総括『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』 賛否両論の「令和版ティガ」は新時代の引き金となり得たのか

2022年1月22日。ウルトラシリーズの最新TV作品『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』が最終回を迎えた。

 

 

鳴り物入りで始まった本作だったが、タイムラインはそれはもう凄まじい賛否両論。1話も、作品の区切りと言える12話も、そして最終回も、『トリガー』という作品は常に賛否両論の中にあり、ここまで終始嵐の中にあったウルトラシリーズは、平成生まれの筆者からすると初めてのものだった。 

良い点も悪い点も数知れず、ウルトラの歴史に壮絶な1ページを刻んでみせた『トリガー』。「NEW GENERATION TIGA」という高すぎるハードルを引っ提げて現れた光の巨人が築いたものは何だったのか、玩具周りの事情や筆者自身の感想も交えつつ、その功罪を振り返ってみたい。

 

※以下、作品に肯定的な内容/批判的な内容がどちらも含まれます。ご注意を!

 


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ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』は2021年に放送開始したウルトラマンシリーズTV作品で、ウルトラマンシリーズ55周年、そして『ウルトラマンティガ』25周年を記念したアニバーサリー作品でもある。

 

ウルトラマンギンガ』から始まる「ニュージェネレーションシリーズ (以下 “ニュージェネ” ) 」としては9作品目となるが、前作『ウルトラマンZ』や『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』が共にニュージェネの集大成的作品であったことを踏まえると、『トリガー』はどう区分されるのか、円谷サイドの明確な回答は示されていない。   

ただし、その点は発表当時、全くといっていいほど話題に上らなかった。それもそのはず、発表された本作の内容は色々とそれどころではなかったのだ。

 

「NEW GENERATION TIGA」という、分かるようで分からない謎の副題。 

ウルトラマンティガと多すぎる共通項を持った新たな戦士「ウルトラマントリガー」。 

現役アイドルグループ「祭nine.」のメンバーである寺坂頼我氏が演じる主人公、マナカ ケンゴ。 

終いには「TPU」そして「GUTS-SELECT」という、オマージュという言葉では済まされないティガ要素の数々……等々。

 

これら『ティガ』を感じさせる要素の多さ、そして、これまでのアニバーサリー作品とは全く異なる未知の方向性に対し、Twitterはそれはもう凄まじい大騒ぎ。 

その様相は、お祭りというよりもむしろパニックのそれに近く、ティガ要素に歓喜する声よりも、困惑と悲鳴 (と怨嗟) の叫びが多く見られたのが印象的だった。


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( ↑『トリガー』発表直後のTwitterトレンド。第1話の舞台が火星ということもあって、一時は「ティガの続編」説が濃厚だった)


とはいえ、それだけファンにとって『ティガ』が偉大な作品であるというのはもはや語るまでもなく、製作サイド=円谷プロダクションとしても、同作の大きさを認識していないはずがない。それを裏付けるように、発表されたスタッフは実に錚々たる顔ぶれだった。

 

メイン監督は、言わずと知れた坂本浩一。そしてシリーズ構成はウルトラシリーズ初参加となるハヤシナオキ氏と、遂にメイン格への登板となった足木淳一郎氏のタッグ……! 

この「メイン監督:坂本浩一×非特撮ライター×ニュージェネ常連ライター」という組み合わせは、同じく坂本監督がメガホンを取り、シリーズ構成を小説家の乙一氏、シリーズ構成協力を中期ニュージェネ常連の脚本家、三浦有為子氏が担った『ウルトラマンジード』の流れを汲むように思える。 

田口清隆監督による大ヒット作品『ウルトラマンオーブ』の次作として、粗はありつつも圧倒的な爆発力とキャラクターの魅力で新境地を拓いた『ジード』。田口監督による偉大な傑作『ウルトラマンZ』を受けて始まる『トリガー』がそのような更なる飛躍を期待されたことは想像に難くなく、『ジード』を思わせるスタッフ陣となったのは決して偶然ではないのだろう。

 

 

このように、放送前時点で既に期待値のハードルが (おそらくニュージェネ最大級の) 凄まじい域に達していたのが『トリガー』という作品。 

レジェンド中のレジェンド作品『ウルトラマンティガ』をその看板に背負い、更に前作が『ウルトラマンZ』であることで、『トリガー』は「これまで以上にハイレベルな特撮」そして「作り込まれた物語」を求められ、挙げ句の果てにはバンダイから「更なる玩具売り上げ」をも求められていたことが随所で散見されている。

 

では、実際に完結を迎えた『トリガー』は果たしてどのような作品となっていたのか。 

① 特撮/映像 

② 玩具 

③ 文芸 

これら3つのトピックに焦点を当てて、『トリガー』という作品の軌跡を振り返ってみたい。

 

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前述した3つのトピックの中で、最も明快に答えが挙げられるのは「① 特撮/映像」についてだろう。  

結論から言うならば、『トリガー』は (『Z』の好評を受けてか) 画作りにこれまで以上の力が入れられた作品であった。そのことは製作側も積極的にアピールしたかったらしく、特に坂本監督がメガホンを取った1~3話の特撮はそんな背景が透けて見えるほどの圧倒的な熱量に満ちていた。

第1話『光を繋ぐもの』では、初回にして地球外の惑星=火星が舞台となり、ドラマパートの時点から斬新な絵をいくつも見ることができたが、やはり見所は戦闘シーン。 

「火星での初陣」という『ウルトラマンダイナ』ファンなら思わずニヤリとなるシチュエーションで繰り広げられるトリガーの初戦は、火星という新鮮な舞台、そして相手はゴルバーとカルミラのタッグ……と、これだけでもお腹一杯になりそうなものだが、トリガーが登場するや否や『Z』第7話のスカルゴモラ戦で大きな反響を呼んだ「立体カメラワークによる縦横無尽な戦闘シーン」が展開されたり、カルミラとの戦いの中で雨が降り始めたりと大盤振る舞い。ゴルバーへのフィニッシュも、ゼペリオンソードフィニッシュ (ナパーム大爆発) からのゼペリオン光線 (人形爆破) と至れり尽くせりで、歴代ウルトラシリーズの中でも指折りの豪華さを誇る初回だったと言っていいだろう。

 

つい今後が心配になってしまうほどの豪華絢爛ぶりだった第1話。しかし、第2話『未来への飛翔』でもその勢いは止まらず、なんと僅か20分ほどの尺で「ギマイラを昼の市街地で撃破」「ダーゴンと夜の市街地で激突→ダーラムVSティガを思わせる水中決戦」と、実に3つもの舞台での戦いが描かれるという驚異のフルコースぶりを見せてくれた。  

加えて、続く第3話『超古代の光と闇』において舞台となったのは暗雲漂う市街地と美しい夕景……と、恐ろしいことに第3話に至るまで「トリガーが戦う舞台がどれ一つとして被らない」のである。  

それら「視聴者を飽きさせまい」とする工夫の上で繰り広げられるパワータイプ、そしてスカイタイプの初陣は、それぞれ「CG・ミニチュア入り乱れたビル街での豪快な殴り合い」そして「ワイヤーアクションとCGの融合による天地無用の超高速戦闘」と、各タイプの個性が大胆に、いずれも作品のクライマックスバトルのようなテンションで描かれており、『Z』で巨大特撮のテンポ感をモノにした坂本監督の手腕とサービス精神が遺憾無く発揮された、まさしく最高のイントロダクションに仕上がっていた。

 

 

一方、『トリガー』ではそんな坂本監督の脇を固めた監督陣の画作りも粒揃い。 

本作のサブ監督には、田口清隆監督、武居正能監督といった『Z』立役者組は勿論、前作で監督デビューを飾った内田直之監督も続投。しかし、こと『トリガー』の特撮において印象的だった監督と言えば、辻本貴則(辻は一点しんにょう)監督、そして越智靖監督のお二方は外せないだろう。


すっかりニュージェネお馴染みの監督となった辻本監督が得意とするのは、田口監督に並ぶかそれ以上に緻密なミニチュア特撮や、『ウルトラマンタイガ』第23話のゼロVSトレギアに代表される、アニメ的かつケレン味の溢れる演出。そんな監督の技術と情熱の集大成と言える『Z』のウルトラマンエース客演回 (第19話『最後の勇者』) が大きな反響を呼んでいたことは未だ記憶に新しい。

 

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そんな辻本監督は、『トリガー』において第9話、10話、20話、21話、22話の5本を担当。 

本作でもそのミニチュア特撮への情熱は健在で、特に印象深いものとして挙げられるのはやはり「ガッツウイング客演回」と名高い第9話『あの日の翼』だろう。

シズマ財団の会長であり、ネオフロンティアスペースからの漂流者であるシズマ ミツクニ (宅麻伸) が操縦するガッツウイング1号がトリガーと共闘する、という展開だけでも胸躍るものだが、それ以上に「ミニチュアセットをフル活用したガッツウイング1号の発進シークエンス」「機体の火を巻き上げた水飛沫で消火する」といった “魅せ” の多さに撃ち抜かれた視聴者は多いはず。

 

しかし、こと『トリガー』においては辻本監督のもう一つの強みである「アニメ的演出」が非常に際立っていたように思う。 

同じ第9話でも「上空から急降下しつつ、サークルアームズ・マルチソードから展開した長大な光剣でガーゴルゴンを両断、爆発を背に残心」という、さながらロボットアニメのようなケレン味たっぷりのフィニッシュシーンが大きな話題となったが、『トリガー』においてそれ以上のハイライトと言えるのが第22話『ラストゲーム』。 

同話では、日本刀を携えたトリガーダークが宿敵・闇の巨人ヒュドラ (CV.高橋良輔) と切り結ぶという「ダークヒーローの美しさの極致」とでも言えそうなシチュエーションが展開。闇の中、光を反射して煌めく激しい剣戟は息を呑んでしまうほどに美しく、それでいて(時折差し込まれるスローモーション映像も相まって)「命のやり取り」特有の緊張感に満ちており、グリッタートリガーダークエタニティの登場と併せて、主人公格の一人=イグニス (細貝圭の物語のフィナーレをこの上なく華々しいものとしていた。

 

 

一方、越監督は長らくニュージェネの助監督を務められ、前作『Z』で本格的な本編監督デビューを果たすや否や、ビル街を縦横無尽に疾駆するホロボロス (第16話) ウインダムヨウコインパク (第17話) など、オーバーなくらい印象的な画を叩き付けていった期待のルーキー監督だ。 

