総括感想『戦姫絶唱シンフォギアXV』 賛否両論のシリーズ完結編が描いた、目一杯の祝福と “有終の美”

今から約3年前、2019年9月29日。この日放送された『戦姫絶唱シンフォギアXV』最終回をもって、2012年1月にスタートした『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズはその幕を下ろした。 

初めてリアルタイムで視聴した『戦姫絶唱シンフォギアG』に心を掴まれ、以来6年に渡って追いかけ (=Blu-ray購入マラソンをし) 続けた『シンフォギア』シリーズ。しかしどういう訳かその完結作=『XV』は、自分の中で「あまり記憶に残っていない」作品に分類されてしまっていた。 

2年ごとに放送されるのが「当たり前」になってしまい、シリーズ終了に実感が湧かなかったのか、それとも、当時ちょうど転職活動真っ只中だったためそれどころではなかったのか。その真相は今となっては知る由もないけれど、一つハッキリしているのは「自分はまだ『シンフォギアXV』に向き合えていない」という事実。そんな甘ったれた状態で『シンフォギアライブ2020→2022』に行くなんて、そんなの他の適合者に、そして何より『シンフォギア』に失礼極まりない……!!

と、そんな思いで3年ぶりに向き合った結果、怒りで叫び、見覚えのない名シーンに困惑し、感動でぐちゃぐちゃに号泣させられてしまった『XV』。そんな本作が果たしてどのように『シンフォギア』のフィナーレを描いたのか、自分なりに向き合った結果をここに記しておきたい。

 

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(前々作『GX』と前作『AXZ』の記事はこちらから、『第1期』『G』の記事は、カテゴリータグなどからどうぞ!)

 

※以下には『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズのネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

戦姫絶唱シンフォギアXV』は、2017年の夏期アニメとして放送された『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』の放送開始からちょうど2年後、2019年7月から全13話が放送されたTVアニメ作品であり、5期に渡って製作されてきた『シンフォギア』シリーズの完結編でもある。 

その舞台は前作『AXZ』の数ヵ月後、クリスの卒業が間近に迫った冬。第1期から存在が示唆され、『AXZ』でその降臨が仄めかされていた『シンフォギア』世界の支配者「カストディアン」そして、その正体である高位種族「アヌンナキ」との対峙が描かれる……というシリーズ完結編に相応しい壮大な物語となっている他、本作は様々な点で完結編らしい「集大成」ぶりを見せてくれた。 

そのことを語る上で最も分かりやすいのは、やはりシンフォギア装者6人の変身バンクだろう。 

 

一から十まで「キレてる」圧倒的な作画、『SYSTEM ALL GREEN』→『NORMAL OPERATION』というロマン溢れるガイド表示、そして何より第1期の変身シーン×割れるラピス・フィロソフィカスという過去作のオマージュ/リスペクト演出! シリーズを追いかけてきたファンならこれだけでもう涙が出てしまうような、文字通り「シリーズの集大成」に相応しい変身バンクだ。 

更に、響は「首を覆うマフラーから口を出す決めカット」(上記サムネイル参照)、切歌は衝撃的なポールダンス、クリスはまさかの「ばぁーん!」復活など、各装者ごとに個性的な「魅せ」が用意されているのも粋な演出。それぞれに好みはあるだろうけれど、そのクオリティは極めて高く、過去最高クラスのものと言って差し支えないのではなかろうか。

 

 

また、もう一つ本作の「集大成」ぶりが伺えるのがシンフォギアには欠かせない「楽曲演出」。 

本作は、その初回=EPISODE 1『人類史の彼方から』で早くも、これまでの『シンフォギア』が築き上げてきた全てを注ぎ込んだとてつもない演出を披露。本作が最終作であるという現実を、その圧倒的な熱量をもって叩き付けてきたのである。

 

 

EPISODE 1で響たちの前に立ちはだかるのは「棺」と呼ばれる超古代の遺跡。遺跡とは名ばかりに自立行動し、錬金術でも異端技術でもない謎の力――埒外物理学を振るう強敵を相手に、敢然と立ち向かう我らが一番槍・立花響! 

 

そんな彼女が歌うのは、どこか第1期の『撃槍・ガングニール』を思わせるメロディが胸を高鳴らせる『ALL LOVES BLAZING! 

この歌を背にして、初の「EPISODE 1での6人共闘」という豪華なシチュエーションを見せてくれる装者たち。その熱い歌×熱い画はそれだけで作中中盤のような熱さを醸し出しているのだけれど、『シンフォギア』、それも最終作のEPISODE 1がそれでいいのか……!? という70億の期待に応えるように、響たちの反撃に併せて流れ出す『六花繚乱』! 

 

え……「EPISODE 1から6人ユニゾン」だとォ!?!? 

この時点でもう変な笑いを浮かべながら拍手するしかなかったのだけれど、これで終わりだと思っていた自分が甘かった。 

6人の連携攻撃を受け、棺が更なる戦闘形態を見せた瞬間、どこからともなく流れ出す『Synchrogazer -Aufwachen Form-』のようなイントロ。間違いなくその血潮を宿したそれは、なんと『Glorious Break』に続く「サプライズ披露されるもう一つの主題歌」=『FINAL COMMANDER -Aufwachen Form-』!! 

初回からの6人共闘、6人ユニゾン、からの第2主題歌初披露、しかもそれが『Aufwachen Form』……という、訓練された適合者の想像をどこまでも越えていく想像を絶する最強コンボに涙でぐちゃぐちゃになる中、遂に掴んだ勝機に響たちは叫ぶ。

 

『ギア・ブラストッ!!』

『G3FA・ヘキサリヴォルバぁぁぁーーーーーーッ!!』

 

これが、1話。 

この、最終回も同然の展開から『FINAL COMMANDER』の黒バックエンドロールに続く圧巻の流れが、全て1話なのである。それはまさに、20分間に惜しげもなく詰め込まれた『シンフォギア』シリーズの集大成であり、転じて「この先、それ以上のものを見せていく」というスタッフの決意と覚悟そのものでもあったと言えるだろう。

 

……しかし、EPISODE 2からいざ始まった『XV』の本筋は、どうにも非常に怪しい雲行きを見せていくことになる。物語として不穏なのは確かにその通りだったけれど、そこに『GX』や『AXZ』に見られた欠点の匂いが漂っていることの方が、自分にとってはよほど恐ろしい「不吉な予感」だったのだ。

 

 

EPISODE 2で本格的なスタートとなる『シンフォギアXV』。前述の通り「神との対峙」が仄めかされ、事実その通りの展開になっていく本作だけれど、なんとその「神」が降臨するにはなんと8話のラストまで待たなければならず、それまではこれまでとあまり変わらない……というより、むしろこれまでよりも地味めな『シンフォギア』が繰り広げられることになる。 

そんな本作の「敵チーム」枠として装者たちの前に立ちはだかるのは、サイボーグ×ドラキュラ×狼少女という異色の3人組「ノーブルレッド」。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

左からドラキュラの力を持つミラアルク (CV.愛美)、サイボーグのヴァネッサ (CV.M・A・O) 、そして狼少女のエルザ (CV.市ノ瀬 加那) 。彼女たちは、かつて所属していたパヴァリア光明結社において、それぞれ事故や実験によって「人間としての身体」を失い、元の身体を手に入れることを夢見て戦う「怪物」たちだ。 

彼女たちは、出自や戦闘スタイルは勿論、そのパーソナリティも非常に個性的。というのも、彼女たちノーブルレッドはF.I.S.組のように「優しいが為に、悪になりきれない」訳でもなく、キャロル&オートスコアラーやパヴァリア組のように「己の信念に生きる」訳でもなく、その折衷=お互いを家族と想い合う優しい側面を持つ反面、自身の目的のためにはいかなる非道も厭わないという、ある意味 (皮肉にも) 非常に人間らしい3人組なのである。 

