特撮ヒーロー史にその名を刻んだ革命児、『仮面ライダー龍騎』放送から20年。その劇場版であり「最終回の先行映画化作品」こと『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』が、東京都池袋の映画館である「新文芸坐」リニューアル記念イベントの一環として、なんと主演・須賀貴匡氏のトークショーとセットでリバイバル上映されることとなった。
「仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL&トークショー」2部もありがとうございました!(STAFF) pic.twitter.com/54YgZBwppo
— 須賀貴匡&STAFF (@suga_staff) 2022年5月1日
その衝撃のラストがトラウマとなり、好きな気持ちに反して中々本腰を入れて見返すことのなかった本作。これはいい機会、と早速観に行ったところ、待っていたのは「記憶上のそれを遥かに越える、壮絶でドラマチックな “龍騎のIFルート”」。見方が変わる、などと生易しいものではなく、もはや「別物」にさえ見えてしまうという、なんとも奇妙で鮮烈な体験だった。
(その理由の一端を担っていた新文芸坐の常軌を逸した音響設備についても語りたいのは山々なのだけれど、文章量の問題で泣く泣く割愛……)
下記は、そんな衝撃体験の備忘録として書き留めた、20年目の『EPISODE FINAL』感想文。
長文にはなりますが、是非是非お付き合いください。
※以下、『仮面ライダー龍騎』シリーズのネタバレが含まれます!※
『仮面ライダー龍騎』は2002年から放送された「平成仮面ライダーシリーズ」第3作。前作『アギト』で好評を博した「複数のイケメンライダー×ライダーバトル」という要素を更に推し進めた上で、「ライダーバトルそのものが話の核」「ライダーがカードを使って戦う」などの強烈なエッセンスを投入、その後の特撮ヒーロー史に大きな爪痕を残した異色作だ。
仮面ライダーシリーズでは初となる小林靖子氏のメインライター登用や、日本コロムビアからavex modeへの音楽レーベル移行による楽曲方針の変更など、数えきれないほど多くのチャレンジに満ちていた『龍騎』。しかし、当時小学生、それも低学年だった筆者にとっては、やはり「奇抜な見た目の13ライダー」こそが最大のトピックだった。
今でこそ正統派ライダーらしく見えてしまう龍騎、ナイト、ゾルダさえ、当時は「これが仮面ライダー!?」と驚いていたし、もはや目がどこにあるのかさえ分からない上、初の「仮面ライダー」の名を持つヒールライダーだった仮面ライダーシザースにはそれはもう目を見張った。見張っている間に喰われたのでもっと目を見張った。
2クール目ではその勢いが更に加速。サイがモチーフで、エッジの効いたディテールが魅力的な仮面ライダーガイや、もはや存在そのものが規格外の殺人鬼ライダー、仮面ライダー王蛇まで現れ、小学校のクラスで勃発していた「推し論争」めいたものが混迷を極める中、同年放送の「慈愛のウルトラマン」こと『ウルトラマンコスモス』にこれでもかと影響を受けた筆者は、戦いを止めようと奮戦する主人公=仮面ライダー龍騎こと城戸真司 (須賀貴匡) を一番に応援していたのだという。
だからこそ、ガイや王蛇よりも夢中だったのは仮面ライダーライア=手塚海之 (高野八誠) だった。満を持して現れた、真司と志を共にする仮面ライダー。しかも変身者である手塚は3年前にTVで戦っていたウルトラマンアグル=藤宮博也のそっくりさんときた。大好きにならないはずがなかった。
(1999年放送の『ウルトラマンガイア』に登場したウルトラマン、ウルトラマンアグル=藤宮博也を演じたのは、手塚と同じ高野八誠氏)
……と、『EPISODE FINAL』の初報が飛び込んできたのは、時期を考えるとちょうどその辺りだったと思う。
空想と現実の境目が付いてそうで付いていない小学生当時、「最終回、先行映画化」という触れ込みがどれだけトンチキで破天荒かなど分かるはずもなく、覚えているのは「 (最終回を先に見るのが) なんとなくズルをしてるようで嫌だった」という感覚。
