感想 - 映画『金の国 水の国』 “綺麗事” は “絵空事” じゃないと謳う、気高くやさしい「ある台詞」について

この年になると「初めての経験」というものとはどんどん縁が遠くなっていく。それはきっと、年老いていくことで「未知への挑戦」にエネルギーを割くことが億劫に感じられるようになってしまったり、時間の有限性を感じたり、金銭的な懸念が生まれてしまったり……と、様々な要因があるだろう。そういった意味では、「 “事前にほぼ一切の情報を仕入れず”  に、“恋愛ものの映画” を見る」という初めて尽くしの経験ができたことは、自分が感じているより貴重な出来事だったのかもしれない。

 

 

その映画とは、先々月・2023年1月27日から公開中の金の国 水の国。 

「原作があるらしい」ことと「恋愛が軸の物語らしい」ことしか事前情報を仕入れずに、人生で初めて映画館で見た「恋愛ものの作品」となった本作。 

「2023年初泣き」「最高純度の優しさ」 

というキャッチフレーズからして自分には全くもって縁の無さそうなこの作品だけれど、結論から言うと、確かに自分は涙した。所謂「泣き所」ではない、しかし本作を見たら必ず印象に残るであろう「とある台詞」に心を打たれてしまったからだ。 

今回の記事は、その台詞について忘れないための備忘録兼、一人でも多くの、自分のような「この映画に縁の無さそう」な方々に本作を届ける為の「正直な」気持ちを綴った感想文。前述した本作のキャッチフレーズは一旦忘れた上で、是非お付き合いください。


※以下、『金の国 水の国』についてのネタバレが含まれます、ご注意ください※

 


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引用:アニメ映画『金の国 水の国』壮美な世界観が伝わる本ビジュアル解禁! 出演声優の賀来賢人さんと浜辺美波さんがナビゲートする、スペシャルガイド動画も公開 - アニメイトタイムズ

 

金の国 水の国』は、岩本ナオ氏による漫画作品。元々は前後編の読み切り作品でありながら後に不定期連載作品となり、果ては「このマンガがすごい! 2017年オンナ編」の第1位と「マンガ大賞2017」第2位を同時にかっさらうという大躍進を見せた人気作で、ノベライズなどを経て、遂に今回アニメ映画化と相成った。 

そんな本作のあらすじは以下の通り。

 

100年もの間国交を断絶してきた戦争寸前の2つの国。商業国家で水以外なんでも手に入る裕福な〈金の国・アルハミト〉と、貧しいが豊かな自然と水に恵まれた〈水の国・バイカリ〉。 

“偽りの夫婦” を演じることになった、この敵国同士のナランバヤルとサーヤがついた “小さな嘘” が、国を揺るがす大事件を巻き起こし、やがて国の未来を変えていくことに――。  

引用:CHARACTER & CAST - 映画『金の国 水の国』オフィシャル より

 

自分は冒頭でこの作品を「恋愛もの」と言ったけれど、本作の正しいジャンルはファンタジー「恋愛が話の軸にあるファンタジー作品」というのが適切だろうか。 

前述の背景から、いかに凄まじいストーリーや、見たこともない世界観が待っているのだろう……と思われるかもしれないけれど、実際のところ、本作は決して「これまでにない斬新なストーリー」「強烈な世界観」……といった「派手さ」を持った作品ではない。堅実・丁寧な作風を武器にここまでのし上がったという、むしろある種「ホンモノ」の力を持った作品だ。 

主人公=ナランバヤルとサーラの交流を軸に、様々な人々の思惑が交錯していく癖のないストーリー。現実の写し鏡としての精度が高く、ファンタジーとは思えない世界観。2時間作品とは思えない濃密なボリューム……。要素一つ一つのクオリティが高く、それらの下地となる「異国情緒溢れる美麗なビジュアル」や「上品かつ牧歌的な音楽」も世界観にピッタリ。総じて「映画」というコンテンツとの相性が抜群で、とりわけアニメ映画ファンには広く勧められる敷居の低い作品と言えるだろう。 

(本作の音楽を手がけるのは、京都アニメーション製作のアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』や、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』などで知られる作曲家・Evan Call氏。『ヴァイオレット~』同様、氏の奥行きのある楽曲はやはり映画館に映える……!)