そんな越監督が本作で担当されたのは、奇しくも前作同様に第16・17話。トリガーダーク (イグニス) のデビュー編とあって、フェイスオープンにリシュリアングリッター (下記、越監督のツイート参照) それはもうやりたい放題。作中唯一の「サークルアームズを持つトリガーダーク」という美味しいシチュエーションさえ霞んでしまうほどの清々しい大暴れぶりを見せてくれた。   

(サークルアームズと言えば、メツオロチへのトドメとなった「サークルアームズとグリッターブレードの二刀流によるエタニティパニッシュ」も大きな見所だった)  

 

しかし、そんな派手さの一方で行われた手堅い仕事ぶりも忘れてはならない。例えば、ウルトラでは久しく描かれていなかった地下洞窟を舞台とし、差し込む光が夜景ともまた異なる独自の美しさを見せていたトリガーとメツオーガの戦い (第16話)「ガッツファルコンに乗り込むケンゴ」「トリガーを総出で守るGUTS-SELECTメンバー」といった、作中なくてはならないシーンたち (第17話)……等々。 

これら魅力的な演出の数々は、越監督自身が『ウルトラマンマックス』以降長らく助監督を務められているというノウハウの蓄積、そして監督ご自身のウルトラシリーズへの愛によるところが大きいだろう。

 

そのような土壌を元に、派手さと堅実さを兼ね備えた「メリハリのある画作り」を行ってくれること。それこそが『トリガー』で確立された越監督の強みと言えるかもしれない。 

『タイガ』での辻本・武居両監督に通ずる飛躍的な成長を見せてくれた越監督。今後はどのような画を見せてくれるのか、更なる登板の増加と併せて期待していきたいところだ。 

( ↑越監督のウルトラ愛の一例。なんと『タイガ』第13話のOP入りはウルトラマンフェスティバルのライブステージに着想を得ているのだという)


 

こうして振り返っただけでも『トリガー』が画作りに力を入れていたことは明らかで、特撮/映像という面において、同作は求められていたハードルを見事越えていったと言えるのではないだろうか。 

そして、そんな『トリガー』の画作りに大きく影響したものとして忘れてはならないトピックに、同作の「玩具展開」がある。

 

 

前作『Z』における玩具展開の好調ぶりは今や広く知られているが、その異質な点として挙げられるのが、ウルトラマンの玩具展開における二本柱「ソフビ人形」「DX玩具食玩ガシャポン仕様のコレクターズアイテムも便宜上こちらに分類する)」が揃って非常に好調なセールスを見せたことだろう。 

ニュージェネ作品において、このパターンは『オーブ』を除くと他になく、どちらかが売れればどちらかが売れない、というジレンマに陥るのがいつしかシリーズの性となっていた(例えば、DX玩具であるウルトラカプセルが好調なセールスを見せた『ジード』は、一方ではソフビ人形のセールスが控えめだったことが、翌年『R/B』の玩具展開から察せられる)。 

ところが『Z』は

 

・セブンガーを初めとして、売り切れが続出するソフビ人形 

・防衛隊玩具としては久方ぶりに玩具ランキング上位を勝ち取った「DX キングジョー ストレイジカスタム」 

・DX版も好調で、ガシャポン食玩が悉く売り切れたウルトラメダル

 

……と、これまでのニュージェネではおよそ考えられないような圧倒的なセールスを記録。そのことが話題となって『Z』の知名度向上に繋がり、そこから生まれた新たなファンが玩具を買い……という理想的なマーケットスパイラルが生まれていた。

 

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( ↑ 放送終了後に発売されたソフビでさえこの有様である)


しかし、商業作品の常を思えば『トリガー』にとってこの高いハードルは「越えなければならない」ものだったに違いない。その難題に対し、バンダイは非常に明快なプランを打ち立てたのである。それは「登場する全怪獣のソフビ化」。 

一件無茶に見えるこの目標だが、なんと『トリガー』は本当にそれを成し遂げてしまったのだ。 

怪獣だけでも毎週一体という異常なペースを維持するためか、時に再販 (ザラガスのような絶版品) 、時にリペイント (サタンデロスのような既存スーツのマイナーチェンジ怪獣) などの様々な策が取られている一方、第14話『黄金の脅威』の放送日にはデアボリックとアブソリュートタルタロスが同時発売され、翌週にはナース (円盤形態) とアブソリュートディアボロが同時発売されるなど、内部事情を知らない一般ファンからすると「ヤケでも起こしたのか……?」と心配になるほどの熱い商品展開が繰り広げられていた。

 

( ↑ 第一・第二形態ともにDXソフビで発売されるという厚遇ぶりを見せたメガロゾーア。第一形態が売れたのかどうか心配でならない……)


一方DX玩具では、遂にウルトラシリーズ初の “アイテム単体で音声機能を搭載したコレクターズ玩具” として「ガッツハイパーキー」がリリースされた。

 

 

当然ながら単体で音声機能を搭載した玩具は高額だが、それは生産側としても同じこと (なので、売れる保証があっても易々と導入できない) で、かの『仮面ライダーシリーズ』の玩具でさえ毎年導入している訳ではない。これだけでもいかに『Z』のウルトラメダルが好調だったのかが伝わってくるエピソードだ。

 

そんな鳴り物入りで展開されたガッツハイパーキーは、DX版をトリガーの各タイプに加えてティガ、ゼット、リブットといった本編客演組に絞って販売、GUTS-SELECTが用いる怪獣キーをガシャポン食玩で展開し、それ以外のウルトラマンキーはプレミアムバンダイで受注販売、というかなり割り切ったセールスを展開した(コスモスキーなど、一部例外あり)。 

そして、その結果はなんと非常に好調だったのだという。

 


( ↑ この公式ブログで『トリガー』玩具、少なくともキー関連が非常に好調ということが語られている)

 

初の単体音声機能搭載アイテムということに加え、セールス方式が需要にハマったこと、ウルトラマンゼットやリブットが変身にキーを用いるなどといった本編中の演出など『トリガー』玩具が好調となった理由は数多く考えられるが、その一つとして考えられるのが、トリガーのメインウェポンである「サークルアームズ」の存在だ。

 

 

サークルアームズはトリガーのメインウェポンで、超古代の神器のはずがなぜかキーに対応していたり超古代においてトリガーダークが使っていた形跡がなかったりと正直かなり謎の多い存在なのだが、そのスタイリッシュなデザインがマルチソード・パワークロー・スカイアローのどの形態でも崩れないことや、トリガー自身のデザインとの親和性もあり、ニュージェネ屈指の傑作武器と言える存在だ。 

更にサークルアームズの優秀さとして例に挙げられるのが、ジードクローやゼットランスアローといったウルトラマンが序盤で使うメインウェポンは何かと不遇になりがち」というジンクスを見事跳ね返してみせた点。

 

作中前半、サークルアームズはゼペリオン光線などの本来の技の出番を確保しつつフィニッシュウェポンとして描かれており (白眉と言えるのが、第1話のゴルバー&カルミラ戦、第6話のサタンデロス&ヒュドラム戦だろうか) 、後半では、前述の二刀流以外にも「トリガーダークがマルチソードを使う (第17話) 」「グリッタートリガーがスカイアローを使う (第17話) 」「マルチタイプでソード/クロー/アローの3形態を使う (第24話) 」など、少ない出番ながらもその印象を強く残していた。 

劇中通して印象的に使われ続けた、ウルトラシリーズどころか特撮界隈でも中々類を見ないほどの優遇ぶり。それは「ティガの系譜」で武器を扱うからこその慎重さ、丁寧さによるものだったのかもしれない。

玩具としても、件の三段変形が完全再現されているだけでなく、キーを装填することで『ソードフィニッシュ!』など形態ごとの音声がキーそのものの音声と掛け合い形式で鳴り響くという、ビジュアル/機能の双方において見事な仕上がりとなっていた。このようなサークルアームズの優れた仕様や、前述の「劇中での活躍」がキーのセールスに少なからず貢献したことは疑うべくもないだろう。

 

また、ガッツハイパーキーとの連動機能を持たない大型玩具として登場したのがグリッタートリガーエタニティのメインウェポン=グリッターブレード、そしてGUTS-SELECTの母艦=ナースデッセイ号。これらもまた、劇中での活躍……つまりは違和感のない魅せ方 (販促) が非常に巧みであった。

 

 

グリッターブレードは、(グリッタートリガーエタニティキーとセールスタイミングをズラしたかったのか) その本領を発揮するのが初登場回の第12話ではなく第15話『オペレーションドラゴン』。アブソリュートディアボロに対するグリッターブレードの活躍ぶりはそれはもう華々しいもので、ヒーローの玩具を「その玩具感を含めて、カッコいいものとして魅せる」ことにおいて坂本監督の右に出るものはいない、と改めて思い知らされる最高の3分間が展開されていた。 

ナースデッセイ号と共に盛大に購買欲を駆り立てつつも、グリッタートリガーエタニティのヒロイックさを損なわない、特撮ヒーロー番組として理想的なマーケティングに仕上がっていたと言えるだろう。

 

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( ↑ グリッターブレードが大活躍した「最高の3分」の一部始終はこちらの記事からどうぞ)

 

一方のナースデッセイ号と言えば、序盤から登場し、ヒュドラムを撃退 (3話)、サタンデロスを撃破 (6話) といった功績を残していただけでなく、第15話『オペレーションドラゴン』においてバトルモードへの変形能力を獲得。以降、アブソリュートディアボロ、メツオーガ、メカムサシン、ダーゴンといった強敵を次々に撃破、メガロゾーアとの最終決戦においても作戦の要になる……と八面六臂の大活躍。歴代防衛チームでもトップクラスの戦績を叩き出すだけでなく、GUTS-SELECTのタツミ セイヤ隊長 (高木勝也) の隊長としての威厳に大きく貢献したほか、主人公格の一人=ヒジリ アキト (金子隼也) のドラマのフィニッシャーとして最高の役回りを見せてくれていた。 

ビジュアルこそ『ティガ』らしくないものの、その戦績と「ウルトラマンたちの株を奪い過ぎない」という針の穴に糸を通すかのような絶妙な活躍ぶりは、まさしく「デッセイ号」の名を冠するに相応しいものだったと言えるだろう。