分からなくもない。分からなくもない……! のだけれど、よりによって『龍騎』の最終回である。「誰が勝ち残るのか」という強すぎるフック、気にならないはずがないし、やはり自分の目で結末を確かめたかった。
かくして、公開から程なくして映画館に突撃。待望の「先行最終回」をその目に焼き付け――て、愕然となった。
「先行最終回」と銘打たれて封切られた『EPISODE FINAL』。本作を語るにあたって欠かせないのが「特徴的な演出」と「 “城戸真司ルート” 概念」という2つのトピック。
まずは前者の「演出」について。
本作は「TV版放送中に最終回を映画として先行公開する」という形式の都合上、その内容はあくまでTV版『龍騎』に準じたものとして作られている。
神崎兄妹とミラーモンスターの真実が明かされたり、ミラーワールドが崩壊したりといったイベントこそあれ、物語のベースにあるのはあくまでTVの流れを汲むライダーバトル。そのため、NEVERというTVと異なる敵との戦いを描いた『劇場版 仮面ライダーW AtoZ 運命のガイアメモリ』や、本編とは異なる世界観を描いた『劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』のような作品群が持つ、ある種の「劇場版らしい特別感」をそれらの作品とは異なる方向性で恣意的に付加する必要があったと思われる。
その役目を最も分かりやすく担っていたのが、本編冒頭から姿を現す白いミラーモンスター、シアゴーストだろう。
ヤゴをモチーフとし、遺骸のような不気味さを持ったこのモンスターは、その貧弱なスペックと引き換えに「いくら倒してもキリがない」という言葉がそのまま当てはまる程の圧倒的な数を誇っている。
そのため、彼らの出現は具体的な脅威に直結こそしないものの「何かがおかしい」という雰囲気を瞬時に作り出し、更には「無数のシアゴーストをファイナルベントで切り払っていく仮面ライダーファム」などの豪華な絵面の創出に貢献してもいる。あらゆる意味で、本作の立役者と言えるモンスターだ。
とはいえ、前作『アギト』のアントロードや『剣』のダークローチなど、所謂「戦闘員枠」の敵キャラクターはこの時点で既に珍しくも何ともない。
このシアゴーストの真髄は、脱皮することでトンボ型モンスターのレイドラグーン、そしてハイドラグーンへと進化し、更には文字通り「際限なくその数を増やしていく」ということ。
その姿は、さながら聖書で語られるイナゴの群れのようでもあり、シアゴーストの進化過程が本作の「終わりに向かっていく恐怖」を大いに駆り立てるカウントダウンの役割をも果たしていたように思う。
そんな彼らの本領が発揮される(されてしまう)のはもう少し先の話……。
また、本作の演出面において欠かせないのが、その非常に印象的な劇伴だろう。
『EPISODE FINAL』公開当時の筆者は小学生。当時見ていた番組の劇伴をそう覚えているはずもなく、明確に覚えていたものがあるとすれば『ウルトラマンガイア』の「逆転のクァンタムストリーム」や「アグルの戦い」、『仮面ライダークウガ』の『戦士』や「英雄」などごく一部で、それらはいずれも「TVで聴き馴染んでいる」からこそ覚えられたものだった。
そんな中、一つだけ「劇場版と予告で使われる」だけのレアな劇伴が混ざっていた。それが本作を象徴する名曲『神崎士郎』。
『龍騎』の主人公である城戸真司、そして秋山蓮 (松田悟志) の良き友人である神崎優衣 (杉山彩乃) 。彼女の20歳の誕生日が迫ったある日、優衣の兄であり、ライダーバトルのゲームマスターとでも呼ぶべき存在=神崎士郎 (菊地謙三郎) が、生き残ったライダーたちを廃墟となった教会に招集、「ライダーバトルのタイムリミットは残り3日」という事実を告げる。
その時点で残っていたライダーは6人。
仮面ライダー龍騎=城戸真司。
仮面ライダーナイト=秋山蓮。
残る1人はその姿を見せていなかったが、タイムリミットがある以上、やるべきことはただ一つ――と戦いの火蓋が切って落とされたその時、士郎がオルガンで奏で始める異質な音楽。それが件の『神崎士郎』だ。
