総括感想『ウルトラマンブレーザー』- 新機軸と販促を両立させた「優等生」が問いかける、“コミュニケーション” の在り方とその可能性

2024年1月20日ウルトラシリーズの最新TV作品『ウルトラマンブレーザー』が最終回を迎えた。

 

 

従来のニュージェネレーションシリーズと大きく異なる雰囲気や『Z』以来の「メイン監督:田口清隆監督」という大看板によって、放送前から絶大な盛り上がりを見せていた『ブレーザー』。 

事実、本作は数々の意欲的な取り組みは勿論、それらに甘えることなく特撮、玩具、シナリオなど各所にこだわりが伺える「丁寧な」作品であり、そのことはファンから大きな歓迎を持って迎えられた――が、一方では「販促」という言葉を中心に様々な議論が飛び交っていたのもまた事実。 

今回の記事では、そんな本作の魅力・賛否両論点を大きく3つの視点に分けて総復習。筆者の個人的な感想も交えつつ、半年に渡る『ブレーザー』と私たち視聴者とのコミュニケーションを振り返ってみたい。


※以下、作品に肯定的な内容/批判的な内容や、ウルトラシリーズ各作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

《目次》



イントロダクション~『ブレーザー』前夜


ウルトラマンブレーザー』は、2023年7月に放送を開始したウルトラマンシリーズの最新TV作品。
発表当初は、前々作『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』、そして前作『ウルトラマンデッカー』の流れを汲んだ『ニュージェネレーションガイア』作品ではないことが賛否両論となっていたけれど、それ以上に注目を集めていたのは『ブレーザー』という作品そのものの特異性だった。 

 

主人公=ヒルマ ゲントの、ウルトラシリーズ初となる「妻子持ち」+「隊長」設定。 

『Z』では設定考証、『トリガー』では脚本家として活躍された田口監督の朋友・小柳啓伍氏のメイン起用。 

『Z』以来となる味方のレギュラーロボット=アースガロンの登場……。 

と、これらだけでも『ブレーザー』は話題性十分だったのだけれど、自分が特に衝撃を受けたのはブレーザーというウルトラマンに、過去作の要素が全く絡まない」こと、そして何より、プレミア発表会で披露された大量の新怪獣たち! 

 

ウルトラシリーズのような巨大特撮作品は、膨大な制作費を必要とすることから「シリーズの継続放送」が極めて困難な作品。フィールズの傘下に入って尚立ちはだかったこの問題に対し、円谷プロダクションは長年の積み重ねから「勝利の方程式」を導き出した。それこそが、ニュージェネレーションシリーズの「新作2クール+列伝系番組2クール」という放送形態、そして 

・過去作要素を持ったウルトラマン (商品展開のしやすさ+付加価値の高さ=売り上げに対するある種のセーフティネット

・既存怪獣の再登場 (コストカット+人気怪獣の再登場による話題性獲得+発売済みソフビ人形の販促等) 

だった。つまり、この2点はニュージェネレーションシリーズの強みである以上に「ウルトラシリーズを継続放送する上で、避けられない宿命」だとばかり思っていたのだ。   

(脱せる日が来るとしたら、それは早くても「このままウルトラシリーズの人気が上がり続けて数年経った頃」だと思っていた)

 

だからこそ、この発表は製作陣の「脱・ニュージェネレーションシリーズ」という意気込みや「リスクを抱えてでも、これまでとは違うものを見せる」という覚悟が感じられたし、そんな製作陣の熱意や「ウルトラシリーズがここまで戻ってこれたこと」に放送前からいたく感動してしまっている自分がいた。ニュージェネレーションシリーズを応援し続けてきて、本当に良かったよ……!!

 

 

「空想特撮作品」としてのブレーザー

 

〈「怪獣の扱い」が生み出すリアリティ〉

 

こうして、放送前から話題沸騰となった『ブレーザー』。では、いざ放送開始となった本作はどのような作品であったのか。その魅力を大きく分けて3つの視点から分析してみたい。 

まず最初に見ていくのは「 “空想特撮作品” としてのウルトラマンブレーザーについて。

 

 

ウルトラマンブレーザー』の特徴は? という質問があったら、おそらく半数近くかそれ以上の方が「世界観」と答えるのではないか――と、そう思える程に『ブレーザー』の世界観は特徴的だった。 

 

「宇宙飛行士の間で語り継がれてきた存在のコードネーム」としての「ウルトラマン」であったり、SKaRDが単なる怪獣対策チームではなく「特殊怪獣対応分遣隊」という肩書きを持った地球防衛隊の特殊部隊であったり、そんな地球防衛隊の歴史が詳細に作り込まれ、初報段階で発表されていたり……。田口監督と小柳啓伍氏の「癖」がふんだんに詰まっているであろうこれらの設定は放送前から大きな話題となり、『ブレーザー』が「ネクサス以来のハードSFになるのでは」と噂されるようになるまでそう時間はかからなかった。

 

kogalent.hatenablog.com

 

して、初報から約3ヶ月。発表会でも第2話『SKaRDを作った男』を先行上映するなど、長い長い焦らしを経て第1話『ファースト・ウェイブ』が放送。その盛り上がりたるや、おそらく『X』や『Z』以上=ニュージェネレーションシリーズが始まって以来最大のものだったように思う。

 

 

1話が丸々対バザンガ戦に充てられるという「シチュエーションドラマ」を極めたかのような内容に「野生児」という意外なアイデンティティーを披露したブレーザー……。この怒涛の初回は、自分のようなシリーズファンは勿論、普段ウルトラシリーズに触れていない方々までもが大絶賛。なんと翌週の7月15日時点で再生数500万を記録するという凄まじい好スタートを切ってみせた。 

しかし、『ブレーザー』の巧さとはそんな第1話の路線=ハードSFという作風を「貫かなかった」ことだろう。

 

 

ゲントがテルアキたちを尋ね、SKaRDのメンバーを集めていく姿が描かれた第2話『SKaRDを作った男』以降、本作は従来のウルトラシリーズらしい「どことなく牧歌的なムード」を漂わせるようになり、作風も同様に従来通りのバラエティに富んだものとなった。 

その路線に対しては「これまでのニュージェネと変わらない」という声 (ニュージェネレーションシリーズにも様々な作風があるため、このやたら射程範囲の広い揶揄には「じゃあ何をすればニュージェネっぽくないのか」と問い質したい思いもある) も散見されていたが、果たして『ブレーザー』は「ハードSF」路線を捨てたからといって、これまでの歴史に埋没する作風になっていただろうか。 

自分は、そこには明確な「NO」を突き付けたい。というのも、第2話以降も本作には「SF」としての強度と、そのためのこだわりが満ちていたからだ。

 

僕らのスペクトラ

僕らのスペクトラ

 

(そもそも、第1話『ファースト・ウェイブ』の路線を継続していたら、悪い意味で『ネクサス』の再来になること請け合い。きただにひろしさんが歌う、明るく熱い令和流王道ヒーローソング『僕らのスペクトラ』が、この番組は大丈夫だという確信を持たせてくれた。歌詞も印象的な名曲だ)

 

第2話以降も『ブレーザー』には多彩な怪獣が登場、シリアスなものから牧歌的なものまでバラエティ豊かなエピソードが展開されていったけれど、その中で徹底されていたのが「リアリティラインを落とさない」という姿勢。 

分かりやすいところで言うと、まず挙げられるのがゲードス、タガヌラー、レヴィーラ、ドルゴ、ニジカガチ、デマーガ親子、デルタンダル、モグージョン、ズグガン……といった「地球怪獣」についての描写。彼らはその出自や生態が各主役回で入念に掘り下げられるだけでなく、各話のストーリー自体が怪獣たちのバックボーンありきのものとして構築されていた。この作劇が彼ら怪獣の実在感や「SFとしての強度」に繋がっていたのは言うまでもないけれど、本作において真に注目すべきは、彼ら地球怪獣よりもむしろ「宇宙怪獣」たちの扱いだろう。

 

 

前述の通り、そのバックボーンが丹念に描写されることで確かな存在感を得ていたのが地球怪獣。一方、そんな地球怪獣たちの対になっていたのが本作の宇宙怪獣だ。 

理性を感じさせない (ゴルザ等にも通ずる、ウルトラ怪獣らしい趣の) 目と、通常の生物ではおよそ持ち得ない武装を備えた宇宙甲殻怪獣・バザンガ。 

そんなバザンガと似た「目」を持ち、あらゆる電子機器を制圧する宇宙電磁怪獣・ゲバルガと、その幼体である汚染獣イルーゴ……。 

彼ら「ウェイブ」怪獣たちは、出自はおろか生態さえろくに明かされず、異様なビジュアル・能力も相まって (特にゲバルガは) 不気味かつ強烈な存在感を放っていた。 

しかし、それだけならきっと従来のシリーズ通り「宇宙怪獣だもん、そういうものだろう」と多くの方が受け流してしまったかもしれない。そこにブレーキがかかり、彼らの異質さが「違和感」としてしっかり機能していたのは、彼らの対となる存在=地球怪獣たちの描写が丹念に行われていたからだろう。地球怪獣の出自や生態が丹念に描写されたからこそ、出自も生態も謎だらけなウェイブ怪獣たちが「異常なもの」として感じられる土壌が作られていたのだ。 

……と、このように「多くの新怪獣」と「緻密な作劇」が噛み合ったことで作り出されるリアリティとケレン味の共存。これこそ『ブレーザー』という作品の一つの真骨頂と呼べるのではないだろうか。 

(宇宙怪獣の中には、一体だけウェイブ怪獣でない存在=ガラモンという例外もいたけれど、このガラモンの存在があったからこそ「バザンガとゲバルガが、同じ軌道で地球に侵入している」という事実が判明、彼らの出自は同じなのでは、という推理に繋がる第13話『スカードノクターン』での一幕は、まさに本作きってのウルトラC。こういう「製作陣としてもイレギュラーであろうモノが、シナリオ上であたかも “必然” であるかのように捌かれる瞬間」の気持ち良さは唯一無二……!)

