感想『仮面ライダーBLACK SUN』“大人向けの仮面ライダー” は何を描き、誰に刃を向けるのか

「大人向け」と「子ども向け」……そんな概念が特撮ヒーロー界隈を荒らすようになってから、一体どのくらい経つだろう。 

おそらく、それは筆者が生まれた平成の時代より前から続いている問題だろうし、非常に根深いものだなとしみじみ感じてしまう。それだけに「この問題には極力触れたくない」というのが本音であったし、「特撮ヒーロー番組に大人向けだ子ども向けだと議論するのは、もうそれ自体が野暮なこと」だと、この問題から知らず知らずのうちに目を背けるようになっていた。 

にも関わらず、『仮面ライダーBLACK SUN』を見終えて真っ先に感じたことの一つは、本作がキャッチフレーズ通りの「大人向けの仮面ライダー」そのものであったことへの感動だった。

 

正直、本作については良くも悪くも言いたいことが数多くあるのだけれど、主なトピックへの言及は有識者の皆様に託させて頂き、この記事では『仮面ライダーBLACK SUN』が「大人向け」だったと言える所以と、そして、そもそもの「特撮ヒーロー作品における “大人向け” という概念そのもの」について、自分自身の備忘録も兼ねて記していきたい。

 

 

※以下、『仮面ライダー BLACK SUN』や、一部仮面ライダーシリーズ作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

 

仮面ライダー BLACK SUN』は、つい先日、2022年10月28日にAmazon primeでの独占配信が開始された『仮面ライダー』シリーズ最新作。 

体裁としては、1987年放送のTV作品であり、シリーズでも屈指の人気を誇る『仮面ライダーBLACK』のリブート作品であるのだが、「40分×10話」という、限りなく一般層向けのドラマに準ずる作品フォーマットや、それが一度に解禁されるという大胆な配信スケジュール、そしてメガホンを取るのが『孤狼の血』などで知られ、バイオレンス描写に定評のある監督=白石和彌氏であるなど、どう考えても「ただのリブートでは終わらない」ことが配信開始前からほぼ確定。結果、多くの特撮ファンが配信初日から狂喜乱舞する程の「話題作」となっていた。 

かくして蓋を開けてみると、大方の予想通り、『仮面ライダー』シリーズの作品としても『仮面ライダーBLACK』のリブート作品としても、極めて異質……そして「大人向け」な仕上がりとなっていた本作。その是非を考えるためには、やはり「大人向け」という言葉について考える必要がある。 

まずは、この言葉の指す意味について2つの観点から考えてみたい。

 

 

何をもって「大人向け」と呼ぶのか、何をもって「子ども向け」と呼ぶのか。何かとややこしいこの問題には2つの観点がある。それは「外面的」な観点「内面的」な観点だ。 

 

まず「外面的な観点」について、これは比較的分かりやすいもので、謂わば番組としての枠組み (=体裁)  の問題。 

この観点からすると、大人向け作品と呼べるのは、相応のレーティングが設定されている『BLACK SUN』や『仮面ライダー THE NEXT』は勿論、レーティングこそ設定されていないものの、未成年者の鑑賞についての注意書きが行われており、『仮面ライダーアマゾン』のリブートという体裁で作られた『仮面ライダーアマゾンズ』や、作品コンセプトやセンシティブな描写が明確に高年齢層をメインターゲットとしていた『真・仮面ライダー 序章』などだろうか。

 

 

一方、TV作品においても『555』や『キバ』のように「大人向け」と言われる作品は数多く存在している。しかし、これらの作品についてその枠組みを考えるならば、大前提としてそれは「子ども向け」と言えるだろう。 

バンダイがスポンサーとなり、玩具を売ることを番組としての主目的の一つに据えているからこそ、そのメインターゲットは当然ながら子ども。内容の如何も加味するなら、それは「大人でも楽しめる子ども向け作品」と呼ぶのが相応しいのではないだろうか。

 


一方、もう一つの観点である「内面的な観点」……つまりは、その作品の「中身」がどこに向けて作られたか、という点だが、こちらも概ね「外面的な観点」と同じことが言える。 

分かりやすい例として、ここでは平成仮面ライダーシリーズ第1作こと『仮面ライダークウガ』を挙げてみたい。

 

 

本作は「クウガVSグロンギ」という『仮面ライダー』らしいシンプルな対立軸を据えつつも、濃密かつ幅広い人間ドラマを描いているのが特徴の作品。その中には、子どもの時分では明確に理解することが困難であるものも非常に多い。 

