【感想/考察 スーパーダンガンロンパ2】異端なる正当続編~日向創の“超高校級”に前作プレイヤーは何を見るのか

 

スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園 (通常版) - PSP
 


発売から幾年月が経ち、遂にクリアした『ダンガンロンパ1・2 Reload』。収録された2本のゲームはどちらもたまらなく楽しいものだったが、そのうち『スーパーダンガンロンパ2』は待ちに待った完全初見=言わば“本番”であり、プレイ前のワクワク感たるや凄まじいものだった。


直前までプレイしていた『ダンガンロンパ(以下“無印”と記載)』は、アニメを視聴済みだったため大筋を把握した上でのプレイとなったが、それでもストーリーをより深く読み込むことができたり、コトダマアクションのようなゲームならではの要素に一喜一憂したりと、想定していた以上に楽しくプレイすることができた。なら、ほぼ0からのスタートと言っていい状態で挑む『2』は一体どれほどのものを見せてくれるのだろうか……?


“無印以上の地獄”という前評判を聞き、自分のメンタルへの心配と不安と相当な覚悟を抱えて挑んだ本作。以下はしがないオタクのコロシアイ生活体験記その2、『スーパーダンガンロンパ2(以下“2”と記載)』編になります。

 

 

※以下、ネタバレ全開のため注意!

 

 

 

 

 

 


スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園


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『2』は、そのタイトル通り無印から数々の進化を遂げた正当続編だ。ゲームとしての大まかな作りはハードが同じこともあって無印とほぼ共通。グラフィックの向上は勿論のこと、インターフェースの改善にやりこみ要素の追加など、続編として非常に生真面目なブラッシュアップがなされている。


目玉となる学級裁判でのアクションやミニゲームもよりバリエーション豊かになっており、この点もまた正当進化と言えるポイント。中でも“反論ショーダウン”と“同意”は議論やストーリーの流れに特に噛み合っており、物語の盛り上がりに一役も二役も買っている。日向の「それに賛成だ!」は、苗木の「それは違うよ!」とはまた異なる、彼らしい魅力に溢れた決め台詞だ。

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他にも様々な魅力を持った『2』であるが、中でも注目したいのはそのストーリー。『無印』はその奇抜なゲームシステムやサイコ/ポップな独自の世界観が魅力である一方、非常に明快で前向きなテーマを謳うストーリーが大きな魅力を放っていた。では『2』はというと、世界観は概ね継承しているものの、イントロダクションの時点で“何かがおかしい”雰囲気を醸し出すものになっていた。

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その顔ぶれが主人公を含めて一新されたメインキャラクターたち。彼らはかの事件で壊滅したはずの希望ヶ峰学園の生徒であり、更には“修学旅行が舞台”というトンチンカンな状況。一見すると無印と別の世界線の話、もしくは前日譚のようであるが、猛烈に太っている十神の姿がその予想を押し潰してくる。誰だお前……?

 

更にダメ押しとばかりに現れるのは、苗木誠のアナグラム風の名前と緒方恵美女史の声を持ち、極め付けには苗木と同じ“超高校級の幸運”である狛枝。どれもこれもが無印をプレイしたファンとしてはワクワク待ったなしの要素ばかりで、「無印をプレイしてくれてありがとうございます! 最高の続編を用意したので是非ご賞味ください!!」というスタッフからの歓迎の手招きが透けて見えるようだった。

 

 

しかし。

 

 


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絶句。

蓋を開けてみればそれらの手招きは盛大な釣り餌で、待っていたのは大きな大きな落とし穴だった。最初の事件における犠牲者は他ならぬ十神であり、加えて狛枝こそがその元凶という驚愕の真相が明かされる。“続編もの”の芳醇な香りに釣られやってきた無印プレイヤーを限界まで叩き落とすこの展開は、歓迎どころか「無印をクリアしたくらいでいい気になってる君に最高の地獄を用意してやったぜ!」というスタッフの宣戦布告のようでもあり、事実、この最初の事件を持って『2』は真に始動していくこととなる。