彼女たちは、誰かの悪意で人の身体、あるいは人の尊厳を剥奪されてしまったという悲しいキャラクターたち……なのだけれど、しかし、問題は彼女たちがそのように人間臭い上に、オートスコアラーやサンジェルマンたちに比べて大きく戦闘力で劣ること。つまり、このノーブルレッドは最終作の敵としては些かパッとしないのだ。更に、そんな彼女たちと合わせて本作の「地味さ」の大きな原因となってしまっているのが、彼女たちを裏で操る存在=風鳴訃堂。 

 

前作『AXZ』で初めて表舞台に現れた翼の血縁上の父親=訃堂。風鳴機関 (特異災害対策機動部二課やS.O.N.G.に先駆けて聖遺物の研究を行ってきた特務室、兼国防諮問機関) を統べる彼が、「神の力」を目的にノーブルレッドを利用したことが本作の発端なのだけれど、このことが本作の「地味さ」の大きな原因にもなっている。 

というのも、前述のように本作で「神」が降臨するのはEPISODE 8。風鳴訃堂はその次のEPISODE 9で(実質的な)退場となるため、実にEPISODE 2から8話分が「VS風鳴機関 編」となり、一方ではシンフォギア装者VSノーブルレッド、もう一方では弦十郎や八紘による風鳴機関との情報戦という多面的な戦いが展開される……のだが、ノーブルレッドは前述のように決して派手な敵ではなく、当然ながら風鳴機関との情報戦にも絵面的な派手さはない。その結果、本作の前~中盤はおよそシリーズ最終作とは思えないほどに地味で、『シンフォギア』らしいカタルシスから大きく遠ざかったものになってしまっていた。 

(こういった展開そのものが悪いとは言わないし独自の面白さもあるが、最終作でこういった展開にしなくても……とはどうしても思ってしまう)

 

そして、この「風鳴機関」絡みの問題がもう一つ。それは、本作におけるキーパーソン=風鳴の血を引くシンフォギア装者である翼の扱いが想像を絶するほどに悪いことだ。

 

 

EPISODE 2『天空が堕ちる日』にて『GX』以来のライブを披露。シンフォギアの象徴たるライブシーンが消滅するという『AXZ』のような惨事は回避したものの、そのライブがミラアルクにより襲撃され、翼の目の前で数多くの観客が虐殺されるという正真正銘の大惨事が発生してしまう。 

以来、翼は「人々を守れなかった後悔と焦り」に苛まれ続ける上、ミラアルクの「刻印」によって、徐々に「S.O.N.G.ではなく、自分の元で戦うことが正しい防人の務め」という訃堂の思想を刷り込まれてしまう……と、この筋書きの時点でかなり悲惨ではあるが、悲惨な目に遭うことと扱いの良し悪しは全くの別問題。そもそも、どんな方法にせよ最終作である『XV』で翼にスポットライトが当たることは非常に納得感がある……のだけれど、問題はそれらの展開が翼の株をひたすらに下げていくことだった。 

 

上記の出来事を経た結果、翼は「自分の感情よりも国の判断を優先する」「周囲と壁を作り、冷淡になる」「奏に縋るようになる」……と、ほぼほぼ第1期の精神状態に退行してしまう。心を閉ざし、人に強く当たり、周囲の気持ちを考えられない……という有り様は、ともすれば第1期のそれより深刻な状態と言えるかもしれない。 

そんな翼の姿は見ていて辛い、というより、正直「納得がいかない」という気持ちの方が強かった。ライブ会場での虐殺という最悪のトラウマを刺激され、目の前でファンを殺され、自分の力不足を思い知らされた……というのは確かに翼を追い詰めるには十分過ぎる悲惨な出来事だけれども、「痛めた心を一人で抱え込む」ことがどういう結果を招くか分からない翼ではないはずだし、ましてや「苛立ちに振り回されて他人に当たる」など、これまでの翼の成長からは不自然に過ぎる行動だ。何より、この一件のせいで『XV』の翼は出番の大半が「曇っているか株を下げるかの2つに1つ」という壮絶な不遇キャラと化しており、あまりに (彼女も、彼女を応援している視聴者も) 報われないのだ。 

勿論、彼女の異常な行動には訃堂による「歌で世界は守れない」「S.O.N.G.は翼の居場所ではない」「自分の下で戦うのが正しい防人の務め」という刷り込みが影響しているのだろう。しかし、ここで厄介なのが、訃堂の仕込みはあくまで「刷り込み」に留まっているため、前述のような翼の「印象の悪い行動」のうち、どこまでが刷り込みの結果で、どこまでが翼自身によるものなのかが分からないこと。つまり、翼が株を下げる行動を取ったとしても、それを一概に「洗脳されているから」と割り切ることができないのである。 

 

例えば、EPISODE 5『かばんの隠し事』において、翼は「響に誘われたカラオケで終始不遜な態度を取り、エルフナインの歌に耳を傾けさえしない」「陽動作戦の可能性に気付いた響の意見を聞かずに、市民の避難誘導のみに専念する」……といった、これまでの翼からはおよそ考えられないような行動を見せる。 しかし、それらのシーンにおいて「刻印」が発動している様子は見られないため、彼女の行動が訃堂によって歪められたものなのか、彼女自身が自分の意思で取っている行動なのかの判別が極めて難しい。 

特に「避難誘導に専念し、陽動の可能性を見落とす」件については、翼がライブのトラウマによって「人々を守らねばならない」という強迫観念に駆られた結果とも、一時的な管制指示を担っていた査察官一派が訃堂の手の者だった=「刻印の影響」と取ることもできてしまうため、一視聴者としては翼にどういう感情を持てばいいか分からず、ただモヤモヤした気持ちだけが募っていく。このような頭の痛い状況が本編の半分近く続くのだから、視聴に多大なストレスを感じたのは自分だけではないだろう。

 

更に、これらのような翼の異常な行動は、彼女の株を下げ、視聴者にストレスを与えるだけに留まらず (最終作であるにも関わらず) 「シンフォギア装者たちのチームワークに亀裂を入れかける」という最悪一歩手前の状況まで招いてしまう。それがEPISODE 6『ゼノグラシア』冒頭、敵の陽動作戦によって、未来とエルフナインが行方不明になってしまった場面における下記のやり取りだ。  

「それにしても、まさかというより、やっぱりの陽動だったデス!」
「あの時、管制指示を振り切ってさえいれば……」
「月読と暁は、私の状況判断が誤っていたとでも言いたいのか?」
「え、えーと、そうじゃなくてデスね……」
「ならばどういう……!」
「いい加減にして!」
「誰よりも取り乱しそうなコイツ (響) が、自分の成すべきことに向き合おうと努めてるんだ! 頼むよ、先輩……!」

・判断が誤っていたかどうかはともかく「敵の罠にハマり、未来とエルフナインを危険に曝す」という結果をもたらしたことは事実なのに、そこに目を向けていない 

・最年少の調と切歌に八つ当たりまがいの行為をする 

・クリスの言う通り、最も心穏やかでない (+年下の) 響が折れそうな心を必死で保っているのに、自身は苛立ちを隠そうともしない 

・自分を気遣ったマリアの手を弾く 

・響、調、切歌の誰にも謝らずに去る 

見事なまでに、悲しいほどに役満最終作で一番輝くべきポジションにいながら、こんな情けない姿を曝す翼さん、見たくなかった……。 

確かに、翼の精神が追い込まれているのは明白で、加えて訃堂の仕込みで「自分の思ったことと違う行動を取ってしまっている」であろうことも考えれば、翼が苛立ってしまうのも無理はない。しかし、そういった状況にまんまとしてやられて冷静さを欠き、仲間に当たってしまうのは、あまりにも装者を率いてきた頼れる防人=翼らしくない。それに加えて、前述のようにその「キャラ崩壊」ぶりが本当にキャラ崩壊なのか、それとも刻印によるものなのかが判断できないからこそ、結果的に居心地の悪さだけが残されてしまうのである。 

(他にも翼の気になる行動は無数にあるが、個人的に辛かったのは、EPISODE 8の決戦シーンで「命を盾に、希望を防れッ!」という非道な指示を出すシーン。せっかく『FINAL COMMANDER』が流れる熱いシーンに、こんな形で水を差してしまうのは、勿体無い……というか、演出としても如何なものだろうか)