しかし、子どもにとって難解だからといって、それがイコール「大人向け」であるかというと、そうではないと思う。たとえ明確に理解できなかったとしても、それでも伝えたい、心の片隅に残っているだけでもいい、そんな想いを込めて、子どもにこそ向けられて作られたと思われる内容に仕上がっているのだ。  

居場所を求めて彷徨う少年少女の苦悩、すれ違いの中で深まっていく家族の絆、暴力と、それを背負うことの痛ましさ……それらは、初めてリアルタイムで見た仮面ライダーが『クウガ』であった当時の自分にとって鮮明に理解できるものではなかったけれど、それでも、クウガ=雄介は勿論、あの世界の「それぞれの場所」で戦う人々の生き様は強烈に胸に焼き付いていたし、そんな『クウガ』に幼いながらに衝撃を受けたからこそ、今でも自分は特撮ヒーロー番組を追い続けている。 

つまりは、作品の複雑さ (敷居の高さ) や雰囲気からだけでは、その作品が「大人向けか子ども向けか」と一義的に言うことはできないのではないだろうか。


そして『クウガ』は、メインターゲットを児童層として作られたものではあるが……もとい、子どもたちに向けて作られたものだからこそ、どこまでも真摯に、本気で作られた作品であった。 

その常識外れなほど作り込まれた物語は、必然、メインターゲットである子どもの親世代をはじめとした幅広い年代のファンの心を掴んでみせたし、その追い風となったのは『クウガ』が描く「子どもにこそ向けられたメッセージ」が、大人にも響くものであったことだろう。だからこそ、自分は『クウガ』をはじめとする、難解な物語性を持つ作品群も「大人でも楽しめる子ども向け作品」と呼ぶべきだと思うのだ。

 


一方で難しいのが、「内面的な観点」における「大人向け」とは何なのか……つまりは、「“大人に向けてこそ作られた”と言える内容の作品」とは一体何なのか、ということだ。

 

前述した『クウガ』などは、子どもには難しい内容であっても「子どもにこそ伝えたいメッセージ」が満ちており、また、それらが大人にも通ずるものを持っている=大人でも楽しめるものだからこそ、自分はそれらの作品を「大人でも楽しめる子ども向け作品」と表現した。ならば、大人向けの作品にはその逆=「大人にこそ伝えたいメッセージ」というものが存在するのではないだろうか。 

しかし、そう推測したまでは良かったものの、自分はこれまで腑に落ちる答えに出会えていなかった。というのも、「子どもではなく、大人にこそ伝えたいメッセージ」というものが、これまで見てきた「大人向けの仮面ライダー作品」群にはこれといって見受けられないように感じられたのである。 

 

 

『アマゾンズ』など、大人向けと呼ばれる作品群の特筆すべき個性と言えば、バイオレンス描写をはじめとする「子どもには刺激が強すぎる描写」でしか作れないカタルシスやエンターテインメント性といったものが挙げられる。 

では、その内容……メッセージ性などはどうか? というと、そういった作品群で描かれているメッセージ性は「子どもに向けられた」ものと、本質的には違うように思えなかった。これは決して悪い意味ではなく、「子ども向けの作品におけるメッセージが、大人にも通ずるものである」という、シンプルにそれだけのことであるのだと思う。

 

でも、だからこそ気になってしまうのだ。主に子ども向け作品として作られている仮面ライダーをわざわざ「大人向け」と大手を振って作るのなら、その中に込められているメッセージもまた「大人にこそ向けられたもの」になって然るべきではないのかと。 

では、大人にこそ向けられたメッセージとは、メインターゲットが子どもではなく、大人だからこそ伝えたいものとは一体何なのか……。それが自分には長らく分からなかったし、だからこそ『アマゾンズ』や、他の特撮ヒーローシリーズの「大人向け」として作られたシリーズに、面白いと思うことはあっても、胸にガツンと響くような視聴体験はそう多くなかった。 

そう、この『仮面ライダー BLACK SUN』を見るまでは。

 

 

では『BLACK SUN』がどれほど「大人向け」だったのか、どんな「大人にこそ向けられたメッセージ」を持った作品だったのか。そのキーになるのが、『BLACK SUN』の主題となる「差別問題」だ。

 

 

本作の舞台は、PVなどで大々的にアピールされている通り「人間」とは別に「怪人」という種族が存在しており、その怪人に対して激しい差別が行われている……という世界線現代日本。 

