感想『デジモンアドベンチャー 02 THE BEGINNING』- 絆の在り方を “20年前の子どもたち” に問いかける、残酷で誠実な『02』正統続編

「映画観賞後の感想」と一口に言っても様々なタイプがあるけれど、希に「面白かった~!」や「合わなかったなぁ」のような、単純なプラスマイナスで測れない作品に出会うことがある。自分にとって『デジモンアドベンチャー 02 THE BEGINNING』とはそういう作品であり、「ここが良かった / ここが合わなかった」以前に「何か得体の知れないもの」に胸を深々と貫かれてしまっていて、結果こうしてまんまと長文を書いてしまっている。  

平成生まれのデジモンシリーズ世代で、シリーズ中でも特に『02』と『テイマーズ』がお気に入りの自分から見た本作の魅力や惜しい点、そして問題の「深々と刺さってしまった」ポイントを、前置きもそこそこに早速振り返っていきたい。

 

※以下、映画『デジモンアドベンチャー02 THE BEGINNING』のネタバレが含まれます、ご注意ください※

 


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引用:https://twitter.com/DM_Partners/status/1685553311393394688?t=JkiP7dFOhjl9p8kXNYMJ2Q&s=19

 

《目次》

 

 

『THE BEGINNING』の見所

 

映画『デジモンアドベンチャー02 THE BEGINNING (以下、『THE BEGINNING』) 』は、2023年10月27日に公開されたデジモンシリーズの劇場用作品。テレビシリーズ第2作『デジモンアドベンチャー02』の約10年後=2012年を舞台に、本宮大輔ら「02」チームと「初めての “選ばれし子ども” 」を名乗る謎の青年=大和田ルイの交流・戦いが描かれる。 

デジモンアドベンチャー』の続編を映画で、という文言を聞くと、未だに『デジモンアドベンチャー tri.』の傷が疼いてしまうけれど、その後製作された『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』は「02」組の出演や各キャラクターの描写・演出など随所にシリーズへの愛が感じられる作品になっており、その製作陣がほぼ続投となった『THE BEGINNING』も同様に「シリーズ愛溢れる演出」が第一の見所。中でも筆頭として挙げられるのが「楽曲」の扱いだ。 

 

本作を見てまず驚かされたのがこのOP。本作の為に『ターゲット~赤い衝撃~』のリメイク=『ターゲット~赤い衝撃~ -THE BEGINNING Ver.- 』が製作されたことは予め知っていたので、このOPシーンで「あれ、原曲!?」と耳を疑ってしまったのだけれど、それは「本作はあくまであの『デジモンアドベンチャー02』の延長であると示す、原典に捧げられたリスペクト」なのだろうと思うし、更にはここで原曲が使われたおかげで、作中終盤のパイルドラモン→インペリアルドラモンの究極進化シーンにおける『ターゲット~赤い衝撃~ -THE BEGINNING Ver.- 』初披露のカタルシスが百倍増しに跳ね上がるという副次効果も生まれていた。  

……と、さも当たり前のように受け入れているけれど、インペリアルドラモンの進化シーンには『ターゲット~赤い衝撃~』、ジョグレス進化には『Beat Hit!』、通常の進化には『brave heart』と、進化方法に合わせて歌が変わるという『02』の肝をしっかりと押さえてくれているのはそれだけで5000億点の偉すぎポイント。それだけに、アーマー進化 (デジメンタルアップ) 時のBGMである『Break up!』が使われなかったのがあまりに惜しい……!

 

(『Butter-Fly』などに比べるとやや大人しい雰囲気だった『ターゲット~赤い衝撃~』は激しくアッパーな曲に大幅アレンジ。『tri.』では悲惨かつよく分からない扱いだったインペリアルドラモンのリベンジを華々しく飾ってくれていた)


そして、挿入歌といえば避けては通れない「進化バンク」も本作はパーフェクト。 

 

ブイモン→エクスブイモンのような成熟期への進化バンクは全員分用意されているし、インペリアルドラモンはやっぱり進化するなりその辺を爆撃するし、ファイターモードへの変形バンクも用意されている……というだけでも素晴らしいのに、アニメ史に燦然と輝く最高究極の「引き」(筆者調べ) として名高い第26話『ジョグレス進化 今、心をひとつに』で初披露され、全国の少年少女の心を鷲掴みにした名バンク=パイルドラモンへの進化に至っては、なんとその音ハメに至るまで完全再現されているだけでなく、シルフィーモンやシャッコウモンに合わせて終始CGでなく作画で描き起こされているという驚異のこだわりぶり。この時点で、本作に満ちた原典への愛が十二分に伝わってしまうのではないだろうか。

