あの頃の自分は、なぜ「教科書の純文学」を遊び道具にしていたのか

先日、友人・Y氏の書いた短編小説を査読させて貰う機会に恵まれた。 

Y氏の小説はこれまでも何度か読ませて頂いているのだけれど、ホラーを軸に多彩なジャンルを組み合わせ、自分の味として昇華させてみせる氏の名料理人ぶりには毎度驚かされてばかり。とりわけ、自分が号泣しながら読破し「水星の魔女に負けないくらい『slash』が似合う」と熱弁した小説に至ってはなんと賞を取ってしまい、筆者まで諸手を挙げて大喜び。自分にとっても2023年を象徴する一大イベントとなっていた。

 

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  • yama
  • J-Pop
  • ¥255

 

して、今回の査読である。 

「純文学はボーボボ」という謎めいたコメントと共に渡された小説は、これまでとは異なり「純文学」なのだという。純文学、と聞いて「教科書に載ってるようなアレか……?」という浅ッさい感想を抱いてしまう自分に果たして咀嚼できるのだろうか、という不安と共に読み進めた氏の新作だが、結果、自分は情けないことにそれを理解しきることができなかった。 

ぼんやりと「こういう話なのだろうな」というイメージは掴めたし、どの要素がどの要素と接続されるのかも朧気ながら理解できる。しかし、自分の得た認識はどれもこれもふわっとしていて、結果「ピースもあるし、完成図もあるのになぜか組み上げられる気配のないジグソーパズル」のような不確かな理解のままで本を閉じることになってしまったのである。 

査読を頼まれておきながら恥ずかしい限りだけれど、当人には自分の得た素直な感想――勿論、何もかもが「分からなかった」ワケではなく、自分に言語化できる魅力も数多くあった――をフィードバックし、少しでも執筆の役に立てればと思う次第だ。 

一方、そんなY氏の小説を拝読して、不意に「懐かしさ」を覚える瞬間があった。ぼんやりと「こういう話なのだろう」という輪郭は掴めつつもその核心に触れられた感覚はなく、そのビターな物語をどう受け止めるべきなのか行き場のない不安を感じてしまう……というこの感覚は、まさに学生時代、教科書で「純文学」=夏目漱石の『坊っちゃん』。梶井基次郎の『檸檬』。ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』といった、文学界の傑作に触れたあの時に抱いたものと同じだったのだ。

 


では、当時の自分はそのような感覚に一体どう向き合っていたのだろうか。 

前述の作品群に対しては、勿論国語の授業で「筋道立った読み解き」こそ行っていたが、浅薄な天邪鬼だった自分はそのような授業に真剣に向き合っていた試しがない。せいぜい「算数よりは楽しい」といった程度の熱感だ。 

なら、作品の意図を読み解こうと頭を悩ませていたか? そんなことはない。 

なら「自分は馬鹿なんだな」と落ち込んだか? それも当然違う。 

あろうことか、自分はそのような作品から「ネタにできそうな要素」を引っ張り出し、ある種のミームとして遊び道具にしていたのだ。

 

 
名作とは往々にして「印象的な一文」が付いて回るもの。レモンを爆弾になぞらえた表現や、『少年の日の思い出』で登場した「つまり君はそういうやつだったんだな」という台詞など、そういったキャッチーなものを休み時間のネタにしていたのが、かつての自分の「純文学」に対する振る舞いだった。 

自分は、なぜそんな恥知らずな振る舞いをしていたのだろう。 

実は、そんなに深く考えるようなものではないのかもしれない。「まだ幼く、目に映るものが面白くてしょうがなかった」という、ただそれだけの理由なら「子どもだからね」と一笑に付して終わる話だ。 

けれど、もしその行動が(意識的にせよ、そうでないにせよ)「自分の理解できない作品を矮小化して、理解できない自分を正当化しようとしていた」という動機によるものであるなら、自分はそれを看過してはならないだろう。
 
「自分の理解できない物事を矮小化して、理解できない自分を正当化する」


……文章として見るとあまりしっくり来ないかもしれないけれど、この行動には社会人の方なら少なからず心当たりがあるのでは、と思う。 

大きな問題を起こした人間が、それを自ら「一笑に付す」ことで、その問題があたかも大したことではないかのように振る舞う。 

自分の知らないこと・知らない世界に「分からない」「知りたい」と興味を持つのではなく「くだらない」という否定や嘲笑から入ることで、それを知らない・分からない現状を肯定する。 

自分はこのような行動を様々な場所で目にしてはその度に歯軋りしてきたけれど、「理解できなかった名著からミームを抽出し、ゲラゲラ笑って遊び道具にする」というかつての自分の振る舞いは、それと同じ――もといそれ以下の「下卑た」行動。幼かったからという一言では済まされない、極めて愚かな行動だったと思えてならないのだ。  

 

 

この話は、何も幼少期に限ったことではない。 

自分はつい数年前まで、アイドルやスポーツなど「人気だけど自分とは縁がないジャンル」に対して「楽しみ方が分からない」というような旨をわざわざ口に出すことがあったのだけれど、これも前述のものと同じだろう。大人になってまで幼少期の悪癖を残していたのかと――実は、気付いていないだけで「今も同じようなことをしてるんじゃないか」と思うと身の毛がよだつ。 

自分がそのような行動の意味を自覚できたのは、『アイカツスターズ!』や『Free!』といった、同ジャンルを題材にした傑作たちに触れ、その魅力に気付くことができたから。この経験がなければ、自分は今も「矮小化」をし続けていたのかもしれないし、そういった作品に感謝すればするほど、同時に自分の行いがいかに惨めで不躾なものだったかを実感してしまう。 

であるなら、自分はそれらのジャンルだけではなく、問題の「純文学」というジャンル、そしてあの時馬鹿にしてしまった作品たちに正面から向き合う必要がある。 

その結果、もし「しっかりと咀嚼し、味わう」ことが叶わなかったとしても、その再会を通してかつての / 今の自分の幼さを認めることができたなら、その時自分はようやく「大人」になれるのではないかと、そう思うのである。