ここでまず触れておきたいのが、「異なる種の共存」をテーマに掲げた作品は多いが、「異なる種への差別」を作品のテーマとして掲げた作品は決して多くなかったということ。

 

例えば、作品そのもののテーマとして「怪人と人間の共存の可否を問う」ものとしては、真っ先に挙げられるのが『555』『剣』『キバ』といった作品群だろう。しかし、これらの作品が作品全体のテーマとして「差別」を描いたかというと、そういう訳ではないように思う。なぜなら、オルフェノクもアンデッドもファンガイアも「人間より遥かに高い能力を持つ種」であり、人間と明確な力関係の差が示されていたため、怪人側が人間を見下すことはあっても、所謂「差別」=怪人が人間を面と向かって蔑む、あるいはその逆のような描写は決して多くなかった。それもそのはず、人間社会における「差別」とは、社会性やルールをある程度同じくする者が、「自分より社会的に弱い」者を合法的に排除するために行われるものだからだ。 

(似たものとして挙げられる数少ない例の一つが、『劇場版仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』における、レジスタンス内での木場たちへの扱い。しかし、それは木場たちがレジスタンスの一員として、同じ文化・同じルールの中で人間と共闘しており、同時に人間に刃を向けないことが間違いなかったからこそ起こり得た特例と言えるかもしれない)

 

 

そんな「差別問題」を『BLACK SUN』が扱うにあたっては、本作の人間―怪人のパワーバランスが非常に珍しい形=「怪人は人間より強力だが、数の暴力や銃火器には勝てない」という、それこそ日曜朝の仮面ライダーシリーズでは有り得ない形で描かれていたことが大きい。 

『BLACK SUN』の世界では、人間と怪人の力関係は「絶対的」ではない。個体差はあるが、怪人の身体能力はおおよそ「プロレスラー」のようなものであり、並みの人間では太刀打ちできなくても、銃火器を持った警察や自衛官にかかれば容易に殺害することができる……というもの。それは即ち、弱い人間でも「法」を盾にしたり集団で襲いかかったりすれば、相手が怪人であっても優位を取れるということだ。 

実際に、作中ではバスの運転手に「怪人を乗せるの!?」などと堂々と言ってのける市民がいたし、雀怪人こと俊介 (演.木村航碁) は、逃げることさえ叶わずに一般人の手で虐殺されてしまった。 これらの描写は、前述した特異な設定背景があるからこそ描けた、『仮面ライダー』シリーズではおそらく初と言えるほどに露骨な「差別」描写と言えるだろう。

 

そして、問題はこの痛烈な差別描写が、非常に現実的かつ生々しいものだったこと。 

その描かれ方は、従来の「黒人差別」や「学生運動」など様々なものを混ぜ合わせたものになっていたけれども、個人的には、これは「怪人」という、現実には存在しない種に対する差別の描き方として非常にクレバーだったように思う。  

 

確かに、対象がフィクションの存在であれば、それに対する差別も劇中で根拠が描写され、それに対して積み上がってしまった独自の「差別」であるというのが自然な描写かもしれない。しかし、ここで忘れてはならないのが『BLACK SUN』はあくまで現実における差別問題や、人の悪性に深く切り込む物語であること。 

だからこそ、そこで行われている差別は現実のそれと似通ったものであったし、現実と似通ったものだからこそ、その痛ましさを視聴者である我々に最低限の描写で伝えることができる。「そうはならないだろう」と思われる危険を冒してでも、現実の差別描写と繋がりを持たせることで「怪人差別」の痛ましさを視聴者に効果的に伝え「他人事」感を弱めること。それが、一連の差別描写の狙いだったのではないだろうか。

 

 

一方、前述した差別描写が「現実」のそれに近かったということは、それを行う登場人物たちの悪性も現実のそれに限りなく近いことを意味している。 

反怪人団体の代表だった井垣 (演.今野浩喜) は、その物言いは勿論、自分は怪人たちに非道な行いをしておきながら、自分に反撃した俊介に対して尋常でない恨みを持ち、殺すだけに留まらず、晒し首にして自宅前に吊るすという極悪非道をやってのけた。 

このような、体の良い「正義」で自分を飾り、醜いエゴを傍若無人に気持ち良く発散するという振る舞いは、程度の違いはあれど「現実に存在している悪人」を高い精度でトレースしていたし、このような「現実的な悪辣さ・醜さ」の描写精度は、総理大臣である堂波 (演.ルー大柴) とその一派など、他の登場人物たちにおいても凄まじいものがあった。 