 

 

〈『ブレーザー』各監督総評〉

 

このように、怪獣の描写・作劇で「空想特撮作品」として近年希に見る強度を見せてくれた『ブレーザー』。本作の世界観を支えた要素といえば、他にも「防衛隊管轄の一組織として描かれるSKaRD」「最低限しか登場しない宇宙人 (セミ人間とザンギルについては、エピソードそのものの雰囲気を「番外編」めいたものに落とし込むことで、作品そのものへの影響を抑えるという配慮がなされていた。お見事……!) 」など様々な試みが挙げられ、全てに触れていたらキリがない。 

そこで、このパートでは最後にブレーザー』各監督による画作りについて取り上げてみたい。

 

 

ブレーザー』に参戦された監督は、メイン監督の田口清隆氏、シリーズでお馴染みの辻本貴則氏 (辻は一点しんにょう)、越知靖氏、武居正能氏、そして『Z』『デッカー』を経ての参加となった中川和博氏と、初監督作品として第13話『スカードノクターン』を手掛けられた宮﨑龍太氏の6名。 

ニュージェネレーションシリーズといえば、各監督の映像が作品を重ねていくにつれ進化していくのが大きな醍醐味。本作もその例に漏れず、歴戦の猛者たちによる「進化合戦」が大きな見所となっていたように思う。

 

 

特撮・ドラマ共にキレの良い画作りや、思わず息を呑んでしまうような「見たことのない映像」を毎シリーズお出ししてくれる我らが田口清隆監督は、メイン監督として第1.2.3.14.15.24.25話を担当。アースガロンの発進シークエンスのようなフェチズム溢れる演出や、第14話『月下の記憶』ラストでのゲントとエミのやり取り (「いいよ。……許可する、やれ」) に代表される「粋」な魅せ力が今回も遺憾無く発揮されていたけれど、やはり今回の田口監督といえば欠かせないのが第14話におけるデルタンダル戦。よもや、ウルトラシリーズのTV作品で「変身から決着まで、全てが空中戦かつ擬似的なワンカット」というとんでもない映像が見れるだなんて、一体誰が予想できただろうか。

 

 

監督デビュー間もない田口監督といえば、やはり『ギンガS』のファイブキング戦が印象的だけれど、そこに並べて語りたいのが第12話『君に会うために』でのメトロン星人ジェイス・ギンガ・ビクトリーVSゾアムルチ戦の長回しワンカット。 

本来ならそれだけでも見応え抜群の「2分間の長回しカット」なのに、今回のそれは前述のように最初から最後まで空中戦。更にはカット割りの妙で「インナースペース描写までシームレスに繋がっているワンカットのように見せている」というオマケ付き。ともすれば、自分は映像そのものの迫力よりもそういった「滲み出る情熱と執念」に圧倒されてしまったのかもしれない。 

こうして振り返ると、つい「10年経てば特撮もここまで進化するんだな」などと感慨深くなってしまうけれど、それも全ては田口監督のアイデアと努力、経験の積み重ねがあればこそ。そういった意味では、このデルタンダル戦は「10年に渡る田口監督の歩み」を象徴する名バトルと言っても過言ではないかもしれない。

 

(ブレーザーの田口監督といえば、こちらのもちふわガヴァドン回も外せないところ。現代の子どもたちに鋭く切り込んだシナリオは勿論、“二次元と三次元をシームレスに行き来” し、文字通り “絵を食べている” ようにしか見えないガヴァドン周りの特撮は圧巻……!)

 

 

続いては『R/B』以来のレギュラー監督で、坂本監督ばりのド派手な画作りと田口監督ばりの「ミニチュアオタク」ぶりに定評のある辻本監督。 

辻本監督は『ブレーザー』では第4.5.6.16.17話を担当。前2作に比べて今回は横軸のエピソードに終始されていたが、モグージョンとザンギルのデザインを自ら手掛けられただけでなく、得意のガンアクション演出がアースガロンの戦闘に存分に活かされていたり、第4話『エミ、かく戦えり』では液状化するレヴィーラをアナログ特撮で生々しく描いてみせたりと、今回も作品に大きな爪痕を残してくれていた。 

しかし、ここで個人的な氏の注目ポイントを挙げるなら、それは特撮よりもむしろ「人間ドラマパート」の方

 

 

『タイガ』以前は人間ドラマの演出に手探り感があり、特にメリハリの付け方に難があるように感じられた辻本監督だけれど、氏は『Z』以降メキメキと力を付けられ、『デッカー』第23話「絶望の空」におけるカナタ・アガムスの対話シーンがその「帰結」となっていた。 

(一触即発の空気感や、鏡面反射を使った2人の「表情劇」の巧みさ・臨場感は、その道の実力者である武居監督の映像と見紛う程のもの。元来特技監督としての実力は一級品だっただけに、とうとう唯一の弱点を克服された……! と当時は小躍りしてしまったもの)

 

して、そんな辻本監督の手腕が存分に発揮されていたのが第17話『さすらいのザンギル』。

 

 

同エピソードの見所といえば (辻本監督入魂であろう「粋」すぎるザムシャーのゲスト出演に触れたいのは山々なのだけれど) 何といっても唐橋充氏演じるザンギルとゲントの会話劇。日本の文化を学んでいるが、宇宙人故の「ズレ」があるザンギルと、そんなザンギルに少しずつ歩み寄っていくゲント。そんな2人のコミュニケーションそれ自体の見応えは勿論、自分が何度見ても涙してしまうのがこちらのシーン。

 

「俺は……ゲント。ヒルマ ゲントだ。“彼” は、ウルトラマンブレーザー
「ありがとう、ゲント殿。ブレーザー殿」
「……コーヒーがまだだぞ」
「それだけが唯一……心残りじゃのう」

-「ウルトラマンブレーザー」 第17話『さすらいのザンギル』より

 

2人の「対話」に移入させてくれるカメラワークや、ゲントがザンギルのコーヒーを彼の席に残してからEDに入るまでの「間」……。継田淳氏お得意の「ほんのりビターな味わい」と唐橋・蕨野氏両ベテラン渾身の演技を辻本監督が見事にまとめあげた、他の『ブレーザー』とは異なる雰囲気の / だからこそ際立つ名シーンと言えるだろう。

 

 

こうして、辻本監督がドラマ面でもその力を発揮したのと対照的に「特技監督」としての力を更に伸ばしていたのが武居監督。 

武居監督は、前作『デッカー』のメイン監督だったこともあってか本作には中盤から登板。第20.21話、そしてゲバルガ前後編の第11.12話という大舞台を任され、見事『ブレーザー』屈指の盛り上がりを描ききってくれた。ドラマパートを得意とする武居監督と「コミュニケーション」というテーマが色濃く関わる第11.12話は素人目に見ても相性抜群で、まさに氏の面目躍如となっていたように思う。 

(ちなみに「田口監督メインの作品で、ドラマが大きく動く第11.12話を武居監督が担当する」というのは、まさに『Z』と同じ配役。『Z』ではどの回をどの監督に撮って貰うか、という点まで田口監督のディレクションがあったとのことだけれど、今回も似たような経緯があったのかもしれない。田口監督から武居監督への信頼が垣間見えて嬉しい限り……!) 

 

 

前述の通り、『ブレーザー』の武居監督はドラマだけでなく特撮パートも大きな見所。 

元々武居監督は特撮畑の方ではなく、そのため『劇場版ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』などで特撮パートの不馴れさ (アクションのもっさり感や “キメ” の弱さ) が足を引っ張ってしまうことが多かった。しかし、そんな武居監督は『タイガ』以降急激に特技監督としての力を伸ばし、『トリガー』第6話「一時間の悪魔」や『デッカー』第15話『明日への約束』等では坂本監督・辻本監督ばりにキレのある一大決戦を作り上げるまでに至っていた。 

して、今回の『ブレーザー』である。第11話『エスケープ』時点でゲバルガの「胸の顔が顔に見える」「何らかの意思を感じるが意図が掴めない不気味さ」の演出に唸ったりもしたけれど、最大の見所は第12話『いくぞブレーザー!』クライマックスにおけるブレーザーVSゲバルガ……というより、この戦いで初登場となったチルソナイトソードの必殺技=オーバーロード雷鳴斬の「魅せ」っぷり!

 

 

「稲妻と共に飛び上がり急降下、ゲバルガを一刀両断」という一連の流れは、緩急のメリハリや大胆な煽りアングル、ド派手なエフェクトに最後のヒーロー着地と、一つ一つの演出がこれでもかと冴え渡っており、それこそ「ここだけ坂本監督が撮ったんじゃないか」と思えるほどにヒロイックな映像として仕上がっていた。……けれど、それはきっと気のせいではなく、武居監督自身が他の監督陣の長所を積極的に吸収し、自分自身の力として昇華させた結果なのだろうと思う。 

そう考えると、当初は田口監督や坂本監督、辻本監督といった特撮のプロフェッショナルたちに話題を持っていかれがちだった武居監督がここに「至った」ことは、それ自体がニュージェネレーションシリーズの積み重ねそのものといっても過言ではないだろうし、だからこそ、このオーバーロード雷鳴斬は殊更に「響く」ものだったのかもしれない。

 

(本作の武居監督と言えば第21話『天空の激戦』も外せない名編。アンリとヤスノブのストイックかつ暖かい関係性は勿論、宇宙まで股にかけてのデルタンダルBとの激戦は、こちらもやはり武居監督の進化を感じさせる大迫力の仕上がりだった)

 

 

田口監督、辻本監督、武居監督、この3人に比べ、一際「クセ」の強い映像を撮られるのが誰あろう越監督。 

『タイガ』でのデビューから『Z』『トリガー』『デッカー』とシリーズを重ねるにつれ猛スピードで成長してきた越監督は、本作では第9.10.18.19話を担当。『デッカー』では、テラフェイザーの初陣や1クール目の〆となる第10話~12話を任されていたが、今回は遂にパワーアップ回 (第19話『光と炎』) 担当という大役を担うことになった。

 

 

越監督の「味」と言えば、何といってもその奇抜な演出の数々。ウルトラマンフェスティバル (現・ウルトラヒーローズEXPO サマーフェスティバル) の舞台演出や『機動戦士ガンダム00』由来のエフェクトなど、一体どんな演出が飛び出してくるか分からない楽しさ・魅力はまるでビックリ箱のようだ。 

ブレーザー』ではそういった既存作品のオマージュは控え目だったものの、久しぶりの「パペット+操演怪獣」であるイルーゴや、ブレーザーを遥かに上回る巨体を誇るブルードゲバルガ等、オマージュ・引用に頼らない「正攻法」での越イズムを披露。その最たるものと呼べる第9話『オトノホシ』は、ストーリーを長尺の演奏シーンに託すという大胆な構成や、季節の移り変わりを魅せる擬似ワンカット演出、モノクロの画+『ウルトラQのテーマ』で〆るED……など、大胆ながらも効果的な演出が唯一無二の味わいを作り上げており、『ブレーザー』きっての異色作として大きな反響を呼んでいた。

 

 

(名編『オトノホシ』については、こちらの記事がその魅力を余すことなく語られています。感想ブログ『Crow's Note』さんでは、『ブレーザー』をはじめ様々な作品の10000字級感想が贅沢にも各話ペースで楽しめるので「エピソード単位での咀嚼がしたい」という方には大変オススメです……!)

