総括感想『ゴジラ ミレニアムシリーズ』- 志と現実の狭間で揺れる “新世紀ゴジラ” たちは何を遺したのか

時に2023年冬。『ゴジラ-1.0』や『ゴジラxコング 新たなる帝国』の公開を控えて界隈が大いに湧き立つ中、有識者諸兄と共に『ゴジラ ミレニアムシリーズ』実質初見マラソンに挑む成人男性がいた。筆者である。

 

 

ゴジラをこよなく愛するフォロワーのツナ缶食べたい氏 (@tunacan_nZk) と結城戸悠 (YUKI) 氏 (@Yukido_U) 。お二人のご厚意で『VSシリーズ』を完走してから一年とちょっと、念願叶って遂に完走したミレニアムシリーズは――およそ一言では言い表せない、なんとも不思議な後味を残す作品群だった。  

この後味の正体は一体何なのか。ミレニアムシリーズとは一体何を描いた、どのようなシリーズだったのか。ミレニアムシリーズ実質初見マラソンを終え、勢い余ってもう一周走り直したミレニアム真っ只中の頭をフル稼働させて、その答えを模索していきたい。


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《目次》

 

前談 -『平成モスラ』シリーズについて

 

ゴジラ ミレニアムシリーズ』とは、1999年公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』から、2004年公開の『ゴジラ FINAL WARS』までの6作品を指す呼称。「ゴジラの死」を壮絶に描いた『ゴジラvsデストロイア』が1995年公開なので、両シリーズはたった4年しか間が空いていないことになる。 

……と思いきや、その間には「ゴジラ」の名こそ冠していないものの、明確にその志を継ぐ作品が存在していた。『平成モスラ』シリーズである。

 

 

モスラ (1996) 』『モスラ2 海底の大決戦』『モスラ3 キングギドラ来襲』の三作品から成る『平成モスラ』シリーズは、『モスラ (1961) 』以来実に35年ぶりとなるモスラの単独主役作品群。ゴジラシリーズに比べると露出が少ないこともあって、自分にとってはまさに「幻の映画」だったこの三部作が、現在なんと無敵のスーパー映像サブスク=U-NEXTにて全作無料配信中。ゴジラVSシリーズからの流れで飛び込んでみると、これがま~~~~びっくりするくらい面白かった。  

子どもたちや魔女のベルベラが繰り広げるファンタジー風味の冒険活劇、あるいは成長譚のワクワク感は『劇場版 ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』同様、大人になったこの時分で見るからこそ響くものがあったし、『ゴジラVSモスラ』から更に進化した操演技術で生き生きと描かれるモスラのドラマ、とりわけ『モスラ (1996) 』における親モスラの死にはボロボロに涙してしまった。後にも先にも、東宝特撮で涙してしまったのは「ゴジラ・レクイエム」とここだけだ。 

一方、モスラが主役ということでほんのり危惧していた「アツさ」についても本作は抜かりない。モスラの世代交代や進化は『VSシリーズ』後半のゴジラに負けない盛り上がりを見せてくれたし、モスラが可愛く、そしてカッコ良いからこそ、デスギドラたち凶悪な面構えのボス怪獣たちもそのデザイン・造形以上に映えていたように思う。 

その他多くの点も含め、総じて「VSシリーズの志を受け継ぎつつ、子どもと大人に異なる方向から響く新たな魅力を構築した」と言える傑作群。それが『平成モスラ』シリーズだったのではないだろうか。 

(それはそれとして、ニライカナイに蹂躙されるダガーラや子どもを拐うギドラにはまた別種の愛嬌……もとい妙な味わい深さがあった。無敵要塞ニライカナイに鎮座するモスラは、このシリーズの緩い部分を象徴する名カットと言えるかも……?)

 

 

不穏な幕開け - 『ゴジラ2000 ミレニアム』

 

『VSシリーズ』に『平成モスラ』にと、これらの作品に想像以上にハマってしまった自分。しかし、そんな自分が「次も楽しみ~!」と宣えば宣うほど、同伴者二人の顔が不安に曇っていく感覚が (通話越しだけど確かに) あった。 

なぜ二人がそんな顔をされていたのか。自分がその答えを察したのは、ミレニアムシリーズ初期の作品群を見終えた直後。……二人とも、気を遣わせてしまってすみませんでした。

 

 

平成モスラシリーズの興行収入がやや低調だった為か、はたまた『GODZILLA (1998) 』が様々な波紋を呼んでいた為か、思ったより早く帰ってきた新世紀のゴジラたち。そんなミレニアムシリーズに共通する大きな特徴は「各作品が『ゴジラ (1954) 』と地続きの世界観を持っている」こと。  

自分はその設定を予め知っており、鑑賞前からそれはもう盛大に胸を弾ませていた。オタクの大好物「原点からのif」が六本も観れるなんて凄まじい贅沢だし、このハードルの高い設定を貫く決断が「VSシリーズとは違うものを作る」という製作陣の決意表明のようにも思えたからだ。  

……と、そんな自分の期待をもにゅっと捻り潰してしまったのが、シリーズ一作目『ゴジラ2000 ミレニアム』だった。

 

 

