総括感想『 “ゴジラVS” シリーズ』賛否両論の作品群が、それでも「傑作」であり続ける理由を語りたい

『 “ゴジラVS” シリーズ』に向き合ったことがないのが、特撮オタクとしての密かなコンプレックスだった。

 

平成初期に生まれ、『ウルトラマンガイア』や『仮面ライダークウガ』『星獣戦隊ギンガマン』といった作品群によって見事特撮沼に落とされた自分は、しかし、どういう訳か『ゴジラ』シリーズにはあまりのめり込むことがなく、劇場へ見に行った記憶があるのも『FINAL WARS』ぐらいのもの。 

それからも、高校生時代にゴジラがモチーフの演劇に参加する機会があったり、『シン・ゴジラ』をきっかけにシリーズを覗いてみたり……といった形でいくつかの作品に触れたものの、2021年時点での視聴済み『ゴジラ』作品は『ゴジラ (第1作) 』『ゴジラの逆襲』『対ガイガン』『対メガロ』『VSビオランテ』~『VSメカゴジラ』『FINAL WARS』『GODZILLA (2014年版) 』『シン・ゴジラ』『ゴジラS.P』そしてCGアニメの『GODZILLA 怪獣惑星』~『GODZILLA 星を喰う者』と、数が少ないばかりか「CGアニメ三部作しかシリーズを完走したことがない」という有様。

 

そんな『ゴジラ』に対して付かず離れずの微妙な距離感で居続けていた自分に、ある日大きな転機が訪れた。

 

 

ゴジラをこよなく愛するフォロワーのツナ缶食べたいさん (@tunacan_nZk) とYUKIさん (@Yukido_U) 。お2人のご厚意で、まさかまさかの『 “ゴジラVS” シリーズ』同時再生マラソンが決定。先日12月4日、遂に『ゴジラVSデストロイア』を鑑賞し、三十路にしてようやく「実写ゴジラを1シリーズ完走する」という実績が解除されたのである……ッ!!  

(お二人とも、本当にありがとうございました!)

 

かくして、この半年間で一気に駆け抜けた『 “ゴジラVS” シリーズ』。『VSビオランテ』~『VSメカゴジラ』もかなり記憶が薄れていたため、気分はほぼほぼオール初見。 

今回の記事は、この令和の世に『 “ゴジラVS” シリーズ』を (実質) 初見完走したオタクの備忘録。見当違いの意見など多々あるかもしれませんが、暖かく見守って頂ければ幸いです……!

 

《目次》

 

 

 

『 “ゴジラVS” シリーズ』とは

 

『 “ゴジラVS” シリーズ (以下、「VSシリーズ」と表記) 』とは、1984年公開の『ゴジラ (1984年版) 』から、1995年公開の『ゴジラVSデストロイア』までの計7作品を指す呼称。日本映画専門チャンネル開催の『ゴジラ総選挙(2014年)』では第2作目である『ゴジラVSビオランテ』が作品人気1位を勝ち取るなど、近年猛烈に再評価が進んでいるシリーズだ。 

本シリーズが展開された1984年~1995年といえば、『ウルトラマン』の新作TVシリーズも『ガメラ』の新作も公開されていない、まさに「巨大特撮空白期」と言える時期。そんな時期に、昭和と平成を跨いで製作された本シリーズは当時の氷河期ぶりを吹き飛ばすかのような「熱量」に満ち溢れた作品群となっていた。

 

 

 

『VSシリーズ』の魅力

 

圧倒的な “特撮”

本シリーズに籠められた熱量が最も顕著に現れていたのは、なんといってもその迫力満点の特撮。 

特撮と言えば……なミニチュア特撮は、シリーズの第1作となる『ゴジラ (1984年版) 』の時点で既に完成されており、発電所や火山帯の緻密でリアルな造形に目を見張ったのは勿論、ゴジラのおよそ2倍はあろうかという巨大な摩天楼で繰り広げられるゴジラとスーパーXの決戦には (スーパーXの些かアレなネーミングと見た目を忘れるほどに) 声を漏らしてのめり込んでしまっていたし、それが曲がりなりにも昭和の時代に作られた映画だということをすっかり忘れてしまうほどの迫力があった。 

 

そんな緻密なミニチュア特撮が特に映えるのはやはり夜戦。ミニチュアの「本物」感がマシマシになるだけでなく、ゴジラの放射熱戦や発光が映えるというオマケ付きで、ライティングの美しさがピカイチな『VSメカゴジラ』のクライマックスや、結晶体で作られたバトルフィールドという+αがある『VSスペースゴジラ』のラストバトルはまさに垂涎もの。 