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『2』も物語の大筋は無印と共通しており、閉ざされた空間でコロシアイ生活を強いられる“超高校級”のキャラクターたちが、学級裁判を通して絶望に立ち向かっていく姿を描いたものになっている。どちらもほの暗い世界観こそ共通であるが、オムニバス風味の痛快推理劇だった無印に対し、『2』は更に重苦しい空気感の下で強い縦軸を持って進む、言うなれば青年漫画風味の物語だった。


そんな『2』の核の一つは勿論、主人公こと日向創である。日向は苗木のような“超高校級の希望”の核となり得る強い心も前向きさも持たない本当にごく普通の少年で、自身の“超高校級の才能”が思い出せないことから仲間たちにコンプレックスを抱いている(声帯からして“超高校級の探偵”だと一瞬でも思ったのは筆者だけではないはず)。“胸を張れる自分になる”という真っ直ぐで人間味のある目標も相まって、ある意味苗木よりも忠実なプレイヤーの写し身となり得る等身大の主人公だ。

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そんなプロフィールのためか、序盤の彼は周りに心配されても斜に構えたり、苗木と異なり仲間の死に心を閉ざしかけてしまったりと(本来ならそれが普通なのだが)マイナスな印象の描写が多く、執拗なまでに“等身大”なキャラクター造形になっている。

 

しかし最後までプレイしてみれば、日向創という主人公がマイナスから始まることそのものが『2』のミソであった。最終局面で判明する彼の正体は、人工的な“超高校級の希望”こと万能の天才“カムクライズル”の器であり、日向創そのものは“超高校級の才能”を持たない予備学科生、つまりは正真正銘“ごく普通の一般人”に過ぎなかったのだ。


『2』は、そんなマイナスからの始まりを強いられたものの、奇しくも学園生活の記憶を奪われたことで他の“超高校級”の面々と同じスタートラインに立つことができた日向が、仲間たちとの絆を糧に成長し、最終的には“超高校級の希望”こと苗木を越え得る存在に到達するという成長物語であった。

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主人公の成長というテーマは古今東西どのような作品でも用いられる王道中の王道であり、無印においても主人公である苗木は大きな成長を見せていた。日向と同じく自らの平凡さにコンプレックスを持つ彼が、持ち前の前向きさを糧に絶望に立ち向かい“超高校級の希望”に進化していくというストーリーは痛快なカタルシスに満ちたもの。しかし、苗木が日向と異なっていたのは、その成長が序盤である程度完成されていた点である。

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苗木は『無印』1章において心が折れかけてしまうも、霧切らのサポートを受けつつ立ち上がり、裁判後には舞園ら仲間の死を「乗り越えたりせず、引き擦っていく」という強い決意を口にする。この時点で彼という主人公はある種完成されており、2章以降は口数の少ない霧切や、冷静さを欠くことの多い石丸などに代わり周りを引っ張る場面も見られるようになっていく。これは霧切という頼もしいパートナーが最序盤から苗木や仲間たちの精神的支柱として機能していたことや、苗木自身の持っていた“前向きさ”という“超高校級の希望”の核となる素質など、様々な要因が可能にしたものだろう。

 

 

対する日向は、前述のように苗木以上の平凡な少年である。“超高校級の才能”は元より、能力も心も目立った特徴を持ち合わせている訳ではなく、更に皆を支え得る存在だった十神は最初の犠牲者となり、1章において日向を導いた狛枝に至ってはその事件の元凶であった。奇跡的に皆と同じスタートラインに立った彼は、一歩前進するどころか早々に更なるドン底へ突き落とされてしまったのである。


だが彼は数多の学級裁判を経て、着実に成長を果たしていく。その糧となったのは七海ら仲間たちとの絆であり、「コロシアイを起こさないでくれ」というペコの願いや「生きることを諦めるな」という田中のメッセージなど“死んでいった仲間たち”の残した想いもまた、日向の成長を力強く後押ししていった。それら多くの想いを無駄にしないためにと、傷付きながらも懸命に立ち上がる日向の姿には胸を打つものがある。第3の学級裁判にて、罪木に最後の証拠を突き付けんとする彼が漏らした「怯むな、臆すな、逃げるな……!」という言葉はそんな日向をこの上なく象徴したものであるし、人の想いに誰よりも深く向き合っていける感受性は“特別な才能”とは言えないまでも、間違いなく彼の強さであり才能の種であったと言えるだろう(彼がもっと早くにそのことに気付き、自信を持ってさえいれば、あるいは九頭龍の言う“超高校級の相談窓口”となる未来もあったかもしれない)。