 

 

……しかし、そのように「総じて高い水準」を誇る作品だからこそ、自分には気になってしまう点もちらほらと見られた。それは「一部キャラクターの描写」について。

 

 

最も気になったのは、いかにもな「嫌なお姉さま」キャラとして登場したアルハミトの第一王女=レオポルディーネの描写。 

彼女は作中中盤で「国を愛する反戦派筆頭」であると明かされ、そこからは一転して「国への愛を露にする回想と独白が入る」「サラディーンと仲睦まじくしている様子が描かれる」と、複数の「いい人だった」フォローが行われる……のだけれども、最後までサーラが姉妹の仲間外れになっていた回想シーンの真相が分からないままな上、レオポルディーネとサラディーンの関係が「愛人 (それも妹たちと共通の) 」である以上、どんなに仲睦まじい様子でも肯定的に見ることができない。一言で表すなら、些か「この作品は彼女をどういうキャラクターとして描きたいのか」最後まで掴みあぐねてしまったのだ。

 

また、主人公のナランバヤルにも「どういうキャラクターとして描きたいのか」掴みかねてしまった点があった。 

ナランバヤルは「口が達者」「技師としてのセンスが抜群」「相手が誰でも恐れない度胸と胆力がある」「視野が広く、観察眼に優れる」「サラディーンと一晩で協力関係を結べるほどの高いコミュニケーション能力を誇る」「気遣いもできて一途」……といった無数の長所に対し、描かれた「短所」は「家が貧乏 (ナランバヤル個人の問題ではない) 」「お調子者っぽい (むしろ親しみやすさに繋がっている) 」……ぐらいのもので、実際に彼は作中で「失敗」も「挫折」もしない。  

(強いて言うなら夜の森にサーラを置き去りにしてしまったことくらいだが、これも彼の落ち度というより “やむを得ない” 状況によるものだった) 

 

とはいえ、こうした「長所に対して欠点が少ないキャラ」というのは決して珍しくないし、まして彼は主人公。本来なら気になるような点ではない上、その人柄の所以はサーラが村に訪れたシーンでしっかり描かれていた。ならどうしてナランバヤルのそれが気になってしまったのか……というと、それは「本作でそのように描かれているのがナランバヤルだけ」だったからだろう。  

本作のキャラクターたちは、皆「強くもあり、弱くもある」リアルな人間として描かれている。天然かつ世間知らずなことが長所でも短所でもあるサーラ、お飾りとしての扱いに慣れてしまったのか、情熱を失ってしまっていたサラディーン……等々。そんな現実的なキャラクターたちが緻密な世界観と結び付くからこそ、本作はファンタジーとは思えないリアリティに満ちた物語となっており、そのことが大きな魅力を放っていた。 

そのため、前述の通りほぼ欠点が描かれず、失敗も挫折もせずにトントン拍子で大事業を成し遂げていくナランバヤルの「無双」ぶりは、原作を知らない自分には些か「現実離れして / 浮いて」見えてしまった。このリアルな作品の中で、彼にだけは露骨なフィクションっぽさ=「主人公補正」を感じざるを得なかった、とも言えるかもしれない。 

(彼が「ありふれた若者」のように描かれていることもその違和感に拍車をかけている。「 “メガネを外したら美少女” とされるキャラがメガネをかけている時点で可愛い問題」に似たものだろうか)

 

 

レオポルディーネはともかく、ナランバヤルは本作の主人公。ただでさえ慣れないジャンルの作品を見るにあたって、主人公の咀嚼に躓く……というのは致命的な突っかかりであるし、場合によってはそのまま転んでフェードアウトしかねない程の痛手だけれど、自分はそうはならなかった。「これって、もしかして肝心な描写が尺の都合でカットされてるんじゃないか……?」と思うことができたからだ。 

そう思えた一番の理由は、本作に「この作品は、そんなおざなりな人物描写をしないはず」と信頼できるだけの「誠実さ」が満ちていたことだろう。

 

 