姉の仇である浅倉を狙う美穂、因縁の相手と呼ぶべき北岡に挑む蓮。戦いを止めるために飛び込んでいく真司。本編でも度々見られたライダーたちの乱戦だが、それを彩るこのBGMは、TV版の軽妙でケレン味の効いたものとはまるで真逆。
教会に残った士郎が奏でるパイプオルガンに、徐々に激しい旋律が加わっていくことで重厚かつ凄絶なメロディとなっていく本曲。 教会でオルガンを弾き鳴らす士郎の姿や、折に触れて挿入される教会の古びたステンドグラスやオブジェの映像もあって、それはまるで宗教のミサ曲のようでさえある。
「神崎士郎の手の中で踊らされている」ライダーたちの現状をそのまま体現するかのように『神崎士郎』をバックに繰り広げられる激闘。
ヒロイズムではなく「悲劇性」を彩る同曲は、TV版では意識的に弱められていた「ライダーバトル=人間同士の殺し合い」という事実、そして「今のこの状況は、誰がいつ死んでもおかしくないもの」という現実を浮き彫りにする。ともすれば、前述のシアゴースト以上に、この冒頭のライダーバトルこそが「『EPISODE FINAL』は龍騎の最終章である」ということを視聴者に示す役割を担っていたのかもしれない。
しかし、この曲はそういった雰囲気作りのためだけにこのような宗教的なモチーフを取っている訳ではない。
というのも、本作で明かされるライダーバトルの正体とは「最も強い命を選定する為の儀式」。『神崎士郎』と一連の演出が醸し出す宗教的なイメージは、士郎にとってのライダーバトルが「命を選定する神聖な儀式」であるということを表す、ある種非常に巧妙な伏線でもあるとも言えるだろう。
これら2点を初めとした特徴的な演出で彩られ「最終章」そして「劇場版」としての顔を見せ付ける『EPISODE FINAL』だが、同作はその内容もまた、単なる「最終回」の一言に収まるものではない。
本作で描かれるのは、本編の最終回とは異なる『龍騎』最終章。言うなれば「城戸真司ルート」とでも呼ぶべき物語であった。
TV本編の第49話『叶えたい願い』において、仮面ライダー龍騎=城戸真司は、少女をモンスターから庇ったことをきっかけに、なんと最終回を目前にして死亡。主人公不在で進む最終回では、もう一人の主人公と呼べる存在の仮面ライダーナイト=秋山蓮が仮面ライダーオーディンを討って勝者となり、その願いを叶えることとなった。
「戦いを止める」という願いに届くことはなかったが、最後までライダーを倒すことはなかった真司。『龍騎』TV本編は、そんな真司を看取った蓮が最後の勝者となる点に鑑みると「秋山蓮ルート」と呼ぶことができる。
一方、(作中の発言などから察するに) そんなTV本編以前の「神崎士郎によって繰り返された世界」の1つという見方が根強い『EPISODE FINAL』。その物語は、真司がTV本編で果たせなかった願いに限りなく近付くだけでなく、遂に「仮面ライダーを己の手で倒す」という決断を下し、ラストカットまで脱落することなく戦い続けるというもの。
真司の持っていた可能性にどこまでも暖かく、残酷にスポットライトを当てる本作は、まさに本編と対を成す、もう一つの『龍騎』=「城戸真司ルート」と呼ぶことができるだろう。
そんな『EPISODE FINAL』の真司にとって大きな役割を果たすのが、本作で初登場となる仮面ライダー、仮面ライダーファム=霧島美穂である。
本作冒頭、「結婚詐欺の被害者かと思えば、彼女自身が更に上手の結婚詐欺師だった」という衝撃的な登場を果たす彼女は、なんと「北岡が浅倉を弁護した事件の遺族 (浅倉に姉を殺された) 」という出自の持ち主。
演じる加藤夏希氏の凛とした美貌に加え、ハッタリの効いた台詞回し、複数の顔が入り混じる一筋縄ではいかないキャラクター性など、本作の脚本を担当した井上敏樹氏の持ち味が存分に込められたキャラクターと言えるだろう。
「殺害され、冷凍保存状態にある姉を蘇らせる」という願いのため、仇である浅倉を狙う美穂。作中中盤、彼女はモンスターを失った浅倉を討ち果たすも、その後の戦いにて致命傷を受け死亡してしまう。
