総括感想『ウルトラマンデッカー』 令和の世を映す “新たなる光” は「NEW GENERATION DYNA」となり得たのか

2023年1月21日。ウルトラシリーズの最新TV作品『ウルトラマンデッカー』が最終回を迎えた。



前作『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』の続編にして、2022年に25周年を迎えた人気作『ウルトラマンダイナ』の系譜を継ぐ作品でもある……というてんこもり属性が話題となり、同時に不安視もされていた本作。 

しかし、いざ蓋を開けてみると、本作は「これまで以上に完成された周到なシリーズ構成・脚本」をはじめとする数多くの魅力や、前作『トリガー』以上にストレートな「現代を生きる人々へのメッセージ」……など、これまでのシリーズが積み重ねてきたものを活かしつつ、圧倒的な情報量を無駄なく一つの流れに練り上げた「ニュージェネレーションシリーズの総決算」とでも呼べるものに仕上がっていた。 

今回の記事では、そんな『デッカー』という作品について様々な面から徹底研究。閉塞した令和の世に現れたダイナミックな光の巨人は一体何を描き、何を築いていったのか、玩具周りの事情や筆者自身の感想も交えつつ、怒濤の半年間を振り返ってみたい。

 

※以下、作品に肯定的な内容/批判的な内容や、『ウルトラマンR/B』など関連作のネタバレが含まれます。ご注意を!※

 

《目次》


 

イントロダクション~『デッカー』前夜

 

ウルトラマンデッカー』は2022年に放送開始したウルトラマンシリーズのTV作品で、前作『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』の続編、そして『ウルトラマンダイナ』25周年を記念したアニバーサリー作品でもある。 

「『ウルトラマンティガ』の続編かもしれない」という衝撃的なイントロダクションや「坂本浩一監督が『ジード』ぶりにメイン監督を担当」「特撮初挑戦となるライター、ハヤシナオキ氏がシリーズ構成を務める」などが大きな話題を呼んでいた『トリガー』初報に比べると、幾分落ち着いていたように思う『デッカー』初報。それは、前作『トリガー』が賛否両論の激しい内容だった=『デッカー』への期待値がそもそも高くなかったということもあるだろうけれど、それ以上に大きかったのは「発表された内容の “堅実さ” 」ではないだろうか。

 


メイン監督に抜擢されたのは、2016年の『ウルトラマンオーブ』でデビューを果たして以降、シリーズ全作品に監督として参加してきた期待の星=武居正能氏。そして、シリーズ構成を務めるのは『ウルトラマンZ』第12話『叫ぶ命』や『ウルトラマントリガー エピソードZ』などで武居監督とタッグを組んでいた、同じくニュージェネ常連の脚本家=根元歳三氏。 

武居監督といえば、2016年の『ウルトラマンオーブ』で監督デビュー、2018年の『ウルトラマンR/B』ではメイン監督を務められた実力派。そんな『R/B』は田口清隆監督の『オーブ』→坂本監督の『ジード』の流れを受けて製作された作品で、何の因果か今回の『デッカー』も、田口監督の『Z』→坂本監督の『トリガー』の流れを受けて……という、全く同じ流れで製作された作品ということになる。 

(全方位に隙のない田口監督→田口監督を越えられるのは坂本監督だけ→良くも悪くも派手な作風の坂本監督の後には、武居監督が得意とする「人間ドラマ」が求められる、という推察に基づく意図的なセッティングだろうか)

 

一方、そんな武居監督とタッグを組む根元歳三氏は、TVアニメ『マクロスΔ』のシリーズ構成を務められるなどアニメ・ゲーム畑で活躍する脚本家で、ウルトラシリーズのデビューは『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』への脚本協力。その後も『ジード』『劇場版ジード』『R/B』『Z』『トリガー』と着々と経験を積んでおり、『デッカー』でシリーズ構成に抜擢されたのはまさに「順当」なタイミングと言えるだろう。

 

こうして見ると、良く言えば「堅実」な人選である本作の監督・脚本だったが、それは裏を返せば「田口監督×吹原幸太氏」「坂本監督×ハヤシナオキ氏」といった近年のタッグに比べてインパクトで劣ってしまうということでもある。 

ストーリーにおいては「『オーブ』以来初のヴィラン不在」や『ダイナ』における宿敵=スフィアにより、地球が宇宙との交信を絶たれた「孤島の惑星」となってしまう……といったこれまでにない展開が示唆されていたものの、放送2ヶ月前にかの『シン・ウルトラマン』が控えていたことや、そもそもの「『ダイナ』をオマージュした作品」というアイデンティティーが当然『トリガー』と酷似したものであることなどから決定的なパンチとはなり得なかったようで、結果的に、初報時の本作は従来の作品に比べ話題に上ることが少なく「些か地味なスタート」という印象が拭えなかった。

 

 

ただでさえ、前2作が「未だにファン界隈で尾を引く若きレジェンド作品」=『ウルトラマンZ』、そして「賛否両論あるものの高い話題性と『Z』以上の玩具売上を叩き出した作品」=『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』であることに加え、スタート時からうっすらと暗雲が立ち込めてさえいた『ウルトラマンデッカー』。 

では、実際に完結を迎えた本作は果たしてどのような作品となっていたのだろうか。 

① 特撮 (映像)

② 玩具

③ 文芸   

これら3つのトピックに焦点を当てて、その軌跡を振り返ってみたい。

 

 

デッカーの「特撮 (映像) 」

 

〈武居監督への期待と不安〉

「3つのトピック」のうち、筆者が最も懸念していたのがこの「特撮 (映像) 」面。というのも、本作のメイン監督=武居正能監督は「調子が良い時」と「調子が悪い時」で特撮のクオリティに大きなムラがあることで知られる監督だからだ。

 

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詳しくは上記の記事にまとめてあるが、武居監督は「人間ドラマの魅せ方」においては時に田口監督をも凌ぐ手腕を見せるものの、一方で「特撮」の画作りにおいて非常にムラの目立つ監督でもある。 

「オーブ」第18話『ハードボイルド・リバー』や「ジード」第23話『ストルムの光』のようにハッとさせてくれる演出も多いものの、総じて「メリハリのあるアクション」を苦手とされている節がある武居監督。このことは氏がメインを務められた『R/B』で特に色濃く表れており、TV最終回におけるルーゴサイトとの最終決戦や『劇場版 ウルトラマンR/B セレクト! 絆のクリスタル』におけるジードの戦いぶりに顕著な独特の「もっさり」感は、ウルトラマンたちの巨大感に貢献するよりも、むしろ彼らの戦いから迫力、ないし緊張感を大きく剥ぎ取ってしまっていた。 

このことには監督自身も自覚的だったのか、氏の手掛けるアクション演出は『タイガ』~『トリガー』で大きくブラッシュアップ。中でも『トリガー』第6話『一時間の悪魔』では「イグニスとGUTS-SELECTによるサタンデロス爆破」や「マルチソード装備のスカイタイプとヒュドラムによる高速戦闘」などが迫力満点に描かれていたばかりか、トリガーがランバルト光弾でヒュドラムを撃退するシーンはまさかのオープンセット大爆発! そんな坂本監督ばりの一大アクション編ぶりは、まさに「武居監督が弱点を完璧に克服し、ドラマも特撮もお任せのスーパー監督となった」ことへの祝砲のようでもあった……が、そんな『トリガー』の完結編『ウルトラマントリガー エピソードZ』においては、どういう訳かそのアクションが従来の「もっさりした」ものに逆戻り。 

結果「武居監督は弱点を克服できているのかできていないのか」どちらとも言えない……という、極めて雲行きの怪しい状況に陥ってしまっていた。

 

 

さて、そんな状況からの『デッカー』である。 

前述の通り、本作の前番組=『トリガー』はヒーローアクションの申し子こと坂本浩一監督による逸品で、更には『デッカー』放送直前の5月には『シン・ウルトラマン』の公開という一大イベントまである始末。 

もし『デッカー』の武居監督が「調子の良くない」武居監督だった場合、『トリガー』からの継続視聴者や、『シン・ウルトラマン』でシリーズに興味を持った方を振り落としかねないという、まさに「武居監督が “どちら” なのかにシリーズの未来が委ねられている」と言っても過言ではなかったのである。 

そして、その結果はというと――。

 

引用:『ウルトラマンデッカー』第1話 特別配信「襲来の日」 -公式配信-  - YouTube

 

調子が……良い……ッ!! 

スフィアソルジャーVSナースデッセイ号・ガッツファルコンや、スフィアザウルスVSデッカーの格闘戦なども魅力的だったが、やはり何より目を引いたのは上記の「初変身したデッカーがスフィアと空中戦→シームレスにオープンセットでの地上戦に移行する」シーンの見事な特撮! 

スピード感溢れる空中戦と重厚感のある地上戦という「メリハリ」の付け方が完璧なら、それらをシームレスに繋ぐ驚異的な画作りも拍手喝采もの。「もう特撮で劣るなどと言わせない」という武居監督の熱意が伝わってくるような熱い画を叩き付けられて、心配と不安に囚われていた自分としては平謝りしつつ満面の笑みを浮かべるしかなかった。

 

とはいえ、セルジェンド光線のような「キメ」シーンはどうしても『Z』や『トリガー』初回に比べ「地味」に映ってしまい (贅沢な悩みと分かってはいても) 少し残念に感じてしまったのが正直なところ……というこちらの本音を嗅ぎ取ったかのように叩き込まれたのが第3話『出動! GUTS-SELECT』。  

新生GUTS-SELECTの初陣、そして初の「デッカー版スフィア合成獣」ことスフィアゴモラの大暴れが描かれる本エピソードだが、それら以上に目を見張ったのは、今回が初登場となった「赤いウルトラマン」ことストロングタイプの演出。 

ウルトラマンガイアのような豪快な着地や、レスラーというより「剣闘士」らしいデザイン通りの鋭く重い格闘戦をオープンセットで演出……といった演出は勿論、何より「キマっていた」のがそのフィニッシュシーン=ドルネイドブレイカーでスフィアゴモラを打ち上げ、その爆発を逆光のように背で受けるストロングタイプの姿! 

その迸るケレン味とカッコよさは、第1~2話で抱いた物足りなさを吹き飛ばして余りあるもの。第1話の凝った演出と、この第3話におけるフィニッシュ。主にこの2つが、自分が「デッカーの武居監督は大丈夫だ」と心から安心できた理由になっていた。 

(事実、本作の武居監督は後の、第14話『魔神誕生』では「カナタ視点で映される先代デッカーの戦い」のような凝った映像、続く第15話『明日への約束』では、田口監督顔負けの美しさを誇るダイナミックタイプ登場シーンを撮ってみせるなど、作品を通して印象的な画を次々に輩出。メイン監督として見事な活躍を見せてくださっていた)

 

 

〈辻本・越両監督の更なる進化〉

上記のように熱量の高い演出を見せ、本作の「特撮 (映像) 」面に安心感を持たせてくれた武居監督。しかし、こと『デッカー』においてそんな武居監督以上の「進化」を見せてくれた監督が2人。辻本貴則(「辻」のしんにょうは点一つ)監督、そして越知靖監督だ。

 

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このお二方については上記の『トリガー』記事で詳細に語っているため細かい点は割愛するが、辻本・越両監督は共にニュージェネ作品に途中参加  (辻本監督は『X』、越監督は『タイガ』からの参加) され、以降シリーズを支えつつメキメキと頭角を現していった新進気鋭の監督陣。『Z』『トリガー』で大きな進化を見せ付けてくれたこのお二方は、なんとこの『デッカー』において、これまでとは異なる方向性での大きな「進化」ぶりを見せてくれた。

 

 

『最後の勇者』(ウルトラマンZ 第19話) におけるウルトラマンエースの名客演ぶりや、『タッコングは謎だ』(ウルトラマンタイガ 第22話) や『ラストゲーム(ウルトラマントリガー 第22話) に代表されるアニメチックでケレン味溢れる演出から、ポスト坂本監督と評価する声も多い辻本監督。そんな辻本監督がデッカーで担当されたのは第4~6話、第22話、第23話の5本。 

『ダイナ』の人気怪獣モンスアーガーの復活回として申し分ない名エピソードだった第4話『破壊獣覚醒』は勿論、地下の広大な空間を舞台に描かれる地底怪獣軍団との激戦や「地上にグドンをワープさせ、空中で仕留める」ミラクルタイプなど、これまでの辻本監督の集大成とも言える画が頻発した第6話『地底怪獣現わる!現わる!』などは特に大きな反響を呼んでいたが、個人的に辻本監督の「ターニングポイント」だと感じた必見のエピソードが第23話『絶望の空』。

このエピソードの辻本特撮といえば、やはり「スフィアゴモラ、スフィアレッドキング、スフィアネオメガスらに叩きのめされ続けるダイナミックタイプ」という壮絶極まるシチュエーション。 

3体の怪獣にまるでボールのように吹き飛ばされ、打ち上げられ、叩き落とされては踏みつけられ……という、さながらリンチのように壮絶で痛々しい(ある種斬新な)窮地はスフィアの無機的な狂気を視聴者に理解させるに十分以上の演出であったし、それ以上に「再生怪獣軍団」という緊張感の出辛いシチュエーションを文字通りの「絶望的」なものへと見事昇華させた名演出だった……が、しかし本エピソードにおいてこの展開以上の白眉と呼べるのが、主人公=アスミ カナタ (演.松本大輝) と、本作後半のヴィラン枠であるバズド星人アガムス (演.小柳友) の対話シーンだ。

 

 

カナタ/デッカーとの激闘によって、スフィアに妻=バズド星人レリア (演.藤山由依) の命が奪われて以降の記憶を失ったアガムス。優しく、真っ直ぐなかつての姿を取り戻したアガムスを前に、彼を救いたい一心のカナタがその心を開くべく対話を試みる……というこのシーン、なんと約5分間一切BGMが流れず、カナタとアガムスの会話だけが映されるにも関わらず、カナタの張り詰めた心情がこちらにも伝播するかのような緊張感溢れるシーンとなっている。 

この無音演出は、ニコニコ動画で行われた公式上映会に参加した辻本監督によると「芝居の気迫が凄かったので敢えてBGMを入れなかった (入れる予定だったがプランを変更した) 」結果生まれたもの、つまりは松本・小柳両氏の情熱と辻本監督の采配によって生まれた「予定になかった」演出なのだという。 