 

 

「計画的なセールス」と「劇中での演出」が効を奏してか、見事に高い売り上げを記録した『トリガー』の玩具たち。   

しかしその一方、およそ同じスタッフが手掛けたとは思えないほどに割を食っている要素 (玩具) が二つある。「怪獣キー」と「ガッツファルコン」だ。

 

 

怪獣キーは、その名の通り怪獣の力を宿したガッツハイパーキー。トリガーの地球で現れた怪獣や、GUTS-SELECTのメトロン星人マルゥル (CV.M・A・O) が持ち寄った怪獣のデータから作られたアイテムなのだという。ザイゴーグ (第15話) やグランドキング (第18話) のデータを持っているマルゥルは一体何者なのだろうか……。 

そんな怪獣キーの機能は至ってシンプル。GUTSスパークレンスにセットすることで攻撃に怪獣の属性を付与したり、(GUTSスパークレンスを介することで)  ナースデッセイ号や他のメカニックに同様の属性付与ができるというものだ。 

しかし、これがどういう訳か異様に使われない。印象的な使われ方としては、シズマ会長がゴルバー迎撃に使用 (ゴモラ/第1話) 、ユナとアキトがダーゴン迎撃に使用 (エレキングガマクジラ/第5話)ディアボロのエネルギーを吸収 (ガンQ/第15話) 、メツオロチに石化光線を発射 (ガーゴルゴン/第17話) ……程度。他にも数回使われているが、それを含めても25話中この回数しか使われないものを、ガシャポン食玩で専売したとして、どれほど購買欲がそそられるだろうか……。   

(怪獣キーというカテゴリがどれだけ売れたかは不明だが、ガシャポン食玩のウルトラメダルほど積極的な展開を聞かないことから、ある程度察せられるものがある)

 

「怪獣サイバーカード」という似た装備を持つ『ウルトラマンX』の防衛隊、XioもTV本編では数えるほどしかその装備を使っていないことからして、もしかすると「防衛隊による怪獣アイテムの活用は最小限にすることが決められている」など、何らかの裏事情があるのかもしれない。 

しかし、そういった「裏事情」の可能性では到底済まされないのが、GUTS-SELECTの主武装ことガッツファルコンの影の薄さだ。

 

 

『ティガ』からはガッツウイング1号のデザイン、『ダイナ』からはガッツイーグルの名前をそれぞれ受け継ぎつつ、遠隔操作のドローダーとして5年越しに蘇った待望の戦闘機……なのだが、前述のナースデッセイ号とは雲泥の差と言わんばかりに全く活躍しない。 

その目立った活躍と言えば、ナースデッセイ号と共にサタンデロスを撃破 (第6話) 、ケンゴがメツオロチの角を破壊 (第17話)、ガッツウイングと共にトリガーを救助 (最終回)くらいのもの。 

目玉機能であった二足歩行形態「ハイパーモード」への変形機能も、劇中度々使われてはいたが「活かされた」と言える場面はほぼ皆無で、総じて怪獣キーより活躍していない可能性さえ考えられる有様だ。


ウルトラシリーズにおいて「戦闘機が活躍しない」問題はもはや常に付いて回るもので、特性上仕方のないことではある。だがそれでも従来のシリーズは「人が共に戦う」象徴として良い戦績が残せなかったとしても、それ以上にエモーショナルな場面を数多く作ってきた。『ティガ』のガッツウイングはまさにその代表格と言っていいだろう。 

しかしこのガッツファルコンは「遠隔操作のドローダー」であるため、その「共に戦っている」という旨味が限界まで薄れてしまい、かといって、従来の戦闘機に勝る持ち味や活躍がある訳でもないという、文字通りこれまでの戦闘機の下位互換となってしまっていたのである。
(第9話でのガッツウイングの活躍が印象的だったことも、ガッツファルコンの不遇ぶりに拍車をかけている。同じドローダーでありながら、どうしてこんなことに……)

 

 

特撮/映像、そして玩具という2点において一定以上の成果を上げてみせた『トリガー』。しかし、本作は「文芸」面に大きな問題を抱えてもいた。これが同作最大のポイントにして、最大の賛否両論点と言える点であろう。

 

『トリガー』の文芸方針は、おそらく「程よく『ティガ』を絡ませつつ、『Z』を越えるべく、より魅力的で作り込まれた物語を作る」というもの。 

後者に対する回答は「アニメ・ゲーム畑のライターであるハヤシナオキ氏の起用による、連続ドラマ方式の謎多き物語展開」だったと思われる。詳細は後述するが、この回答自体は、前述した『オーブ→ジード』の文脈と言え、その『ジード』が一定の成功を収めていたため何ら不思議はない。むしろ、問題は前者の「程よく『ティガ』を絡ませること」という点だ。

 

結論から言うと、『トリガー』は「非常に歪な形で『ティガ』を擦った作品」と言える作品になってしまっていたように思う。更に「NEW GENERATION TIGA」という大仰な副題や、各地で波紋を呼んだ「ティガの真髄を継ぐ」という触れ込みも踏まえると、その点においては「ハードルを上げるだけ上げて、出されたのはガッカリ作品」という扱いをされても仕方がないだろう。 


( ↑「ティガの真髄を継ぐ」の出典。ここまで公式HPに堂々と記載されている辺り、企画書の決め文句か何かだったのだろうか……?)

 

では、実際に『トリガー』における『ティガ』要素と、それらへの回答はどのようなものだったのか。大まかにまとめると、それぞれ下記のようになる。

 

①GUTSの存在 (GUTS-SELECTやその装備など)
 =ネオフロンティアスペースのTPC情報局員、シズマ・ミツクニが『トリガー』世界で築いたのがTPU/GUTS-SELECTだったから (スパークレンスという名称も、ミツクニが情報局員だから知っていたのだと思われる)。 

②闇の三巨人など、ティガ世界との共通項=偶然の一致 

③トリガーとティガの相似= (光線もタイプ名も出自も身長体重も同じだけど)  他人の空似

 


……これは怒られても仕方ないのでは?

 

 

そもそも『トリガー』は、その世界観こそが放送開始前時点での最大の謎であった。同じ世界なのか、違う世界なのか、トリガーとは、闇の三巨人とは、GUTS-SELECTとは……。これらが『ティガ』世代へのフックになることを製作陣も理解していたからこそ、敢えて「TPU」のような限界まで原点に擦らせた用語を作ったのだろうし、現にファンの間では発表以来様々な考察が飛び交っていた。

 

創作の常として「製作サイドが “奇妙なもの” として視聴者に提示している」ものは、物語中の要素として回収されて然るべきであり、引っ張った謎ほどそれを知った時の衝撃が大きいことが望ましい。製作側が意図的に気を引いたのだから、相応のリターンを期待するのは視聴者として当然の心理だろう。 

そういった「リターン」の例を従来のウルトラシリーズから挙げるなら、

 

・「なぜ合体変身なのか」という点がストーリー中盤の大きなポイントとなり、それぞれ全く異なる回答でドラマを大きく動かした『オーブ』『ジード』 

・「なぜザ・ネクスト、ネクサス、ノアは皆同じエナジーコアを持っているのか」というデザイン上の謎に対し、ネクサスがノアに進化するというサプライズによって「全員が同じウルトラマンだから」という回答を叩き付けた『ウルトラマンネクサス』 

・その正体を匂わせた果てに明かされた「SEVEN X=ウルトラセブン本人」という事実、そしてダン=森次晃嗣氏、アンヌ=ひし美ゆり子氏の登場というファンサービスで界隈を湧かせた『ULTRA SEVEN X』 

……など、枚挙にいとまがない。


これらを踏まえて『トリガー』のリターンを見てみると、シズマ会長の出自は彼から語られるだけで特に何の波紋を呼ぶこともなく (第9話)闇の三巨人もトリガー自身も原点の単なるそっくりさんでしかなかった。嘘だろ……?

 

『ティガ』からの客演キャラクターについても、ゴルバー (厳密には新怪獣だが) 、ガゾートは単なる傀儡止まりで、ウルトラマンティガ本人さえも (演出は本当に素晴らしかったのだけれど) その存在がストーリーの縦軸に関わってくることはなかった。 

キリエロイドについては演出上『ティガ』世界と繋がりがあるらしい (ティガを見て明らかに怯えている) だけでなく、その企みがユザレの末裔=シズマ ユナ (豊田ルナ) の覚醒を導く結果になったり、闇の巨人の確執を深めることになるなど、ストーリーの縦軸に関わることにはなった……が、よく考えるとこれは交通事故のようなもの。アボラスとバニラを覚醒させて、結果的にイグニスとアキトらの仲を進展させた=縦軸に影響したバリガイラーと似たようなものと言えばそれまでの話でしかない。

結果として、全てが『ティガ』に「擦らせる」程度止まりなのだ。限界まで擦るし時にはみ出るけど、慌てたように急に身を引く。結果的に、『ティガ』要素はあるが、そのどれもが本筋には関わらず「ついでのように」終わっていく。 

さて、ここで「NEW GENERATION TIGA」だ。 

この言葉がリメイクを指すのか、リブートを指すのか、あるいは続編を指すのか……という問題についてはもう答えは一つしかない。「限界までティガを擦ったニュージェネレーションシリーズのウルトラマン」である。 

おそらく、それこそが半ば神格化された作品『ティガ』を今改めてピックアップする手法として、製作陣が選んだ「最も無難な」方法だったのだろう。

 

そういう作品を作るのはいい。『ウルトラマン』というコンテンツの飛躍にあたり、『ティガ』という作品を現役作品として蘇らせるのは必定だろうし、新たな世代に『ティガ』が認知されるのはファンとして何より嬉しい。そもそも『ウルトラマンマックス』然り『ウルトラマンサーガ』然り、過去作をフィーチャーする作品作りはいつだって商業的な理由と共にあるものだ。 

『ティガ』という偉大な作品へリスペクトを払えば払うほど、そこに懸けるファンの情熱を考えれば考えるほど、リメイクもリブートもできない……というのもよく分かる。スーツを作るにも予算がかかるので、『ウルトラマンメビウス』のように、リスペクトを全開にした完全なる別作品……という作品創りができないのも道理だろう。 