劇場版の、それも終盤一歩手前までの登場という短い出番の中で大きな存在感を放った美穂。そんな彼女の救いとなっていたのが、仮面ライダー龍騎=城戸真司だ。
最終盤まで生き残ったライダーでありながら「お人好しの苦労人」というオーラを振り撒く真司は、美穂にとって (様々な意味で) 格好のカモであり、真司は財布を盗られたりカードデッキを盗まれかけたりと散々な目に遭っていた。しかし、美穂にとって想定外であったのは、真司のお人好し=人の善性を信じる強さと優しさが並外れたものであったこと。
仮面ライダーに結婚詐欺師、そして「面倒見の良い素直な女性」と様々な顔を見せる美穂に戸惑いながらも「アンタ、悪い人じゃないだろ」と彼女の善性を信じ続ける真司。
様々な「裏」を見せ、あまつさえ罠に嵌めようとしたにも関わらず、美穂を信じるという真司の真っ直ぐな言葉。それは詐欺師として、ライダーとして、自分を捨てて仮面を被り続けてきた彼女にとって大きな救いであったことは想像に難くない。それ故か、本作中盤「龍騎の助けで」浅倉を討ち果たし、姉の復讐という大きな目的から解放されたことをきっかけに、美穂は真司にその心を開き始める……のだが、皮肉にも、そのことが美穂に大きな危機をもたらしてしまう。
『EPISODE FINAL』公開当時、TVでは登場間もなく最強の名を欲しいままにしていた王蛇の契約モンスター=ジェノサイダーをいとも容易く粉砕し、ファムを助けたかに見えた謎のライダー。美穂や蓮が龍騎と誤認したその正体は、ミラーワールドからのライダー、仮面ライダーリュウガだった。
本作の実質的な「ラスボス」枠と言える黒い仮面ライダー龍騎=リュウガ。今でこそ「主人公と同じ姿のダークライダー」はダークカブト、ダークゴーストなど数多く存在するが、このリュウガはあらゆる点でそれらのダークライダーとは一線を画している。
龍騎の「仮面の騎士」というモチーフを、ガンメタのカラーリングと目の形だけで「底知れない力を秘めた強者」へと転化させるデザインの妙は勿論のこと、あの王蛇を赤子扱いしてしまうほどの圧倒的な力量や、それを裏付ける覇王然とした立ち振舞い、そして、鏡をモチーフにした『龍騎』における「龍騎と同じ姿をしたライダー」の存在感はまさに別格。まさに最強の名に相応しいライダーと言えるだろう。
王蛇とファムの間に割って入った初登場時は「ファムを助けた」ようにも見えたリュウガだったが、真司の姿で美穂に襲いかかったことを契機に、その邪悪さを露にする。
戦いを楽しむ王蛇と異なり、まるで「相手をいたぶる」ことを楽しんでいるかのようなリュウガ。その一方的かつ無慈悲な攻撃に追い詰められたファムをすんでのところで救出する龍騎=真司だったが、既に美穂の身体は限界を迎えていた。
しかし、美穂はあくまで「事も無げに振る舞う」ことを貫いた。
ライダーとして、詐欺師として生きてきた自分に、ありのままの姿を取り戻させてくれた真司。彼のために、美穂は敢えて「無事な自分」を演じてみせる。自分のために使い続けてきた詐欺師という顔を、最後の最後で信じる相手のために使ってみせる美穂の姿には、否が応でも胸が締め付けられてしまう。
その手の震えに気付くことなく、「心配して損したぜ!」と悪態をつく真司。「普段通り」自分を茶化す彼女を送り届けると、真司は去り際に美穂へ声をかける。
「あ、それからさ。もう……やめような、ライダー同士の戦いは」
「……うん、考えとく」
美穂の言葉に笑顔を浮かべて帰っていく真司。曖昧な返答だとしても、真司にとっては美穂との間に感じた絆こそが何よりの「答え」であり、事実、もし美穂が生き永らえることができていたなら、きっと真司に力を貸してくれたのだろうと思う。
つまり、このごく短いやり取りは (13RIDERSというイレギュラーを除けば) 『龍騎』TV本編で実現できなかった「戦いを止める」という願いに真司が最も近付いた瞬間。最期の瞬間、美穂はその純真を持って真司に「希望」を贈ることができた。結末が悲劇だとしても、それはなんて美しい恩返しだろうか。
真司の背中を見送ると、美穂はその場に倒れて人知れず息を引き取る。
