総括感想『星合の空』- 悩める子どもたちとソフトテニスが問いかける、果てのない “生き辛さ” と罪の在処

世の中には「物語の途中で終わってしまう作品」がある。 

「続編を作る予定があったが、興行不振で続編がお蔵入りになってしまった漫画原作の実写映画」や「視聴率・売上不振で打ち切りが決まり、広げた風呂敷を畳み切れなかったアニメ」などが代表的なものとして挙げられるけれど、『星合の空』は、それらとは根本から異なる極めてイレギュラーな事態によって、やむを得ず「途中で終わらざるを得なかった」作品であった。  

事実、本作のラストは前評判に違わない衝撃的なものだった――のだけれど、自分にとっては「未完」というトピックよりむしろ「度が過ぎるほど真摯に、“生き辛さ” を抱えた人々に向き合って作られた」その内容こそが何より衝撃的だったように思う。 

その結果、おそらく今後そうはないであろう (様々な意味で) 唯一無二の視聴体験となった『星合の空』。この特異な体験を忘れないために、そして僅かでも「続編」が作られる力添えになるように、本作がもたらした衝撃の数々をここに書き留めておきたい。


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引用:「星合の空」PV - YouTube

 

《目次》

 

「生き辛さ」と歩む子どもたち

 

『星合の空 (ほしあいのそら) 』は、赤根和樹氏が原作・監督・脚本を務め、2019年10月から12月にかけて放送されたオリジナルテレビアニメ作品。 

赤根氏自身も経験者である「ソフトテニス」を題材に、子どもたちの青春が真摯かつハードに描かれていくのが特徴だが、そのストーリーラインは一見すると非常にシンプルなものとなっている。

 

その成績の悪さから、ある日生徒会に「廃部」を宣告されてしまった志城南中学校男子ソフトテニス部。 

廃部を撤回するには、夏の大会で最低でも「一勝」しなければならない。この目標を達成するため、部長の新城柊真 (CV. 畠中祐は転校生の少年=桂木眞己 (CV. 花江夏樹) と「契約」を結び、彼を男子ソフトテニス部へと入部させる。 

ソフトテニス未経験ながらも驚異的な運動神経と抜群のセンスを発揮する眞己は、その能力で他の部員を圧倒するだけでなく、優れた観察眼で部内の雰囲気や戦術に次々とメスを入れていく。 

結果、男子ソフトテニス部は様々な衝突を経つつも大きく成長。地区内の強豪校である御崎学園に食らい付くほどの目覚ましい進化を果たし、遂には「夏の大会で最低一勝する」という目標を達成。部の存続を勝ち取るのだった――。

 

転校してきた主人公によって、廃部寸前の部活が復活を果たす。これはまさに「スポーツもの」の王道プロットであるし、この点において本作は決して気をてらわない。イレギュラーであるのは、その外堀で描かれるもの=もはや “異様" とさえ呼べるほどにリアルな「生き辛さ」の数々だ。

 

 

『星合の空』最大の特徴と言えるのが、主人公=眞己に留まらず、メインキャラクターのほぼ全員が家庭や自身のパーソナリティに苦悩を抱え、相異なる「生き辛さ」を背負ってしまっていること。

 

 

母・桂木あや (CV. 名塚佳織)との二人暮らしで、鋭い観察眼と抜群の運動神経が持ち味の主人公=眞己は、離婚した実父=京終健二 (CV. 中井和哉から暴力を振るわれた過去を持ち、今でも家を突き止められては、その度に大金を奪われてしまっている。 

一方、もう一人の主人公である柊真は、優れた才能を持つ兄=新城涼真 (CV. 松風雅也の存在もあって母親から半ばネグレクト状態にあり、生来の真面目・一本気な性格や、テニス部の運営に難儀していることもあって、日夜その心を磨り減らしている。

 

 

女子ソフトテニス部副部長の雨野奈美恵 (CV. 夏川椎菜を姉に持つ、小柄な毒舌家=雨野樹 (CV. 松岡禎丞は、幼少期に実母の手で大火傷を負った過去を持ち、現在は父子家庭。火傷の跡を見られたくないから、ではなく「その理由を訊かれたくない」ため、当初は事情を知らない眞己らの前では着替えようとしなかった。 

男子ソフトテニス部の副部長である布津凜太朗  (CV. 佐藤元は、両親に深く愛されて育った心優しい少年。しかし、その両親が彼の「産みの親」ではなかったことから、自身が「望まれていない存在なのではないか」というコンプレックスを抱えるようになり、部活でも皆を律する眞己の存在に副部長として引け目を感じてしまう。

 

 

明るくノリの良い性格で部のムードメーカーを担う竹ノ内 晋吾 (CV. 佐藤圭輔) は、異母妹の杏 (CV. 諸星すみれや父親とは良好な関係を築いている一方、父の再婚相手である義母からは目に見えて嫌悪感を向けられてしまっている。 

気分屋で、何事にも挑発的な態度を見せる曽我翅 (CV. 豊永利行は、優れた運動神経を持ちスポーツ全般を得意とするものの、小学生時代には兄たちが得意とするサッカーで手痛い挫折を味わってしまっており、そのことに憤慨した父親からは絶えず厳しい態度を向けられている。

 

 

月ノ瀬直央 (CV. 小林裕介)は、虚言でしばしば周囲を困惑させるものの、人を励ますなど明るい一面も持つマイペースな少年。しかし、その虚言癖の原因は、校内でも有名なモンスターペアレントであり、直央の自由意思を尊重しない支配的な母親にあった。 

そんな直央らの中にあって、わだかまりも問題もない平和な家庭環境に育ったのが石上太洋 (CV. 天﨑滉平) 。温厚な性格でしばしば仲裁役に回るものの、両親の過保護さ故に自信がなく優柔不断であるなど、メンタル面に弱さを抱えてしまっている。

 

 

部員ではなく「気が付けば行動を共にしている」という不思議なポジションで、SNS上ではイラストレーターの「natsuko」としても活動している少女=御杖夏南子(CV. 峯田茉優)。 

熱心なファンも大勢ついている実力者だが、自身の描きたいもの=眞己と柊真のスケッチをアップするようになってからは批判的なリプライも増えていたり、クラスではオタクとからかわれていたり、親が絵を描くことに否定的であったり……と、様々な理由から絵の道に進むべきか悩まされている。