 

こうして、これまで以上に大胆かつ予測不能な演出で『ブレーザー』に大きな爪痕を残した越監督。しかし、本作ではそんな「演出」が波紋を呼ぶ場面も。

 

 

演出の為に、ある種の「設定改編」ないし「俺流設定」を付与してしまう……というのは、『トリガー』でも見られた (第17話『怒る饗宴.』において、第22話『ラストゲーム』に先駆ける形でトリガーダークをグリッター化させてしまった) 越監督の手癖で、それが良い方向で働く場面も少なくないものの、ことアースガロンの一件は「防衛隊側を悪く見せる」という演出意図それ自体の是非だったり、アースガロンは機械なので「黒目が理由もなく無くなることは有り得ない」という大きなツッコミどころを残してしまったりとネガティブな側面が強く、批判的な意見が数多く寄せられていた。 

越監督はX (旧Twitter) を頻繁にご覧になる方なので、このような反応にも少なからず目を通されているはず。何はともあれ、その結果が現れるであろう次のシリーズを楽しみに待っていたい……!

 

 

一方、これら歴戦の猛者たちに負けるかとばかりに奮闘されていたのが、第7.8.22.23話を手がけられた中川和博監督だ。

 

 

ウルトラシリーズでは『Z』第9話が初監督作品 (特技監督尾上克郎氏) で、『デッカー』から本編監督・特技監督を兼任するようになった中川監督だけれど、なんとウルトラ以外では毎年恒例のイベント「ゴジラ・フェス」で公開される短編特撮『フェス・ゴジラ』を手がけているのだという。 

この『フェス・ゴジラ』は短編ながらファンから高い評価を集めている作品で、その見所の一つが怪獣たちの「写実的 / 存在感のある演出」。そんな氏の手腕はリアルタッチな『ブレーザー』と非常に噛み合っており、第7・8話の「立ち姿だけで荒神としてのプレッシャーを振り撒くニジカガチ」などはその最たるもの。 

第8話のテルアキ・横峯教授の対峙や、第23話『ヴィジター99』におけるブレーザー・アースガロンのミサイル迎撃など、ドラマやヒロイック演出もそつなくこなされるマルチタレントぶりからも期待が高まる中川監督は、田口監督や坂本監督の継続参加が危ぶまれる今後のウルトラシリーズにとって間違いなく必要な人材。これからは一層ガッツリと作品に参加して欲しいところだけれど、果たして……?

 

 

(最後のお一人=演出部出身の宮崎龍太監督は、第13話『スカードノクターン』が監督デビュー作。SEの使い方など、細部にこだわりが見える “実相寺演出” や、表情やカメラワークで不穏さを匂わせるスタイルなど、今後に期待が持てる監督。越監督のように是非本編デビューと相成ってほしい)

 

ブレーザーの玩具展開とその「販促」

 

〈はじめに - 『ネクサス』というトラウマ〉

 

ここまで『ブレーザー』の世界観や画作りについて長々と振り返ってきたけれど、
続いて取り上げるのは、(筆者の体感上)同作中最も激しい激論が交わされていたポイント。 

そう、本作の「玩具展開」あるいはその「販促」についてだ。

 

 

ブレーザー』がさながら『ネクサス』のような作風になるのでは……と思われていた頃、ファンが最も懸念していたのが「玩具の売れ行き」。 

というのも、『ネクサス』は今でこそ根強いファンが多い人気作になっているが、当時は「数話に渡り(=最大4話)倒されない敵怪獣」「難解で重苦しいストーリー」「子ども向け番組としてはやり過ぎなホラー描写」といったネガティブ要素に「週1回放送」という前提条件が拍車をかけた結果、玩具売れ行きと視聴率不振から放送短縮が決定、ウルトラシリーズそのものを窮地に追い込んでしまった罪深い作品でもある。自分を含めた当時からのファンが『ネクサス』のようなテイストの作品に身構えてしまうのは、そういった経験から来る、謂わば防衛本能のようなものなのだ。 

とはいえ、当の円谷プロダクションにとっては自分のようなファンよりずっと『ネクサス』がトラウマ(タブー)となっているようで、本流のTVシリーズは『マックス』以降極めて陽性の作品が続き、ホラー・ミステリ作家の乙一安達寛高氏が脚本・シリーズ構成を手がけた『ジード』においてもそれは徹底されていた。シリーズが再び盛り上がり、ハード路線の作品が待望されることがあっても『ネクサス』の商業的な失敗がそれを許さなかったのである。

 

 

……と、そんな流れからの『ブレーザー』である。発表当初は多くのファンが『ネクサス』を思い出して期待と不安に駆られていたし、自分も当然その一人。だからこそ、本作の「設定や世界観でSF感を強めつつも、作品の雰囲気はあくまで陽性のものに留める(子ども向けエンタメ作品としての一線は越えない)」というクレバーな方向性には胸を撫で下ろす思いだった。 

しかし、時は視聴率よりも玩具売上が遥かに重視される令和の世。作風は問題なしとして、玩具展開の方はどうか――というと、その路線は近年の中では極めて異質なもの。同作のハードSF的な世界観を尊重したであろう異色の展開に「ちゃんと売れてくれるだろうか」とまたも『ネクサス』のトラウマを刺激されたのは自分だけではないはずだ。 

どれだけ雰囲気が明るくても、結局のところ玩具が売れなければ「失敗」と見なされてしまうし、そうなったらいよいよ「ハード路線のウルトラマン=失敗作」の方程式が完成、二度とお目にかかれなくなってしまう。そんな「分水嶺」とも呼べる『ブレーザー』の玩具展開は一体どのようなものだったのか、ここで一挙に振り返ってみたい。

 

 

〈『ブレーザー』のイレギュラー性と、2つの打開策〉

 

田口監督曰く「ニュージェネらしさ」をなるべく遠ざけるように作られたという『ブレーザー』。その一環として廃止されたのが「並列タイプチェンジ (オーブ バーンマイト、トリガー スカイタイプのような「基本形態の一つ」として扱われるタイプチェンジ) 」だ。 

この結果、ブレーザーは近年のウルトラマンたちの中でも特に謎めいた宇宙人として存在感を確立、そのことが「コミュニケーション」という本作のテーマに大きく寄与することになった――のだけれど、そうなるとタイプチェンジをプッシュしていた従来の玩具展開がごっそり抜け落ちてしまうのもまた事実。この点に対し、『ブレーザー』は大きく2つの新機軸、あるいは「打開策」を打ち出すこととなった。

 

ブレーザーブレスの「アニメーション」とニュージェネレーションヒーローズ

 

一つ目は、ブレーザーブレスのプレイバリューを「タイプチェンジではなく、ニュージェネレーションヒーローズでカバーする」というもの。

 

 

レジェンドヒーローをコレクターズアイテムでプッシュする、というのはシリーズではお馴染みの手法だが「ブレーザーはレジェンドヒーローをタイプチェンジにも技にも用いないので、レジェンドヒーローを推しても売れないんじゃないか」という、その懸念は至極もっとも。 

しかし、本作のレジェンドヒーローストーン、もといニュージェネレーションヒーローズストーンは些か事情が違っていた。鍵となるのは、ブレーザーブレスに備わる「アニメーション機能」である。

 

 

スパークレンスからウルトラディーフラッシャーに至るまで、変身アイテムの基本は「発光」「サウンド」「ギミック」の3つ。 

従来の玩具は、その中でも「サウンド」や「ギミック」を差別化して進化し続けてきたけれど、カードとメダルの欲張りセット=ウルトラゼットライザー、コレクターズアイテム側の多機能化=ガッツハイパーキー、変身アイテムではなく「武器」の方に注力=ウルトラデュアルソード、という近年の流れには、素人ながら「流石にもうネタ切れが近いのでは……?」と感じていた。素人目に見ても、サウンドとギミック周りは「やれることを全部やった」状態のように思えてしまったのだ。 

……と、そんな状態で現れたのが、件のブレーザーブレスという超新星だった。

 

 

ブレーザーブレスの特徴は、そのスペックをサウンドでもギミックでもなく「発光」に集中させることで実現した新機軸=ブレスに表示される多色アニメーション。税込7920円という高価格 (ウルトラディーフラッシャーは税込6050円なので、おおよそ2000円の価格差がある) も納得の鮮やかなアニメーションは眺めるだけでも楽しいもので、これまでとは全く異なる遊び甲斐を持った玩具になっていた。サウンドやギミックのシンプルさも、そんなアニメーションを心地好く楽しむことに一役買っていたと言えるだろう。 