 

 

しかし、ここまで株を落としたのであれば、訃堂との決着回ではさぞや盛大な巻き返しがあるのだろう……と期待するのが当然というもの。自分も当時はそう思っていたし、だからこれらの散々な仕打ちに耐えることができたとも言える。しかし、肝心の決着エピソード=EPISODE 9『I am a father』で待っていたのは、株を上げるどころか更に地の底へと叩き落としていく翼の姿だった。

刻印に掌握され未来を連れ去った翼、そして訃堂を追って風鳴邸に乗り込むマリアとS.O.N.G.の面々。それを翼が迎え撃つという展開そのものは熱い……のだけれど、このシーンがこれまでと違うのは「翼が、明確に訃堂側についている」という点。 となると、やはり問題はこの時の翼の自意識であり、そのことを伺い知れるのが未来を連れ帰ってきた場面における翼のこの台詞だ。  

「そうしなければならぬと囁かれ、あの時は疑いもせずに行動した……。なれど、それが本当に正しかったのか……!?」

最初は「ようやくか!?」と思った。これが反逆フラグでなくて何なのかと。 

ここまできたらもう翼も「自分がおかしくなっている」と気付いていいはずだし、自問できるほどの自我があるなら、目の前で道具にされている未来の姿に黙っていられるハズがない……のに、翼は訃堂に従ってマリアを迎え撃っており、しかも(マリアとの問答からして)どうやら未来誘拐時のように完全に操られている訳でもないらしい。それはつまり、彼女は少なからず自分の意思で訃堂に従っている=「未来を神の器にし、兵器として運用する」という訃堂の行動を是としてしまっているのだ。 

いくら「大勢の犠牲を出したことで、周りが見えなくなるほど追い詰められている」としても、いくら度重なる刻印の影響で自我が揺らいでいたとしても、翼が目の前で行われている悪行を、僅かでも自分の意思で「是」としているだなどとは到底信じられないし、信じたくない。前作『AXZ』で訃堂に対し「私に流れているのは、天羽奏という一人の少女の生き様だけだ!」と言い放ってみせた彼女の輝きは、一体どこに行ってしまったのだろう……。

 

 

こうして、汚名返上の絶好の機会ながら既に不安しかないEPISODE 9。しかし、衝撃的だったのはこの1話だけで翼がその株を更に何度も落としていくことだった。 

・マリアに自身の弱さを看破され、平手打ちされたことで刻印が解除される(翼自身に解除してほしかった……) 

・刻印こそ解除されたものの、そのまま錯乱してしまい戦闘不能に陥る 

そんな翼を八紘が庇い、絶命してしまう 

・怒りで我を失い、訃堂を切り捨てようとしたところを弦十郎に止められる 

そう、なんとこの局面において翼は一方的に救われてばかりで、自身は一切成長しないまま終わってしまうどころか、本話で八紘に「人は弱いから守るのではない、その価値があるから守るのだ」と諭されたことで、逆説的に翼はこれまでそのことを分からないまま戦っていたことにされてしまった。響に助けられつつも、自分自身で己の弱さを乗り越え、「守るべき人の価値」をその目に焼き付けた第1期の翼とは、まるで別人のようになってしまってはいないだろうか。

 

(あまりにも “見たかったもの” すぎる弦十郎VS訃堂。しかし翼の状況が状況なので、素直に喜べないのが辛いところだ)

 

これら一連の事態は、『GX』『AXZ』でもクリスなどに見られた「キャラを掘り下げるために精神状態・成長の蓄積を退行させ、克己によって最終的に±0になる」という悪癖と似ており、キャラクターが株を落とす点も「とっくに分かっているであろう大切なことに “気付いていなかった” ことにされる」という点も共通している……が、こと『XV』の翼において問題なのは「最終的に±0になる」という最低限のフォローが行われたかどうかさえ怪しいこと。

EPISODE 10『卑しき錆色に非ず』以降の翼は、刻印から解放こそされたものの、罪悪感から周囲に一層高い壁を作ってしまっており、仲間たちと一人だけ (物理的に) 距離を置いていたり、響から差し出された手を取れなかったりと、まるで本作で仲間入りした元敵キャラクターのようになってしまっている。これが、シリーズ最古参かつリーダー格キャラクターの振る舞い……? 

そんな翼に入れられるフォロー (らしき) 描写と言えば、最初に挙げられるのが同じくEPISODE 10で「月に帰還しようとするヴァネッサたちを妨害、自身も諸共に転移を試みる」シーンだが、「この命に代えても!!」と言う翼は明らかに周りが見えておらず、償うことに躍起になってまたしても視界が狭まっているようにしか思えない。 

更に、続くEPISODE 11『ハジメニコトバアリキ』では宿敵ミラアルクを相手に、マリアと共に『不死鳥のフランメ』を歌いながら戦うという衝撃的なサプライズがあったものの、翼は終始マリアに引っ張られるばかりで、ミラアルクへのリベンジという局面に何かを感じたり、ましてや「訃堂の一件を踏まえ、ミラアルクへの憎しみを乗り越える」といったシチュエーションも何もなくそんなサプライズを出されてしまうため、肝心の翼が全く成長していない=こちらは画のテンションに乗れず置いてきぼりにされてしまうという、クライマックスではあまりに致命的な事態が発生してしまう。 

結果、翼の復調にはEPISODE 12『戦姫絶唱』のラストという超ド終盤まで待たなければならないが、そのシチュエーションは「翼が響の手を取り、自ら手を差し出すことにどれだけ勇気がいるかを実感する」という、またしても「あなたそれとっくに乗り越えてたんじゃないの……?」案件。そんな煮え切らない顛末を持って『シンフォギア』シリーズ、そして風鳴翼の物語は完結。第1期に逆戻りするどころかその下を突き抜けていき、更にその後のフォローもズレにズレているという、長年彼女を追いかけてきた果てに突き付けられたゴールとしてはあまりに辛辣で、承服しかねる有様だった。

 

 

凄まじい字数で翼の扱いについての不満を並べてしまったけれど、本作は何も他の装者の扱いが良かったかというと別にそういう訳でもない。 

ようやく「翼に毅然とものを言えるパートナー的存在」としての一面を見せてくれたものの、Appleやアガートラームといった美味しい要素に縁がありつつも、そのことがストーリー上の活躍・存在感に反映されることのなかったマリア。 

ヴァネッサとの戦いが唯一の大見せ場だったが、なぜか響とのユニゾンが与えられなかったクリス。 

戦闘面の見せ場は多かったものの、ストーリー上の存在感は激減していた調&切歌……と、これらも本作が「最終作らしくない」要因だろう。

 

他にも本作は何かと難点が目立っており、その多くは (翼の一件も含めて)「尺不足」に起因している。ただでさえ「アヌンナキとバラルの呪詛」という大きすぎるお題目を回収するのに、そこに風鳴家問題の決着にノーブルレッドといった要素を絡めるのは土台無茶な話だったのだ。 

しかし『XV』は4期『AXZ』と同時に製作が決定していた作品。であれば、この1クールに全てを詰め込むのではなく、『AXZ』も含めて、逆算して物語をスケジューリングしていくべきだったのではないだろうか。既に後の祭りではあるものの、もしそうしてくれていたら……と、シリーズファンとしては残念でならない。

 

 

気が付けば既に10000字。その大半を難点の列挙に使ってしまったけれど、本作にはしっかりと魅力……そして「最終作に相応しい要素」も数多く存在している。先の変身バンクや、EPISODE 1に見られる楽曲の使い方、そして『XV』と言えば欠かせないのが新たなシンフォギア=アマルガムの存在だ。 

 

ファウストローブとシンフォギアが融合して生まれた新たな決戦機能であり、その力は「極限の攻撃力」と「極限の防御力」を使い分けるという非常にピーキーなもの。誕生経緯もスペックもビジュアルも、イグナイトに次ぐ進化形態として申し分ない魅力的な姿と言えるだろう。 

しかし、このアマルガムの最たる魅力は、このギアというより、上記のEPISODE 4『花の名は、アマルガム』における初起動シーンを彩った奇跡のユニゾン=『花咲く勇気 Ver. Amalgam』! 