 

 

男子ソフトテニス部唯一のマネージャーであり、細かい気配りや調べ物に長ける飛鳥悠汰 (CV. 山谷祥生)。人知れず「自身の性自認が不安定」という問題を抱えており、「悠汰」という名前や性自認への違和感、そして、息子を男子として育てたい母親との軋轢に日夜苦悩している。

 

……と、こうして並べてみると、その鋭すぎる切れ味に改めて息を呑んでしまう。DVや家族間の不和、親の支配欲に性的マイノリティ、子どもの自己認識やアイデンティティー……。深夜帯放送とはいえ、これらの非常に重いテーマを複合的に、あまつさえこの可愛らしい絵柄で / 中学生の少年少女を通して描くというチャレンジぶりには、それだけで本作の「本気さ」ないし「真摯さ」が見て取れてしまう。 

しかし、本作における白眉とは、この面々が「そういった設定を持ったキャラクター」というだけでなく「そういった悩みを抱えながら生きている、一人の人間」として、確かな説得力を伴って描かれていることだろう。

 

 

『星合の空』のメインキャラクターたちが抱えているような「重く、センシティブな背景」は、何も本作でのみ描かれるものではない。類似のテーマを扱った作品や、似たような背景を持つキャラクターたちは決して珍しくはない――けれども、そのような要素を本作ほど「作品の核」に据えて、かつ各キャラクターのパーソナリティに色濃く丁寧に反映させた作品を、少なくとも自分は他に知らない。

 

金銭的な事情や周囲への怯えから「本当にやりたいこと」に踏み出せない自分の状況を「他人を見下す」ことで相殺し、凝り固まったフラストレーションを「他人の失敗」で解消しようとしてしまう ( “挑戦できない / 踏み出せない” 自身の現状を合理化しようとしている?) 夏南子。 

「母からネグレクト状態にある」ことを踏まえると、その過剰な生真面目さが「母親へのアピール」として、あるいは、母親に可愛がられる飄々とした兄=涼真への無自覚な「対抗」として醸成されてしまったもののようにも見える柊真 (彼の短気も、“本来の性格から離れた性格を無理に被っている” という無理がたたったものなのでは、というのは邪推だろうか) 。 

「素直で人懐っこい寂しがり屋」ながら、距離のある相手には攻撃的……という一見すると矛盾した性格が「物心付く前に実母から殺されかけた」という経験からくる過剰な防衛反応 (自分から攻撃することで優先権を握る / 制圧する) であると考えると途端に筋が通ってしまう樹。 

「テニスなんかに本気になっちゃって」という初期の姿勢が、その実「サッカーで挫折し、テニスに転向した自身のコンプレックス」や「本気を出してまた挫折したらどうしよう、という不安」の裏返しであった翅。 

他にも、親の過保護さがかえって自信の無さに繋がってしまった太洋、養子という背景から「自分は余所者 / 厄介者」という強迫観念を持ってしまった凜太朗……といったように、『星合の空』のメインキャラクターたちは、それぞれに背負ったシビアな設定が各々の人格と密接に繋がっており、「取って付けたような」感覚がまるでない。むしろ、彼らはその設定があるからこそ「一介の “キャラクター” に留まらないリアリティ」や「思春期の子どもらしい、一口に語れない複雑なパーソナリティ」を獲得していると言えるだろう。  

その最たるものだと感じたのが、他ならぬ主人公=眞己のパーソナリティだ。

 

 

クールでストイック、運動神経抜群なだけでなく、特に観察眼や飲み込みの速さにおいては他の追随を許さない眞己。 

彼は入部早々、素人とは思えないプレイングで翅たちを圧倒。更には既存のペアを解体・再編し、見事に男子ソフトテニス部全体のパワーアップを成し遂げる――と、その八面六臂の活躍ぶりは、一見すると「なろう系」「無双系」「メアリー・スー」と揶揄されるもののようにも思えてしまうし、自分も第1話を見ている最中は「そういうタイプ」の主人公かと思わず身構えてしまっていた。 

しかし、その第1話ラストに現れた魔物が、皮肉にもそんな眞己のハイスペックぶりに「理屈」を通してしまう。

 

 

本作の特徴の一つとして挙げられるのが、スポーツものというジャンルとは遠くかけ離れた「ホラータッチな演出」の数々。 

樹が男子生徒をラケットで殴ってしまうシーンや、樹の実母が赤ん坊の彼に熱湯をかけるシーン(第3話)などで印象的な「突然の無音」演出、画面の彩度も暗く目のハイライトも真っ黒な月ノ瀬家の食卓(第8話)……など、これら巧みな「音」や「画」の演出によって、本作ではただでさえショッキングなシーンが (人間に秘められた恐ろしさをありありと示すかのように) 輪をかけて恐ろしい――それこそ、ホラー映画と見紛うほどの「背筋が凍るような」ものへと変貌してしまっている。  

そんな本作の「ホラー演出」が最大限に効果を発揮していたのが、第1話ラストで現れる眞己の実父=京終健二の描写だ。

 

 

幼少期の眞己に暴力を振るい、離婚後も血縁関係を利用して桂木親子を追跡、眞己の母=あやが家にいないタイミングを狙い金を奪っていく「人でなし」こと京終健二。 

「ドアの覗き穴を指で塞ぎ、不思議に思った眞己がドアを開けた隙に中へ押し入る」という開幕からゾッとする彼の初登場シーンは、OPをぶつ切りにして訪れる無音、闇から這い出てくる不気味な腕、明らかに正気を失っている瞳、穏やかな口振りに反して感情が一切感じられない中井和哉氏の怪演 (名演) ……といった演出が、さながらJホラーのような「等身大の恐怖」を醸し出しており、部屋の隅でうずくまる眞己の姿と併せて「桂木眞己の特異なパーソナリティ」の正体を否応なしに突き付けてくる。 

クールで大人びた性格は、京終健二の暴力と支配に打ちのめされた結果、あるいは、母や周囲の人々に心配をかけないようにという「強がり」の成れの果て。「鋭い観察眼」や「飲み込みの速さ」は、京終健二に怯え、その機嫌や感情の機微を窺いながら生きてきたことで培われてしまった「生存本能」の賜物。  

