友達とはなんだろう。
「友達が欲しい」と誰もが言うけれど、僕たちは、一体なぜ友達を欲しがるのだろう。
その理由は千差万別で、そのどれにも正解も間違いもないと思う。けれど、もしこの記事を読んでいるあなたが人生で一度でも「友達とはなんだろう」と思ったことがあるのなら……あるいは、そう思わせる何かに今も苦しめられているのなら。
さほど時間は頂きません。どうか、何も言わずに下記のリンクからこの読切漫画を読んで貰えないでしょうか。
「友達の話」(著:鎌田 コミックDAYS掲載 【2022年前期・第81回ちばてつや賞一般部門】奨励賞受賞作品)
※以下、筆者の至極個人的な感情を交えた本作の感想になります。読んでいて不快な思いをする方も多い内容になっています、そのことを了承して頂いた上で、もしご興味があればお進みください※
学校での苦しみを親に気付いて貰えない。
話し相手がいなくて、休み時間は机で寝ている。
「自分」という個人が求められた訳でなくても、名前を呼ばれる=自分が必要とされることが嬉しい。ほんの些細な頼みごとが嬉しい。
たった一人でいいから、友達が欲しい。
「友達ができた」と思っても、既にその人にはたくさんの――もっと、ずっと仲良しの――友達がいる。
そんな光景に後ろめたさを感じてしまう。
自分がいても邪魔だと思ってしまう。邪魔だと思われたくない、嫌がられたくない。
自分の存在が、楽しそうな2人にとっての「異物」にしか思えない。
「どこにも馴染めない自分」が当たり前になってしまって、「コミュニティの中に自分がいること」ないし「入ろうとすること」に違和感を覚えてしまう。
「既に関係がある」相手――たとえば幼馴染み――となら話すことができる。
そんな相手に「居場所」を見出だしても、相手は自分と違って前に進んでいる。自分にできないことができていて、自分一人だけ「過去」からさえ切り離されたような孤独に包まれてしまう。
そんな「自分と同じ場所にいたはずの誰か」の輝いた姿が、羨ましくて恨めしくて、そう思う自分が惨めで情けなくて嫌になる……。
これらの感情全てに「心当たりがない」と言える人間が、果たして世の中にどれほどいるだろう。
正直、自分はこれらに (どこからどこまでとは言えないけれど) どうしようもなく心当たりがあるし、本作の主人公=新奈が、とても「他人」に思えない。彼女の痛みが分かる、といった「共感」ではなく、彼女が自分と重なってしょうがなかった。
だから、どうか救われてほしい、彼女が少しでも報われてほしい――と、そう考えながら、無我夢中でページを送っていく。
そうしていくと、彼女の前には2人の少女が現れる。気さくなクラスメイトと、新奈の幼馴染みだ。
彼女たちは新奈に気兼ねなく接してくれる。会話か弾む。そんな2人は、客観的に見ればどちらも「友達」と言えるだろう。少なくとも、彼女たちは新奈に「友人」として接している。
それでも、彼女たち2人を見ていると思ってしまうのだ。「友達ってなんだろう」と。
2人に悪意はない。
クラスメイトは別の友人を新奈に紹介しようとしているし、幼馴染みの「女子には嫌われている」し「友達がいない」という発言はおそらく真実なのだろう。彼女たちに一切非はない。けれど、誰が悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃない。
“そう” なれなかった自分が恨めしくて、寂しくて、幸せな誰かが憎らしくて、世界全部が自分を傷付けているように思えて、かといって、そんな思いを打ち明けられる相手もいなくて、ただ現実逃避のために泣くことしかできない。
ただ、一人でも「友達」がいれば良かったのかもしれない。……なら「友達」って、何なのだろう。彼女たちはなぜ違うのだろう、どういう相手なら、ここで言う「友達」なのだろう。
どこまでが自分だけの気持ちで、どこまでが新奈も思っていることなのかは分からない。それほど自分は彼女に共感してしまっていたけれど、彼女がこの状況で救われる方法が見えなかった。いつかの自分が救われなかったからこそ、彼女が救われる景色が想像できなかったのかもしれない。
けれど、どうか救われてほしいと思ってしまった。「新奈」というより、それは「いつかの自分が救われるifを見たい」という気持ちに近かった。
新奈は、救われなかった。少なくとも、この漫画の中においては。
彼女が唯一本音で話せる相手、彼女を受け止めてくれる相手が「動ける」ことを、そんな相手が人知れず自分に愛情を注いでくれていることを、彼女は知らない。彼女はきっと、この先もそれを知ることはないのかもしれないし、この光景が漫画の中での「現実」なのかどうかも分からない。