他にも、本シリーズは作品ごとにハッとなる新鮮な特撮を数多く披露。『VSキングギドラ』では『ゴジラ (1984年版) 』の摩天楼を更に凌駕する、ミニチュア特撮史上最大級のスケールを誇る都庁が決戦の舞台として描かれたり、『VSモスラ』では今では考えられないほど広大なプールでの激戦が贅沢にも長尺で描かれたり……と、このような圧巻の特撮は、文字通り「アナログ特撮の最高峰」と呼べるものばかり。CGが広く使われるようになった今だからこそ、それらは一層輝いて見えるもののようにも思えた。 

……しかし、本シリーズにおける「特撮」の真髄は、また別のところにあるように思う。それは『VSビオランテ』に代表される、信じられないほど緻密な「操演」である。  


(こちらの動画の1:50~をご覧ください!) 

ゴジラ以上の圧倒的な巨体を誇るビオランテが突進するだけでも衝撃なのに、見てくださいよこの触手の生々しい動き……! これに代表されるように、『VSシリーズ』はシリーズ中何度も「見たことがないような、凄まじく緻密な操演技術」を披露してくれる。  

3本の首が生物感をしっかり演出するキングギドラ、ロボットとしての説得力に操演が大きく貢献していたメカゴジラやモゲラなどその恩恵を受けた怪獣は数多くいるけれど、中でも特筆すべきは「モスラのような “フル操演怪獣” 」だろう。 

 

今回、シリーズをひた走る中で特に印象が変わった怪獣として挙げられるのが、『VSモスラ』の看板であるモスラとバトラ。同じ「モスラ」でありながら、違う使命を持つが故にすれ違うも、最終的にはモスラの献身がバトラの心を動かし、遂に2体が手 (?) を取り合うことでゴジラに勝利する……という、この少年漫画のような熱い展開には思わず熱くなってしまったし、それほどまでに彼らへ感情移入させてくれたのが「操演」だった。 

本シリーズの操演にはぎこちなさが全く見られず、モスララドンのようなフル操演怪獣も、忖度なく「生きているように」見えた。そのことが、ただでさえ渋谷女子も裸足で逃げ出す圧倒的ふわもこディテールや小さい手足など可愛さ満載の造形をしているモスラ (成虫) をより一層「生きている」ものとして際立たせていたし、バトラ共々、その感情の機微がしっかり演出されていたからこそ、余分な解説なく2体の和解が描かれ、視聴者にしっかり感情移入をさせてくれたのだと思う。 

(本シリーズの終焉である1995年がCGの黎明期ということも考えると、本作やその後を継いだ『平成モスラ』シリーズなどで見られた操演技術は、単なる「アナログ特撮の最高峰」という言葉で片付けてはいけない、もっと大切なもの……ある種の無形文化財とさえ言えるのかもしれない)

 

 

 

怪獣の魅力~ “ボスラッシュ” VSゴジラ

 

前述のように、凄まじい特撮技術で魅せに魅せてくれる『VSシリーズ』。必然、その主役=怪獣たちはいずれも魅力的に、それぞれが押しも押されぬ「ラスボス級怪獣」として描かれていた。 

そんな怪獣たちが毎作のように登場し「次は俺だ!」としのぎを削るこのシリーズは、まさに怪獣好きにはたまらない最高峰の「ボスラッシュ」。そんな本作の看板怪獣たちを、ここで一挙に振り返ってみたい。

 

帰ってきたウルトラマン』のプリズ魔や、後の『エヴァンゲリオン』シリーズにおける使徒ラミエルのような鳴き声 (出自も考えると、人の悲鳴のようにも聞こえてしまう……) が印象的で、シンプルな見た目だけにおぞましさが際立つ花獣形態から、ボス怪獣に相応しい迫力とビジュアルを備えた植獣形態に進化するビオランテ

 

その優れたデザインをそのまま甦らせつつも、クライマックスでは「メカ化」という一歩間違えれば大炎上しかねない爆弾を放り込み、結果として見事あらゆる怪獣ファンの心を鷲掴みにしてみせたロマンの塊=メカキングギドラ

 

常識をぶっ壊すダイナミックな「羽化」や、「バトルモスラ」という熱い設定を踏まえたタッグバトルでゴジラを実質的に打倒してみせるクライマックスなど、歴史にその爪痕を刻んでみせた昆虫怪獣界屈指のイケメン=バトラ