 

これまで響は様々な相手と対峙し、その度に分かり合い、時にそんな相手と共に歌を歌ってもきたけれど、意外なこと、彼女は (TVアニメ本編では) フィーネやクリス、マリア、キャロル……といった、所謂「ライバル枠」と言える面々と2人で歌を歌うことはなかった。その唯一の例外と言えるのがこの一曲! 

前作『AXZ』において、響との関係性を「終生分かり合えぬ敵同士」と評したが、その言葉の裏を掻くかのように、自らの生を終えることで響に「リビルドギア」という新たな力を託したサンジェルマン。そんな彼女が遂に響の手を取り、その結果「ファウストローブとシンフォギアの融合」であるアマルガムが生まれるばかりか、シンフォギアライブ2018』で披露された「悠木碧氏×寿美菜子氏による『花咲く勇気』デュエット」が『Ver. Amalgam』という名で本編に逆輸入される……という展開は、衝撃的でこそあれ、それ以上に大きな納得と感動を呼ぶものになっていた。 

Blu-rayのCMでは「とうとう死人まで歌い出した」と言われており、言われてみれば確かに全くもってその通りのよく分からない事態ではあるのだけれど、この一連はそのような「正気」を「だとしてもッ!」と粉砕するだけのエネルギーに満ちた、実に『シンフォギア』らしい名演出だったと言えるだろう。

 


また、本作の魅力を語る上で、EPISODE 7における「この一連」は絶対に外せないだろう。

 

界隈に激震を走らせた、EPISODE 7『もつれた糸を断ち切って』終盤におけるキャロル&オートスコアラーの復活劇……! 

エルフナインが使っている身体が本来キャロルのものであることに加えて、『AXZ』以降エルフナイン自身がレギュラーキャラクターとして着実に成長を積み重ねていたことや、Blu-ray特典アニメ『戦姫絶唱しないフォギア』において、休暇中のエルフナインが「ダイレクトフィードバックシステムを応用して “大切な相手” を探している」ことが判明する (それだけでもう泣いてしまう…………) といった描写もあり、おそらく大方のファンが予想していたであろう「キャロルの復活劇」。しかし、まさかオートスコアラーの4人まで復活するとは、一体誰に予想できただろうか。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

解体途中のチフォージュ・シャトーのエネルギー源として用意されていた無数の「遺棄されたオートスコアラー」たち。ガリィたち4人はそれらを新たなボディとして蘇った……というが、考えてみれば不明瞭な点も多い。いつ廃棄駆体に彼女たちのデータがダウンロードされたのか。なぜ彼女たちはかつての記憶を持っているのか。それらは特に作中で明言されないけれど、おそらく「キャロルが、自身を復活させたのと同じ要領で、彼女たちの人格を自身の中に再生させておき、チフォージュ・シャトーとエルフナインがリンクしたタイミングでそのデータ/想い出を流し込んだ」……のではないだろうか。 

しかし、そんな理屈はこの際どうだっていいのだ。場所がチフォージュ・シャトー、廃棄されたオートスコアラー、そしてキャロルの復活とピース=公式からのヒントは揃っているし、そうした「最低限のピースは揃えておきつつ、限られた尺をギリギリまで使って熱い展開に全力を注ぐ」というのは『シンフォギア』の十八番。そんな熱すぎる「全力」=彼女たちのサプライズ復活劇を浴びた時は、その理由を考える余裕さえなく涙が止まらなかったし、この一連にはそれほどまでに力が込められていたように思う。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

何から何まで驚きづくしだったこのEPISODE 7終盤。しかし、放送が終わって涙が引っ込んだ辺りで気付き、驚いたのは「自分は、この一連で大泣きするほどオートスコアラーたちのことが好きだったのか」ということ。 

F.I.S.やパヴァリア組、ノーブルレッドのように重く悲しい過去を持つ訳でもなく、あくまでキャロルに仕える人形でしかないオートスコアラー。『GX』当時は彼女たちの濃いキャラクター性やその強さに大いに魅力を感じていたものの、それぞれがあっさり退場してしまい「与えられた役割をこなす」以上の姿が特に見れなかったこともあって、正直なところ「面白いキャラクターたちだった」という程度の思い入れに留まっていた。 

しかし、その後『GX』を見直す中で「彼女たちがキャロルをベースに生み出された」という共通の背景を持つことに改めて気付いたり、Blu-ray特典の『しないフォギア』での微笑ましい様子を見て「彼女たち (特にファラ、レイア) にも人間らしい一面がある」ことを感じたりするにつれ、オートスコアラーたちもエルフナインと同じように「心」を持つ、謂わば「キャロルの家族」なのだと気付かされたのだ。

 

 

確かに、ガリィたち4人はキャロルの心をベースに「作られた」存在。しかし、それは現実の親子も同じではなかろうか。同じ遺伝子、同じ特性を持ちつつも、育った「子ども」は父母のどちらとも異なる人格を持った存在となるのが道理というもの。そして、そのことを誰よりも示してみせたのがエルフナインだった。 

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

キャロルのクローンボディでありながら、キャロルを正確にコピーできなかった「失敗作」のエルフナイン。そんな「キャロルとほぼ同一の身体」に「キャロルに転写された想い出」を持ちながらも、キャロルとは全く異なる性格に育った彼女が、キャロルと共に「父親から与えられた命題」に向き合う姿は、まるで家族……もとい、双子の姉妹そのものだった。 

だが、キャロルの「家族」はエルフナインだけではなかったのだ。クローンではないため、エルフナインのような「同じ姿」こそ持っていないものの、ガリィたちオートスコアラーも「キャロルをベースにして生まれた」という点では同じ。キャロルにとってエルフナインが双子の片割れなら、ガリィたちはキャロルの姉妹であり、子どもであり、親代わりでもあった。そして、件の『XV』での一連は、そんな彼女たちの「家族」としての姿が初めて本編内で描かれた場面だと言ってもいいだろう。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

『GX』では、前述のようにあくまで「与えられた役割をこなす」ことに徹していた4人。確かに、今回の出番もその点は同じなのだけれど、大きな違いはその一挙手一投足に「互いへの想い」が溢れていたこと。 

ノーブルレッドの3人を相手に先陣を切り、レイアと「背中を預け合う」ファラ。ミカに「お前が付いていれば、私もファラも憂いはない」と声をかけるレイア。「自分の手じゃマスターの手は握れないから」とガリィにエルフナインを託すミカ、まるで「心配をかけさせまいとするかのように」いつも通りの軽口を叩きながらエルフナインを庇うガリィ……。彼女たちの行動に互いへの信頼や愛情が見えたのは、あくまで「そう見えた」だけかもしれない。けれど、エルフナインがそうであったように「彼女たちも ”心” が育った」のだと、そう思わせてくれる程の「愛」に満ちていたのがこの一連だったのだ。 

(4人が次々と駆け付ける際のBGMが、『GX』におけるヒーローBGM=『抜剣――ダインスレイフ』という “粋” さも涙を誘う……!)

 


こうして最高の大舞台を見せてくれたオートスコアラーたち。しかし、いかにミカたちと言えど、廃棄されたスペアボディではノーブルレッドに対抗することはできず……という、この土壇場で遂に現れるキャロル! そして流れ出す『殲琴・ダウルダブラ』――ではなく、まさかの新曲『スフォルツァンドの残響』!! 

