【感想 ダンガンロンパ3】裁判そっちのけで戦う異色作は最高の『完結編』だった


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2020年某日。『ダンガンロンパ1・2 Reload』をクリアしてから2週間。冷めやらぬ熱をブログの記事にしたためていた所に、突如とんでもない報せが舞い込んだ。



スーパーダンガンロンパ2』の続編にあたるTVアニメ作品ダンガンロンパ3 -The End of 希望ヶ峰学園-』がYouTubeにて期間限定で無料配信???????? 僕はなんて幸運なんだろう……!(緒方恵美

 

そんな訳で早速『ダンガンロンパ3』を視聴・完走したところ見事発狂。発狂したら(約1年越しだけど)日記を残すのはホラーゲームでは常識……ということで。  

以下はしがないオタクのコロシアイ生活視聴記、『ダンガンロンパ3 -The End of 希望ヶ峰学園- (以下“3”と記載)』編になります。ネタバレ注意!

 

※『ダンガンロンパ』シリーズの過去記事はこちらから!

kogalent.hatenablog.comkogalent.hatenablog.com

 


ダンガンロンパ3 -The End of 希望ヶ峰学園-f:id:kogalent:20210728175622j:image

『3』はPSP用ゲームソフトであった『無印』『2』と異なりTVアニメとして製作された作品。主要スタッフはほぼ『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation(以下“無印アニメ”)』のメンバーという安定の布陣だ。

特筆すべきはその番組構成で、苗木たち希望ヶ峰学園卒業生の生き残りが所属する「未来機関」で行われる新たなコロシアイゲームが舞台となる『未来編』と、狛枝たち77期生が絶望に堕ちるまでを描いた『絶望編』の2編が同時に放送され、最終的に『希望編』という真の最終回で全てが結実する、というものになっている。

(YouTube配信は各編の1~6話を「前編」、7話~最終回を「後編」とまとめて行われていた。一挙放送という都合やBlu-ray販促の為だろうか)

 

『2』をアニメ化せずに、その続編であり前日譚でもある『3』を製作した理由については諸説あるが、有力なのは『2』の「プログラム(ゲーム)内世界での物語」という事実が肝となるシナリオ構成、そしてもう一つは「彼」の存在と考えられる。  
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これはアウトですね、間違いない……。

(冗談みたいな話だが、著作権上の問題からか『3』では彼の名前が“封印されし田中”になっている。なんだその美味しすぎる処遇……?)


そんな特殊な背景で描かれる『3』は総計2クールに膨大な情報量が詰め込まれた作品で、その全てに言及していくとキリがない。なので、ここでは特に『2』の先の物語にあたる『未来編』、中でも、我らがシリーズ主人公「苗木誠」が紡いだ物語にスポットを当ててみたい。

 

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『未来編』は、『無印』のコロシアイ学園生活と『2』の江ノ島アルターエゴ事件を経た苗木が主人公となっており、物語はまさにその直後、日向たちをジャバウォック島に残してきたことを糾弾される場面から幕を開ける。つまり話としては『無印』『2』と地続きなのだが、その雰囲気は前2作と全くの別物だ。 

 

その大きな要因は、主題歌とその映像からも分かる通り、前2作に共通していた『ダンガンロンパ』のアイデンティティーである「サイコポップな世界観」が廃され、より陰鬱とした世界観になっていることだろう。  

ダンガンロンパ』らしいデザインのキャラクターたちが、正体不明の襲撃者によって次々と「赤い血」を流し死んでいく様は、さながらサスペンスホラーのような恐怖に満ちていた。 

筆者はグロテスク描写への耐性もホラーへの耐性もない(とある小説の、手首を切り落とす描写で貧血を起こすレベル)ので、凄惨な死に様もそのサイコポップさのおかげで見れていた、というのが正直なところ。 

それがなくなった以上、残る心の支えは推しの存在。オタクは推しがいればどんなことにも耐えられる強靭な生命体……! 幸い、この『3』には見た目も中身もドツボなキャラクターがおりまして。  

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その名も雪染ちさ。

ポニテ……ビジュアル……少し天然の入ったお人よし……未来機関の良識(癒し)担当お姉さん
……CV.中原麻衣……ご、500000000000000000兆点……ッ!!!!!!!!!!!    