明滅するライトや動き続けるファンの音がまるでカナタの心臓の鼓動のように聞こえたり、鏡面反射によって向き合っているカナタとアガムスの表情が一つの画に収まっていたり (下記ツイート参照) 、飛行機の音にアガムスが故郷に残してきた (と思っている) レリアへ想いを馳せたり……と、無音であることでより一層両者の心情や細かな所作が際立っており、登場人物たちの心が織り成すドラマが肝である『デッカー』を象徴する名シーンとなっていたように思う。

 

リアルタイムで視聴しているその時からこのシーンには驚きを隠せなかったけれど、その理由の一つは「このシーンを撮っているのが辻本監督である」ことそのもの。 

というのも、前述の通り辻本監督はそのケレン味のある「特撮」演出を得意とする監督だが、その一方で「人間ドラマの演出」を不得手とする面も見受けられていた。 

(ウルトラマンX 第6話『星の記憶を持つ男』第7話『星を越えた誓い』や、ウルトラマンタイガ 第11話『星の魔法が消えた午後』第12話『それでも宇宙は夢を見る』などが顕著だろう)

 

そんな辻本監督が、こうしてキャストの演技を引き出し、それを更に引き立てる見事な演出を導くに至ったこと……。「トリガー」第22話『ラストゲーム』におけるイグニスの問いかけや遺跡に向かうケンゴ・アキトの会話シーンにもその片鱗が表れていたことを踏まえれば、きっと監督がこのシーンを撮ってみせたのは偶然ではなく確かな「実力」によるもの。 

武居監督が見事な特撮を見せてくれたように、見事なドラマを見せてくれた辻本監督。予てから成長著しいお二方がこうして双方共に「弱点を克服」してみせたことは、坂本・田口両監督が重用される昨今の潮流にメスを入れ、この2人が文字通りの「ポスト坂本浩一/田口清隆」へと辿り着く為の大きな足掛かりになったのではないだろうか。

 

 

一方、そんなニュージェネ新時代の看板候補である武居・辻本両監督に食らい付かんと大躍進を見せたのが、前述の通り『タイガ』からの監督デビューというフレッシュな経歴を持つ越監督。 

越監督は、撮影本数こそ第10~12話の3本のみと他の監督より少ないものの、それら各エピソードのインパクトはこれまで以上のもの。それは、件の3編がいずれも重要なエピソードだった……というのは勿論だけれど、やはり特筆すべきは斬新で印象的な越監督流演出の数々だろう。

 

 

第10話『人と怪獣』放送当時から大きな反響を呼んでいたのが上記、自分の意思でカイザキ副隊長 (演.宮澤佐江) を手に乗せているデッカーと、シゲナガ博士 (演.野村真美) に操られて彼女を手に乗せるネオメガス……というこのカット。監督自身が仰られているように「怪獣の手の上に人が乗っている」というシチュエーションは非常に珍しいだけでなく、2人のドラマをより明確かつ印象的な画として落とし込んでいる。謂わば「特撮によるドラマのアップグレード」だ。 

更に、続く第11話『機神出撃』においてはなんと等身大のデッカーが登場。差し出されたリュウモン ソウマ (演.大地伸永) の手を取り、キリノ イチカ (演.村山優香) と3人の背中合わせでライバッサー相手に共闘するという粋な展開を見せてくれた。

 

 

このエピソードは、テラフェイザーの初登場が目玉の所謂「イベント編」であるけれど、『デッカー』という作品においては「リュウモンとイチカがデッカーを自分達と同じ、心持つ仲間だと意識する」というのが大きなイベントでもあり、ともすればテラフェイザーインパクトに持っていかれかねないところを (しっかりテラフェイザーの演出にも力を入れつつ) 、このような熱い演出でしっかり印象付けてくれたのはまさにプロの手腕だったと言えるだろう。

 

越監督は武居監督や辻本監督に比べ監督本数が少なく、そのため (特にドラマ部分には) 不馴れさが散見されることもあるけれど、この『デッカー』においては、アニメ作品からインスピレーションを得ていると思われるド派手な演出 (本作ではテラフェイザーの初戦闘にアニメ『機動戦士ガンダム00』の要素が多く見られていたように思う) はそのままに、自身の得意とする「特撮」でドラマの説得力を底上げするという手法で見事そのハンデを覆してみせた。 

まさに日進月歩なこの進化ぶりを見れば、デビュー間もない同氏が前半のクライマックスという重要な山場を任されたことにも頷けてしまうし、武居・辻本監督がポスト田口・坂本監督になっていくのなら、越監督には2人をサポートしつつ、いつかその2人の跡を継ぐトップエースとして更なる高みへ到達していってほしいところ。   

そして、本作『デッカー』が終始非常に高いクオリティを保つことができたのは、やはりそんなお三方=越監督、辻本監督、そして武居監督の奮戦があったからこそ。本作『デッカー』をバネに、次回作以降でも更なる活躍を見せてくれることを願わずにはいられない。 

(できることなら、辻本監督が次の新作でメインを務めてくれますように……!)

 


デッカーの「玩具展開」

 

〈高すぎるハードルと、2つの柱〉

 その人気から高い玩具売上を達成した『Z』。全怪獣のソフビ化を掲げ、ソフビ+ガッツハイパーキーの精力的なマーケティングで更なる売上を叩き出した『トリガー』……。しかし「この辺で一旦休もう」とならないのが商売というもの。そんな『トリガー』以上の売上を目指すものとして、『デッカー』が取った戦略の柱は2つ。 

①『トリガー』同様、登場怪獣を(ほぼ)全てソフビ人形としてリリース 

②新主力商材「ウルトラディメンションカード」 

これら2つの戦略がどのように展開され、どのような影響をもたらしていったのか、順を追って見ていきたい。

 


〈ソフビ人形と、物価高騰の壁〉

『デッカー』におけるソフビ人形のリリースは、些か奇妙な形で行われていた。というのも『トリガー』同様に (ほぼ) 全登場怪獣がリリースされているのに、その発売総数がトリガー期より大幅に減っているのである。 

(番組と連動して発売されたウルトラ怪獣シリーズの数は、『トリガー』が23、『デッカー』が18。ちなみに、ソフビ化されなかった怪獣はネオメガス、ノイズラー、ヤプールの3つで、『トリガー』期であればノイズラーとヤプールはソフビ化されていたかもしれない)

 

その原因として考えられるのは大まかに2点。1つは、2022年5月に公開された映画『シン・ウルトラマン』の存在だ。

『シン・ウルトラマン』の展開に併せて、バンダイからは「ムービーモンスターシリーズ」名義でソフビ人形が多数リリースされた。その数は (一般店頭販売商品だけで) 10を越えており、「これらの商品展開のためにリソースが割かれた」という線は十分に考えられるだろう。 

しかし、その販売スケジュールに目を向けてみると、必ずしも「そうとは限らない」ように思えてくる。

 

 

重要なのは、『シン・ウルトラマン』シリーズのソフビ人形 (ムービーモンスターシリーズ) の販売タイミング。 

同シリーズは大まかに3回のタイミングで一斉にリリースされており、そのうちデッカーとの関連が疑われるのは『シン・ウルトラマン』のネタバレが解禁され、ザラブやゾーフィが発売された「2022年6月」と、Amazon prime videoでの配信開始に伴う追加商品としてウルトラマンのバリエーションやメフィラスが発売された「2022年12月」の2回。しかし、これらのタイミングはそれぞれ 

・2022年6月=『デッカー』放送前 

・2022年12月=チャンドラーやマザースフィアザウルスなど『デッカー』側の商品も通常通りリリースされていた 

といった状況のため、それらは直接的に『デッカー』の商品とリソースを取り合っていた訳ではなく、『シン・ウルトラマン』枠として独自のリソースを使っていたのでは……とも思えてくる。


そうなると、『デッカー』の商品展開に深刻な影響をもたらしていたのはむしろ「もう一つの理由」なのでは、と思えてくる。それは、下記に挙げられる「価格改訂」問題だ。

 

 

円安や物資不足、人件費の高騰など、昨今の情勢はソフビ人形の生産に対して追い討ち続き。その結果、2022年10月1日 (スフィアネオメガスの発売日) より、ソフビ人形=ウルトラヒーローシリーズ / ウルトラ怪獣シリーズの販売価格が税込660円から税込770円へと上昇しており、おそらく『デッカー』の商品リリースはそのことを見越して行われていたと思われる。というのも、『デッカー』と『トリガー』のソフビリリース数で大きく差が生まれているのが問題の時期=番組後半なのである。 

この時期を実際に比較すると、下記のようになる。

 

・2021年10月~12月に発売した『トリガー』怪獣ソフビ=アブソリュートタルタロス、デアボリック、アブソリュートディアボロ、ナース(円盤)、メツオーガ、メツオロチ、バリガイラー、アボラス、バニラ、メカムサシン、メガロゾーア(第1形態)、メガロゾーア(第2形態) 

・2022年10~12月に発売した『デッカー』怪獣ソフビ=スフィアネオメガス、パンドン、スフィアジオモス、チャンドラー、マザースフィアザウルス

 

このように、その差はまさに歴然。トリガー同様に登場怪獣を (ほぼ) 全て商品化する、という目的を掲げた『デッカー』は、件の価格高騰の件を踏まえつつ、無理なく目標を達成するために「高騰前の放送前期にソフビを精力的にリリースする」というプランを組んだのかもしれない。 

しかし、価格高騰を踏まえてこのような対応策を取ったとしても、それでそのまま売上数が下がってしまったら商売あがったりになってしまうため、必然『デッカー』には件の物価高騰に対応しつつ、ソフビ人形の穴を埋める為の強力かつコストパフォーマンスに優れた商材が求められることになる。そこで登場するのが、本作の主力商材=「ウルトラディメンションカード」である。

 

 

〈ディメンションカードの活躍〉

前々作『Z』そして前作『トリガー』の好調なセールスには、ソフビ人形だけではなく、同時に展開されるコレクターズアイテム=ウルトラメダル、ガッツハイパーキーの好調も大きく影響していた。 

必然、それらを越える売上を求められる『デッカー』だけれども、ガッツハイパーキーのような開発コストの高い商品は2年続けて展開できない上、前述のように「物価高騰」の波が押し寄せる状況下。そんな背景に鑑みても、ここで「カード型アイテム」というエースが切られたのは納得の選択と言えるだろう。

 

 

ウルトラシリーズにおけるカード型アイテムといえば、記憶に新しいのが『X』のサイバーカードと『オーブ』のウルトラフュージョンカード。特に後者はデータカードダスウルトラマン フュージョンファイト!』と共にスタート・相互連動する大型企画で、今尚新商品が増えている程の大人気アイテムだ。 

そんな「フュージョンカード」人気を形作ったのは、『オーブ』作中での印象的な描写や、連動玩具=オーブリングの「カードに内蔵されたタグによって、リングにかざすだけでスキャンできる」という画期的かつ軽快な遊び心地の新システム……は勿論、単体スキャンだけでなく「特定のウルトラマン同士をスキャンするとフュージョン音声が発動する」という機能があったことが大きな要因だろう。 

単体で読み込ませるだけでも変身音声や掛け声が楽しめるが、それだけでなく「様々なカードを集めれば集めるほど、発動できる組み合わせが増えていく」というのは子ども・大人問わず好奇心をそそられるものがあり、カードを集める為に『フュージョンファイト!』をプレイしたり、集めたカードをスキャンする中で「未発表のフュージョンアップ形態」を発見してしまう……など、このフュージョンカードを中心にした遊び方・プレイバリューはまさに圧倒的。「カード型アイテムは売れる」という点に甘えることなく、これまでにない独自の面白さを追及する……という高い志が見事花開いた好例だ。

 

 

このように、そのプレイバリューから高い人気を獲得してみせたウルトラフュージョンカード……から6年。満を持して復活したカード型アイテムである「ウルトラディメンションカード」は、そんなオーブリングや前作『トリガー』のヒットアイテム=ガッツハイパーキーとはまた異なる新しい楽しみ方を追及した名アイテムとなっていた。

 

 

率直に言うなら、「プレイバリュー」という点において序盤のディメンションカードは「フュージョンカード」に大きく見劣りしていた。 

デッカーの変身アイテム=ウルトラディーフラッシャーは巨大なクリスタルの多色発光・自動開閉という派手なギミックや、変身アイテムとしてはシリーズ随一のボリューム・重厚感が魅力的な反面、カードのギミックは「カードをセットする」単体遊びのみと非常にシンプル。これまではヴィランの仕事だった「怪獣アイテムによる召喚」をカナタが担当するなどの工夫こそ見られたが、カード型アイテムの活かし方 (売り方) としては些か訴求力が弱く感じられてしまっていたように思う。 

しかし、バンダイにとってそんなことは百も承知。なんと「カードを活かす」真打アイテムはこの後にその出番を控えていたのである。その名は「ウルトラデュアルソード」! 