 

そのままお出ししても十二分に盛り上がったであろうキャロルの復活。しかし、製作陣の愛はそれを良しとしなかった。オートスコアラー4人それぞれに最高の舞台、そして「キャロルであってキャロルでない、もう一人のキャロル」=エルフナインだからこそ届けられる「ありがとう」の言葉を届け、その上で、エルフナインが彼女たちの想いに恥じないよう「立ち向かう」選択をしたことで遂に……という、あまりにも丁寧な積み上げがあったからこそ、彼女の復活は「奇跡」ではなく「必然」となったのだ。

「この土壇場でデタラメな奇跡を……!」
「奇跡だと? 冗談じゃない……オレは奇跡の殺戮者だ!!」

全キャロルファンが秒で爆ぜる最高の台詞、からの『スフォルツァンドの残響』で黒バックエンドロール……! ただでさえオートスコアラーとエルフナインにぐちゃぐちゃにされた情緒が木っ端微塵に弾け飛ぶ、シンフォギアシリーズでも指折りの瞬間最大風速のシーンと言っても過言ではないだろう。 

しかし、『XV』で復活したキャロルの魅力とは、この最高の復活劇がピークにならず、そのボルテージをここから更に上げていくことにある。

 

「思えば……。不要無用と切り捨ててきたものに、救われてばかりだな……」

 

EPISODE 8『XV』では開口一番にこれである。かつて不要無用と切り捨てたにも関わらず、時を経て自身を救ってくれた「忠臣」あるいは「家族」たちへの想いを募らせるこのシーンには、『GX』でのエルフナインやイザークとのくだりも込められているのだろう。そして、そのまま彼女に「ありがとう」と言わせまいとするノーブルレッドを寄せ付けない錬金術の痛快さたるや……! 

 

まるで『AXZ』で出番がなかった鬱憤 (この丁寧な復活劇のカタルシスを思うに、AXZで蘇らなかったのは大正解だと思うけど……!) を晴らすかのように大暴れするキャロルの姿は、「かつてのラスボスが味方として戦う」シチュエーションとしてそれだけでも500000000000億点案件なのだけれど、ここからキャロルはまさかの味方準レギュラー入り! どこぞのキング・オブ・デュエリストのように「一つの身体をエルフナインと共有する」という美味しすぎる設定を手にしたばかりか、その状態で見せるエルフナインとの会話は、その全てが「見たかったけれど、本編で見れると思っていなかった光景」ばかりだった。 

自分のような者には似合わないからと、オートスコアラーへの感謝の言葉をエルフナインに託す……という胸に染みるやり取りは勿論、ようやくキャロルと再会できたエルフナインの嬉しそうな姿も見逃せない。  

『祭壇から無理に引き剥がしてしまうと、未来さんを壊してしまいかねません!』
「ち……面倒だが、手順に沿って儀式を中断させるより他になさそうだ。……どうした?」
『意外だな……と思って。ボクはまだ、キャロルのことを全然知らないんですね』
「……っ! そうじゃない! 気に入らない連中に、貸しを押し付けるチャンスなだけだ!」
『はいっ!』

復讐から解放されたからか、優しい女の子としての「素」がさらっと顔を出しているキャロル、そしてそんなキャロルの姿に過去一番の笑顔を見せるエルフナイン。こんなの万病に効く至高の錬金術ですよ……!!

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

エルフナインの頼みを聞く形で未来救出に尽力、「70億の絶唱」でマリアたちのエクスドライブを起動させるという離れ業の代償として一時眠りに就いてしまうキャロルだったが、本作のラスボス=シェム・ハが覚醒、地球をユグドラシルで制圧し始めるEPISODE 12『戦姫絶唱』では再び目覚め、不在の装者たちに代わってその行く手を阻む。  

『怖いか?』
「あまりの怖さに腰が抜けそうです……!だけど、あの時未来さんは逃げなかった。だからボクも、怖くたって逃げたくありません!それに、今のボクは一人じゃありません!」
『……フッ』

この『……フッ』よ……!! 

エルフナインの純朴さにてんやわんやするキャロルが万病に効くなら、エルフナインの「強さ」を認めるキャロルもまた同じ。『GX』でキャロルに代わり父の命題に答えを出したこと、そして『AXZ』以降、一人の誇りある錬金術師として努力を重ね「自分なりの戦い」を貫いてきたエルフナインだからこそキャロルも手を貸したのだろうし、やはり並び立ってこその相棒、2人で1人の錬金術師なのだ。 

 

かくして繰り広げられる『GX』ラスボス=キャロル VS『XV』ラスボス=シェム・ハというロマンが天井知らずの対戦カード! しかも、その結末は「シェム・ハが纏っているのが神獣鏡でなければ、キャロルのアルカ・ヘストによる分解で未来の救出は完遂されていた」=キャロルの敗北があくまで相性の問題によるもの……という、彼女の株を落とさない絶妙すぎる塩梅だった。 

総じて、とことん暴れつつも一線は越えず、かといって自分の株は落とさずに、美味しいところはきちんと主役に譲る……と、まさに奇跡のような完成度の復活ぶりを見せた『XV』キャロル。後に控える「最期の戦い」とその顛末を含めて、彼女は『シンフォギア』シリーズは勿論、古今東西の「かつての宿敵が味方になる」というシチュエーションの歴史においてもその名を盛大に刻み込んだのではないだろうか。

 

Lasting Song

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そんなキャロルの奮闘が描かれたEPISODE 12『戦姫絶唱』ラストシーンでは、遂に月より響たちが帰還。「流れ星、堕ちて、燃えて、尽きて――」というシェム・ハの言葉を「そしてぇぇぇーーーーーッ!!」と突き破った6人が纏っていたのは、新たなるシンフォギア=バーニングエクスドライブ! 

「この最終局面で事実上の最強形態が誕生」という熱さに加え、そのサブタイトルやシチュエーションが『第1期のEPISODE 12』の (逆) オマージュだったりと、最終回への引きとしてこれ以上ないラストシーン……ではあったのだけれど、この時は何よりシンフォギア』を残り1話で終わらせられるのか、そして「響と未来の物語にはきちんと決着が付けられるのか」というのが気がかりでならなかった。

 

 

キャロルの復活と同じ……もとい、キャロルの復活以上に明らかなものとして、『AXZ』ラストシーンなどで執拗にプッシュされていたのが「未来が『XV』のラスボスになる」という展開。 

実際に、本作のEPISODE 1でも未来から響に「じゃあ、私が誰かを困らせてたら響はどうするの?」と訊ねる一幕があるという不穏さ以外の何者でもない露骨な前振りもあり、視聴者としてはぐんぐんハードルが上がっていたのだけれど、いざお出しされた「未来がシェム・ハの依り代になる」という展開は、正直なところ少し物足りなく感じてしまうものだった。

 

 

これまでのシリーズで未来が物語の縦軸に大きく関わったのは4作中2作。「シンフォギア装者として、辛いことや苦しいことを全て抱えて戦う響を “喪いたくない” というエゴを感じた」ことで、響の友達ではいられないと自ら彼女の元を去ってしまった第1期。そして、そんな自らのエゴ (愛) を歪められ、利用されることで神獣鏡に強制適合、響と戦わされてしまうものの、結果的には彼女の愛が響を救うことになったのが『G』でのこと……と、未来が物語の中心となる時は、常に彼女の持つ「愛」が「エゴ」という負の側面を併せ持つことや、それ故に起こる悲しいすれ違いが描かれてきた。 

では、本作『XV』において未来の物語はどのように描かれたのだろうか。

 

 

事の発端はEPISODE 5『かばんの隠し事』。響・未来・翼・エルフナインでカラオケに来た際に「翼が抱えている悩みを自分に相談しないまま、彼女をカラオケに連れてきた」響を未来が叱咤したこと。それがきっかけとなり、売り言葉に買い言葉で「自分が響をツヴァイウィングのライブに誘ったことを今も後悔しているが、響の気持ちを踏まえて、これまでずっとそのことを黙ってきた」という想いを明かしてしまうばかりか、その事について2人で話し合う前に、未来がシェム・ハの依り代となってしまう……というもの。正直、このくだりには思うところがある、というかむしろ思うところだらけだ。 

そもそも、響が翼をカラオケに誘ったのは翼のことを考えていない訳ではなく、彼女の言葉通り「響なりに考えた」結果だというのは明らかなこと。確かに未来にそのことを相談しなかったのは配慮不足だったかもしれないけれど、だからといってエルフナインが歌っているところで「響は勝手すぎるよ!」と叫ぶのは、(響も言っている通り) 些か急であるし、ヒステリックで未来らしくない。メタ的な見方にはなるけれど、まるで「2人のすれ違いを印象付ける」という演出上の目的で、未来に敢えてこう怒らせたようにも見えてしまう。 

(確かに『しないフォギア (AXZ) 』では、響がカラオケで「未来の注文内容を確認した」だけで「忘れるなんて酷い!かき氷!!」とヒステリックに叫ぶシーンがあったけれど、まさかそれが彼女の素だとでも……?)