彼女は『未来編』『絶望編』の両方に登場するキーマンで、後者ではなんと新キャラながら主人公を務めるのだという。はい神アニメ。

 

『無印』からお馴染みの朝日奈もなんと『3』で本格的なポニテデビューを果たしていたのだけれど、なんとなく死にそうな予感がしていたので目を逸らし、『絶望編』の主人公なのでまあ死なないだろうと思っていた彼女を(予防線は張りつつ)応援する腹づもりでいざ視聴開始。 

  

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1話で退場…………………………………?????????????????????????????????

 

分かってはいたんですよ。ダンガンロンパで推しに出会ったら終わりだと。でもよりによって(もう1つのシナリオの主人公なのに)最初の犠牲者。そんなことある??????????

『無印』の不二咲といい『2』のペコといい、推しが序盤で死ぬジンクス何とかなりませんかね……(ならない)


と、まあそういう個人的な事情はさておき、『未来編』の異質な雰囲気を作っているのは前述した「サイコポップな世界観の廃止」だけではなく、大きな要因として「前2作と全く異なる状況下で行われるコロシアイゲーム」がある。 

具体的には「ルールはNG行動とタイムリミット、勝敗条件についてのみで後は自由」「人間関係が予め出来上がっている」という2点によって、「襲撃者」による殺人の発生に関わらずキャラクターたちが憎しみあい、常時コロシアイが行われるという地獄絵図が発生してしまっている。もはやデスゲームというよりも『未来機関』の内部紛争だ。

 

宗方は逆蔵と組み天願らと激突。忌村と十六夜は流流歌を巡る因縁から死闘を繰り広げており、苗木・朝日奈・月光ヶ原の逃避行組や、霧切・黄桜・御手洗の捜査組が行く先々でそのような異能バトルに巻き込まれてしまう。 

しかも彼ら未来機関のバトルは(全員が元「超高校級」なので当然と言えば当然だが)武器、超能力、肉体強化と何でもありで、終始繰り広げられる戦いのとんでもない苛烈さには「俺は今何のアニメを見ているんだ……?」とスペキャまっしぐらだった。  

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世界観やキャラクター、コロシアイゲームという共通項こそあれ『無印』とも『2』とも全く異なるバトル中心の作風は、苗木の活躍シーンが一向に訪れないこともあって、正直「これはダンガンロンパなのか?」「ダンガンロンパでやる必要があるのか?」と思うものだったことは否めない。 

しかし、スタッフはおそらくそういう感想を持たれることも織り込み済みだったように思う。なぜなら。この『未来編』は、そんな「ダンガンロンパらしからぬ舞台」でしか描けないものを描いた物語となっていたからだ。 

それは「武力と怨恨渦巻くコロシアイの中でも、苗木誠が“超高校級の希望”であり続けることができるか」という命題。  

『未来編』は、この命題=『無印』終盤において苗木が突き付けられた「絶望に侵された“外の世界”でも尚、“超高校級の希望”であり続けることができるか」という命題の、言わば「実証編」。苗木にとっての最後の試練となる『ダンガンロンパ完結編』に相応しい物語になっており、そのことは1話で他ならぬモノクマ自身の口から宣言されていた。

「うぷぷぷ……。ささ、苗木君。今から始まるのは、人類の命運を賭けたコロシアイ……希望と絶望の最大最後の戦いだよ。大袈裟だって? いやいや…そんなことはないよ。だって、そう……この戦いこそが、キミとボクの完結編なんだからね」

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そんな苗木は、『未来編』(の特に序盤)においては非常に影が薄い。
『無印』ではそのポテンシャルを発揮して数多の学級裁判を打開してきたものの、今回行われるのはほぼルール無用のバトルロイヤル(物理)。あちこちで休みなく争いが起こるだけでなく「裏切り者=襲撃者候補」とされる苗木もまたその攻撃対象であるため、戦闘力において圧倒的に凡人である彼は、推理する間もなくただ逃げ回るばかりで、とても主人公とは呼べない立ち振る舞いを強いられてしまっていた。 

そんな彼をして「コロシアイ学園生活で苗木が超高校級の希望であれたのは、あれが“ルールが定められたゲーム”だったから。現実では何の意味も力もない」と言い放つのが『3』新規キャラクターの1人である宗方京介だ。  

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未来機関の副会長であり、元「超高校級の生徒会長」である宗方は、特殊な力こそ持たないものの、刀剣を使いこなして常人離れした高い戦闘能力を発揮する。生徒会長とは……? 

