最終回感想『鎌倉殿の13人』 “ウルトラマン” で読み解く、政子の覚悟と義時への「報い」

つい先日の2022年12月18日。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が最終回を迎えた。 

予測不能かつ衝撃的な展開の数々や、人間の内包した光と闇に真正面から向き合うシビアなドラマは大きな反響を呼び、放送の度にTwitterのトレンドは『鎌倉殿』一色。そんな本作が迎えた最終回は、これまでの衝撃を軽く飛び越えていく程に壮絶なもの。 

義時の願い、義村との決着、そして何よりも視聴者を揺さぶったであろう「政子の覚悟」。賛否両論もありそうな彼女の決断が何を意味していたのか、『鎌倉殿の13人』とは、一体何を描いた物語だったのか――。実は、そんな本作の終幕を考えるにあたって良いサブテキストになる作品がある。それは、意外なことにあの『ウルトラマン』シリーズの一作。

 

『鎌倉殿の13人』の文芸を担った希代の名脚本家・三谷幸喜氏が「ファン」を公言するその『ウルトラマン』とは何なのか、それを踏まえた上で見る「あのラストシーン」は、我々に一帯何を訴えかけてくるのか。順を追って、それらの委細を振り返っていきたい。

 

《目次》

 

 

『鎌倉殿の13人』とその最終回

『鎌倉殿の13人』とは、2022年1月9日~12月18日の放送を持って完結を迎えた、NHK大河ドラマの第61作。 

平安時代末期から鎌倉時代前期を舞台に、鎌倉幕府の誕生やその隆盛に至る物語が鎌倉幕府の2代目執権=北条義時 (演.小栗旬) の視点から描かれる作品で、「ユーモラスなホームドラマ」と「残酷で冷たい粛清劇」、両方の側面を併せ持つ強烈な作風が大きな波紋を呼んでいた。 

そうした作風に加え、毎話のように衝撃的な展開が連発されることもあってTwitterトレンドを席巻していた『鎌倉殿の13人』だが、先日の最終回ではその「衝撃的な展開」の最たるものが畳み掛け、ここまで付いてきた視聴者をも次々と絶句させてみせた。 

 

まず驚きだったのは、義時最後の大戦である承久の乱」が開始20分という「僅か1/3の尺で終わってしまった」こと。 

確かに、これまでも『鎌倉殿』では戦そのものの描写はさほど重視されていなかったが、その後、義時を死に追いやる刺客としてのえ (演.菊地凛子) 、そして三浦義村 (演.山本耕史) が立ちはだかった時には「だからか」と納得してしまった。後鳥羽上皇 (演.尾上松也) はあくまで「鎌倉幕府執権」としての義時の最後の敵でしかなく、「小四郎が最後に対峙すべき相手」は平六こと義村だったのだ。

 

 

義時VS義村、あるいは小四郎VS平六


無二の友でありながら、根本的な人間性が致命的にすれ違っていた義時と義村。2人が「いつの日か正面からぶつかる時が来る」ことは十分に予想されていたことだけど、それが義時にとっての「最期の勝負」になったことには、脚本家・三谷幸喜氏の「史実と創作をミックスさせる手腕」と、本作をあくまで「小四郎」の物語として貫こうとする信念が感じられる。 

のえに毒を提供するという間接的な形ながら、義時の殺害に王手をかけた義村。彼にとってはようやく「義時に一杯食わせられた」と言えた訳だが、義村もよもや「のえが毒を盛ったことを自白する」とは思っていなかったのだろう、「お前がのえに毒を渡したことは分かっている」と暗に突き付けられた際は、その表情に隠せない驚きが滲み出ていた。 

結果、義村は義時の策にまんまと騙され、自分の気持ちを洗いざらい吐露。「なぜここまで差がついたのか」という憤りを口にしてしまう――が、確かに、何が義時と義村にここまで「差」をつけてしまったのだろうか。それはある意味、2人の最終回のやり取り……とりわけこの一言に現れていたと言える。  

「泰時を支えてやってくれ」

最後まで「義時と自分」ばかり見ていた義村。しかし義時はそんな義村に「未来」を託した。 

最終回では義村が「ジジイ」と罵られる一幕が笑いを誘っていたが、これは決して単なるコメディシーンではなく「彼らもまた、所詮は過去の人間になった」ということを示唆しているように思う。そのことを悟り、全ての業を背負って未来を輝かせようとする義時に対し、義時と自分という「現在」を引きずり続けた義村。悲しいかな、義村は義時という存在に執着するあまり、他ならぬ義時に置き去りにされてしまっていたのだ。

