感想『BLUE GIANT』ー “音” で語り “ジャズへの先入観” を焼き尽くす、永遠で儚い炎の青春譚

ネットへの感想文を投げてきた3年間で、素人なりに学んできたことがある。その中でも特に強く意識しているのが「作品を見て感じたことは、1日寝てしまうとその多くを取り零す」ということで、それが「言語化できないもの」であればあるほど取り零しは多くなる。 

なので今、自分は1日5本映画を見るという人生初のハイカロリーチャレンジの〆を『BLUE GIANT』(上映時間19:30〜21:40)で飾ったその帰り道、限界ギリギリの体力と眠気の中、ウォークマンから音楽も流さずに目をかっ開いてスマホを叩いている。本作の肝=今も自分の中で響いている『BLUE GIANT』の “音” は、間違いなく明日には引き継げないという確信があるからだ。

 

 

自分はよく音楽を聴く方だという自負はあるけれど、聴くのは何かしらの作品を前提にしたもの=アニソンや劇伴ばかりで、それも劇中で流れているものにほぼ限定される……と、とにもかくにも範囲が狭い。そんな自分にとって、『BLUE GIANT』で取り上げられる「ジャズ音楽」は本当に縁がなかったし、自分はこの作品のターゲットではないだろうと――正直、友人の勧めを受けて尚「こればかりは自分には合わないだろう」と思っていた。 

そんな自分の認識を変えた決め手は「映画館で見ることに価値がある」という言説。ちょうど先日まで公開していた『THE FIRST SLAM DUNK』でまさにその「映画館で見ることに価値がある」を痛感したばかりだったし、もしその説が本当なら、レンタルや配信では『BLUE GIANT』を真に楽しむことはできず、後から観たくなっても手遅れということになる。 

そう思い立った頃にはもう公開が終わってしまっており、どうしたものかと思っていた矢先に今回のリバイバル上映が決定。もう後悔はしたくない! と急ぎDolby Atmosの上映を狙って駆け付け、結果こうしてまんまと感想文を書いている……というのが事の顛末だ。

 

 

そんな『BLUE GIANT』を振り返る上でまず触れたいのは、その魅力的なキャラクターたち。 

主演の山田裕貴氏をはじめとして、メインキャスト陣は俳優として活躍される方が声を当てていたけれど、むしろ俳優特有の「生っぽさ」が作品にピッタリだったし、とりわけ「JASS」のドラム担当=玉田俊二については、岡山天音氏の泥臭く少し抜け感のある演技が、不器用ながらも一生懸命、浮ついた仮面の下で「心を滾らせるもの」への情熱を燻らせている……という玉田への感情移入を一層引き立ててくれていた。 

ひたむきに成長する玉田の志を守ろうとする大の想い、口では素人と言いながらも誠実に向き合う沢辺、そして「成長する君のドラムが楽しみなんだ」……と、玉田を通して描かれた「誠実な想いと努力は、誰かが必ず見てくれている」というメッセージは、本作における「核」の一つなのだろうと思うし、彼がドラムを叩くその「表情」こそが自分をこの作品に引き込む最初のフックになっていた。

 

 

そんな玉田の等身大の生き様・成長に心揺さぶられつつも、一方で心を「ぶん殴ってきた」のが「JASS」のピアノ担当=沢辺雪祈。 

中盤でジャズクラブ “So Blue” の支配人=平から、JASSの中で彼一人だけが「面白くない」と突き付けられるシーンは「ああ、これで彼はタイムラインでよく見かけるんだな……」と考えられるくらいには余裕があったけど、So Blueでのライブ直前、彼がトラックに轢かれるシーンでは本当に「えっ」と声が漏れてしまった。それも結構な声量で。(近くの方々本当にごめんなさい)  

最初は鼻に付く (ものの、ポニテがやたらセクシーな) キャラクターだと思っていたけれど、いつの間にかそんな彼が「演奏が鼻に付く」と言われるシーンにこちらまでショックを受けたり、金田豆腐店での「夜明け」に思わず胸が詰まったりと、2時間という尺でここまで見方を変えてくれる彼の物語には、本作の「作劇の上手さ」ないし、『BLUE GIANT』という作品そのものの「巧さ」が最も現れていたと言えるかもしれない。