眞己が持つ優れた能力とは、天賦の才でも、ましてや作劇上の都合でもなかった。それらは全て、彼が本来与えられて然るべき「愛情」と引き換えに得てしまった「生きていくための手段」でしかなかったのだ。

 

 

「人の辛さに寄り添う」ということ

 

センシティブなテーマと緻密な人物造形が重厚なドラマを紡ぎだしていく『星合の空』は、「子どもたちの等身大の姿を描く青春アニメ」でありながら、当時「鬱アニメ」の名を欲しいままにしたのだという。 

事実、自分も第1話の視聴直後は顔を引き攣らせたまましばし呆然としてしまったし、その後も柊真、夏南子、樹と、各々の抱える悩みや背景が明かされていくにつれて気分は沈んでいく一方。丁寧に作られた良質な作品だからこそ、そこで描かれるリアルな「生き辛さ」「痛み」が我が事のように生々しく感じられてしまうのだろうし、そういった意味では本作が「鬱アニメ」と呼ばれていたことには納得せざるを得なかった。 

しかし、『星合の空』は決して「鬱」なだけのアニメではない。本作は「生き辛さ」に真摯に向き合うのと同じかそれ以上に、子どもたちに「寄り添った」作品にもなっていたのだ。

 

「あいつらの言うことなんか、気にすることないよ……!」
「気にするさ」
「!」
「聞いてるだけでムカついたよ」
「桂木くん……」
「俺も同じだから。うちは母親しかいないけどね」
「えっ」
「えっ……?」
「でもさ、ラケットで殴っちゃダメだ。壊しちゃ勿体ないよ」 

 (中略) 

「……ごめん、迷惑かけたね」
「ここだけの話、樹が殴った後、ざまぁみろ、って思った」
「っ……。ヤバいね、それ」
「うん、ヤバい」
「「ふふっ」」

-「星合の空」 第3話より

 

男子生徒をラケットで殴り怪我を負わせてしまった樹。そんな樹に対し、眞己たちは「彼が抱えてしまっている闇を浄化する」とか「その過去に、目の前で涙を流す」とか、そういった特別なことは何一つしない。けれど、彼らの「樹を ”特別なもの” として扱わず、悪いことは悪いと窘めつつ、その怒りや痛みに共振する」姿勢は、樹にとってこれ以上ないほどの「救い」だったのではないかと思う。

 

 

私事で恐縮なのだけれど、自分はとある「ハンデ」を抱えながら生きている。そういったハンデと共に生きていくにあたって辛いのは、そのハンデそのものよりも、むしろ周りから軽蔑されること、そして「過剰に配慮されること」。  

勿論そういった気遣いはとてもありがたいし、贅沢なことを言っている自覚はある。けれど、過剰に気を遣われるとそこにはどうしても「壁」を感じてしまうし、気遣われれば気遣われるほどに「自身がハンデを抱えている」こと、皆と「別物」であるかのような孤独を否応なしに意識させられてしまう。  

だから、願わくば自分を「特別視」しないでほしい、ごく自然に接してほしい。そのハンデを、例えば人によって身長や歩幅、食べ物の好き好みが違うような、そのくらいの「個性」の範疇として捉えてほしいのだ。  

当然、そんな自分のハンデごときを眞己たちの抱えた生き辛さや痛々しい過去と同列に語るつもりなんて欠片もないし、彼らの背負った過酷さは自分のそれとは比較するまでもない。ただ、「背中の火傷を見られる」ことよりも「火傷について話す」ことを嫌がっていた……という樹は、ひょっとすると、火傷の跡そのものよりも「母親に愛されず、むしろ命を奪われかけた」という「皆と違う境遇」を意識させられることを何より忌避していた=筆者と近い「特別視しないでほしい」という想いを強く抱えていたのではないだろうか。そこに共感を覚えてしまったからこそ、樹を「特別視」せず、叱ることは叱り、共感することには共感する……と、ごく自然な「友人」として寄り添う眞己たちの姿が、自分の目にはどうしようもなく眩しく映ったのだ。 

眞己たちが樹にそう接することができたのは、きっと、彼らがそれだけ優しい子どもだから――というだけでなく、皆それぞれが樹のような「複雑な事情」ないし「生き辛さ」を抱えており、彼の気持ちを察する (想像する) ことができたからなのではないか、と思う。  

そう思わされたのが、第8話で描かれた下記のやり取りだ。

 

「俺も、自分が生きている理由が分からない……って時、あるよ。”どうして俺はこの世界にいるんだろう” って、感じることがあるんだ」
「僕も……そう思う時、ある。僕は強いて言うなら ”Xジェンダー" なんだと思う。けど、そうやって分類されるのも違和感があって、でも、世の中どっちかに決めなきゃいけないことばっかりだし、決めないと不便だし……。僕はどうしたいんだろう、何になりたいんだろう、って」
「悠汰だけじゃないよ、俺も同じなんだ。生きてる違和感を感じてるんだからさ」
「違和感……?」
「なんだか違う感じなんだよね、自分が。もしかしたら、違うかどうかすら分からない……彼もそうなんだと、俺は思うんだ、男か女かの違いを絶対に決めないといけないとか、それって本当かな? それに悩んでることはおかしいことかな? だって、悩んでる人はいるんだから。自分にはない心の痛みは分からないさ。でも、その痛みを想像してみることはできると思う。無理に理解しようとしないで、想像し合えばいいだけなんだと思うんだ」

-「星合の空」 第8話より

 

眞己と悠汰は、2人とも複雑な事情や「痛み」を抱えているけれど、その種類はそれぞれに異なるもの。だから、眞己には「悠汰の痛みを ”理解" する」ことはできない――けれど、痛みを知る者だからこそ、彼の痛みを「想像」することはできる。これが眞己たちの優しさを作る種であり、『星合の空』という作品からのメッセージ=隣人に対し、その辛さを「理解した気になる」のでも、逆に「自分には分からない / 関係ないから」と捨て置くのでもなく、その痛みを想像し、手を差し伸べられるように……という、ある種の「祈り」なのではないだろうか。

 

 

 

ソフトテニスが担うもの、ソフトテニス部が果たす役割

 