 

「正式採用されなかった1号機と合体することで真に完成する2号ロボット」というオタクの大好物設定や世界最高のタイトルイン、歩く武器庫と言わんばかりの戦闘スタイルと魅力満載の (スーパー) メカゴジラ

 

「シリーズ初の純粋な悪役怪獣」に相応しいド派手なビジュアルを持つだけでなく、結晶体で自身のバトルフィールドを作り出すこと (や部位破壊) で「ゴジラと人間の最初で最後の本格共闘」という大舞台を鮮やかに彩ってくれたボス怪獣の鑑=スペースゴジラ

 

「人の手に余る科学が産み出した怪物」というゴジラと同じルーツを持ちながら、その実態は「オキシジェン・デストロイヤーを操る怪獣」=最悪の「アンチゴジラ」であり、これ以上なくラスボスに相応しい存在と言えるデストロイア

 

他にもモスラやモゲラ、ベビーゴジララドンなど、本シリーズに登場する怪獣たちはいずれも非常に魅力的で、一体も影が薄い存在がいないように思える。7作ものシリーズ作品においてこれは極めて異質なことであるだろうし、それだけどの作品/怪獣にも製作陣の魂が籠められていたのではないだろうか。  

(え、ショッキラス? ショッキラスは……うん……リアルで良かったと思います、凄く、凄くリアルでしたね……)

 

しかし、ここで忘れてはならないのが、そんな魅力的な看板怪獣たちに一歩も退かぬ我らが怪獣王=ゴジラの活躍ぶりだ。

怪獣の始祖とも言えるゴジラは文字通り「王道」を行く存在で、その能力・外見は至ってシンプル。しかし、それは転じて「演出次第では、前述の個性的な怪獣軍団のインパクトに押されてしまう」危険を孕んでいるということでもある。 

しかし、本シリーズのゴジラはそんな「シンプルさ」こそが最大の魅力。頑丈な身体で幾重ものビーム攻撃に耐え抜き、時に投げ技のような格闘戦を交えつつ、ここぞというタイミングの放射熱線で何もかもを消し飛ばす……というゴジラお得意のファイトスタイルは、ある種「居合」にも通ずるカタルシスや、敵が搦め手を使えば使うほど際立つストレートなカッコよさに満ちており、怪獣らしさを保ちつつもヒロイックな活躍を見せる、という難題を毎回のようにクリアし続けてくれていた。 

そして、そんなゴジラの活躍ぶりに大満足だった……からこそ、その先に待っていた大事件=「ゴジラの進化」は、実質初見の自分にとってまさに感涙もののシチュエーションだった。

 

 

『VSメカゴジラ』において、スーパーメカゴジラの超絶アルティメット外道兵器「Gクラッシャー」で一度は倒されるも、ラドンから命を託されるという意外なシチュエーションと、ラドンの遺したエネルギーが金粉のように舞うという劇的な演出で甦ったゴジラ。そのゴジラが放ったのはなんとこれまでとは異なる赤い放射熱線=「ハイパーウラニウム熱線」! (カッコよすぎる……!!)  

新技だけでなく、復活したゴジラメカゴジラの装甲を溶かすほどの高熱を常に放射するなどの新能力も引っ提げており、もはや新形態とさえ言えてしまいそうなカッコよさ (ファンの間では、キャッチコピーに倣って「世紀末覇王ゴジラ」とも呼ばれるんだとか……!) 。自分はゴジラがこんな「新たな技」「新たな姿」で逆転するシチュエーションがあるなどとは全く予想していなかったし、続く『VSスペースゴジラ』で更なる強化技=「バーンスパイラル熱線」を披露し、スペースゴジラはおろかついでにモゲラまで木っ端微塵に粉砕した時は、それはもう脳汁ドバドバの拍手喝采だった。

 

 

更に、次作『VSデストロイア』では「バーニングゴジラ」なる正真正銘のゴジラ新形態が登場。書籍でその存在こそ知っていたけれど「冒頭からこの姿になっており、あまつさえ例の赤い熱線がデフォルト技になっている」ことには、喜びや興奮よりも真っ先に「異様」であると感じたし、これまで見所だったものを真逆の方向から活用してみせるその手腕は、残酷なほど「巧い」ものであったと言えるだろう。  

