐を正当化する為に拳を掲げ、復讐という目的が消え、空っぽになった自分から目を背ける為に、その掲げた拳で世界そのものを否定し続けた。彼を本当に縛り付けていたのは、父親・グリシャでもエルディア人を差別する世界でもなく、他でもないジーク自身だったのだ。 

ならば、ジークは自分の手で「自由」を選ぶことができる。父親を否定するのも、保身を続けるのも、偽りの大義で世界を否定するのも、安楽死計画という希望に懸けるのも――あるいは、クサヴァーと紡いだ幸せを信じて未来に心臓を捧げることも、全てはジークの意志次第。

 

「クサヴァーさん、俺たちの望みは……叶わなかったよ。安楽死計画は間違ってなかったと、今でも思う。でも “あなたとキャッチボールするためなら、また生まれてもいいかな” って……。だから、一応……感謝しておくよ、父さん」

-「進撃の巨人」 第93話『長い夢』より

 

こうして、ジークは因縁の相手=リヴァイによって首を断たれた。運命に呪われ、弱さを誤魔化しながら生きてきた青年は、最後にその身を犠牲に「どんな生まれや育ちでも、人はいつでも自由になれる」ことを証明してみせた。彼の行いは決して許されるものではないけれど、彼が最後に下した勇気ある決断には、彼のように「弱さ」を抱えながら生きている人間の一人として、心からの敬意を表したい。

 

 

「エレン・イェーガー」が未来に遺したもの、私たちに刻み付けたもの

 

〈『The Final Season』とエレンの進撃〉

 

ここまで、サシャを巡る人々やハンジ、ジークらをピックアップしてThe Final Seasonを振り返ってきたけれど、ここまでほとんど「エレン・イェーガー」の名前が出ていないことには我ながら驚いてしまう。 

それもそのはず、The Final Seasonにおけるエレンの立ち位置は非常に特殊なものだった。最初は登場さえせず、登場したと思ったらミカサたちもその目的を把握しておらず、やがて兵団でもマーレでもない第三勢力として動き出し、最終的には世界を懸けてミカサたち連合軍の前に立ちはだかる……。 

主人公がラスボス枠 (という表現は似つかわしくないのだけれど、便宜的に) になる、という一点だけ切り取るなら、それは「珍しい」程度で済む話なのだけれど、ことエレンについては「台詞さえないエピソードが多い」「その真意が最後の最後まで明かされない」「演説の襲撃から地鳴らしに至るまで、その行動の “残酷さ” が最後まで美化されることなく描かれた」と、国民的少年漫画の主人公とは思えないほど衝撃的な要素が目白押しだった。けれど、そんなエレンの立ち回りにこそ『進撃』という作品の巧さが詰まっていたようにも思うのだ。

 

 

エレンの出番は確かに多くなかったし、その真意も最後まで伏せられていた。しかし、だからこそ本シーズンではミカサたちの群像劇が満遍なく描かれていたし、「エレンの目的とは何なのか」というフックもあって、彼は出番の有無に関わらず、最後まで物語の中心に在り続けていた。 

また、彼が一連の行動を起こしたのはThe Final Seasonから=本作が人気漫画としての立ち位置を不動のものにした辺りでのこと。揺るがぬ土台を手に入れたタイミングで、この賛否が分かれるであろう展開に――それも別冊少年マガジンという「多くの方々の目に触れる」場所で踏み出したことも含めて、The Final Seasonにおけるエレン周りの展開は「大胆」な以上に「クレバー」なものだったと言えるだろう。 

けれど、それらは『進撃』を見届けた今だから言えること。視聴している真っ最中の自分は、最初から最後までエレンの動向に振り回されっ放しで、クレバーだの何だのと言っている余裕なんてこれっぽっちもありはしなかった。

 

 

演説を襲撃し、多くの命を奪い、仲間たちに幽閉されて尚真意を伏せ続けるエレン。彼の動向を見守る他なかったThe Final Season中盤は「エレンのことを信じたい」思いと「でも、エレンのことを自分はどれほど分かっていただろうか」という疑念とが心の中で戦い続けており、折れそうになる「信じたい」思いを支えてくれていたのが、エレンとジャンによる下記のやり取りだった。

 

「オレは、お前らに継承させるつもりは無い」
「……何でだ?」
「お前らが大事だからだ、他の誰よりも。……だから、長生きしてほしい」

-「進撃の巨人」 第69話『正論』より

 

少なくとも、この時のエレンは間違いなく「自分の知るエレンその人」なのだと確信が持てる言葉だったし、ヒストリアの子どもに獣の巨人を継承させ続けるジークの計画に猛反発する姿もまた然り。……が、だからこそ、この過去編を経てもエレンの心境を量りきることができなかった。 

ヒストリアの計画的妊娠 (この妊娠は彼女自身の決断であったとはいえ、本来望む妊娠ではなかったことに加えてユミルとの再会も叶わなかったりと、彼女については受けた仕打ちの残酷さに反して特段の報いがなかったように感じたので、どこかしらで補完があることを願いたい……) がエレンを兵団と決別させた、というのは大いに筋が通るし、この件を踏まえれば「 (この計画の発案者である) ジークの計画に従っている」のも何らかの裏があると見て間違いなかった。 

けれど、肝心の「エレンの目的」そして彼が「姿を消した日」のことが明かされない。明かされない一方で、当のエレンはよりにもよってフロックらを従え、ミカサに「お前のことが大嫌いだった」とまで言い放つ始末。ここまで来ると、もうエレンの目的も、姿を消した日に何があったの知るよりも早く戻ってきて (ミカサに謝って) ほしかったし、自分の中でも「今のエレンは何かがおかしくなっているんだろう」という確信が高まっていった。 

……だからこそ、その果てに「エレンは何も変わっていなかった」と示されたあの瞬間の熱量を、自分は今も忘れることができない。

 