1999年公開なのに『2000』というタイトルに世紀末 / 新世紀ブームを感じさせるゴジラ2000 ミレニアム』。この作品は完全初見なのだけれど、話を聞く前は大きな期待を寄せている作品だった。理由は単純明快、「ミレゴジ」とオルガのビジュアルが自分の好みド真ん中だったからだ。

 

 

平成一桁生まれの自分にとって、おそらく最初に触れたゴジラが「ミレゴジ」と呼ばれる本作のゴジラ。生物的で刺々しく、黒い体表にビビッドな背鰭が映えるミレゴジは今でも大好きだし、そんなミレゴジに負けず劣らず大好きだったのがその対戦相手=オルガ。 

凶悪な顔付きに、明らかに歪な体型。ロマンと癖の詰まったビジュアルのオルガを当時の自分は大層気に入っていて、その熱量たるや、映画を観てないのにムービーモンスターシリーズのオルガを買って貰い、ウルトラマンガイアとしっちゃかめっちゃかに戦わせていたほど。 

そんなオルガとミレゴジの戦いがようやく見れる、しかも世界観はあの第一作と地続き! あちこちから聞こえてくる悪評を一旦忘れて、喜び勇んで飛び込んで――その何とも言えない余韻に、思わず首を捻ってしまった。

 

 

結論から言うと、『ゴジラ2000』において自分が期待していた要素は悲しいくらい描かれなかった。

まず前提として、本作は非常にアダルティな雰囲気で作られ……ようとした形跡が伺える。 

ゴジラ予知ネットワークを主宰し、ゴジラを生物学的な観点から研究する主人公・篠田雄二と、ゴジラを宿敵として狙う危機管理情報局の局長、片桐光男。『ゴジラ (1954) 』への目配せも垣間見える彼らのドラマや、片桐とミレニアンに共通する「ゴジラを求めた末に破滅する」という結末、都市を蹂躙するゴジラに向けて篠田が呟いた「ゴジラは俺たちの中にいるんだ」という台詞……。これらの要素からは、ゴジラを戦争や核兵器から一歩引いた視点で俯瞰し、それらの引き金となる「欲望」や「執着」といった人間の持つ危うさそのもののメタファーとして捉え直すことで「 “人類への警鐘” としてのゴジラを描き直す」という意志が窺えるところ。 

しかし、作中では「なぜ篠田や片桐はあそこまでゴジラに執着しているのか」という肝心なバックボーンが明かされず、その結果、本作のテーマを体現するはずだった篠田・片桐それぞれのラストシーンが非常に唐突……もといシュールなものになっているばかりか、彼らの執着対象であるゴジラもその存在感を大きく落としてしまっている。 

人間たちとの因縁も、初代ゴジラとの関係性も、その出自さえも明かされず、終始ふわっとした「人類のエネルギーを狙う凄い怪獣」のように扱われてしまっている本作のゴジラ。一方、そんなゴジラに負けず劣らずふわっとした活躍 (?) を見せるのが、本作のボス怪獣であるオルガだ。

 

 

大きい手は豪快にゴジラを薙ぎ倒すどころかペチ……ペチ……と「はたく」の域を出ず、ビームも滅多に使わない。軽快にジャンプすることもあるが特段の意味はなく、満を持しての形態変化も「ゴジラを口に含む」止まりで、そのまま体内から放射熱線を撃たれて敢えなく爆死……。 

いや、理屈は分かる。オルガの巨大な腕は「ミレニアンがオルガナイザーGを制御しきれなかった」ことによる異常進化であり、戦う為のものではない。そういう理屈は分かるんだ。それにしても、それにしたって彼の活躍には圧倒的に「華」がない。  

看板であるオルガに華がないことは、ただでさえ地味な画が多い本作から「メリハリ」や「爆発力」をも――ミレニアンの謎スクリーンセーバーだとか、ミレニアンの正体が絵に描いたようなタコ型火星人のそれだとか、そういう無数のツッコミどころを押し流すだけの火力を根こそぎ奪い去っており、そのため本作は「大きなポテンシャルを秘めながらも各要素が軒並み消化不良で、相対的に欠点が悪目立ちする」という、極めて致命的な欠陥を抱えてしまっているのである。  

製作期間の短さは勿論、予算やノウハウの不足など『ゴジラ2000』が抱えてしまった様々な問題点には相応の事情があるのだろうし、「オルガの存在を事前に明かさない」というサプライズも、もう少し歯車が噛み合っていれば大きな話題を呼ぶことができたのかもしれない。しかし、本作が残した興行収入は『VSデストロイア』の22億を大きく下回る16.5億円。シリーズの先行きに暗雲を感じ始めたのはゴジラファンだけではないのだろうし、自分自身も、この先のミレニアムシリーズマラソンに「本当に最後まで楽しめるかな……」と不安がらずにはいられなかった。

 

(尚、こちらの小説版では各描写が大幅に補填されているようで、本作の「目指していたであろう形」が楽しめると専らの噂。シリーズ第一作でありながら従来と変わらぬスパンで製作・公開された『ゴジラ2000』は、ともすれば製作陣からしても「思うようにいかなかった」「悔いの残る」作品だったのかもしれない)