が、しかし、製作時点でそういうしがらみから抜け出せないことが分かっていたのなら「NEW GENERATION TIGA」という副題や「ティガの真髄を継ぐ」というフレーズは、そもそも使うべきではない。その点を考慮せず (したのかもしれないが、結果として) 押し切ってしまった末路として、『トリガー』は「ハードルを上げるだけ上げてスカした」と多くの反感を買うことになってしまった。問題のフレーズが、結果的に羊頭狗肉の客寄せパンダとなってしまったのである。 

変に含みを持たせず、ハードルを上げるような副題もフレーズも使わず、最初から「ニュージェネフォーマットでティガのリスペクト作品をやる」という姿勢を明示していれば (荒れはしただろうけど) ここまで波紋を呼ぶことはなかったように思う。『ティガ』に本気で向き合うなら、深いリスペクトがあるなら、そこに懸ける熱意が全力であるならば、そのことを堂々と叫んで欲しかったのだ。

 

 

結果として、「NEW GENERATION TIGA」という副題や「ティガの真髄を継ぐ」というフレーズが足を引っ張った箇所が『トリガー』には数多く見られる。その代表格と言えるものが、防衛チームのGUTS-SELECTだ。

 

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前述のように、GUTS-SELECTはあくまで「GUTS縁の人物が設立に関わっている」というだけでそこにGUTSの名を冠する必要性は (「ティガを擦る」以外に) ない。シズマ会長を通し、かつてのGUTSの在り方に触れるエピソードがあったりすれば違ったかもしれないがそんなこともなく、にも関わらずGUTSの名を冠してしまったのだから比較されることは避けられない。

 

GUTSの名を冠する組織は、主なものとして「GUTS」と、その後続チームであり『ウルトラマンダイナ』で活躍した「スーパーGUTS」の2つがある (他組織はここでは割愛) 。 

その2チームは、毛色こそ異なるものの「チームとして優れている」「各個人がシリーズを通して掘り下げられ、魅力を放っていく」「人の可能性を信じる、“人の光”を体現するチーム」という点で共通しているように思う。それらのどれか一つでも共通していれば、GUTS-SELECTを (たとえメトロン星人がいても、メンバーの半数が母艦から出なくても、セキュリティが甘くても、ガッツファルコンがこれでもかと活躍しなくても) 「GUTS」を冠するものとして受け入れられたかもしれない。 

しかしこのGUTS-SELECT、まずもってサクマ テッシン (水野直)、ナナセ ヒマリ (春川芽生)タツミ セイヤ隊長、メトロン星人マルゥルの4人がほぼ全くと言っていいほど掘り下げられない。いや、掘り下げられないだけならまだ良かった。


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テッシンは「筋トレオタク」というキャラクターが「タッチパネルで操縦する」ナースデッセイ号のパイロットという設定に噛み合っておらず、ヒマリは「眼鏡を外すと豹変する」という、実写でやられるとかなり際どいキャラクターが浮きに浮いており、マルゥルに至ってはまさかの「作中ほぼ唯一の宇宙人 (他の宇宙人は、Zの世界から来たバロッサ星人とヒューマンタイプのイグニスという例外ばかり) 」キャラという点でやはり非常に浮いている。彼らは「掘り下げられない」どころか、そもそも一人のキャラクターとしての強度が致命的に足りていないのだ。 

(3人のような致命的な粗がない分比較的問題なく見えるタツミ隊長だが、彼は彼でその思いやキャラクター性が見えるシーンが少なく影が薄い、という問題がある)

 

彼らGUTS-SELECTの内番組は、出番の少なさからケンゴらとの友情も交流もほぼ描かれず、結果としてGUTS-SELECTは「チームとして良いのか、悪いのか」以前に「よく分からない」という結論に落ち着いてしまう。全く新しいチームならともかく、これで歴史あるGUTSの名を冠しているとあれば、ファンの反感を買うのも無理のない話だろう。


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彼らのこのような掘り下げ/強度不足の主な原因として考えられるのが『トリガー』の物語構成である。 

前述の通り、『トリガー』の文芸方針はおそらく「程よく『ティガ』を絡ませつつ、『Z』を越えるべく、より魅力的で作り込まれた物語を作る」というもの。その後者に対する回答が「ハヤシナオキ氏による、連続ドラマ方式のミステリアスな物語展開」だったと思われるが、そこで弊害となってくるのが「防衛チーム」の存在だ。

 

連続ドラマはその作劇上、メインキャラクターたちのやり取りで多くの尺を取るため、防衛チームのように複数のレギュラーがいた場合、彼ら全員を丹念に描くことはできない。 

それならば『Z』のストレイジのようにメンバーそのものを減らすことが考えられるが、昨今のウルトラシリーズにおいては、ライターが入る前からシリーズの内容がある程度決まっていることがある (例えば『タイガ』では、メイン監督決定前から既にトライスクワッドVSトレギアの設定などが決まっていたという )。 

前述したバンダイの『トリガー』への力の入れようを鑑みるに、ライターが入る前にナースデッセイ号とガッツファルコンの設定が決まっていた可能性は高い。しかしその設定上、ナースデッセイ号とガッツファルコンのパイロットは共に持ち場を離れることができず、更に「ケンゴ、アキト、ユナは多くの時間を共にしている必要がある」という都合もある。 

考えてみれば、これら2つはそもそも限りなく両立が困難なもの。であれば……と「最初から掘り下げる予定のない脇役」として急遽生まれたのが、テッシンとヒマリなのではないだろうか (2人を演じる水野直氏、春川芽生氏はそれぞれ『ジード』『ギンガS』と坂本監督がメインを務めた作品に出演しているため、急な人員追加にあたり、そのツテで起用されたと考えると辻褄が合う) 。 

そして、最初から掘り下げる予定がないのであれば、過剰な記号化でもしなければ (『X』のタケル、チアキのように) 実質的なゲスト止まりのキャラになってしまう。そうして生まれた、言わば不慮の産物とでも言える存在がテッシンとヒマリなのではないだろうか。


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しかし、『トリガー』の文芸面は、そういった「やむを得ない事情」だけで片付けられない数多くの問題点を抱えていた。それらを敢えて一言で纏めるなら「不自然さ」に尽きるだろう。

 

前述の『ティガ』絡みの数々の要素のように、『トリガー』は見ていくとあちこちに不自然な点が見受けられる。 

例えば、個々のキャラクター描写。 

先程「テッシンとヒマリのキャラ付けが過剰」と述べたが、それ以外のキャラクターが適切な塩梅かというとそういう訳でもなく、中でも特に不自然さが際立っていたのが、他ならぬ主人公=ケンゴだろう。


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彼は「スマイルスマイル!」「みんなを笑顔にしたい」という口癖のプッシュが非常に露骨で、皆の笑顔を望む純朴な青年のはずが、むしろ「笑顔の押し売り」をする傲慢な青年、のようにさえ映っていた。その上「なぜそんな口癖なのか」については、「母親がそうだから」以上に明示されることはなかった。 

ケンゴは演じる寺坂氏の天真爛漫さもあって、何をしていなくても「人の幸せを己の幸せと感じる」というキャラクター性が雰囲気に表れていた。そのため、少しでも前述の台詞をプッシュしようものなら、それは即ち「ダメ押し」ないし「しつこい描写」になってしまう。そのことを察してか、脚本家によっては「スマイルスマイル!」という口癖を封印する方もおり、そういった際のケンゴは非常に良い塩梅のキャラクターとして収まっていたように思う。 

(口癖のプッシュといえば『ジード』のリクの口癖「ジーっとしてても、ドーにもならねぇ!」があるが、こちらは劇中で明確な掘り下げがされているだけでなく、そもそも基本的には独り言のため、あくまで「決め台詞」の範疇に留まっていたと言える)

 

また、ケンゴについては「植物学者」という設定が有名無実になっていたことも大きな欠点だろう。 

彼が植物学者としての顔を「花の水やり」以外で見せたのは、第5話『アキトの約束』でアキトに花を差し出す一度きりで、第18話『スマイル作戦第一号』においては、ユナが花を選んでいる時に (考え事をしていたとはいえ) まさかのノーコメントという致命的なミスを冒してさえいた。 

最終回で唐突に咲いたルルイエについても、彼の「植物学者」という設定やそこに懸ける思い、背景が掘り下げられてさえいれば、もしかしたらより納得のいくシチュエーションになったかもしれない……と考えると、ただただ歯噛みするしかない。

「露骨な口癖のプッシュ」という問題点は、イグニスの「ゴクジョー」カルミラの「情熱的に」ヒュドラムの「エクセレント」などにも共通している。
(アキトの「ウザい」は他の面々に比べてプッシュされていなかった印象) 

人には実際に口癖というものがあり、キャラクターが口癖を持っていることには何の不自然さもない。ただし、ケンゴの「みんなを笑顔にしたい」など含めて、彼らの口癖は「隙あらば言う」レベルに達しており、その結果、無口なトリガーダークを「情熱的」と評するカルミラや「ゴクジョー」以外の評価基準を持たないイグニスが誕生、せっかくの魅力的なキャラクター性を、彼ら自身が貶める形となってしまっていた。 

「口癖」は「文脈」を越えてまで出てくるものではないし、いくらキャラクターとはいえ、そうなってはもう「日本語が正しく使えていない」ひいては「コミュニケーション能力の欠如」という点で著しく魅力、ないしキャラクター/ドラマへの没入感を損なってしまうのである。

 

 

こうなってしまった理由としては、おそらくハヤシナオキ氏の「アニメ・ゲーム畑の出身」という背景があるだろう。

 

言うまでもないことだが、実写ドラマと「アニメ・ゲーム」におけるキャラクター描写は「実写 (3D) か絵 (2D) か」という点で大きく異なる。問題はそれが平面か立体か、というより、「絵のキャラクターでは伝えられる情報量に物理的な限界がある」ということだ。 

「“電話” と “対面での会話” では、どちらが相手の気持ちが分かりやすいか」という問いがあったなら、おそらく大半の人が後者を選ぶだろう。それは、声しか相手の気持ちを知る術がない電話と違い、対面での会話なら「相手の些細な仕草や、僅かな表情の変化」といった数えきれないほど多くの情報が、相手の気持ちを推し量るヒントとなってくれるからだろう。 