「オレがこの世を終わらせてやる、オレに力を貸せ! ……お前は奴隷じゃない、神でもない、ただの人だ! 誰にも従わなくていい、お前が決めていい! 決めるのはお前だ、お前が選べ!」
「エレン……!?」
「永久にここにいるのか、終わらせるのかだ!」
「やめろ、何をする気だ! 何をしているユミル、俺の命令に従え! 全てのユミルの民から生殖能力を奪えと言っているんだ!」
「オレをここまで導いたのは、お前なのか?」
「今すぐやれ! ユミル!!」
「待っていたんだろ、ずっと」
「俺は王家の血を引く者だァァーーッ!!」
「二千年前から……誰かを」

-「進撃の巨人」 第80話『二千年前の君から』より

 

「この世を終わらせてやる」という台詞から、エレンが何か破滅的な行為に踏み出そうとしているのは察せられたけれど、それだけに――その手段が間違っていたとしても、世界を敵に回そうとも、正しさでは救われないユミル・フリッツの怒りに寄り添い、二千年にも渡る少女の無念を晴らし、その業を引き受けるかのようなエレンの姿に、自分はどうしようもなく「カッコいい」と感じてしまった。自分の目には、エレンの姿がこれまでの「不自由にあえぐ人々の代弁者」の向こう側=地獄の中で苦しむ純真を、自分も地獄に堕ちることで救い出してみせる無二のヒーローとして映ったのだ。 

しかし、そんなエレンの言葉に受けた感銘は、直後明かされた「この世を終わらせてやる」という言葉の真意によって敢えなく掻き消されてしまった。

 

『オレの目的は、オレが生まれ育ったパラディ島の人々を守ることにある。しかし、世界は “パラディ島の人々が死滅すること” を望み、この島のみならず、全てのユミルの民が殺され尽くすまで止まらないだろう。……オレはその望みを拒む。壁の巨人は、この島の外にある全ての地表を踏みならす。そこにある命を、この世から駆逐するまで』

-「進撃の巨人」 第80話『二千年前の君から』より

 

思えば、エレンが作中前半時点で演説の襲撃という大罪を犯していたのは、この先「それ以上の罪」が待っているということ。その上で「地鳴らし」の存在を考えれば、この展開は十分に予想できたはずだった。にも関わらずここで言葉を失ってしまったのは、それが「エレンが取り返しの付かないことに踏み出してしまう」宣言でもあったからだと思う。   

確かに、演説の襲撃で既にエレンは取り返しの付かないことをしてしまったのだけれど、世界中を蹂躙するとなればもはや「償い」の余地すらない。つまり、この宣戦布告は実質的な「エレンは死ぬ」という最後通告だったのだ。

 

 

その後しばらくの間、エレンと「地鳴らしの巨人」たちは海を渡るに留まり、その間に何度も「今のうちにミカサたちがエレンを止めるんじゃないか」と期待しては、巨人たちの進行にその望みを打ち砕かれ続けた。 

迎撃艦隊や軍への攻撃ならまだ耐えられたのだけれど、決定的だったのは第88話『地鳴らし』において、エレンが自ら救った少年を踏み潰す一連。踏み潰したのは地鳴らしの巨人だけれど、今のエレン=終尾の巨人に「手足」と呼べるものがないこと、そして彼が地鳴らしの巨人たちを操っていることを考えれば、少年たちを踏み潰したのは紛れもなくエレン自身。仮にそうでなくとも、全てはこの地鳴らしを始めたエレン自身の咎であり、彼もそれを望んでいたのだろう。 

そんなエレンの真意がハッキリと告げられたのは、全てが終わった後――ミカサがエレンに「いってらっしゃい」の言葉を告げた、その後のことだった。

 

 

エレンの真の目的とは、「世界を滅ぼす悪魔」として討たれることで、仲間たちを「世界を救った英雄」に仕立て上げること。そして、自由を求める欲求のまま「世界を平らにする」こと――。次々と打ち明けられる彼の真意を聞きながら、正直、自分は感動するでもなく、悲しむでもなく、ひたすらに「いたたまれない」気持ちで一杯だった。 

そんな中、エレンは未来に起きる (起こす) 惨劇を自らこう評価した。

 

「全てはお前らを守る為だって思ってた。だが、サシャもハンジさんもオレのせいで死んで、フロックたちと殺し合いまでさせることになった……。どうして、どうしてこうなったのか、やっと分かった。“馬鹿だから” だ。どこにでもいるありふれた馬鹿が力を持っちまった、だからこんな結末を迎えることしかできなかった。そういうことだろ……?」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

結果、彼はミカサによって討ち取られ、アルミンたちは「世界を救った英雄」となったが、巨人の力が失われた後も戦いは終わらなかった。パラディ島は未だ残る「イェーガー派」によって軍備を増強し続け、テレビ放送版ラストにおいてはその更なる未来――途方もない時間を経た人類が再び戦火に焼かれ、あの「洞」が開く様が描かれていた。 

結局、世界に平和は訪れなかったのだ。未来の世界でも戦いが終わることはなく、そこには新たな悲劇や確執、差別が生まれ、人々を森の中で苦しめ続けている。 

「歴史は繰り返す」とは言うけれど、なら、エレンの覚悟も犠牲も無駄だったのだろうか。そんな不安が、先の「馬鹿だったから」という言葉と結び付いた結果「エレンが馬鹿だったから、歴史は繰り返した」と言われているような感覚に陥ってしまい、見終えてからしばらくは「自分の信じた『進撃の巨人』がそんな結末を迎えるハズがない」と否定することで手一杯になってしまっていた。 

ならば、エレンは何かを残すことができたのだろうか。この作品が彼の生き様に託したものとは一体何だったのか。その答えを、彼の歩みを振り返りつつ探り出していきたい。

 