 

 

また、問答の末「自分が響をツヴァイウィングのライブに誘ったことを今も後悔しているが、響の気持ちを踏まえて、これまでずっとその想いを押し留めてきた」という背景を吐露してしまう未来……というこのくだりも少し妙だ。 

これまでの演出から見るに「未来が誘ったライブがきっかけで、響の人生が滅茶苦茶になってしまった」ことについては、既に「未来が響に謝罪し、響がそれを許した」といったようなくだりがあると考えるのが自然。その上で尚、未来の中に「響をライブに誘わなければ良かった」という後悔がある=彼女の中で一生癒えない傷になっているというのは非常にリアルなのだけれど、それを、未来がこんなところで口にしてしまうだろうか。 

未来はこれまで「響をライブに誘ったことを今でも後悔している」という気持ちを口にしなかったのだというが、それはとても賢明な選択。なにせ、未来のこの後悔は「どうあっても覆せないもの」……つまりは、それを表に出してしまったが最後、未来は「誘った」ことによる罪悪感に、響は「自分といることで、未来がその罪悪感に苛まれる」ことによる罪悪感で苦しむ他になくなってしまうという、謂わば「口にしたが最後、2人を終生呪い続ける呪詛」とでも呼ぶべき代物だった。そのことを分からない未来ではないだろうし、きっと彼女は、そのことを理解し、恐怖していたからこそ、これまで一度もその気持ちを口にしなかったのだろう。そんな未来が (いくら翼に共感してしまったからとはいえ) 、こんなあっさりとその禁じられた想いを吐露してしまうことに、どうしても違和感を覚えてしまうのである。

 

最終的な結末を踏まえれば、未来と響の間にわだかまりを残す訳にはいかないため、未来の口からこの想いを明かすことはどのみち避けられないことだったし、それが2人をすれ違わせてしまうというシチュエーションには大いに納得感がある。しかし「それを未来の口から語らせるだけの、切羽詰まったシチュエーション」を用意できなかったことは間違いなく失策。結果として、本作における2人のすれ違いは、ストーリーの鍵でありながらも「未来が響の振る舞いに逆上し、2人の関係性を破壊するレベルの発言を漏らしてしまう」という、文字にすると離婚寸前の限界ストレス夫婦のような極めて虚しいものになってしまっており、そのため、終盤で響が「あの時言えなかったことをちゃんと伝えるんだ!」と言う度に「響は悪くないよ……」と思わされてしまい、盛り上がっているストーリーに乗り切れなくなってしまうという作品上の大きな弊害にもなってしまっていた。 

「愛 / エゴ」を併せ持ち、極めてリアリティのある人間性が魅力だった未来。しかし、だからこそ『シンフォギア』シリーズは彼女の扱いにとても慎重だった。それを最後の最後で誤ってしまったこと、それによりストーリーの魅力が損なわれてしまったこと……。一ファンとして、そのことが残念でならない。

 

 

本作における未来の物語については、もう一つ首を傾げてしまうところがある。それは、本作のラスボス=シェム・ハが未来本人ではなく、あくまで「未来の肉体を乗っ取っただけの別人」であったことだ。

 

 

これはあくまで自分が勝手に抱いていた期待なのだけれど、本作『XV』の放送前、そのラスボスは小日向未来その人だと思っていた。その理由は、「響と未来が根本的な所で相容れない存在」である可能性を (勝手に) 感じてしまっていたから。 

たとえ敵対する相手であっても手を伸ばすことを躊躇わず「繋がり」に生きる太陽=立花響。そして、その太陽に手を伸ばしているのが未来。一見すると夫婦のような仲良しで、お互いに支え合っている響と未来だけれど響は「みんな」を見ており、未来は「響」を見ている。2人は同じ道を歩いているかもしれないけれど、未来は常に響を追いかけてばかりいたように思えるのだ。 

そして、そんな2人の視界の違いは、これまでのシリーズでも未来を通して度々形になっており、第1期では「響の望む生き方」を否定してしまう自分のワガママを嫌悪してしまい、『G』では、そんな自分の秘めたワガママ=愛、あるいはエゴを利用され「響が戦わなくていい世界」を作るシンフォギア装者へと変貌してしまっていた。皮肉なことに、未来の愛が表になる瞬間というのは、常に「響と未来がぶつかる場所」であり、一見綺麗に噛み合っていた響の生き方と未来の愛は、その実大きく食い違っていたのである。

 

 

そんな彼女の「愛」を考える上での大きなポイントとして、未来の「愛」が、シリーズを重ねる度に「友達に向ける親愛」ではなく、「極めて恋愛感情、ないしそれに近いもの」だと示唆されてきたことがある。そのことが (おそらく) 初めて明示されたのが、前作『AXZ』EPISODE 7『ARCANA No.00』において、響に想いを向けるようになった経緯が明かされた直後のこの台詞。  

「私の胸の内は、きっと誰にも打ち明けられないだろう。それでも想いをカタチにしたくて、いつかピアノを習いたいと願った」

「特別な背中」である響と「ずっと一緒に並んで歩いていきたい」という想い。それを未来が「誰にも打ち明けられない想い」と考えているのは、それはやはり自分の想いが「同性の友人に向けるべきものではない」ものだと感じている=ある種の後ろめたさがあるからなのではないだろうか。 

一方、当の響は第1期のEPISODE 6『兆しの行方は』でクリスに言い放った台詞「彼氏いない歴は年齢と同じッ!!」からしておそらく異性愛者。シンフォギア装者となってからはいざ知らず、それまではきっと当たり前のように2人で恋愛話に花を咲かせる場面もあっただろうし、そのことが「未来に想いを秘めさせる後押し」になっていたのだとしたら、それは未来にとってどれほど残酷なことだったか、およそ容易く想像できるものではないだろう。

 

 

人並み外れた愛を持ちつつも、それを「誰にも言えないもの」として胸にしまい続けた未来。そんな彼女の内に渦巻く想いが凄まじいエネルギーを持っていたことは想像に難くない。想いを伝えられないもどかしさ、伝えた結果「響に嫌われるかもしれない」という恐怖……。ただでさえ「その愛をしてシンフォギアを纏えてしまえる」ことからも想いの強さが示唆されている彼女だ、もしその想いが爆発してしまったら……と考えるとそれほど恐ろしいことはないし、前述の「響と未来が根本的にすれ違い続けている」可能性に照らしてみると、その「爆発」は何か一つきっかけがあれば十二分に有り得る話だと思えたのだ。 

そんな中、『AXZ』最終回で示唆された「未来が神の力の依り代たり得る」という事実。これはもう、未来と響の激突が世界を揺るがす展開を期待するなという方が無理であるし、ダメ押しとばかりに『XV』EPISODE 1で飛び出した「もし私が誰かを苦しめていたら、響はどうする?」という衝撃的な一言。それを自分は「覚悟決めとけよ」という忠告と受け取った――の、だけれども、実際にお出しされたのは、シェム・ハという「未来の肉体を乗っ取っただけの別人」。シェム・ハが誰かを苦しめたとして、それは確かに未来の身体かもしれないけれど、未来の意思ではない。最終回ではこれ見よがしに件の質問が響の脳裏にフラッシュバックするが、未来がその質問で本当に訊ねたかったのは「誰かを守るために自分を犠牲にしなくちゃいけないとしたら?」ということではなく、おそらく「自分が貴女と相容れない存在になったとしても、貴女は自分を選んでくれるのか」という内容……つまり、未来は (意識的にか無意識的にかは分からないけれど)「自分が “響のことを愛している” と伝えた時、響は受け入れてくれるのか」ということについてのヒントを得ようとしていたのではないだろうか。

