感想『ウルトラ6兄弟 THE LIVE in 博品館劇場 ウルトラセブン編 Vol.1』 “超兵器R1号” 続編の準主役をトライスクワッドが担ったのは必然だったのか

『ウルトラ6兄弟 THE LIVE in 博品館劇場 ウルトラセブン編 Vol.1』の第一報が飛び込んできた時、その内容が全く予想できずに首を傾げていたのをよく覚えている。 

ゾフィー編は前半が実質エース編だったり、ダイナ編は開幕から『死闘! ダイナVSダイナ』が文字通り完全再現されたりと、常に我々ウルトラオタクの予想の斜め上を行き、とんでもないクオリティの傑作舞台をお出ししてくれることに定評のある博品館劇場。 

しかし、今回の『セブン編』は、どこかこれまでと異なる雰囲気を醸し出していた。

 

本公演は『ウルトラセブン』の代表的なエピソードとして知られる「超兵器R1号」と「狙われた街」をオマージュし、舞台作品として新たに甦らせることで、ウルトラセブンの世界観や作品に込められたメッセージをより深く表現。

 

ニュアンスとしては、かつての舞台版『ひとりぼっちの地球人』を思わせるイントロダクション。しかし、博品館劇場でのウルトラステージは老若男女が観劇するエンターテインメント作品であるし、この通りの作品なら敷居が高すぎるのでは……。と、そんな不安を拭いされないままに迎えた公演初日。お出しされたのは、予想していたものとも、ひいてはこのイントロダクションとも若干異なるものの、しかし非常にクオリティの高い「続編」舞台だった。  

そこで今回は、そんなウルトラセブン――と、その隣でまさかの救済を受けた「あるウルトラマンたち」について、冷めやらぬ興奮を文章にして残していきたい。

 

 

※以下、本公演や各ウルトラシリーズ作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 


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引用:ウルトラ6兄弟 THE LIVE ウルトラセブン編 〜超兵器R1号 / 狙われた街〜 in 博品館劇場 - 円谷ステーション https://m-78.jp/event/post-116998


『ウルトラ6兄弟 THE LIVE ウルトラセブン編 〜超兵器R1号 / 狙われた街〜 in 博品館劇場』は、その名の通り、東京・銀座の博品館劇場で行われている、ウルトラ6兄弟が主役の舞台シリーズ『ウルトラ6兄弟 THE LIVE』の最新作。 

同シリーズはこれまで『タロウ』『ウルトラマン (Vol.1) 』『ゾフィー』『ウルトラマン (Vol.2) 』の4作+αを上演しており、ウルトラマン編Vol.2はジャック、ゾフィー編はエースがそれぞれ事実上のW主演だったことを踏まえると、今回のセブン編はまさに「満を持して」の公演だったと言える。 

そんな本公演はタイトル通りの2部構成。それぞれのイントロダクションは以下の通りだ。


〈前半『超兵器R1号』〉 

地球人の兵器実験によって母星を失った悲劇の存在、ギエロン星獣ウルトラセブンによって眠りに就いたはずのギエロン星獣だったが、しかし、何者かの手によって再び目を覚まし暴れ始めた。 

そのことを知り、単身地球へと向かうウルトラセブン。彼を支援するために、光の国は若き戦士たちをギエロン星獣討伐隊として派遣する。 

セブンがなぜギエロン星獣という存在にこだわるのか、なぜ頑なに自らの手で決着を付けようとするのか……。彼らは、戦いの中で秘められた彼の真意を知ることとなる。

 

〈後半『狙われた街』〉 

ギエロン星獣の一件は、ある宇宙人による計画の一環だった。彼の陰謀に巻き込まれ、知らず知らずその計画に加担してしまっていたペガッサ星人は、地球で出会ったペガッサ星人・ペガの力を借りてウルトラセブンに助けを求める。 

セブンは、加害者でもあり、被害者でもあるペガッサ星人に何を告げるのか。そして、セブンやウルトラ兄弟たちは、黒幕の野望を阻止することができるのか――?