勿論、昨今は技術の進歩によって2Dのキャラクターたちも非常に繊細な表情の揺らぎや仕草を見せることができるようになった。しかし、そこには作画の傾向や物理的な限界といった多くの壁があり、実写映像ほど多くの情報を視聴者に伝えることは難しい。おそらく、2Dキャラクターに度々見られる「過剰なくらいに濃い、ある種記号的なキャラ付け」の大きな理由の一つは、その「情報量の限界」を補完することなのだろう。そしてその世界の中では必然「そういうキャラクター」が普通であるからこそ、現実と違う言葉や言い回しも気にならなくなっている……という訳だ。 

「過剰な口癖」はそんな「記号的なキャラ付け」の一つと言えるが、前述の通りそれはあくまで「2Dのキャラクター」に求められるもの。そんな「2Dを前提とした味付けのキャラクター」がそのまま実写ドラマに現れてしまった場合、本来であれば一目で伝わってくる/見ていれば自ずと伝わってくるキャラクター性をわざわざ口癖でプッシュするなど「浮世離れした」ないし「くどい」キャラクターが誕生してしまう。 

口癖に限らず、この「2Dと3Dのズレ」こそが『トリガー』のキャラクターにおける不自然さの根本的な原因だと筆者は考えている。


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この点は決してハヤシナオキ氏に限った問題ではなく、例えばハヤシナオキ氏同様にアニメ・ゲーム畑のライターである虚淵玄氏がメインライターを務めた『仮面ライダー鎧武』では、『トリガー』同様に不自然な台詞回し、どこか浮いたキャラクターなどが問題視されていた……のだが、4クールという長尺に加えて、ほぼ全ての脚本を虚淵氏が手掛けていたことなどが効を奏してか、『鎧武』後半は、前述のような問題点が見事なまでに消え去っていた(勿論、虚淵氏とハヤシナオキ氏の力量差が影響した可能性も大いにあるが)。 

一方『トリガー』において、ハヤシナオキ氏が担当されたのは第1~3話、第11~12話、第23~25話の8本のみ。この状況下でありながら「第23話以降は件の問題点が大きく改善されていた」という事実は、むしろハヤシナオキ氏の健闘の結果という見方もできるだろう。そうであるなら非常に勿体無い話……なのだが、『トリガー』におけるもう一つの「不自然さ」がそんな甘えを許さない。それは「慢性的な描写不足」である。

『トリガー』全体のクオリティに異様なまでの描写不足が響いていることは、『トリガー』を通して視聴した方に対してはもはや詳しく語るまでもないだろうが、実際その「不足」はどの程度のものだっただろうか。 

まず「超古代」関連から振り返ってみると、不明瞭なまま終わってしまった点は 

・エタニティコアとは何なのか 

超古代文明とはどのようなものだったのか 

・ユザレ関連 (後述) 

・闇の巨人とは何なのか   

等々。多い。 

エタニティコア以外については、原点の『ティガ』でも同様に説明がされていなかった点だが、同作のTV本編ではいずれも重要な要素ではなかったため、言及されないことがむしろミステリアスな雰囲気の形成に繋がる長所でさえあった。 

しかし、続編となる『劇場版 ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』ではそれらの要素に半端に踏み込んだ挙げ句「闇の巨人」を初めとする様々な新設定をぶん投げてファンを混乱させてしまったため、大きな批判の的となっていた。そんな前例がありながら、なぜ『トリガー』は同じ轍を踏んでしまったのか……。 

そして、これらが説明されない結果、ストーリーの肝である「ケンゴの出自」「ユナの背負った運命」がよく分からないという悲劇が勃発する。

ケンゴの出自についてはそれこそ最序盤から引っ張った謎であり、中盤で明かされることで大きなカタルシスを呼ぶ……はずだったもの。なのにそれがさっぱり伝わってこないことで、武居監督渾身の演出による「君は僕だったんだね」、そしてその後のグリッタートリガーエタニティ初登場がどうにも盛り上がりにくいシーンになってしまうなど、あちらこちらで明確な弊害が発生していた。 

総集編などでの言及や、最終回でしれっと明かされた「エタニティコアは膨大な光エネルギーの塊」という設定を踏まえて辻褄の合う解釈を出すならば「封じられていたトリガーダークの心 (人格) が、エタニティコアの光を得て解放され、形を為したもの」……などになるだろうか。子どもどころか大人が必死に考えても分からないような設定をウルトラで出すんじゃないよ。

 

一方「ユナの運命」に関してはさほど難解な話ではない……のだが、こちらはこちらで全くと言っていいほど具体的な説明がなく、ユザレの末裔という運命に向き合うユナにも、ユザレ本人にもどうにも感情移入が難しい有様だった。なにせ 

・ユナに宿るユザレの魂はどういう状況なのか(人格がどの程度あるのか) 

・なぜユザレの魂は3000万年もの時間を越えて受け継がれていたのか 

・ユザレの「覚醒」とは、力を使いこなせるようになることなのか、ユザレの人格が目覚め(てユナの人格が上書きされ)ることなのか 

・トリガーや闇の巨人と違い、名前や所属組織に至るまでほぼ同じ (『ティガ』のユザレが所属していたのは地球星警“備”団) なのは何故だったのか 

・エタニティコアの力を使ったユザレはなぜ消滅したのか 

・ユザレはなぜ地球星警護団に所属していたのか 

・地球星警護団とはどのような組織だったのか 

……と、これら全てが劇中でまともに説明されない。多すぎる(覚醒については結果的に前者だったが)。 

ユザレが何者なのか、ユザレが目覚めると何が起こるのか、どちらもさっぱり分からない状況のままユナの葛藤に感情移入しろと言われても、いくらなんでも無理がある。ルールが分からないカードゲームの駆け引きを見せられても、どこに驚き、どこに感動すればいいのか分からないのは当然のことだろう。 

(ユナ/ユザレの両キャラクターについては、演じられた豊田ルナ氏のフレッシュな魅力と高い演技力が見事にハマっており、それによって、特にユナは描写不足やキャラクター性が大きくカバーされていた節がある)


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キャラクター描写の問題に説明不足。『トリガー』の文芸上の大きな問題点をそれなりの分量を使って並べてきたが、正直、これでもまだまだ半分挙げられたかどうかといったところ。細かいシチュエーション一つ一つまで拾い始めると、いよいよもってキリがない。 

第12話『三千万年の奇跡』における、脱け殻のトリガーダークに必死に呼び掛けるアキト→その声がなぜかケンゴに届く→吹き飛び絶叫するケンゴ→ケンゴがなぜか空から (やたら悟りを開いた表情で) 降りてくる……という一連はもうツッコミどころ満載すぎてギャグの域に達している (笑えない) し、ハヤシはハヤシでも林壮太郎氏が手掛けられた第10話『揺れるココロ』におけるダーゴンとユナの絡みは、本当に令和の作品か……? と思わずにはいられないほど、凄まじい共感性羞恥に曝される地獄変だった。

このように、文芸面における『トリガー』の粗はあまりにも多い。ただでさえあの『ティガ』を背負う作品であること、更に、よりによって前作『Z』が文芸面において非常に優れた (「田口監督が全話の脚本に目を通した」という規格外の製作体制だったため、単純比較できるものではないのだが) 作品だったことで、その粗は殊更に目立ち、多くのファンの反発を招くこととなった。 

こうした点を踏まえて『トリガー』の文芸を振り返って「魅力的なもの」だったかと問われると、少なくとも、素直に二つ返事で頷けるものではないだろう。様々なやむを得ない事情が考えられるとはいえ、このような事態を招いた一因は製作陣の「練り不足」であり、それは「NEW GENERATION TIGA」を生み出すにあたって、そしてハヤシナオキ氏というアニメ・ゲーム畑の外部ライターをメインに起用するにあたって、決して起こしてはならないミスだったのだ。

 

 

では、そもそも「NEW GENERATION TIGA」は作られるべきではなかったのだろうか。ハヤシナオキ氏をメインライターに招くべきではなかったのだろうか。 

これまで述べてきた文芸面の欠点を思えば、そのように感じた方は非常に多いだろう。『ティガ』が絡まない、あるいは小中千昭氏らの描く『ティガ』全開の『トリガー』が見たかった……という方もいるだろう。 

しかし「ティガの続編でない『ダイナ』」や「セブンの息子でないゼロ」が有り得ないように、『トリガー』で生まれた物語や数々の名場面といった同作の魅力は「ハヤシナオキ氏が手掛けられた『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』」という土壌だからこそ生まれたものであり、それらには、これまで述べてきた数々の欠点を踏まえた上で尚、大きな価値があると思えてならない。 

そんな『トリガー』の魅力の筆頭として挙げられるのが、主人公格と言えるヒジリ アキト、そしてイグニスの2人だ。

 

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GUTS-SELECTの技術担当であり、ナースデッセイ号の設計やGUTSスパークレンスを初めとした各種武装の開発を担う天才高校生のアキト。彼は防衛チームの一隊員でありながら、主人公格として飛躍的な成長を遂げる稀有なキャラクターであった。

 

発表当初は「若き天才科学者」というプロフィールやケンゴへの複雑な感情からイーヴィルトリガー候補と騒がれたこともあった彼だったが、事実、最序盤のアキトはトリガー=ケンゴへの嫉妬を隠さなかったり (第2話) 、第5話『アキトの約束』では両親の仇であるデスドラゴを前に単独行動を取ったりと、何かと危うい面が目立つ少年だった。 

しかし同話にて、ケンゴの不器用なメッセージを受け「自分のすべきことは復讐ではなく、ユナを守ること」だと思い出したアキトはデスドラゴをトリガーに託し、自身はユナを守るべくダーゴンとの戦いに挑んでいく。この戦いをきっかけに彼はケンゴに心を開き、それ以降、彼は幾多もの戦いを経て徐々にその視野を広げていくことになる。


そんな彼の成長ぶりが顕著に表れていたのが、『ウルトラマンパワード』以来の復活となったアボラス・バニラがWトリガーと激戦を繰り広げる名編、第21話『悪魔がふたたび』である。

当初こそ「気ままな自由人」「ユナを "ゴクジョーちゃん" と称し狙う」とアキトの癇に障る要素ばかり持ち合わせており、反感を隠そうともしなかったイグニス。同話では、アキトがそんなイグニスに「力を貸してほしい」と自ら頼み込み、規則違反だと知りながらもブラックスパークレンスを託す姿が印象的に描かれていた。 