そして重要なのが、そんなブレーザーブレスにはゼロ~デッカーにリブットを加えた「ニュージェネレーションヒーローズ」に固有のアニメーションが搭載されていること。 

(発光パターンの限界かコストの問題か、固有アニメーションが用意されているウルトラマンは、ニュージェネレーションヒーローズ以外だとティガやベリアルなどごく一部に限られている)

 

 

いかに近年活躍しているヒーローとはいえ、ウルトラメダルでもディメンションカードでも基本的に鳴る音声は同じ。……しかし、このブレーザーブレスには「異なるアニメーションが見れる」という従来と全く異なるプレイバリューが備わっている。だからこそ、今回に限っては「ヒーローとしても、ストーンとしても本編に関わらないニュージェネレーションヒーローズのストーンが、DXアイテムのパッケージを飾る」という異例の事態が実現。「本編との連動が弱い」というブレーザーの弱点をカバーしつつ、しっかり売上にも貢献するサポーターとして機能することになったのである。 

……という、この商品展開が「これまでのニュージェネレーションの積み重ねがあったからこそ、ブレーザーの並列タイプチェンジ廃止という挑戦に繋がった」という背景を具現化したもののように見えてしまうのは、果たして自分だけだろうか。

 

……それはそれとして、番組終盤の時期にこのようなニュージェネレーションヒーローズだけのセットを出すのはかなり強気な挑戦。春先のワゴンセールに並ばないことを祈るばかりだ。

 


f:id:kogalent:20240210203522j:image

引用:『ウルトラマンブレーザー』第25話 (終) 「地球を抱くものたち」-公式配信- - YouTube  

(ブレーザーブレスといえばこちらの「インナースペース」の廃止……もとい簡略化も大きなトピックの一つ。案の定賛否両論となっていたものの、製作事情的にも玩具事情的にも「完全廃止」が難しい状況下、ここまでギリギリのラインを攻めたことはまさに英断。ブレスのみが映ることで「ゲントの表情を見せない=一体化の状況を曖昧にする」「ブレスのアニメーションが目立つ」「これまでと絵面が全く異なるため、むしろ印象に残る」等ポジティブな効果も多く、“折衷案” としては極めて理想的なものだったのではないだろうか。ちなみに筆者はスタイリッシュな玩具操作演出が大好物なので、ほんの少しだけ寂しさもあった)


②大型玩具の販売強化

 

ブレーザー』の玩具展開におけるもう一つの特徴が「大型玩具の販売強化」だ。……とは言うものの、強化というからにはこれまでの情報も不可欠。なので、まずは直近3作品とブレーザーの大型玩具展開 (一般店舗販売のものに限定) とその登場タイミングをおさらいしてみたい。

 

ウルトラマンZ】

・ウルトラゼットライザー (第1話)
・ゼットランスアロー (第5話)
・キングジョーストレイジカスタム (第11話)
・ベリアロク (第15話) 

ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA
・ガッツスパークレンス (第1話)
・サークルアームズ (第1話)
・ガッツファルコン (第2話)
・グリッターブレード (第12話)
・ナースデッセイ号 (第15話 ※バトルモード)
ウルトラ怪獣DX メガロゾーア第一形態 (第24話)
ウルトラ怪獣DX メガロゾーア第二形態 (第25話) 

ウルトラマンデッカー】
・ウルトラディーフラッシャー (第1話)
・ガッツホーク (第3話)
・ウルトラデュアルソード (第7話)
・テラフェイザー (第11話)
・デッカーシールドカリバー (第15話)
ウルトラ怪獣DX マザースフィアザウルス (第23話) 

ウルトラマンブレーザー
ブレーザーブレス (第1話)
ウルトラ怪獣アドバンス バザンガ (第1話)
・アースガロン (第3話)
ウルトラ怪獣アドバンス タガヌラー (第3話)
ウルトラ怪獣アドバンス ニジカガチ (第7話)
ウルトラ怪獣DX ゲバルガ (第11話)
・チルソナイトソード (第12話)
ウルトラマンブレーザー大決戦セット (第19話)
・ファードラン (第19話)
ウルトラ怪獣アドバンス ヴァラロン (第23話) 

お分かり頂けただろうか。並列タイプチェンジの廃止やインナースペースの簡略化などから「玩具を売る気がない」等とも言われていたブレーザーだけれど、その実態は見ての通り「売る」気満々だったのである。 

尚、このように大型玩具が充実した理由としては、「ブレーザーストーンがニュージェネ中心のラインナップとなり、売れ行きに不安があった」からこちらを充実させた……という線も考えられるけれど、同時期のスーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』が小型の連動アイテムを廃止、変身アイテムやロボ玩具のような高価格帯商品に注力するという販売戦略を取っていることを踏まえると、ブレーザーも同様の「実験作」だったのかもしれない。

 

 

このように、やる気満々で展開された『ブレーザー』の大型玩具たち。しかし、これらは単にたくさんリリースされた……というだけでなく、それぞれの売り方、所謂販促戦略に様々な工夫が凝らされていたのも大きなポイント。 

変身アイテムであるブレーザーブレスは、前述の通り「並列タイプチェンジがない」という穴を新機軸の仕様 (アニメーション) で補う商品になっており、チルソナイトソードは、単体ではシンプルな商品であるものの、なんと後続商品のファードランと合体。チルソファードランサーとして音声が変化し、作中最後までレギュラー武器として走り抜けるという大活躍を見せてくれた。

 

(ファードランはそれ単体でも怪獣フィギュアとして遊べる優れもの。そのド派手なデザインに『爆転シュート ベイブレード』の聖獣を思い出したのは自分だけではない……はず!)

 

一方、ブレーザー玩具最大の目玉と言えるのが大型怪獣ソフビの大量展開。その数、なんとTVシリーズの玩具としては実に『ジード』以来となる総勢6体! 

ブレーザーがタイプチェンジしない」「アースガロンという格好の相手役がいる」「メイン監督が田口監督」と、怪獣が活躍する土台が揃っていることや、『Z』『シン・ウルトラマン』と続いているソフビブームなど、ある意味「出るべくして出た」所もある本作の大型怪獣ソフビ群。しかし、この商品展開に注がれている情熱はそんな簡単な言葉で済ましていいものではない。それを感じさせるのが、ウルトラ怪獣シリーズの新たなブランドであるウルトラ怪獣アドバンス」だ。

 

 

ウルトラ怪獣DXとほぼ同サイズでありながら箱入り仕様、という何ともオタク心をくすぐる本シリーズは、アドバンスの名前通り「それぞれが独自の可動ギミックを持っている」というとてつもない代物。

 

触覚と腕部装甲の可動で形態変化を再現可能……というのは勿論、可動の都合で腕部素材が硬質素材製になっており、手にした時の重量感がたまらないバザンガ。

 

バザンガ同様約2000円というお値打ち価格ながら、ぐりんぐりんと動く長い鎌で高いプレイバリューを確保。第23話『ヴィジター99』での大活躍を経て各地の在庫が狩り尽くされるという伝説を残したタガヌラー。

 

迫力のディテールや、顔がガラリと変わる派手なギミックが印象的ながら「Mod.2ユニットを付属させる」という巧すぎる商法がそれ以上のインパクトを残しニジカガチ

 

そして、付属の組み替え用パーツによって第一形態と第二形態を再現できる他、爆弾まで付属するという贅沢仕様が魅力な反面、全国でどれかしらを失くす子どもが多発した (自分は幼少期にザラブ星人付属の翻訳機を紛失して泣いていた) であろうヴァラロン。

 

これだけのギミックや付属品を搭載しながら、本シリーズの価格はウルトラ怪獣DXと同程度かそれ以下に抑えられており、加えて、タガヌラーは第3.17.23話、ニジカガチは第7.8.17話、ヴァラロンは第23~25話とそれぞれが作中に3話ずつ登場。バザンガはゲバルガと共にV99怪獣として何度もピックアップされるなど、商品アピールもしっかり欠かさなかった (いずれも「販促」と感じさせない理由があるのが見事!) ウルトラ怪獣アドバンス。 

新年号の『月刊トイジャーナル』によると、ブレーザーの玩具売上は昨対越えの好成績を残したのだという。このウルトラ怪獣アドバンスが、そこに少しでも貢献できていますように……!

 

(尚、ゲードスは頭部触手の伸縮、レヴィーラはクリア成形、ドルゴはメガショットの着脱と、本作では通常ラインナップのソフビにもアドバンスめいた豪華仕様のものがちらほら。採算、取れていてくれ……!)

 

〈 “アースガロン問題” を考える〉

 

ここまで『ブレーザー』の玩具展開やその販促について触れてきたけれど、本作の文章に「販促」という言葉を使うのは少し、いや、正直かなりの抵抗がある。その理由が「アースガロン問題」だ。

 

 

アースガロン問題 (勝手に命名しました) とは、かいつまんで説明するとブレーザーでアースガロンが中々白星を上げられない」ことを「アースガロンの販促がなっていない」という観点から批判する論調のこと。 

自分がこの話題を目にしたのは、確か2クール目に入るか入らないか……といった時期のこと。なるほど、確かにアースガロンが未だに単独で敵を倒せていない時期だ。正直、自分も本作におけるアースガロンの扱いには些か不満があるのだけれど、それは果たして「販促」という概念と結び付く問題なのだろうか。まずは、このアースガロン問題と「販促」との関係性を整理してみたい。

 

①アースガロンと「販促」

 

この問題を「販促」という観点から考えるには、まずはアースガロン、もといDXアースガロンの玩具的な立ち位置を確認しなければならない。早速、DXアースガロンとそれに近い立ち位置の商品=価格帯やリリース時期が近い、直近3作品の商品たちを比較してみよう。 

・ゼットランスアロー (第5話登場、税込4180円)
・サークルアームズ (第1話登場、税込4378円)
・ガッツファルコン (第2話登場、税込2420円)
・ガッツホーク (第3話登場、税込2420円)
・ウルトラデュアルソード (第7話話登場、税込5478円)
・アースガロン (第3話登場、税込5280円) 