ただでさえ「怪獣VS怪獣」であり、現に『VSモスラ』ではモスラ&バトラが勝利を収めるなど、予測不能な大勝負が見所となっていた本シリーズ。ゴジラの新たな技や姿は、そんな予測不能のワクワクを更に高めてくれる……もとい、文字通り「熱を入れてくれる」魅力的な要素と言えるのではないだろうか。

 

 

 

『VSシリーズ』の欠点


ここまで文字通りのベタ褒めを続けてしまったけれど、それはそれとして「これはどうなんだ」と思う点=然るべく賛否両論になったと思える点が多かったのもまた事実。率直に言うなら、このシリーズは何かと (特に、ドラマ部分の) 詰めが甘いのである。  

例を挙げるなら、『シン・ゴジラ』の先駆けとも言える「政治劇」として目を見張る点が多かったものの、そのような政治劇や恋愛ドラマに尺を割いた代償として非常に地味な作品になってしまった『ゴジラ (1984年版) 』。誰よりも白神博士が主人公になってしまった上、よりによってビオランテとの決着後にサラジアとのもう一悶着が始まってしまう『VSビオランテ』。同じく、誰が主人公なのか見ていて分からなくなってくる『VSキングギドラ』……などは、分かりやすく「構成に些か難がある」ように思えてしまうところ。 

特に『VSキングギドラ』については (ターゲット層の低年齢化という明確な目的があったことを踏まえても) タイムスリップ周りの矛盾の多さや、23世紀人自身の「詰めの甘さ」など、全編に渡ってツッコミどころが満載だった点も無視できないだろう。

 


これらの作品を経たからか、『VSモスラ』や『VSメカゴジラ』では人間ドラマの尺配分がバランス良く収まっていたり、ドラマと怪獣の戦いがより噛み合うような脚本になっていたりと、前述のようなツッコミ所やドラマ部分のバランスの悪さはかなり抑えられている。 

(ベビーゴジラや超能力周りの異様にふわっとした設定はやはり見ていて気になってしまうけれども)

 

ところが、続く『VSスペースゴジラ』ではゴジラに対する各国の緊張感が異様に薄れていたり、スペースゴジラ周りの設定が極端に雑だったり……と、ツッコミどころの多さという難点が復活。結果、どうしてもシリーズ全体に「詰めが甘い」という印象が纏わりついてしまっていたように思う。  

(『VSスペースゴジラ』は『GODZILLA (トライスター版) 』の制作が遅れていたために急遽制作された作品であり、スケジュールがシビアなばかりか、前作の主要スタッフも『ヤマトタケル』の撮影に入ってしまっていたのだという。そうした背景に鑑みれば、このような粗が生まれたことはやむを得なかったと言えるだろう)

 

 

しかし、忘れてはならないのが本シリーズが公開された1984年~1995年は「大人も視野に入れて製作された特撮作品」などほとんど存在していない時代だったということ。  

更に、前身にあたる「昭和ゴジラシリーズ」後期においてゴジラがヒーロー然としたキャラクター像で描かれていたことも踏まえると、果たして新たに発進する『ゴジラ』シリーズを、どのようなターゲットに向けて、どのように作るべきなのか、その製作が手探りになってしまうことはどうあっても避けられないことだったろうし、大人向けに舵を切った『VSビオランテ』や、対称的にファミリー路線へシフトした『VSキングギドラ』の製作においても同様の困難があったことは想像に難くない。そういった状況下でこのような魅力的な作品群を送り出したスタッフの尽力と心意気には、心から頭が下がる思いだ。

 

 

 

“詰めの甘さ” という強み

 

おそらくシリーズが賛否両論となった大きな要因であろう、本作の “詰めの甘さ” 。しかし、それは半ば意図的なものとして仕込まれていた=「ガチガチに作られていなかったからこそ、幅広い作風で展開することができた」という見方は、流石に好意的な解釈が過ぎるだろうか。  

ただ、自分も何も根拠なくそう感じた訳ではない。きっかけになったのは、問題の『VSキングギドラ』だ。 

 

本作は確かにツッコミどころ満載の作品ではあるけれど、裏を返せば「未来人と共に、ゴジラを歴史から抹殺するために時間を越える」という大筋に表れているようにシリーズでも随一の派手な展開を見せる一大エンタメ編になっているのもまた事実。  

そのため、本作は確かにツッコミ所こそ多いが、一方では見ていて非常に「楽しい」「飽きのこない」作品として大成しており、前作の『VSビオランテ』から1.5倍もの興行収入を叩き出した点含め、ファミリー向けとして作られた作品として見事その役割を全うしたと言えるだろう。  

(メカキングギドラという禁じ手兼ロマンの塊が生まれたのも、本作のそういったエンタメ重視の作風があればこそ……!)