彼の行動理念は「希望のために絶望を殲滅する」ことであり、方法こそ違えど「希望の担い手」と言える存在。前述の通り苗木の影が薄いことや『未来編』が雪染の死から始まることもあって、前半はまるで主人公のような雰囲気を醸し出していた。 

事実、次々と未来機関の幹部たちが死に行く中で何もできない苗木に対し、宗方はただ1人コロシアイゲームの核心へと近付いていく。この「主人公感の差」は、さながら宗方の主張(苗木の精神論的な希望は、過酷な現実の前では無意味)に対し苗木が反論できない状況を具現化しているようでもあり、その構図が『未来編』中盤まで続くことになる。  

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この「主人公交代」然とした状況において、宗方と苗木、それぞれのターニングポイントとなるのが「人の死」である点には本作の『ダンガンロンパ』としての本懐を感じた。 

中盤、宗方は相討ちに近い形で未来機関の会長=天願を下すが、その際に彼から「襲撃者はひとりではない、あえていうならこの場の未来機関全員だ」という真実を告げられることになる。 

これはコロシアイゲームの犯人/殺人者である“襲撃者”の正体が「特殊な映像により洗脳され、自殺を行う被害者自身」ということを指した言葉だったが、ゲームの首謀者である天願はおそらく意図的に「宗方以外の全参加者が絶望に堕ちている」と聞こえるように言ったのだろう。  

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(しかもこの時、天願が自身のNG行動”質問に嘘で答える”を明かすことで、それが「嘘ではない」ことを証明している) 

天願を手にかけてしまったことに加え「雪染が絶望に堕ちていた」という事実(この点は紛れもない真実なのがまた厄介)に苦しむ宗方は天願の誘導にまんまと乗ってしまい、自分以外のメンバーを全て排除することを目的とする絶望の徒へと変貌してしまう。絶望を憎むあまり、自らが絶望を生むものになってしまう様はあまりにも皮肉だが、とても『ダンガンロンパ』らしいシチュエーションだ。


「天願の死」がターニングポイントとなった宗方。その一方で、自らの無力さに苛まれる苗木には「霧切の死」という最悪の事態が襲いかかり、そこで彼の「超高校級の希望」としての真価が問われることになる。  

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苗木は『未来編』冒頭から「超高校級の希望」として扱われ、祀り上げられるかのような様子が何度も描かれるが、無論自分自身にそのような自覚はなく、それ故に彼は「英雄視される自分」と「無力な自分」とのギャップに悩み続けていた。 

『無印』終盤において、真実を突き付けられて絶望に暮れる仲間たちを立ち直らせた苗木の力、即ち「希望の力」が、結局は恐怖や暴力という「外の世界の現実」の前に成す術もないという現状。宗方の主張の通り、苗木の精神論的な「希望」は、過酷な現実(絶望)の前では無意味なのか? 

この『無印』から続く命題に対して、本作では明確に「NO」という答えが島されたように思う。その鍵になるのが「仲間たちとの絆」だ。  

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勿論「仲間たちとの絆」というのは『無印』時代から苗木が前に進む原動力であり、『3』序盤でも苗木自身がそのことを口にする場面がある。

「僕には仲間がいる。だから、たとえどんな辛い事があっても、みんなで一歩ずつ歩いて行ける。先に何があるかはわからない、それでも僕らは足を止めない。希望は前へ進むんだ」

この時点で苗木は「仲間との絆」を原動力にしてはいるが、厳密には「仲間と一緒なら、自分たちは折れることなく進める」というまさしく精神的な話になっており、折れそうな自分を支えるための支えという域を出ていない。『無印』終盤と同じ台詞ではあるが、江ノ島に「希望」を叩き付けたあの時とは意味合いが違っていると言えるだろう。 