 

 

結論から言うと、非常に素晴らしい舞台でした。 

公式の「『超兵器R1号』と『狙われた街』をオマージュし、舞台作品として新たに甦らせることで、ウルトラセブンの世界観や作品に込められたメッセージをより深く表現」という謳い文句からイメージされるのは「舞台版リメイク」だけれども、本公演はむしろ「続編」と呼べるもの。そして、それは「リメイクよりも、製作陣の強い “リスペクト” を感じさせてくれる」内容に仕上がっていたように思う。 

そんな前後編のうち、私が特に感銘を受けたのは公演前半=『超兵器R1号』だった。

 

 

そもそも驚きだったのは、このご時世に『超兵器R1号』と正面切って向き合った作品を作ることができる、ということ。 

今回の公演で使用されたのは、おそらく2017年の『ウルトラマンジード』で新造されたギエロン星獣の撮影用スーツ。同作のギエロン星獣登場回『午前10時の怪鳥』は、平成末期のスタンスから原点のテーマに向き合うという意欲作だったが、そこから滲み出る「どうにかしてタブーに触れようとしている」感覚にはどこか違和感 ( 制作側の “怯え” のようなもの?) もあり、今のご時世、原点のようなシビアなテーマはお茶の間に流せないのだろうな……と、どこか複雑な気持ちになってしまっていた。 

思えば、本公演が正面切って『超兵器R1号』に向き合えたのは、これがお茶の間に流れるTV作品ではなく、ウルトラシリーズに深い興味を持つ方しか見ない「舞台作品」だったからかもしれない。

 

そんな本公演の素晴らしいところは、原点にガッツリ踏み込みつつも決して「閉じた」作品ではなかったこと。『超兵器R1号』の直接的な続編としてリスペクトを込めつつも、若いファン層に向けて「原点のメッセージを伝える」という側面もしっかり持つ……という、極めて理想的なバランスで仕上がっていたように思う。 

そして、その立役者となるのはウルトラセブンの息子=ゼロでも、最新ヒーローのデッカーでもなく、なんとウルトラマンタイガ、タイタス、フーマら「トライスクワッド」の3人という意外な面々。しかし、彼ら3人を抜擢し、準主役として描いたそのセンスこそ、本作が傑作たる大きな要因の1つであった。

 


ウルトラマンタロウの息子=タイガ、ウルトラの星・U40の反逆者であるヘラー軍団の血を引くタイタス。ウルトラマンオーブや『R/B』の兄妹と同じルーツを持つフーマ。異なる出自を持つ彼ら3人の組んだチームがトライスクワッドであり、この3人は2019年にTV放送された『ウルトラマンタイガ』の主役たちでもある。 

地球でウルトラマントレギアとの戦いを終えてからは、ウルティメイトフォースゼロ同様に宇宙警備隊所属の独立遊撃隊として活躍を続けている、ウルトラの若きホープたち。本公演において、彼らはゾフィーから「ギエロン星獣討伐に向かったセブンの支援」という指令を受け、異なる次元の地球でセブンと合流。戦いの中で、セブンとギエロン星獣との因縁や『超兵器R1号』にまつわる事件について知ることになる……。 

そう、彼らが本公演で担うのはなんと文字通りの準主役。具体的には、「『超兵器R1号』を知らない世代」としての主人公だ。 

セブンだけの物語にせず、彼ら「原点を知らない世代」とのW主役にすることで、本公演は『超兵器R1号』に真正面から向き合いつつも、幅広い世代へアプローチする見事なシナリオとなっていたのである。

 


と、このように「知らない世代」代表として選ばれた (であろう) タイガたちトライスクワッド。では、なぜこの役割が前述のゼロやデッカーではなく彼らに託されたのか……? それは、彼らが「当時を知らない若い世代の戦士」であるだけでなく、3人が「それぞれ異なる価値観を持っており、互いにそれを忌憚なく口にできる関係性」だということにあるだろう。