こうして、時に「鬱アニメ」と呼ばれるほど痛切に子どもたちの現実を描きつつ、同時に、そんな「生き辛さ」を抱える人々への寄り添い方を示してもきた『星合の空』。文字に起こすと、どうしてもその重さ・暗さばかりが目立ってしまうのだけれど、しかし、いざ見てみると爽やかで透き通った雰囲気も感じられ、結果「暗すぎず、明るすぎない」絶妙な塩梅となっているのが本作の魅力。 

その大きな要因は、作品のキーであるソフトテニスの「描かれ方」であるように思う。

 

 

こちらのPVを見れば一目瞭然だけれど、『星合の空』における表面上のメイントピックは「ソフトテニス」であり、前述の「生き辛さ」やそれに関連するテーマは、謂わば「裏のメイントピック」となっている。それは当然と言えば当然の話で、この重いテーマを作品のメインとして放送前から掲げてしまっては「暗い作品」「鬱アニメ」というレッテルを放送前から貼られてしまい、敬遠されてしまう可能性があるからだろう。

(放送で初めて明かすことで話題を作る『魔法少女まどか☆マギカ』のようなスタイルを狙ったのかもしれない)

 

なら、本作における「ソフトテニス」とは、あくまで ”隠れ蓑” に過ぎないのだろうか。 

確かに、本作において「ソフトテニス」が家庭の絡む重たいドラマを中和しているのは間違いない。これは武道やサッカー、バスケットボールといった他のスポーツよりも柔らかく、爽やかな印象のソフトテニスならではの効果だろうし、そういった意味で、本作におけるソフトテニスとは、まさしく「清涼剤」と言って差し支えないだろう。 

しかし、本作におけるソフトテニスは「清涼剤」以外にもいくつもの大きな役割を担っていたように思う。一つは、物語上の「メタファー」としての役割だ。

 

「あのペアは、王寺くんが全てコントロールしようとしている。あれじゃ、須永くんはペアというより単なる "付属品" だよ。彼は王寺アラシくんのペアじゃない、パーツだ。王寺くんは、須永くんが自分の判断でプレーすることを許してないんだよ」
「でも、上手い方がペアを先導することが……悪いことか?」
「いや、リードするのは良いと思うよ。でもあれはリードじゃない、支配だ。お互いを認め合ってプレーしないと、ペアの強みがなくなる。」
「ペアの強み?」
「王寺くんたちにはそれがない。だから――それが、彼らの弱点だ」

-「星合の空」 第7話より

 

強豪・御崎学園のエースペア、王寺アラシ (CV. 寺島拓篤) & 須永真士郎 (CV. 坂泰斗) の弱点を分析する眞己。しかし、この王寺・須永ペア評にはどことなく「既視感」を覚えないだろうか。 

試しに、上記の台詞を一部差し換えてみたい。

 

「あの親子は、親が全てコントロールしようとしている。あれじゃ、子どもは家族というより単なる "付属品" だよ。彼は子どもじゃない、パーツだ。あの親は、子どもが自分の判断で生きることを許してないんだよ」
「でも、親が子どもを先導することが……悪いことか?」
「いや、リードするのは良いと思うよ。でもあれはリードじゃない、支配だ」

 

そう、この台詞の王寺アラシを「親」に、須永真士郎を「子ども」に、「ペア」を「家族」に置き換えて、意味が通るよう少し字面を弄るだけで、このやり取りは『星合の空』に頻出する毒親の在り方を皮肉る台詞に早変わりしてしまう。つまり、この「眞己・柊真ペア VS 王寺・須永ペア」という試合は、本作の核となる構図=「子どもVS毒親」のメタファーであり、同時に「心の繋がりは、血の繋がりに負けない」という、願いと確信が籠もった “宣言” なのではないだろうか。

 

 

このように、作中で「清涼剤」や「メタファー」として機能しているソフトテニス。しかし、その最大の功績と言えば「眞己たちの “居場所” になったこと」をおいて他にないだろう。 

第1話時点の男子ソフトテニス部は、廃部寸前かつモチベーションも壊滅的で、眞己もあくまで「契約」として入部したに過ぎなかった。しかし、眞己の入部をきっかけに、ソフトテニス部は徐々に部員たち皆の「居場所」へとその姿を変えていく。大きなターニングポイントとなったのは、眞己によるペアの再編が行われた第4話だ。

 

 

眞己によるペア再編の何が見事だったかと言えば、能力的なバランスは勿論、それ以上に各ペアが「部員それぞれの性格を考慮した」編成になっていたこと。この影響は、とりわけ翅・晋吾のペアにおいて顕著に表れていたように思う。 

元々、凜太朗 (前衛)・翅 (後衛) 晋吾 (前衛)・太洋 (後衛) というペアを組んでいた2人。穏やかな凜太朗と気弱な太洋が2人に振り回されてしまい、チームワークが全く取れていなかった……という状況を踏まえ、眞己はそんな翅と晋吾同士をペアにしてしまう。曰く「ペアに必要な “お互いに要求し、応え合う” ことを身に付けさせるため」とのことだが、このペアは「前衛・後衛」に至るまで2人それぞれの性格がきっちり加味されていることもポイント。 

というのも、翅は (3兄弟の末弟であることもあってか) 周りの面倒を見るような気質ではなく、むしろそのバイタリティで周囲を積極的に引っ張っていく前衛タイプ。一方、晋吾は妹=杏とも仲が良く、人に「合わせる」ことのできる後衛タイプ。この点も見抜き、加味した上での編成なのだとしたら流石だという他ないけれど、それが「できてしまう」のが桂木眞己という主人公の頼もしさだ。 

そんな再編で各々が相性抜群のペアとなり「思うように動ける」ないし「勝てる」ようになったことで、部員たちのモチベーションは見る間に上がっていった。そんな状況の変化が彼らに自信を付け、フラストレーションを発散させたのか、太洋は堂々とした発言が増え、晋吾は生来の面倒見の良さを発揮するようになり……と、各々の良い「素顔」が見えてくる。 

それはきっと、彼らにとっての男子ソフトテニス部が「仕方なく入っている部活」から「ここにいたい、と思える場所」になったという変化の表れ。家庭に「居づらさ」を抱えている彼らにとって、男子ソフトテニス部とは「子ども」という立場から解放され、思うように「自分らしく」在れる、文字通りの「居場所」になったのではないだろうか。