本作の「誠実さ」を象徴していたのが、ヒロイン兼もう一人の主人公であるサーラ。 

「どこまでも人を疑わず、人に怒らない」度が過ぎるほど純朴な彼女の気質は、時に長所として、時に短所としても描かれており、それがラスタバン三世との対峙における「決めの一手」になるクライマックスの展開は、その仕込みの巧さに思わず声が出そうになってしまった。

 

そんなサーラといえば、 (メインヒロインでありながら) 作中で実質的に「容姿に優れている訳ではない」と明言され、キャラクターデザインがその通りの「他と明らかに異なる」ものになっていることも特徴的。イカリの人々から、容姿について「あれがアルハミト一の美女?」と囁かれるシーンなども非常に生々しく、前述の「レオポルディーネから仲間外れにされていた」件についても、もしやこの容姿が原因の一つだったのでは……と思えてしまう。 

しかし、彼女がそうした描写をされていることは、転じて彼女に惚れ込んだナランバヤルの誠実さを際立たせる=ナランバヤルが彼女の「見た目」よりも「内面=心の美しさ」に惹かれたと明示することにも繋がっていた。 

ヒロインをこうした挑戦的な形で演出することには、何かと多くの困難を伴うだろう。しかし、それを押してでも「心の美しさ」を描こうとする姿勢には、本作の生真面目さが最も顕著に現れていたと言えるかもしれない。 

(心の美しさ、という点で言うと “自分の見た目に散々な言葉を浴びて怒らなかったサーラが “ナランバヤルを馬鹿にされた” ことで初めて怒りを見せ、オドゥニに勝負を挑むくだりも外せない……!)

 

 

一方、本作はそんな主人公2人以外のキャラクターも非常に力を入れて描かれており、彼らを「一介の “サブキャラクター” で終わらせない」という製作陣の気合いが、原作未読の自分にもひしひしと感じられた。

 

 

美しい見た目と一級の人気を誇る舞台役者兼、アルハミトの左大臣=サラディーン。 

一見、何もかもを手にしたかのように見える彼は、その実自身が「お飾り」であることを自覚しており、序盤で見せた人を食うような態度もある種の諦念から来るものだった。 

映画では彼の背景が詳しく語られることはなかったけれど、彼の見た目やその高い人気、左大臣の自身を「お飾り」と皮肉っていること、役者の仕事は継続中だが、今はそこまで本腰を入れていない (らしい) こと……などといった情報を元に考えると、彼はおそらく左大臣になる前から自身の内面や演技ではなく「見た目」ばかりを評価されており、そのことに傷付いていたのではないだろうか。 

そう考えると、ナランバヤルと共に開国に挑み、それを成し遂げた本作での経験=「見た目ではなく、自身の能力+演技力で偉業を成し遂げた」という経験はこれ以上なく彼の背中を押すものであっただろうし、エンディングで舞台に立つサラディーンの晴れやかな表情には、そんな彼の心境が反映されていたように思えてならない。 

(もしこの推測通りなら、彼はナランバヤル・サーラとは対称的に「見た目ばかりを評価され、その結果疲れ切ってしまった存在」と言えるが、狙ってか偶然か、彼の存在は本作がルッキズム批判に傾かないような巧いバランサー/補完的存在になっているようにも思える)

 

 

アニメの登場人物を見て「誰!?」となることはよくあるけど、「何!?!?!?」となることは後にも先にもないと思う。 

そう、全国いくらなんでも美味しすぎるだろランキング2023年度映画部門堂々の第1位 (暫定) 、 (多分) みんな大好きであろうライララさんである。(ぼくもだいすき)

 

前述の通り、原作の知識を何一つ仕入れずに映画館へ突撃した自分にとって、スクリーンに突如現れた彼女の衝撃ったらなかった。 

人であるかどうかさえ怪しい容姿、子どもにも優しい線の少なさ (一目見たら誰でも書けるのに過去に例がないという、本当に天才的なキャラクターデザイン……!) 、CV.沢城みゆき、出オチ要因かと思いきや最初から最後まで物語に絡み、ナランバヤルとサーラの為に奮戦するという美味しい役どころ、急に生えてくる手足、「暗殺部隊所属」という妙に納得してしまう設定……並べれば並べるほど困惑する。濃すぎるし、美味しすぎる。  