 

更なる不安と、その中で光るもの - 『ゴジラ×メガギラス』

 

シリーズ第一作目ではあるものの、様々な噛み合わなさから「惜しい」面が悪目立ちしてしまった『ゴジラ2000』。そこに続いたのが、2000年公開の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』だ。

 

 

「×」の文字や「G消滅作戦」の副題など、タイトルから既に前作からの路線変更が滲み出ている『×メガギラス』。事実、そのような派手さ・ケレン味こそが本作の大きな魅力となっている。 

ゴジラ戦を見据えた組織「Gグラスパー」は、特殊戦闘機のグリフォンや、マイクロブラックホールを生成する次元兵器=ディメンション・タイドを保有しており、対する本作のボス怪獣ことメガギラスは、ポケットモンスター等を意識したであろう多段進化怪獣。渋谷の水没や軌道上からのディメンション・タイド発射といったスペクタクル的な見せ場の多さからしても、(『VSビオランテ』から『VSキングギドラ』への流れのように) 前作の反省を活かし、ファミリー向けエンタメ作品としてより高い娯楽性を獲得したのがこの『×メガギラス』と言えるだろう。

 

 

また、この『×メガギラス』で自分が特に好きなのはその冒頭、現行のゴジラスーツで『ゴジラ (1954) 』を再現する一連だ。 

「現在のスーツで過去作品を再現する」ことそれ自体のロマンや、モノクロ演出のような細かいこだわりは勿論、それにより「初代ゴジラが倒されなかったifの世界」という本作の特徴的な世界観をダイレクトに伝えてくれるのも大きな魅力。こういうのが見たかったんですよ、『ゴジラ2000』で……! 

更に、アバンを〆るのは「ゴジラとの白兵戦」という非常にレアなシチュエーション。このシーンは単に「画が新鮮」というだけでなく、白兵戦というシチュエーション故に「無力感」が伝わりやすい=主人公である辻森桐子への感情移入を促進してくれる点もポイントだ。

過去作の再現、そこからのif展開、ゴジラとの白兵戦という三連コンボで視聴者を引き込み、主人公にガッツリ感情移入させてからのタイトルイン……。この一連は紛れもなく素晴らしいと感じたし、開幕早々『×メガギラス』への期待値は天井スレスレまでブチ上がっていた。(噂の割に) 面白そうじゃん、メガギラス!

 

 

……ところが、本編に入ると『×メガギラス』は物凄いスピードでそのメッキが剥がれていく。具体的には、冒頭の気合いが嘘のように次々と「抜けた」面が顔を出してくるのである。 

「ディメンション・タイドをなぜ衛星軌道上から発射しなければならないのか」というツッコミに対する具体的な説明がなく、その結果ゴジラやメガニューラの殲滅に失敗したり、そこそこの尺を使って描かれ、辻森との会話シーンまである「メガギラスの卵を拾った子ども」が本当にそれ以上でもそれ以下でもない単なるモブだったり、いかにも主人公らしく登場した工藤元に特段のドラマがなかったり、ゴジラがド終盤で急にコメディタッチに描かれ出したり……。 

更に、本作のボス怪獣=メガギラスについても、渋谷が水没した理由が「メガヌロンによる地下水脈の破壊」と台詞で語られるだけであったり、最大の武器である超高周波が映像上非常に地味であったり (なのに衛星軌道上にあるディメンション・タイドを破壊したり電子機器のプログラムにまで影響を及ぼしたりと、高周波の一言では済ませられないトンデモ武装なのがシュールだ) モスラやバトラといった近作の操演怪獣に比べて動きが少なく機械のようであったり (似た存在のバトラよりもより戦闘マシーンめいているというアイデンティティーにもなっているので、この点は良し悪しかもしれない) と、どうにもその脅威度が伝わってこない=ボス怪獣としての説得力に欠けてしまっているのである。 

これらの「抜け」それ自体は、もしかするとそう大きな問題ではないのかもしれない。けれど、問題は冒頭の一連によって期待のハードルが上がりに上がってしまったこと。そのため、本作を視聴する上ではこれらの突っ掛かりをスルーすることが難しく、それらを覆し得るメガギラスの活躍も前述の通り。本作を見終えた自分が「悪くはなかったけれど、ヘンな作品だった」という感想を抱いてしまったのは、数ある魅力をそれ以上の突っ掛かりが相殺してしまっていたからなのかもしれない。  

(この辺りは、悲しいかな『ゴジラ2000』の系譜と言うべきだろうか)

 

……ただし、それらを踏まえても冒頭の一連や「初代ゴジラのif」という土台を活かした設定などには間違いなく光るものがあった。このような本作の美点は、翌年以降の作品で着実に発展・継承されていくことになる。

 

 

平成ガメラ』と『白目ゴジラ』の衝撃

 

次の作品に進む前に、どうしても触れておかなければならない作品群がある。みんな大好き平成ガメラシリーズだ。

 

 