真司の純粋さに心を動かされ、「戦いをやめる」という選択肢を胸に抱いた美穂。そのことが彼女にとって正しかったのか、そうでなかったのかは分からない。しかし、彼のおかげで、美穂は最後の最後で「日常」に生きることができた。それこそが (「戦いをやめる」という思いを引き出したこと以上に) 本作の真司が真にヒーローたる所以であり、美穂はまさしく『EPISODE FINAL』のヒロインだったと言えるだろう。
戦いを望んでいた仮面ライダー=美穂と絆を結び、戦いを止めるという願いへこれまでになく近付いたこと。それは、一見するとTV本編でその願いに届かなかった真司に差し伸べられた救いの手のようにも見える。
しかし『EPISODE FINAL』の真の恐ろしさは、この一連の出来事さえも真司に襲いかかる絶望の布石でしかなかったことだ。
『EPISODE FINAL』を観ていると、折に触れて「因果応報」の4文字が脳裏に過ってくる。
「犯罪者でライダー」という点で共通している浅倉と美穂を見ても、浅倉がミラーワールドで叫びながら消滅したのに対し、美穂は最後にごく普通の女性として生き、現実世界でその姿を保ったまま生涯を終えることができた。
一方、美穂の死と時を同じくして、仮面ライダーゾルダ=北岡が自らカードデッキを放棄して戦いから脱落、想いを寄せるOREジャーナルの記者=桃井令子 (久遠さやか) とのディナーの約束を取り付けていた。
本編では約束を取り付けたものの、その前に事切れてしまった北岡。本作でもデートに間に合ったのかどうかは定かではないが、本作では本編より早くライダーバトルから身を引く決断をしていることもあり「間に合った」のだと思いたい。
(病気に加えてデッキを放棄した為、どのみち先は長くないだろうけれど……)
北岡がその決断を下すことになったきっかけは (自分が浅倉を弁護した事件の遺族である) 美穂に罪悪感を覚え、助けようとしたこと。
美穂も北岡も理由はどうあれ己のエゴのために戦い、人を傷付けてきた人間には違いない。しかし、彼らが無惨な死ではない結末を迎えることができたのは、彼らの持っていた善性へのささやかな報いなのかもしれない、と思う。
だからこそ、本作を改めて鑑賞する中で、真司が美穂と絆を紡ぎ「戦いを止める」という願いに大きく近付くことができたのは、真司のひたむきな努力への「報い」なのだと感じ、鑑賞中はつい感慨に耽ってしまっていた……のだけれど、それは違った。
『EPISODE FINAL』において真司への「因果応報」としてもたらされるのは、そのような優しい報いではなく、「自分自身が戦いの元凶である」という、あまりにも重い罰だったのだ。
残されたライダーが3人となる一方で、失われた過去の記憶を取り戻す優衣。真司と蓮は、彼女の口から「ライダーバトルとは、20歳の誕生日に死亡する自分に与えられる“新しい命”を選別する儀式」であることを聞かされる。
そして、優衣が「20歳の誕生日に死亡する」という運命を背負ってしまった原因とは、公園で遊んだ名も知れぬ女の子 (=優衣) との約束を反故にしてしまった少年時代の真司にあったのだ。
(TV本編とは優衣の死亡に至る経緯が異なっているが、おそらく“優衣の死”がある種の特異点であり、士郎が歴史を繰り返すことで“優衣の死”は変わらなくても、そこに至る経緯が世界ごとに変化したのではないだろうか)
自分自身が優衣の死の、ひいてはライダーバトルそのものの遠因であったという事実に絶望する真司。その前に現れたもう一人の真司=仮面ライダーリュウガは「ライダーバトルに勝ち残れば、優衣に新たな命を与えることができる」と真司の心に付け入り、彼を吸収。駆け付けた蓮の目前でリュウガへと変身すると、その手で最後の戦いの火蓋を切って落とした。
真司を取り込んで完全体となったミラーワールドの城戸真司。その正体は未だ明言されたことがなく、神崎士郎の最終兵器とも、ミラーモンスターの一種とも言われているが、少なくとも、過去に真司が優衣と出会い、約束を破ったという一連の出来事と彼の存在とは無関係とは思えない。