 

 

更に、それ以降も『VSモスラ』では冒険もの、『VSデストロイア』ではモンスターパニックものと、本シリーズはいずれも当時の世相を色濃く反映した脚本作りがされている。 

このことは前述の「詰めの甘さ」……もとい「自由な作風」があったからこそ成し得たことであろうし、VSシリーズが7作品ものロングランを成し得たのは、こうして生まれたシリーズの「幅」がマンネリ化の防止に大きく貢献したからとも言えるのではないだろうか。

 

 

 

激動のシリーズ後半~『VS』の終焉

 

ゴジラ」は敵か味方か

前述のように「自由」なだけでなく、きっちり「やる時はやる」のがこのシリーズの愛すべきポイント。その最たるものと言えるのが、この『VSシリーズ』全体を通してのシナリオ……特に、後半から始まる「ある大きなうねり」だ。

 

 

ゴジラ (1984年版) 』から『VSモスラ』にかけては、概ね「倒すべき敵」としての側面がプッシュされてきたゴジラ。しかし、『VSメカゴジラ』においてその流れは大きく変わることになる。 

きっかけは、アドノア島で発見された卵から孵ったベビーゴジラと、(ほぼ) シリーズを通してのヒロイン=三枝未希 (演. 小高恵美) が心を通わせたこと。ベビーと友好を深めたことでゴジラもあくまで生物」であり、「加害者であると同時に、被害者でもある」存在なのだと気付いた彼女は、以来ゴジラとの協調路線を唱えることとなる。

 

確かに未希の言うことは一面では正しいが、ゴジラと人間が共存できないのは火を見るより明らかであり、ゴジラが人類に甚大な被害をもたらしたことは到底看過できるものではない。そんな背景を踏まえつつも、「人類の忌むべき罪の象徴して生まれながらも、人間に愛される国民的なキャラクターとなった」という現実におけるゴジラの遍歴をなぞるかのように、本作以降のゴジラは「敵ではあるが、絶対悪とは言えない」という中庸の立場で描かれることになっていく。  

その表れとして、『VSメカゴジラ』ではメカゴジラの攻撃が残虐性を強調されて描かれ、対するゴジラは「近しい存在であるラドンの命を受け取り、メカゴジラに逆襲する」という、ヒーロー手前ギリギリのヒロイックな大逆転を見せることとなった。

 

 

そして、続く『VSスペースゴジラ』では遂にVSシリーズ初の「純粋な悪役怪獣」ことスペースゴジラが登場し、ゴジラと人類の共同戦線が展開される……のだが、ここで白眉と言えるのがこの共同戦線の絶妙なバランス感覚。  

ゴジラの目的は、あくまでスペースゴジラを倒してリトルゴジラを助けること。そして人類側も、その目的はあくまで「ゴジラとスペースゴジラを倒す」こと。つまり双方の共闘は単なる利害の一致でしかないのだが、本作のシナリオが「打倒ゴジラにロマンを感じる主人公=新城功二 (演.橋爪淳) が未希に心を動かされる」という筋書きであるため、この共闘には仄かな信頼感が感じられる。とどのつまり、本作は「シリーズが守ってきた一線を越えない範囲で描ける ”最大限の共闘” を見せる」という、非常に優れたバランス感覚に基づいて製作されているのである。  

(それらしく見えるが結局は利害の一致なので、モゲラは隙あらばゴジラごとスペースゴジラを攻撃するし、ゴジラもスペースゴジラのついでにモゲラを焼き付くしたりしている。つい笑ってしまうシーンでもあるけど、このシーンがあるからこそゴジラが “ヒーロー” になっていないと思うと、非常に巧い見せ方だ)

 

 

これまで貫いてきた「一線」を越えないままに、ゴジラが人間と共に立てるギリギリのラインを追求してみせた本シリーズ。ここまでくると、作品世界の中でも視聴者/ファンにとっても「ゴジラ」がもはや敵か味方かと一概に言えなくなってくるのだけれど、かといって『VSスペースゴジラ』以上の歩み寄りは決して許されない。 

そんなある種の「行き詰まり」に陥ったゴジラに対し、次作『VSデストロイア』が見せた答えとは、人類の手でゴジラを「葬送する」ことだった。

 