1995年公開の『ガメラ 大怪獣空中決戦』、1996年公開の『ガメラ2 レギオン襲来』、そして1999年公開の『ガメラ3 邪神覚醒』の三本から成る『平成ガメラ三部作』。自分がこのシリーズを初めて見たのは高校生か大学生の頃で、ミレニアムシリーズと並走する形でつい先日に再履修。その完成度に改めて圧倒されることになった。 

夕陽に佇むギャオスや月を背負って飛翔するイリスなど、アナログ・デジタル双方において「異常」と言う他ないクオリティの特撮や、『機動警察パトレイバー』等でもお馴染みの脚本家・伊藤和典氏によるキャッチーで粋な名言の嵐。王道怪獣映画→シチュエーションドラマ→伝奇・ホラーという三者三様の作風に、ガメラ、ギャオス、レギオン、イリスたちの突出したカッコ良さ……。魅力を挙げたらキリがない本シリーズだけれど、敢えてもう一つ好きな点を挙げるなら、それら個々の魅力が「ガメラVSボス怪獣」の最終決戦に収斂する構成の美しさだろうか。

圧巻の特撮・デザインワークで描かれる怪獣たちと、彼らの因縁をより熱いものに練り上げていく人間たちの群像劇。こうして書くと「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれないけれど、『平成ガメラ』においてはこれら全ての要素が高水準で、その上驚くほどに無駄がない。これらの積み重ねが収斂・爆発するクライマックスの決戦は、その迫力も実在感も、画やシチュエーションの美しさも、文字通り手に汗を握ってしまう緊張感も、三作それぞれが互いに譲らぬ「アナログ特撮の最高峰」。それを決して多くない予算で実現させた情熱と創意工夫、そして「研ぎ澄まされた」という表現が相応しい、秀逸で行き届いた脚本……。それら全てが揃った奇跡こそが、平成ガメラ三部作が怪獣映画のマスターピースとして今尚輝いている所以なのかもしれない。

 

 

して、そんな『平成ガメラ』を手掛けた金子修介氏が監督を務めたのが、ミレニアムシリーズ三作目として2001年に公開されたゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃 (以下 “GMK” ) である。

 

 

その圧倒的なクオリティで怪獣映画の金字塔を打ち立ててみせた『平成ガメラ』シリーズ。ミレニアムシリーズの製作にあたってこの平成ガメラの存在は間違いなく念頭にあっただろうし、それだけに金子修介氏に監督をお願いする」ということは当時製作内外で大きな波紋を呼んだのではないだろうか。 

しかし、前作の興行収入が非常に厳しい数字となってしまったことやスター怪獣路線の復活、そして (よりによって) 本作から『ハム太郎』との同時上映となったことを踏まえれば、そうせざるを得なかった理由は自ずと察せられるところ。本作は、ミレニアムシリーズどころか『ゴジラ』というブランドにとっても、まさに「起死回生の一手」だったのだろうと思う。 

 

 

かくして、様々な期待を背負って送り出されたであろう『GMK』。その舞台は、他のシリーズ作品同様『ゴジラ (1954) 』の数十年後であり「オキシジェン・デストロイヤーによってゴジラが倒されたが、その事実が伏せられ “自衛隊によってゴジラが撃滅された” ことにされた」という世界線。この経緯が作中で語られることからも明らかなように、本作は前二作以上に『ゴジラ (1954) 』と強い繋がりを持っており、そのことは本作のゴジラ=通称「GMKゴジラ」のデザインからも明らかだ。

 

 

GMKゴジラが白目、という話はかねがね耳にしていたけれど、その姿が「初代ゴジラを模したもの」というのは予想外も予想外。「凶悪な面構えに初代ゴジラの体型」というアンバランスさがゾンビのような恐ろしさを放っていたこともあり、初見時はたまらず声を漏らしてしまっていた。 

しかし、このGMKゴジラの恐ろしさは何も見た目だけではない。その正体は、なんと太平洋戦争で犠牲となった人々の怨念が古代の恐竜に宿った姿=謂わば人間の怨念集合体であり、かつての悲劇や自分たちの無念を忘れた現代日本への怨嗟によって現れたのだという。ここまで直球の「人間の業が生み出したゴジラ」はそれこそ初代ゴジラ以来だろうし、明確な殺意を持って人々を虐殺し、放射熱線できのこ雲を上げる様には『シン・ゴジラ』のゴジラと同等かそれ以上の恐怖を感じずにはいられなかった。

 

 

そんなゴジラを迎え撃つのが、バラゴン(婆羅護吽)モスラ(最珠羅)ギドラ(魏怒羅)たち護国三聖獣。「人ではなく “くに” を守る」という性質で本作のガメラポイントを一手に引き受ける彼らは、その生物的な造形や活躍 (犬を助けるモスラや、モスラがギドラに力を託すことで「千年竜王」に覚醒する瞬間が個人的にグッと来たシーン。特に後者は何度見ても滾ってしまう……!) など見所が多く、重い雰囲気の本作を盛り上げる立役者となっている。 