ポジション上は、従来のオーブスラッガーランスやジードクロー等と同じ「初動が落ち着いたタイミングで投入される追加武器」だが、これらの玩具は「新形態の登場に伴い途中からフェードアウトする」という都合上どうしても見せ場が少なくなりがちで、得てして人気商品になり辛いというジレンマを抱えていた。 

(『Z』のゼットランスアローもこのジンクスから抜け出せなかったようで、ちらほら売れ残っている姿を見かけていた。販促期間の異様な短さを考えると無理もない話で、この点はバンダイのスケジュール管理に根本的な問題があるように思う)

 

ところが、そんなウルトラ武器玩具において異例のセールスを記録したのが『トリガー』のサークルアームズだ。

トリガーのメインウェポンであるサークルアームズは、上記の武器らよりも早い第3話 (スカイタイプ登場回) 時点で発売。ガッツハイパーキーとの完全連動に加え、組み換えなしでの三連変形というインパクト+スタイリッシュなデザインという魅力満載の仕様から異例の大ヒット、今では通販サイトでプレミア化しているという異例の人気商品となった……にも関わらず、グリッタートリガーエタニティの登場と入れ替わるように出番が減少してしまうという勿体ない (セールスチャンスを逃す) 結果となっていた。 

となれば、その後を継ぐデュアルソードに課せられた至上命題は「最後まで活躍し、サークルアームズ以上の大ヒットを飛ばす」こと、そしてあわよくば「変身アイテムと並ぶもう一つの “主力” になる」という2点。この難題を突破するために、ウルトラデュアルソードはこれまでの武器玩具とはおよそ比にならないほど力の入った開発・販売・演出が行われていた。

 

・サークルアームズと同じ「ガッツハイパーキーとの完全連動」を実装 

・「基本3タイプの活躍をしっかり見せた上で登場」することで、双方の見せ場を維持+販促タイミングを被らせない 

・『トリガー』で好評を博した「ガッツスパークレンスで変身するゼット」の流れを汲み「第7・8話ではトリガー、第9話以降はデッカー」が武器として使用する 

・ダイナミックタイプ登場後もメイン武器として採用され続けるだけでなく「デッカーシールドカリバーとの併用」によって双方共に活躍を見せる

 

……と、これだけでもこれまでの武器たちとは一線を画する優遇ぶりなのだけれども、それに加えて「トリガーが使う際は彼らしいスマートなデザインのトリガーモードになる」「金色の剣のため、むしろダイナミックタイプと親和性があるデザイン」と、その優遇が「悪目立ち」しないような配慮まで行われている徹底ぶりのデュアルソード。 

しかし、このアイテムの真髄はディーフラッシャーと似て非なる「ディメンションカードとの連動」機能にこそあった。

 

 

デュアルソードの真の機能とは「カードをスラッシュして必殺技を発動する」こと。 

この時点で「スキャン方法が違う」「スキャンによる音声が全く異なる」と、ディーフラッシャーと完全に差別化されている点が玩具として非常に優秀なのだけれど、それ以上のポイントと言えるのが「特定のウルトラマンを連続リードした場合、その組み合わせによって特別な必殺技=ウルトラコンボが発動する」というもの。 

前述の『オーブ』のように「組み合わせに対応した形態」を作る必要がないためか、その数は非常に多彩かつ自由。実際に、『デッカー』作中でも

 

・デッカー フラッシュタイプ/トリガー マルチタイプ 

・ウインダム/ミクラス/アギラ 

・デッカー ミラクルタイプ/トリガー スカイタイプ 

・デッカー フラッシュ/ストロング/ミラクルタイプ 

・ティガ マルチタイプ/ダイナ フラッシュタイプ

 

といった数多くのウルトラコンボが披露され、更に上記の動画でも「ウルトラマンゼット×ゼロ」でのコンボが存在することが明言されている。 

このウルトラコンボに一体どれだけのバリエーションがあるのか、有志による研究が進んでいるがその数はこれまでのウルトラシリーズ玩具の比ではなく、食玩データカードダス限定のカードなども加えるとそのパターンはまさに無限大。ウルトラファンであるほど好奇心をそそられ、たくさんのカードを集めるほどに楽しめる、プレイバリューの塊にして「ニュージェネ玩具の集大成」と言える傑作玩具ではないだろうか。

 

 

また、このデュアルソードが番組終盤まで活躍したことに伴い、『デッカー』ではディメンションカードが終盤までコンスタントに発売されたのも大きな特徴。 

前述の通り、10月から値上げされたことに伴い、前年に比べリリース数を大きく減らしたソフビ人形シリーズ。ディメンションカードはその穴を埋めるかのように精力的に展開され、昨年のコレクターズアイテム=ガッツハイパーキーの一般店頭販売が5種に留まったのに対し、ディメンションカードセットは「ゼット&ゼロ」「ミラクル」「トリガー」「ダイナミック」「ウルトラ6兄弟」「グリッタートリガーエタニティ」「ダイナ」「ティガ」と8セットもの数がリリース。 

中でも、グリッタートリガーエタニティセットはソフビ人形の新発売がなかった11月にリリースされ、実質的に「ソフビ人形が発売できない分の補填」としても機能。カードセットは (単価の安さもあってか) 10月以降もパッケージが紙製になっただけで値上がりせずに済んでおり、ソフビ人形の値上げという苦境に立ち向かう切り札として大いに活躍していた……と、総じて、ディメンションカードは様々な面で本作『デッカー』に貢献・活躍しており、その重責に見合う活躍を見せた「優秀なコレクターズアイテム」と言って差し支えないのではないだろうか。

 


〈 “玩具宣伝番組” からの卒業〉

ソフビ人形とディメンションカードを中心に『デッカー』の玩具を振り返ってきたが、最後にもう一つ、本作の玩具展開における大きなポイントについて触れておきたい。それは、『デッカー』がこれまでのニュージェネレーションシリーズに比べ (良い意味で)「玩具の存在感が薄い」作品だったことだ。

 

 

『ギンガ』以降のウルトラシリーズは、時勢の変化や円谷プロの経営上の問題から、これまでの作品よりも「玩具を売る」ことが主目的として明確に打ち出された=「玩具の存在感」が非常に大きい作品群となっており「玩具宣伝番組」「玩具のCM」と揶揄されることも少なくなかった。 

確かに『ギンガ』~『X』では、主力商材であるスパークドールズが「アイテム」としてだけでなく「キャラクター」として物語に関わる、という大胆なアプローチが行われていたが、『オーブ』~『Z』において、カードやメダルといったアイテムは「キャラクター」からは一歩引いた立ち位置=物語の鍵を握るファクター止まりとなり、前年の『トリガー』では、ガッツハイパーキーは印象的に使われこそすれ、物語に直接関わることはなくなり……と、このように見ていくと、ニュージェネレーションシリーズは本数を重ねるにつれて「玩具のプッシュ」が弱くなっていったように思える。 

その理由はいくつか考えられるけれど、中でも大きいのは「従来ほど玩具をプッシュする必要がなくなった」=ウルトラシリーズの人気・売上がそれだけ安定したこと、そして「製作陣が、今の時代に合った “玩具の見せ方” を掴んだ」ことではないだろうか。 

(『トリガー』については、『ティガ』期の作風を意識して玩具のプッシュを控えめにしたという線も考えられるか)

 

 

話を戻すと、「今の時代に合った “玩具の見せ方” 」によって、『トリガー』から更に玩具がその影を薄くしていた=「馴染んでいた」のが『デッカー』であった。 

本作の主たる玩具の具体的な扱われ方を振り返ってみると、それぞれ下記のようになる。

 

・ウルトラディメンションカード
 =ディーフラッシャー共々、徹底して「変身アイテム」としてのみ扱われる反面、タイプチェンジを通して『デッカー』の謎を匂わせる→第14・15話で一転、キーアイテムとなる。
(唯一の例外がスフィアカードだが、主に関わるのが『トリガー』組のためか『デッカー』の空気感を阻害していない) 

・ウルトラデュアルソード
 =ディメンションカード同様、話の本筋に関わることがないが、トリガー+デッカーの兼用アイテムというアイデンティティーやウルトラコンボに加え、最後までメインウェポンとして使われていったことで存在感を発揮。
(第9話や第12話など、ウルトラコンボのアクションが物語のテンポを阻害する場面もちらほら見られていたが……) 

・デッカーシールドカリバー
 =デュアルソード同様、話の本筋には関わらない。デュアルソードとの併用が容易なことから、ダイナミックタイプの戦闘では全て登場して印象を残す。 

・ガッツホーク (ガッツグリフォン)
 =第3話『出動!GUTS-SELECT』や第4話『破壊獣覚醒』では主役級と呼べる扱いを受けており、以降も、ストロングタイプのデッカーと合体 (?) する第10話『人と怪獣』などで度々印象的な活躍を見せる。 

・テラフェイザー/フェイズライザー
 =第11話からの出番と、これまでの「ヴィラン枠」としては出番が少なく、最初は味方として活躍することで印象を残す。フェイズライザーも、あくまでテラフェイザーの召喚/コントロール用アイテムとしてのみ描かれていた。

 

このように、所謂「過剰なプッシュ」をされていたのは (前述の通り、本作の本命アイテム=強めにプッシュされるのは避けられない) ウルトラデュアルソード程度で、そのデュアルソードもあくまで物語には関わらない「武器」として割り切って描かれていた。 

他のアイテムに至っては、いずれも「でしゃばりすぎない」×「節々でしっかり印象を残す」という2つを両立させた絶妙な塩梅で描写されており、その甲斐あっていずれのアイテムも『デッカー』という作品を壊すことなく巧く馴染んでいたように思える。 

これらの「玩具の馴染ませ方」は、前作『トリガー』以上=ニュージェネレーションシリーズではおそらく最も自然で違和感のないもの。このことが『デッカー』の硬派で丁寧な作風を後押ししていたことは自分のような素人が見ても明らかで、前述したディメンションカード等の扱いと合わせて「本作のクオリティに大きく貢献した評価点」と言えるのではないだろうか。

 

デッカーの「文芸 (脚本・シリーズ構成) 」

〈シリーズ構成・根元歳三氏という “未知数” 〉

ここまで、武居監督を中心とした監督陣の活躍や、ディメンションカードなどの玩具とその演出……といった点から『デッカー』の魅力を考察してきたが、ここからは言うところの本題=本作の「文芸面」について振り返っていきたい。

 

 

本作のシリーズ構成・主要脚本を担当されるのは前述のようにニュージェネ常連の脚本家=根元歳三 (厳密には、シリーズ構成は足木淳一郎氏とのタッグ) 。前述の通り、同氏は『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』への脚本協力に始まり『ジード』『R/B』『Z』『トリガー』へ参加、満を持して『デッカー』でシリーズ構成に抜擢された……のだけれど、その一報は正直なところ期待半分・不安半分だった。 

というのも、根元氏も武居監督同様「調子の良い時・悪い時で非常にムラが大きい」お方。そのことは、同氏が手掛けたエピソードを挙げてみれば一目瞭然だ。

 

・『シャドーの影』『戦いの子』(ウルトラマンジード 第14・15話) 

・『あめ玉とおまんじゅう』(ウルトラマンR/B 第21話) 

・『最後の勇者』(ウルトラマンZ 第19話)

 

ほ、本当に同じ方ですか……? と困惑してしまうようなラインナップ。更に、ある種その象徴と言えるのが『ウルトラマントリガー エピソードZ』。 

『トリガー』の画竜点睛とでも呼ぶべきストーリーやイーヴィルトリガー周りの描写など「傑作」と呼べる点も多いが、同時に「ウルトラマンZ関連に致命的な粗を (複数) 抱えてもいる」という極めて一長一短な内容は、まるでこれまでの根元氏の脚本を煮詰めたかのような何とも不可思議な出来映え。直前の作品がこうなってしまうと、『デッカー』に安心して期待できるはずもなく……。 

と、このようにシリーズ構成・根元氏の手腕を信頼して良いのか悪いのか判断がつかない状況で始まってしまった『デッカー』。経緯が経緯なので毎回のように「どうか面白くあってくれ……!」と祈りながら見ていくことになってしまったのだけれど、実際に始まってみると、そのシリーズ構成は自分が懸念しているようなものではなかったどころか、過去のシリーズを見渡してもトップクラスの「計算され尽くした」……もっと言うなら、ある種「革命的」とさえ言えそうな斬新なシリーズ構成に仕上がっていた。

 

Wake up Decker!

Wake up Decker!

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〈革命的な “シリーズ構成” 〉

『デッカー』のシリーズ構成が「革命的」と言える最たる所以は、何といっても「ヴィランを出すことがお決まりになっている」という昨今のウルトラシリーズの風潮を逆手に取ったヴィラン不在の前半×ヴィランを交えた後半」という二段構えの作風だ。
 
『オーブ』におけるヴィラン=ジャグラス・ジャグラーの大ヒットや「ヴィランが存在することで、販売できる玩具の幅が広がる(怪獣絡みのコレクターズアイテムなどが売りやすくなる)」というメリットから、以降のウルトラシリーズには「作品を通して立ちはだかるライバルキャラクター」=所謂「ヴィラン枠」が存在することが通例になった。 

しかし、ウルトラシリーズは「1話完結がベース」「怪獣・宇宙人はゲストであり主役」という基本骨子を持つため、 元来「強い縦軸」や「シリーズを通して暗躍するヴィラン」とは相性が良くない傾向にある。 

(『ガイア』など、勿論それで上手くいった例外はあるが)

 

実際に、縦軸の強い『ジード』や『R/B』では「怪獣の魅力や個々のエピソードがおざなりになる」といった反動が生まれ、逆に「怪獣の魅力」や「1話完結の魅力」に立ち返った『タイガ』では、逆にヴィラン=霧崎/ウルトラマントレギアの描写が極端に少なくなってしまっていた。 

直近では、この「縦軸と1話完結 (オムニバス性) の共存」というノルマに対し「それを突き詰める」という正攻法で挑んだ『トリガー』が (良くも悪くも) 臨界点に達していたし、『Z』はセレブロの出番を限界まで減らしつつ、要所要所で存在感をアピールさせることで「ヴィラン枠の存在による弊害を抑えつつ、その旨味を抽出する」という、ある種裏技/禁じ手めいた手法でノルマをいなすことに成功していた……と、ここに来ての『デッカー』だ。これら2作を受けての次作、そろそろネタ切れになってきやしないだろうか、色々と限界なんじゃなかろうか……という心配を抱えていたのは自分だけではないはず。しかし、だからこそ「ヴィランの登場がノルマ化している」というその現状を逆手に取るシリーズ構成に多くの視聴者が度肝を抜かれ、そのことが大きな話題となったのだろう。
 

 

『デッカー』前半の特徴は、前述の通り『X』ぶりに「ヴィランが存在しない状態で話が進んでいく」こと。情報解禁時はそのことが大きな話題になっていたし、その時点では誰一人として「アサカゲ博士が裏切ってヴィラン枠になる」などとは思ってもみなかっただろう。 

(この点は「シリーズを通しての敵」と言えばその通りな)スフィアの存在以外にも、「アサカゲ役がかつてウルトラマンゼロ=ランを演じた小柳友氏」というキャスティングの妙が大きかったと思われる。この時点で、我々は『デッカー』のきめ細かく計算高い「罠」に嵌められていた……!)
 