 

しかし、義時はそんな義村に義時を託した。かつて「小四郎、お前は常にそばにいて頼家を支えてやってくれ。政子も、これからは鎌倉殿の母として頼家を見守ってやってほしい」と頼朝が息子を託したように。義時は、義村が「裏切り者である以上に、一途で純粋=信頼に足る男である」ということを (執着されていた本人だからこそ) 誰よりも分かっていたのだろう。 

義時は義村に殺されることが決定付けられ、義村もまた、義時の罠で「一度死んだ」。お互いがお互いを殺した (お互いに “勝った” ) と言える状況に至ったからこそ、この瞬間だけ「あの頃」に戻れた2人。ここで義村が口にした「三浦は北条を支える」という言葉は、今度こそ心からの言葉だったと、そう願いたい。

 

 


政子と義時と “ウルトラマン


こうして、宿命のライバル=義村との物語に美しい終止符を見せた義時。そんな彼との語らいの中で、北条政子 (演.小池栄子) は義時が「更に罪を重ねようとしている」こと=「泰時の名を輝かせる為に、命の限り全ての業を自身が背負おうとしている」ことを知り――義時の薬を、自らの手で捨ててしまう。 

そう、10月に放送された特番「『鎌倉殿の13人』応援感謝! ウラ話トークSP 〜そしてクライマックスへ〜」でもキャストや三谷幸喜氏が語っていた「衝撃のラスト」とは『もう一人の主人公である政子が、義時に引導を渡す』というもの。「家族愛」を軸にしてきた物語は、なんと「家族殺し」でその幕を引くことになったのである。

 

この壮絶な結末は、一体何を意味しているのか。実は、それを考えるにあたってのサブテキストとなるのが、冒頭に述べた『ウルトラマン』シリーズの一作。脚本家・三谷幸喜氏が「ファン」を公言している作品、『ウルトラマンジード』である。 

 

ウルトラマンジード』は、2017年に放送されたウルトラマンシリーズのTV作品で、シリーズ構成を作家の乙一 (脚本家としての名義は “安達寛高” ) が務めたことが話題となった作品だ。 

ウルトラマンジードに変身する主人公=朝倉リクを演じるのは、三谷幸喜作品ではすっかりお馴染みとなっている濱田龍臣氏。更に、もう一人の仲間であるウルトラマンゼロに変身するサラリーマン=伊賀栗レイトも、濱田氏と並んで『記憶にございません』に出演した小澤雄太が演じている。 

更に、問題の『鎌倉殿の13人』でも、『ジード』のメインヒロイン=鳥羽ライハを演じた山本千尋氏が「善児に育てられた暗殺者」であるトウを演じている……など、これらのキャスティングを見るだけで、三谷氏が『ジード』のファンであることは疑いようもないだろう。 

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さて、三谷幸喜氏と『ウルトラマンジード』の縁については説明が終わったが、問題はそれよりも『鎌倉殿の13人』のラストとこの『ジード』がどう関係しているのかということ。そのためにも、まずはこの作品について簡単に説明したい。

 

 

ウルトラマンジード』のメインキャラクターから今回ピックアップしたいのは、とある2人のウルトラマン

 

悪に堕ちたウルトラマンであり、本作のラスボスと言える存在「ウルトラマンベリアル (CV.小野友樹) 」。

 

そんなウルトラマンベリアルの「息子」と呼ばれるが、その正体はなんと「ベリアルによって作り出された実験用のホムンクルス」だった……という衝撃的な過去を持つ主人公=ウルトラマンジード。 

このジードが、悪のウルトラマン=ベリアルの遺伝子を継ぐ己のアイデンティティーに悩みつつも、仲間たちとの友情を糧に運命に抗っていく……というのが本作の大まかなストーリー。そう、言ってしまえばこの『ウルトラマンジード』もまた「家族殺し」の物語なのである。

 

では、そんな本作がどう『鎌倉殿の13人』に繋がるのか……という話なのだけれど、問題は最終話『GEEDの証』における、ジード-ベリアル親子の「決着」の描かれ方だ。

 