 

 “有終の美” ~『VSデストロイア

シリーズ第1作の続編という非常に攻めた作品である『ゴジラVSデストロイア』。良くも悪くも凸凹な本シリーズでこの重荷を背負えるのか正直不安もあったのだけれど、いざ臨んだ本作は「シリーズ完結編」に相応しい完成度を誇る一作となっていた。

 

ゴジラ (第1作) 』から山根博士の娘=山根恵美子 (演.河内桃子) その人が客演するだけでなく、『VSビオランテ』から黒木翔 (本来のキャストは高嶋政伸氏だが、スケジュールの都合から『VSメカゴジラ』で主人公・青木一馬を演じた実兄=高嶋政宏氏が演じられている) が登場、スーパーXⅢのパイロット兼指揮官を務めるほか、国友満役 (代役) は『VSモスラ』で深沢重樹を演じた篠田三郎氏であったり……と、まずもって本作はいつにも増してキャストが豪華で、『ゴジラ (第1作) 』から芹沢博士 (演.平田 昭彦) の映像まで引用されるなど演出にも力が入っており、この時点で『ゴジラ (第1作) 』の続編と『 “ゴジラVS” の完結編』を両立させるという意気込みが伺える。 

そして、そんな本作の姿勢を強烈に後押しするのが、本作のボス=シリーズ屈指の人気怪獣であるデストロイアだ。

 

 

25億年前、地球上に酸素がほとんど存在しなかった先カンブリア時代の微小生命体が、オキシジェン・デストロイヤーによって局所的に発生した「無酸素状態」によって覚醒、現代の環境に適応すべく異常進化を遂げた……という衝撃的 (天才的) な背景を持つ完全生命体=デストロイア。いくつもの変身を遂げていく様やその悪魔的なデザインなど隅々まで魅力溢れる名怪獣だが、この怪獣の真髄は何といってもゴジラの最後の敵」として作り込まれたキャラクター造形だろう。 

心ある生物として描かれるゴジラに対して、デストロイアは「心なき殺戮生物」。 

たった一体の同じ種族=ジュニアの為に戦うゴジラに対して、デストロイアは個の概念を持たない「群体」の怪物。 

人間の文明によって生み出され、本作ではとうとう地球環境からも拒絶されたことで命の危機に瀕する「被害者」のゴジラに対して、ミクロオキシゲンやオキシジェンデストロイヤーレイを操り、自ら文明・環境を蹂躙していく「侵略者」のデストロイア。 

核兵器ゴジラを生んだように、デストロイアは同じく人の手に余る科学こと「オキシジェン・デストロイヤー」によって生まれ、その力を行使する怪獣というだけでもラスボスに相応しいのに、そこに妥協することなく徹底して「ゴジラの対存在」として作り込まれた怪獣であるデストロイア。そんなデストロイアに対し、命の危機に瀕しながらも戦うゴジラ……。既にして「熱くなるな」という方が無理な名プロットだ。 

しかし、本作が「完結編」たる最大の所以は、そのデストロイアでもバーニングゴジラでもなく、むしろこれまでのVSシリーズでほ端に追いやられがちだった人類の奮戦にある。

 

 

前述のように、7作に渡る戦いの中で人類とゴジラとの関係は複雑化し『VSメカゴジラ』、そして『VSスペースゴジラ』を通して「殺し合う以外の道もあるのではないか」……という希望さえ見えてきていた。 

しかし、ゴジラと人間の共存は不可能であるし「あってはならない」こと。そのことを突き付けるかのように、ゴジラは住処であるバース島ごとウラン鉱脈の爆発に巻き込まれ、結果取り返しの付かない熱暴走状態に陥ってしまう。その果てに待っているのは、周囲を巻き込んでの大規模なメルトダウン――と、非情にも「ゴジラが確実な死を迎える」ことがシナリオの前提に据えられてしまうことで、人類は選択の余地なくゴジラを倒すしかなくなってしまう。  

(元を正せば、核という禁断の兵器を使った人類に大自然から下される「罰」という側面も持っていたのがゴジラという怪獣。この一連は、そのゴジラと人間が馴れ合ったことに対する地球の怒りが呼び起こした、新しい罰なのかもしれない)

 