そして「ヴィランが存在しない作品」ともなれば、往年のファンとしては「従来のウルトラシリーズらしいシナリオ」=「キャラクターや怪獣の描写を中心に紡がれる1話完結重視の物語」が久しぶりに見れるのか……と期待してしまうところ。それを理解してか (あるいは、作り手側にもそのような作品を作りたいという思いがあったのか) 本作前半はカナタたちGUTS-SELECTを掘り下げつつ、個性豊かな怪獣・宇宙人による空想特撮ドラマが描かれた。その作風は、それこそ平成前期=『ティガ』~『ガイア』期に近いものだったようにも思う。

(ガッツグリフォンを軸に、モンスアーガーが過去の設定を踏まえつつ再登場する姿が描かれた第4話『破壊獣覚醒』などは、この作風だからこそ生まれた傑作エピソードと言えるだろう) 

しかし、この前半において「白眉」と言えるポイントは、その原点回帰ぶりで「従来のシリーズファンの求めていたもの」を満たす一方で、同時に数多くのタスクを過不足なく消化してみせたという、その「きめ細かさ」にある。

 

 

一見すると、ヴィラン不在かつ明確な縦軸がないことから「尺的に余裕がある」ように見える本作前半だが、その実「後半がアガムスとの対峙による連続ドラマになる分、やれることを今のうちにやっておこう」と言わんばかりに盛り沢山の要素が詰め込まれており / それでいて非常にまとまった、まさに一切の無駄がない1クールとなっていた。 

このことは、実際にその中身を並べてみると分かりやすい。

 

(カナタが「普通の人間」であることを強調して描くためか) 煎餅屋時代~入隊までを緻密に描写 (第1・2話) 

・HANE2 (CV.土田大) 、アサカゲを含めた新生GUTS-SELECTの導入編 (第3話) 

・ガッツグリフォンの初登場、HANE2の実質的な主役エピソード (第4話) 

イチカの主役エピソード (誰5話) 

リュウモンの主役エピソード(第6話) 

・トリガー組の初客演、火星の現在を描写、カナタの人間性について掘り下げ、デュアルソードの初登場 (第7・8話) 

・ムラホシ隊長(演.黄川田雅哉)の主役エピソード(第9話) 

・カイザキ副隊長の主役エピソード (第10話) 

・テラフェイザーの初登場、デッカーとリュウモン/イチカの交流 (第11話) 

・カナタ、リュウモン、イチカ、HANE2の関係の総まとめ、テラフェイザー初の本格的な活躍 (第12話) 

・第1クールの振り返り (第13話)

 

これらに加え、第5話では『トリガー』において曖昧だった「この世界における “宇宙人” の立ち位置」をイチカを通して再定義していたり、第3話、第12話等ではスフィアの生態を細かく描写・復習していたりと、2クール目の軸になる「バズド星人の登場」「スフィアの目的」といった要素への種蒔きも隙がない……と、後半の展開や玩具の販促といった各方面にムラなく対応しつつ、なんと1クール目にして全キャラクターを掘り下げ (最低限ながら、アサカゲも第12話などで掘り下げが行われている) 、相互の交流・関係性もしっかりと描ききってみせた。このことは「ヴィラン不在によって生まれた尺があったから」という一言を越えた、メイン監督=武居監督や、シリーズ構成=根本氏・足木氏をはじめとする製作陣の尽力の賜物と言えるのではないだろうか。 

(細かなキャラクターの掘り下げという点については、前作『トリガー』の反省も活かされていると思いたいところ)
 

 

かくして、「ヴィラン不在」という異例の体制ながら高い密度で物語を展開、幅広い層から好評を博した『デッカー』前半戦。しかし、その真髄は「それらを踏まえての後半」にこそあった。

第11話『機神出撃』で初登場したGUTS-SELECTの新戦力ことテラフェイザー。そのヒールまっしぐらなデザインに加え、DX玩具のパッケージで「デッカーを襲う姿」やどう見ても悪人顔の「フェーズ2」が描かれていたことからテラフェイザーが敵に回ることは誰もが予想していたが、それはあくまで単なる見せ球。この中盤の前後編における「本命」とは、アサカゲ博士の真の姿=バズド星人アガムス、そして先代ウルトラマンデッカーことデッカー・アスミ (演.谷口賢志) の登場だった。

 

 

テラフェイザーの玩具で「ヴィランの登場」を匂わせ、次回予告の「何者かの手」でその登場、ないし誰かの裏切りを確信させ、いざ始まった本編で登場したのはなんと先代ウルトラマンデッカー……という、あまりに周到でこちらの予想を完全に越えていく衝撃のサプライズ展開。 

更に、続く第15話『明日への約束』では、これまでほんのりと匂わせていた「なぜディーフラッシャーがカナタの元にやってきたのか」「なぜディメンションカードはカナタの意思に反応して発動するのか」といった謎や、往年のファンなら誰もが気になっていたであろう「デッカーとウルトラマンダイナは別人なのか / ダイナは今、どこで何をしているのか」といった疑問もこの回でまとめて回収……!  こちらが予想を越えたサプライズに口を開けているところで前半1クール分の「溜め」を爆発させるというこの計算高さもあって、本話のクライマックスにおける「真の “デッカー” 継承」→「ダイナミックタイプ降臨」のカタルシスは、歴代『ウルトラ』の最終形態登場シーンの中でも指折りと言える圧倒的なものに仕上がっていた。

 

(このタイトルを『未来への約束』ではなく『明日への約束』としたのは、『ダイナ』最終回へのリスペクトによるものだと思いたい……!)

 

こうして、シリーズ前半でキャラクターや世界観の描写を、第14・15話で物語の核心に迫る謎をそれぞれ一気に消化した上で突入した『デッカー』後半。その作風は前半とは打って変わって「アガムスとの戦い」や「イベント編」が目白押しのニュージェネらしい派手なものとなっており、クライマックスに向けて「縦軸のドラマ」を丁寧かつダイナミックに積み上げていくことになる。

 

「シリーズ後半でガラリと作風が変わる、しかも “最初から計算づく” で」というのは、これまでは『ガイア』や『ネクサス』といった縦軸の強い作品でしか見られなかったこと。オムニバス性の強かった『デッカー』でそのような試みが行われると、ファンの性としてつい「あらぬ反感を買ってしまわないかな」「ダレてしまわないかな」と心配になってしまったけれど、結論から言うとそれらは (ほぼ) 杞憂に終わった。 

驚くべきことに、『デッカー』第2クールには「キャラクターの個別エピソード」というものがほぼ存在しない。個々の登場人物を「シリーズ前半で描ききった」からこそ、このシリーズ後半は「それぞれの関係性」とアガムスに絡む物語、そしてイベント性に特化するという割り切った……それでいて、前半とはまた違ったベクトルでの「無駄のない」物語が展開していっていたのである。

 

(唯一の例外としてイチカの個別エピソード=第20話『らごんさま』があるが、1話完結として、『デッカー』の一編としての完成度の高さは勿論、縦軸続きの中で挟まれる閑話休題としても非常に有意義なエピソードだったと言えるだろう)

 

シリーズのテイストを大きく変えることは、シリーズの折り返しという「視聴者が離れがちな時期」への着火材・フックとして機能しており、ヤプールのような意外な敵の参戦や、トリガー・ダイナらゲストの登場と併せて十二分に効果を発揮していた (話題を呼んでいた) ように思う。 

更に、アガムスがヴィランとして立ちはだかる期間が通常の半分以下に短縮されたことで、彼の物語がコンパクトにまとまっていたり、テラフェイザーの株がそこまで落ちなかった (テラフェイザーが敵としてデッカーと戦ったのは9回。うち、純粋な敗北を喫したのはなんとたったの2回で、逆に勝ったのも2回。他は相討ちや撤退等で、アガムスが弱く見えないよう気を遣われていたことが察せられる) り……と、こちらも明確に良いことづくし。「前半と後半で物語のテイストをガラリと変える」というシリーズ構成は、おいそれと使えるものではないある種の「禁じ手」に近いものだが、綿密な計画・積み重ねによってその裏技を見事に使いこなした『デッカー』は、そのリスクに見合った「新旧のファンに応える見事なシリーズ構成」を見せてくれたと言えるのではないだろうか。

 

 

〈 “NEW GENERATION DYNA” として~怪獣・宇宙人編〉

このように、最初から最後まで一貫して「計算され尽くした」シリーズ構成が大きな魅力となっていた『デッカー』。その中には前作『トリガー』の反省が見える部分も多く、そのことは本作を「NEW GENERATION DYNA」たらしめることにも繋がっていた。  

――『デッカー』は『トリガー』の続編で、というオファーだったのでしょうか? 

武居 『トリガー』を作っている頃から、次の作品は同じ世界観で、ということは決まっていました。 

(中略) 

――ストーリーに関しては? 

武居 まさにそこからのスタートでした。ちょっとややこしいのが、『ダイナ』のリブートをしてほしい、というオーダーではないんです。『トリガー』がああいう世界観でしたし、その流れを汲む形であればどんな風にしても構わないということでした。

引用元:ワールドフォトプレスフィギュア王 vol.293』(2022/7/30発売)P.18  

放送開始から間もない2022年7月末に発売された『フィギュア王』掲載の武居監督インタビュー (上記) によれば、『デッカー』の企画は元々「トリガーと同じ世界での物語」というオーダーからのスタートであり (ガッツファルコンのジョイントや、同時期のスーパー戦隊シリーズの流れなどから考えるに、『トリガー』が人気だったからというより、最初から地続きの世界線での作品展開を想定していたのだろう) 、「ならダイナにしよう」という企画成立順だったのだという。 

そんな背景、そして「NEW GENERATION TIGA」を冠した前作『トリガー』における『ティガ』要素の扱いが大きな賛否両論を呼んでいたことに鑑みてか、本作は「『ダイナ』のエッセンスを取り込みつつ、それを話の根幹にまで組み込まない」ことで、シリーズファンへのサービスと『デッカー』らしさを両立させるという、極めて理想的な「NEW GENERATION DYNA」を成立させていた。 

そんな本作の『ダイナ』要素と言えば、やはり真っ先に挙げられるであろう要素がビジュアル的な『ダイナ』要素、つまりは復活怪獣・宇宙人たちの登場だ。

 

 

『トリガー』でガゾート、キリエロイドが復活したように、『デッカー』においてはなんと新造スーツのモンスアーガー、更には (おそらく当時のスーツで) グレゴール人が登場。ガゾートとキリエロイドは『トリガー』の中でも特に「縦軸に尺を割かれてしまった」ことによる被害者的な存在であり (特にガゾートは、ヒュドラムの前座になってしまったことでファンから大ひんしゅくを買っていた) 、そのことを踏まえてか、本作のモンスアーガーとグレゴール人にはそれぞれ単独主役回が与えられていた。 

モンスアーガーは「メラニー遊星産の怪獣兵器」という設定を踏襲しつつ「HANE2主役回での登場」「ストロングボムが準フィニッシャーになる」という原点オマージュ満載の演出が行われ、グレゴール人は「宇宙を旅する格闘士」というアイデンティティーはそのままに、「トリガーに挑戦しようとしたが既に年老いてしまった」という『タイガ』のナックル星人オデッサのような「かつてのグレゴール人のその後のようにも捉えられる」設定で登場。どちらのエピソードも演出・脚本ともに完成度が高く、この時点で「見たかったNEW GENERATION DYNAだ!」という声が多く見られた(し自分も同様に湧き立っていた)が、『デッカー』は更にその先を行く展開=「原点のキャラクターを現代風解釈で復活させる」という隠し球で界隈を一層湧かせてくれた。

 

 

「過去作のキャラクターを新たな姿で復活させる」という手法は、元を辿れば昭和シリーズや『コスモス』のバルタン星人、『マックス』のゲロンガなどに行き着くのかもしれないが、それを明確な「番組のアピールポイント」としてプッシュし始めたのが前作『トリガー』。 

ヴィランとなる闇の三巨人に加え、ファイブキングのスーツを改造したダブルキングゴルバー、ガタノゾーアのオマージュであるメガロゾーア第2形態……といった面々の登場には「原点をなぞるようでなぞらない」という同作のスタンスや製作陣の苦悩が垣間見え、『ティガ』ファンからの反応はあまり芳しくなかった印象がある。 

(ただし『トリガー』終盤の盛り上がりもあってか、第23話放送後のダーゴンやメガロゾーア第2形態のソフビ人形は、通販サイトのランキングでそれぞれ見事カテゴリー1位を獲得するなど、数字としての反響は大きかった)

そんな『トリガー』時の反響を踏まえてか、『デッカー』で登場した4体の現代リメイク版『ダイナ』怪獣は、その設定から活躍に至るまで「ファンに有無を言わせない」という製作陣の気概を感じさせるものになっていた。

 

 

前作『トリガー』における防衛隊のマスコット枠 (とは本人には口が割けても言えない) ことメトロン星人マルゥルが『ティガ』とはほぼ無関係のメトロン星人であるだけでなく、ストーリーにおいてもアキトにお株を奪われがち……といった散々な状況だったことを踏まえてか、本作のマスコット枠=電脳友機HANE2 (ハネジロー) は、まるで彼だけで「NEW GENERATION DYNA」を達成 (?) してしまうかのような名リメイクぶりを見せてくれた。 

まず驚きだったのは、やはりその声とキャラクターだろう。HANE2の声を担当されたのは、スーパー戦隊シリーズの人気作『忍者戦隊カクレンジャー』でニンジャブルー=サイゾウを演じて人気を博し、声優に転向後は『カーズ』シリーズの主人公、ライトニング・マックィーンの吹き替えを担当するなど幅広い活躍を見せる土田大氏。今でこそ馴染んだものだけど、原点『ダイナ』においては文字通りの可愛いマスコット枠だったハネジローのリメイクキャラが「土田大氏のイケオジボイスで喋る」のは (当人には大変失礼ながら) どういう意図でのキャスティングなのか全く読めず、HANE2という存在がどう転ぶのか正直なところ期待よりも不安の方が大きかった。……しかし、

 

「目標かぁ……なんかあった方がいいのかな、やっぱ。どう思うハネジロー?」
『知るか! 誰かに頼らず、自分で考えろよ』
「冷てぇなぁ。っていうか、最近お前人間臭すぎねぇか?」
『そりゃあ、お前みたいなのと毎日会話してたらこうなる』
「どういう意味だよ~!」

-「ウルトラマンデッカー」 第12話『ネオメガスの逆襲』より

 

蓋を開けてみればなんとHANE2は「オンオフの切り替えがやたら激しい気さくな兄ちゃん」とでも呼べそうなキャラクター。ところが、それは原点=ハネジローとは似ても似つかないのではなく、むしろハネジローに非常に忠実なキャラクターだった。

 

「怪獣の弱点を教えてくれてありがとな、助かったぜ」
「パームッ!」
「そうだ、お前名前付けなきゃな! うーん……そっかぁ、羽が生えてるから、ハネジローでいっか!」
「パァァ……」
「えっ、なっ、なんだよ、不満かよ!?」
「パムパム! パムパム!」
「よぉ~し、お前は今日から “ハネジロー” だ! それと……俺がウルトラマンダイナだってことは、内緒だぞ?」
「パームッ」
「よし、約束だ!」
「パムッ!」