こうして並べて見ると一目瞭然。アースガロンとは、所謂「番組序盤に発売される、変身アイテムとは別の高価格帯玩具」の系譜にあたる商品だと言える。 

しかし、この手の玩具は「DXルーブスラッガー」の不振からか翌年の『タイガ』で一旦廃止、ゼットランスアローも時期を後ろ倒しにして発売された……という前例があるように、「変身アイテムが優先され、ヒットに繋がり辛い」という不遇のポジション。そのため、直近の『トリガー』では「サークルアームズを基本3形態全てが常用」し、『デッカー』では「変身アイテム以上のプレイバリューを持つ」「番組後半までメイン武器として使われる」と、このポジションのプッシュを強化する試みが行われてきた。 

して、おそらくこのプッシュをもう一回り推し進めるべく、 

・ロボ玩具が3作連続で好評を博した 

・変身アイテムを買わずに武器を買う人は少ないが、武器でなくロボならそのパターンも開拓できる 

・怪獣ソフビのプッシュとも噛み合う 

・防衛隊のロボットなら、終盤まで無理なく出番を作れる 

など、様々な「勝算」を踏まえて大幅に路線を変更、武器玩具というレギュラーに代わる新たなチャレンジとして生まれたのが「DXアースガロン」なのではないだろうか。

 

 

こうしてリリースされたアースガロンは、第3話『その名はアースガロン』で大きな話題を呼び、通販サイトの男児向け玩具売り上げランキングで1位を獲得するなど大健闘。本来ならこの時点でミッションコンプリートなのだが、アースガロンに与えられた至上命題は「これまでよりも継続的に販売実績を残す」こと。そのミッションを果たすべく、その後もアースガロンは作中で活躍 (販促) を見せていった。 

・勝利の決め手を作る (第4話、第12話、第21話など) 

ブレーザーと激突 (第6話) 

・Mod.2 解禁 (第8話) 

・初めて怪獣を撃破 (第18話) 

・Mod.3 解禁 (第21話) 

ブレーザーと共にフィニッシュを決める (第22話) 

・Mod.4 解禁 (第24話) 

・最終決戦の立役者となる (第25話) 

他にも、二足歩行型ロボットという長所を活かして作戦行動の要になったことは数知れずで、総じてほとんどのエピソードでしっかりと存在感を発揮していたアースガロン。チルソナイトソードやファードランといった後続の大型玩具を食い過ぎない……という前提も加味すると、アースガロンの販促は極めて「理想的」なものだったように思うのだ。 

(気になる点があるとすれば、Mod.3ユニットがプレミアムバンダイ版のアースガロンにしか付属しないこと。「ヴァラロンに付属させる」という選択肢が取られなかったのは、後半はアースガロンの活躍が比較的少なかった=アースガロンを持っていないのでヴァラロンも買わない、という層がいることを警戒したとも考えられるが、売り方として不誠実な印象は否めない)

 

 

②アースガロン問題の本質 -期待とハードル

 

こうして、バンダイから与えられた命題に見事応えてみせたアースガロンとその販促。……では、なぜアースガロンは「販促がなっていない」と言われたり、そうでなくとも、その活躍ぶりが賛否両論を呼んでいたりするのだろうか。 

前述の通り、自分もそうした「アースガロンの活躍ぶりに疑問を感じた」視聴者の一人。その気持ちを言語化するなら、それは「期待しすぎた」の一言に尽きるだろう。

 

 

自分がアースガロンに期待していたこと。それは「これまでの防衛隊メカとは異なり、もう一人のヒーローとして大活躍してくれる」こと。 

これまでなら防衛隊の主力メカにここまで過度な期待を託すことはなかっただろうけれど、ことアースガロンについては「そう思わずにはいられない」条件が揃いすぎていたのだ。 

ブレーザーがタイプチェンジするかどうかさえ不明瞭な中、ガッツリ「ジョイント」があるDXアースガロン 

・『ゴジラ×メカゴジラ』に登場するメカゴジラ (三式機龍) を思わせるデザイン 

・OP『僕らのスペクトラ』ラストカットで、アースガロンの方がブレーザーより手前にいる 

・『Z』は勿論『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』等ロボット作品に定評のある田口監督が企画段階から関わっている 

ここまで条件が揃っている+番組からも熱烈にプッシュされている状況、加えて前3作が『Z』(特空機が随所で熱く “魅せ” てくれた) 、『トリガー』(アキトVSダーゴンを始め、ナースデッセイ号がバトルモードで大活躍) 、『デッカー』(1クール目終盤からはテラフェイザーが味方 / 敵として物語の真ん中に居続けた) なのだ。それらを経た上でここまで段違いの推し方をされようものなら「これまでの防衛隊メカとは異なり、もう一人のヒーローとして大活躍してくれる」と、そのくらい大きな期待をかけてしまうのも道理ではないだろうか。

 

 

では、実際のところアースガロンはどんな活躍を見せてくれたのか――というと、確かに終始作品の顔として活躍、これまでとは桁違いの存在感は発揮していた。が、それ以上の「爆発」があったかと言われると、どうにもピンと来るものがないのだ。 

ブレーザーの戦いをアシストするのも、様々な表情を見せるのも、作戦行動の中核を担うのも、言ってしまえばこれまでのメカやロボットで見られたもの。パイロットによって戦闘スタイルが変わる、というのもそこまで表に出る演出ではなく、搭載されたAI=EGOISSも、その無機質なテンションがAIらしくはあったが「表情豊かで愛嬌のある」アースガロンとはどこかミスマッチに思えて、自分は愛着を深めるどころかむしろ好感度が下がってしまった節さえある。

 

 

一方、アースガロン最大の目玉にして、オンリーワンの個性とも言えるのが「様々な武装でパワーアップしていく」こと。ところが、自分はこの点の描かれ方にも「ん?」と首を傾げてしまった。 

第3話の初陣以降、ブレーザーにフィニッシュを持っていかれてばかりだったアースガロン。そのことに対し、ハルノ参謀長からは叱責は勿論「ブレーザーよりも早く怪獣を撃滅してみせろ」という指令まで飛ぶ始末。リアルな世界観が売りの『ブレーザー』らしい納得の展開だ。 

当然、視聴者としては「ブレーザー兼SKaRD隊長であるゲントはこの板挟みの中でどう動くのか」と期待させられてしまうのだけれど、その後もフィニッシュを決めるのは常にブレーザー。このことを受けて「いつアースガロンがフィニッシュを持っていくのか」「これは溜めの期間なんだ」「アースガロンの初勝利はさぞや熱いものに違いない」「きっと、それこそがMod.2の初陣なのだろう」……と、どんどん脳内ハードルが上がっていったのは自分だけではないと思う。 

だからこそ、第8話『虹が出た (後編) 』においてアースガロンMod.2が初出撃、ニジカガチのクリスタルを破壊した――時は、正直、そのシチュエーションに燃えきれない自分がいた。「確かに熱いんだけど、期待した程じゃなかったかも……」と。 

(それはそれとして、第8話『虹が出た (後編) 』は大好きなエピソード。「ゲント回と思わせてからのテルアキ回」という転回や、ニジカガチの圧倒的な存在感など、特撮もドラマも中川監督の映画的な撮り方がバッチリハマっていた名編だ)

 

 

その後も、アースガロンは第12話『行くぞブレーザー!』で活躍を見せるも、ここでもフィニッシュ=「美味しいところ」はブレーザーに持ってかれてしまい、アースガロンの「上げに上げたハードルを越えてくれるほどの活躍」=言うところの “爆発” はますます遠退いていった。 

確かに、アースガロンの活躍それ自体は決して悪いものじゃない。けれど、高まりきってしまったハードルに対してはどうしても物足りなかったというのが本音。だからこそ、アースガロンMod.2の販促期間が終わり、チルソナイトソードに主役が移った2クール目はもはや祈るような思いだった。「この際 “爆発” しなくてもいいから、せめてカッコ良く怪獣を倒してくれ」と。アースガロンの戦績どうこうというより、ただ単に「溜飲を下げさせてほしかった」のだ。 

なので、その後アースガロンがイルーゴを単独で撃破したり (ややコメディ寄りの流れで) ブレーザーと共にレッドキング (二代目) &ギガスを倒したりした時も「そうだけどそうじゃないんだ……!!」と複雑な気持ちになってしまったし、こちらの溜飲を下げてくれそうな最大のチャンス=第21話『天空の激戦』におけるデルタンダルB戦でもフィニッシュを決められなかったことで、もう選り好みなんてできないと覚悟を決めるしかなかった。「アースガロンが怪獣を倒した、良かった」と、そうして無理やり自分を納得させる他になかったのである。

 

 

最終回、アースガロンはまさしく「こちらの予想を越えた」大活躍を見せてくれたけれど、それが「期待していた方向性ではなかった」ことに突っかかりがなかった、と言えば嘘になってしまう。 

「グリッタートリガーエタニティとトリガーダークの共闘」をはじめ、こちらの見たいものを全て出しきった上でトリガートゥルースという隠し球を出した『トリガー』のように、アースガロンにも盛大な晴れ舞台が……例えば「デルタンダルB戦のフィニッシュを飾る」だとか「第24話でヴァラロンを撃退する」だとか、そういった「カッコいい戦闘ロボとしての面目躍如」が事前にあった上でなら話は違ったと思うのだけれど、それらが見れない状態での最終回は「評判の中華料理屋に招待されてワクワクしていたら、なぜか絶品の寿司が出された」ようなもの。そんな状況下では、その寿司が涙を流すくらい美味しかったとしても「美味しい中華料理が食べれる」という期待が満たされなかったモヤモヤのせいで、折角の美味しい寿司も十分に楽しめないというものだろう。 

結局のところ、このアースガロン問題は「アースガロンはこれまでのロボットとは一味も二味も違うぞ!」というプロモーションを打った製作陣に対し、「これまで見たこともない味方ロボが見れるぞ!」と期待し、ハードルを上げ過ぎてしまった一部のファンたち(自分含め) がぶつかった結果、思ったより大きな火災になってしまった……と、あくまでそんなシンプルな話だったのだと思う。 

そう、シンプルな問題なので、数週間後に控える劇場版でアースガロンが「これまでのロボットとは一味も二味も違う活躍」を見せてくれさえすれば、きっとこの問題は綺麗さっぱり解決するはずなのだ。『劇場版ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』でXioのメカニックを大活躍させた功績があり、更に『劇場版ウルトラマンZ』を撮れていない分の情熱を持て余してしまっているであろう田口監督なら「やってくれる」と信じて、この問題についての言及はここで打ち止めとしたい。どうか、自分のような亡霊が成仏できる展開が拝めますように……!