 

 

復活したギエロン星獣との戦いや、暗躍する黒幕との問答の中で、トライスクワッドは様々な葛藤・疑問に直面することになる。 

「もしも、自分の愛する地球人が、他人の星を破壊してしまうという罪を犯してしまったら、それでも地球人を守れるか?」という問いかけに、悩み、答えあぐねるタイガ。 

ギエロン星獣には再生能力がある、ただ攻撃するだけでは再生し、更に強くなってしまう」と語るセブンに、「だったら、もっと強い攻撃で倒せばいいじゃねぇか!」と反論してしまうフーマ。   

そもそも「伝説の戦士であるセブンが、ギエロン星獣という一体の怪獣にこだわる」ことに違和感を覚えたり、2人のストッパーを担ったりと、年長者としての振る舞いを見せるタイタス、等々……。 

このように、彼ら3人は3人揃うことで「当時の地球人のリフレイン」「当時と同じ問題に向き合う今のウルトラマン」という役割を見事に担いつつ、センシティブな問題に対してウルトラマンとして (続編としても) 一線を越えない、という絶妙な役回りをも果たしていた

 

そんな彼らだったからこそなのだろう、頑なに口を閉ざしていたセブンも遂に口を開き、トライスクワッドの3人に「ギエロン星獣との因縁=超兵器R1号にまつわる事件」を語り始める。

 

超兵器R1号

超兵器R1号

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その詳細は (多くの方がご存知だと思うので) 割愛するが、本作でセブンはギエロン星獣は、自分がR1号の実験を “止められたのに、止めなかった” という罪の象徴」と表現する。セブンにとって、あの一件は「自分自身が、愛する地球人に真の意味で向き合うことができなかった罪の証」として、今尚残り続ける後悔だったのだ。 

しかし『超兵器R1号』のテーマが難題であるのは、一連の事態において「善悪」の判断が限りなく困難であること。 

セブン自身も語るように、当時の地球はウルトラの歴史で見ても屈指の「地球が多くの宇宙人から侵略を受けていた」時代。だからこそ、R1号のような超兵器を開発するのは地球防衛の希望であったろうし、そのことそのものは間違いとは言い切れない。 

(本作でも、フーマが同様の問いかけに「でも、こちらが戦わないせいで被害が出たら元も子もないぜ!?」と答えている)

 

だが一方で、セブン=モロボシ・ダンが抱えた「過ぎた力は、より大きな悲劇しか生み出さない」……という危惧もまた事実。 

「守るために力が必要」「過ぎた力は悲劇を呼ぶ」というこの二項対立に明確な答えが出ることはないだろうし、だからこそ、ダンの「それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」という言葉が今も語り継がれているのだろうと思う。 

そして、その迷いがダンに「ウルトラセブンとして地球人を正面から止める」という選択を躊躇わせてしまった。ダン一人に責任がある訳ではないものの、彼の中にその自責の念が燻り続けているからこそ、セブンはギエロン星獣を「自分がR1号の実験を “止められたのに、止めなかった” という罪の象徴」とし、彼を安らかに眠らせるのは自分のけじめだ、と定めていたのである。

 

 

セブンの悲痛な過去と覚悟を聞いたタイガたち。しかし、この問題に答えが出せないのは3人も同じであり、前述の問答の中で、彼ら自身もそのことを痛感していた。だからこそ、彼らにセブンを慰めたり、彼の背負ったものに寄り添ったりすることなどできるはずもなく……。 

そんな彼らが、ギエロン星獣との決戦に赴くセブンを前に出した答え。それは「 “自分自身がけじめを付けなければならない” というセブンの想いを尊重しつつ、彼を妨害しようとする “無粋な輩” =怪獣・宇宙人軍団との戦いを一手に引き受ける」ことだった。

 