 

Ingenuity

Ingenuity

 

そんな男子ソフトテニス部を見守る中で (良い意味で) 意外だったのは、契約によって入部したに過ぎなかった眞己も、徐々に「ソフトテニス」そのものに楽しみを見出すようになっていったこと。  

当初は嘘偽りなく「お金のため」だったのだろうけれど、いつ京終健二が来るか分からない家から離れ、母を支えなければならないというプレッシャーからも解放されたソフトテニス部での活動は、眞己にとって想像以上に楽しく、満たされるもの――ひいては、彼が初めて手に入れた「子どもとして本来与えられて然るべき喜び」だったのかもしれない。

 

「よし、まだやれる!」
「うん! ……こんなに楽しいんなら、ずっとやっていたいよ!」
「えっ?」
「楽しいよ、柊真!」

-「星合の空」 第7話より

 

更に眞己は、ソフトテニス部での活動を通して柊真という「チームメイト」を越えたパートナーを得ることとなり、遂には2人で京終健二を追い払うことにも成功する。

 

「ありがとう、柊真……」
「眞己は俺のペアだろ? 助けるのは当たり前じゃないか。それがペアだよ!」
「ありがとう、柊真……。ありがとう……!」

-「星合の空」 第5話より

 

人間は、関係性の中でしか生きられない「社会的動物」であり、最初に帰属する関係性こそが他ならぬ「家族」。 

家屋、血縁関係、戸籍。多くの縛りを伴うが故に、「家族」という関係性は他のものよりも絶対的で、往々にしてその強さはそのまま「呪い」にも転化する。地域社会が世界の全てだった時代では、その「呪い」に疑いを持たなかった=それが「当たり前」だと思う人も多かったのだろうけれど、SNSの発展などで各々の帰属する社会が広がった現代においては、自分にとっての「家族」が「呪い」だと気付く人も多いのではないだろうか。

 

 

どれだけ強い縛りがあろうとも、血縁関係があろうとも、人と人とが「他人」であることは絶対に変わらない。 

眞己が藤田璋 (CV. 阿部敦のことを「家族だと思ってる」と言ったように、本当の家族とは「戸籍上家族となっているもの」ではなく、むしろ「辛いとき、苦しいとき、安心して頼れる / 助け合える / 支え合える仲間」であり、「一緒に過ごしたいと思える友」であるべきなのだろう。そこから変質し、「血縁関係があるから」「戸籍上そうだから」だけで成り立っている家族は、もはや「家族」と呼ぶべきものではない。  

だからこそ、血縁と公的権力を盾に従属関係を迫るだけの京終健二は、断じて眞己の「家族」ではない。彼よりも、柊真の方がずっと――たとえそれが「契約関係」や「テニスのペア」から始まった関係だとしても――眞己の「家族」と呼べる存在だろうし、そんな柊真が京終健二を「お前なんか父親じゃない!」と追い払ってみせたことは、京終健二が眞己に刷り込んできた「血縁関係からは逃れられない」という呪い=彼の世界を覆い隠していた暗雲を切り払う、文字通りの「救済」だったのだろうと思えてならない。

 

 

眞己の入部をきっかけに、ソフトテニス部は翅たちの「居場所」となった。しかし、その眞己自身もソフトテニス部に自身の居場所を見出だし、その中で出会ったペア=柊真のおかげで、ようやく自身の家も本当の「居場所」となった。 

確かに、本作における「主題」はソフトテニスよりもむしろ子どもたちの「生き辛さ」かもしれない。しかし、彼らをそんな呪いから解き放つ中心には常にソフトテニスがあった。ソフトテニスやペアという関係性がなければ、あるいはチームメイトという仲間がいなければ、彼らは決して解放されることはなかっただろう。作品の中心ではなくても、間違いなく「核」にある。そんな本作のソフトテニス描写は、スポーツを題材とした作品の可能性を大きく広げるものだったように思うし、『星合の空』はまさしく「スポーツアニメの革命児」と言える存在なのではないだろうか。

 

 

最終回と『その後の彼等… 』

 

こうして、いくつかの不安要素を抱えつつも右肩上がりで盛り上がっていく本作。その最終決戦の相手は、全国大会2年連続優勝の天才ペア=五瀬陸 & 穹 (CV. 上村祐翔) 。まさか眞己たちがこんなにも高い壁に挑むことになるとは――という驚きこそあれ、その時の気持ちはむしろ「安堵」に傾いていた。

というのも、本作は24話中12話で終わってしまう作品。「信じられないところで終わってしまう」という前評判を信じるなら、ここで五瀬兄弟に負けてしまい、かつ各家庭の問題が回収されないまま終わる――のだろうけれど、「そこで終わるなら、それはそれでキリが良いと言えなくもない」と思えたからだ。  

そんな安心、もとい油断の中で始まったOP主題歌には、なぜかそこはかとない「違和感」があった。

 

「あれ、2番……?」

 

初めて聞く歌詞。これまでと同じOP映像。なるほど、『星合の空』にも最終回特殊OPがあるのか! とワクワクしたのも束の間、「膝を抱え泣きじゃくるほどに」という不穏な歌詞と共にラケットが壊れ、OPはそのままブツ切り。サビに入ることなく不気味な余韻だけが残る中、バラバラに砕ける『星合の空』タイトルロゴ――。  

ぞわっ、と1話Cパート以上の「恐怖」が肌を撫でたあの感覚は、未だに鮮明で頭を離れない。まさか本作特有の「ホラー演出」がOP主題歌までねじ曲げるとは予想できなかったし、件の「信じられないところで終わる」という言葉が急に喉元に突き付けられたようで、正直なところ、五瀬兄弟との試合が全く頭に入ってこなかった。  

このまま終われ、いっそここで終われ。という極めて不遜な祈りを捧げるものの、嫌な予感は文字通りの「最悪」――それも、こちらの想像を遥かに突き抜けた形で的中してしまうことになる。

 