 

 

他にも、大輔たちの「02組らしい明るいやり取り」がたくさん見れたり、彼らのキャスティングが非常に「その後の大輔らしい」ものだったり、ウォレスたち他の「選ばれし子どもたち」がゲスト出演していたり、『ディアボロモンの逆襲』からオメガモンVSアーマゲモンのシーンが重要な役割をもって引用されていたり……と細かな点も抜かりなく、一見して全く隙がなさそうな『THE BEGINNING』。 

しかし、実は自分に最も「刺さった」点はこれらではなく、本作のオリジナルキャラクター=大和田ルイとウッコモンが紡いだストーリー。そして、その「ストーリー」こそが本作最大の賛否両論点になっているようにも思う。


 

賛否両論点? - ルイ&ウッコモンの衝撃

 

前述のように、非常に隙のなさそうな『THE BEGINNING』だけれど、その実前述の「アーマー進化が使われない」問題の他、「戦闘シーンが少ない」「 (前作でもメイン格だったタケルとヒカリはともかく) 京と伊織の影がやや薄い」など、全体的に尺不足が目立つ側面もあった。 

そして、おそらくその原因は、本作の鍵となる「最初の選ばれし子ども」=大和田ルイと、そのパートナーであるウッコモンに尺が割かれすぎてしまったことだろう。

 

 

父親が昏睡状態に陥ったことで追い詰められ、ルイに虐待まがいのことを繰り返す母親。そんなルイの孤独な声に応えるように現れたのが、彼のパートナー=ウッコモン。 

それからというもの、父親は蘇り母親は人が変わったように優しくなり、友達は増え、事故に遭うことも傷付くこともなくなり――と、一転して順風満帆な人生に恵まれたルイ。しかし、「アーマゲモンと戦うオメガモン」の姿を目にしたことをきっかけに、2人の関係性に潜んでいた「歪み」が表出。ウッコモンが両親を人形のように操る姿が決定打となり、ルイはウッコモンと自分を繋ぐデジヴァイスの破壊を決断する――。 

 

そうそう、デジモンアドベンチャー02といえばダゴモンとか劇場版みたいな仄暗ホラー展開だよな…………って、そこを拾うとは思わないじゃん!?!?  

確かにこの辺りは『02』でも印象深いエピソードだし自分も大好きだけど、それを『02』らしさとしてピックアップするのは、こう……『帰ってきたウルトラマン』を『怪獣使いと少年』だけで語るようなものでは……。などという面倒なオタク問答を脳内でぐるぐるさせつつも、それはそれとしてルイの「明らかに破滅が待っている幸せな日常」の丁寧で緻密なホラー演出には目を見張るものがあったし、それが「ウッコモンが目玉を与える」ことで爆発する辺りはもうスクリーンから顔を背けたい気持ちで一杯だった。 

自分の許容範囲を越えたスプラッターが、それもデジモンで展開されるのは流石に耐えられない――と思いきや、なんと事が起こる寸前、ルイの罵声と絶縁宣言を受けるや否や溶け出し、涙を浮かべたまま消滅するウッコモン。彼のこれまでの行動は、ルイを喜ばせたいという純粋な善意から来たものだったのだ。

 

(それを狙っての演出だったとはいえ) そのことにルイ共々全く気付けなかったことが本当にショックだったし、人間の倫理観を知らなかったばかりに悲劇を引き起こしてしまったウッコモンと「ズレ」に気付いた頃には全てが手遅れだったルイ……という、ひたすらに「不幸だった」としか言いようのない地獄絵図を前に、それまで感じていたツッコミどころや違和感は頭から吹き飛んでしまった。一体、この物語にどう収拾をつけるというのだろうか。 

定石はルイからの「ごめんなさい」なのだろうけれど、この経緯で「ルイが悪い」などと言えるハズもないし、かといって、ウッコモンを倒してもルイの問題は何も解決しない。彼の背負った「行き詰まり」としか言いようのない絶望に対して、自分も京たち同様解決策が思い付かず途方に暮れてしまったし、だからこそ、そこで切り出された問いかけが――正直、それまでのホラーシーンよりもずっと――衝撃的だった。「ルイは、ウッコモンが好きなものを知っているのか」と。

 

 

「刺さった」理由 - 時を越える『02』からのメッセージ

 

デジモンアドベンチャー02』の放送は23年前。おおよそ30才前後になっている「当時の子どもたち」の中には、現代社会におけるコミュニケーションの難しさに疲れ果て、ルイのように「永遠の友情なんてありえない」と感じている=かつて『デジモン』の世界に見た輝かしい友情を空想の産物だと割り切り、諦めている人も多いのではないだろうか。少なくとも、自分は「そう」感じてしまっている側の人間だ。 