新たな世代にこの問題を残さないため、そして自分自身のけじめのために一人戦うウルトラセブンの背中から目を背けず、しかし、理想や綺麗事でそれをはぐらかしたりはせず、今できること/すべきことに力を尽くすトライスクワッド。それはまさに “今の” 彼ららしく、同時にとても誠意ある答えだったと思う。 

「困難かつセンシティブな問題に向き合い、悩み、時に意見をぶつけ合いながらも、諦めることなく戦う」タイガ、タイタス、フーマ……。思えば、それは私が『ウルトラマンタイガ』という作品で最も見たかったものだったかもしれない。

 

 

異なる出自、異なる信念を持つ3人のウルトラマンを宿す一人の地球人=工藤ヒロユキが「宇宙人と地球人の共存」という難題に向き合っていく……というのが『ウルトラマンタイガ』の物語であり、タイガたち3人は、E.G.I.S.の仲間たちやヒロユキと共に、この問題やそれが生み出す悲劇を何度も目の当たりにしてきた。 

「裏切り者」の血を持つタイタス、「負け犬の子」と蔑まれてきたフーマ、当初こそ世間知らずのお坊っちゃまだったものの、『タイガ』を通して世界の残酷さと己の未熟さを知り、トレギアとも分かり合おうと手を伸ばした/伸ばし続けているタイガ……。 

「答えの出ない問題」に向き合い続けてきた彼らは、今回の「ウルトラセブンの背中を通じて『超兵器R1号』という問題に向き合う新世代」としてこれ以上なく適任であっただろうし、彼らが本作でその問題に向き合い、悩み、それでもと戦う姿は、残念なことに本編であまり活躍 (=難題と向き合い、悩み、成長していく姿) が描かれなかった『タイガ』本編のリベンジにも思えてしまう。

そう、本公演におけるトライスクワッドの活躍は、セブンとのW主演として「原作『超兵器R1号』を知らない世代への橋渡し」を担いつつ、『タイガ』本編で見たかった景色を見せてくれる……という、文字通り隙がなく完璧なもの。これらを踏まえると、彼らトライスクワッドが本公演の準主役となったのは、もはやある種の必然だったと言っても過言ではないだろう。 

(セブン編だからと安易にゼロに飛び付かず、最新作だからとデッカーを呼ぶこともなく、様々な観点から最大の適任者としてトライスクワッドを選抜してくれたスタッフ(脚本)の「本気」には、いくら頭を下げても下げたりない。本当に、本当にありがとうございました……ッ!!)

 


「セブンを覚悟を守るべく戦う」ことを決断し、無数の怪獣・宇宙人を相手に奮闘、レインボートライストリウムバーストのような大技も交えた熱い戦いを見せてくれるトライスクワッド。 

彼らの支援によって、セブンはギエロン星獣との最後の決戦に挑む……が、無理矢理復活させられた身体はその時既に限界を迎えており、ギエロン星獣は、まるでセブンの構えたアイスラッガーに己の身を委ねるように倒れ込む。 

ギエロン星獣は、ただ生きたかっただけなのか、地球人に復讐したかったのか。長い月日を経て蘇ってしまった今は、どんな思いを抱えていたのか……。公演中何度も示唆されていた通り、その答えは誰にも分からないけれど、アイスラッガーギエロン星獣の喉元に押し当てたまま沈黙するセブンだけは、ギエロン星獣から何かを感じているようにも見えた。 

舞台でしか作れないあの「間」に、セブンは何を悟り、何を想っていたのか、それもまた、当事者でない私たちには推し量れないことなのだろうと思う。

 

 

舞台の終盤には「防衛軍の、R1号に関するデータが全て削除されていた」ことに対し、セブンが「かつてのウルトラ警備隊メンバーや、参謀がやってくれたんだ」と、嬉しそうな声を漏らす場面がある。 