そんな「折れそうな自分を支える」ので手一杯な苗木を真に奮い立たせることになったのが、他ならぬ仲間の一人=霧切だ。

苗木「今まではもっと自分にもできることがあると思ってたんだ。でも、僕はここでは無力だよ……。宗方さんが言うように、僕の言葉には何の力もないのかも。でも……」  

霧切「私はそうは思わない。あなたの信じた言葉の力は、みんなの希望になってきたじゃない? 私だってその一人よ。自分に自信を持って。ちょっと前向きなのがあなたの取り柄でしょ?」 

(中略) 

霧切「希望は伝染する。貴方一人で足りないなら、私たちがいる。貴方の後ろにはみんながいるわ」

苗木の取り柄=力とは「人よりもちょっと前向き」なその性格。その前向きさこそが、絶望に打ち勝つ希望のトリガーになってきた。
宗方のように、苗木自身が誰よりも強くある必要はない。苗木に必要なのは、武力ではなく「自分の弱さ(=絶望)を受け入れて、仲間を頼る」こと。絶望の中で折れたとしても、仲間の手を取って立ち上がり、希望の担い手として世界に希望を広げていくこと。  

宗方は世界から絶望を消し去ろうとしたが、希望の徒である天願や宗方自身が希望を求めた果てに絶望へ堕ちたように、人間が人間である限り、世界から絶望が消え去ることはない。本当に理想論を語っていたのは、むしろ「絶望を残らず消し去る」ことを掲げた宗方の方だったのだ。  

決して消えることのない世界の絶望に対してできることは、絶望を残らず消し去ることではなく、皆が絶望を受け入れられるように/絶望しても再起できるように希望を広げていくこと。 

そして、そのトリガーになれる才能を持った人物こそが苗木その人。彼が希望を生み出し、その希望が仲間たちへ、仲間たちからその周囲の人々へと次々に伝染していくことで、最終的に何より大きな力を作り出す。それこそが「超高校級の希望」の真価であり、世界を覆う絶望に対するこの上ない対抗手段なのだろう。  

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霧切の言葉を受けて、自分の成すべきことに気付かされた苗木。 

彼は霧切の死によって絶望に堕ちかけるも、朝日奈、十神、こまるらとの絆、そして霧切自身が最期に残した「何があっても、絶対に希望を諦めないで。私はいつも貴方の傍にいるわ」というメッセージによって再起し、遂に宗方と正面から対峙することになる。 

無力と絶望に沈みながらも仲間たちの想いを受けて立ち上がっていく苗木の姿は、さながら『無印』最終盤の意趣返しのよう。『無印』では苗木が霧切らの絶望を希望に変えてみせたが、『未来編』では逆に霧切ら=「苗木に救われた仲間たち」の希望が彼に伝染し、その絶望を希望へと変えてみせたのだ。

 

弱さ(絶望)を受け入れる=仲間に頼ることで何度でも立ち上がり、大きな希望を創っていく苗木。弱さ(絶望)を切り捨て/拒絶し、結果絶望を生むものに堕ちてしまった宗方。「同じ希望の担い手でありながら相反する2人の激突」はどこか『2』の日向と狛枝のようでもあり、「超高校級の希望」である苗木の最後の試練として。これ以上ないクライマックスと言えるだろう。  

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こうして宗方が絶望を生むものに堕ち、苗木が希望を生むものとして再起したことで両者は雌雄を決することになる。容赦のない武力で追い立てる宗方に対し、自分自身の在り方を思い出した苗木は、これまでのようにただ説得を試みるのではなく「知恵と推理と言葉(言弾)」という武器で戦いを挑む。  

そんな苗木の姿は『ダンガンロンパ』を背負う主人公に相応しいものであるだけでなく、良くも悪くも原作ゲームをそのままアニメ化した『無印アニメ』に対し、全く異なるアプローチによる新たな『ダンガンロンパ The Animation』の完成形とでも呼ぶべきものだった。

そんな激戦の果てに、苗木は宗方の行動から彼のNG行動が『扉を開ける』ことであると見破り、その攻撃を封殺。話し合いの場を設けることで、遂に彼の絶望を論破してみせる(ここで遂に「それは違うよ」と言い放つ苗木に咽び泣くオタク)。  