確かに、彼がイグニスに協力を仰いだのは「ケンゴを救う」という目的があればこそ。しかし、一人で全てを背負い、光を手にしたケンゴに感情のままぶつかっていた序盤の彼ならば、決してこのような行動には出なかった。 

己の限界を知り、ケンゴやユナを通して「人を信じること」の価値を知ったからこそ「人に頼る」ことができるようになったアキト。「涙なんて二度とゴメンだ」というイグニスの独白に表情が揺らぐ様も含めて、この一連はアキトの成長の一つの到達点になっていたと言えるだろう。 

(続く第22話『ラストゲーム』も、イグニスの過去に思いを馳せたり、約束通りユナを自らの手で守ってみせるなど、アキトの成長ぶりが堪能できるエピソードとなっていた)


そんな彼の視野を広げた一人として欠かすことができないのが、闇の巨人・剛力闘士ダーゴン (CV.真木駿一) だ。

 

 

ダーゴンは、力を持たないながらも自らに立ち向かったユナ=人間の強さに心を揺さぶられ (第5話)、そんなユナを守ることさえあった (第10話) 他2人よりも人間臭さを感じさせる闇の巨人。 

最初こそ、その恋心とも憧憬とも取れる心はユナにのみ向けられていたが、カルミラとヒュドラムの確執、更にはGUTS-SELECTが総出でトリガーを守る姿 (第17話) など様々な光景を前に、いつしかその感情はユナに限らない「人間の持つ強さ」への憧憬へと変わっていった。そんなダーゴンに引導を渡すことになったのが、他ならぬ「特別な力を持たない人間」であるアキトとなったのは、ある種の必然だったのかもしれない。

 

アキトはケンゴ、ユナ、イグニスと並んで『トリガー』の主人公格と言える存在だが、彼一人だけが「何の力も持たないただの人間」であり、それがある種のアイデンティティーでもあった。 

何の力も持たず、周囲への嫉妬や不信に振り回されていた彼が、誰かを信じることを学び、誰かを頼ることを学び、その上で科学者としての自分にできるベストを尽くす。そうして自ら道を拓き続け、その果てに迎えた大舞台が第23話『マイフレンド』。

ユナに「我はお前に……人間に惹かれているのだ」と語るダーゴンに対して、真っ先に「だったら、もっと人間のことを知ったらどうだ」と呼び掛けるアキトの姿は、それ自体が彼の成長の証であり、ダーゴンの語る「人間の強さ」の具現でもあった。 

共にユナの=一人の人間の強さに導かれ、片やダーゴンは誇り高き真の闘士へ、片やアキトは、人を知り、己を知った真の戦士へ成長。多くの言葉を交わした訳ではなくとも、アキトがダーゴンを好敵手として、ダーゴンがアキトを友として認めることには大きな納得感がある。そんなアキトが「人間の強さ」の象徴=叡知の結晶であるナースデッセイでダーゴンに引導を渡す。それは彼にとって、これ以上ない花向けであったに違いない。 

「防衛チームの一隊員が、ボスクラスの強敵との因縁の果てに引導を渡す」というシチュエーションはウルトラシリーズでは (おそらく) 初となるものだが、前述の積み重ねに加えて、BGMにアキトたちの歌う後期ED主題歌『明日見る者たち』を採用した坂本監督の采配、そして『ティガ』の大ファンだという金子隼也氏、真木駿一氏両名の魂が籠った名演によって、一連のシーンはこの上なくドラマチックな「決着」として昇華されていた。総じて『トリガー』ひいてはウルトラシリーズに名を刻んだ名エピソードだと言って良いのではないだろうか。

 

一方、そんなアキトが闇の巨人になるという大方の予想を覆し、トリガーダークとしてライバルポジションを勝ち取ったのが、本作きってのダークホースことリシュリア星人イグニスだった。


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情報解禁当初は「細貝圭氏が演じる、自由気ままなトレジャーハンター」という何かしらの作意を感じる設定や、ヒューマノイドタイプの宇宙人という『ティガ』らしくないキャラクター性、更に、所謂「ヴィラン枠」なのか味方なのかさえもあいまいな謎のポジションでファンの不安を一心に集めた彼だったが、その「あいまいさ」こそがイグニスというキャラクターの肝であった。

 

普段はトレジャーハンターとして飄々と振る舞い、時には三枚目然とした様子を見せることもあるイグニス。しかし、その一方で彼は母星を滅ぼしたヒュドラムへの怨みに100年もの間囚われ続けており、第15話において、リブットに「一つのことに囚われて、周りが見えなくなっている」と看破され、思わず苦笑いを浮かべる姿は非常に印象的だった。 

飄々としつつも、仲間と確かな絆を紡いでいくトレジャーハンターのイグニスと、ヒュドラムへの怨みを抱え、復讐のコマを進めていくリシュリア星人のイグニス。どちらかが真実でどちらかが嘘という訳ではなく、その双方で揺れ動く人間らしさこそがイグニスであり、ともすれば、彼の三枚目然とした振る舞いは、復讐心に飲み込まれまいと「飄々とした自分」を演出する為の防衛機制だったのかもしれない。

 

 

一方、そんなイグニスの復讐劇は水面下で着々と進んでいき、遂にはヒュドラムを倒し得る力=トリガーダークへの変身能力を獲得。紆余曲折ありつつもトントン拍子で進んでいく彼の戦いは、トリガーダークの姿が物語るようにおよそ光の戦士とは程遠いダークヒーローそのものだった。……字面だけを見るならば。 

文字にしてみると、およそ子ども向けヒーロー番組の主人公格とは思えないイグニスの過去と復讐劇。しかしいざ本編を見てみると、彼の行動に思ったよりも「闇」を感じないことが気にかかるだろう。 

それもそのはず、彼の復讐劇は、劇中でその目的が「誰にも否定されない」=「“悪”として描かれない」のである。

イグニスの凄惨な過去が初めて彼本人の口から語られるのは、第22話『ラストゲーム』冒頭。GUTS-SELECTの面々は、ここで初めてイグニスの目的が「エタニティコアの力で滅んだリシュリアを再生する」こと、そして全ての元凶=ヒュドラムへの復讐であることを知る。 

ここで特徴的なのが、アキトたちが糾弾するイグニスの行いが「自分たちを欺き、ユナを拐った」こと、そして「エタニティコアを起動すれば、現在の地球を犠牲にしかねない」という2つだけであること。前者は悪行、後者は危険な行為としてそれぞれ明確に描かれ、ケンゴらはそこに及んだ彼の胸中に思いを馳せることになる。しかしその一方で、最後の最後までヒュドラムへの復讐」という彼のもう一つの根底については、糾弾することも、否定することもなかったのだ。 

特に子どもがメインターゲットとなる特撮ヒーロー番組では「復讐」は得てして (その正当性こそ担保されるが)「更なる災いを招くもの」としてネガティブに描かれることが多い。ウルトラシリーズでは『ネクサス』において、リコを殺された孤門が復讐に囚われてしまう描写などが印象深いだろうか。

それは至極当然のことで、怨みのままに力を振るうことが危険であることも、復讐が更なる復讐を呼びかねないこともどちらも真実。実際に、前述の『ネクサス』においては、復讐に囚われるあまり我を見失った孤門が窮地に立つ姿が (およそ主人公の姿とは思えないほど凄絶に) 描かれ、復讐というものの恐ろしさを身をもって示していた。 

しかし『トリガー』においてその側面が描かれることはない。

 

確かにイグニスは「復讐心」という強い闇を宿していた。GUTS-SELECTの仲間たちとの日々も、その幾許かは作られた打算的なものだったかもしれない。しかし、そんなイグニスの「闇」は、必ずしも彼の見せた「光」を全て否定する訳ではないのだ。 

メツオロチの襲撃に苦しむ人々を助けたのは、そこにリシュリアの人々を重ねたから。アキトの「ケンゴを助けるために力を貸してほしい」という頼みに応えたのは、自分自身が涙の痛みを知っているから。いずれも「無辜の人々を守りたい」のような人類愛や大義に基づくものではない。事実、イグニスの戦う動機はそのほとんどがあくまで個人的なものに過ぎなかった。 

しかし、それがイグニスの中にある優しさ、そしてトリガーダークというウルトラマンが守ったものの大きさを否定することにはならない。同じように、イグニスが皆を欺いていたとしても、その心に大きな闇を抱えていたとしても、それはケンゴの「僕はこれまでの日々が全部嘘だとは思いたくない」という言葉通り、イグニスとケンゴたちとの間にある絆を否定することには成り得ない。

 

イグニスはエタニティコアを前にするその時まで、終始迷いと共にある不安定な存在であり、心に巣食う光と闇の中で揺れ動き続けてきた。しかしそんな「光でもあり、闇でもある」存在として悩み、迷う自分を宇宙一のトレジャーハンターという殻で隠し、飄々と振る舞うその在り方こそがイグニスであり、それはとても「人間らしさ」に満ちたものだ。 

そしてケンゴが、ユナが、彼の行いに憤り、苦しんでいたアキトが、そんなイグニスの在り方を否定することなく「その闇ごとまとめて受け入れた」からこそ、イグニスは彼らを心から信頼し「仲間」と正面きって呼ぶことができたのだろう。 

イグニスがケンゴたちの光を受けて手にした姿、ダークの姿のままグリッターの光を宿す「グリッタートリガーダークエタニティ」は、「闇を抱いたまま『ウルトラマン』になる」という彼の物語の象徴と言えるのではないだろうか。

(最終回後、再びリシュリア再生の手段を探しに旅立ったイグニスだったが、その「未だ振り切れていない」様子こそが彼らしい、納得の旅立ちと言えるものだろう。最後までGUTS-SELECTに入らないのも同様だ)


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アキトとイグニス。主人公格として、それぞれが抱えた闇の巨人との因縁に見事決着を付けた彼らの物語には、(ヒュドラムが誰からも同情されることなく倒されたように、“悪”は断ぜられるべきもの、という前提の上で)「光と闇の融和」という共通のテーマがあったように思える。

 

アキトはユナという一人の人間を通して闇の存在=ダーゴンと通じ合い、イグニスは仲間たちとの絆を糧に、闇を抱えたまま「光」を手にすることができた。これら、相異なる「光と闇との融和」を考えるにあたり、やはり避けられないのが『ティガ』という作品の存在だろう。