そういう意味では、仮面ライダーリュウガとは「真司自身の心の弱さ (闇) 」を映す鏡像、あるいは「真司の罪を裁く、因果応報の具現」でもあるのだろう。そんなリュウガが、真司が (原因となり生まれた “ライダーバトル” があったからこそ出会い、) 通じ合えた相手である美穂の命を奪ったのは、あまりに苛烈な皮肉であり、罰とも言える。
しかし、リュウガが作中で唯一「龍騎が倒すに相応しいライダー」と言えるのも、そのような特異な背景を持つ存在であればこそだろう。
ライダーバトルの真実を知った優衣が選んだのは「士郎の目の前で自ら命を絶つ」こと。
誕生日ケーキを前に倒れ伏し、微動だにしない優衣の姿に士郎は発狂・消滅。そして優衣の遺体を目の当たりにしたことで、リュウガの中に取り込まれていた真司が目を覚ます。
「分かったよ、優衣ちゃん……。俺、分かったから」
「何を言っている……! 俺の中に来い! 戦いに勝てば、まだ優衣を救うことができるんだぞ!?」
「もうお前には騙されない! 優衣ちゃんはそんな事望んでないんだ……他人の命な
んていらないんだよ! それが、優衣ちゃんの選択なんだ」
『龍騎』において、城戸真司という主人公は一貫して「戦いを止める」ことを信条として掲げ、やがて、それこそが「他のライダーたちの願いを押し退けてでも叶えたい、自らの願い」であると悟るに至った。
一見すると「正義」そのものであるその願いも、突き詰めていけば結局のところは真司のエゴイズム。そのことに代表されるように、『龍騎』は戦いの激化に伴って「純粋な願いに善も悪もない」という事実=願いという欲望を糧に生きる、人間という生物のドライな本質を露にしていく物語でもあった。
真司は「過去の自分自身の罪」への後悔と重圧からリュウガの甘言に乗り、蓮を倒してでも優衣に新しい命を与えようとした。しかし、優衣本人の願いは「他人の命なんていらない」=誰を巻き込むこともなく、その命を終えることだった。
これまでのライダーバトルにおいて、他のライダーたちの願いを押し退けてでも「戦いを止める」と豪語し、そのために戦い続けた真司。そんな彼にとって、優衣が命を絶つという選択は到底肯定できるものではなかっただろう。
だが、それでも真司は優衣の想いを肯定した。
「相手の気持ちよりも、自分のエゴを優先する」ことは真司が過去に犯した過ちであり、それを行っても優衣は喜ばない。
過去の償いのために、そして何より優衣の望む結末のために、真司は苦渋の決断で優衣の死を受け入れ、肯定してみせたのだ。
誰よりも人の命が失われることを悼み、少しでも多くの命を助けることを選んできた真司が、その自らの信念を、優しさを、想いを捨てる。その姿は決してヒーローとして胸を張れるものではないかもしれない。
しかし、城戸真司という一人の人間にとっては、優衣の願いを叶えることこそが何よりも「叶えたい願い」。
今この瞬間だけ、真司は「自分の願いのために戦う」のではなく「神崎優衣の願い」のために戦うライダーになっていたのではないだろうか。
優衣を二度も助けられなかった自分の弱さを憎み、だからこそ、最後は優衣の想いだけでも救えるように。
誰よりも優しさを貫いてきた真司は、誰よりも強い心を持っていた。その彼が、持てる優しさ全てを戦う力に変えて、「自分のこれまでの過ち」の具現たるリュウガに挑む。如何にリュウガが王蛇やナイトさえ圧倒し、龍騎よりも高いスペックを持っていたとしても、この真司は負けないと、そう思わせてくれる力強さが、この時の龍騎には満ちているのだ。
まるで真司自身の葛藤が形を成したかのように、2人の戦いは武器を介することなく終始素手で行われる。アドベントを行わずに龍騎に加勢するドラグレッダーや、戦いを見守る蓮の想いも乗せて、真司はファイナルベントのカードを装填する。
自分自身か、世界か、運命か、あるいはそれら全てに対してか。真司は絶叫しながら必殺のドラゴンライダーキックを放ち、初めて「自らの手で」ライダーを下すのだった。
残酷な過去、優衣の死、「仮面ライダーリュウガ」という特異な存在。それら全てがあって初めて描くことができる「ライダーを下す真司」というIFの存在。それは、本作の真司が「他人の命を守るという信念に殉じた」TV本編とは異なる「自分ではなく、他人の願いのために全てを捨てる」という地平に辿り着いたことの証左であり、その在り方は「真司ルート」における一つのアンサーのように思える。