おそらく『金の国 水の国』を見た方々の大多数がそうであるように、自分もすっかりライララさんをさん付けでしか呼べない体にされてしまったのだけれど、個人的に最も印象に残っているシーンは上述のどれでもなく、ナランバヤルがアルハミトの景色に感動する姿に「嬉しそうに目尻を下げる」シーン。この1シーンがあるだけで、彼女が「この世界に生きている一人の人間」であることも、彼女が働いている背景も伝わってくるのだ。 

そのキャラの濃さから、扱いを間違えれば出落ち / 記号的なキャラになってしまいかねないし、かといって深掘りしすぎると味が薄れてしまうであろうライララさん。そんな彼女を、このたった1カットで「登場人物の一人」としてきちんと描いてみせる……。このカットが原作からあるのかどうかは分からないけど、どちらにせよ「本作のキャラクターたちを “生きている人間” として描こうとする」誠実さがここに詰まっていることは間違いないだろうし、ほんの僅かなシーンながら本作を象徴する名カットと言えるのではないだろうか。

 


他にも、本作はサーラに送られた犬=ルクマン (かわいい) と、ナランバヤルに送られた猫=オドンチメグ (かわいい) という、作品によっては「出オチ要因」になってしまうであろう2匹が最後まで活躍、エピローグでも仲睦まじい様子を見せてくれていたり、一見モブキャラのように思われた兵士のおじさんが「単なる舞台装置」ではなく「自ら考え、道を選ぶ “人間” 」として描かれて大役を担うことになったり、一瞬の出番だった「枯れ葉色の髪の少年」もエピローグで逞しい成長が描かれていたり……と、本作のキャラクターたちに対する敬意は並々ならぬものがあった。 

これらの丁寧な描写があったからこそ、自分は気になる点に対して「おそらく、尺のせいでカットせざるを得ないシーンがあったのだろう」と好意的に解釈することができたし、実際、本作には「無駄なシーン」が一切なかった。もし、やむを得ずカットしてしまったシーンが複数あったとしても、それらの決断によって夜の橋やクライマックスシーンなどにおける「間」を大切にした見事な作劇が生まれたというのなら、それはまさしく英断と呼ぶべきだろう。 

(自分が見たのはナランバヤル役・賀来賢人氏、サーラ役・浜辺美波氏、渡邉こと乃監督のスペシャトーク上映版だったのだけれど、そのトーク内容や「隠れライララ」のくだりなどから、原作未読の自分にも監督が原作に深い愛を持っていることが伝わってきたし、それはありありと映像に滲み出ていたように思う)

 

 

このように、原作未読・かつ「恋愛もの」に馴染みのない自分でも楽しむことができた本作は、癖のない素敵なストーリー、壮大な映像、リアルな世界観、誠実な人物描写……と魅力満点。 

公開が終わるまでおそらく後僅かしかないけれど、少しでも気になった方は、是非見に行ってみてください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※注意※
以下の文章は、筆者が映画『金の国 水の国』という作品のある台詞に受けた衝撃を残す備忘録です。非常に個人的な価値観・思想が前面に出ている内容かつ、我が事ながら「捻くれた」ないし「拗らせた」ものになっているため、上記の感想とは分割して配置しました。お読みくださる際は、くれぐれもその点にご留意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し、自分語りをさせてほしい。

 

「恋愛もの」作品が苦手だ。 

……いや、厳密に言うならば「 “綺麗事” 化された恋愛」に些かアレルギーがある、と言った方が正しいかもしれない。

 

恋愛は確かに美しいものを生み出すと思うけれど、一方ではどうしたって根底に「エゴ」や「欲」がある。それがないなら、それは単なる「愛情」だろう。 

そのため「恋愛」には人の美しい部分だけでなく、少なからず「醜い部分」が反映されている。更に、人によっては恋愛に絡んで深刻な悩みを抱えている人も多いため「恋愛事情とは、相手がよほど心を許せる友人でもない限り安易に詳らかにできない・すべきでない “プライベート中のプライベート” と呼ぶべきもの」……という、この自分の考えはどうやら少数派らしいということを、自分は特にここ数年で思い知ってしまった。