……が、そんな本作において、ともすれば護国聖獣以上に大きな役割を果たしていたのが、主人公・立花由里をはじめとした人間たちの活躍。 

レポーターとして現地の様子を伝える=カメラと声を武器に戦う由里をはじめ、本作では各キャラクターたちがそれぞれの場所で懸命に戦う姿が印象的に描かれていた。中でも、由里の父である泰三はゴジラを撃破しながらも芹沢博士とは異なり無事に生還。「ゴジラの心臓は残ったものの、かつての戦いより希望ある結末を迎えることができた」という本作のエンディングを象徴する人物と言えるだろう。 

このエンディングは、きっと「ゴジラの恐怖 (=悲劇の歴史) を過去のものとしてはいけない」という警告であると同時に、「現代人には現代人の “戦い” を生きている」「過去を忘れる人間もいれば、過去を糧に進み続ける人間もいる」というある種の人間賛歌。過去の悲劇にただ胸を痛めるのではなく、過去の犠牲を刻み、悼み、昨日よりも強く明日を生きていく。それは、アメリ同時多発テロ阪神・淡路大震災を経た上で打ち出される『ゴジラ (1954) 』へのアンサーとして、あるいは芹沢博士への報いとして、この上なく誠実なものに思えるのだ。

 

 

みんな大好き「機龍」との邂逅 - 『ゴジラ×メカゴジラ

 

満を持して現れた「ゴジラ (1954) ベースの世界観を存分に活かした作品」であり、27億円という大ヒットを記録した『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』。しかし、このヒットは同時上映された『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険』の存在が無視できないばかりか、今後のミレニアムシリーズにおける「歴代スター復活路線」を決定付けるものでもあった。それ故に、本作の成功は製作陣にとって手放しに喜べるものではなかったのだろうと思う。 

ところが、そんな不穏な状況に颯爽と現れ、シリーズの総決算的な輝きを見せてくれたのが、2002年公開のゴジラ×メカゴジラそして翌2003年公開のゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS、通称『機龍二部作』である。

 

 

実のところ、今回のミレニアムシリーズで最も楽しみにしていたのがこの機龍二部作。理由は勿論、常識外れのカッコ良さを誇る新生メカゴジラ、もとい3式機龍の存在だ。

 

 

武骨な「ワル」の風格がたまらない昭和メカゴジラ。より機械的で、スーパーメカゴジラというロマン溢れる形態を持つVSメカゴジラ。様々な媒体をかじりながらメカゴジラに思いを馳せていた幼少期の自分にとって、それでも不動の「一番好きなメカゴジラ」だったのが件の3式機龍。 

「機龍」という名前通りのシャープで刺々しいフォルム。全身に装備された重火器の数々。必殺兵器アブソリュート・ゼロ……。これだけでも虜になるには十分すぎたのに、視聴直前に「 “高機動型” の存在」加えて「初代ゴジラの骨が使われた半生体兵器」という出自を知ってしまったので尚のこと好きが止まらなくなってしまった。 

そうなったからには、『ゴジラ×メカゴジラ』に求めるのは何よりもまず機龍の晴れ姿、もとい大暴れ。いや、当然ストーリーも面白くあってほしいのだけれど、前作『GMK』で上がったハードルをそのまま引き継ぐのは危険だろうし、本作の「釈ゴジ」という半ばネタじみた呼ばれ方から、何となく「機龍はカッコいいけどそれ以外は微妙な作品なんじゃないか」という不安もあったのだ。 

……故に「機龍さえカッコ良ければオールオッケー!」とハードルを下げて臨んだ『×メカゴジラ』。しかし、いざ蓋を開けてみるとそれは「機龍をカッコ良く描くこと」に全身全霊を投じた娯楽大作=期待を遥かに上回る「機龍 THE MOVIE」に仕上がっていた。

 

 

『×メカゴジラ』の舞台は、例によって『ゴジラ (1954) 』後のif世界。オキシジェン・デストロイヤーで死んだゴジラが「骨まで溶けきらなかった」ことと、1954年以降、モスラをはじめとする東宝怪獣たちが次々と出現している東宝怪獣ユニバース」的な世界観が大きな特徴となっている。

(そのため、メーサー砲のようなシリーズお馴染みの武装は勿論、機龍のようなオーバーテクノロジーの存在にも説得力が出ているのが巧い……!)

 

して、そんな世界で引き上げられた「初代ゴジラの骨」に誘われるかのように現れたのが本作のゴジラであり、迎え撃つのは初代ゴジラのサイボーグとでも呼ぶべき機龍、そしてその正オペレーター=家城茜だ。

 

 

シリーズでも珍しいクール系主人公である茜は、自身のミスで仲間を死に追いやってしまった後悔や施設育ちの過去、機龍隊唯一の女性という立場……等々、様々な孤独と戦う自衛官。そんな彼女が、自身と通ずる孤独を抱えた少女・湯原沙羅との交流を経て機龍と繋がり、心を重ねてゴジラに挑むというストーリーは、シンプルでこそあるがそれ故に感情移入しやすく、ゴジラVS機龍の最終決戦に収斂していく話運びもあって「的確にツボを押さえた」ものになっていた。 

更に、本作は (同時上映の『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムハムージャ!幻のプリンセス』の尺が前作より延びたこともあってか) 『GMK』よりも更に短い88分の作品であり、その短さが前述のシンプルなストーリーと噛み合ったことで、むしろ「無駄がなく、テンポが良い」という長所にもなっているなど、本作のストーリーは結果的に「機龍の活躍を最大限に楽しむ」ことに特化・洗練されたものになっているのである。 