 

 

……と、この調子で話しているとキリがないし、キャラクターや作画・演出など本作は細かい部分まで魅力が満載だった。しかし、仮に「それだけ」だったら自分は感想を書かなかったかもしれないし、少なくとも、こんな無鉄砲に感想執筆RTAを始めることはなかったと思う。 

なら、一体何が自分にここまでの「衝動」を引きずり出させたのか。それは、何といっても本作の「音楽」演出をおいて他にない

 

 

前述の通り、自分はジャズという文化に触れたことがなく、それどころか「音楽に通じた玄人向けの高尚な芸術」という偏見を持っていた。……ので、自分にも大の「ジャズは熱くて激しい」という言葉は予想外だったし、事実、大が沢辺を驚かせた最初の演奏――そして、彼らJASSのファーストライブを飾った『FIRST NOTE』に抱いた率直な想いが「カッコいい」だったのは我が事ながら驚きだった。

 

 

しかし、問題はそんな「カッコいい」で開いたドアが、ライブを重ねるにつれて更にこじ開けられていくこと。 

作中でも、沢辺のソロに「似たようなものは飽きられる」という言及があったように、本作のライブはその都度大きな「進化」を見せ、それが自分の中にあった偏見をどんどん消し去ってくれた。その一つが、次なるライブで演奏された『N.E.W.』だ。

 

 

開幕から吹き鳴らされる豪快なサックスからは大の信条=「自由さ」が感じられたし、『FIRST NOTE』で玉田のドラムが欠落し不完全になっていたことが、今回の『N.E.W.』における玉田のドラムを際立たせていた。それは、ジャズにおけるドラムという存在の大きさ――転じて、「個々の主張 (メロディ) が時にぶつかり合い、時に混ざり合う」デッドヒートだけが生み出せる無二のハーモニーをも際立たせていて、自分のようなズブの素人でもジャズの「熱さと激しさ」を感じられたことには素直な喜びがあった。

 

 

更に本作は、大の言うところの「ジャズは熱くて激しい」だけでなく「想いを語る音楽」という台詞をも、本当に「音楽」で語ってみせた。

それがこの『count on me』後半における転調=沢辺が「弾けた」瞬間。自由で荒々しく、けれど「この先どうなるのか」というワクワクを掻き立ててくれるスリリングな演奏を持ってして、これまでの沢辺は「何が “小手先” だったのか」、何をして「想いを語る音楽」と呼べるのか――その理由を、ロジックではなく「音」として叩き付けられてしまったのだ。

 

……と、このように、キャラクターたちの成長とストーリー、それらを束ねてカタルシスを爆発させてくれる「ジャズ」の力を刻み込まれ、個々の楽器のデッドヒートという「旨味」を知ってしまった絶頂だからこそ、ここに来ての沢辺の事故が効いてくる。

 

 

ドラムとサックスだけで行われるライブへの不安感。それを打ち破る『WE WILL』のワイルドな熱量。ここで満を持して披露される「玉田のソロパート」が響かせる沢辺への想い。そして、「3人の演奏」こそが放っていた輝き……。『WE WILL』に揺さぶられれば揺さぶられるほど、一方で沢辺のピアノに焦がれてしまうし、予想だにしなかった「アンコール」――それが『FIRST NOTE』であることに涙してしまう。

 

 

沢辺曰く、ジャズを演奏する者同士が「組む」のは、あくまでお互いを踏み台とする為なのだという。けれど、だからこそ「一緒にいたいと望む」という当たり前のことが殊更に美しく、殊更に儚い。『BLUE GIANT』が奏でたのは、そんな現実の厳しさと、それでもその “青” は永遠になるのだという夢追い人たちへのエールなのではないだろうか。  

しかし、果たして自分はそんなエールを受け取れる立場にいるのか。自分は、本当に「内蔵をひっくり返す」くらい、本気で夢を追えているだろうか。そんな本作の問いかけを胸に刻み、いつかもう一度、胸を張って彼らの「熱く激しい」ジャズに向き合ってみたい。