 

 ◯  ◯  ◯

 

自分が新卒で入社した会社は、渋谷に本社を置いて営業に力を入れる広告業のメーカー。今にして思えば、「そういう」人たちが集まるのは必然だったのだろう。 

人のプライベートを無遠慮に荒らすことなど日常茶飯事、社内で「社員同士の恋愛関係」や、酷い時にはその情事を話のネタにするような風潮まで当たり前のように存在し、パートナーを自身の所有物 / ステータスであるかのように振る舞い、更に酒が入ろうものなら、ここには書けない程に下品かつ人間としてのモラルを疑うような数々のエピソードが飛び出してくる……。今思い出しても吐き気を催すような環境だったし、彼らのモラルが致命的に欠如していたというのは間違いないのだろう。けれど今も昔も、世間一般の風潮はむしろ「彼ら」寄りなように思える。 

結婚を祝福するならともかく、離婚や交際関係に至るまで執拗にプライベートを囃し立てる芸能誌やニュース。 

「浮気」や「不倫」を「倫理に反する愚かな行為」ではなく  ”スリリングなエンタメ” のように扱い正当化する風潮。 

「自分は避妊さえできない馬鹿な猿です」という自己紹介も同然なのに、なぜか誇らしげに語られ、世間にも祝福される「できちゃった婚」という概念。何が「ちゃった」だヘラヘラするな名前を変えろ恥を知れ。   

「恋愛」とは、綺麗な側面もあれば、根底にある「エゴ」や「欲」を反映した醜い側面もある。だからこそ、基本的に触れてはいけない人のプライベート……という考えは、あくまで私の考えでしかなく、世間はむしろそれを万人共通の定番トピックとして執拗に取り上げる。清濁を兼ねる「恋愛」という概念を「綺麗で美しい感動的なもの」と囃し立て、一方でその「負の側面」には目をくれようともしない。彼らにとって、恋愛や結婚とは文字通りの「綺麗事」なのだ。

 

ひどい欺瞞だ、と思う。 

恋愛は美しさだけでできている。愛するのは、愛されるのは幸せなこと。子どもを持ち、家庭を持つことが人生における最高の幸福……。そんな美辞麗句で人を過剰に煽り立てながら、性の問題のような、人が避けて通れない重要な問題は腫れ物のように扱い、遠ざける。一方で、不倫や浮気のような「明確な悪」は、一部の人間にとって都合が良いからなのか「それもまた恋愛のカタチ、素敵なもの」と開き直りさえする。そうした風潮が様々な被害や悲劇をどれほど生んでも、そんな厭な「当たり前」が変わることはなく……。 

勿論、世の中における恋愛を悪いものばかりと言うつもりは欠片もない。人の恋愛を聞いてその幸せぶりに「人間、捨てたもんじゃないな……」と思うことも、友人親子と交流して、その仲良しぶりに癒されることもたくさんある。つまるところ、自分は恋愛や結婚、育児という概念ではなく、それらを「絶対的な幸せの象徴」と掲げ、それを当たり前のように押し付けてくる同調圧力と、その負の側面に触れようとしない欺瞞が、彼らの掲げる「綺麗事」が嫌でしょうがないのだ。 

そして、自分の目にそのような風潮の「象徴」として映っていたものが、問題の「恋愛もの」作品だった。

 

 ◯  ◯  ◯

 

自分は恋愛メインの作品やそういったジャンルに直接触れたことがなく、だからこそこうして声高に文句を言える権利なんてない……のだけれど、昔からCMなど (今は専ら映画館の予告) で目にしていると、その中身に触れるまでもなくぞわりと厭な感覚が肌を撫でていた。上記の「同調圧力」と「欺瞞」を感じてしまうだけでなく、まるで「恋愛至上主義者」たちによるプロパガンダのように感じられてしまうからだ。 

そして、最近はSNSでのマーケティングにもそういう面が滲み出してきており、ハッシュタグなどでそういった気配が見えると全く関わりのない映画の公式アカウントでもすぐにブロックしてしまう。自分もいい年になってきたし、そんな物事に怒り狂ってリソースを割くようなことはなるべく減らしたい。そうした自己防衛もあって、自分は結局「恋愛もの」にロクに触れない人生を歩んできた。 