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こうして苗木は宗方の説得に成功。『未来編』におけるデスゲームは、一旦の決着を迎えることとなった。

 

序盤こそ『ダンガンロンパ』らしからぬ「力が全て」の様相が描かれた『未来編』だったが、約10話に渡る試練を経て更に成長した苗木は、最後の最後に主人公としてこの上ない『ダンガンロンパ』を見せてくれた。  

この戦いをもって、ようやく『ダンガンロンパ』のナンバリング作品=苗木誠の続章として、そして苗木/宗方による希望と絶望の群像劇としても完成される『未来編』。この先のエンディング(希望編)を待たずとも、この時点で本作は「素晴らしい『3』だった」と言えるものに仕上がっていたと思えてならない。

 

Recall THE END

Recall THE END

 

このように『無印』から更に一歩踏み込んだ物語を展開した『未来編』だったが、一方では、1クールという尺に「15/6人によるデスゲーム」というシリーズのフォーマットを「バトルもの」という形で盛り込むことに四苦八苦している様子も多く見られた。

 

「四苦八苦」の内容として大きいものは、多くのキャラクターが描写不足のままに終わってしまった点だろう。  

万代は何をするまでもなくNG行動違反の見せしめとして退場し、中盤まで死闘を繰り広げた忌村、十六夜、流流歌の三人は終盤に差し掛かった所で因縁を消化しきれぬままに全滅。(過去作キャラなので掘り下げの必要はないと言えばないが)葉隠に至っては、メインビジュアルで描かれているにも関わらずそもそもデスゲームへの参加さえしていない。らしいと言えばらしいのだけれど、それはそれ。 

中でも、黒幕であった天願は描写不足が特に響いたキャラクターのように思える。f:id:kogalent:20210728201332j:image

未来機関の会長にして黒幕であった天願和夫。彼は『未来編』では「老衰したように見せて未だに切れ者」という美味しいキャラクター性を活かし、皆のまとめ役をこなしつつ主人公格の宗方と真相を巡って火花を散らすなど、まさに獅子奮迅の活躍を見せていた。宗方と相討ちでその命を散らす一連は、劇的な演出も相まって『3』名シーンの一つに数えられるだろう。
『絶望編』においても、彼はカムクライズルプロジェクトに臨もうとする日向を諭すなど人格者たる一面を見せ、非常に美味しい役回りを担っていた。  

だが、そんな彼こそが「御手洗に絶望的な状況を突き付けて“希望のビデオ”を使用させ、全人類を洗脳することで“超高校級の絶望”を根絶する」ことを目的にコロシアイゲームを開始した張本人であった。  

ところが、彼が絶望に堕ちた描写はなく(雪染に渡された「絶望のビデオ」についても、どういうものか分かった上で、しかもサンプルとして受け取っているため、誤って見たという可能性は低い)、他の絶望に堕ちたキャラのような目の変化演出も見られなかった。 

これらのことから察するに、天願は「正気で」件のデスゲームを開いたのだと考えられる。3話では彼自身が「強すぎる希望は時に絶望に近付くものだ」と言う場面があるが、これは宗方だけでなく彼自身にも言える台詞だった……というのが真相なのだろう。  

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宗方を含め、多くの人に尊敬される希望の担い手/良きリーダーであったはずの彼が、満面の笑顔で「悲しくて、悲しくて、ついやってしまったんだ」と真相を明かすシーンは、衝撃的でこそあるが如何せん前振りが足りておらず、ミスリードにしてもやり過ぎな感が否めない。 

更に「録画だった」というモノクマの映像をどう作ったのかなど、黒幕としての天願については説明不足な点がかなり多い。消化不良な点こそあるが物語として一定の完成を見せていた忌村らの一連と比較すると、天願の描写不足は(根幹に関わるだけに)非常に手痛いものだと言えるだろう。  

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他にも「バトルもの」とダンガンロンパという作品の食い合わせが悪い結果、延々とバトルが繰り広げられている状況そのものに違和感があったり、過去作の直系の続編ながら雰囲気を大きく変えたことの是非など細かい批判点が多く見られる『未来編』だったが、本作はそれ以上に多くの魅力を放っていたように思う。