こうして再び始まる、人類×ゴジラ×デストロイアによる三つ巴の最終決戦。しかし、その結果は意外にも人類側の完勝という形で終わることになる。 

途中で蹴散らされて最後の戦いに参戦できなかったり、一度は勝利するも復活したゴジラに蹂躙されたり……と、これまで一度も「最後の勝者」になれなかった人類が、この最終章で遂に勝者になるというのはそれだけで既に感慨深いものがあるけれど、本作の顛末には単なる「勝利」以上のものが感じられた。

 

 

ジュニアを殺害され、怒りに燃えるバーニングゴジラの猛攻から逃亡するデストロイア。そのデストロイアに対して防衛軍はスーパーXⅢとメーサー車による低温レーザーの一斉射を敢行、遂にこの完全生命体を完璧に撃滅してみせる。 

デストロイアは作中で一度バーニングゴジラに爆破されているが、群体生物であるためか爆破されても分裂と再構成によって復活。そんなデストロイアを人間の手で倒すことができたのは、本作の主人公=伊集院研作 (演.辰巳琢郎) を始めとする研究者たちの努力が実らせた「科学」の力に他ならない。

 

かつて人間は、核という「人間の手に余る科学」によって生まれた怪物=ゴジラを葬る為に、同じように人間の手に余る科学=オキシジェン・デストロイヤーに頼るしかなかった。しかし、禁忌を滅ぼすために禁忌を使った結果、人類はデストロイアという新たな災厄を呼び込む結果となってしまった。 

そんなデストロイアに対し、本作の人類は禁忌に頼ることなく研究・分析に専念、既存の「通常兵器」を活用する形でデストロイアを倒す方策を見事発見してみせた。ゴジラにも倒せなかった相手を、50年間積み重ねてきた「人間がコントロールできる範囲の」科学によって撃滅せしめたのである。

 

デストロイアを撃破するシーンは画としては些かあっさりしていて、初見の時は「これで終わり!?」と思ってしまったけれど、それはもしかすると製作陣の意図通りだったのかもしれない。 

超兵器を使わず、ゴジラという禁忌の存在に頼ることもなく、あくまで「普通の兵器」でデストロイアを倒したこと。それこそが、伊集院博士の貫いた「芹沢博士の遺志に報いる」ということであり、「人間の過ちが科学を呪いにしてしまうなら、その呪いを断ち切れるのもまた、人間が正しく行使する科学だけ」という、『ゴジラ(第1作)』に対して40年越しに打ち出された「回答」=人間と科学の未来に対する希望のメッセージなのではないだろうか。  

( “対ゴジラ兵器” でないスーパーXⅢがデストロイアを倒したというのも、どこか示唆的なものを感じさせる)

 

CCP メルトダウンゴジラ

CCP メルトダウンゴジラ

  • メディコム・トイ(MEDICOM TOY)
Amazon

 

かくして自衛隊デストロイアを撃破すると、ゴジラは遂にメルトダウンに突入。自衛隊は、メルトダウンによる周囲への被害を最小限に食い止めるため、持てる全ての冷凍兵器を投入する。「ゴジラに人類が兵器を放つ」という構図そのものはこれまでと変わらなくても、その実態は「ゴジラを殺す」ものではない。むしろ、この一斉射が「ゴジラにこれ以上の罪を背負わせない」為の手向けに見えるのは自分の考えすぎだろうか。

 

ゴジラが、東京を死の街にして溶けていく」
「これが、私たちの償いなの?」
「償い?」
「科学を、核を弄んだ、私たち人類の……」

 

冷凍兵器で急激に冷却されつつ、静かに溶解していくゴジラ。低温が作る雪が降り注ぐ中、ゴジラを憎んだ者も、その手を取ろうと願った者も、ある種ゴジラの「ファン」であった者も、その場に立ち会う全員が、天を仰ぎながら溶けていく「ゴジラの最期」を観客と共に目に焼き付ける……。それは、ゴジラという「決して分かり合ってはならない存在」に対して人間ができる最大の手向け=鎮魂であり、同時に『ゴジラ』という時代を今一度歴史に還す「儀式」のようでもある。  

本シリーズにおいて、ゴジラは決して「味方」として描かれてはいなかったし、自分自身もまだまだ思い入れの浅いシリーズ入門者――なのに、このシーンを初めて見た時は思わず涙ぐんでしまった。 