だからこそ、『金の国 水の国』は、本来であればまず触れないであろう作品だったのだ。

 

今も、前述のような「恋愛もの」作品へのアレルギーはあるけれど、世界に恋愛をテーマにした名作がいくつも存在しているのもまた確かなこと。そういったものにいつまでも触れないようでは、自分の世界は閉じたままだし、創作の幅も大きく狭まってしまう。 

事実、最近の私は「アイドルもの」や「スポーツもの」といったこれまで未開だったジャンルに触れてはドハマりしていて、自分の世界を広げることの意味と意義を痛感している真っ最中。確かに『金の国 水の国』は恋愛メインの作品らしいけれど、価値観の近い友人たちが高く評価している作品でもある。であれば、本作が「長年かけて醸成されてしまった ”恋愛作品" への偏見を取っ払う」力を持った作品である可能性に賭けてみるのも悪くない……! そう考えて突撃したというのが、このどうしようもなく拗らせた人間が本作を見るに至った顛末。そうでなければ、本作はキャッチフレーズの時点で間違いなく自分と一生縁のない作品になっていただろう。

 

 

「2023年初泣き」「最高純度のやさしさ」 

……こんなにも第一印象を下げるキャッチフレーズを思いつけてしまうのは、なんかもう一周回って才能なんじゃないかと思えてくる。 

2023年の初泣きはこれで決まり☆ とでも言いたげな安易さ。観客の涙を製作側が勝手にエンタメ化してくる傲慢さ、みんなで泣こう! と言ってくるかのような同調圧力。恋愛が純粋で優しさに満ちたものだと疑わず、「最高純度」とまでそれを祀り上げる面の皮の厚さ……。予めマーケティングが酷いとも、このフレーズが致命的とも聞いていたけれど、前述の通り事前情報をほとんど仕入れなかった自分はどうにかこの地獄マーケティングをまともに浴びることなく鑑賞日までモチベーションを持たせることができた。よくやったぞ、おれ。 

(そのため、賀来賢人氏&浜辺美波氏というキャスティングにも鑑賞中は気付かなかった。もし知っていたら、問題のキャッチフレーズと併せてあらぬ偏見を持っていたかもしれないけれど、お2人、特に賀来賢人氏の演技が素晴らしかったので、事前に知らなくて本当に良かった……)

 

とはいえ、だ。上映開始後からしばらくはどうしても「例のフレーズ」が頭をちらつく。美しい恋愛という綺麗事に心酔する「恋愛至上主義」という仮想敵 (?) が頭をちらついてしょうがない。 

そもそも、「やれ!」と言われたらやりたくなくなるように、「泣け!」と言われると泣けなくなるのが人間というもの (ブーメラン効果、というらしい)自分にとって、この『金の国 水の国』を楽しめるかどうかのハードルは、鑑賞前の時点から既に相当高まっていたと言えるだろう。

 

 

(本動画ラストのナランバヤルの赤面は、今にして思えば「心の美しさ」を描く本作を象徴する素敵なシーンなのだけれど、鑑賞真っ最中はどこからか「ほらええやろ! キュンときたやろ!!」という余計な声が聞こえてくるようで集中できなかった。絶対に許さんからな広報担当……)

 

本作が「そういう作品」でないのは分かっているし、マーケティングはあくまでマーケティング、作品は作品だ。しかし「2人の恋愛が軸になる作品」という事実に加え、なまじ本作はファンタジーとは思えないほどに世界観や人物描写がリアルな作品。そのことが、自分の中で燻る「同調圧力」や「欺瞞」への反骨心を掻き立ててしまい……結果、自分は途中までこの作品にどうにものめり込めずにいた。映画の鑑賞態度として本当に良くないのだけれど、気が付けば「面白くなってくれ、“綺麗事” でない物語を見せてくれ……!」と願うのに必死になっていたからだ。

 

しかし、作中序盤。サーラと共にレオポルディーネと面会するナランバヤルの口から (厳密には彼自身の言葉ではないのだけれど)「その台詞」が飛び出したことで、文字通り全てがひっくり返された。