-「ウルトラマンダイナ」 第11話『幻の遊星』より

 

この会話に顕著だが、ハネジローは「アスカの上でもなく下でもなく、あくまで対等な友達」「唯一ウルトラマンの正体を知る仲間」「賢く善良だが、悪戯っぽいところもある」……と、要素を並べるとハネジローとHANE2はまさに瓜二つ。思うに、HANE2とは「可愛い鳴き声をイケボに (慣れてくると、これはこれで可愛く聞こえてくるが) 」、「生物か機械か曖昧なデザインを、人工知能搭載のロボット」に……という最低限のアレンジによって、マスコット枠だった原点を大きく印象の異なる「メインキャラ」に見事に昇華させてみせた、まさに職人芸のような手腕でリメイクされた名キャラクターだったと言えるのではないだろうか。 

(HANE2はカナタに対してやや当たりが強いが、HANE2が多くの場面でカナタに持ち運ばれて移動することを考えると、ペット/マスコット的な見え方にならないようにするためのバランス調整だったようにも見て取れる)

 

更に、HANE2はメインキャラとしてもしっかりその活躍=「成長するAi」として日に日に人間臭くなっていく様が描かれていた。 

一見すると「完全」なAiであるHANE2が、カナタからの学習で「不完全」な在り方=「僅かな可能性に懸ける」「 “努力” で力不足を補う」という選択肢を学び、その実践によって難局を切り拓いてみせる……。そんな彼の姿は、ともすれば主人公のカナタよりも明確に『ダイナ』を継いだもの。 

詳しくは後述するが、『ダイナ』をそのまま継ぐことを敢えてしなかった/しようにもできなかったと思われる作品が『デッカー』。そんな本作において、「主人公でない」かつ「ダイナオマージュのキャラクター」であるHANE2が誰よりストレートに『ダイナ』を継いだ在り方を見せてくれるのは「NEW GENERATION DYNA」の一つの理想形だったと言えるのではないだろうか。 

(そんなHANE2がデスフェイサーのリメイク=テラフェイザーを駆ってダイナのリメイク=デッカーと共闘してネオザルスのリメイク=スフィアネオメガスに立ち向かう図は、求めていた以上のNEW GENERATION DYNAすぎて変な笑いが出てしまった)

 

 

HANE2といえば、やはり彼が搭乗 (?) したテラフェイザー……については後に触れるとして、ここでは「もう2体」の怪獣に触れておきたい。

 

 

「『ダイナ』第16話に登場したハイパークローン怪獣ネオザルスのリメイク」という意外なセレクトが話題となったのが、界隈に激震を走らせた新創獣ネオメガス。HANE2の登場などから本作に『ダイナ』怪獣のリメイクが登場することは十分に考えられていたが、まさかそのトップバッターがネオザルスだとは一体誰に予想できただろう。 

また、ネオメガスと言えばやはりその登場エピソード=第10話『人と怪獣』の内容も欠かせない。 

 

人類を脅威から守るためにネオメガスを造り出し、怪獣の「支配」を掲げるシゲナガ博士と、怪獣との共存という見果てぬ夢を胸に対峙するカイザキ副隊長……という2人の対立を通して、人間の進歩の「可能性」を正負両面から問いかける本エピソードは、同じテーマを扱いつつもエンタメに振った原点=『激闘!怪獣島』(ウルトラマンダイナ 第16話) を汲みつつも、見事『デッカー』のテーマに落とし込んだ傑作編。サドラやゲスラを蹂躙するネオメガスや、ガッツホークと「合体」するデッカーなど特撮面の見所も多彩で、ネオメガス自身の株も大きく上げた理想的なスタートダッシュと言えただろう。

 

(その後、スフィア合成獣となってネオメガスが復活したことも驚きだったけれど、個人的にはその意匠にネオガイガレードが組み込まれているのが何よりの衝撃だった。これは偶然だったのか、それとも……?)

 

こうして、ネオメガスが「ネオザルス」という「人気はあるけどメジャーとまでは言えない怪獣」をベースにしていたことに加え、2022年夏に開催されたイベント『ウルトラヒーローズEXPO 2022 サマーフェスティバル』のライブステージにおいては、『ダイナ』からなんとヌアザ星人イシリス(ダイナと戦ったイシリスその人!)、そしてマウンテンガリバー5号のリメイクである「マウンテンガリバーⅡ-Ⅴ (ツーファイブ) 」が登場するなど、まさに予測不能の領域に到達していく『デッカー』の『ダイナ』リメイク/オマージュ。

 

(上記の夏イベントに加えて、年末年始のイベント『ウルトラヒーローズEXPO 2023 ニューイヤーフェスティバル』では、ラセスタ星人のリメイクであるリセスティア星人までもが登場。『ダイナ』の傑作エピソード『少年宇宙人』のリメイクという高いハードルを見事に乗り越える、素晴らしいストーリーを見せてくれた)

 

これらの展開から、こちら(ダイナファン界隈)も徐々に「なんでも来い!!」と覚悟を決めざるを得なかった……のだけれども、その状況下において尚私たちの度肝を抜いてみせたのが「スフィアジオモス」の登場だろう。

 

 

「ネオマキシマエンジンを取り込んだスフィア合成獣」という、何かと『デッカー』に出し辛そうな設定の怪獣であるだけでなく、ネオザルス同様「ダイナ怪獣の中では人気だけど、知名度がそこまでではない」という点から復活しないだろうと勝手に諦めてしまっていたジオモス/ネオジオモス。それがリメイクされて復活するというだけでも驚きなのに、その相手はまさかまさかのウルトラマンダイナ本人! 

スフィアジオモスの登場回=第21話『繁栄の代償』は、ジオモス・ダイナの演出以外にも『ダイナ』愛がこれでもかと詰め込まれたとんでもないエピソードで、その素晴らしさについては下記の記事を是非ご参照頂きたい。

 

kogalent.hatenablog.com

 

〈 “NEW GENERATION DYNA” として~文芸編〉

このように、怪獣・宇宙人の扱いだけでも十二分に「NEW GENERATION DYNA」を見せてくれた本作。企画の成立順などに鑑みると、むしろここまでの『ダイナ』愛を注ぎ込んでくれたことだけで感謝感激、素敵なものを貰いましたよ……と頭を地面に擦り付けたくなってしまうのだけれども、なんと『デッカー』はその物語や世界観にも違和感のない形で『ダイナ』を組み込んでくれていた。

 

 

『ダイナ』の前日譚にして、所謂「平成ウルトラシリーズ」第1作である『ウルトラマンティガ』。SF的目線から「ウルトラマン」を再考しつつ、90年代後半という「希望と不安の狭間」にある時代性を踏まえて作られた同作は、人の抱える「光」と「闇」にフォーカスを当てて描かれた作品でもあった。 

後に製作された『劇場版 ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』において、カミーラたち「闇の巨人」が出現したことで混同してしまいがちだが、『ティガ』において描かれた「光と闇」とは元来そのような観念的なもの。ガタノゾーアのような「闇」の存在も、人間の抱える/直面する「闇」が具現化した、ある種のメタファーとして描かれていたように思う。

 

 

そんな『ティガ』の続編として始まった平成ウルトラシリーズ第2作=『ウルトラマンダイナ』は、人の内にある「光と闇」を「可能性」と読み換え、その行く末を描いた物語。人は誰でも光になれる。けれど、光を目指して突き進み、進化を繰り返していく過程には、同時にいくつもの「代償」が伴ってしまう……。同作では、そんな「繁栄の代償」が数多く描かれてきた。 

人類の生活圏の拡大はスフィアをはじめとする様々な敵を招き、そんな脅威への恐れが生み出した「人の手に余る力」=プロメテウスや、「心無きウルトラマン」=テラノイドもまた、人類に牙を剥く脅威となってしまった。人類は光と闇をどちらも抱えた「不完全」な生き物で、その歩みに「歪み」は避けられない。そのことを明言しつつも、しかし『ダイナ』は人類の歩みを否定しなかった。 

転んでもまた立ち上がればいい、不完全でも構わない。どんなに間違ってしまったとしても、それら全てを糧にして更なる未来に進んでいけるのが「人間」の価値であり、その道程こそが「光」であると叫んでみせる――、そんな、どこまでも眩しくダイナミックな人間讃歌こそが『ダイナ』であり、その「光」を体現したのがスーパーGUTSのメンバーたちだった。 

ムナカタと異なり、副隊長格でありながら当初その冠を与えられていなかったコウダ。皮肉屋であり、小心者なところもあるナカジマ。才能こそあるが戦士としての自覚に欠けるマイ。プライドの高いリョウに、学者気質で周りが見えなくなりがちなカリヤ。そして、目立ちたがりの自信過剰、不器用かつ無鉄砲で人一倍照れ屋な主人公のアスカ……。プロフェッショナル集団であり、一人一人が (比較的) 完成されていたGUTSに比べ、スーパーGUTSは個々に不完全さを抱えるチームであった。 

しかし、そんな「不完全」なチームでありながら、彼らは降りかかる困難を次々に乗り越えていくことができた。それは、ヒビキ隊長を中心に育まれていったある種「家族」然とした大らかな土壌によって、彼らが互いの不完全さを補い合い、助け合い、失敗を糧として成長していける「可能性」に満ちたチームだったからなのだろう。 

(そんなスーパーGUTSのマスコット=ハネジローも、その存在が彼らの「家族」感に大きく貢献していたことは注記しておきたい)

 

そして、そんな彼らが迎えた最終決戦=「スーパーGUTSとグランスフィアの一騎討ち」というクライマックスは、前述してきた『ダイナ』イズムの集大成とでも呼べるものになっていた。  

「出鱈目だ、そんな完璧な世界などあるもんか!」
「……でも、理にはかなってます。人間の科学が全ての生態系を改造できれば、環境破壊による滅亡を回避できる」
「でもそれは、生きてるって言えるのか?」
「えっ?」
「死が無くなる代わりに、夢も、ロマンも無くした世界……。本当に俺たちが目指している未来なのか?」
「でも、それは……」
「不完全でいいじゃないか! 矛盾だらけでも構わねぇ!! “人の数だけ、夢がある” ……俺は、そんな世界の方が好きだ」

-「ウルトラマンダイナ」 第51話『最終章Ⅲ 明日へ…』より  

「全てを一つにすることで完全な平和を実現した」というスフィアの語る「理」を、ヒビキは否定しない。不完全で、矛盾だらけで、人の数だけ夢がある世界の方が「正しい」からではなく「好き」だから守る……。それは理にはかなっていないのかもしれないけれど、だからこそ、人間らしく、スーパーGUTSらしく『ダイナ』らしい信念の形。 

グランスフィアとの最終決戦は、同作が描いてきた「不完全」という可能性が「完全」という道理を越えられるのか……という、『ダイナ』そのものを試す最後の試練であり、スフィアに引導を渡したのが "人間は「過ち」を乗り越えていける" という証=ネオマキシマ砲と、誰より不完全で、それでも一途に彼方の光を追いかけ続けた人間=アスカ シン/ウルトラマンダイナであったことは、それそのものが本作の描きたかったメッセージ=「答え」そのものなのだろう。

 

 

それから25年、『ダイナ』を継ぐ作品として生まれた『デッカー』には様々な形でその血潮が宿っていた。

 

「地球をスフィアバリアが覆う」という設定は、当時のようなスケールの画作りができない状況で「閉ざされた世界からの解放を願う心」=人間の開拓心 (ネオフロンティアスピリッツ) を描くことに繋がっていたし、「新人や訓練校の校長らによる不完全なチームだが、だからこそ支え合って力を発揮する」という新生GUTS-SELECT、とりわけカナタ・リュウモン・イチカの在り方にスーパーGUTSの面影を見たのは、決して自分だけではないだろう。 

そして、中でも色濃く『ダイナ』を継いでいたと言えるのが、他でもない主人公=アスミ カナタの物語。未熟で、無鉄砲で、何度も悩み――しかし、アスカのようなポテンシャルは持っていないという「普通の人間」であったカナタ。彼の物語について触れていくには、その前に『デッカー』と「ある作品」の繋がりについて語っておかなければならない。

 


〈 “トリガーの続編” として〉

『デッカー』を語る上で欠かせないのが、その前作=『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』の存在だろう。 

ウルトラシリーズにおける「続編もの」と言えば、過去作と地続きの世界線を舞台にした『メビウス』や、シーズン2とでも言うべき『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』など様々なパターンが存在するが、「異なる2作品が、同じ世界観を引き継いで展開する」というのはまさに『ティガ・ダイナ』ぶりのこと。 

そんな高いハードルに真正面から挑むが如く、本作は次々と凄まじいファンサービスを見せてくれた。その一つの到達点と呼べるのが、第7話『希望の光、赤き星より』 第8話『光と闇、ふたたび』の前後編だ。  

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この前後編は、元GUTS-SELECTメンバーからウルトラマントリガー/マナカ ケンゴ (演.寺坂頼我) は勿論、なんとヒジリ アキト (演.金子隼也) 、シズマ ユナ (演.豊田ルナ)タツミ セイヤ (演.高木勝也) ら4人が登場、クライマックスではカルミラ (CV.上坂すみれ) まで復活し、デッカー・トリガーとの連携でスフィアメガロゾーアを打ち倒す……と、さながら劇場版のような豪華さに加え、『トリガー』においても『デッカー』においても重要な役割を担っているという贅沢極まる一編。   

『トリガー』ファンとしてはこの時点でお腹一杯、大満足の大号泣だったのだけれども、なんと「同じ世界観だからこそできる熱いクロスオーバー」はここで終わらなかった。

 

 

トリガーが再び顔を見せてくれたのは、クライマックス手前の第19話『月面の戦士たち』 (『ティガ&ダイナ』の副題「光の星の戦士たち」をなぞっているのが良い……!) 。以前はトリガー/ケンゴに教えられるばかりだったカナタが、今度は成長した姿=ダイナミックタイプとなり、グリッタートリガーエタニティと「並び立って」戦うという展開は、まさに同じ世界観ならではのカタルシスに満ちたシチュエーション! 