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一方、その成長に対し壁となって立ちはだかるのが、本作のもう一つの核であり“影の主人公”とも言える狛枝凪斗だ。f:id:kogalent:20200914233944j:image

彼は日向らと同じコロシアイ修学旅行の参加者でありながら、敵でも味方でもなく崇拝する“希望”の徒として動く第三勢力であった。日向(プレイヤー)らを翻弄しつつ1人真実/絶望に近付いていく彼の存在は、緒方恵美女史の狂気と色気溢れる名演もあって『2』のエンジンとなっており、同時に『2』におけるライバル/アンチヒーロー的なポジションを一手に担ってもいる。

そんな彼を様々な意味で象徴する台詞であり、1章でのみ聴くことができる「それは違うよ……」に震えたり奇声を上げたりしてしまったプレイヤーは多いはず(私は後者)。もっと聴きたかった……。

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しかし、彼が“影の主人公”と言える真の所以は、その在り方が日向と美しいほどに相反している点にある。

日向は“超高校級の才能”を持たない予備学科生で、仲間と共に歩むことで痛みを受け止め、前に進むことができる一般人。一方狛枝は、己の持つ“超高校級の才能”によって、ただの一人で、痛みを厭うことなく進み続ける特異な存在。その狛枝が日向を翻弄し先を行くということは、日向の歩みそのものを真っ向から否定する事でもある。仲間たちの想いを背負い進む日向にとって、狛枝は“仲間たちのためにも”越えなければならない存在であったのだ。


そんないかにも宿敵然とした日向と狛枝だが、実のところ“似た者同士”という側面も持っていた。特別な才能を持たないが故に希望を求め、希望に縛られていた日向と、“超高校級の幸運”という才能に縛られていたが故に希望を求めていた狛枝。共に“才能”という概念に囚われているお互いの在り方からか、狛枝は日向が自分と同じ“希望の傍観者”であるとして親近感を抱いており、日向もまた(彼の奥底に近しいものを感じるからか)狛枝を憎みきれずにいる、といった奇妙な関係性が何度も描かれていた。だが、だからこそ“近しい在り方”でありつつ“超高校級”である狛枝はまさしく日向の影であり、これまでの自分から成長/脱却することをテーマとして背負った日向にとって、狛枝は“自分自身にとっても”越えなければならない存在でもあったと言えるだろう。

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数々の因縁をその身に抱えた狛枝だったが、こうした“主人公と相反する在り方で状況を掻き回しつつも、邪険にできない不可思議な心根を持っている”人物だったからこそ、彼は終盤まで敵でも味方でもなく、しかし日向らの壁として立ちはだかり続けるという特異なポジションであり続けることができたのだろう。

 


成長する日向、壁として立ちはだかる狛枝。
それぞれの道を歩み、片や希望を、片や絶望を手にしていく両者の関係性は、コロシアイ修学旅行最後の殺人事件となる5章で遂に爆発する。

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『2』最大の見せ場と言っても過言ではない5章。あの狛枝が殺人の被害者になるという点そのものも驚きなのだが、何よりの衝撃は、狛枝という人間が持つ狂気がこれでもかと凝縮されたその学級裁判にあった。


“絶望の残党”であった日向ら五人を殺し、未来機関の使者だけを生き残らせるという、“希望への奉仕”に自らの命と才能を捧げる狛枝の澄みきった狂気。そして最後の一手に自らの“超高校級の幸運”を用いることで推理そのものを封じるという、狛枝にのみ許された完全無比の策略。誰よりも希望を愛し、誰よりも自分の才能に囚われ、それでいて誰よりも純粋である狛枝にしか作り得ない、まさしく“最大最後の”学級裁判である。