 

「結婚して他人と家族になるということは、夢物語ではない。我慢することや悲しいことは波みたいに押しよせて、最初に感じた愛や恋は月日とともにどんどんすり減って、ちがうなにかに変わっていく。そのときの美しさよりも、一瞬の楽しさよりも、自分の親兄弟と同じか、それ以上に自分を大切にしてくれる人をさがしなさい」

-小説『金の国 水の国』より

 

恋愛の負の側面から目を背け、「恋愛は美しいものである」という綺麗事を一方的に押し付けてくる、欺瞞に満ちた世間の風潮。最悪の宣伝文句のために、自分の中で「それ」と紐付いてしまった『金の国 水の国』は、しかし、この台詞たった一つで自分の偏見全てを根本からひっくり返してみせた。その台詞に胸を打たれて思わず劇場で涙してしまったほどには、その台詞が衝撃的だった。 

(声を上げて泣いた、というのではなくて、自然と涙が溢れて頬を伝うというアレ。こんな漫画みたいなこと本当にあるんだ……)

 

「結婚して他人と家族になるということは、夢物語ではない。我慢することや悲しいことは波みたいに押しよせて、最初に感じた愛や恋は月日とともにどんどんすり減って、ちがうなにかに変わっていく」

 

第一にこの台詞。この台詞で、この作品が「恋愛の負の側面」から目を背けていないどころか、むしろ他に見たことないほど真摯に「現実」に目を向けていることが伝わってきて、思わず愕然となった。 

常々、フィクションで描かれる恋愛・結婚と現実のそれにはなぜここまで差があるのだろう、最愛の相手同士であるはずなのに、なぜこうもいがみ合い、お互いの愚痴ばかりになるのだろう……と疑問だったし、そのことについて自分は「深く考えずに、その場のノリで関係を構築していったツケ」な何かだろうと思っていた。だからこそハッとさせられたのが「すり減る」という表現。 

どんなに好きなものでも、日が経つにつれ気持ちが弱くなっていく……という感覚には、なるほど確かに覚えがある。人であれ物であれコンテンツであれ)たとえそれが人生を懸けられると感じたものでも、出会ってから長い時間が経ったり、次第に「合わない部分」が見えてきたり、その齟齬があまりに繰り返されたりしてしまうと、それは一時耐えられたとしても、その陰ではどうしてもキャパシティが「磨耗」していってしまうものなのだ。 

(自分にとってウルトラマンシリーズは人生と呼べるコンテンツなのだけれど、『ウルトラマンR/B』『ウルトラマンタイガ』という合わない作品が2年続いてしまった時は、もう自分はこのシリーズに人生を懸けられないかもしれない……と揺らいでしまっていた。たった2年でこれなので、なるほどつまりはそういうことなのかもしれない)

 

だからこそ、恋愛もその先に待っている結婚も決して夢物語ではないのだと、そのことを序盤で明言してくれることの頼もしさったらなかった。 

前述の通り、自分が苦手なのは「恋愛の負の側面から目を背け、ひたすら美化した “綺麗事” を押し付けてくる」こと。それに対し『金の国 水の国』のこの台詞は、まさにそんな世間のやり口を真っ向から否定するものであったし「綺麗な恋愛・結婚という夢物語は存在しない」と言い切ってみせることは、即ちこの作品が「そのことを踏まえて」ナランバヤルとサーラの物語を描くという宣言でもある。この時点で「あ、この作品、俺が見たかったものかもしれない」と思ってしまったし、むしろこの台詞こそが「自分が求めていたもの」だったのだと思う。自分が泣いてしまったのは、そんな台詞に出会えた感動からだったのかもしれない。

 

しかし、この言葉を口にしたナランバヤルが訊ねられていたのは、自らの「結婚観」。ここまで恋愛や結婚に対しての「諦念」を語ってしまったら「だから自分は恋愛も結婚もしません」と言うのが自然ではなかろうか、と思ってしまった。ここまで現実を真正面から見た上で、その上で恋愛や結婚を肯定する言葉を少なくとも自分は知らなかったからだ。 

だからこそ、そこに続く言葉が尚のこと衝撃的だった。

 