(ただ、湯原親子の父親=徳光の茜へのアプローチについては、見ていてどうしても苦い顔にならざるを得なかった。20年前という時代性を踏まえたとしても、年齢差やTPO、茜の意思を考慮しない彼の振る舞いはいかがなものか……)

 

 

かくして、様々なお膳立ての上で発進する我らが機龍。わざわざ言うまでもないけれど、この機龍の大暴れこそが『×メカゴジラ』最大の注目ポイントだ。 

ロケットランチャーにメーサー砲、レールガンに必殺のアブソリュート・ゼロ。全身から引っ切り無しに砲撃を叩き込む様は『VSメカゴジラ』の正統進化として迫力満点だったし、ゴジラの咆哮によって暴走した機龍がそれらの武装で街を蹂躙する様は、ビルを体当たりで貫通するカットや『ガメラ 大怪獣空中決戦』を思わせる「夕陽を背にして沈黙する機龍」をはじめ、全編それはもう凄まじい「撮れ高」ぶり。こんなん劇場で見たら狂ってしまう……!! 

ところが、この時点での機龍はまだまだ「本気」ではなかった。作中終盤、機龍はブースターを吹かしてダイナミックに登場、タックルで看護師を救うヒーローめいた登場をしてみせたり (もしかして『ウルトラマンZ』第4話のウインダム初登場シーンの元ネタ!?) 、隠し武器として電磁ブレードを披露したり、茜の叫びで復活したりと、そのケレン味溢れる活躍ぶりはもはや「メカ怪獣」というよりロボットアニメの主人公機。

おそらく、このいろんな意味でダイナミックな活躍ぶりが初代メカゴジラやVSメカゴジラとの大きな違い=好みが分かれる点なのだろうけれど、ロボットアニメのオタクでもある自分にとってはドツボもドツボ。この機龍の活躍をまだまだ無限に見続けていたかったのだけれど、悲しいかな本作の尺は88分。自分まだ『ゴジラ×メカゴジラ』浴びれます! 浴びせてください!! という思いも虚しく、両者の戦いは「痛み分け」という形で決着。ラストバトルは翌年へ持ち越されることとなった。

 

 

二度目のレクイエム -『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

 

機龍の大活躍やそれを盛り上げる創意工夫によって「前編」であると忘れてしまう程の凄まじい満足と興奮を叩き付けてくれた『×メカゴジラ』。しかし、盛り上がれば盛り上がるほど「次回作への不安」が高まってしまうのがオタクという生き物。機龍のマイナーチェンジやモスラの参戦といったトピックは聞いていたけれど、この『×メカゴジラ』の圧倒的な盛り上がりにどう太刀打ちするのか、正直、期待よりも不安の方が大きかったように思う。 

しかし、いざ現れた次回作=2003年公開の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』は、新たな機龍やモスラの参戦といった魅力を引っ提げつつも、それらとは異なる方向――ストーリー面から予想外の揺さぶりをかけてくる作品になっていた。

 

 

『東京SOS』最大の特徴は、ミレニアムシリーズで唯一「前作と繋がる」作品であること。しかし、前作キャラクターの出番が多いかというとそんなことはなく、先代主人公である茜も新主人公=中條義人とのバトンタッチという極めて美味しいシーンこそあれ、物語に大きく関わってくることはなかった。それ故に、本作では「前作以上に『モスラ (1961) 』と密接にリンクする」というまさかの事態が発生することになる。

 

 

本作のキーマンにして、主人公・義人の伯父である中條信一。彼はなんと、小泉博氏が演じるという点も含めて『モスラ (1961) 』の中條信一と同一人物 (厳密には “並行世界の同一人物” という扱いになるが、何にせよ素敵なファンサービス……!) であり、彼を介するという裏技めいた方法によって、本作の物語にはモスラと小美人が冒頭から大きな関わりを持ってくる。

彼女たちの願いは「機龍に組み込まれたゴジラの骨を海に還して欲しい」というもの。この問題を軸にそれぞれの思惑が交差するドラマには『×メカゴジラ』とはまた異なる味わい・見応えがあるのだけれど、「機龍が話の中心になる」という点はしっかり引き継いでいるのが嬉しいポイントだ。 

本作の機龍=3式機龍〈改〉は、カラーがシャドーシルバーに変更された他、ドリルに変形する腕や射出可能な新型バックパック、アブソリュート・ゼロに代わる切り札こと3連装ハイパーメーサー砲など、ロマン要素はそのままにより渋い進化を遂げた新バージョンで、このカッコ良さの塊が「モスラを救う為に出撃する」というクライマックスには言わずもがな大興奮。しかし、本作のミソはそんな機龍の活躍ぶりに「カッコ良さ」以上の「悲哀」が感じられることだろう。

 

 

どんなにロマンやケレン味があろうとも、機龍とはあくまで「ゴジラの骸をサイボーグ化し、人類の兵器に仕立て上げた」もの。その行いが孕む業を物語の軸に据えたのが本作であり、その口火を切るのは、誰あろう前作主人公=家城茜だった。