それはきっと、原作『超兵器R1号』のラストにおいて「R2号の開発中止を進言する」と言ったタケナカ参謀の言葉が上層部に承諾されただけでなく、ダンが光の国に帰った後、過ちを繰り返させたくないという彼の願いを警備隊の面々が受け継ぎ、プロジェクトの破棄を実現していた……と、おそらくそういうことなのだろう。 

R1号のプロジェクトは破棄され、万が一ギエロン星獣がまた蘇ることがあれば、その時は「若い世代に禍根を残さないよう、この罪は自分自身でずっと背負っていく」……つまり、セブンがそのギエロン星獣を眠らせ続けるのだという。それがR1号を止められなかったことへの贖罪であり、新たな世代に対して自分ができることなのだと。

 

こうして、当事者であるウルトラセブンとウルトラ警備隊が全てを背負うことで、R1号の悲劇は幕を閉じる――と、本当にそれでいいのだろうか。 

戦いを終え、悲愴な決意を語るセブンの背中に、タイガは縋るように呼び掛ける。

 

「それじゃまるで、血を吐きながら続けるマラソンじゃないですか」 

 

あくまで個人的な体感でしかないけれど、件の『超兵器R1号』をはじめ、『ノンマルトの使者』のようなウルトラセブンの「問題作」群は、久しくまるで触れてはいけないタブーであるかのような扱いを受けていた。『ウルトラセブン 1999最終章6部作』でノンマルト問題が作品の根幹に関わってきた際も相当な批判があったと聞くし、『ジード』におけるギエロン星獣の扱いについては冒頭に記載した通りだ。 

しかし『ウルトラセブン』は今年で55年目の作品。いかに色褪せない名作であり、視聴手段が増えているといっても、それらの作品の持っていた意義やメッセージは、しっかりと新たな世代に受け継がれて然るべきものだと思う。 

そしてそのために必要なのは、この公演のように同作に堂々と向き合った「バトン」が産み出されていくこと、そして、我々のような「(”超兵器R1号”が警鐘を鳴らしたような)悲惨な出来事から遠い」世代からも、きちんと手を伸ばしていくこと。確かに、それはある意味呪いのようなものかもしれないけれど、だからこそ、先駆者たちに全てを背負わせてはいけないのだろうと思う。彼らが全てを背負い続けることもまた、血を吐きながら続ける悲しいマラソンなのだから。

 

たとえ我々がそういった出来事や、その災禍から遠い場所にいたとしても、その悲惨さを真に理解することができなかったとしても、それでも、そのようなことから目を背けず、知ろうという努力を怠らず、向き合う意思を持ち続けること……。 

メッセージを抱えた作品そのものを厳重に保管するだけではなく、世代間で手を伸ばし合いバトンを繋いでいくことこそが大切なのだと、本公演のクライマックスはそんなメッセージを我々に投げ掛けているように思えてならない。

 

ULTRA SEVEN

ULTRA SEVEN


もし私たちが「R1号の実験を止められなかったセブン」のように、逃れられない罪を背負ってしまったならば……という命題への答えを、図らずもセブン自身が語ることになる後編『狙われた街』についても、本当なら思いの丈を記していきたかったのだけれど、これより先は是非皆さんの目で確かめて頂きたいところ。 

最後に念を押しておきたいのは、前半『超兵器R1号』、そして今回は割愛せざるを得なかった後半『狙われた街』は、両編ともに「やり尽くされた題材だからこそ」「ある種のタブー扱いを受けてきた題材だからこそ」という製作陣の気概に溢れており「これらの作品に触れ辛さを感じていた方」ほど、見ることで得るものがある作品になっていると感じた……ということ。

 

千秋楽のリアルタイムオンライン配信は終わってしまいましたが、アーカイブ配信は10月8日(土)19時より10月23日(日)まで実施予定。


ウルトラセブン』や『ウルトラマンタイガ』が好きな方もそうでない方も、これまでの文章で少しでもピンと来るものを感じたなら是非本公演を覗いてみてください。きっと、私の拙い文章では伝えきれなかった「響き」があるはずだから。