本シリーズを見ていてゴジラに愛着が湧いたから、あるいはこのシーンが荘厳で美しいから……というのは勿論あるかもしれないけれど、一番の理由はきっとそんな表面的なものではない。自分を涙させた何よりの要因はゴジラ・レクイエム」と呼ばれるこのシーンに込められた、あるいは「このシーンを作り出すまでに至った」製作陣やファンの方々の、『ゴジラ』という存在への計り知れない愛に当てられたからなのだと思う。

 

ゴジラVSデストロイア

ゴジラVSデストロイア

Amazon

 

確かに、本シリーズは何かと「詰めが甘い」作品群であり、良くも悪くもそれが持ち味となっていた。しかし、本作が見せた『 “ゴジラVS” シリーズ』としての完結ぶり、そして『ゴジラ』への愛の終着点は、その看板を背負うに相応しい、どこまでも「綺麗」なものだった。  

そして、そのゴールまで「繋げてみせた」製作陣の熱意も、各シリーズ作品で輝く魅力も間違いなく本物であったし、だからこそ自分はこのシリーズを好きになることができた。一個人の、それも入門者の感想でしかないけれど、せめてこの場でははっきりと言っておきたい。ゴジラVSシリーズは、変なだけでも、ファンの思い入れだけで成り立っているものでもなく、確かな魅力を持った “偉大なシリーズ” だ」と。

 

 

 

『VSシリーズ』が遺したもの


ゴジラは、蘇った。  

衝撃だった。ジュニアが新しいゴジラとして新生するとはどことなく聞き覚えがあったけど、あまりにガッツリ死んでしまうものだから「あぁ、何かの勘違いだったんだな」と思っていたし、ベビーゴジラもリトルゴジラも好きだったので、その死亡シーンでは心を深々と抉られた気分だった……という矢先にお出しされた圧倒的後光、威厳の咆哮、大胆にもこの「復活」で幕を閉じる潔い構成。全てが『ゴジラ』という存在への愛、そして「ゴジラは我々の想像に収まるような存在ではない」というある種の信仰がぎちぎちに詰め込まれた、文字通り「最高」のエンディングだった。

 

当時の人々にとって、きっとこれは「ゴジラは必ず蘇る」という布石と祈りに映ったのだろうけれど、令和の今、実際にゴジラは輝かしい「復活」を遂げている。 

『VSデストロイア』を最期に『VSシリーズ』は幕を閉じ、その後復活した『ミレニアムシリーズ』も (「巨大特撮」そのものへの逆風もあって) 程なくして途絶、『ゴジラ』そのものが長い眠りに就いてしまうこととなった。 

しかし、10年後の2014年には海外で、その2年後の2016年には日本で『ゴジラ』が復活。以来シリーズは様々な形で国内外問わず製作され続けており、来年には新たな国産実写映画も制作中……と、今やすっかり復活を遂げた『ゴジラ』シリーズ。更には実質的に『VSシリーズ』そのものの続編としか思えない短編作品『ゴジラVSガイガンレクス』が公開、ソフビ人形のヒットからも、その反響の大きさが伺えるところだ。  

 

加えて、前述の『ゴジラ総選挙 (2014年) 』では『VSビオランテ』が作品人気1位、『VSデストロイア』が3位に輝いた他、近年は『VSシリーズ』の大ファンを公言する田口清隆監督が『ウルトラマンギンガS』や『ウルトラマンZ』において、明らかにスペースゴジラやモゲラにしか見えない存在 (演出) をいくつも輩出して話題を呼ぶ……など、ゴジラというコンテンツは勿論、まるで『 “ゴジラVS” シリーズ』そのものも、この令和の世に見事な「復活」を遂げたかのよう。当時この作品に心を打たれた子どもたちが、艱難辛苦の数十年を経て咲かせた花。そんな花の気高さが特撮の歴史を変えるのは、もはやある種の必然だったのではないだろうか。

 

 

確かに「賛否両論」であり、その理由にも頷けるところがある本シリーズ。しかし、決して完璧ではない中にどこまでも熱いものを秘めた作品だったからこそ、今こうして再評価を始めとする「復活」を遂げてみせた。そうでなくとも、このシリーズが巨大特撮冬の時代を支えて「次代」に繋げてくれなければ、現在の特撮模様は今のそれとは根底から異なるものになっていただろう。  

そんな偉大なシリーズに今改めて出会えたこと、そして、それらの作品群が胸を張って「魅力的」だと言えるものであったこと。その喜びを噛み締めつつ、この機会を与えてくれた友人たちと、この『 “ゴジラVS” シリーズ』を創ってくれた方々に心から感謝したい。  

本当に、ありがとうございました……!