個人的な話になってしまうけれど、自分は「信用していた相手から、いつの間にか嫌われていた」という経験がとても多く、厄介なことに「全く心当たりがない」ケースも少なくない。 

人とにこやかに接する。変に自分を隠さず、殻を作らないようにする……と対策は打ってきたものの状況は変わらず、最近はもう「人って分からない」というある種の達観に入りつつある。だから、自分は大輔たちの見せる固い絆を「フィクション」と割り切って楽しんでいるし、一方ではウッコモンとの致命的な断絶を経て「永遠の友情なんてありえない」という結論に辿り着いたルイには心底感情移入してしまった。「うんうん、人のことなんて分かりっこないし、永遠の友情なんて絵空事だよね」と。 

……そう思っていたからこそ、ルイに投げかけられた「ウッコモンが好きなものを知ってるのか」という問いかけには、まるで胸の底を深々と抉られるような衝撃があった。

 

 

ルイの幸せを望むウッコモンと、そんなウッコモンを信頼していたルイ。2人の間には確かに友情があったのかもしれないけれど、ルイはウッコモンに与えられるばかりで、ウッコモンへ「手を伸ばす」ことをしなかった。ウッコモンがルイの両親たちを「物」としか認識していなかったように、ルイもまた、ウッコモンのことを知らず知らずのうちに「物」として見てしまっており、だからこそ彼のことを知ろうとしなかった=無二の親友であるはずのウッコモンの「好きなもの」さえ知らなかったのだろうし、遅かれ早かれ、2人の歪んだ関係性が破綻するのは避けられないことだったのだろう。  

そして、そんなルイの致命的な「見落とし」は、自分にとっても他人事ではなかった。 

前述の通り、自分は「人のことなんて分かりっこないし、永遠の友情なんて絵空事」などと思っていた。実際問題、人の気持ちを全て「分かる」ことは物理的に不可能だ。けれど「分からない」ことと「分かろうとしない」ことは全くの別物。そのことは、ルイのことを「分かろうとした」ウッコモンと、彼のことを「分かろうとさえしなかった」ルイの姿を見れば明らかだろう。相手の気持ちが分からなくても、手を繋げば友情を感じられる。けれど、相手の気持ちを「分かろうとさえしない」=手を差し出さない者に、友情を感じることなどできるはずがないのだ。  

けれど、それが日常でなかった者にとって、「手を差し出す」ことは恐怖そのもの。 

差し出した手を払われるかもしれない、その手が相手を傷付けるかもしれない。ならばいっそ、そんなことをせずにじっとしているのが一番なのではないか――。そんな臆病な考えに「NO」を突き付けてくれたのが、他ならぬ本作の主人公=本宮大輔だった。

 

 

ウッコモンとの断絶、自らの言葉でウッコモンを死に追いやってしまったトラウマ、そしてそれらの象徴であるウッコモンの右目を抱え、おそらくこれまでずっと一人きりで過ごしてきたであろうルイ。 

そんな彼に比べると、ブイモンというパートナーを持ち、賢ら仲間たちと固い絆で結ばれている大輔は、一見すると全くの「対極」に位置する存在のように思える――が、大輔が持っている仲間たちとの絆は、何も最初から「最初から “在った” 」訳ではない。仲間たちと何度もぶつかり、その中で「育まれてきた」ものなのだ。

 

 

確かに、「手を差し出す」ことは恐ろしい。差し出した手を払われるかもしれないし、その手が相手を傷付けるかもしれない。そんなことをせずじっとしていれば、誰も傷付かずに済む。
けれど、大輔はそんな「かもしれない」を考えるより早く「何をしたいか」「何をすべきか」を真っ直ぐ考え、どんな困難を前にしても猪突猛進で駆け抜けてきた。 

それは見方によっては「考えなし」であり、事実、彼は『デジモンアドベンチャー02』作中において元々敵であった賢のみならず、ブイモンやタケルら仲間たちとさえ度々衝突してきた。しかし、大輔は何度を手を払われても、時に仲間たちとぶつかってしまったとしても、それでもがむしゃらに前へと進み続け――その結果として、彼は傷付き、傷付けた以上にたくさんのものを救ってみせた。当初は敵であったデジモンカイザー=賢との和解はその最たるものと言えるだろう。

 

 

確かに「じっとしてさえいれば、誰も傷付かない」というのは正論だ。差し出した手を払われて傷付くことも、その手で誰かを傷付けることもない。けれど、その生き方では何かを「得る」ことも叶わない。  