 

〈『悪魔の子』と『最後の巨人』〉

 

エレンについて本格的に考えていく前に、このタイミングでこそ振り返っておかなければならない楽曲がある。『悪魔の子』と『最後の巨人』だ。

 

 

『衝撃』の後を継いだ、『The Final Season』2ndエンディングである『悪魔の子』。TVサイズの時点でも、物語の核を掬い上げた真に迫る歌詞、力強くもどこか儚いヒグチアイ氏の歌声が『The Final Season』にピッタリな楽曲だったのだけれど、中でも印象的だったのがBパート以降の歌詞。『進撃』を見ている私たち自身の「悪魔」に切り込む歌詞は「誰の中にも悪魔がいる」という本作のメッセージを鋭く歌い上げており、同時に下記の〆をより鮮烈なものへと磨き上げていた。

 

選んだ人の影 捨てたものの屍
気付いたんだ 自分の中 育つのは悪魔の子
正義の裏 犠牲の中 心には悪魔の子

 

調査兵団は勿論「犠牲を伴う道を進む中で、犠牲を生むこと、誰かの命を奪うことを “受け入れざるを得ない” エレン」を謳っているようで胸が締め付けられるこの歌詞だけれど、『進撃』本編と、それを見ている私たちをも取り込み総括するA・Bパートを踏まえた上で……となると、そこに『進撃』世界と私たち、全ての業を背負って燃え尽きていくエレンの姿までもが重なって見えてしまうのだ。

 

 

……と思っていたら、なんとエレン役・梶裕貴氏がそんな『悪魔の子』を、ヒグチアイ氏ご協力の下でカバーするという衝撃的な事案が発生。 

エレンの心の叫びであり、生き様であり、同時にそんなエレンを「想う」歌でもある『悪魔の子』。この楽曲のカバーに「自分だからこその想いを込めて、歌わせていただきました。」と添えることには、それだけで梶氏のエレンへの並々ならぬ思い入れが感じられるところ。ヒグチアイさん、梶さん、本当にありがとうございます……!

 

 

一方、そんな『悪魔の子』とは異なるベクトルで『進撃』そしてエレン・イェーガーへの愛がこれでもかと詰め込まれていたのが、我らがRevo氏が(2024年5月時点で)最後に手掛けられた進撃楽曲こと『最後の巨人』だ。

 

 

Linked Horizonが最後の最後で進撃に舞い戻ることや、それが「Revo氏が声域の限界に挑んだ歌」であるとは耳にしており、それだけに長いこと「一体どんなトンデモが出てくるのか」と身構えていた『最後の巨人』。いざ聴いてみると、その熱量は確かに上がり切ったハードルをブチ抜いていくもので、特に「弓矢を放つエレン」というLinked Horizonへの感謝と敬意に満ちた開幕カットや、文脈がギチギチに詰め込まれた「息の根を 止めてみろ 口先だけの正義じゃ 届かない」というサビ、エレンに挑む連合軍の感慨深いビジュアル、そして「満を持してマフラーを巻き直し、かつてエレンがいたポジションを引き継ぐミカサ」という画の火力はまさしく歴代最高と呼んで差し支えない代物だった。 

……が、その一方で「Revo氏の進撃楽曲にしては “仕掛け” が弱い?」と思う自分もいた。確かに「弓矢」「自由」「屍」という歴代リンホラ主題歌のワードは入っているけれど、それは『憧憬と屍の道』が既に到達点を見せてくれていた。となると、この楽曲にはまだ気付いていない、恐らく何か想像を絶する仕掛けがあるのだろう……と、そんなことを思っていた自分に友人から一言。 

「全部入ってるよ」 

全部、と聞いて、いや確かに「弓矢」「自由」「屍」が入ってるのは分かるんだけどもね……と言いかけたところで、更にとんでもない一言が。 

「EDまで全部入ってるんだよ」 

一拍置いてその言葉の意味に気付き、軽く悲鳴が漏れた。

 

弓矢のように飛び出した (紅蓮の弓矢)
自由を夢見た奴隷は (自由の翼)
いくつもの心臓見送って (心臓を捧げよ!)
紅に染まる鳥と成る (Red Swan)

屍を敷き詰めた道は (憧憬と屍の道)
争いを辿り 海を越え (僕の戦争)
ただ大きく地を鳴らしながら それでも進み続ける (Rumbling)

この残酷な壁の世界 (美しき残酷な世界)
たとえ何処へ逃げても (great escape)
落日に追われ羽をもがれ (夕暮れの鳥)
夜明けの歌を待ち侘びる (暁の鎮魂歌)

時に愛の名を欺いて (Name of Love)
衝撃と絶望を飼いならし (衝撃)
ただ悪魔と蔑まれても (悪魔の子)
同じ木の下にいたかった (UNDER THE TREE)

唯最後の巨人は 独り吼えた (最後の巨人)

二千年後の君の春はどんな花が咲く (二千年... 若しくは... 二万年後の君へ・・・)

 

そう、『全部』入っているのだ。Linked Horizon名義でないものまで含めて、文字通り「全部」が……!! (同じ配信版の新曲である為か『いってらっしゃい』だけ入っていないけれど、それはそれで「全てが収斂してからの “解放” 」という流れのようで美しい……!) 