「母さん……母さん、聞いてくれる?」
「なぁに?」
「俺、試合に勝ったんだ。ソフトテニスの試合で、勝てたんだ」
「そう……。良かったわね」
「……ぁ、でも、最後は負けちゃったけど!」
「頑張ったのね、柊真」
「母さん、あの、これからはっ」
「お母さんも頑張ったのよ」
「……え?」
「やっと自分の気持ちに素直になれたから。もう我慢しなくても、苦しまなくてもいい……!」
「……何?」
「離婚するの。これからは、あなたはお父さんと暮らすの。私は、涼真と2人っきりで暮らす」
「どうして……っ」
「ふふふ……! 嫌いなのよぉ! 憎くてたまらなかったぁ……私を苦しませた貴方が。さようなら、柊真」 

 (中略) 

「このままじゃ、駄目だ……あいつがいる限り、俺らは、自由になれない……。終わりにするんだ……!」

-「星合の空」 第12話より

 

しばし呆然として、ハッとなって、無心で検索エンジンに「星合の空 その後」と打ち込んだ。「星合の空には、その後の彼らを描いたショートムービーがある」という話をほんのりと記憶していたからだ。 

そうして、自分は贅沢にも最終回から数分後に「それ」を見届けることができた。

 

 

舞台は最終回から2年後、高校1年生となった彼らの姿は例外なく衝撃的で、かつ「納得」させられるものだった。 

ソフトテニス部を立ち上げる凜太朗と太洋。自分の存在に自信のなかった凜太朗と、親の過保護の為に気弱なまま育ってしまった太洋――が、共に「一から部活を立ち上げる」という大胆な行動に踏み切っていた。それだけでも2人の更なる成長を感じることができたし、特に凜太朗は「最終回の向こう側で産みの親と再会、自身の中にあるわだかまりを払拭できた」のだろう、と思わせてくれるのが嬉しかった。 

翅は一人、別の高校でソフトテニスを続けている様子。彼が無事に復帰できたことは勿論、胸が熱くなったのは彼が「不真面目な部員たちに憤慨している」こと。不真面目な部員筆頭だった彼がこうして柊真のようなポジションになっている姿には、彼の中でのソフトテニスが、もはや「サッカーの代わり」ではなく、文字通り青春を捧げるに値するものになったのだろうと感じさせてくれる。  

皆が一般的な高校に進む中、なんと防衛学校 (おそらく) に進学した晋吾。防衛学校はまず間違いなく寮生活になるだろうし、やはり継母との関係が改善されなかったからだろうか――とも思ったけれど、彼がこの道を選んだのは、きっとそれ以上に「人々のヒーローになりたかったから」なのだろうと思う。そのことは、彼の晴れやかな表情が何よりもはっきりと物語っている。 

樹は急激に伸びた身長が目を引くけれど、よく見るとラケットを背負っており、ソフトテニスは続けている様子。仲間たちと楽しげに帰っている辺り、彼は高校でも信頼できる仲間たちに出会うことができたようで、こちらも微笑ましい気持ちで胸が暖まる。ところで、樹が一人だけシャツでなくパーカーなのはどういう状況なんだろう……?

 


「子どもを持つ」という選択の意味 - 月ノ瀬直央について

 

ボサボサの髪、崩れた服装、不良風の仲間、喧嘩の跡が伺える手の甲の傷、テニス部の練習風景を見つめる複雑な面持ち、そして、以前より淀みを増しているようにも見える真っ暗な瞳――。 

作中における直央の物語は「母親からの電話を無視する」「母親が、幼少期の直央が映った待ち受け画面を手で包み込む」という、この上ない不穏さと共に終わっている。その後、彼には一体何が起こってしまったのだろう。

 

まず、高校に通っている辺り「親と完全に袂を分かつ事になった」訳ではないらしい。かといって、あの髪型や服装を母親が許すはずがないだろう。 

その上で直央が「ソフトテニスをやっていない」=志城南中時代のあの頃の輝きを懐かしみつつも「触れたくない」状況にあること、あの濁った瞳がより淀みを増していること、不良たちとつるんでいること……。これらに筋を通すなら、下記のような経緯が想像できないだろうか。 

・母親がソフトテニス部に致命的な損害を与える 

・直央がソフトテニス部にいられなくなる 

・直央が退部、母親と喧嘩になる 

・両親が離婚、母が家を出ていく 

・父親と2人暮らしになり、直央は「自分がテニスを始めたせいで」と罪悪感に苦しむ 

・父親から放置される 

・勉強に身が入らず、誰とも同じ高校に行けなかった 

ソフトテニスをやりたくても、上記の出来事がトラウマとなりできない。そのストレスや罪悪感から非行に手を染めるようになり、不良たちと共に過ごすようになる  

もし、このような出来事が少なからず起こっていたのだとしたら、それはあまりにも痛ましい――けれども、作中描かれた直央の家庭は、このような悲劇がいつ起こってもおかしくない、さながら時限爆弾のような状態だったように思う。

 

 

『星合の空』で描かれる毒親はいずれも (異様なまでに) ディテールが細かかったけれども、自分が特に「リアルさ」を感じてしまったのが直央の母親。 

自分の価値観を一方的に押し付け、反論を許さない……のに、直央がやむを得ず了承すると「やっぱり」「だと思ったわぁ」などと言い、まるで「自分が息子のやりたいことを汲み、それを叶えてあげた」かのような口振りになる。そうして自分を「良い親」だと思い込み、自分の支配欲や「息子を操り人形にしている」事実に気付かない……。こういう存在に自分は大いに心当たりがあるし、だからこそ彼女の一挙手一投足に歯軋りせずにはいられなかった。 

彼女が持っている愛情は、断じて直央に向けられたものではないし、そもそも愛情ですらない。エゴと自己陶酔が作り出した幻であり、強いて言うなら「自己愛」だ。 

自己愛が強いからこそ、直央を対等な一個人ではなく「下僕」「ペット」のように捉えている。直央が可愛い頃は「こんなに可愛い赤ん坊を産んだ自分」に酔えるが、成長してからはそうでなくなる。だからこそ彼女は「可愛い頃の直央」を待ち受けにしたままなのだろう。 

直央を対等な一個人ではなく「下僕」「ペット」と認識しているからこそ、直央が「自分のコントロール下」にない状況が許せない。自分の掌の上で踊らせていた者がそこから離れることで「支配」が薄れること、自身の優位性が脅かされることが我慢できないのだ。 