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また、この学級裁判が『無印』江ノ島戦以来の“VS”図式を取っている点にも注目したい。『ダンガンロンパ』は推理モノの基本とされる「犯人が誰なのか分からない→物語終盤で決定的な証拠を掴み特定→直接対決」という王道の図式を取っているが、『無印』の江ノ島戦と『2』のこの裁判に関してはドラマ『刑事コロンボ』などに見られる「序盤で犯人を特定→直接対決の中でそのトリックを打破していく」という、犯人との攻防そのものをメインに据えた図式(に類するもの)を取っている。

 

これにより、モノクマ(江ノ島)/狛枝という、それぞれの作中において立ちはだかった壁と主人公たちとの満を持しての直接対決が存分に描かれることとなる。後のことを踏まえると“前作ラスボス戦と似た図式”が取られているのは、やはりこの裁判が『2』のラストとしての意味合いを一定量持っているからかもしれない。

 

 

日向の対極の存在として常にその上を行き、翻弄し続けてきた狛枝。日向たちが積み上げてきた“仲間たちとの絆”という希望が絶望を打ち砕けるほどに輝くものであるかどうか、その審判を実質的に狛枝が下すというこの展開は、狛枝という男のラストステージとしても、日向の成長物語のラストステージとしてもこの上ない見事なシチュエーションと言えるものだった。

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困難を極めた裁判は、紆余曲折の果てに事件のクロこと、未来機関の使者である七海の自白という形で幕を下ろす。日向らは七海・モノミの消滅と引き換えにその命を繋ぐこととなり、狛枝は自らの希望に殉ずる形で“超高校級の絶望”に一矢も二矢も報いて見せた。完全なるものではないにしろ、それは実質的に狛枝の勝利のようでもある。


しかし、この結末は間違いなく日向たちの掴み取った“勝利”だった。プログラムである七海は自らが未来機関の使者(裏切り者)であると誰にも打ち明けられなかったことを「“そういう風にできている”から」と語っており、本当ならば自白など不可能な存在だ。それを可能としたのは皆を助けたいという七海の想いであり、その想いを形作ったのは、他ならぬ日向たちが彼女と紡いできた絆。つまりはこれまで日向が積み重ねてきた“希望”そのものだった。そんな彼女の想いと全ての痛みを受け止め、日向は七海をクロに指名する。それはまるで自分たちを支えてくれた七海からの“卒業”のようでもあり、 美しくも悲痛に過ぎる別れだった。

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『2』が積み上げてきた希望と絶望の集大成とも言えるこの一連。奇しくも狛枝は、自らが求め続け、その礎になりたいと願っていた“希望が最も輝く瞬間”を自らの手で作り出すこととなった。そういった意味でも、この決着は『2』における2人の主人公が迎えたエンディングとしてあまりにも“正しい”もののように思えてならない(個人的に、日向についてはここがある種のトゥルーエンド、6章~エピローグが“真エンド”のようなものだと感じている)。


だが、この決戦が本作のエンディングとなることはない。それはストーリー的な意味では勿論のこと、何より日向が主人公として紡いできた成長にピリオドを打つ最後のピースが欠けているからである。

 


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七海との別れを経て『2』が一つの区切りを迎えたことをきっかけに突入する最終章。舞台は遂に『無印』と繋がり、全ては『無印』のその後にあたる時間軸で起こっている“更正プログラム内での出来事”であったこと、黒幕の正体が江ノ島の残したアルターエゴであったこと、日向の正体がカムクラであることなどが怒濤の勢いで明かされていき、日向らは正真正銘最後の戦いに突入することになる。


不二咲アルターエゴの再登場、“11037”による論破、『2』仕様の反論カットインと『無印』のBGMを引っ提げて参戦する苗木、続けて現れる霧切と(本物の)十神。最高級のファンサービスが雨あられと降り注いだ先で日向に与えられたのは、“超高校級の希望になり得るか、あるいは越えられるか”という文字通りの最終試験だった。

