こんな安心、感じたくなかった。-『進撃の巨人』第67話によせて

SNSでは憚られるので、ここで『進撃の巨人』第67話についてのやりきれない思いを思い切り書かせてほしい。

 

※以下、アニメ『進撃の巨人』第67話についてのネタバレが含まれます、ご注意ください※


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サシャが死んだ。

 

ガビを止めようとした兵士を撃ったのが彼女だと分かった時、正直嫌な予感はしていた。「いつかガビに報復として殺されてしまうかもしれない」と。そう、それは「いつか」だとばかり、思っていた。 

撃たれて、サシャが倒れた時は血の気が引いたけれど、それでも大丈夫だろうと思っていた。『ただいま』も、シガンシナ区奪還戦も、どんな窮地でも彼女は生き残ってくれた。ああ、多分彼女たち104期生はこの先も生き残ってくれるのかもしれないな、と油断しきっていたからだ。 

実際、サシャはすぐには死ななかった。死んでしまうならこんなに長引かせないだろう。ということはこのまま生還するだろう……と、どうにかこうにか希望を探そうとして、コニーがやってきた時に、その顔で全て察して頭が真っ白になった。 

でも、悔しいけれど、大人びた表情で市民を撃ち殺してしまう彼女の最期の言葉が「肉」だったのはせめてもの救いで、少しだけ安心してしまう自分もいた。彼女は、彼女のまま、このおぞましい世界で、自分を失ってしまう前に逝くことができたのだと、彼女は変わっていなかったのだと。……それが本当に安心なのか、そうでも思わないとやってられないのか、正直分からない。 

もし、サシャがSeason3以前、たとえば『ただいま』で巨人に食われていたらどうだったろう。自分はとても悔しくて、嘆いて、巨人を憎んだと思う。けれど、今になって思うのは「怒りは救いだ」ということ。憎むべき対象が、怒りを向けられる対象がいるならば、怒りをぶつけることがやりきれなさを解消する手段にもなるし、作品としても「報われる」時が来るだろう。 

けれど、ガビを憎むことができる訳がない。 

年端もいかない子どもであることは勿論、彼女にとっては、それこそサシャが「憎むべき相手」だ。親友たちを殺したエレン・イェーガーの仲間であり、自分を止めてくれた優しい兵士たちを目の前で殺した殺人者。マーレの大義だとかどうとかではない、彼女は文字通りの「被害者」であり、サシャは報いを受ける側になってしまっていた。そんな状況下、どうしてガビのことを憎めるだろう。

 

 

進撃の巨人』の登場人物の中でも、とりわけ好きなのがサシャだった。 

自分は個人的な性癖としてポニーテールが大好きで、まずファーストインプレッションで彼女が大好きになった……のだけれど、世の中ポニーテールのキャラなんてごまんといるし、なんならハンジさんだってポニーテールだし、他の「癖」までも併せ持つ驚異的なキャラクターだってわんさかいる。けれど、流石に「好きな属性をどれだけ持っているか」の足し算で誰かを好きになるほど自分も短絡的じゃない。そもそも、見た目だけで好きだったらこんな文章を書いている訳がない。 

だからといって、他の「好きな理由」を書き並べることに意味なんてないし、そういった感想を書く場所は他にある。ここに敢えて書き残しておきたいことがあるとすれば、それは彼女が時々見せる「悪い顔」について。彼女は食いしん坊で、欲張りで、食べ物の為なら一線を越えない程度で悪いこともするけれど、自分にとっては、そんな良くも悪くも「裏表のない」姿こそが大好きだった。

 

 

少し、自分語りをする。 

最近、ありがたいことに「コミュニケーション力がある」と言って頂ける機会が増えてきた。自分は「何かする度に人に迷惑をかけるなら、いっそ何もしなければいいんじゃないか」と壁を作った結果、当然のように友達が全くできず、ようやくできた居場所である演劇部に依存し、結果手痛いしっぺ返しを受けてしまった人間。その時の間違いを繰り返さないよう、友人たちとのコミュニケーションと「迷惑をかけないこと」を両立するよう頑張っているつもりなので、そう思って貰えるのは努力の甲斐があるというもの。素直に嬉しいことだ。 

けれど、その「頑張り」の中でも、どうにもならないことがあった。人の気持ちが分からないのだ。 

自分が信頼していた相手に、知らず迷惑をかけていたのか突如絶縁されたことは一度や二度じゃないし、人間不信とまでは言わないまでも、人の裏表には人並み以上に敏感、もとい臆病になっているところがある。(人の感情に敏感になれていたら苦労しない) 