他にも、Revo氏が手掛けたイメージソングのメロディも使われているという話まであるように、世界中の「全乗せ」曲が裸足で逃げ出す盛りっぷりの『最後の巨人』。しかし、この歌の巧さはそれらの「盛り」が非常に自然で、単なる言葉遊びになっていないこと。つまりは「歴代主題歌のオマージュであることを差し引いても『進撃』の総括として違和感のない歌詞になっている」ことだろう。 

結果、この歌は二重の密度で私たちにこれまでの物語=100話分の軌跡を想起させてくれるし、その上でお出しされるからこそ、最後の「エレンの言葉」がどうしようもなく刺さってしまうのだと思う。

 

お前らは森を出ろ 何度道に迷っても
報われるまで 俺達は 進み続ける
だからこの罪は赦さずに往け

 

Aパートでは「息の根を 止めてみろ 口先だけの正義じゃ 届かない」だった歌詞が、ラストでは「お前らは森を出ろ 何度道に迷っても 報われるまで」になっている対称構造がまさしくエレンの心情になっている……という巧みさに唸らされるのは勿論、特筆すべきは「お前らは森を出ろ 何度道に迷っても 報われるまで」というこのフレーズそのもの。『進撃』のテーマ (メッセージ)を、こんなにも美しく、たったの一言で表すことができるこの事実が、Revo氏のセンスや作品愛は勿論「Linked Horizonが『進撃』のフィナーレを飾るに相応しいアーティストである」という証明になっているようで、それがファンとしては嬉しくてしょうがないのだ。 

(厳密には、このフレーズは『二千年... 若しくは... 二万年後の君へ・・・』の方が初出と思われる)

 

とはいえ (Revo氏自身がSound Horizonの活動を通して話されているように) これらの歌も、アーティストによる『進撃』の解釈の一つであり、これまで述べてきたものは、それを更に自分が「解釈」したものでしかない。 

なので、これら楽曲群のことを今だけは頭の隅に置き、ここからはエレンが残したものや本作が彼の生き様に託したものを、自分自身の視点で咀嚼してみたい。

 

 

〈 “馬鹿” だったからこそ守れたもの〉

 

人類の8割という大きすぎる犠牲と引き換えに、巨人をこの世から駆逐してみせたエレン。しかし、それでも尚世界から争いが消えることはなかった。彼は、この結末について「どこにでもいるありふれた馬鹿が力を持っちまった、だからこんな結末を迎えることしかできなかった」と自嘲していたけれど、果たして本当にそうなのだろうか。エレンの考える「自分より利口な者」が……仮に「清く正しい正義の味方」が同じ立場だったなら、もっと多くの命を救えたのだろうか。そんなことはありえないだろう。始祖の力を手にしたのがエレンだったからこそ、この最善の結末を迎えることができたのだ。 

エレンが犠牲にしたものはあまりに大きく、その行いは決して許されてはならないものだ。けれど、彼が多くのものを救ってみせたのも疑いようのない事実。二千年に渡って積み重なったユミル・フリッツの無念を晴らし、巨人の力をこの世から消し去り、ミカサたちエルディア人を呪いから解放し、一方的な報復戦争まで未然に防いでみせた。果たして、それが「正義の味方」にできたかというと、まず最初の段階から=ユミル・フリッツの協力を得ることからして不可能だろう。あらゆる尊厳を踏みにじられつつも、愛故にフリッツ王の奴隷となっていた彼女の無念を晴らせるのは、そんなユミルを諌めるでも説得するでもなく、その怒りを肯定し、代弁してくれるエレン (とミカサ) だけだったからだ。 

また、仮に彼女の協力を得られたとしても、次に「その力で何をするか」という問題が立ちはだかってくる。マーレ側と交渉しようにも (エレンたちが目の当たりにしたように) 和解の余地はなく、始祖の力で牽制を行い続けるにしても、そこにはヒストリアをはじめとした仲間たちや子孫の犠牲が避けられない。文明の進歩により巨人の優位性が長く持たないことを踏まえても、パラディ島は謂わば「詰み」の状態にあり、この状況を犠牲なく解決する手段があったとは到底思えないのだ。 

そして、その「犠牲と引き換えに事態を解決する手段」を、利口で高潔な人物はきっと選ぶことができない。かといって、その正反対=犠牲を厭わない人物が始祖の力を手にしていたら、壁外人類は2割も残らず、完全に滅んでいただろう。 

一方、そのどちらでもない――利口という訳でも高潔という訳でもなかったが、目の前で苦しんでいる人々を見過ごせない優しさと正義感を持っていた――のが、他でもないエレンという存在だった。

 

 

やがて踏み潰すことになる少年を助けずにはいられない自分を「半端者」と呼んでいたエレン。彼が自分を馬鹿と嘲ったのは、そんな自らの「半端さ」「甘さ」が許せなかったからなのだろうと思う。 

けれど、エレンがユミル・フリッツの世界への怒りを肯定することができたのも、「仲間たちの救済」と「壁外人類の生存」を両立させることができたのも、彼が正義の味方ではなく「半端者」だったから。その半端さを馬鹿というのなら、そんな「馬鹿」さこそが、仲間たちを守り抜き、この世界をどん底から救った何よりの光だったと言えるのではないだろうか。

 

 

〈エレンとアルミンが夢見た景色〉

 

件の「馬鹿だったからだ」をはじめ、最終回におけるエレンとアルミンの会話には、エレンの心情を読み解くヒントが数多く散りばめられていた。中でも重要で、かつ本作らしさが詰まっていたのがこの一連だろう。

 

「エレン、確かにこの戦いは終わりが見えないし、僕たちが体験した地獄は何度も何度も繰り返されたよ……きっと。それでも、いつか……いつの日かきっと分かり合えるって、そんなささやかな願いさえ、もう誰も信じない……! 残された教訓は “殺すか殺されるか” それだけだよ。全ては僕たちの為にやったっていうのか……」
『エレン。お前の名前だ』
「……いいや、違う」
『エレン、お前は自由だ』
「オレは、平らにしたかったんだ。この景色が見たかった」
「何で……」
「何でか分からねぇけど、やりたかったんだ。どうしても」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

エレンがアルミンたちと強い絆で結ばれ、彼らを救うために戦っていたのは間違いないけれど、それらとは別に、最初からエレンの中に在り続けたのが「自由への渇望」。だからこそ、エレンは自由を阻むもの=壁や巨人の存在に抗い続けていた。 