更に、最終決戦編となる第23話ではトリガーが再び登場し、デッカーに先立って最強の敵=マザースフィアザウルスと激突。その後の最終決戦では再びGUTS-SELECTと共闘し、デッカー=カナタの復活に己の力を捧げる (光から人になったケンゴが落ち、人の身でウルトラマンになったカナタが飛び立ってすれ違う……というこの構図に、えもいわれぬ感動を覚えてしまったのは自分だけではないはず) など、『デッカー』におけるトリガーは、振り返ってみるとまるでもう一人のレギュラーウルトラマンであるかのような非常に美味しい役どころであった。

 

そんな彼の活躍にグッと来てしまうのは、決して「出しゃばる」ようなことなく、ここぞというタイミングで登場しては「先輩」としてカナタを導いてくれる頼もしさや、ツボを押さえた脚本・演出の妙は勿論、自分が『トリガー』ファンだからというのも大きいだろう。 

しかし、それ以上に自分の胸を高鳴らせてくれるのは『デッカー』で何度も活躍してくれるトリガーの姿が、幼い頃に夢見た「作品を通して助け合い、共に戦うティガとダイナ」というifを、時を越えて/形を変えて垣間見せてくれるからなのかもしれない。

 

 

他にも、第13話『ジャンブル・ロック』にはメトロン星人マルゥル (CV. M・A・O) が登場。特別総集編や、TSUBURAYA IMAGINATION限定配信のショートムービー『GUTS-SELECT交流記~帰ってきた特務3課~』においては、特務三課のホッタ・マサミチ主任 (演.田久保宗稔) も再び顔を見せてくれた。 

特にホッタは、先日配信の最終回『#05 ムラホシ タイジの場合』において「技術屋としてアサカゲ博士の心情に思いを馳せる」という場面があり、短いシーンながら『デッカー』の補完として欠かせない言葉を残してくれていた。最後の最後にこの上ない「年期の入った技術屋」として美味しいシーン、兼「理想的なスピンオフ」としての役割が与えられたのは、製作陣なりのホッタへの労いと感謝の表れなのかもしれない。

 

 

一方、他の元GUTS-SELECTメンバーやトリガーダーク/リシュリア星人イグニス (演.細貝圭) 等『デッカー』参戦が叶わなかった面々もいたが、ことイグニスについては「むしろそれが良かった」という思いもある。 

というのも、イグニスは『トリガー』最終局面において「リシュリアの復興」という自身の目的を捨ててまで地球の為に尽くしてくれていた。何の義理もない星に価値を見出し、仲間たちのためにその命を懸けてくれたのだ。戦いを終えた彼には自分の為に生きて欲しいし、そう思っているからこそ、ケンゴも敢えて彼を呼び戻さなかったのかもしれない。 

(……が、なんと夏のイベント『ウルトラヒーローズEXPO サマーフェスティバル 2022』のライブステージでは「お宝を追う中で偶然にも地球に帰還する」という形でイグニスが『デッカー』世界に登場、トリガーダークとなってデッカーたちと共闘するというあまりにも美味しい出番があった。『デッカー』本編におけるシナリオの都合なども加味すると、これこそまさにベストな登場方法だったのではないだろうか)

 

 

このように、流石直系の続編だけあって『デッカー』に散りばめられたトリガー要素の数は莫大で、年を重ねたケンゴたちの振る舞いや『トリガー』客演によりデッカー世界に起こる(作風的な)異変など、言及したいトピックは文字通り山ほどある。 

『デッカー』を考える上で、その中から最後に一つ触れるとするならば、それは『デッカー』と『トリガー』の文芸における共通点だろう。  

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詳しくはこちらの記事に譲るが、『トリガー』は、『ティガ』で描かれた「人の持つ “光と闇” 」そして『THE FINAL ODYSSEY』で描かれた「 “光と闇” という属性」を折衷しつつ「人は誰でも光になれる。けれど、無理に光にならなくてもいい / 闇を抱えたままでもいい」と、過酷な令和の世界を生きる人々に優しく寄り添う物語になっていた。 

(この点において、同作はまさしく「NEW GENERATION TIGA」であったということは声を大にして言っておきたい) 

では『デッカー』はどうだったのか……というと、それはまさしく『トリガー』の文脈を継いだもの=元となる作品 (ダイナ) のテーマを受け継ぎ、令和の世に蘇らせるというもの。 

このことを念頭に置きつつ、令和のウルトラマンダイナ/アスカ・シンとして、主人公=アスミ カナタがどのように「NEW GENERATION DYNA」たる物語を築いていったのか、順を追って振り返っていきたい。

 

カナタトオク

カナタトオク

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〈 アスミ カナタと「ウルトラマンデッカー」の物語 〉

本作の主人公=アスミ カナタ。熱く真っ直ぐ、明るい好青年……という、一見すると王道熱血主人公のような造形のカナタは、しかし「夢を持っていない / 持てない) 」ことが個性として描かれるという、極めて珍しいタイプの主人公でもあった。
 
『ダイナ』において、ヒビキが語り、アスカが体現してみせた「人が前に進み続ける力」。その原動力は「夢 (あるいは “目標” ) 」にあった。山の向こう側という未知なる世界への好奇心、まだ見ぬ明日へ抱くロマン、彼方へと消えた父の背中……。そんな『ダイナ』の中核とも呼べるものを持っていない/持てない、本当に「ありふれた / 普通の」人間=カナタ。 

キャラクターの「夢」や「目標/目的」が明言されないのはままあることだけれど、こと『デッカー』においては「みんなを笑顔にしたい」ケンゴ、「かつて自分を救ってくれたGUTS-SELECTに入り、今度は自分が人々を守りたい」リュウモン、「宇宙開発に従事するために、スフィアから地球を取り戻したい」イチカといった面々の中にあることで、夢を持てないことがカナタにとっての明確な「課題」として描かれていたように思う。
 

 
一方で、そんなカナタの「夢を持てない/ただ今を精一杯生きる」という在り方は、非常にリアルな「普通の人間」の姿のようにも見える。
 
学生時代、「将来の夢」という課題にぶつからなかった人、あるいは「ぶつかった上で、自分の思う “夢 ”に向けて突っ走れた人」が一体どれほどいるだろう。 

先を見据えられる視野の広さや精神的な余裕、それだけの情熱を持てる物事に出会える幸運、将来という覚束ないものに向き合い、考えたり学んだりできるバイタリティ……。「夢を持つこと」は万人共通の通過儀礼のように言われるけれど、それは決して「当たり前」のことではない。そして、そのことはきっと、大きなパンデミックの中で育っている現代の子どもたちにとっては尚更なのではないだろうか、 

夢を持つことのできる余裕も、希望も、展望も、この令和では私たちが子どもだった頃に比べて遥かに小さくなってしまっているだろうし、今を楽しく生きることさえ「贅沢」になってしまっているのかもしれない。そうした事情に鑑みると、この2022年という時代は『トリガー』同様、原点=『ダイナ』のテーマをそのまま蘇らせることができない時代であり、だからこそカナタは「夢に向かって走り続けるヒーロー」ではなく「今を全力で走り続ける、ごく普通の人間」として設定されたように思えるのである。
 


 
こうして生まれた主人公=アスミ カナタは、ケンゴのような「夢見る未来」の為ではなく、あくまで「今、目の前にあるものを守る」為に戦い続けた。 

「負けた理由を探すより、勝てなかった自分を超える努力をしろ」という家訓の通り、どんな困難も真正面から乗り越えていく彼の溌溂とした姿は、とても危なっかしく、頼もしく、そして何より元気を貰えるもの……だったけれど、ウルトラマンという「重責」について深く考えることのないカナタの様子には、どことなく不安もあった。前年の主人公=ケンゴが「ウルトラマンその人」であり、3000万年前から続く宿命を背負っていたのに対し、カナタはこうも自身の力や立場に無自覚で大丈夫なのだろうか――と。 

そんなカナタのパーソナリティに初めて揺さぶりが入ったのが第7・8話。そのきっかけになったのは、「夢見る未来」の為に戦う先輩=他でもない、ウルトラマントリガー/ケンゴその人だった。
 

「ケンゴさん……アイツと戦ってる時、どうして攻撃をやめたんですか?」
「10年前、僕はみんなを笑顔にしたくてGUTS-SELECTに入ったんだ。でも、メガロゾーアとの決戦で……僕は彼女を笑顔にすることができなかった」
「彼女、って」
「闇の巨人カルミラ。スフィアの力で甦ったメガロゾーアの中に、確かにカルミラがいたんだ」
「闇の巨人って、俺たちの敵じゃないですか! なんで……」
「 “みんなを笑顔にする” それが、僕の夢見る未来だから」
「……ケンゴさんは、その未来を手に入れる為に戦ってるんですね」
「カナタくん、君は?」
「俺は……」

-「ウルトラマンデッカー」 第8話『光と闇、ふたたび』より
 
闇も光も関係なく「みんなを笑顔にする」為に戦ったケンゴ。彼の理想は、単なる戦いの勝ち負けを越えたその先=「今」の向こう側にあるもの。彼の想いを受け止めあぐねるカナタは、しかし、懸命にカルミラへ手を伸ばすケンゴの姿に一つの答えを見出だした。
 

「俺はまだ、戦いの先に何があるのかも、何をやるべきなのかも、ホントのとこ、何もわかんねぇけど……! 今は、これが俺のやりたいことだぁぁっ!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第8話『光と闇、ふたたび』より
 
「夢見る未来」を持っていなくても、自分の「すべきこと」が分からなくても、「夢を見る誰かの “今” を守る」ことならできる。それが、これまでずっと「目の前の今」を守る為に戦い続けたカナタなりの答えだった。 

自分の中にある空洞を受け入れた上で、それでも立ち止まることなく「今」を戦うと決めたその決意が、カナタに「俺の本当の戦いは、ここからだぁぁーーっ!!」と叫ばせたのではないだろうか。
 

 
しかし「カナタだけ」の戦う目的=夢や目標がないのであれば、それは「替えがきく」ということ……もっと言うなら、「 “ウルトラマンデッカー” の役割を果たすにもっと相応しい存在がいるかもしれない」ということでもある。 

カナタの決意を嘲笑うかのように、そんな事実を彼に突き付けたのが第14話『魔神誕生』だ。

前述の第7・8話 (トリガー客演編) のクライマックスでは、些か「デッカーよりもトリガーが目立っている」節があったが、スタッフも承知の上で敢えてその作劇を行っていたように思える。それは、この前後編におけるデッカー=カナタが「ケンゴの背中から学ぶ」側であり、カナタ自身もケンゴ=夢見る者を「支える」役割を選んでいたからだろう。 

(前作主人公に対して現役のカナタが「一歩引いた立ち位置」にいるということには確かな納得もあったし、「トリガーが目立っている」ことには、我々視聴者に「カナタの目線を追体験させる」というねらいもあったのかもしれない)

 

だからこそ、それからは「本当の戦い」=カナタが真に「主人公」となる為の戦いが始まると思っていた――というその矢先に、カナタはなんとウルトラマンデッカー』という番組そのものを「新たなキャラクター」たちと、彼らが持ち込んだ「知らない文脈」にものの数分で乗っ取られてしまった。

 

「悪ィ、待たせちまったかな」
「その声……!」
「この時代まで追ってきたか」
「知ってるだろ、しつこいタチだって」
「だがもう遅い。私にも……いや、もう誰にも止めることはできない。スフィアはもうじきこの星を飲み込む」
「飲み込む……地球を!?」
「そんなことを、レリアが望んでいると思うか?」
「……」
「こんなことをしてもレリアは!」
「貴様がァァァ! その名を呼ぶなァァ……ッ!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第14話『魔神誕生』より

 

正体を現したアサカゲ=アガムスと、彼の前に現れた先代ウルトラマンデッカー=デッカー・アスミ。「カナタを置き去りにした」内容の問答の後、彼はカナタの目の前でデッカーへと変身。ウルトラの力を完璧に使いこなし、テラフェイザー・スフィアザウルスを相手に互角以上の戦いを繰り広げる――。 

この一連において恐ろしいのは、その怒濤の展開そのものは勿論だけれど、それよりも「カナタがあっという間に “主人公でなくなってしまった” 」ことだろう。 

 

決して出番が多いとは言えないデッカー・アスミ。しかし、その存在感や「真のデッカー」としての説得力には並々ならぬものがあった。 

飄々としているようで、その内面に重責を背負っていることを感じさせもする絶妙な佇まい。アガムスという宿敵との因縁。命に代えても人々を守るという覚悟……。彼の、ある種過剰なほどに「ヒーローらしい」キャラクター性は (スーパー戦隊仮面ライダーの両方に変身経験のある谷口氏にオファーを出したという背景からしても) おそらく恣意的に作り出されたもの。私たちが彼に「真のデッカー」であることの説得力を感じれば感じるほど、カナタがそれらの「ヒーローらしさ」を持ち合わせていない=彼が「代役」であることにも納得させられてしまうからだ。 

(自分の命には無頓着、という点はカナタも共通しているが、「自分の命が失われることを想定し、それを受け入れている」という覚悟を持っているデッカー・アスミに対し、カナタは文字通り “無頓着” なだけという大きな違いがあるように思う)

 

そして、カナタが「代役」であったことが明らかになるや否や、堰を切ったように『ウルトラマンデッカー』という作品はその真相を晒け出していく。 

スフィアとの戦いの始まりは「未来の世界」にあり、ウルトラマンダイナをはじめ様々な戦士が今も未来で戦い続けていること。アガムスが未来からスフィアを連れてきた張本人であったこと。デッカー・アスミこそがディーフラッシャーを送り、カナタを導いていたその人だったこと……。私たちが次々と明らかになる事実にワクワクし、未来世界での物語を知りたいと思えば思うほど、同時に見えなくなっていく「カナタがデッカーに返り咲く」姿。 

なにせ、カナタには「理由」がない。皆を守りたいという思いはあれど、それは当然デッカー・アスミも持っているもの。彼はそれに加えて「アガムスとの因縁」を抱えているし、カナタ以上の力も持っている。トドメとばかりに、デッカーの光=ディーフラッシャーは元々彼からカナタに「貸し与えられた」もの。名実ともに代役であったカナタがそれを奪い、自らアガムスに挑むだけの何を持っているというのか……。それはもはや「主人公に課せられた試練」を越えた、作品からの「解雇通知」のようでさえあった。 

 

これまでのウルトラシリーズでも「主人公が、ヒーローの資格を問われる」という展開は何度か見られたけれど、ここまで作品そのものから「NO」を突き付けられるというシチュエーションはおそらく初のこと。しかし、それは『デッカー』のメイン監督としてこの第14・15話のメガホンを取った武居監督の「本気」の所以なのだろうと思う。