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最終章は、まず前半が(作品性質上避けられないことなのだが)コロシアイ修学旅行、そして『無印』との繋がりについての種明かしパートとなり、中盤は江ノ島の登場~苗木らの参戦によって完全に『帰ってきたダンガンロンパ』状態となる。秀逸なファンサービス要素のような魅力もあるし、シナリオ上仕方ないことではあるのだが、この前~中盤は特に要素の渋滞ぶりが否めず、展開が非常にスムーズだった『無印』最終章や『2』5章の盛り上がりに比べるとこの『2』最終章は些かバランスを欠いてしまっている。しかし、これらの要素も含めることでやっと日向の物語が真に完結する点には思わず膝を打った。

 

『2』の物語は、前述の通り日向創の成長を核として描いてきた。5章までの戦いを経て彼は“希望”の担い手として一つの成熟を見るが、それでは同じ主人公であり“超高校級の希望”の苗木に及ばぬ存在として終わってしまうに過ぎない。そこで彼に与えられたのが“真の主人公(超高校級の希望)になり得るか、あるいは越えられるか”という命題だ。

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苗木、霧切、十神の参戦により一同は江ノ島を追い詰めるが、彼女の切った最後のカード=プログラム世界を強制シャットダウンした場合、“絶望の残党”である『2』メンバーは“超高校級の絶望”に戻ってしまい、中でも日向はカムクライズルの人格に戻るため”日向創としての死”を迎える、という絶望的な事実により、日向たち5人は自分たちの存在と世界の平和を天秤にかけるという最悪の選択肢を突き付けられてしまう。

 

もしかしたら、強制シャットダウンを行っても日向の人格は消えないかもしれない。左右田、ソニア、九頭龍、終里は超高校級の絶望に戻っても更正できるかもしれない。そんな僅かな希望に懸けることが日向らにとって残された道であったが、そうだとしても、強制シャットダウンは七海ら死んでいった仲間たちの復活の可能性を絶ってしまうかもしれないという側面をも持っていた。そんな“自分と仲間と世界の存在を懸けた選択”のかつてない重さに対し、追い詰められた日向は「俺はそんな選択を下せるような強い人間じゃない」と心の中に閉じ籠ってしまう。日向が抱え続けてきた“自信/自己愛の欠落”という問題が、この最終局面において彼に牙を剥いてしまったのだ。

 

 

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元より、日向の物語は“自分を信じる心”の欠如から始まっていた。才能がない、他人に認められるだけのものがない。だからこそ彼は希望ヶ峰学園に憧れ、そこで“自信を持っていい理由”を獲得することに希望を見出だしていた。
そんな日向にとって“誰かを死に追いやっていくことの連続”であるコロシアイ修学旅行は、彼に大きな成長をもたらしはしても、決して彼に自信を与えるものではなく、むしろその心を苛み続けてきた。彼は自身の成長とは裏腹に、“胸を張れる自分”という目標から次第に遠ざかってしまっていたのだ。

 

しかし、そんな日向の自己認識には一つの根本的な誤りがあった。そのことを示していたのは、七海と共に消えていったモノミが日向たちの先生として残した最期の言葉である。

 

「無理に誰かに認められなくてもいいんだからね。そんなことで自分を責めたり他人を責めたり……でもね、そうじゃないんでちゅ。他人に認められなくても、自分に胸を張れる自分になればいいんでちゅ! だって……自分こそが、自分の最大の応援者なんでちゅから! そうやって自分を好きになれば、その“愛”は一生自分を応援し続けてくれまちゅよ」

 

“超高校級の絶望”に堕ちた『2』メンバー全員へのメッセージであろうこのモノミの言葉は、例外なく日向にも向けられている。日向に必要だったものは、誰かに認めて貰えるための理由――“才能”ないし何かしらの“ステータス”を得ることではなく、自分に胸を張れる自分であること。そしてそんな自分を信じてあげること。

 

閉ざされた日向の心象世界に現れた七海は、そんなモノミを含め、死んでいった仲間たち全員の遺志を継ぐかのように日向へメッセージを託す。

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「才能があろうとなかろうと、自分を信じる心こそが一番大切なもの」であり、この島で成長してきた日向はもう自分を信じていいと。自分を含め消えた仲間たちは、その想いを託した日向たちの道行きと共に在り、どんなことがあろうと消えはしないのだと。それら七海の言葉は、日向に欠け続けていた最後のピース=“自分を信じる心”を与えていく。