 

DEAD OR LIE

DEAD OR LIE

 

前述した本筋の完成度は勿論、『無印アニメ』とは異なるダークテイストに舵を切ったOP・ED両主題歌や、過去作のアレンジBGM(主に毎話の引きで使われた『オールド・ワールド・オーダー』などはとりわけ印象深い)は、これまで以上に殺伐で陰惨としたデスゲームと非常にマッチしていたし、実質的な『絶対絶望少女』のアニメ化などの凝ったファンサービスも違和感なく作品に溶け込んでいた。 

ある意味『ダンガンロンパ』の見せ場と言える死亡シーンも、ある種の美しささえあった忌村の最期や、「因果応報」を体現するかのように「誰よりも寂しく、誰よりも無惨に」死亡する流流歌、自らの命を投げうって霧切を救う黄桜など本作ならではの魅力的なシーンが多く、何より『絶望編』とのリンクによって真実が明かされていく展開には他に類を見ない独特の見応えがあった。  

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そして何より、この『未来編』が『3』のナンバリングに相応しいポテンシャルを備えた作品であることを象徴するのが『希望編』における苗木の最後の決断だ。  

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『未来編』での試練を経てまた一つ成長を遂げた苗木。一方で彼は、これらの戦いによって「希望の危うさ」をも学ぶこととなった。 

彼が『3』で戦った相手は、宗方然り、コロシアイの首謀者である天願然り、いずれも「希望を求めた者」だった。希望を求め、絶望を世界から無くすことを目指し、その果てに自らが絶望を生むものになってしまった彼らから苗木が学んだのは「世界から絶望が消えることはなく、だからこそ絶望は消すのではなく受け止めていかなければならない」という現実。  

”超高校級の希望”として戦い続けてきた苗木が「希望と絶望の双方の肯定」という答えに辿り着く様は、彼が大人として大きな成長を遂げると同時に、「希望と絶望の向こう側」へ先んじて辿り着いていたもう1人の主人公=日向創と同じステージに立った瞬間でもあった。  

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「未来なんて、誰も見たことはない。僕らの行き先は、いつだって灰色の曇り空だ。希望も絶望も入り交じって、どっちがどっちだか分からない。それはとても怖いことだけど……でも、待っているだけじゃ何も変わらない。何が起きるか分からない未来の中に、僕たちは、一歩ずつ進んでいく。大切な人のことを思いながら、空を見上げて、明日はきっといい日になる、って思いながら」

苗木の成長、そして『3』の物語を総括するこのセリフが印象的な『希望編』のラストシーン。希望と絶望の狭間にある「未来」に異なる方向から辿り着いた2人の主人公は、方や世界の希望、方や世界の絶望の担い手として再出発することになる。「無垢な希望でも絶望の象徴でもなく、希望と絶望のどちらをも知り、受け止められる者こそが未来の担い手になれる」という、まさにシリーズの集大成とでも呼ぶべきエンディングだ。
(このエンディングを踏まえると、苗木が宗方と『2』の再演とも呼べる物語を展開したのは、苗木が日向と同じ場所に立つために必要なある種の必然だったのかもしれない)

 

 


視聴から1年近く経っているにも関わらず、内容を鮮明に思い出せた『3』。思うところこそあっても、自分にとってはとても「好みの作品」だったなぁ、と思う。 

本作は評価・好みの分かれる癖の強い作品には違いないが、苗木を主人公として『無印』のその先を描きつつ、希望と絶望の双方の肯定、そして「弱くてもいい」という『2』のテーマをアニメとして再生産するその物語は、まさしく『3』のナンバリングを背負うに相応しいものだったと言えるのではないだろうか。  

 

『2』が好きな身としては『絶望編』と『希望編』もしっかり振り返りたいところなのだけれども、前述の通りキリがなくなってしまうし、特に希望編は単なるオタクの叫びにしかならないのでここは割愛。 

なんだかんだで『無印』『2』『3』と続けてきたダンガンロンパの感想シリーズ、次は『ニューダンガンロンパV3』の記事でお会いしましょう。今度こそ推しが生き残る未来を夢見て……!!!!