 

「未来の秘めた想いは響に届くのかどうか」という命題は、人と人との不和を描く『シンフォギア』のテーマと密接に繋がったものであるし、だからこそ「未来がラスボスになる」展開はまさにうってつけなのでは……と、そういう意味でも期待が高まっていた『XV』。しかし上記の通り、未来やシェム・ハを通して紡がれていく展開はどこか予想していたものと違っていた。 

ところが、最終回ではシェム・ハ自身の口から「未来は、言葉では伝えられない想いを抱えていたからこそ自分を受け入れた」というカミングアウトもあり、一体響と未来の物語はどこに着地するのか、もとい製作陣はどこに着地させようとしているのか分からなくなってしまったし、そもそも「シェム・ハが未来の身体を使っている」という展開が『G』の「未来がその想いを歪められ、敵として立ちはだかる」展開より悲劇的でない / インパクトに欠けるということも手伝って、どうにも「シェム・ハ」というラスボスには終始乗り切れなかった……というのが、視聴当時の正直な感想である。

 

 

20000字を、越えました。 

それもこれも、この『シンフォギアXV』にそうせざるを得ないくらいギチギチに魅力や欠点が詰まっているから……なのだけれど、視聴当時はそんなことをのうのうと感じていられないほどにただただ先行きが不安だった。 

前述のように、ことEPISODE 12のラストに至っても、この物語が……もとい『シンフォギア』というシリーズがどのように幕を下ろすのかが見えてこなかったし、大好きな『シンフォギア』シリーズだからこそ生半可な終わり方をしてほしくはなかった。しかし、この『XV』は良し悪しがどちらも非常に極端、もとい (EPISODE 12時点では) どちらかと言えば「悪し」寄りだと感じていた作品だったため、正直最終回にはかなりハードルを下げながら臨んだ覚えがある。しかし、いざ始まった最終回=「LAST EPISODE」と銘打たれたそれは、文字通り「こちらの想像を越えていく」驚くべきものに仕上がっていた。

 

 

バーニングエクスドライブを発動し、キャロルと共にシェム・ハに相対する装者たち。おぉ、遂にキャロルと響たちが共闘するか……! と思ったその時だった。 

 

キャ……「キャロルと装者の7人ユニゾン」だとォ!?!? 

スフォルツァンドの残響』という新曲が出てくることさえ予想できなかった自分は、今回の「最終回用スペシャルユニゾン」が7人ユニゾンである可能性に全く思い至っていなかった。いや待ってください、キャロルについてはもう「これ以上を望んだら罰が当たる」くらい至れり尽くせりの大盤振る舞いだったのだから、この上「キャロルが装者たちと一緒に歌う」という、そんな度が過ぎた超贅沢品を公式がお出ししてくれるだなんて、そんなこと流石に予想できませんって……!! 

しかも、この共闘の嬉しいポイントはキャロルが装者6人を率いるように戦っていること。シェム・ハと唯一本格的に戦ったキャロルが皆を指揮するのは理にかなっているのだけれど、それ以上にその連携ぶりからキャロルと装者たちとの間にある「絆」がしっかりと見えること、そして「ひとりぼっち」で、オートスコアラーたちも切り捨てるように使っていたキャロルが、装者6人と「フォーメーション」を組んで戦っていることが嬉しくてたまらないのだ。ただでさえ感慨深いシーンをいくつも叩き付けてきたキャロルにまだこんなポテンシャルが秘められていたのかと驚きつつ、これまで散々あれこれ文句を言っていた製作陣に頭が上がらない思いだった。


正直、この時点でもうLAST EPISODEは自分の中で「最高の最終回」と化してしまっていたのだけれど、『PERFECT SYMPHONY』が最後のサビに入ろうとするその一瞬、これ以上ない「キメ」のタイミングで入ったカットインで思わず号泣してしまった。  

「今が好機だ!」
『オーバーブレイク!!』

 

キャロルと、その呼び掛けに応える装者たちのこのカットイン! この (それこそ “奇跡” のような) 画が見れただけでも、ここまでシンフォギアシリーズを追いかけてきた甲斐があるというもの……!! しかし、これらキャロルの破格の優遇ぶりが「それが最期の活躍になるから」だからだと気付けない自分の鈍さが、この時ばかりは心底恨めしかった。

「キャロルちゃん! エルフナインちゃん!!」
「立花響……!お前はどうする、何を望む!?」
「私……?」
「そうだ!」
「私は……未来を奪いたい! 人助けなんかじゃなく、私の欲望剥き出しだ!!」
「だったら手を伸ばし続けろ!いつかのオレにそうしたように!!」
「だけど、繋ぐこの手は呪われて、未来を殺す力が……」
「 “呪い” と呪うソイツも呪い!その手にあるのは、見ず知らずの誰かの思いだッ!!」

響たちを守るために、自らの想い出を全て焼却しきるキャロル。そんな彼女が最期に残したのは「ガングニールに積層した呪いも、所詮は “誰かの思い” でしかない」というメッセージだった。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

かの聖者の生死を確認するために使われた槍=「ロンギヌスの槍」そして、それと同一視される「ガングニール」。この槍は、歴史の中でいつしか「神にトドメを刺したもの」と曲解されるようになり、その「神を殺せる」という人々の認識・信心が2000年に渡って積み重なった結果、後天的に「神殺し」の哲学兵装となったもの。つまり「人々の思いによって、その在り方を歪められてしまった / 呪われてしまった」聖遺物こそがガングニールであった。 

しかし、歴史の中では同じように「人々の思いによって在り方を歪められてしまった」存在が数多く存在している。その一人が、他でもないキャロルの父親=イザーク・マールス・ディーンハイム。 

人々を救いながらも、人々の「恐れ」によって、「神の奇跡を振るう異端者」にすり替えられてしまったイザーク。そして、そんなイザークが残した「世界を識るんだ」という赦しへの祈りを、「世界を解剖する」という復讐に変えてしまったキャロル……。そんな過去を持ち、『GX』では自らが呪いと放ったエルフナインによって祝福を与えられることになった彼女こそが、最も「祝福も呪いも紙一重であり、それを決めるのは人の意思」であることを知る者だったのだろう。キャロルが響に贈った「呪いと呪うソイツも呪い!」という言葉は、かつての自分のようにならず、むしろ「その呪いを祝福と変えてみせろ!」という彼女からのメッセージ=祈りだったのかもしれない。 

(キャロルが響という "後を託せる仲間" を得たこと、そして、彼女が残したこのメッセージが、結果的にシェム・ハを打ち倒し人々の未来を紡いだこと。それはきっと、イザークにとってもこの上ない手向けになったのだろう)

 

そんなキャロルの祝福を背負った響は、完全態となったシェム・ハに一人立ち向かう。バラルの呪詛が解除された状態で、人々の思考を強制的に「接続」するシェム・ハに対し、響は人々の「支配への抵抗」そして「未来 (あした) を取り戻す」という想いを拳に束ねてみせるのだった。 


(こちらの動画の 1:46~ をご覧ください) 

「不和」こそが敵として描かれてきた『シンフォギア』シリーズ。その最後に立ちはだかった敵=シェム・ハの真の目的は、個の統合を図り、争いのない「完全な世界」つまりは「究極の “和” 」を実現することだった。そんなシェム・ハに対し、小日向未来という “個” を奪還すべく、人々の「 “未来 (あした) を奪還する” という想い」を束ねる響……。究極の和を打ち破り、争いの可能性を孕んだ人の世界を取り戻すというこの構図は、これまでの『シンフォギア』同様に不和を否定しつつも、その到達点=完全な和をも一挙に否定してみせるものだった。  