 

日向は常に仲間たちと共に困難を乗り越えてきた。そして彼らはこれからもずっと背中を押してくれている。そんな彼らを信じることで、日向は遂に“彼らの信じる自分を信じ、そしてその可能性を信じる”という境地に辿り着く。

 

答えを得た日向に「キミなら未来だって創れる」という最後のコトダマを託し消えていく七海。彼女の言葉を背に、日向は自分の中で囁く絶望(才能に縛られ、その果てに絶望へと堕した自分=カムクライズルの姿をした“かつての自分”)を乗り越え、確固たる“己”と共に覚醒する。

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覚醒を果たした日向は、七海から託された“未来だって創れる”という“可能性”のコトダマによって周囲の全てを論破/破壊していく。苗木の語る“希望”の通り、日向たちの生還には大きなリスクが伴う。江ノ島の語る“絶望”の通り、彼らにとっては選ばないことが最も楽な選択肢。そういった全ての発言を、論破する訳でなくただただ破壊していった。

 

日向の信じる“自分たちの可能性”は文字通りあくまで可能性であるため、何かを筋道立てて論破することはできない。だが逆に、何物にもその“可能性”や“それを信じる心”を否定することもできない。だからこそ日向はコトダマで全てを破壊し、自分たちを縛り付けていた選択肢(世界のルール)を「それでも俺は、自分たちの未来を信じている」と打ち崩していったのだ。

 


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恐るべき速度と威力でその場の発言を破壊していく日向の姿は、ロジカルに発言を論破するというルールの上で成り立つ『ダンガンロンパ』というゲームそのものをも破壊していくようであり、彼らの持つ“世界のルールを越えた新しい選択肢を創れる”という可能性=彼らに秘められた“未来”をプレイヤーにもありありと叩き付けてくる。


勿論、論破できていないことは疑いようのない事実であり、日向の覚醒によって状況が具体的に変わった訳ではない。自分を信じ、仲間を信じ、その可能性=未来を信じる日向が選ぶのは“強制シャットダウンを行って外へ出て、そこから自分たちの運命を変えていこう”という可能性を度外視した結論であり、江ノ島が「そんなの希望でも絶望でもない」と驚くのも当然だ。

 

しかし日向の叫びは左右田たち4人にも届き、彼らもまたそれぞれに仲間を信じ、自分たちを信じることで虚無から脱していく。苗木が希望を伝染させて絶望を乗り越えたように、日向もまた自らの“未来”を伝染させていくことで、自分たちを追い詰めた虚無の破壊、江ノ島の打倒を遂に成し遂げたのだ。

 


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己と仲間たちの未来を信じることで、希望にも絶望にも縛られない新たな道を切り拓いていく日向。そこには確かに“超高校級の才能”が現れているが『2』の作中でその正体が明言されることはなかった。

 

一見すると、それは苗木と同じ“超高校級の希望”のように思える。“超高校級の希望”が苗木の“前向きさ”から生まれたものであるように、日向のそれも“自分たちを信じる心”から生まれたものであるし、更には苗木同様“周囲への伝染”を行うことで状況を覆していたりと両者の共通点は多い。

 

だが、日向の“超高校級の才能”の核となっているものは“希望”ではなく“未来”だ。日向たちにとっての“未来”とは、エピローグでの苗木の言葉を借りるなら“懸命に前に進むこと”そのものであり、それ自体は希望でも絶望でもない。同時に、そのどちらにもなり得る/どちらをも壊し得る可能性の塊である。

 

これらのことを踏まえると、日向の“超高校級の才能”とは“可能性の塊=未来を伝染させ、あらゆる不可能を可能にしていく可能性の力”。すなわち『超高校級の未来』とでも呼ぶべきものではないだろうか。


勿論それは単なる予想でしかないが、少なくとも日向の手にした“才能”が仲間たちの存在があって初めて発現したものだということは間違いない事実だ。覚醒のトリガーを引いたのが七海なら、そこに至る日向の成長も仲間あってのもの。そして日向の言う“未来”もまた、仲間たちと一緒だからこそ進んでいける世界だ。そんな仲間たちと、その想いに深く向き合ってきた日向との絆が創り出した“超高校級の未来”は日向と仲間たちとの絆の結晶とも言えるだろう。