 

 

「コミュニケーションの物語」を作り上げたもの、彼らが辿り着いたもの

 

〈 ニュージェネヴィランズの集大成? “V99” の功績〉

 

ここまで、怪獣や世界観・玩具等の側面から『ブレーザー』の特徴を振り返ってきたけれど、最後に見ていくのは文芸・ドラマ面。この点から本作を振り返るならば、何よりもまずヴィランの不在」について触れなければならないだろう。

 

 

『ネクサス』『ギンガS』等を経て、『オーブ』のジャグラス ジャグラー以降お馴染みとなった「シリーズを通して立ちはだかる敵キャラクター」=通称「ヴィラン」枠。
彼らの存在は、強いフックで縦軸の物語を引っ張っていく反面、シリーズの「1話完結」「怪獣」といった強みとは食い合わせが悪く、とりわけ『ジー (後半) 』~『タイガ』の3作については「製作陣も彼らを持て余しているんじゃないか」と勘繰ってしまう程には、その扱いに「ぎこちなさ」が感じられてしまう状態となっていた。 

このことを受けてか、三者三様の形でヴィランに向き合い、ウルトラシリーズにおける「活かし方」を模索していたのが『Z』『トリガー』『デッカー』の3作品だ。

 

ヴィラン枠=セレブロが作中終盤まで物語に深く関与せず、ヘビクラ隊長ことジャグラス ジャグラーが彼を追う探偵役となった『Z』。

 

『Z』とは対照的に、闇の三巨人との対決や縦軸に軸足を置き「1話完結と連続ドラマの両立」をギリギリまで攻めた『トリガー』。

 

前半は「ヴィラン不在」の作品として進み、バズド星人アガムスが正体を明かす後半は彼との対峙が中心になっていった『デッカー』。

 

ヴィランの存在を極力抑えたZに、むしろプッシュしたトリガー、そして両者のいいとこどりとも言えるデッカー……というこの3作を経て、8年ぶりの「ヴィランが存在しない」作品となった『ブレーザー』。 

自分は当初「ヴィランでやれることはひとまず全部やったように思えるし、田口監督メインだからバンダイも折れたのだろう」などと簡単に考えてしまっていたのだけれど、本作を見るとどうやらそんな単純な話ではないらしいことが分かってきた。 

というのも、本作の縦軸を担う存在=V99は 

・折り返し地点まで、その存在が伏せられている 

・ごく一部の怪獣としか関わりを持たない 

・探偵役をエミが担うことで「SKaRD VS 怪獣」という基本構造に影響を出さない 

……というもの。
ヴィランではないヴィラン枠、唯一無二の「縦軸役」ことV99だけれど、そのディテールにはセレブロやアガムスたちを通して積み上げられていった「ヴィランを表に出しすぎず、それでいて縦軸として機能させる」為のノウハウが惜しみなく詰め込まれていたのだ。 

そして、そんなセレブロやアガムスが生まれたのも、伏井出ケイや霧崎たち歴代ニュージェネヴィランたちの積み重ねがあればこそ。このことを踏まえると、「脱ヴィラン」の象徴のように扱われがちなV99は、一方で「ニュージェネヴィランの集大成」とも呼べる存在であり、この点はV99の魅力や功績を考える上で決して忘れてはならない「根幹」であるように思えてならない。

 

 

こうして生まれた未知の存在「V99」は『ブレーザー』作中でその唯一性を存分に発揮。第12話『いくぞブレーザー!』ラストの「セカンド・ウェイブ」発言を契機にその存在が明示され (ここで第1話のタイトル『ファースト・ウェイブ』が “仕込み” だったと明かされる作劇の妙よ……!) 、エミがその正体を追う探偵役になるも、V99はその正体どころか、そもそも怪獣なのか宇宙人なのかさえも明かされないという前代未聞の「秘密主義」を敢行してみせた。 

その秘密主義によって、V99は「表舞台に出てこないし、正体も一向に明かされない」不気味な存在として無二のアイデンティティーを確立。その結果として「本編に顔を出さない (尺を食わない) 」ことと「存在感を出す」ことの両立=長年求められ続けていたウルトラCを見事に成し遂げており、この点こそが、本作が縦軸に尺を取られることなく「1話完結の空想特撮作品」として自由な作品作りを行っていけた最大の要因と言えるだろう。

 

(尚、このV99に非常に近い存在だったのが『X』のグリーザ。V99は、ニュージェネのノウハウを経て完成した “理想的なグリーザ” という見方もできるかもしれない)

 

〈 引きの美しさと、キャスト陣の魅力 〉


こうして生まれた本作屈指の発明=V99。本作が最後の最後まで怪獣中心の作劇を貫けたのも、ドラマや人間関係を丹念に描けたのも、どちらもこのギミックの恩恵があればこそ。 

他にもV99が『ブレーザー』に与えた功績は数知れないけれど、中でも印象的なのが「美しい “引き” 」の数々だ。

 

「ニジカガチの声を聞いて微笑む横峯教授」という、様々な解釈ができる上品な〆が印象的な第8話『虹が出た (後編) 』。

 

事件の終わりではなく、ツクシたちの「音楽家としての “終わり” 」を持って幕が下りる第9話『オトノホシ』。

 

「アイツが……守ってくれた土だ……!」という最後の一言に、不器用な親子のコミュニケーションが帰結する第20話『虫の音の夜』……。

 

他にも、前述の第17話『さすらいのザンギル』ラストシーンなど、本作では1話完結エピソードが「美しく、余韻のある引き」で〆られることが非常に多い。 

シナリオ上1話完結のエピソードになっていても、ヴィランが元凶だったり最後に縦軸シーンが挟まれたりするせいで「1話完結としてのパッケージが纏まらず、後味が悪くなってしまう」現象が散見されていたニュージェネレーションシリーズ (「R/B」第4話『光のウイニングボール』、「タイガ」第18話『新しき世界のために』など) を経た上だと、これらの「〆」は一段と味わい深いものになっており、この点もまた、V99という設定の大きな功績と言って差し支えないだろう。

 

(〆の良さという点では、間をたっぷり使っての「溜め」からタイトル影絵を叩き付け、そのままエンディングに入る……というさながら映画のような引きが上品だった第1話『ファースト・ウェイブ』も印象深い)

 

一方、このような「美しい〆」を実現できたのは、何もV99だけの功績ではない。

 

BLACK STAR

BLACK STAR

  • MindaRyn
  • アニメ
  • ¥255

 

「登録者100万人のYouTuber兼アニソンシンガー」という肩書きも納得の歌声や、クールビューティーな見た目から飛び出す朗らかな人柄など数多くの魅力を持つMindaRyn氏。本作のED=『BLACK STAR』と『Brave Blazar』はそんな氏の透明感のある歌声がピッタリのセンセーショナルな楽曲で、とりわけ『ファースト・ウェイブ』や『さすらいのザンギル』『虫の音の夜』などは、文字通り「この歌ありきの〆」だったように思う。 

また、このような〆――もとい、『ブレーザー』の上品で引き締まったドラマを作り出すことができた理由として、やはりゲント役・蕨野友也氏をはじめとするキャスト陣の尽力を欠かすことはできないだろう。

 

 

ブレーザー』の主役である特殊怪獣対応分遣隊SKaRD。ナイトレイダーとは異なるリアリズムを感じさせる組織描写など独自の個性が際立つこのチームだけれど、その特徴の一つがキャスト陣の年齢層の高さ。 

最年少のエミ隊員役・搗宮姫奈氏は27才。筋肉コンビ (?) ことヤスノブ隊員役・梶原颯氏とアンリ隊員役・内藤好美氏はなんと同い年の29才。そしてゲント隊長役・蕨野友也氏は歴代TVシリーズ主人公最年長となる36才、テルアキ副隊長役・伊藤祐輝氏は37才でその一つ上と、SKaRDはおそらく歴代防衛チームの中でも最も年齢層が高いチームになっている (年齢は2024年2月時点でのもの) 。 

そんな経験豊富なメンバー故か、彼ら『ブレーザー』キャスト陣は非常にストイック、かつ演技が成熟した方々ばかり。番組序盤から「近すぎず、遠すぎない」SKaRDの絶妙な距離感を構築してみせただけでなく、台詞でなく「演技で語る」ことが必要な脚本に見事応え、数多くの名シーンを残してみせた。

 

「教授の所には、俺が。テルアキはアースガロンを頼む」
「いえ……。教授とは私が話します。教授の本は何度も読みました、考えは誰より分かっているつもりです」
「だが最悪の場合、教授の命を奪うことになる。……君にそれができるか?」
「貴方になら、できるんですか」
「……」
「……」
「……分かった。ただし!……無理はするなよ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第8話『虹が出た (後編) 』より

 

「SKaRDの情報担当として、あの事故についてもっと調べても良いですか」
「いいよ。……許可する、やれ」
「……ウィルコォ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第14話『月下の記憶』より

 

中でも個人的なお気に入りがこの2つ。確固たる意志とゲントへの信頼を胸に、初めて「隊長命令に逆らう」テルアキ。危険地帯に足を踏み入れるエミを「SKaRD隊長」として、そして一人の「父」として送り出すゲント……。これら2つは、どちらも言葉そのものではなく「表情」「声色」といった非言語コミュニケーションで想いを伝えるものであり、だからこそ、互いへの揺るぎない信頼が伺える「粋」なシーン。 

ヤスノブやアンリ、そしてハルノ参謀長らに至るまで、このような「言葉以上のもの」を伝えられるアクターが集められたのが『ブレーザー』という作品。それはおそらく、本作のテーマ=「コミュニケーション」という難題に向き合い、描ききる上でそんなキャスト陣が必要不可欠だったからではないだろうか。

 


(ド真面目ながらも天然な一面を持つ本作の座長=蕨野氏。自分が1月2日に観劇した『ウルトラヒーローズEXPO 2024 ニューイヤーフェスティバル』では、前日に起こった大きな悲劇に対し「自分に今できることを全力ですることが、誰かの笑顔に繋がると信じている」というコメントを残されており、その姿はまさにヒルマ ゲント本人だった。まだ劇場版が控えているけれど、半年間本当にありがとうございました……!)