「バラルの呪詛……。繋がりを隔てる呪いさえなくなれば、この胸の想いは全部伝わると思ってた。だけど、それだけじゃ足りないんだ」

未来のこの言葉が意味するもの。それは「想いが伝わり、不和が消えること」そのものが美しいのではなく、「異なる想いが繋がる」こと――『シンフォギア』シリーズが描き続けてきた「 “人と人との繋がり” が生み出すヒカリ」こそが何より美しいものなのだということ。この戦いは、人類と神との決戦であると同時に、『シンフォギア』シリーズそのものに終わりを告げるための、文字通りの「最終決戦」に相応しいものだったのだ。

 

METANOIA

METANOIA

 

一方で「シェム・ハから小日向未来という “個” を奪還すべく、人々の “未来 (あした) を奪還するという想い" を束ねる響」の姿は、響にとっての小日向未来が、人々にとっての「未来 (あした) 」であると示すものでもあった。 

これまで「一番あったかい、私の陽だまり」とのみ語られ、その機微は謎に包まれていた「響が未来をどう思っているのか」という命題。その答えとは、決して「一番の友達」などという生易しいものではなかった。響にとって、小日向未来とは人々にとっての「あした」と同義。つまり人助けも、誰かと手を繋ぐのも、響の「やりたいこと」は全て未来の存在という光があってのもの。未来は、自分が響を「追いかける」側であることに引け目を感じていたけれど、響が走っていけるのは、後ろで自分に元気をくれる / 見守ってくれる未来がいるから……。違うものを見ているように思えた2人は、その実「お互いがいて初めて自身の明日を歩んでいける、ある種の運命共同体」であり、そんな最愛のパートナー=未来を、響が「抱き締める」ことで救い出すというシェム・ハとの決着は、前作で「ぶん殴ることしかできなかった!」と涙した響に、そして未来に贈られた最大の祝福だったのではないだろうか。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

こうして、過去最高クラスのファンサービスと、シリーズ最終作としての答え、そして響から未来への想い……という『XV』に求められていたものをおよそ10分で描き切ってしまった驚愕の最終回。その圧倒的な熱量は、しかしなんとここで終わらなかった。 

 

ユグドラシルを止めるため、地球内部へと向かっていく装者6人。余力僅かな彼女たちの前に現れたのは、なんと神獣鏡をシンフォギアとして纏った未来!ウェディングドレスのような美しい衣を纏い、「響の隣を歩いて、同じ景色を見たい」と、その正直な想いを口にする未来。それは、さながらシェム・ハに対して響が放った叫びへのアンサーのようでもあった。 

これまでのシリーズで「未来が自分の意思でシンフォギアを纏う」展開がなかったのは彼女が「戦いから遠い場所にいる」ことにこそ意味があるキャラクターだったから。響の日だまりであり続ける彼女は、戦いの歌を歌うべき存在ではないのだ。しかし、そのことは他でもない『シンフォギア』製作陣が一番理解していること。未来の「戦い」は自動防衛装置を殲滅する一瞬で終わり、『FOR THE FUTURE』もインスト止まり。彼女が自らシンフォギアを纏い歌う「最初で最後の歌」とは、神に別れを告げ、人の不完全で儚い在り方を祝福する希望と別れの歌=『Xtreme Vives』。 

  

「7つの調和……まさか、統一言語を求めていた了子さんは、そのつもりで7つのシンフォギアを作ったんじゃ……!」
「真実を告げないまま言葉を奪われてしまった了子さんは、あらゆる方法で隔たりを乗り越えようとした……」
「そうして生み出されたのが、ノイズ、歌、様々な異端技術」
「 “ただ、繋がりたかった” という彼女の想いは、時を経て、人類全体を繋ぐ奇跡へと昇華した。それはアヌンナキからの脱却……人類の独立だ」

 

神の摂理に到達する「7つの音階の共鳴」が響く中、ユグドラシルの情報ライブラリから溢れ出す亡き人々たちの姿。フィーネとエンキ。奏と八紘。セレナ、ナスターシャ、ウェル。キャロルとイザーク。サンジェルマン、プレラーティ、カリオストロらパヴァリアの錬金術師。ヴァネッサ、エルザ、ミラアルクのノーブルレッド……。 

思えば、フィーネの “繋がりたい” という気持ちが発端で始まったのが『シンフォギア』という物語。そんなフィーネの想いの結晶=7つのシンフォギアが歌う中で、本シリーズが紡いできた絆=繋がりの歴史が輝くビジョンとして綴られるこの光景は、まさしくフィーネの抱いた想いへの祝福であり、彼女の努力に対する暖かな返礼。そして『シンフォギア』というシリーズそのものへの限りない「ありがとう」と「さようなら」のカタチだった。 

『XV』から3年が経ち、この作品が本当に『シンフォギア』シリーズの完結作だということを実感した今だからこそ、涙なしに見ることはできないこのシーン。しかし、それでもこのシーンが驚くほど暖かく感じられるのは、きっと「さようなら」の切なさよりも「ありがとう」が勝っているからこそ。だからこそ、このシーンは多くのファンの胸を揺さぶる「集大成」として、シンフォギアという物語をこれ以上ない美しさで締め括ることができたのだろうと思う。

 


「少女たちが歌って戦う」という、ちょっと何言ってるかよく分からないコンセプトを引っ提げて始まった『戦姫絶唱シンフォギア』から10年。当時こそイロモノとして扱われていたシンフォギアは、今やTVアニメ通算5作品が製作され、パチンコやスマートフォンゲームも人気を集め、10周年という節目で更なる盛り上がりを見せる一大コンテンツへと大成してみせた。 

今にして思えば、「色眼鏡で見られていた存在が、“歌” を通じてたくさんの人々と手を繋いだ」というその歩みは、まるで『シンフォギア』の紡いだ物語そのもの。シンフォギア』というシリーズは、作品の中で描かれていた世界への希望をその身をもって現実にしてみせたのである。

 

確かに『シンフォギア』シリーズは決して完璧な作品ではなかった。『GX』『AXZ』『XV』は各記事に記した通り大きな欠点を抱えているし、緻密で丁寧なストーリーを紡いだ『第1期』『G』にも、まだ「掴めて」いないが故のぎこちなさをはじめ、多くの欠点があることは否定できない。しかし、それでもこのシリーズが見事人気コンテンツとして大成してみせたのは、きっと最初から最後までスタッフ・キャストがこの作品に尋常ならざる愛を注いでくれていたから。作品の完成度を補って余りある圧倒的な「愛」がファンを魅了し、10年という時を繋いできたからこそ、今の輝かしいムーブメントがあるのだろう。 

そして、もう一つ。『シンフォギア』が今の今まで愛されている理由として、自分はこのシリーズがこの上ない「有終の美」を飾ったことを挙げておきたい。

 


(こちらの動画の 3:00~ をご覧ください)

 

「 “八千八声 鳴いて血を吐くホトトギス” ……。人が人である以上、傷付け合わずに繋がることは難しい。だけど、繋がれないもどかしさに流した血からは、たくさんの尊いヒカリが生まれている」

 

シリーズの始まりを飾った言葉を引用しつつ、『シンフォギア』を優しく締め括る未来。

 

「あのね、響……。ずっと、自分の言葉で響に伝えたいことがあったんだ」
「うん、私も」
「え?」
「私の伝えたいこと、未来と同じだったら……嬉しいな」

 

そんな彼女が、怯えながらも勇気を持って踏み出した一歩への「答え」は、ここでは明かされない……ように、見える。 

シンフォギア』という作品を歩き続け、支え続け、その果てに一つのゴールを迎えることができた2人。彼女たちのこれからに何が待っているのか、未来の想いを受けた響が何を語るのか……。この作品は『シンフォギア』だからこそ、それを「言葉」で紡ぐことはしない。全ては、この瞬間を彩る「歌」に込められている。

 

キミだけに

キミだけに

 

「未来から響に贈られる詩」に始まり、「響から未来に贈られる歌」に終わる――。こんなにも美しい物語を紡ぎ、たくさんのものを届けてくれた『戦姫絶唱シンフォギア』。その全てに、どうかこれからも暖かい祝福が溢れていますように。

 

引用:ストーリー - 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