けれど、この漫画を読み終えた後、自分はどうしようもなく暖かい、言葉にすると陳腐だけれど「これまで感じたことのない」気持ちで胸がいっぱいになった。新奈も、彼女を通して見ていた「いつかの自分」が救われた訳でもないのに、本作のラストシーンに、自分は間違いなく「救われた」のだ。
その理由が、自分は読んだ時には分からなかった。分からなかったけれど、分からないままにしておくことができなくて、ずっと考えた。本作の魅力は、本作のラストシーンの意味は何なのだろうかと。
そうして本作を読み返して、いくつもの気付きを得ることができた。
限りなく写実的なのに柔らかい、感情豊かな絵。
「人 (新奈) の目線」を意識した構図や背景の有無などさえ使って、台詞を使わずに新奈の気持ちを表す技術。
個々のシチュエーションの、カラッとしているのにリアルな残酷さ……と、こうした作者の力があればこそ、自分含め、多くの読者が新奈に自身を重ねてしまうのだろうということ。
作者自身が全てを作る「漫画」というジャンルだからこそ、本作の全編――上記のように言葉で説明できない、もっとたくさんのものも含めて――に切実な思いが満ちていること。
同じく、本作は「漫画」というジャンルだからこそ、劇伴のような「演出」が最低限=あくまで作品の方から「ここはこういうシーンだ」と主張しすぎることなく、我々の胸の中でそれぞれのシーンを響かせて (咀嚼させて/反芻させて) くれること。それにより、ラストシーンの解釈や味わいが読者自身に委ねられ、一層深い余韻をもたらしてくれること……。
これらの全てがあって本作のラストシーンの美しさを作り出しているのだと思うし、あの「ぎゅっ」だけで、それだけで十二分に自分は救われた思いだった。それだけでも彼女が「報われた」ように感じたし、彼女と人形の間にある、見えないけれどどこまでも清く美しい「友情」には、僕なんかには言葉にできないような暖かさがあった。冗談でも世辞でもなく、この世界に存在する何よりも綺麗なものだと思った。
しかし、自分がこの作品に救われた「直接」の理由とは、厳密にはその点ではなく「主人公が “自分が救われたことを知らない” 」ことだったのだと思う。
もし新奈が人形と対面していたら、彼女はきっと救われただろう。しかし、その瞬間=彼女がそうして救われた瞬間、この作品は「フィクション」になってしまう。「救われた」彼女は、先程まで見ていた「自分」ではなくなってしまうのだ。
しかし、新奈は人形の真実を知らない。救われたことを、愛されていたことを知らないから、自分は新奈に感情移入していられる。彼女が救われていないからこそ、「自分」を「知らず、救われていた新奈」と重ね合わせることができる。自分も、もしかしたら救われていたのかもしれない、「ひとりぼっちだと思っていたあの日、自分はひとりぼっちじゃなかったのかもしれない」と思えるのだ。
新奈にとっての「友達」が、彼女がずっと大切にしていた人形だったように、自分も小さい頃は特撮ヒーローの人形が大切な友達だった。それ以降も、大好きな文房具とそれで作った創作世界、そこにいるキャラクターたちという「愛すべき存在」たちがずっと自分の思いを一心に受け止めてくれていたし、それらに自分がどれほど救われていたのかは考えるべくもない。だから自分には一層このラストシーンが染みた……というのも、少なからずあるだろうと思う。
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「友達って何だろう」という問いに正解はなく、この問題には誰もが一生悩み続けると思う。人間同士はどこまでいっても「他人」であり、その心を完全に理解することは不可能なのだから。
この『友達の話』も、決してその答えを示す物語ではない。でも、だからこそこの作品は読者に限りなく寄り添ってくれる。正解はないことに正解を示すのではなく、ひとりぼっちがひとりぼっちでなくなるのでもなく、「それでも、きっとあなたは独りじゃないかもしれない」という「可能性」を垣間見せてくれる。
自分はこの点にこそ救われたけれど、きっとこの作品は人それぞれにとっての「救い」になる理由がある。僕にとっては前述のものが理由だっただけで、ある人はこの作品の別のところに救われるかもしれないし、そもそも自分自身、なぜこの作品に救われたのかをしっかりと言葉にできているとは思えない。
だからこそ、皆さんにも是非この作品を読んでほしいし、それが少しでもこの作品が広がる=本作が一人でも多くの「届くべき相手」へ届くきっかけになることを、そのことをひたすらに願ってやまない。