 

 

『ティガ』のTVシリーズにおいて、「光と闇」は作品を通してのキーワードであった……が、その意味はついぞ明言されず、主人公=マドカ・ダイゴ (長野博) が「光とは何なのか」その命題の答えに作品を通して近付いていくという作劇が行われていた。 

そんな『ティガ』TVシリーズが示した一つの回答が「誰もが光になれる」ということ。 

世界に広がる闇、そして「己の中にある闇」に屈することなく、諦めずに立ち上がること。その輝ける意思こそが光であり、『劇場版 ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』や『劇場版 ウルトラマンX きたぞ! われらのウルトラマン』といった後年の作品では、この点を強く意識した演出の上でウルトラマンティガが登場し、それぞれ「理想的なヒーロー客演」の一つとして今尚語り継がれている。 

一方、『ティガ』のその後を描いた劇場用作品『THE FINAL ODYSSEY』においては、カミーラ、ダーラム、ヒュドラ、そしてティガ本来の姿とされるティガダークの登場によって、TVシリーズに比べて「光と闇」という概念がビジュアル面で一層強調されていた。TV本編との矛盾も多く『ティガ』という概念をねじ曲げたと言われることもある同作だが、その中で描かれた「闇の巨人であったティガが、愛 (光) によって転身しウルトラマンとなる」というエピソードが持つテーマ、つまりは「闇に生まれた者も光になれる」というテーマは、『ティガ』最終章でマサキ・ケイゴ(高良隆志)が見せた「道を誤った者も光になれる」というエピソードを更に広げたものだと言えるだろう。

 

 

そして時は流れ、時代は令和。「NEW GENERATION TIGA」として世に送り出された『トリガー』が描いたものが「光と闇の融和」であったことには、どこか切ない感慨深さを覚えてしまう。

 

『ティガ』か放送された25年前、1996年と言えば、Windows95の登場などに代表されるように、デジタル文化が飛躍的に進んだ新時代の黎明期。しかしその一方では、1995年の阪神・淡路大震災が人々に大きな爪痕を残している時代でもあった。かつてオイルショックが終末ブームに繋がったように、ノストラダムスの大予言や「世紀末」概念が必要以上に取り沙汰されていたのは、そういった災害による人々の恐怖や不安が少なからず影響していたのかもしれない。『ティガ』という作品が、人の中にある光と闇の相克、そして「誰もが光になれる」という希望を描いた背景には、そういった世相も少なからず影響しているのだろう。 

そんな希望が送り出されてから25年が経った2021年もまた、皮肉にも病魔という災厄が猛威を振るい、再び人々の心に暗い影が射す時代だった。 

それによる経済の深刻な悪化だけでなく、環境問題や少子高齢化といった幾多の問題はより一層の深刻化が進んでおり、終わりの見えないパンデミックと合わせて、今も世界全体が長年に渡り閉塞的な闇に覆われている。 

そんな時代に現れたウルトラマン、トリガーが示した「光と闇の融和」。それは『ティガ』が示した「誰もが光になれる」というメッセージはそのままに、「けれど、無理に光になる必要はない/闇を持ったままでもいい」と、より優しく人々に寄り添ったものになっていた。 

立ち上がろうともがく人への「君ならできる」はこれ以上ないエールになるが、追い詰められ、倒れ伏す人に必要なのはそのような可能性/希望ではなく、ありのままの自分の手を取ってくれる優しき隣人。だからこそ、そんな時代の求めるヒーロー像に応えたトリガー=マナカ ケンゴは、人々の「笑顔」を望む存在として、光ではなく「人」として描かれたのではないだろうか。

 

 

「人」という言葉は、『ティガ』『トリガー』の双方でキーワードとなる言葉であるが、その使われ方は些か異なっているように思える。

 

『ティガ』では文字通り「特別ではない、普遍的な人間」を指す言葉として使われ、「ダイゴは決して特別な存在ではない」ということが『ティガ』という作品の大きな核となっていた。

一方『トリガー』において、「人」という言葉は「光と闇を内包した存在」というニュアンスを重視して使われていたように思える。そのニュアンスが色濃く現れていたのが、前述のイグニス、そしてトリガー=ケンゴである。


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マナカ ケンゴとは「トリガーに生まれた光が形を得た存在」であり、その出自による浮世離れした天真爛漫さ、そして育ての親であるマナカ レイナ (横山めぐみ) から引き継いだ「スマイルスマイル!」という口癖が特徴の青年。そんな彼の肝となるのが「みんなを笑顔にしたい」という夢であるが、その夢こそが、その出自以上に彼の「闇」の部分と言える点であった。 

このことを考える上で重要なエピソードが、ウルトラマンリブットが登場する第14話『黄金の脅威』と第15話『オペレーションドラゴン』の2編。その内容は以下の通り。 

自分の正体がウルトラマントリガーそのもの=「光」の化身であると知ったケンゴは「自分の使命は、命に代えてもみんなを守ること」であると気負ってしまう。

そのことからグリッタートリガーエタニティの力を制御しきれず危機に陥るケンゴだったが、窮地に現れたウルトラマンリブットに間一髪の所で救われる。ケンゴが自身の運命に押し潰されようとしていることを見抜いたリブットは、彼の「本当の戦う理由」を思い出させるべく特訓を開始する。

リブットの特訓、そしてユナの言葉によって、ケンゴは自らが「光の化身」であるだけでなく、マナカ レイナによって育てられた「人間/マナカ ケンゴ」でもあることに気付く。そう、ケンゴの戦う理由は “光の化身としての運命” 以前に、自らの描いた夢のため=みんなを笑顔にすることにあったのだ。

自分自身と真に向き合い、受け入れることができたケンゴは、遂にグリッタートリガーエタニティの制御に成功。リブットやGUTS-SELECTとの共闘の末、強敵アブソリュートディアボロを撃破するのだった。

 

このエピソードの肝は、「光の化身としてみんなを守りたい」ことと「人としてみんなを笑顔にしたい」という願いが似て非なるものとして描かれた点にある。それはつまり、「みんなを笑顔にしたい」という、一見して「みんなを守りたい」とイコールで結べそうな願いが、その実「光の化身としての使命という枠から少なからず外れたもの」であることを示唆している。 

その奇妙な違和感の正体が判明するのが、第18話『スマイル作戦第一号』と、続く第19話『救世主の資格』。ここでケンゴは、古代におけるカルミラの笑顔、そして涙を目の当たりにしたことで「みんなを笑顔にしたい、それは相手が闇の巨人であっても」という願いを抱くようになる。 

そう、「みんなを守る」とは、守るために戦う相手=敵の存在を前提とした言葉。しかし、ケンゴが笑顔にしたい「みんな」には、そのような本来倒すべき敵=闇の巨人も含まれているのである。

 

当然、これは光の化身=正義の味方に本来求められる「大 (守るべき人々) のために小 (敵となる存在) を捨てる」という宿命に真っ向から反する、言ってしまえばケンゴのエゴイズム=ある種の「闇」と言えるもの。 

本来であれば闇を持たない光の化身であったケンゴは、時を越えて転生し「人」として育つことで、その使命と乖離した「自らの欲望」という闇を持った。光の化身であるが故の正義感と純真さ、人として育ったがための人間的なエゴイズム。その2つが歪かつ奇跡的なバランスで同居している存在。それがマナカ ケンゴという人間なのである。

そんなケンゴにとって、「笑顔にしたい相手の一人」であり、「自分の存在が笑顔を奪ってしまった相手」でもあったカルミラは、ケンゴ (自らを拒絶し、トリガーを奪った “光”) への憎しみの果てに、邪神メガロゾーアへと変貌、人々から笑顔を奪うものとして世界を闇に包み込んでしまう。 

光の化身=ウルトラマンとして、みんなの笑顔を守る者として、人々から笑顔を奪い去るメガロゾーア=カルミラは決して許すことのできない存在である。しかし、人間=マナカ ケンゴは、それでも「カルミラも笑顔にしたい」という欲望を捨てきれなかった。 

そんなケンゴは、最後の戦いにおいてイグニスからトリガーダークの力を受け取り、過去と未来のトリガーが一つとなった真の姿、トリガートゥルースへと変身、メガロゾーアに最後の戦いを挑む。

 

 

このトリガートゥルースは、前述の通り「分かたれた光と闇のトリガー」が一つになった存在だ。しかし、そこに行き着くまでのケンゴの思いをなぞるなら、その姿が意味するものは「属性」としての光と闇の共存だけではないように思う。 

トリガートゥルースに宿る光と闇。光は、メガロゾーアという罪を裁く「光の化身としての使命」。そして闇は、カルミラを笑顔にしたいという「人間としての欲望」。メガロゾーアという最大の敵を前に、それでもその双方を貫いてみせるというケンゴの覚悟こそがトリガートゥルースの宿した光と闇であり、決戦前、ケンゴがイグニスに言った「僕は光であり、人である。この光と闇の争いを終わらせなければならないんです」という言葉は、その光と闇の双方を実現させる=メガロゾーアを倒し、同時にカルミラを救ってみせる (笑顔にしてみせる) というケンゴの決意表明だったのではないだろうか。

果たして降臨し、メガロゾーアとの最後の決戦に臨むトリガートゥルース。これまで現れたどのティガともトリガーとも異なる「光と闇のウルトラマン」たるその姿は、まさしく『トリガー』が描いてきた「光と闇の融和」というテーマを体現する姿。『ティガ』の象徴がグリッターティガであったように、トリガートゥルースは『トリガー』の象徴、あるいは集大成と言えるだろう。 

トリガートゥルースは、自分自身の光と闇、ナースデッセイ号に宿ったエタニティコアの力、そして仲間たちと人々の笑顔を受け取ることで、最後の必殺技「トゥルータイマーフラッシュ」を発動、カルミラを覆っていたメガロゾーアという外殻を崩壊させる。 

世界を覆う闇が晴れ、消え行かんとするカルミラ。怯え、震える彼女だったが、そこに現れたケンゴは優しく手を差し伸べた。  

 

「なぜ私を、闇を拒絶する……?」
「違うよカルミラ。僕は光であり、人である……そして闇でもあるんだ。だから、闇を拒絶なんかしない」
「ッ……!」
「僕は世界中のみんなを……カルミラも笑顔にしたい!」