自己愛が強いからこそ、自分の価値観が絶対だと思うし、それを「押し付けている」認識を持たないために「あなたのため」とわざわざ口にする。細かい理屈を説明せずに「思いやりのある親」を演じつつ、従わなければ「自分の優しさを無下にする駄目な子ども」と切り離せる、毒親にしてみればこの上ない「お得」な言葉だからだ。 

自己愛が強いからこそ、自分の知らない世界 / 価値観に触れるのを嫌がり、触れもせずに「無意味なもの」と決めつける。それは自身の「無知」を晒すこと=絶対性を揺るがすことであり、強い自己愛がそれを許さないからだ。

 

 

「子どもを持つ」という選択に対して、世間はとかく無責任だと思う。 

そもそも、人は自分を見るのが嫌いなことが多い。ビジュアルの話ではなく「誰かの行動に苛立つのは、それは  “自分の嫌なところの鏡映し”  だから」という説があるように、誰かを通して「自分の愚かさ」に向き合うのが嫌、というような話だ。少なくとも、自分はこの類いの話にいくつも心当たりがある。 

にも関わらず、世間の人々は「子どもが欲しい」という。自分を見るのが嫌いなのに、莫大なリスクを背負ってまで自分の分身を産み出すことを望む。色々な人にその理由を訊ねたけれど、返ってくるのは概ね「可愛いから」「家庭を持ちたいから」の二択だった。

 

「可愛いから」は個人的には論外だ。子どもは成長する=可愛くなくなるものだし、「反抗期」は必ず訪れる。そんな子どもを、そんなモチベーションだけで愛せるのだろうか。それとも「血を分けた子ども」なら無条件に可愛いと思える、と思っているのだろうか。正直、それは絵空事……ないし楽観的な妄想にしか思えない。
 
一方、男性だと「可愛いから」と答える人よりもずっと「家庭を持ちたいから」という回答が多かった。 

そう思えるくらい幸せな家庭に生まれたんだな、という個人的な僻みはさておき、ここで気になるのは「自分にも幸せな家庭が築ける」というその自信。というのも、この世の中で「幸せな家庭を築く」ことは極めて難しいものではないだろうか。 

パートナーと最良の関係であり続けること。 

十二分なお金を稼ぐこと。 

子どもが心身ともに健康であること。 

子どもが環境に恵まれ続けること。 

子どもが自分自身と相性の良い性格であること。 

……これだけ挙げても、その中に「親の努力で補えるもの」がどれほどあるだろう。子どもがハンデを抱えることなく生まれ、心に傷を負わないように過ごし、才能や仲間に恵まれ、生き甲斐を持つ……。全てとは言わなくても、その多くを満たさなければ子どもは人生を楽しいとは思えないだろう。「その不確定要素の多さも含めて、子どもの人生に責任を持たなければならない」という責務の想像を絶する重さは、考えるだけで身体が芯から震え上がってしまう。

 

相手は選ぶが、子どもが欲しい、あるいは実際に持っている人に「自分は子どもを持つメリットよりデメリットの方が大きいと感じるから、子どもを持ちたいと思えないんです」という考えを投げ掛けることがある。すると返ってきたのは、僅かな例外 (筋の通った、合理的な考えを聞かせてくださった方が数名) を除くと「考えたこともなかった」「意外となんとかなるものだよ」という二択。 

その答えを受ける度に、自分はつい心の中で「そういう甘さで生まれ、自分の人生を呪う子どもがどれほどいるだろう」と毒づいてしまう。 

けれど、そのような「リスクを考えずに子どもを作る人々」がいるからこそ、この社会は回っているのだろう。自分が日頃仲良くさせて貰っているような「親の器」を持った方々=「慎重に検討し、それでもという決断の上で子どもを持ち、その人生に責任を持つ覚悟を決めている」人は、きっと全体の半分にも満たないのだろうから。

 

 

直央の親は、果たしてどういった思いで直央を産むと決めたのだろう。そこに「子どもを産む」ことへの、ないし「子どもの人生を背負う」ことへの葛藤はあったのだろうか。それがなかったからこそ、子どもを愛玩対象としてしか認識していなかったからこそ、彼女は直央が自分の理想から外れることが許せず、こうして彼を縛り付け、苦しめ、その青春を地に貶める結果となったのではないだろうか。 

自分は何も「反出生主義」という訳ではない。前述のように「然るべき人」が「然るべき過程」を経て、自ら望んで子どもを持つ分には賛成だ。自分が忌避しているのは「親になる」ことそのものが「絶対的な幸福」を約束するものと思い込み、無責任に、ないしエゴイスティックに子どもを作り、結果子どもの人生を狂わせる親の存在や、その点から目を背けがちな世間の風潮。 

勿論「子どもを持つ」ことを無条件の幸福として推奨し、神格化しなければならない理由があるのも分かる。とりわけ、一定の作品ジャンル (子ども向け作品など) ではそれが必然となることは十分に理解しているつもりだ。 

法はその正しさが基盤にあるが、人間はそれを盲目的に信じるのではなく、常にその正当性に向き合い、議論していく必要がある。同じように、世間は子どもという存在を祝福し、子育てを全力で応援するべきだと思うけれど、同時に「その陰で傷付く子どもたち」の存在にも向き合い続けなければならないと思う。そのためにも、この世界には『星合の空』のような作品――「親になる」ことが持つ正の側面だけでなく「負の側面」に真正面から向き合う作品が、これからも生まれ続ける必要があるのではないだろうか。

 


終わらない / 終われない物語


ソフトテニス部員たちのその後を描き、暖かい未来を垣間見せてくれたスペシャルムービー『その後の彼等… 』。しかし、この映像では背筋が凍ってしまうような暗い「その後」もまた描かれていた。直央の一件、そして「眞己と柊真のすれ違い」だ。

 

「放っとけばいい……。あいつは、もう俺とは会いたくないだけなんだろう」
『駄目だな……。センスがない、何度同じミスをする? これ以上続けても無駄だ……もういい、他の奴を探す』

- TVアニメ「星合の空」プロダクションノート 第4回『その後の彼等… 』より

 