 

ブレーザーが描いた「コミュニケーション」〉

 

本作のテーマは、「コミュニケーション」です。<人間とウルトラマン><人類と怪獣・宇宙人><戦場の戦士と会議室の司令官><親と子供>…。それぞれの立場や思考の相違から生まれる対立を乗り越えて協調するために、気持ちを伝える「対話」がいかに大切か。現実社会でも起こりうる様々な対立に登場人物たちが立ち向かう姿を、明るく楽しいエンターテイメントとして「ウルトラマン」の空想世界で描き出します。

引用:新テレビシリーズ『ウルトラマンブレーザー』テレビ東京系 2023年7月8日(土)あさ9時放送スタート!ウルトラマンシリーズ初、変身する主人公は隊長! - 円谷ステーション

ブレーザー』が初報の段階からプッシュしていたテーマ=「コミュニケーション」。SNSの発達や今も続くパンデミックなどから「ディスコミュニケーションによる争い」を目にすることが増えてきた現代にマッチしたこのテーマが、果たしてどのように「ウルトラマン」に落とし込まれるのか……。テーマがテーマなのでこちらも思わず身構えてしまっていたけれど、いざ蓋を開けてみると、本作のメッセージは予想よりもずっとシンプルで、とても真っ直ぐなものだったように思う。

 

 

ゲントとSKaRD隊員たち。ゲントと家族。ヤスノブと彼の愛するマシンたち。テルアキと父親。アンリと「ツクシのおじさん」。エミとドバシ。そして、V99と人類。25話の中で『ブレーザー』は様々なコミュニケーションを描いてきた。見方によっては、SKaRDが怪獣に向き合い、その生態から分析していくというフォーマットも、SKaRDと怪獣のコミュニケーションと呼べるかもしれない。 

そして、これら多彩なコミュニケーションを通して描かれていたのが「相手を “知ろうとする” ことの大切さ」。ここで重要なのは、それが「相手を知る / 分かること」ではないという点だ。

 

 

SNS全盛という言葉さえも古びてきた令和の時代、今や誰もが情報と繋がっており、分からないことは調べられるのが当たり前、よほど専門的なことでもない限り、誰もがあらゆることを「分かって当然」という恐ろしい時代になっている。 

しかし、そんな令和においても「分からない」と日夜人々を悩ませているものがある。それが「他人の気持ち」あるいはそれを知る為の手段=コミュニケーションだ。 

……なんて偉そうに書いているけれど、他でもない私自身が、そんな「コミュニケーションに悩んでいる現代人」の一人。職場の人間関係に辟易し、友人との通話が終われば「なんであんなこと言ったんだろう」と後悔し、LINEを開けば受信メッセージの解釈と返答のシミュレーションに頭を使い潰し、それでもディスコミュニケーションという呪いから逃れられた試しのない、現代に溢れ返っている「喋るコミュ障」という怪物だ。 

そんな自分にとって、大好きなウルトラシリーズが「コミュニケーション」をテーマに据える……というのは、嬉しいとか悲しいとかではなく「興味深い」報せだった。自分が、もとい老若男女が抱える深刻な悩みにウルトラシリーズが一体どう向き合うのか。それは「ウルトラシリーズならではの回答」となるのか否か――と、そんなことを思っていた頃は、よもや本作のウルトラマンが「意志疎通さえできない未知の存在」であり、そんな彼とゲントとのコミュニケーションこそが本作の真髄であるなどとは、この時は予想することさえできていなかった。

 

 

惑星M421からやってきた謎の巨人、ウルトラマンブレーザー。「明確な自我を持つが、意志疎通の手段がない」という、シリーズでも唯一無二の個性 (単に無口なだけのギンガ、意志があるのかどうか未だに不明なビクトリーのような “似て非なる” 例はいくつか存在している) を持つウルトラマンで、跳ねて、吠えて、光線ではなく槍で戦うその姿はまさに野生児か獣のそれ。そのあまりの衝撃から、当初は「正義の味方なのかどうか」さえ危ぶまれていた異色のヒーローだ。 

(ウルトラマンサーガの系譜を感じるデザインもあって、ティザームービーの段階では「神秘的な宇宙人なのでは」と囁かれていたのが今となっては信じられないエピソード。神秘路線でも野生児路線でもしっくりくる、複雑で有機的なデザインラインはブレーザーの大きな魅力の一つだろう)

 

その「謎」ぶりは作り手も意識的に演出していたようで、V99の存在が伏せられていた1クール目では「ブレーザーは一体何者なのか」「ゲントとブレーザーはどんな状態 / どんな関係なのか」……等、ブレーザーの存在そのものがある種のフック (縦軸要素) になっていた。 

今までも出自や目的が語られないウルトラマンは大勢いたけれど、本作のようにそれを「謎」として提示する作劇は類を見ないもの。その後も、視聴者に発破をかけるように「ゲントの身体を乗っ取るブレーザー (第9話) 」「ベビーデマーガを倒そうとする手を、もう一方の手が止める (第10話) 」といった場面が投げ込まれ、緊張感と共に「この先、一体どんなものを見せてくれるのか」というハードルが高まっていき――それがピークに達したタイミングで放送された第11話『エスケープ』の次回予告に、テレビの前で変な声を上げてしまったのをよく覚えている。

 

 

ヒーロー (ニュージェネ) 然とした要素を廃してきたブレーザーだからこそ、ここで「いくぞブレーザー!」というある種の決め台詞が生まれることは勿論、ブレーザーへの呼びかけという「コミュニケーション」をそのままサブタイトルにするという粋さや、この局面で登場するチルソナイトソード……など、これまでの溜めをここで爆発させるぞ! という熱量が伝わってきた第12話『いくぞブレーザー!』の次回予告。 

して、いざ放送された第12話は、そんな次回予告の熱量や1クールかけた “溜め” に恥じない一大決戦、そして「ブレーザーとゲントが繋がる瞬間」をしっかりと見せてくれた。

 

「俺を……帰還させようとしたのか……? あの時」
『誰か! 逃げ遅れた人はいないかッ!? ……早く逃げろぉっ!!』
「これは……ブレーザーの記憶、なのか……?」
『こっちだーッ!!』
ブレーザーも、命を救おうとしてたのか……。俺と同じじゃないか! 」

-「ウルトラマンブレーザー」 第12話『いくぞブレーザー!』より

 

宇宙装備研究所第66実験施設で出会った時に自身の手を掴んだのも、ベビーデマーガに向けられた手を止めたのも、第11話『エスケープ』での敵前逃亡も、全てはブレーザーが「命を救おうとしていた」から。ブレーザーは、最初からずっとゲントと同じ想いを抱いて戦っていたのだ。 

結局、このエピソードではブレーザーの出自・正体が明かされることはなかった。けれど、仮に「出自・正体が明かされた」だけだったら、ゲントはブレーザーを信じることも、「いくぞ、ブレーザー」と呼び掛けることもなかっただろう。それもそのはず、誰かと絆を育む上で重要なのは、その人の出身地でも職業でもなく「想い」。それが重なり、心を通わせることができたのなら、共に歩む理由としてそれ以上のものは何もないのである。 

日々コミュニケーションに難儀している自分にとって、ゲントとブレーザーが辿り着いたこの純粋で真っ直ぐな回答はまさに「ハッとさせられる」ものがあった。「コミュニケーションの本質とは、相手の情報を集めて正解を導くものではなく、互いの想いを伝え合おうとするその意思じゃないか」……と、このエピソードは自分にそんな当たり前のことを思い出させてくれたのだ。

 

 

コミュニケーションに正解はない、という言葉をよく耳にするけれど、それは至極当然のこと。家族であろうと友人であろうと、他人はどこまで行っても他人であり、その思考を読むことはできない。従って、人間には字面通りの「完全な相互理解」は不可能と言えるだろう。しかし、「それでもいいんだ」と、相手のことを「 “分かりきる” 必要はない」と示してくれたのが『ブレーザー』だった。 

一心同体、一蓮托生の関係でありながら、ゲントはブレーザーのことを何も知らないし、ブレーザーもまた、ゲントのことを何も知らない。けれど、ゲントはブレーザーのことを知ろうと歩み寄り続け、ブレーザーもまた、そんなゲントに応えようと、その命を救おうと必死だった。2人は、お互いのことが「分かった」から繋がれたのではない。「分かろうとする」こと=手を伸ばし続ける、その姿勢こそが2人を繋げたものだったのだろう。

 

 

「相手を “分かる” のではなく “分かろうとする” 」こと。人間同士に完全な「相互理解」は不可能だけど、そうして手を伸ばすことで通じ合うものもある――と、結果 (相互理解) ではなくその過程 (コミュニケーション) をこそ肯定した『ブレーザー』。 

このことを踏まえると、本作のラストで立ちはだかったのが「コミュニケーションを放棄した結果生まれた被害者」=V99だったことには深い納得がある。本作に敵がいるとすれば、それは「分かろうとしない」こと。コミュニケーションの放棄が生む、偏見や暴力に他ならないからだ。

 

 

〈『地球を抱くものたち』で描かれた “答え” 〉

 