 

「ケンゴという光がトリガーを奪った」と認識していたであろうカルミラ。彼女がトリガー=ケンゴだと気付いたのは、おそらく第19話『救世主の資格』における「トリガーといる君は……幸せそうだった」というケンゴの言葉がきっかけだろう。「トリガーしか知り得ない自分の姿」を知り、更にその表情を理解できたケンゴ。それは、彼がトリガーを乗っ取った無関係の人間ではなく、彼自身がトリガーであることの証明になっていたからだ。
(そのためか、この言葉を受けたカルミラは狂乱し、そのまま姿を消している)

 

「トリガーは、マナカ ケンゴに乗っ取られている訳ではなく、自らの意志で光として在る」 

カルミラにとって、その事実は到底受け入れられるものではなかったのだろう。彼女はケンゴ=トリガーだと気付いて尚、「マナカ ケンゴ……お前さえいなければ!」と叫び続けた。「ケンゴという存在がトリガーを奪ったのであって、トリガーが自分を拒絶した訳ではない」だと思い込むことで、ケンゴを消せばまたトリガーが闇の巨人として戻ってくる……という希望にすがりたかったのかもしれない。 

だからこそ、カルミラは最後に立ち塞がったトリガー=トリガートゥルースを見て

「なんだその姿は!? 光と闇が交わるなど、有り得るものかァァァ!!」

と叫んだ。その姿を認めてしまうことは、光を消せば闇になる、という二律背反が覆される=ケンゴを消せばあの頃のトリガーが戻ってくる、という自身の希望を否定することになってしまうからだ。 

しかし、自分を倒したトリガートゥルース=ケンゴは、その上でカルミラに手を差し伸べ、「僕は光であり、人である……そして闇でもあるんだ。だから、闇を拒絶なんかしない」と優しく語りかけた。 

確かにトリガーは、カルミラと共に闇の巨人であったあの頃から、光を得たことで変わってしまったかもしれない。しかし、光と闇は二律背反のものではない。光を持っていることが、闇を拒絶する理由にはならないのだ。 

そのことを悟りながらケンゴの言葉を受け止めるカルミラの姿は、さながら「子離れを受け入れた母親」のようでもあった。

 

かつて、ティガを愛した闇の巨人カミーラは「私も光になりたかった」=ティガと同じ側にいたかった、と言い残し、悲しみと共に消えていった。

しかし、カルミラは違う。彼女はカミーラ同様トリガーに看取られながらも、 

「これが光かい……。暖かいねぇ……」 

そう嬉しそうに、笑顔を浮かべながら消えていったのだ。彼女は取り返しの付かない己の罪を裁かれつつも、最後に「光と闇は共存し得るもの」であることを知った。彼女の最期の言葉は、自分が闇であることを否定しないままに「光の暖かさ/今のトリガー」を受け入れることができ、解放された彼女の心からの言葉だったのだろう。 

そして、そんなカルミラの笑顔は、ケンゴが自分自身の光、そして闇に向き合い、その双方を受け入れたからこそ辿り着くことができた笑顔。ケンゴはメガロゾーアを倒し、同時にカルミラを救うことで、本当の意味で「みんなを笑顔にしたい」という、自らの夢見る未来に辿り着くことができた。「光と闇の融和」というテーマを描いてきた『トリガー』いう作品の、そしてケンゴたちの築いてきた道のりのゴールとして、この上なく美しい結末だと言えるのではないだろうか。

 

 

『トリガー』全25話を通し、それぞれの運命や因縁と戦い続けたケンゴ、アキト、イグニス。彼らの物語は、これまで述べてきたように『ティガ』が描いた「光と闇」というテーマを現代の視点から見つめ直し、「超古代から続く物語」「闇の三巨人」といった『ティガ』を構成するアイデンティティーを交えつつ、成長と葛藤のドラマとして見事に昇華したものだと言えるだろう。 

確かに、「超古代」というエッセンスをメインに据えた連続ドラマという構成は『ティガ』のようで全く異なっているものだが、『ティガ』のテーマを現代に蘇らせるにあたって求められる様々なニーズ、そして『トリガー』という作品自身に『ティガ』の二番煎じとならないよう独自の魅力を持たせる、という製作上の必然を踏まえるのであれば、この再構築はむしろ非常に繊細かつ巧みなもの。この点において、『トリガー』は「NEW GENERATION TIGA」という副題に負けないものを産み出せたのではないだろうか。

 

なないろのたね

なないろのたね


以上、「特撮」「玩具」「文芸」の3点から『トリガー』を振り返ってきたが、こうして作品全体を俯瞰していく中で気付かされたことがある。この作品は非常に良し悪しの激しい作品なのだが、それはこの作品に込められた「チャレンジ」の多さによるものではないか、ということだ。 

『トリガー』の特撮・映像面での魅力が、各監督たちを初めとしたスタッフの方々の飽くなき向上心の賜物であることはもはや言うまでもない。また、本作の非常に特徴的な玩具展開には「ウルトラマンの玩具マーケットをワンランク上に持っていく」という圧倒的な熱量が感じられる。これはバンダイ側だけでなく、円谷サイドの積極的な協力と挑戦あってのものだろう。 

そして文芸面。ここが最も良し悪しの分かれる点であるが、その根底にあったのは「新しいウルトラマンを作る」という開拓心。ハヤシナオキ氏の登用や「全話で縦軸のエピソードを進めつつも、オムニバスという基本構成は崩さない」という、ウルトラシリーズ初の斬新な物語構成など、その結果は明暗分かれてしまうものとなったが、その挑戦が前述のような見応えのある物語を産み出し、ウルトラマンの新境地を拓いたことには非常に大きな価値があったと言える。


更に、これまで触れてこなかったトピックにおいても『トリガー』は数多くの挑戦に満ちた作品だった。 

実質的なキャラクターソングである『明日見る者たち』を後期ED主題歌として採用したことや、ウルトラシリーズでは珍しく『Trigger』のアレンジBGMを戦闘からドラマに至るまで多用したこと。坂本監督直々の要望で実現した「小顔」という全く新しいウルトラマンのスタイルや、トリガーダークら闇の巨人をデザインされた武藤聖馬氏の功績、そのおかげで誕生した「トリガー&トリガーダーク」という異色のダブルヒーロー。他にもGUTSスパークレンスというアイテムそのものの革新性についてであったり、円谷プロダクション公式動画配信サービス『TSUBURAYA IMAGINATION』との本格連動であったり……。その数は挙げれば本当にキリがなく、『トリガー』がこれまでのシリーズに比べても非常に多くのチャレンジを内包した作品であることは間違いない。

 

 

「特撮」「玩具」「文芸」そしてそれ以外のあらゆる要素に満ちた『トリガー』の挑戦心。中には必ずしも効果的/スタッフの狙ったようには働かなかったものも見られるが、何より忘れてはならないのは、これら数多くのチャレンジがウルトラシリーズへ新たな息吹をもたらす試金石となったことだ。

 

事実として、『トリガー』という作品は「好みの別れる」作品であるだろう。一定以上の品質を持った作品ではあるが、その良し悪しの極端さや独特の作風は間違いなく「万人受けはしないであろう」もの。 

そういった意味では、この作品が (それこそ『ティガ』や『Z』のように)「新時代の顔」となることができたか……と言われると、素直に頷くことは難しい。『トリガー』という作品には独自の魅力が数多く存在するが、その魅力が数多くの欠点を相殺できていると感じるかどうかは、どうしても視聴者個人の感性に委ねられてしまうからだ。

 

しかし、それでも「『トリガー』は新時代の引き金となった」ということは、声を大にして述べておきたい。

 

『ティガ』という作品を土台にしている以上、当然、もっと無難な作品作りはできただろう。しかし『トリガー』はそうしなかった。それらの土壌から受けた力で、その場での安定ではなく、もっと高く飛翔する道を選んだのである。そしてその結果生まれたものが、前述してきた数々の挑戦であり、無数の欠点であり、『トリガー』独自の魅力なのだ。 

たとえ粗削りとなっても、シリーズの飛躍のために、そして「この時代に相応しいヒーローを送り出す」ために。そんな製作陣の真摯な魂こそ、『トリガー』が最も「NEW GENERATION TIGA」たる所以であり、『トリガー』の魅せた数多くの挑戦は、十二分に「新時代の引き金」足り得るものだったのではないだろうか、

 

明日見る者たち

明日見る者たち

  • マナカ ケンゴ (寺坂頼我)、シズマ ユナ (豊田ルナ)、ヒジリ アキト (金子隼也)
  • アニメ
  • ¥255

 

トリガーダークがエタニティコアに触れ、その身に光を宿したことで始まった『トリガー』という神話は、3000万年という時を越えて、その光=マナカ ケンゴが再びコアに還ることで終わりを告げた。 

しかし、「光の化身」ではなく「人」として生きたケンゴには、自身の帰りを待ってくれる仲間がいる。自分が戻ることで初めて笑顔にできる、アキトという大切な友がいる。 

人は誰でも光になれる。けれど、無理に光である必要はない。光の化身としての使命を持ったヒーローでも、自分の欲望を持ち、自分の幸せを願っていいのだ。誰も皆、光であり、人であり、そして闇でもあるのだから。

去り行くケンゴを前に、遂に花開いたルルイエ。ルルイエはその名に反しただの花でしかなかったが、だからこそあの場の「みんなを笑顔に」できた。それは、背負った運命や与えられた宿命ではなく「今、そこでどう生きているか」をこそ祝福する『トリガー』という作品を最も象徴する光景だったのかもしれない。

 


しかし、『トリガー』はまだ終わらない。
来たる2022年3月18日には、最終回後の世界を描く『ウルトラマントリガー エピソードZ』が全国劇場公開。ツブラヤサブスクこと『TSUBURAYA IMAGINATION』でも同日に配信開始となる。 

同作がどのような展開になるかは全くの未知数だが、その更なる未来、異なる時空においても、きっとトリガー=ケンゴは変わらぬ姿を見せてくれることだろう。


この先も広がっていくであろうウルトラの歴史。『トリガー』が引いた引き金は、そんな歴史に何を導き、どんな未来を築くことになるのか。その行く先、そしてケンゴたちの「夢見る未来」への歩みを、これからも笑顔と共に見届けていきたい。


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