 

「もしかすると……機龍は、もう戦いたくないのかもしれない」

-『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』より

 

小美人や茜の言葉を受けて、徐々に「機龍のことを誰よりも分かっている」という自己認識を改め始める義人。そんな彼の変化に引っ張られるように、「いぶし銀のカッコ良さ」を感じていたはずの機龍が「何度も蘇っては望まぬ戦いを強いられる、悲しいゾンビ」に見え始めたのは自分だけではないはず。 

また、そんな機龍の戦いや「ゴジラ・レクイエム」を思わせる演出でモスラに敗北するゴジラの姿を見ていると、機龍という存在にはもう一つ別の文脈も感じられてくる。というのも、機龍とは「人気コンテンツであるが故に、何度も何度も復活を強いられる『ゴジラ』というコンテンツそのもの」のメタファーだったのではないだろうか。

 

 

2003年といえば、ゴジラのみならず「怪獣」というコンテンツ全体に90年代以前のような元気がなかった時代。現に、(それだけが原因ではないとはいえ) 鳴り物入りで始まったミレニアムシリーズも興行収入17億 (2000) →12億 (×メガギラス) と低空飛行、『ハム太郎』との同時上映もあって『GMK』は27億の大ヒットを記録したが、続く『×メカゴジラ』は19億とその数値を大きく落としていた。これらに加え『ハム太郎』やスター怪獣の復活に頼らざるを得なくなった状況を受けて、製作陣の中でもゴジラに無理をさせているのでは」という葛藤が生まれていたとしても不思議ではないだろう。 

そう考えると、現ゴジラと共に眠る道を選んだ初代ゴジラの骸=機龍と、その決断を尊重する義人の姿は『ゴジラ (1954) 』に対する製作陣のリスペクトの表れであり、機龍から義人へ贈られた感謝の言葉は、義人だけでなく「ゴジラというコンテンツを応援してくれた人たち」へのメッセージであるようにも思えてくる。『東京SOS』とは、ミレニアムシリーズ――もとい、ゴジラという作品に対する二度目の「レクイエム」だったのかもしれない。

 

 

ミレニアムシリーズが描いたものと『ゴジラ FINAL WARS

 

ミレニアムシリーズの “個性” とは何だろう。『GMK』を見た辺りから、この疑問がぼんやりと頭を揺蕩い続けていた。 

『VSシリーズ』なら、当時の流行りを貪欲に取り入れたことで生まれたエンタメ性と、作品を跨いで紡がれていった「ゴジラと人間」の熱いドラマ。 

一方、国さえも越えて展開される『GODZILLA (2014) 』以降の新世代シリーズ (という括りにしていいのかは疑問が残るが) なら、それ故の「クリエイター色の強さ」こそが一貫した個性と言えるだろう。 

ならば、ミレニアムシリーズの個性とは何なのか――と言えば、それはやはり「初代ゴジラ をベースにしたif世界」という共通項。  

 

 

確かに、『ゴジラ2000』のように一見しただけではそのことが分からない作品もあるし、ベースが同じというだけで各作品の「色」はバラバラだ。しかし「ゴジラ (1954) をベースにしている」という共通の土台から異なるアプローチが飛び出す面白さは間違いなく本シリーズ独自の旨味と言えるし、神格化されている初代ゴジラを根底に持っているからか、どの作品にも一定の「ゴジラっぽさ」= ある種の「行儀の良さ」が備わっていることも大きな特徴だろう。 

というのも、このミレニアムシリーズはUFOと戦ったりサイボーグ怪獣と戦ったり、ゴジラがそもそも怨念集合体だったりと揃いも揃って奇抜な作品ばかり。にも関わらず、それらの作品を見終えた時に「奇抜な作品だった」という感想が出てくることはなく、むしろ「真面目な作品だった」という印象の方が多く感じられたように思う。 

(「いや、アレはこう……駄目だろ!」と憤ることも少なくなかったけれど)

 

おそらく、自分にそう感じさせた理由こそが「ゴジラ (1954) をベースにした世界観」という共通項。そして、それは結果的に「大枠で “ゴジラっぽさ” を付与していれば、どんな内容でもゴジラっぽくなる」ことの証明=ただでさえ広かったゴジラシリーズの裾野 (自由度) を更に広げる、大きな試金石であったように思えてならないのだ。  

そして、そのことを最も強く裏付けていたのが、他でもない本シリーズの最終作ゴジラ FINAL WARSだろう。

 

 
 
2004年、「さらば、ゴジラ」のフレーズで公開された (当時の) ゴジラシリーズ最終作『FINAL WARS』。あまり劇場に足を運べなかった当時の自分も流石に見に行った思い出の作品なのだけれど、その実態は賛否両論待ったなしのキワモノ映画。というのも、この作品は数多くの魅力を持つ反面、それらをコントロールする「バランス感覚」が致命的に欠けてしまっているのである。  

本作には何体もの怪獣が魅力的なデザインで復活し、クライマックスではゴジラモスラVSモンスターX・ガイガンのようなドリームマッチが展開されたりもするが、大半の怪獣はコメディパートで処理されてしまい、一部に至っては戦闘が描かれることもなく退場してしまう。 