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仲間がいなければ力が出せないことは弱さだ、というのはその通りで、本編序盤の日向はまさにその証左と言える“何者でもない”存在だった。だが彼は仲間を得て、絆を育み、想いを受け取っていくことで、こうして“超高校級の希望”さえも越える力を引き出すことができた。“仲間との絆で生まれる力”には弱点こそあるが、発揮できる力は1人で作り出せるものよりも遥かに大きい。それこそが彼の辿り着いた“超高校級の未来”の真髄であり、人の想いに誰よりも深く向き合い、共に歩んできた日向創という人間の真骨頂のように思える。


“日向創は、彼1人では苗木誠(超高校級の希望)を越えることはできないが、仲間との絆があれば越えることができる”


この苗木と日向の関係は、漫画『DEATH NOTE』クライマックスにおける台詞「2人ならLに並べる 2人ならLを越せる」に通ずるものがある。主人公夜神月を後一歩の所まで追い詰めた名探偵『L』を継ぐものと目されながらも、彼に及ぶことなく侮られていた少年『ニア』が、自らと同じLを継ぐものとされていた少年『メロ』の尽力を受けて夜神月に決定的な罪の証拠を突き付けた際に放った台詞だ。


日向もまた、1人では決して苗木に及ばない。でも仲間となら苗木と並べる、苗木を越せる。彼のような前向きさがなくても、日向自身に超高校級の才能がなくても、絶望に負けてしまった過去があっても、希望が見えない暗闇の中であっても、それでも仲間との絆のようなそれぞれの理由やきっかけさえあれば誰にでも未来は拓くことができる。

 

“弱くてもいいんだよ”

 

という、このどこまでも優しく力強いメッセージこそ日向が悟ったことであり、本作『スーパーダンガンロンパ2』がプレイヤーに伝えたかったメッセージなのではないだろうかと、そう思えてならない。

 

 


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こうして振り返ると、プレイ時は聞いていた通り“無印以上の地獄”のように感じていた『2』も、思った以上に気落ちせずに思い起こすことができた。心が鍛えられたというのも勿論あるだろうし、アイランドモードで誰もが幸せなIFを見られたからというのもあるだろうが、何よりも大きい理由は、エピローグにおける日向の背中だろう。

 

本編後に日向たちがどういう顛末を迎えたのか、触れられはすれど詳しく語られることはない。それでも苗木たちを見送る彼の背中は、細かい言葉がなくとも“胸を張れる自分”に彼が辿り着いたことを示していた。そんな日向の背中を思うと、不思議とゲームを駆け抜けた自分の背中まで押されているような気分になってくる。こればかりは拗らせたプレイヤーの妄想などではなく、本当に、ただ素直に抱いている感想だ。


それは等身大の主人公であった日向の成長を見守り、追いかけ、共に走ってきたプレイヤー自身もまた、彼から大きな希望を貰うことができたから……という紛れもない事実なのだろうと思う。ゲームから何かを物理的に得ることはできないが、ゲームに生きているキャラクターたちから受け取ることができるものは数知れない。日向と七海が紡いだ絆のように、住んでいる世界が違っていようが、データが残っていようがなかろうが、受け取った大切なものがそこに“在る”ことには何の関係もないのだ。


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ダンガンロンパ』は絶望をこれでもかと突き付けてくるゲームであり、その点は疑いようもない。だとしても、苗木や日向たちはいつもそれ以上のものをプレイヤーに与えてくれる。


『2』以降もアニメやゲームで繰り広げられていくという希望と絶望、そして未来の物語。日向たちにまた会える日は来るのか、プログラム世界で散っていった仲間たちはどうなるのか。それらが明かされる日が来るのか来ないのか。現状は分からないことだらけだが、今はただ日向の背中を信じつつ、いつか訪れるであろう彼らとの再会に思いを馳せたい。

 

 

ありがとう『ダンガンロンパ1・2 Reload』。本当に素晴らしい作品でした。