今にして思えば、それはとても分かりやすい構造であり、分かりやすい「敵」だった。巨人を駆逐し壁を越えれば、その先に自由が待っていると信じることができたからだ。しかし、真相が明らかになると状況は一変。エレンたちの自由を阻むものとは、海の向こう側にいる壁外人類――もとい、遥か昔から積み上げられてきた怨みや偏見、そして差別の歴史。人が人である限り決して消えることのない、謂わば「人の持つ業」そのものだったのだ。 

だからこそ、あの景色こそが答えだった。人間が死に絶え、全てが平らになったあの光景こそが、エレンが求める自由の到達点。「平らにしたかった」という言葉は、彼が生まれ持った渇望が行き着いた「自由の果て」だったのかもしれない。

 

 
しかし、果たしてそれはエレンに特有の望みだったのだろうか。「自由になりたい」という願い=ある種のエゴで地鳴らしを起こした彼のことを、私たちは他人事として糾弾できる立場にあるのだろうか。

 

「……分かるよ。この世から人を消し去ってしまいたいと思ったことなら、僕にもある」
「嘘つけ、お前がそんなことを思……」
「誰も思わないだろうね、人類の2割を救った英雄だから。でも、エレンに外の世界の本を見せてたのは僕だ。誰もいない自由な世界をエレンに想像させたのは、僕だ」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

アルミンの告白には自分も驚いてしまったけれど、考えてみればそれは何ら不思議なことではない。 

ルールに縛られ、歴史に育てられ、他人の目に役割を強いられ、人と傷付け合いながら生きていく。人間はそんな「社会的動物」だ。当然、社会への順応には数え切れないメリットがあるけれど、私たちはその代償として生まれた時から自由を差し出している。誰しもが自由への渇望を持って生まれてくるのに、生まれたその時から――「人の子」として生を受けたその瞬間から、私たちは一人残らず何かに囚われている。 

だから「全てから解放されて自由になりたい」と、エレン同様に「全てが平らになった世界を見てみたい」と思うことは、きっと何ら不思議なことではないのだ。私たちが社会の中でそのようなしがらみに慣れて、あるいは忘れ去ってしまう一方で「自由への衝動」を忘れなかったことこそが、エレン・イェーガーという人間の特異性なのかもしれない。 

しかし、そんな衝動を薄れさせていたとしても、私たちは多かれ少なかれ、常にこの世界の残酷さに囚われ、息を詰まらせもがき苦しんでいる。だからこそ、エレンは私たちの「代弁者」でもあった。

 

彼の叫びが (自分を含めた) 多くの人々の胸を打つのは、私たちもまた様々な壁――誰かに決められた運命、「当たり前」という呪い、曇天のような見えない閉塞感――に囲まれながら生きており、その中で自らの「魂」を燻らせてしまっているから。現実世界より遥かに残酷で理不尽な世界で叫び、足掻き、抗うその小さな背中が、鋭く燃える瞳が、私たちに「お前たちはそれでいいのか」と問いかけてくるからなのかもしれない。

引用:感想『進撃の巨人 Season 1~3』- 心臓を捧げよ! 予想を裏切り、期待を越える “選択” と “代償” のヒストリア - れんとのオタ活アーカイブ

「正義」とは得てして社会的なものでもあり、それ故に「正義では救われないもの」もある。そんな世の中を、様々な壁に抗えず生きている自分のような人間にとって、怒りや衝動を原動力に「自由」を目指すエレンの在り方は殊更に眩しく――それ故に、エレンの戦いをある種の「代償行為」にしていた側面も否定できない。自由を目指し、様々な壁を破壊していくエレンの在り方に自己投影し、内に抱えている昏い衝動やいたたまれない想いを、彼に「晴らしてもらっていた」のだ。 

文字にしてみるとつくづく情けない話だと思うけれど、多かれ少なかれ、彼の戦いにある種の痛快さを感じていたのは自分だけではないだろう。現代社会で「呪い」に苦しむ人々にとって、エレンの叫びはそれぞれに抱えたままならない想いの代弁であり、彼の進撃はそれぞれに抱えたインモラルな衝動=呪いを引き受け、晴らしてくれるものでもあったからだ。 

だからこそ、少なくとも自分はエレンの行いを「許されないことだ」と声高に糾弾することは出来ない。彼の行いが過ちだったとしても、彼に自分を重ね、彼の進撃に救いを感じていた自分に、彼を糾弾できるはずがないのだ。

 

 

では、そのように「エレンの進撃に救われた人」でないのなら、彼を糾弾することができるのだろうか。この世界に生きる人々に、彼を糾弾できる資格が本当にあるのだろうか。

 

「勝てば生きる、負ければ死ぬ、 戦わなければ勝てない。 戦え、戦え。 巨人がいなくなっても争いはなくならない。 エレンは知る限りの未来を私に伝えました。 それ以上先の未来まで見ることが出来なくても、 この未来だけは鮮明に見ることが出来ました。……きっと、この結果はエレンだけの選択ではありません。 私たちの選択がもたらした結果がこの世界なのです」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

『進撃』世界が迎えた結末は、決してエレンの選択だけが作ったものではない。パラディ島やマーレに生きる人々、そして彼らが生まれる前の時代を生きていた人々、それぞれの選択が、それぞれの中にいる悪魔が歴史を積み上げ、世界を引き返せない地獄へと変貌させた。 

地鳴らしによる大量殺戮がエレンの罪だというなら、そうでもしないと救えない地獄を作り出したのは、それまで生きてきた人類一人一人の罪。本来のやり方=人々が自分の中の悪魔と戦っていくだけでは変えられない「手遅れの」世界を、人類全ての罪を引き受けることで掬い上げてくれたのがエレンであり、もし彼を糾弾できる人間がいるとすれば、それはきっと、他でもないエレン自身から「裁き」を託され、彼の罪を共に背負う覚悟を持った者――アルミンたちだけなのではないだろうか。 