誇張でもなんでもなく、開いた口が塞がらなかった。エピローグで完結しないどころか「更に新たな問題が浮上する」だなんて、こんな事態を予想できたファンが一体どれほどいるのだろう。眞己が (殺人未遂で捕まった、というところまではあるかもしれないけれど) 取り返しの付かない領域に踏み込まず済んだらしいことには安心できたけれど、まさかここに来て「柊真と絶縁状態」という最悪の事態が無から生えてくるとは思わなかった。 

……いや、訂正。「無から生えてくる」というのは誤りだ。最終回までほぼ才能とセンス、運動神経で突き進んでしまった眞己が「それだけでは戦っていけない世界=高校でスランプに陥ってしまう」ことも、そこでペア=柊真との間に確執が生まれてくることも『星合の空』という作品のリアリティなら十分に考えられるし、それは「保護命令が発令され、京終健二の恐怖から解放されたであろう眞己」に対し、「離婚が成立し、2年間状況が悪化する一方だったであろう柊真」という2人の状況を考えれば尚更かもしれない。

 

 

赤根氏直々に「13話以降のPV」とコメントされている『その後の彼等… 』。その言葉を素直に受け取るなら「高校生編」が2クール目になるのだろうけれど、防衛学校に入学した晋吾がレギュラーとして登場できるのか、ダイジェストや回想で済ませるには最終回直後に起こるであろう事件が多すぎないか……といった懸念点も多いため、「13話以降のPV」というコメントはあくまは便宜上のものであり、「1クール目」⇒「2クール目」⇒『その後の彼等… 』という時系列なのかもしれない。 

その真相は赤根氏のみぞ知ることなのだろうけれど、自分が朧気に感じているのは『その後の彼等… 』が2クール目でもその更に後の話だとしても、どちらにせよ「全ての問題が、綺麗に解決する」ことはないだろう、ということだ。

 

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確かに、2クール目以降があれば解決する問題もあるだろう。 

凜太朗は産みの親と再会して自分のコンプレックスを払拭できるだろうし、『その後の彼等… 』の内容からは、翅や太洋が自らの背負った問題に決着を付けられたであろうことが窺えるし、樹や晋吾については本編時点で半ば決着が付いていた。 

しかし、それ以外の面々はどうだろう。 

眞己を苦しめる京終健二の存在は、果たして保護命令のような行政処分だけで綺麗に取り除くことができるのだろうか。 

柊真と母親の確執は、たった2年で解消できるものなのだろうか。 

道を踏み外してしまった直央を、そう簡単に救い出せるのだろうか。 

夏南子の努力が実を結ぶ日は一体いつ来るのだろうか。 

悠汰はいつ「自分自身の望む在り方」を見付け出せるのだろうか。 

そして、彼ら彼女らが心に負ってきた深い傷は、一体いつ癒えるのだろうか――。 

これらの問題は、作品によっては感動的に、綺麗さっぱりと解決するのかもしれないけれど、『星合の空』はそうじゃない。どこまでも誠実で、だからこそ敢えて残酷に「現実」を直視するこの作品は、理想や希望を描く作品たちとはそもそもの役割が異なっているからだ。

 

だから、きっと彼らの苦悩は、2クール目が描かれても、その先が描かれても、きっとそう簡単には終わらない。 

京終健二に行政処分が下されても、彼が生きている限りその恐怖は「0」にはならない。 

「貴方のことが嫌いで、憎かった」とまで言う母親が柊真に詫びる未来は、ともすれば永遠に来ないかもしれない。 

道を踏み外してしまった直央は両親には決して救えないし、仮に太洋たちにそれができたとしても、直央に深々と刻まれた自己否定と後悔が無くなることはない。 

夏南子が選んだ「絵を仕事にする」という道は長く険しい。彼女がどんなに大成しても、そこから「失敗」や「挫折」の影が消え去ることはない。 

もし悠汰が「自分自身の望む在り方」を見付けられたとしても、彼にとって生き辛いこの世界の「構造」はそう簡単には変わらない。 

彼らはその後も(『星合の空』1クール目がそうであったように)時に幸せを得つつ、時にそれ以上の「呪い」に苦しみ続けることになるのだろう。それはとても残酷なことだけれど、同時にアニメ作品としては類い希なほど「リアル」でもある。 

他の作品では目を背けてしまう (背けざるを得ない) ような残酷さに正面から向き合っているからこそ、『星合の空』には他作品とは異なる特別な感情移入ができる。だからこそ、眞己たちの辛さは殊更に響くし、彼等の手にした束の間の幸せが骨の髄まで染み渡る。そして何より、この作品の発するメッセージ――隣人に対し、その辛さを「理解した気になる」のでも、逆に「自分には分からない / 関係ないから」と捨て置くのでもなく、その痛みを想像し手を差し伸べられるように、という祈り――が、現実味を持った言葉として胸を打つ。 

しかし、自分はきっとこのメッセージにおいそれと頷ける人間ではない。 

自分は眞己たちよりもずっと子どもで、隣人への思いやりを欠くことも多く、友人への接し方を誤ってしまうことも数知れない。「人の痛みを想像し、手を差し伸べられるように」という本作の祈りに、こうして文章を書いている自分自身が全く応えられていない……だなんて、そんなに情けないことがあるだろうか。 

だから、自分が今しなければならないのは、続編が出るように祈り、本作を応援すること――と、同じかそれ以上に「人の痛みを想像し、手を差し伸べられるような人間」になるよう努めること。それこそが、『星合の空』という作品に対する一番の「礼儀」だと思えてならない。

 

 

そんな『星合の空』は、現在U-NEXT他各種動画配信サービスにて配信中。 

「万人に勧められる」訳でもなく、完結さえしていないとしても、この作品には唯一無二の物語=「人として向き合わなければならない」こと、「目を背けてはならない」こと、そして何より、そのような艱難辛苦に直面しつつも決して前を向くことを諦めない、子どもたちの輝ける心 / 在り方が詰まっている。だからこそ、世の中にはきっとまだ多くの『星合の空』が届くべき人、あるいは眞己たちの物語に「救われる人」がいるように思うのだ。 

この作品が、そんな「届くべき人」たちに一人でも多く届きますように。そして、いつかの時間、どこかの場所で、眞己たちに平穏で安らかな「日常」が訪れますように。