GEEDの証 感動(M-2a)

GEEDの証 感動(M-2a)

  • provided courtesy of iTunes

 

最終決戦の最中、ジード=リクが知ったベリアルの正体。それは心の闇を利用されて悪に堕ち、ウルトラ戦士に倒される度にその怨みを糧に蘇り、いつしかウルトラマンとしての誇りも、悪の道を行く中で見付けた「守るべきもの」も、全てを残らず喪ってしまった哀しき男だった。 

確かに、ベリアルにとってリクは実験用のホムンクルス=単なる道具に過ぎなかった。しかし、それでもジードは彼にとって唯一の「家族」と呼べる存在。リクがベリアルに抱いていた仄かな感情=親子の情を、ベリアルもまた「父」としてリクに抱いていたのである。 

しかし、それでもリクは人々を守る為に戦うウルトラマン。ベリアルの中に何が生まれていたとしても、彼のこれまでの蛮行を許すことはできないし、ベリアル自身もまた「戻れないところ」まで来ていた。そんな父=ベリアルの胸中を知った息子=リクにできることは何なのか。彼は、自らの拳を解いてベリアルを抱き締める。

 

「何度も何度もあなたは生き返り、深い恨みを抱いて……。疲れたよね。もう、終わりにしよう……!」

 

その言葉に、その心の呪縛を解かれるも「分かったようなことを言うな……!」と叫ぶベリアル。そんなベリアルに、ジードは「さよなら、父さん」とトドメを刺す――。ジード=リクは、ベリアルをただ倒すのではなく、その在り方を「赦す」ことで彼の心を救ってみせたのである。 

それは、客観的に見れば「ウルトラマンが巨悪を倒した」というだけかもしれない。しかし、リクはウルトラマンであると同時にベリアルの「家族」であり、その罪を共に背負うことができる唯一の存在でもある。そんなリクからの赦しは、誰にも救えなかったベリアルの心を救える唯一のものであったし、彼が「息子」としてベリアルにトドメを刺したのも「悪行を重ね続けたことで、もう引き返せない」彼を救う、ある種の儀式のようにも思える。ただ殺すのではなく、愛と赦し、そして「共に罪を背負う覚悟」を持って命を断つことで、その魂を呪いから解放する……。それは決して単なる「家族殺し」ではなく、「家族愛」があって初めて成し得る「介錯」とでも呼ぶべきものだったのだ。

 

……と、ここまで書けばもうお分かりだろうか。 

そう、『鎌倉殿の13人』ラストで行われたことも、ジードがベリアルに行ったものと同じ「愛による介錯」だったように思えてならないのだ。

 


政子の「愛」、義時への「報い」

 

「私にはまだやらねばならぬことがある。隠岐上皇様の血を引く帝が返り咲こうとしている……。何とかしなくては……!」
「まだ手を汚すつもりですか……!?」
「この世の怒りと呪いを全て抱えて、私は地獄へ持っていく。太郎のためです、私の名が汚れる分だけ “北条泰時” の名が輝く」

 

「13人」に代表される多くの犠牲と引き換えに、遂に平和な鎌倉を目前に控えた義時。しかし、彼は尚も止まらず、自分の命が続く限り罪を背負おうと――自らの汚れと引き換えに、泰時の名を輝かせようとしていた。 

「自分がどれほど傷付いても、汚れても構わない」そんな悲痛な生き方でしか正義を示せなくなった義時に対し、政子は彼の命を繋ぐ薬を捨ててみせる。これまで「家族」という繋がりに執着し、家族を手にかけることを頑なに拒んできた政子が自ら、実質的に弟・義時を手にかけたのだ。……しかし、これも「単なる家族殺し」ではない。 

まるで彼自身の晩年そのもののように、汚く、醜く、けれども精一杯に地を這う義時。そんな彼に、政子は優しく声をかける。

 

「太郎は賢い子。頼家様やあなたができなかったことを、あの子が成し遂げてくれます。……北条泰時を信じましょう。賢い八重さんの息子を」
「確かに……あれを見ていると、八重を、思い出すことが……」
「でもね、もっと似ている人がいます。あなたよ」

 

「頼家を殺した」という事実を知らされて尚、義時を「赦す」政子。義時の善行も非道も、その全てを側で見守っていた家族として、彼に修羅の道を歩ませてしまったことへの贖罪のように、政子は心からの言葉で彼を労り続ける。