(エレンがこの過酷な役目を担う発端となった「自由への渇望」について、その所以が作中で取り沙汰されることはなかったけれど、前述のアルミンとの会話において、エレンは「平らにしたかったんだ」という台詞の前に『エレン。お前の名前だ』『エレン、お前は自由だ』と、生まれた / 名付けられた瞬間を回想していた。それはきっと「エレン」という名前、そしてグリシャから託される「自由への祈り」に絡んだ歴史と因果の重さが、エレンに生まれながら人並み以上の呪いを背負わせてしまったからなのかもしれない。その衝動がエレンの悪魔であったとして、それを生んだのは果たして誰だったのだろうか)

 

叫び

叫び

  • Yûki Kaji
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〈エレンへの「報い」〉

 

エレンの罪の源泉は、エレンが生きていた世界の人々――とは言ったけれど、だからといってそれらを他人事扱いできるはずもない。『進撃』世界は、巨人の存在を除けば私たちの生きる現実世界と鏡映しであり、彼らの中にいる悪魔は私たちの中にいるソレと何ら変わらない。生きる場所が違っていれば、エレンに罪を背負わせたのは紛れもなく私たち自身なのだ。 

……と、ここまで書いたことで、最終回視聴後の自分を襲った虚しさの理由が少しずつ鮮明になってきた。エレンが死んでしまった悲しさは勿論だけど、彼の「死にたくない」「もっと皆と一緒にいたい」という想いがその罪に塗り潰されてしまう残酷さ、作品を見ている自分自身がエレンを死に追いやる一因を担ってしまったかのようないたたまれなさ、そして何より「それでも世界は変わらなかった」という結末が、あまりにも報われないものに感じられてしまったからだ。 

けれど、全てが終わった上で俯瞰して見てみると、そこには確かに「報い」があった。巨人の力が消えたこと、仲間たちが救われたこと。しばしの平和が訪れたこと……。そして、彼を弔った後のミカサの行動もその一つだろう。

 

「少なくとも、ミカサはこんな女泣かせのことは忘れて幸せになるべきだね! ……まあ、案外すぐに良い人見付けて、あっさりくっつく気もするなぁ!」
「……嫌だ」
「えっ」
「そんなの嫌だ! ミカサに男ができるなんて……! 一生オレだけを思っててほしい! オレが死んだ後もしばらく……10年以上は引きずっててほしい……!」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

「2人の日常がもう一度見れた」「エレンの “年頃の少年らしさ” がもう一度見れた」ことの嬉しさと「でも、そのどちらももう見れない」ことの虚しさが一気に襲ってきたこのシーンにおいて、ミカサに「自分のことを10年以上は引きずってて欲しい」と嘆いたエレン。けれど「そんなものじゃ済まないだろう」というのが彼ら二人を見続けてきたファンの共通見解だろうし、エレンの墓標と共に永遠を過ごしそうなミカサの姿はまさにその見解を地で行くものだった。 

とはいえ、ミカサがエレンを想ったまま永遠を過ごすのは、きっとエレンの望みではない。ミカサが自分の為に不自由を選ぶのはエレンにとって何より辛い結末だろうし、だからこそエレンは「一生」ではなく「しばらく」と言ったのだと思う。 

それを分からないミカサではないのだろうけれど、彼女の想い、そして「自分がエレンの命を終わらせた」という事実はそう簡単に割り切れるものではない。しかし、そんな状況で迎えた本作のラストシーンにおいて、彼女はようやく「笑顔」を浮かべることができていた。

 

「エレン……。マフラーを巻いてくれて、ありがとう」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

このシーンは様々な解釈ができるけれど、その内一つが「あの鳥がエレンの生まれ変わりである」と素直に受け取るパターン。 

もしそうなら「エレン (とアルミン) は地獄で永遠に罪を償うことにはならず、無事に生まれ変わることができた」という解釈もできるだろうけれど、これまでの『進撃』において、そのような「生まれ変わり」めいた概念が仄めかされることはなかったし、むしろ死者の姿がそのまま現れる演出が多かったこともあって、この現象には正直戸惑いもあった。けれど、無念を残して散っていった彼らにとって「捧げた心臓の結末を見届けるまでは成仏できない」=生前の姿でいるのは当然のこと、巨人の力が消滅した瞬間に死者たちが現れたあの時間は、彼らが報われ、成仏するまさにその瞬間だったのかもしれない。 

(コニーとジャンの前に現れたサシャ、そしてリヴァイの前に現れたエルヴィンたち。最後の最後に笑顔の彼らが見れたのが一視聴者として本当に嬉しかったし、ようやく涙を流すことができたリヴァイの姿にはこちらも涙を堪えられなかった)

 

勿論「あの鳥がエレンなのかどうか」を議論・検討するのは野暮なことだし、ミカサにとっては、エレンが「今も無念のままに眠っている」のではなく「次のステージに飛び立ち、そこできっと自由を手にした」と思えたことだけでも大きな救いなのだろう。 

けれど、その上でもしあの鳥がエレンであり、彼がマフラーを巻いたのが自分を責めるミカサへの「ありがとう」というメッセージだとするなら。この物語が、エレンとミカサによる「 “ありがとう” の交換」で幕を閉じたのならば、それは本作において何より美しいエンドマークなのではないだろうか。 