(この総理大臣周りの描写が、キャスティング含め特定個人を想起させる向きが強すぎるものだったのは流石にモラルとしてどうかと首を傾げてしまうけれど)

 

 

しかし、この『BLACK SUN』が大人向けだと感じたのは、何も差別描写があるから、それらを行う人間たちが生々しいから……という訳ではない。それら生々しい「悪性」が跋扈することで「現実の写し鏡」と化した世界に対し、主人公たちが突き付けた「答え」とその姿に、限りなく「大人にこそ向けられたメッセージ」を感じたからだ。

 

 

『BLACK SUN』のヒロイン兼、実質的な主人公でもある和泉葵 (演.平澤宏々路) は、自らが蟷螂怪人にされたこと、親友の俊介が殺されたこと、そして、光太郎 (演.西島秀俊) やビルゲニア (演.三浦貴大) らとの交流を経て、自身が当初掲げていた言葉を自ら否定し、世界に文字通りの「宣戦布告」を行ってみせる。 

「永遠に戦うのではなく、戦いを終わらせるために戦う」という彼女が背負うのが、無限のマークから変化した「線と "ピリオド" 」――同時に、かつての仮面ライダーBLACK (兼ゴルゴム) のトレードマークであるなど、一見ポジティブな描かれ方をしているこの選択だが、その実態が「テロ組織として世界に挑むこと」だと明かされるや否や意味合いが一変、視聴者である我々に、大きな揺さぶりがかけられることとなった。

 

 

『BLACK SUN』において大きな問題であった「怪人差別」は、創世王が死んだことでおそらく遠くないうちに (怪人の絶滅という形で) 終わりを告げるのだろう。しかし、その果てに待っていたのは「移民差別」という、その根本を怪人差別と同じ「人間の業と悪性、濁りきった世界構造」に持つ深刻な問題であった。 

一つ一つの問題を潰したとしても、すぐに「次」が現れる。それもそのはず、ただでさえ人間という不完全な生命体が平和な共同体を作る以上、どこかでその皺寄せが歪みとなって噴出し続けるのはある種の必然であるし、そんな問題が起こらない世界……葵の言う「命を奪い合わない世界」を目指すのなら、その方法は確かに「世界を根本から変える」ことだけなのかもしれない。 

しかし、その方法として葵が選んだ「テロ組織として戦う」という手段は、果たして正しいのだろうか。その正当性は、おそらく誰よりも製作陣自身が否定していると自分は感じた。 

なぜなら、葵の組織員への指導内容が「命を奪うこと」に特化したものであることを強調して見せているだけでなく、葵が少年兵を指導するシーンの直前に、彼女が子どもに手を差し伸べるシーンをわざわざ入れていることで、彼女の行為が「誰かを救える一方で、誰かを犠牲にするもの」であるという事実を浮き彫りにしているからだ。  

彼女がその事に自覚的な上で諦めているのかどうか、それとも、それを甘い考えとして切り捨ててしまったのかは分からないけれど、少なくとも、作中において彼女の選択が「肯定されていない」のは間違いないだろう。  

 

命を奪うことで生まれた平和は、いつか同じ状況を作り出してしまう。信彦 (演.中村倫也) が作り出そうとした世界が否定されたように、葵の行いもまた、否定されるべき世界のように描かれている。 

つまり、この『BLACK SUN』においては、人間の悪性が生む悲劇の連鎖を断ち切る希望=「光太郎と葵の紡いだ絆」が明確に描かれた一方、「その希望をどうすれば形にできるのか」までは描かれていない。それはつまり、この世界に「答え」がない=「この世界は既に“手遅れ”になってしまった」ことを意味しているのではないだろうか。 

(こう考えると、BLACKのマークが違う意味合いを匂わせてくるし、皮肉にも漫画版『仮面ライダーBlack』に通ずるものさえ感じてしまう)

 

 

そして、自分がこの『BLACK SUN』に感じた「大人にこそ向けられたメッセージ」の最たるものはここにある。 

本作で描かれた人間の悪性は様々だが、井垣のような「自分の正義に溺れて他者を傷付ける傲慢」も、堂波のような「私利私欲の為に人を欺く傲慢」も、そして何より、そんな世界の在り方に「見て見ぬふりをしようとする傲慢」も、そのどれもが、現実の大人なら誰もが持ち得る「ごく身近な悪性」なのだ。葵が最後の演説で画面越しに語りかけた真の相手は、そんな傲慢を持ちながらも、井垣や堂波たちを「他人/キャラクター」として見ている我々自身だったのだと思う。 