 

「ご苦労さまでした……小四郎」

 

その言葉を、もし昨日までの政子が言っていたら「他人事」のような言葉だったかもしれない。自分はその手を汚すことなく、弟に血を流させ続けた、ある種史実通りの「悪女」の言葉となってしまったかもしれない。 

しかし、政子は最後の最後に己の手を汚した。それにより、政子は鎌倉で唯一、真の意味で「義時と同じ場所」に立つことができたし、だからこそ、彼女の言葉はこれまでと全く違う響きを持っていた。義時が味わっていた苦痛をその身で感じながら、義時に罪を背負わせ続けた自分の弱さを恥じながら、それでも、義時を「解放」するために、最後まで「姉」であり続けた――。

 

「姉上……」

 

そんな政子の誠実な思いを、義時はどう受け取ったのだろうか。 

自分の「もっと生きたい」という願いを踏みにじったと怒っただろうか。なぜそんなことをするのか、と困惑しただろうか。 

……きっと、そのどちらでもないと思う。なぜなら、この政子の行動=自分の罪を知った上で、それを赦してくれるという彼女の想いは、執権となって以降の義時にはついぞ与えられることのなかったもの。義時は最後の最後に、自分の非道な行いを理解し、その痛みを知り、その上で自分という存在を受け入れてくれる――かつての八重や比奈のような――「愛」に出会うことができたのだ。


それは、きっと義時が平和な世界のために走り続けたことへの「報い」。最終回のサブタイトル『報いの時』が意味するのは、義時の悪行に対する報い=「毒殺」という断罪だけではなかった。だからこそ、義時自身もきっと「報われた」と感じながら旅立ったのだと、一年間その足跡を追い続けた視聴者として、そう願わずにはいられない。

 


おわりに~2つの「家族愛」が描かれた意義


ウルトラマンジード』における、ジー (リク) とベリアル。『鎌倉殿の13人』における、政子と義時。両者の因果関係――三谷幸喜氏の中でどこまでこの両者が紐付いているのか――は不明だが、2017年と2022年の二度に渡ってこれらの展開が描かれたことには、大きな意義があるように思う。 

2010年代におけるLINEやTwitterというSNSの進出は我々現代人のコミュニケーションを大きく進歩させたが、それは同時に「相互監視社会」をあっという間に作り出してしまった。匿名のはずの相互コミュニケーションが開かれ、あるいは記録されやすくなったからこそ「良く振る舞おう」「良く見せよう」……といった「体裁の良いコミュニケーション」が従来よりも強く求められるようになっている。 

その結果は良し悪しあるが、一つ言えるのは「相手のためを思うコミュニケーション」の範囲が大きく狭まったこと。相手のために何をするのが「愛」と言えるのか、周囲の目を気にするばかりで、自分の手を汚さず、ただ遠くから聞こえの良い言葉を宣うことが、果たして愛情と言えるのか――。とりわけ、それが家族という特別な関係であるならば。 

(当然だけれど、DVのような行為を正当化する気は毛頭ありません)

 

昨今は許容される表現が狭まる一方なため、本文で挙げたような「家族殺し」は、現代を舞台にしたドラマではもう描けないのかもしれない。しかし、『ジード』は勧善懲悪のヒーロードラマ、『鎌倉殿の13人』は、あくまで歴史の1ページという大河ドラマだからこそ、そういった壁を乗り越えて「愛情」というものの意味を問いかける鋭いドラマを描いてみせた。 

そんな『ジード』に当時震えたファンとしては、それから5年、一層表現の幅が狭まっているこの令和の世に大河ドラマという大規模な作品で今一度このテーマが描かれたことが嬉しく思えたし、それは大きな病魔が人々の在り方を変えてしまいつつある今だからこそ、殊更に大きな意義のあることだと感じたのだ。


この2つの家族を合わせて考えることを述べてきたのは、決して「三谷幸喜は『ジード』が好きだから、その展開をパクったんだ!」と言いたい訳ではない。言いたいことは1つだけ。 

(それが意図的でもそうでなくとも)ジード』で描かれた大切なメッセージを再び、より大きな規模で発信してくださり……そして何より『鎌倉殿の13人』という素晴らしいドラマを創り上げてくださり、本当に、本当にありがとうございました……!