(単行本の新規書き下ろし / TV放送版のエンドロールでは、最終回後のミカサと子ども、そして彼女の夫らしき人物がジャンに似た後ろ姿で描かれている。第84話冒頭の演出からは、彼の中に未だミカサへの恋心が残っていることが窺えたし、大きく成長した今の彼はエレンにとっても後腐れなく「後を託せる」人物なのだろうけれど、「ミカサのエレンへの想い」を受け入れながら彼女とのパートナーシップを築いていくであろうジャンの覚悟と愛情の深さを思うと、それ自体がジャンの成長の証のようでもあり染みるものがある。ミカサ共々、エレンの分まで幸せになって欲しい……)

 

 

エレンにとっての「報い」と言えば、忘れてはならない人物がもう一人。ある者がエレンの想いに応え、ある者がその遺志を継いでいく中、唯一エレンの遺志=「自由になってほしい」という願いに背いたの、他ならぬアルミンだった。

 

「……分かるよ。この世から人を消し去ってしまいたいと思ったことなら、僕にもある」
「嘘つけ、お前がそんなことを思……」
「誰も思わないだろうね、人類の二割を救った英雄だから。でも、エレンに外の世界の本を見せてたのは僕だ。誰もいない自由な世界をエレンに想像させたのは、僕だ」
「それは……」
「やっと気付いてくれたのか。いつでも足元にあったのに、いつも遠くばかり見てるから……。ありがとう、エレン。僕に壁の向こう側を、この景色を見せてくれて。これは僕たちがやったことだ。だから、これからはずっと一緒だね」
「これから……? どこで?」
「あればだけど、地獄で。八割の人類を殺した罪を受けて苦しむんだ、二人で」
「……!」
「……」
「アルミン……時間だ。ここで過ごした記憶は消すが、全てが終わった時にまた思い出すだろう」
「ああ、次は殺し合いだね。そしてその次に会う時は……」
「……ああ、先に待ってる。地獄で……!」
「うん。ずっと……一緒だ!」

-「進撃の巨人」最終話『あの丘の木に向かって』より

 

エレンが犯すことになる罪を知り、その上で「これは僕たちがやったことだ」と、その罪を共に背負うことを決断したアルミン。自ら罪人となるその選択は、現世でエレンの遺志を継ぎつつも、死後の自由を手放すこと=エレンの為に「永遠の不自由を選ぶ」ものと取ることもできる。 

それは、不自由を憎み、仲間たちの自由の為にその身を散らしたエレンにとっては看過できない選択だろう。しかし一方では、アルミンが「本当に大切なものの為なら、自分自身さえ捨てることができる強い男」だと誰より知っているのも他ならぬエレン。だからこそ、エレンもそんなアルミンの決意を否定することなく、その優しさに「救われる」ことができたのではないだろうか。 

(思えば、エレンにとってアルミンは仲間たちの中で唯一弱みを見せられる=甘えることができる存在だった。ミカサとは異なるベクトルの「かけがえのない存在」であるアルミンが、その勇気を他でもないエレンの為に捧げたのは、彼にとってこれ以上ない報いになったのではと思う)

 

 

〈二千年... 若しくは... 二万年後の君へ・・・〉

 

こうして振り返ってみると、決して報われていない訳ではなかったエレン。なら、どうして自分は彼が迎えた結末を「報われない」と感じてしまったのだろうか。 

その原因は、おそらくテレビ放送版のエンドロールで追加されていた一連=エピローグの存在だ。

 

 

ミカサの「マフラーを巻いてくれてありがとう」で〆られる配信版最終回。それは終始地獄の様相を呈していた『進撃』とは思えないほど美しい終わり方だったけれど、諸々のショックに打ちのめされてしまっていた自分にその美しさに浸る余裕は残されておらず、ひたすら「この物語を受け止める時間が欲しい」という気持ちで一杯だった。 

ところが、よりによってこの回にはその時間=エンディングがない。何か「映画のエンドロール的なもの」はないか……と虚ろな頭で考えた結果、ふと思い出したのが「テレビ放送版にはLinked Horizonの新曲がもう一曲ある」という有識者の言葉。半ば反射的にU-NEXTでテレビ放送版を再生、アルミンたちが島に向かう辺りから見始めると、ミカサのシーンで新しい曲――と思いきや「知ってるイントロ」が流れ出し、余韻も何もなく「えっ……えっ!?」と叫んでしまった。これ、『13の冬』だよね!?

 

13の冬

13の冬

  • Linked Horizon
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

友人の勧めもあり、エレンの演説襲撃辺りで猛リピートしていた『13の冬』。この歌が大好きな身としては「公式化」に喜ぶ反面、その歌がこの局面で流れる切なさに涙腺がまた緩み始めて――「あなたは二度と帰ってこない」という歌詞で「おや?」と違和感。「最期の口づけを紅く染めたのは私 他の誰でもない」という歌詞でそれが確信に変わった瞬間、ボーカルにエレン役・梶裕貴氏が加わったことで緩んだ涙腺にトドメが刺された。2人がボーカルになっての特別版『13の冬』、こんな新曲予想できる訳ないって!! 

……しかし、本当に予想できなかったのは「その先」の展開だった。

 

 

歌が途中だったのでこのままエンドロールに入るのかと思いきや、流れ出したのは見たこともない「最終回後」の世界。『暁の鎮魂歌』の引用パートで描かれた「マフラーを巻き続けたミカサの最期」も衝撃的だったけど、問題はその直後。13の冬でも暁の鎮魂歌でもない、全く知らないパートが顔を出してから。 

ミカサたちもいなくなり、あの丘の木も大木となり、停滞した文明も近代的な発展を遂げた未来の世界。そこに、歌の転調に合わせて「兵器」が現れ、街もエレンの墓も吹き飛ばしてしまう――。 

「歴史は繰り返す」という歌詞の通り、またも繰り返された争いの歴史。その戦火がエレンの墓を吹き飛ばすという構図は、それがあたかも「人間は争いを繰り返す生き物であり、エレンたちの戦いには意味がなかった」と突き付けてくるようで、あまりのショックに言葉が出なかった。 