「コミュニケーションの放棄」が生んだ被害者であるV99は、最終回『地球を抱くものたち』で地球を再訪。ヴァラロンによって危険分子 (地球人類) を排除しようとする彼らに対し、エミたちが選んだのは抗戦ではなく対話。そのメッセンジャーとなったのが、V99由来の身体と「SKaRDと育んできた知性」を備えた存在=アースガロンだった。 

これまでずっと「カッコよく戦ってくれ」「活躍してくれ」「強くなってくれ」と願われてきたアースガロンが、最後の最後で「言葉」を最大の力として戦いを終わらせる。そのことが (視聴者からアースガロンに向けられる期待をも折り込んだ) 壮大な “反戦” のメッセージに思えて、だからこそ胸を揺さぶられたのは自分だけではないだろう。力を持たないから話し合いを選ぶのではなく「力を持ちながらも話し合いを選ぶ」ことが知性の価値であるなら、それこそがアースガロンに与えられた真の役割だったのなら、マシンではなく「SKaRDの仲間の一人」として迎えられたアースガロンにとって、それは何よりも美しいゴールだと思えてならないのだ。

 

 

信頼の形として、知性の形として、一貫して様々な「コミュニケーション」の在り方を描き続けてきた『ブレーザー』。そんな本作が最後の最後に描いたものは、「コミュニケーション」という概念に備わるプリミティブな側面だった。

 

 

想いさえ繋がっているのなら、他に何も要らない。言葉がなくても、ゲントとブレーザーは固い絆で結ばれていた。……なら、なぜ最終回における「ブレーザーの “言葉” 」がこんなにも涙腺に響くのだろうか。

 

ブレーザー、聞こえるか! お前は、最後まで俺の命を守ってくれたんだな……! ありがとう。この戦いは、俺たちSKaRDで行くよ」
「オ、レ……オレモ、イク」

-「ウルトラマンブレーザー」 第25話『地球を抱くものたち』より

 

チルソナイトソードの力に大興奮していたり、SKaRDの「ブレーザーは仲間」という言葉に熱を発して喜んでいたり、その無邪気な様子から「野生児」どころか「赤ん坊」のようだと視聴者から可愛がられていたブレーザー。しかし、ゲントの中で地球人のコミュニケーションを学び、ゲントの口癖 (象徴) を自分の言葉として口にしたブレーザーの成長は、まさしく赤ん坊が言葉を習得する流れそのもの。それは、それだけ彼がゲントを想い、信頼している証であり、そのことは、子どもを持つ親であるゲント自身が誰より理解していることだろう。

 

 

どれだけ信頼しあう間柄でも、相手の想いを形にして見ることは不可能。だからこそ、コミュニケーションには常に不安や齟齬が付き纏うし、家族だろうと親友だろうと、些細なきっかけでいとも容易くすれ違いが生まれてしまう。ならば、そんな自分の想いが見えるように「形」にすればいい。言葉として、あるいは贈り物として、相手に「自分は貴方のことをこう想っています」と伝えればいい。 

人の想いが見えないことは時に救いでもある。だからこそ、曖昧で不確かな「想い」を形にすることは時に恐怖を伴うし、その曖昧さに甘えてしまう局面も多いだろう。……けれど、それもまた、ある意味では「コミュニケーションの放棄」に他ならないし、コミュニケーションとは決して「恐ろしい」だけのものではない。多くのリスクを孕む一方、時にそれ以上のものをもたらしてくれるのもまた「コミュニケーション」なのだ。 

人の想いが分からないからこそ、通じ合った瞬間を幸せに思う。 

不和が絶えないからこそ、固い絆が愛おしい。 

辛い時や泣きそうな時、誰かの応援こそが一番の力になってくれる。 

私たちはコミュニケーションに日々苦しめられているけれど、一方ではコミュニケーションに生かされてもいるのだ。 

ウルトラマンが人々の応援に力を貰うように、誰かとの繋がりとは、時に何物にも替え難い力になってくれる――。そのことを体現していたのが、本作最後の隠し球=「ブレーザー光線」だったように思う。

 

 

第10話『親と子』等で示唆されたように、ゲントの意志が宿るのはブレーザーの右半身。一方、左腕にあるのは結婚指輪にブレスレット、そしてブレーザーブレス=みんなからの想いの形。であるなら、両手をクロスすることで放つブレーザー光線とは、双方の想いの繋がり=本作で描かれてきたコミュニケーション、あるいは「繋がりがくれる力」が具現化したもの。 

繋がりを力とするヒーロー・ウルトラマンブレーザー誕生の産声として、テーマを総括する最後の〆として、そして「地球人と異星人が融合したヒーロー」という初代ウルトラマンアイデンティティーに対する58年越しのアンサーとして、この技はまさに『ウルトラマンブレーザー』を締め括るに相応しい一撃だったのではないだろうか。

 

(私たちが言葉を発しない謎の異星人=ブレーザーに愛着を持つことができたのは、カッコよく、元気に、ワイルドに、繊細に、感情豊かにブレーザーを演じてくださったスーツアクター・岩田栄慶氏の熱演があればこそ。長年ニュージェネレーションヒーローズを演じ続けてきた岩田氏にこんな大舞台が用意されたことは勿論、遂に岩田氏自身が「ウルトラマンの声」を担当、最後には台詞まで口にする――というのは、ニュージェネレーションシリーズのファンとしてはまさに感無量の出来事だった。岩田さん、本当にありがとうございました……!)

 

最後に~『ブレーザー』が残したもの、拓いたもの

 

空想特撮シリーズとして、商業作品として、そして「コミュニケーションの物語」として、様々な点から創意工夫と飽くなき情熱が盛り込まれた『ブレーザー』。けれども、筆者の肌感覚やYoutube上の再生数などを見ると、残念ながら本作は『Z』程のムーブメントを起こすには至っていなかったようにも思う。その大きな要因として考えられるのは、 

・縦軸やイベント性が抑えられており、次回への引き(フック)が弱かったこと。 

・シリーズ未視聴者が思わず食いつくような、ウルトラシリーズとしての「 “分かりやすい“ 新しさ」に欠けていたこと。 

の2点。多くの新規ファンを獲得した『Z』と異なり、日頃シリーズに触れていなかった方にとって「いつものウルトラマン」の域を出る印象を与えられなかった=コンテンツが氾濫する現代において「これは見たい!」と思わせるほどの強いフックを発揮できなかったのかもしれない。 

(自分の観測範囲内でも、第1話『ファースト・ウェイブ』は日頃ウルトラシリーズを見ない方々も注目していたが、そのような方々は回を重ねるごとに離れていってしまっていた。けれど、イベントも ”新しさ” も満載の新しい / 奇抜なウルトラマンからは、ブレーザーのような上品な味わいは生まれなかっただろう)

 

しかし、『Z』ほどのムーブメントにならなかったというのは『トリガー』『デッカー』も同じで、むしろ玩具の売り上げは堅調に右肩上がりを続けている。それはおそらく、本作の魅力=多くの怪獣やSFとしての強固な魅力、硬派かつ暖かいストーリーが「見続けた」方々、ないし子どもたちにはしっかりと届いた証拠なのだろうと思うし、たとえ大きなムーブメントにならなかったとしても、『ブレーザー』という「丁寧な作りの意欲作」がしっかりと成果を残したことは、今後のウルトラシリーズにとって間違いなく大きな財産となるだろう。 

(個人的な意見だけれど、本作はおそらく「一気見」が非常に適した作品。アーカイブ化されたことで、本作はこれから一層その評価を上げていくのではないだろうか)

 

それに、『ブレーザー』という作品はまだ終わっていない。本作の「本番」とさえ言えそうな作品が、もうすぐそこまで迫っているのだ。

 

 

『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』以来、なんと4年ぶりとなるウルトラシリーズの劇場用作品。その名はウルトラマンブレーザー  THE MOVIE 大怪獣首都激突』!   

田口監督がメガホンを取ってこのタイトル。ド級の怪獣映画が見れることは間違いないだろうし、欲を言うなら『劇場版 ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』並かそれ以上の手に汗握る大激闘を期待したいところ……!

 

 

更に、2月には横浜、3月には大阪で『NEW GENERATION THE LIVE ウルトラマンブレーザー編 「未来へ…」 』がそれぞれ上演予定。これ以上何を望もうか、という大盤振る舞いだけれど、もし一つだけ欲を言っていいなら、それはやはりブレーザーと “ニュージェネレーション” の関係」について。

 

 

ブレーザーと入れ替わって始まった新番組『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ』。1年前の番組からタイトルを引き継ぎつつも、その中身は全くの別物……というかなり挑戦的な番組で、『Z』以来となるユカ、『デッカー』ではステージの客演のみだったイグニス、そして『ウルトラヒーローズEXPO 2022 サマーフェスティバル』のゲストキャラクターだった「マウンテンガリバーⅡ-Ⅴ」というメインメンバーもさることながら、驚きだったのはブレーザーがさらっと「ニュージェネ」の枠に入っていること。 

ニュージェネ10作目のデッカーを経て始まった『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ (2023) 』がニュージェネの総括的な内容で、更に『ブレーザー』がそんな「ニュージェネらしさ」を意識的に廃していたことから、自分はてっきり「ブレーザーから新しい世代が始まるのでは」と期待していたのだけれど、円谷としてもようやく定着してきたニュージェネというブランドには中々区切りを付けられないのだろう。

 

 

とはいえ、思えばゼロやギンガ、ビクトリーも以前は「ウルトラ10勇士」という括りに入っていた存在。作っていくものではなく「できていく」のが枠組みであるなら、全てはブレーザーに続く新しいウルトラマンに委ねられているのかもしれない。 

なら、今私たち視聴者がすべきことは『ブレーザー』という作品から受け取ったものに向き合い、日々の「コミュニケーション」について考え、行動に移していくこと。 

感情に流されるのでもなく、伸ばされた手に甘んじるのでもなく、「俺が行く」と自ら手を差し伸べられるような人間に『ウルトラマンブレーザー』を通して少しでも近付くことができたのなら、それこそがこの作品との理想的な "コミュニケーション" と言えるのではないだろうか。

 

「今度はもう、離すなよ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第25話『地球を抱くものたち』より