 

これまで描かれてきた「夢を持たずに/持てないままに、それでも今をひた走る」カナタの姿を見ていて思い出すのは、かつて同じ武居監督がメガホンを取った『ウルトラマンR/B』の主人公であり、カナタ同様「普通の人間でありながら、ウルトラの力を手に入れてしまった」兄弟=湊カツミ・イサミ兄弟。 

もしかすると『デッカー』は、同作で描かれつつも、どことなく消化不良感があった「普通の人間がウルトラマンになるということ」というテーマを描くリベンジ作品なのかもしれない……と、そう思わせられるのは、この『R/B』におけるキーワードの一つが、そのものズバリ「ヒーローの資格」だったからだ。

『R/B』後半において立ちはだかるヴィランであり、遥か昔、ルーゴサイトとの戦いで命を落とした先代ウルトラマンロッソ・ブル兄弟の妹でもあう女性=美剣サキ。彼女の前に現れた現代のロッソ・ブル=湊兄弟は、自身の兄たちとはかけ離れた「ごく普通」の存在で、美剣は「対ルーゴサイト計画の障害を排除する」という目的に加え「彼らを認められない」という私怨を持って、湊兄弟に戦いを挑んでいく……。と、美剣の存在は、それ自体がまさに湊兄弟への「ヒーローの資格」の問いかけそのものであった。 

しかし、この時期のウルトラシリーズは各監督・脚本家の連携が今ほど徹底されていなかったのか、『R/B』においてはテーマへの回答がエピソードによって変わるという事態が頻発し、この「ヒーローの資格」へのアンサーも同様に二転三転。結果として、はっきりとした結論が出されないままに作品は完結してしまった。 

このテーマは『劇場版ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』にて形を変えつつ回収されることになるが、結果的に『R/B』のTVシリーズは、独自の魅力と引き換えに消化不良感も強い賛否両論の作品として着地してしまっていたように思う。

 

 

そして、そんな『R/B』から4年ぶりに武居監督がメイン監督を務めた『デッカー』のターニングポイントで「お前はヒーローに相応しくない」と宣告されるも同然の仕打ちを受けるカナタ。そこにはやはり『R/B』を踏まえた監督の「本気」を感じたし、同時に「普通の人間を主人公にするといっても “力に伴う責任” といった事柄を軽視する作りにはしない」という慎重な配慮、あるいは譲れないこだわりも感じられた。 

(『R/B』でも、この点は第2話で早くもピックアップされていた。勿論、メガホンを取ったのは武居監督だ)

 

だからこそ「カナタは本当に “主役” に返り咲けるのか」という不安と同じくらい、彼の出す回答への「期待」もあった。「普通の人間」が「然るべき者を押し退けて」ウルトラマンになるとは一体どういうことなのか、そこに真正面から向き合った上で生まれる答えとは一体何なのか――。未知の物語へのワクワクを胸に迎えた第15話『明日への約束』中盤に「それ」は始まった。

 

「その身体で……無茶だ!」
「大人にはなぁ!……責任ってモンがあんだよ。この命に代えても、俺の手でヤツを――」

-「ウルトラマンデッカー」 第15話『明日への約束』より 

カナタたちの前に再び現れたテラフェイザー。未だ事態を飲み込みきれないカナタを尻目に、デッカー・アスミは満身創痍の身体を押して変身しようとするが、「命に代えても」という、アガムスとデッカー・アスミが揃って口にしたその言葉が、燻るカナタの想いに火をつけた。

 

「なんだよそれ! わっかんねぇ……わかんねぇよ! おっさんの言ってることも、博士の言ってることもわかんねぇ! なんでそんな簡単に命を捨てられるんだよ、捨ててどうなるんだよ! それで、ホントに解決すんのかよ!!おっさんの仲間たちも、今戦ってるんだろ!?  だったら……なにがなんでも生き延びろよ! 生きて、一緒に頑張れよ!」

-「ウルトラマンデッカー」 第15話『明日への約束』より 

「ヒーローに相応しい人間」の登場により外野に追い出され、「ヒーローの資格」を問われる形になったカナタ。そんな彼の出した答えとは、「ヒーローらしさ」という固定観念そのものを真っ向から否定することだった。 

確かにデッカー・アスミは「ウルトラマンとしての実力」も、「アガムスとの決着を付ける」という、果たさなければならない確固たる目的も持っている。しかし、彼らはそんな「ヒーローらしさ」と引き換えに、命の大切さ、自分を想ってくれる人々の想い……といった「自分自身の “今” 」=夢見る未来を持たないカナタにとっての、何より大切で守りたいものを蔑ろにしてしまっていた。デッカー・アスミがいくら「ヒーローに相応しい」人物であっても、いくら自分にはない文脈を背負っていようとも、それはカナタにとって「今を守る戦い」を任せる理由にはなり得ない。 

「ヒーローらしさ」と引き換えに、そんな当たり前の「今」を見失ってしまうなら、自分は普通のままで、今のままの自分でいい――。カナタが「わかんねぇ!」と彼らの文脈を拒絶したのは、カナタが「夢」を探すことなく、あくまで今の自分自身の在り方を貫くという決意の証。目の前にある「今」を守る戦い=人にとっては通過点かもしれない、そんな「今を守る」ことこそがカナタにとっては ”何より大切な、戦う理由” であり、遂に見付けた「誰かの願いを押し退けてでも叶えたい、自分自身の願い」だったのだ。

 

「巻き込まれたからじゃない、俺は今、俺の世界を守りたいんだ! こっちは俺に任せて、さっさと未来へ帰りやがれ!!」
「ガキが……デケェ口叩きやがって」
「ガキじゃねぇッ! ……アサカゲ博士、いや、アガムス! 俺は俺の故郷、地球を守る!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第15話『明日への約束』より

 

「自分の願いに気付いた」ことで、アガムスとの因縁、そしてデッカー・アスミの言う「大人の責任」を引き受けるという覚悟を決めたカナタ。彼は、デッカー・アスミにとってはあくまで「代役」=「巻き込んでしまった、無関係の誰か」でしかなかったが、今のカナタには、むしろ自分よりも「人々を守る存在」に相応しい覚悟が宿っている――。そのことを理解し、ディーフラッシャーが真に ”継承” されたこと。カナタが「ガキじゃねぇッ!」と、彼に真正面から叫び返したこと……。それら一つ一つのシーンが、カナタが決して「ガキ (=名前のないモブ) 」ではなく、アスミ カナタというこの物語の主人公=「現代」を守るデッカーに相応しいことを証明していた。 

カナタは普通の一般人であり、それ故に輝ける「夢見る未来」を持つことはできない。けれど/だからこそ、人として何より大切なこと=本当に守らなければならないものを見失うこともない。そんなカナタの「等身大」な在り方は、夢を持つことの難しい令和の世、つまり「私たちの生きる現代」にとっても相応しいヒーローの姿なのではないだろうか。

 

 

こうして、「普通の人間」のままに主人公として返り咲いたカナタ。しかし、デッカー・アスミを未来へと返したカナタには、彼の背負っていた宿命と責任がそのまま引き継がれることになった。

 

「あいつを……アガムスを、救ってやってくれ」

-「ウルトラマンデッカー」 第15話『明日への約束』より

 

このダイナミックタイプ誕生編は、あくまで「普通の人間」としてウルトラマンになったアスミ カナタのスタートライン。彼にとっての「本当の戦い」はこの後に控えていた。 

それは、「ヒーロー」であるデッカー・アスミにも救えなかった男=アガムスを救うこと。スタートラインに立ったカナタが、本当に「誰かを救うヒーロー」になれるのか……。そんな命題を掲げて『デッカー』は最終章に突入していく。

 

 

〈カナタとアガムス、『デッカー』の終着点〉

『映画 ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』に登場した強敵、電脳魔神デスフェイサーの流れを汲む存在として登場したGUTS-SELECTの新戦力=電脳魔人テラフェイザー。しかし、それはバズド星人アガムスがウルトラマンを倒すために作った悪魔の兵器だった――。 

前述の通り、『オーブ』以降のニュージェネレーションシリーズの流れを逆手に取った衝撃的な登場を果たした本作のヴィラン枠=アガムス&テラフェイザー。しかし、アガムスという存在の「特異性」とは、その鮮烈なデビュー以上に彼の内面――カナタ同様、彼もまた「ごく普通の人間」であったことではないだろうか。

 

 

遥かな未来、「宇宙開拓時代」に至った人類の前に立ちはだかったスフィア。ウルトラマンダイナやデッカーも加わり激化する戦いの中、難破した地球人の宇宙船からそのことを知ったアガムスたちバズド星人は「自分達の科学力が助けになるかもしれない」と共闘を申し出る。しかし、その結果バズド星はスフィアの新たな標的となり、アガムスの妻=レリアは還らぬ人に……。 

このような「敵によって大切なものを奪われた」というヴィランは、何もこのアガムスが初出という訳ではない。特に、前述した『R/B』後半のヴィラン=美剣サキは「宇宙の浄化機構であるルーゴサイトの暴走によって家族を奪われた」存在であり、アガムスと非常に近い出自のキャラクターと言える存在だ。 

しかし、ルーゴサイトに復讐する道を選んだ美剣に対し、アガムスが選んだのは「地球人に」復讐すること。あまりに強大なスフィアという存在に抗うことを諦めた彼は、バズド星がスフィアに襲われるきっかけとなった地球人と、そんな地球人に手を差し伸べた自分自身を憎み、諸共に滅びる道を選んだ……。そんな、ヴィランとしてはあまりに人間臭く、救いのない心情で動いていたアガムス。彼のことを考えるにあたっては、令和の世で私たちが実際に向き合っている「抗えない脅威」=パンデミックのことを避けては通れないだろう。 

 

このパンデミックが「禍」の字を冠する過大災厄となってから社会が大きく変化したことはもはや語るまでもないけれど、そのことはウルトラシリーズの作風にも大きな影響を与えてきた。 

「見た人が元気になれる作品を」と送り出された『ウルトラマンZ』。そして、強く在れない人に優しく寄り添った『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』。これらを経て製作された『デッカー』には、(この世の中になってから時間が経ったこともあってか) 前2作よりもストレートに現在の世相が反映されていたように思う。 

第一に挙げられるのは、やはりスフィア……もとい「スフィアバリア」の存在だ。 

 

 

『デッカー』初回ではスフィアの襲来と地球がスフィアバリアに覆われる過程が描かれたが、2話以降の舞台はその1年後=「スフィアバリアという “いつ状況が悪化するのか、あるいは好転するのか分からない、漠然とした脅威” の存在が当たり前になった」世界。この息苦しく、先の見えない世界が私たちの生きる現代の映し鏡になっているのは火を見るより明らかだろう。

 

こういった形でパンデミックのメタファーが世界観の根底に組み込まれただけでなく、本作ではその後も「パンデミックによって生まれた悲劇」を思わせる設定やエピソードが登場し続けた。 

スフィアバリアによって「宇宙開発に従事する」という夢を奪われてしまったイチカや、宇宙開発の為に生まれながら、対スフィア用の戦力として戦うことを余儀なくされたHANE2やガッツホーク。スフィアの影響で機関産業 (温泉) が窮地に陥っている地方の町に、ピット星人やグレゴール人のような「スフィアバリアによって自由を奪われた」宇宙人たち……。これらの描写を踏まえると、アガムスの「地球人への復讐」という凶行に走った原因=「大切なものを失ったが、その元凶が “一個人でどうにかできるものではない” 為に怒りのやり場を失った」という背景が「パンデミックの被害者」と重なって見えてこないだろうか。 

(スフィアがパンデミックのメタファーであるのは、前述の通り十中八九間違いのないだろう。であるならば「スフィアの被害者であるアガムスが、パンデミックの被害者を模している」というのは、決して有り得ない話ではないように思えるのだ)

 

 

「アガムスがパンデミック被害者のメタファー」であるという仮定に立つと、彼との対峙が中心となる『デッカー』後半の構図はその深刻さを増していく。その「深刻さ」が特に降りかかるのは、やはり主人公=カナタだ。 

第15話『明日への約束』において、「普通の人間」である自分を捨てることなく、ウルトラマンとしてのスタートラインに立ってみせたカナタ。そんな彼に先代デッカー=デッカー・アスミが託した「アガムスを救う」という役割は、転じて「デッカー・アスミにはアガムスを救えなかった」ということを意味してもいる。  

「この時代まで追ってきたか」
「知ってるだろ、しつこいタチだって」
「だがもう遅い。私にも……いや、もう誰にも止めることはできない。スフィアはもうじきこの星を飲み込む」
「飲み込む……地球を!?」
「そんなことを、レリアが望んでいると思うか?」
「……」
「こんなことをしてもレリアは!」
「貴様がァァァ! その名を呼ぶなァァ……ッ!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第14話『魔神誕生』より 

彼ら2人の関係については情報が極めて少なく、第14話におけるこの台詞がほぼ唯一の手がかり。「貴様がその名 (レリア) を呼ぶな」というアガムスの台詞等から察するに、「デッカー・アスミこそが、バズド星に漂着した宇宙船の乗組員」=バズド星にスフィアを招く発端だったように思えるが、もしそうなら (デッカー・アスミに非がなくても) 彼の言葉がアガムスに届かないのも無理はなく、カナタへとその役目が引き継がれたことは結果的に賢明な選択だったと言えるだろう。 

しかし、カナタが「アガムスを救う」役割に相応しいと言える理由は他にも複数考えられる。その一つは、彼ら2人が「気の合う者同士」であったことだ。  

「カナタくん、君にはないんですか? 戦ったその先にある……目標みたいなのは」
「あぁ……ケンゴさんにも言われたんすけど、まだよくわかんなくて。目の前にいる人を助けたいって思ったら、それだけで一杯になっちゃって」
「なるほど、君は善意で戦ってるんですね」
「そう……なるんすかね」
「しかし、あてのない善意というものは “逆に人を傷つける” 結果になることもある。気を付けた方がいい」
「……」
「カナタくんにも、何か目標が見付かるといいですね」

-「ウルトラマンデッカー」 第12話『ネオメガスの逆襲』より 

第12話『ネオメガスの逆襲』におけるこのやり取りは、アガムス……もといアサカゲのプライベートな心情が吐露された非常に貴重なシーン。 

「あてのない善意~」のくだりはアガムス自身の経験から来る忠言であり、そこにはカナタへの純粋な「気遣い」だけがあるように思える。であれば「カナタくんにも、何か目標が見付かるといいですね」という言葉も、その後に見せた屈託のない笑顔にも決して嘘はなかったのだろう。 