そう、『BLACK SUN』は、我々に警鐘を鳴らすのではなく、これらの傲慢の「当事者」であるかもしれない我々の喉元に「なぜ、他人事だと思えるのか」という刃を突き付けてくる物語。そのメッセージは、いつかの大人である子どもたちではなく、今、この世界に向き合っている我々大人にこそ向けられたものであり、だからこそ『BLACK SUN』は限りなく現実に近い形で描かれたのだろう。

 

そんな『BLACK SUN』は、前述のように限りなく希望のない結末を迎えた。光太郎と信彦に託された祈りが叶わずに潰えてしまったように、葵が光太郎の意思を受け継ぎながらも、テロという手段しか取れなかったように、あの世界は結果的に「救われなかった」のだ。 

しかし、それは決してあの世界に限った話ではない。あの世界と状況は違えど、我々も同じような悪性を持っている人間。いつかは我々の現実も『BLACK SUN』の世界のように、先のない、答えのないバッドエンドに至ってしまうかもしれない。そうならないように、我々大人が他人事ではなく当事者として向き合うべきなのだと、そんな「怒り」を自分は本作から感じたし、そういった意味で、本作は自分にとって紛れもない「大人向けの作品」だったのだ。

 

 

これらが『BLACK SUN』を見終えた筆者に去来した、最も大きな感想だった。つくづく『仮面ライダー』の感想には見えないと自分でも思ってしまう。 

勿論、光太郎と信彦が初めてライダーに「変身」する際のカタルシスが凄い! とか、西島秀俊中村倫也の変身ポーズがカッコよすぎる! とか、BLACKのオマージュが良くも悪くも愛に溢れていて俺は好きだぜ! とか、葵の変身や最後の「特訓」が活きてしまうシーンが良すぎたとか、「10話のドラマ」としてはメリハリに欠けるが「400分以上の映画」として見るとカタルシスが弱いというこのバランス感覚はいかがなものか、とか、総理の外見や戦争法案という単語などに個人的な思想が出すぎていて没入感が削がれるとか、仮面ライダーBLACKのリブートでこれをやらんでも……とか、そもそもこの作品が『仮面ライダー』としてどうだったのか……等々、本作に対しては良くも悪くも言いたいことが山ほどある。 

しかしそれでも、視聴後の自分が抱いたのは「大人にこそ向けられた仮面ライダー」を描いてくれたことの感動、そして突き付けられた刃の鋭さへの恐怖。それは、文字通りの類を見ない視聴体験だった。 

そんな『仮面ライダー』が生まれてくれたこと、そして、この作品が『仮面ライダーBLACKのリブート』だったことで大きな話題を呼び、多くの「大人」の目に触れたこと、そのことに、自分は好きとか嫌いとかそういった感覚以前の、とても大きな意義を感じたのである。

 

Did you see the sunrise?

Did you see the sunrise?

  • 超学生
  • J-Pop
  • ¥255

 

本作が突き付けてきた強烈すぎるメッセージ。詳しくはここで語るべきことではないけれど、自分にはとても刺さるものだった。 

自分が正しいからと内心で言い訳をしながら誰かに心ない行いをしたこと、私利私欲の為に嘘をついたこと、誰かの悪事に見て見ぬふりをしたこと、大なり小なり、そういった自分自身の「悪性」には心当たりがあるし、そんな自分をとても恥ずかしく思う。 

だからといって「具体的な行動を起こせるのか」と言われると、人生はそう簡単なものではないし、本作で見られたような行動に出て世界を変えるぞ! などとは到底思えない。けれど、誰かのために自分ができることは何なのか、自分が今生きている現実や、この社会に「当事者」として向き合うためにはどうするべきなのか、自分にこれからも問いかけ続けて、少しでもできることを形にしていかなければならないのだと思う。   

『BLACK SUN』が良い作品だったのかどうか、自分はこの作品が好きなのかどうなのか……と、そういった感想を出すにはまだ時間がかかってしまいそうだけれど、この作品を見ることに「価値があった」と思えた気持ちは確かなものであるし、そう思わせてくれる作品に出会えたことに、今はひとまず心からの感謝を捧げたい。

 

その上で、敢えて一つ願うことがあるとすれば、それはこの作品を製作した会社自身が、本作が突き付けてくる「刃」に正面から向き合ってくれること。 

仮面ライダースーパー戦隊といった作品に育てられ、彼らの背中に憧れてきた一ファンとして、同社が「見て見ぬふり」をしないことを、今はただ祈るばかりだ。