だから……というこの繋ぎはとても良くないというか、不義理というか、失礼極まりないと思うのだけれど、サシャがそういう「悪いこと」をしていると、不思議とホッとしてしまう自分がいた。 

人間だもの、当然悪いことも考えるし裏もある。むしろ、そういった面が描かれるからこそリアルな人間性を感じることができる。けれど、彼女がしでかす「悪いこと」とは、常に食い意地が張っているだけ以上でも以下でもなく、それは普段の彼女と何も変わらない。だから、サシャがそんな悪い顔を見せれば見せるほど「彼女は本っ当に裏表がなく、見たままの良い子なんだ」と思えて、自分はそんな姿にむしろ癒されていたのだ。 

(念を押しておくと「だから普段悪いことをしないエレンたちは信用ならない」とかそういう話では断じてない。「欠点が印象的に描かれており、それが人間味や実在感に繋がっている」というのは、エレンたち本作のメインキャラクターに共通する大きな魅力だ

 

お前はサシャに救いを求めてるだけだろう、と言われればその通りかもしれないけれど。とにもかくにも、自分はそんな「ホッとする」ようなやんちゃな一面があり、素直で純朴で、同時に怖がりでもあって、だからこそ、その野性味溢れる幸せそうな食事風景にこちらまで嬉しくなって、どこかかつて飼っていたシマリスにも似ていて、それでいて、大切なものの為には向こう見ずに突っ走る勇気を持ったサシャが大好きで、画面に映るといつも頬が緩んでしまったし、ただ見ているだけで本当に楽しくて嬉しかった。それが『進撃の巨人』の作劇・作風がもたらすある種の吊り橋効果だったとしても、それでも、彼女が大好きなのは紛れもない事実だった。

 

 

理由はともあれ、「サシャを見ていると安心する」というのは、自分のような視聴者だけではなく、エレンたちも抱いていた感情だったのでは、とも思う。 

時間が経ち、戦いが激化し、勿論サシャも兵団の一員として心身共に成長していったけれど、それでも彼女が「食べ物大好きな芋女」であることは変わらなかった。皆が何かを捨て、変わらざるを得ない状況下において、彼女の「変わらなさ」が大きな救いだったことは想像に難くないし、それは彼女と長い付き合いで、かつ故郷を失ったコニーにとっては尚更だったろう。コニーが彼女を気にかけていたのはそういう想いもあるのだろうし、もし彼にとってサシャが心の拠り所であり、サシャにとっても彼が大切な存在であったのなら、そういう想いからコニーと手を重ね合っていたのだとしたら、彼の心中は察するに余りある。 

でも、そんなサシャだからこそ、ここで死んでしまった。The Final Season序盤でマーレ軍エルディア人たちへの愛着を育てさせた上で「どちらにも感情移入させるけれど、どちらも許せない」状況を作るためのトドメとして。こんなことを思いたくはないのだけれど、それほどまでに重い死をもたらすにあたって、サシャはまさに「格好の標的」だったのだ。

 

 

サシャの最期の一言は「肉」だった。それは、自分の好きなサシャが「取り返しの付かないことこそすれ、別物に成り果てた訳ではない」という安心にもなった……というのは述べた通り。だからこそ、自分はかつての面影を失った今のエレンとミカサを見ていられない。  

彼らはきっと、これからも心を磨り減らす戦いを強いられていく。全てが終わった時、彼らは彼らのままでいられるのだろうか。エレンがもし、顔だけでなく心まで動かさずに人を殺せるようになってしまったら、それは果たして「エレン・イェーガー」なのだろうか。そんな時が訪れてしまったら、ミカサは彼の姿に何を想うのだろう。 

以前、『進撃の巨人』を見る前に、この作品を「地獄のような話だと聞いている」と言った時、「地獄」という表現に疑問符を返されたことがある。当時の自分はその意味を理解できなかったけれど、今なら少し分かる気がする。 

エレンたちが味わっている苦痛は、こちらの想像を絶するもの。そして、この作品はそんな彼らの味わう苦痛を「他人事」と割り切れるものではない。だからこそ、冗談でもこの物語を「地獄」と表すことはできないし、表したくない。それがフィクションの物語であり、自分がその視聴者という立場だったとしても、創作を創作だからとを割り切れないのが幼稚さの所以なのだとしても、所詮気休めでしかないのだとしても、そんな想いでこの作品に向き合うことが、サシャという人物に対するせめてもの礼儀になるのだと、そう思いたい。

 

……本当に、本当にありがとうございました、大好きでした、そしてお疲れ様でした。どうか、コニーたちがあなたの遺志を繋いでくれますように。