そして、その更なる未来。エレンの墓があったと思われる場所に訪れる少年。彼の前に広がっていたのは、かつてユミル・フリッツが迷い込んだ場所と同じ「洞」。動揺のあまり歌詞が頭に入って来なかった自分には、それが「エレンの想いではなく、力だけが未来に遺され、新たな呪いとなる」正真正銘のバッドエンドのように感じられてしまって、これまでの100話は何だったのかという絶望と、でも現実はそんなものだろう、という厭な納得、そして遣り場のない虚しさで一杯だった。

 

 

けれど、『進撃』がそんなバッドエンドを描くハズがない。現実なんて所詮そんなものだ、という諦めからエレン・イェーガーという主人公が生まれる訳がない。数日かけてそんな気持ちを思い出して、トラウマになりかけていた問題のシーンをもう一度視聴。すると、初見時にはなかった大きな気付きがあった。それをもたらしてくれたのは、ミサイルが落ちた瞬間から頭に入って来なくなっていた『二千年... 若しくは... 二万年後の君へ・・・』の歌詞、そしてそれをRevo氏と「エレン役・梶裕貴氏が歌っている」ことだった。

 

聞こえるか 森を出ろ 何度道に迷っても

 

確かに、エレンが拓いた道で仲間たちが積み上げていった希望は、その多くが失われてしまったかもしれない。人が人である限り争いは無くならないし、同じことの繰り返しになってしまうかもしれない。けれど、遺るものは必ずあるのだ。 

かつてユミル・フリッツが大樹の洞で出会った存在は、あくまで「増える」ことのみを目的とした意思無き原始生命体。大きな悪意がユミル・フリッツを追い詰め、そして彼女がこの「指向性を持たない超常の力」を得てしまったことが、本作における悲劇の始まりとなっていた。 

しかし、これから少年が出会う存在は違う。そこに眠っているのは、力だけでなく「自由を求める意志」、そして「森を出ろ」という願い。二千年……もしくは二万年という長い時間を経て様々なものが消え去ってしまったとしても、少なくとも、それだけは確かに「進んで」いる。エレンたちの戦いや積み重ねは、決して無駄ではなかったのだ。

 

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進撃の巨人』を見届けた人間として

 

思いの丈を数万字に起こし、改めて物語とその結末を咀嚼し、遂に旅路が終わろうとしている今だからこそようやく言えることがある。進撃の巨人』は、本当に素晴らしい作品だった。 

エルヴィンやサシャに代表される「キャラクターの死」への向き合い方も、ジャンやライナーの歩みに表れていた「葛藤と成長」も、ハンジやコニーに顕著だった「等身大の人間味」も、アルミンやリヴァイが見せてくれた、胸を抉るような「覚悟」も、ミカサが示し、ユミル・フリッツを救った「愛とは縛られることじゃない」というメッセージも、エレンを突き動かしてきた「叫び」も、深刻なテーマに真正面から挑み、圧倒的なカタルシスと共にその回答を叩き付けてくれたストーリーも、そのストーリーを更なる高みへ導いてくれた作画や楽曲のクオリティも、一つ一つの要素が自分にとっては「オールタイムベスト」と呼んで差し支えないものだった。 (自分はまだごく一部しか触れられていないのだけれど) 原作漫画も含め、本作がエンタメ作品として驚異的なクオリティを誇っていることは、もはや疑いようのない事実だろう。 

しかし、こうして文字を打っている今、頭の中にあるのは「面白かった」「大好きだな」という素直な感想だけではない。94話を走り抜け、自分なりの解釈を得て、この作品をエンタメとして消化しかけている自分を、焼け付くような「眼」が真っ直ぐに見つめているのだ。

 

 

己の中にいる悪魔と戦い、呪いではなく希望をこそ未来に受け継いでいくこと。それは、『進撃』作中だけではなく、今を生きる私たちにも課せられた命題だ。この物語を、そしてエレン・イェーガーという存在を見届けた以上、自分はこれから心の中にいる悪魔と戦い続けなければならない。 

生きることは、弱さとの戦いだ。世の中の「当たり前」に負けそうな自分。困難から逃げ出し、楽な道を選ぼうとする自分。自分の不幸を他人のせいにしようとする自分。他人を傷付けて自分を守ろうとする自分。自分の醜さから目を背けようとする自分……。悪事に手を染めたことはなくても、これらの悪魔に負けてしまったことは数知れない。過去の自分に恥じる生き方をしたくないという気持ちはあっても、なまじ身に付けてしまった狡さと社会経験が、その度に「上手い言い訳」を出力し、自らの弱さと折り合いを付けてしまっていた。 

けれど、もうそんな逃避は許されない。そうした悪魔の存在を実感する度に、悪魔に負けそうになる度に響く「戦え」という声に、私たちは背中を向けることができないからだ。

 

 

これまで自分は様々な作品に触れ、元気や活力を貰うこともあれば、夢に向けて背中を押されたり、大切なことを教えて貰うこともあった。しかし、このように「自分の生き方を定められる」という経験は初めてのこと。それは、自分だけでなく多くの視聴者 / 読者も同じだったのではないだろうか。 

この作品を発信し、世界に戦いを挑み、賛否両論を受けても、それでもエレン・イェーガーという存在を一人でも多くの人の心の中に刻み込む。それが諫山創先生の戦いだったのなら、自分がすべきはエレン・イェーガーの目に怯えることではなく、その視線を真正面から返せるように生きること。悪魔を捩じ伏せ、世界や自分自身への怒りを力に変えることだ。 

その手段は人それぞれだろうけれど、幸いにも自分には文字を書くという戦い方がある。そこで自分なりの答えを見付けられたなら、その時、ようやく自分はこの作品に「大好きだ」と胸を張って言うことができるのかもしれない。