一方、何度も手を払われ、何度も誰かとぶつかってきた大輔は今、そんな彼を受け入れてくれる親友たちに囲まれている。危険を伴ってでも、進み続けることで初めて手に入るものがある――と、そんな「冒険」が形を得たかのような存在が本宮大輔であり、彼の無鉄砲さを咎めつつも、彼の側から離れない仲間たちの存在こそが「手を伸ばす」ことの価値を体現しているように思う。 

思えば、前半はデジモンカイザー、後半はブラックウォーグレイモンや及川を通して「葛藤」と「分かり合い」の物語が描かれ続けていた『デジモンアドベンチャー02』。「何度挫けても、時に誰かとぶつかってしまったとしても、勇気と友情を忘れずに進み続ければ、それ以上の “大切なもの” を手に入れることができる」ことを示してきた大輔の歩みは、そんな『02』が描いてきたメッセージそのもの。その大輔が「子ども時代の傷を抱え、ひとりぼっちでルイを救う」という本作の物語は、まさに『02』の再演にして、今尚苦しむ「かつての子どもたち」に時を越えて差し出された “手” なのではないだろうか。

 

Beat Hit!-THE BEGINNING New Vocal Arrange Ver.-

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選ばれること、友達であるということ

 

自身の過ちを悟ったルイは、約10年の時を経てウッコモンと再会。彼とお互いの「本当の気持ち」をぶつけ合い、悪態をつきながらも「嫌いばっかりだね」と笑い合うことができた。 

一歩を踏み出すのは怖いけれど、踏み出してみれば「なんてことはない」もの。真摯な想いがあれば、たとえ衝突してしまったとしても友情はそう簡単に壊れないし、むしろその衝突=「本当の気持ちのぶつけ合い」こそが、互いをより深く「知る」ことに繋がる――。そんな希望を示す2人の「報われる」様は我が事のように嬉しかったのだけれど、そのままハッピーエンドとなるには、ウッコモンが犯してしまった罪は重すぎた。 

その罪を償うべく「 (ビッグウッコモンに変貌し、暴走状態にある) 自分を倒してほしい」と願うウッコモン。ウッコモンが「ルイの望まないこと」を頼み、ルイが「ウッコモンの願い」を受け入れる。それは2人が本当に繋がった証であり、贖罪でもあり、そして「真のパートナー」としての第一歩でもある。  

彼らの勇気ある決断を受け取り、大輔たちはビッグウッコモンを撃破。結果、ウッコモンが生み出した「パートナーシステム」=デジヴァイスはこの世界から消滅してしまうが、「選ばれた」からではなく「自分の意志で」一緒にいる彼らにとって、既にデジヴァイスは必要のないものだった――。 

名実ともに「 “選ばれし子どもたち” という運命からの卒業」と呼べるグランドフィナーレ。その美しさを前にして、自分は現実における「パートナーシップ」あるいは「友人関係」の在り方について考えを巡らせずにはいられなかった。

 

Various Colors

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  • AiM
  • アニメ
  • ¥255

 

人と人とが、お互いを「友人」として認識するハードルはとても低い。波長が合う、趣味が合う、住む場所が近い……。たったそれだけの理由で、私たちはお互いを友人として「選んで」いる。 

しかし、選ばれし子どもとデジモンたちが、単に「デジヴァイスで結ばれている」だけでは真のパートナーと成り得なかったように、私たちも「お互いを友人と認識している」だけでは、いつかそこにある繋がりは風化し、消え去ってしまう。友情とは、友人同士の間に最初から在るものではなく「お互いの手で “育てて” いくべきもの」であり、もし私たちがかつてのルイのように「友達が欲しい」と願うなら、勇気と思いやりを持って、自らの意志で手を伸ばし続けなければならないのだ。  

確かに『THE BEGINNING』には前述の通り思うところもあるし、設定の整合性など専門的な部分は自分には分からない。けれど、残酷な現実と友情の儚さに疲れきった「かつての子どもたち」に対し、時を越えて「永遠の友情は空想の産物なんかじゃない」というメッセージを力強く贈ってくれる本作は、間違いなくあの日見た『デジモンアドベンチャー02』を受け継ぐもの。だからこそ、この作品は自分にどうしようもなく「刺さって」しまったのだと思う。  

デジモンアドベンチャー02』放送当時はちびっこだった自分も、今や成人を通り越して久しい成人男性。けれど、同じように「あの日の子ども」だった大輔は20年を経て尚変わらない輝きを見せてくれたし、止まった時の中で苦しんでいたルイもまた、勇気と共に一歩を踏み出してみせた。もしまだ手遅れでないのなら、自分も彼らの生き様に恥じないよう「人とのコミュニケーション」という未知への冒険に飛び込んでてみたい。