どんなに運命に翻弄され、間違いを犯し、異なる分岐・異なる選択を手にしたとしても、それでも「誰かのために戦う」ことは絶対に変わらない。そんなどうしようもなく真っ直ぐで、優しく、強い男こそが城戸真司なのだと示してくれる物語。それこそがこの『EPISODE FINAL』であり、TV版と鏡合わせのようでありつつも、その双方があって初めて「城戸真司」という人間を完成させる『龍騎』のマスターピースと言えるのではないだろうか。
神崎士郎が消滅したことで崩壊するミラーワールドから逃げ出すかのように、現実世界を多い尽くす夥しい数のトンボ型ミラーモンスター=ハイドラグーン。ライダーバトルがそのゲームマスターも舞台も失ってしまったことに伴い、『龍騎』の世界もまた、終わりへと向かい始めているのだ。
そんな終わりの始まりを前にして、蓮は真司へと語りかける。
「城戸、正直に言う。俺には今まで、友と呼べるような奴はいなかった。欲しいとも思わなかったしな。だが、お前は……唯一の友と言えるかもしれない」
「――あぁ。友達さ、俺達は」
「だが……分かってくれ。俺は勝たなければならない。どんなに可能性が少なくても、俺は賭けなければならないんだ… …。戦ってくれ、俺と」
「あぁ、俺の望みを聞いてくれたら……考えてやるよ」
「何だ?」
「死ぬなよ、蓮」
「……お前もな」
もしハイドラグーンを殲滅できたとして、真司と戦えたとして、勝ち残ったとしても――もはや、願いが叶う保証などどこにもない。蓮もそれを承知の上なのだろう。
確かに、ライダーたちにとって「願い」は何よりも大切なもの。しかし「願いが叶うかどうか」だけが全てではない。
たとえ願った先に何もなかったとしても、願いがあれば人は生きていける。願いがあるからこそ、人は強く在ることができる。
ごく平凡な男である真司が、過去の罪を乗り越え、最後まで立ち続けることができたように。
優しく、脆い男であった蓮が、あらゆる困難や葛藤の果てに最後まで生き残り、新しい命をその手に掴んだように。
矛盾した、けれども「彼らそのもの」とさえ言える純粋な願いを交わし合い、飛び立っていく2人の仮面ライダー。その姿を最後に『EPISODE FINAL』は幕を下ろす。
それは、確かに「バッドエンディング」と呼べるものかもしれない。しかし、今にして思えば、そこには確かな「願い」が込められているように感じる。
「世界が繰り返される」という未曾有の設定があるからこそ描けた「抗えない終末に立ち向かう仮面ライダー」の姿。一見すると人間離れした英雄のものと見えるその背中だが、我々は彼らがただの人間であることを知っている。彼らを突き動かすのは、超越的な力でも心でもなく、あくまで人間的な「願い」でしかない。
「この戦いに正義はない。そこにあるのは、純粋な願いだけである」
人間は矛盾した生き物で、人間が生きる世界も矛盾に満ちている。だからこそ人はそれぞれの正義を持ち、争い合う。その中で唯一揺るがないものがあるとすれば、願いが人間を突き動かし、前に進ませる原動力だということ。
立ちはだかる壁にも、己の中で囁く闇にも負けず、その願いを貫く勇気を持ち続けることができたなら、たとえどれだけ傷付き、傷付けたとしても、何かを変えることができる。大切なものを守り抜くことができる。破滅の運命に抗うことだって、できるかもしれない。
仮面ライダー龍騎と仮面ライダーナイト。2人の勝者が我々に伝えてくれたのは、きっとそんな普遍のメッセージ。
幼い頃はただただ悲しみに暮れた……もとい、悲しむことさえできないほどの衝撃に見舞われた『EPISODE FINAL』。筆者と近い年代の方の中には、そのショックから本作を見返すことを躊躇ってしまう方もいるのではないだろうか。
もしそうであるなら、今一度、是非本作を手に取って見てほしい。決定付けられた終末の中でも決して怯まない2人の青年の姿には、きっととても眩しく、暖かく、ありふれた輝きが見えるはずだから。