「そのときの美しさよりも、一瞬の楽しさよりも、自分の親兄弟と同じか、それ以上に自分を大切にしてくれる人をさがしなさい」

 

燃え上がった愛や恋は必ずすり減っていき、思い出の美しさや楽しさも少なからず色褪せていくもの。だとしても、何かを / 誰かを大切にしたいという気持ちは消えることがない。 

自分には「この言葉こそが、本作が描きたかったものなのではないか」と思えてならない。なぜなら、本作の登場人物たちはその誰もがこの「名前のない、暖かな気持ち」を見せてくれたからだ。 

疲れきり全てを投げ出したサラディーンの心の中に残っていたもの。暗殺部隊として心をすり減らしていたであろうライララさんに笑顔を浮かべさせた気持ち。ラスタバン二世からラスタバン三世への想い。ナランバヤルを蔑むオドゥニの言葉を受けて、サーラの胸に灯った炎。そして、サーラに「もう置いていかない」と宣言したナランバヤルの志……。本作には、そんな「名前のない、暖かい気持ち」が溢れていた。それは、敢えて一言で表すならいずれも「やさしさ」と呼ぶことができるだろうし、そういった意味では、自分が散々否定した「最高純度のやさしさ」というキャッチフレーズも強ち間違いではなかったのかもしれない。

 

 

映画を見終わっての帰り道。この台詞が頭の中を回り続けている中で、もう一つ、頭の中で巡り続ける台詞があった。

 

「さっきから、五代さんの言うてること……綺麗事ばっかりやんか!」
「そうだよ。でも……だからこそ、現実にしたいじゃない」
「……」
「本当は、綺麗事がいいんだもん」

-「仮面ライダークウガ」 EPISODE41『抑制』より

 

自分は、世間の「恋愛もの」が描く、綺麗でしかない恋愛を「綺麗事」だと見限っていたし、欺瞞だと決めつけていた。その認識は今も変わらない……けれど、創作の中には「そうあってほしい」という願いが形になったものもある。自分が切り捨ててきた「恋愛もの」の中には、そういった社会の同調圧力や欺瞞を乗せたものではなく、世知辛い世の中だからこそ「こんな幸せの形があってほしい」という願いと共に送り出されたものがあるのかもしれない。 

そんな作品たちが人々を励まし、惹き付けてきたからこそ、今も「恋愛もの」というジャンルは世界中から広く愛され続けているのだろうし、自分にそう思わせてくれた作品=この『金の国 水の国』からも、まさしくそんな切なる願いを感じ取ることができた。 

この現実において、時間と共に恋や愛は薄れていくし、思い出もやがて過去になっていく。恋愛とは決して綺麗事ではなく、時に残酷で非常な一面を持つものでもあるだろう。けれど、そんな「綺麗事」こそ現実にしたいし、人間の心にはそれができる。相手を大切に想う心を互いに持ち続ければ、それは「綺麗事」であっても決して「絵空事」ではないのだと、そう、この作品は訴えかけているようにも思えるのだ。

 

そして、このことは何も恋愛や結婚にだけ言えることじゃない。 

大人として世の中を生きていると、そこかしこで自分が「諦めている」ことの多さに気付く。昔は憧れて、手を伸ばしたはずの「綺麗事」に、思えば最近は目を伏せてばかりだった。この『金の国 水の国』は、そんな自分の「今」を自覚させてくれると同時に「綺麗事は、決して絵空事ではない」と、優しく背中を押してくれる作品でもあった。 

ナランバヤルが不可能を可能にしたように。箱の中の姫だったサーラがいなければ、その偉業が成し遂げられなかったように。諦めなければ、自分にも「綺麗事」だと思っていた何かができるのかもしれない。

 

 

金の国 水の国』は間もなく上映が終了してしまうけれど、きっと、自分のような「こういう作品と縁遠い人」にも刺さる作品……ということは、きっとここまで読んでくださったあなたには少なからず伝わっているはず。 

この作品が描く清らかでやさしい物語が、本当に絵空事なのか、それとも、現実にできるもの / 誠実な願いを乗せた「綺麗事」なのか、その真相は、是非あなたの目で確かめて頂きたい。