彼はアガムスとして正体を現した際も (ダイナミックタイプ発現前までは)「君個人に恨みはない」と語っており、むしろ親しみを抱いていたようにさえ思える。プライベートの関わりはほぼなく、あくまで仕事上の関係に留まっていた可能性が高いにも関わらず、アガムスがカナタに親近感を抱いていたこと……。そこに理由があるとすれば、それはきっと、彼らが「似た者同士」だったからかもしれない。

 

 

夢を持てず、夢を持つ誰かの為に「今」を守るカナタと、自分ではなく妻=レリアの夢の為に生きていたアガムス。 

ウルトラマンという「ヒーロー」の力を得ても「普通の人間」であり続けたカナタと、スフィアに家族を奪われるという「ヒーロー」のような悲惨な過去を持ちながらも、スフィアに抗うことなく復讐 (八つ当たり) という道しか選べなかった「普通の人間」であるアガムス……。 

第12話の時点で、アガムスはカナタの内面=これらの共通項は知り得なかったのだろうけれど、それらが形作る「雰囲気」にシンパシーを感じたからこそ、彼はカナタに心を開き、素直な言葉を口にしていたのではないだろうか。


一方、それは裏を返せばカナタにも言えること。カナタもアガムスに特別なシンパシーを感じたからこそ彼を放っておけず、だからこそ、どうすれば救えるのか分からない彼の境遇に頭を抱えてしまったのかもしれない。そして、そんなカナタの「アガムスをどうすれぱ救えるのか分からない」という思いは、カナタだけでなく (自分を含め) 多くの視聴者も抱えていたものだろう。 

スフィアによって家族を失い、復讐の為に過去の地球を訪れたアガムス。しかし、カナタたちの地球に何が起こっても「アガムスがいたバズド星」にも「レリアが亡くなっている事実」にも、何一つ変化は起こらない。……のだが、アガムスはそのことを分かった上で、単なる「復讐」として地球を襲っていた。そんなアガムスを一体どうすれば救えるのか、なんて (少なくとも自分には) まるで見当もつかなかったし、彼に向き合う当事者=カナタにとって、それが何度悩んでも悩み足りない程の難題であったことは想像に難くない。 

(とはいえ、第16話『君は君のままで』で悩み、リュウモンの言葉に吹っ切れたと思いきや、第18話『異次元からのいざない』でも悩み、第19話『月面の戦士たち』での両親の言葉で立ち直り、今度は第21話『繁栄の代償』でまた悩み、変身できなくなる……と、仕方ないとは思いつつも流石にカナタが悩む→克己するのパターンが多すぎた為に、2クール目が全体的にメリハリが弱い+暗いイメージになってしまったことは否定できないように思える)

 

 

アガムスが自らの過去を明かせば明かすほど、彼を救う方法を見失ってしまうカナタ。その一方で、テラフェイザーという切り札が決め手にならなかったアガムスも次第に追い詰められていく。 

ヤプールという得体の知れない存在と手を組んだり、テラフェイザーにスフィアを仕込み、自身を蝕ませてまでテラフェイザーを強化したり (第11話『機神出撃』でライバッサーが現れた背景からして、最初からスフィアの仕込み自体はあった様子) 、シゲナガ博士がネオメガスを操ったのと同じ方法でチャンドラーを使役したものの、デッカーと戦うまでもなく敗れてしまったり……。しかし、アガムスは本質的に「ただの人」でしかない=良い意味で「悪役の素養がない」人間である為、搦め手は使っても「無辜の人々を人質に取る」といったような残酷な手段に打って出ることはなく、結果彼の企みはデッカーやGUTS-SELECTに悉く阻止されてしまっていた。 

それぞれ作品の主人公とヴィラン枠とは思えないほどに苦労し、思い悩み続けるカナタとアガムス。そんな2人の明暗を分けたのは、残酷にも「支えてくれる人々の有無」だった。  

「お前は単純なやつだ。お前みたいな単純野郎が規模のデカいことを一人でグチグチ考えたって、解決なんてできやしない」
「……」
「一人じゃどうにもならないなら、誰かに助けを求めたっていい。そういうのが……チームなんじゃないのか」

-「ウルトラマンデッカー」 第16話『君は君のままで』より 

カナタはあくまで普通の人間。ただでさえ不器用な彼にとって「アガムスを救う」という約束はまさに難題で、到底一人で実現できることではない。何度も心を折られそうになるカナタを前に進ませたのは、彼を見守る人々の支えだった。 

リュウモンやイチカの言葉、火星にいる両親からの激励、そして、未来で戦うもう一人のウルトラマン=ウルトラマンダイナの「未来は、誰にも分からない」というメッセージ。それらを受けて「自分にできること、自分のやるべきこと」を貫く決意を固めたカナタは、かつて自分を諭してくれたリュウモン、イチカを今度は自分自身の言葉で励ましてみせる。  

リュウモンくんは平気なの? 私たちが宇宙に出た結果、バズドが滅んだって聞いても」
「それは……」
「滅んでないよ」
「えっ?」
「デッカー……俺が会った未来人は、バズドのこともまだ諦めてなかった。向こうでもまだ必死に戦ってるんだ。だから……俺も目の前のことを頑張る!」
「お前……」
「立ち止まることだけは、もうしたくないんだ」
「……そうだな」
「うん。……前とは立場が逆になっちゃったね、カナタ」

-「ウルトラマンデッカー」 第22話『衰亡のバズド』より 

「今」を戦うことに自身の願いがあり、今を守ってこそ、皆の夢見る「未来」に繋がる。数多く悩んだからこそ確かな答えを掴み、立ち止まることなく走れるようになったカナタは、その積み重ねの果てに千載一遇の機会を手にする。第23話『絶望の空』における、記憶を失ったアガムスとの面会だ。  

「正直、警戒していたんです。でも、あなたになら話してもいいと思いました」
「……どうしてですか?」
「私を、救おうと思ってくれているのですよね?」
「……!」
「あなたは、私を救おうとしてくれていた。その為に、何かと必死に戦ってくれていた……。そうやって、傷まで負って。なぜかそんな気がしたんです。だから会いに来てくれたのではないのですか?」

-「ウルトラマンデッカー」 第23話『絶望の空』より 

アガムスを救おうとするカナタの戦いは、決して無駄ではなかった。彼がデッカー・アスミとの約束を果たす為、そして彼自身の「目の前で苦しんでいる人を助けたい」という願いの為に走り続けていたからこそ、彼はこの時カナタを信頼してくれた。 

アガムスが記憶を失ったのは偶然かもしれないけれど、このことがきっかけで、カナタがアガムスを救う唯一の手がかり=「レリアの夢」を知ることになったのは、これまでのカナタの努力への報い、ないし「運命」だったようにさえ思える。

 

 

「アガムス! お前ホントにそれでいいのか!? 大切な人を守れなかった自分が、許せないだけじゃないのかよ!!」
「……」
「地球ごと、消えてしまいたいだけじゃないのか! 本当にそれでいいのか!? 地球に……いろんな星に行きたいって、レリアさんは言ってたんだろ!?いろんな星の人と友達になりたいって、思ってたんだろぉっ!!」
「……ッ!」
「 “宇宙中のたくさんの仲間たちと、幸せな未来を作る” それが、レリアさんの夢じゃなかったのかよおぉぉぉッ!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第24話『夢の果て』より

 

一見、誰にも救えない状況にまで追い込まれていたアガムス。心に壁を作り、他人の言葉を悉く拒絶する彼を救ったのは、他人ではない者=最愛の妻、レリアの夢だった。   

なぜ彼がこのことを忘れていたのかは定かではないけれど (スフィアを取り込む前から地球を標的として定めているということは、おそらくレリアを失った際、地球人に怒りの矛先を向ける過程で記憶の奥底に封じてしまったのではないだろうか) 、少なくともこの時、アガムスにとって地球は「憎悪すべき復讐の対象」から「愛した人が夢見た星」へとその姿を変えた。 

レリアの命は戻らない。けれども、彼女の夢=彼女が夢に見た星、地球の未来を守ることはできる。スフィアに反旗を翻したアガムスは、奇しくも「カナタと同じ "誰か (レリア) の夢の為に、今を戦う戦士" 」になっていたのだ。

 

「……ありがとう……っ!」

-「ウルトラマンデッカー」 第24話『夢の果て』より

 

バズド星の過去を変えることでもなく、レリアの命を救うことでもなく、アガムスの「今」を変え、その心を救ってみせたこと。それが、最後まで「ウルトラマン」としてではなく「普通の人間」としてアガムスにぶつかり続けたアスミ カナタが、デッカー・アスミという「ヒーロー」を越えて辿り着いた明日だった。 

「目の前で苦しんでいる誰かの心を救い、約束を果たした」……字面にしてみれば、カナタの行いは決して大それたことではない。けれど、カナタがアガムスの心を救わなければ「スフィアオベリスクの破壊」も「マザースフィアザウルスの打倒」も成し得なかった。カナタは最後まで「今」を「普通の人間」として走ることしかできなかったけれど、そんなカナタでなければこの未来に辿り着けなかった……というこの事実こそが、この『ウルトラマンデッカー』の本懐だったのではないかと思う。

 

「やったね、カナタくん」
「はい! ……結局、戦いの先に何があるのか、答えは見付かりませんでした。でも、俺はこれからもこうやって生きていきます。“目の前にあることを、一つ一つ” ……それが、未来に繋がると信じて」
「うん……。それでいいんじゃないかな」

-「ウルトラマンデッカー」 第25話『彼方の光』より

 

この現代において、夢見る未来を持つことは簡単ではない。それを持てない人も大勢いるかもしれない。けれど、その有無が人の価値を決めることはない。夢を持っていない / 持てないなら、目の前にある「今」に全力を尽くせばいい。 

「大切な相手との約束を守る」ことでもいい、「隣にいる、苦しんでいる誰かを助ける」ことでもいい。覚悟と責任を胸に、今すべきことを全力で走り抜けることができたなら、それは立派な「ヒーロー」であり、その努力と献身は皆の「夢見る未来」を作り、支えていく礎になる。カナタがアガムスという「隣人」の心を救ったことが、地球の解放という未来に繋がったように。 

このような、普遍的で暖かく、今の時代だからこそより響くメッセージを届けてくれたのが『デッカー』であるなら、それは「人間の “不完全さ” 」を受け入れ、それでも明日へ走り続ける魂が「光」であると謳い上げた25年前の輝き=『ダイナ』の志を確かに継ぐ、現代の「人間讃歌」だったと言えるのではないだろうか。

 

ヒカリカナタ

ヒカリカナタ

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おわりに~『デッカー』の欠点と、その先に続くもの

令和の世に送り出される特撮ドラマとして、25年前の/現代の子どもたちへ贈られる「NEW GENERATION DYNA」として、シリーズの成功・反省を活かしつつ非常に完成度の高い作劇を見せてくれた『デッカー』。しかし、そこには「欠点」もまた存在していたように思う。

 

作品を構成する要素が、いずれも良く言えば「王道」「堅実」、悪く言えば「新鮮味にかける」ものであり、「『デッカー』独自の色」が弱い (=キャッチーさに欠ける) こと。 

HANE2やリュウモンなど独自の味を出していたキャラクターたちの活躍が、終盤に至るまで「無難なもの」に留まってしまっていたこと (例えばリュウモンは「見つめる天才」という設定含め、中盤から度々カナタの正体を察しているかのような演出が行われていたが、それが終盤の展開に大きく影響することはなかった) 。 

ターニングポイントである第14・15話に比べ、終盤の展開が「インパクト」で押し負けている節があったこと (『トリガー』の最終回を踏まえての「TPUサーガの第50話」でもあることや、スフィアという存在のスケール感に鑑みると、些か落ち着いた、あるいは無難なクライマックスになっていたことは否めないだろう)

 

「王道」で「堅実」な作風とは、往年のシリーズファンからも受け入れやすく、新たなシリーズファンにも響きやすいという安定した選択肢である反面、一方では「これまでのシリーズとの差別化が難しい / 埋没する危険性が大きい」ということでもある。その上で前述の欠点を抱えていたことが要因となってか、『デッカー』は直近の話題作=『Z』や『トリガー』に比べ、話題性という点で大きく劣っていたように思う。 

このことは数年前までなら「ややパンチが弱い」という一言で済んでいたのかもしれないけれど、こと令和という時代は「優れたエンタメが氾濫し、少しでも飽きられてしまえば切り捨てられてしまう」という残酷な時代であり、話題性=作品の持つキャッチーさ/インパクトは今や作品の「生命線」とでも呼ぶべき重要なファクター。『デッカー』はその物語やテーマこそ時代を丁寧に反映していたけれど、これらの点で時代に適応できていなかった点は「明確な欠点」と考えて然るべきだろう。

 

しかし、それでも「シリーズ構成に力を入れる」「怪獣や宇宙人を魅力的に描く」という、これまでのニュージェネレーションシリーズが何度も取り零してきたことをつぶさに掬い上げ、「ヴィラン枠」を含めたあらゆる要素を無駄なく『Z』並かそれ以上のスマートさで練り上げてみせた『デッカー』の完成度は、それこそまさに「唯一無二」のもの。そんな作品が、坂本浩一監督でも田口清隆監督でもない超新星=武居正能監督の手で産み出されたことは『ウルトラ』の歴史における大きな転換点となったのではないだろうか。

 

 

そして、そんな『デッカー』の真のゴールが描かれるのが、2月下旬に公開される完結編=『ウルトラマンデッカー 最終章 旅立ちの彼方へ…』。 

謎のウルトラマン=ウルトラマンディナスはデッカーとどのような関係を持っているのか、『旅立ちの彼方へ…』というタイトルは一体何を意味しているのか、ウルトラマンダイナは物語にどのように関わっていくのか、トリガーやトリガーダークなど、未だ明かされていない面々の参戦はあるのかどうか……。

 

そんな謎と期待が満載の『最終章』を心待ちに待ちつつ、私たちもこの過酷な、けれども可能性に満ちた「今」を精一杯生きていきたい。「努力の天才」アスミ カナタの背中に、決して恥じることのないように。

 

「やるしかねぇ……! 今、やるしかねぇんだぁぁーーーっ!!」

-「ウルトラマンデッカー」 第2話『決意のカナタ』より

 

彼方の光