TOKIO松岡昌宏氏やケイン・コスギ氏が繰り広げるバトルシーンはキャスト陣の熱演やダイナミックなアクションなど見所が多く、中でも冒頭のエビラ迎撃戦などは非常に斬新で見応えがある名バトル。が、バトルシーンの大半は「怪獣そっちのけでかなりの尺を持っていってしまう」もののため、自分は一体何を観てるんだ……? という困惑が拭えない。  

国際色豊かな作風は本作の「近未来感」とマッチしているが、その副産物として度々挟まれるアメリカンジョーク (?) がキレもテンポも異様に悪く、上がったボルテージがその都度急激に冷まされてしまう。  

対して「X星人が地球を訪れる→受け入れられる→正体や目的を看破される」一連の流れは異様にテンポが良いが、良すぎるあまりかえってギャグシーンのようになってしまっている。  

ゴジラを健太が庇い、人間をミニラが庇うというラストシーンは、ゴジラシリーズが歴史を重ねていく中で「人間とゴジラとが、その悲しい因縁以上に大きなものを積み上げてきた」ことの象徴のようでもあり、ゴジラが倒されることなく「人間を見逃す (許す?) 」形で幕を下ろすというラストはシリーズの〆に相応しい名エンディング。……だと思うのだけれど、それはそれとしてその立役者である健太&ミニラパートは、この最終盤まで本筋と合流せず完全に独立している。  

……と、このように「全編に渡って一長一短」とでも言うべき異常な作劇が特徴的な『FINAL WARS』。その唯一無二かつ濃厚な魅力からコアなファンが多い、というのも頷ける話だけれど、これが「ゴジラ最終作」として出されてしまった当時の状況を考えると背筋が凍りそうになる。 

自分がこの作品に触れたのは、最初が「世間の評判」に触れることの少ない小学生時代。そして二回目が、この作品が最終作でなくなった現在。これらの絶妙なタイミングで触れられたからこそ、自分はこの作品を比較的フラットな目線で楽しめたように思うし、それは自分が思うよりも幸運なことだったのかもしれない。

 

 

こうして振り返ると、改めてその「魅力とヘンさが同居する」異様さに声が漏れてしまう『FINAL WARS』。しかし、そのような独自性は「最終作だからこそ好き勝手に作ることができた」という背景から生まれたものでもあるのだろうし、それは「大枠で “ゴジラっぽさ” を付与してさえいれば、どんな内容でもゴジラ映画にできる」ことを証明し続けてきたミレニアムシリーズにおける、一つの到達点でもあるのだろう。 

そして、この『FINAL WARS』やミレニアムシリーズによって「ゴジラの裾野」が広がったことは、幅広い作風を武器に盛り上がる昨今のシリーズ展開と決して無関係ではないはずだ。

 

 

中には、この『ゴジラ×コング 新たなる帝国』のように、タイトルやゴジラのカラーリングなど多方面からミレニアムシリーズにリスペクトを捧げている作品も見られるほど。かつて不遇だったVSシリーズが今や一大スターであるように、ミレニアムシリーズが脚光を浴びる日はもうすぐそこまで迫っているのかもしれない。

 

 

おわりに - ミレニアムシリーズと僕

 

ここまでおおよそ20000字弱、作品への毀誉褒貶を好き勝手に書き殴ってきたのだけれど、「じゃあ君はミレニアムシリーズのことどう思ってるのさ」と訊かれれば、自分は迷いなく「好き」と答えるだろう。  

ここまで述べてきたように、ミレニアムシリーズの中には『ゴジラ2000』をはじめ「愛嬌」の一言で飲み込むには雑味が強い作品もある。……が、それでも自分がこのシリーズを愛せてしまうのは、第一に「自分にとっての “世代ゴジラ” だから」というのが大きい。作品として初見でも怪獣たちには馴染みがあったし、そんな懐かしい面々にきちんと出会えたことには得も言われぬ感動があった。 

しかし、そんな事情を抜きにしても、この初見マラソンはただただ純粋に楽しかった。ミレニアムシリーズは、思っていたよりも素直に「楽しい」作品たちだったのだ。  

三者三様の作品テイストや『ゴジラ (1954) 』との向き合い方、オムニバス形式だからこそ読めないラスト、豪華キャストの共演や、特撮界隈でも指折りのデザイン・造形で魅せてくれる怪獣たち……。それらの輝きは紛れもない本物であったし、ミレニアムシリーズはこの令和の時代でも――もとい、ゴジラシリーズが今も続いている「今だからこそ」走り抜ける価値がある作品群だったと、ここではっきり書き残しておきたい。 

改めて、シリーズを伴走してくださった先輩方、本当にありがとうございました。残る作品も少なくなってきたけれど、いつの日か主要作品だけでも「ゴジラシリーズを完走した」と言える日が来ることを、そしてその時も我らが怪獣王がスクリーンで暴れ回っていることを願いつつ、今回はここで筆を置くことにしたい。ありがとうゴジラ、ありがとうミレニアムシリーズ……!!