総括感想『戦姫絶唱シンフォギアG』“繋いだ手” が紡ぎ出す、暖かな希望とシリーズの到達点

戦姫絶唱シンフォギア』のTVアニメ5作品のうち、最も印象深いものは? と訊かれたら、皆さんはどの作品を挙げるでしょうか。自分なら、いつ誰に訊かれても迷いなく挙げるのが第2期=『戦姫絶唱シンフォギアG』。

 

「前作『戦姫絶唱シンフォギア  (第1期)  』を友人に見せて貰った自分にとって、シリーズ初めてのリアルタイム作品だった」という思い入れも確かにあるけれど、それを差し引いても「人生ベスト級の大傑作」だと言える程に面白く、文字通りドハマりしていた本作。どのくらいハマっていたかと言えば、初めてアニメのBlu-rayを揃えたり、初めてライブに申し込んだりした (※落ちました) 程で、放送10周年を目前にした今もその輝きが全く色褪せていないことには、それだけでつい涙が出そうになってしまう。

 

今回は、そんな名作=『戦姫絶唱シンフォギアG』の魅力を振り返る、シンフォギアシリーズ10周年記念記事第2弾。同作を知る適合者もそうでない方も、ついてこれるヤツだけついてこいッ!!  

 

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(第1期の解説はこちらの記事からどうぞ!)

 


※以下には『戦姫絶唱シンフォギアG』と前作『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

 

戦姫絶唱シンフォギアG』は、2012年の冬期アニメとして放送された前作『戦姫絶唱シンフォギア(第1期)』の終了から約1年半後、2013年7月から3ヶ月間に渡って全13話が放送されたTVアニメ作品。 

前作の3ヶ月後を舞台に、特異災害対策機動部二課所属のシンフォギア装者たち=立花響、風鳴翼、雪音クリスらと、黒いガングニールを擁する武装組織「フィーネ」との戦いを描く本作。その魅力として真っ先に挙げられるのが、前作から大幅にブラッシュアップされたビジュアルだろう。 

 

こちらの動画や上記のCDジャケットの通り、本作はビジュアル面が従来のものから大幅にパワーアップ。キャラクターデザインの変更は賛否ある (自分は変更後の方が好み) が、前作から大きな進化を遂げたスピーディーなアクションや、ケレン味のある画作り、表面処理が大幅に変わり “未知の怪物” としての説得力が増したノイズなどについては、順当なグレードアップとして高い評価を集めている。

 

 

(変身バンクも超絶進化。クリスの「ばぁーん!」に射抜かれた群雀は数知れない……!)

 

更に、具体的な「変化」と言えば見逃せないのが響・翼・クリスの纏うシンフォギアのバージョンアップ。 

撃槍・ガングニール

撃槍・ガングニール

正義を信じて、握り締めて

正義を信じて、握り締めて

 

この2枚を見比べれて頂ければ一目瞭然だが、彼女たちのギアは白と黒が基調のものから白をベースにしたものへと大幅にデザインが変更されており、特に響のギアにはなんともヒロイックなマフラーが追加。 

槍型のアームドギアありきのデザインだったため、徒手空拳の響ではどこか不完全態感が拭えなかった第1期のものから、より格闘戦が映えるものにモデルチェンジしたこのギアデザインは、(第1期から跳ね上がったイケメンぶりと併せて) 彼女の人気にも大きく貢献していた。

 

ちなみにこのモデルチェンジ、当初は特に作中で言及されないため「敵のシンフォギアが黒いので、区別がつきやすいようにデザインが変更された」だけかと思われていたが、作中終盤にて「このデザイン変更は “ギアのバージョンアップがなされた結果” であった」ことが発覚。この事実が、とあるシーン (後述) において重要な意味を持つこととなる。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ


一方、ビジュアル面と並んで大きく進化した点として挙げられるのが、『シンフォギア』シリーズには欠かせない楽曲群。前作で作品の方向性がハッキリしたためか、BGMがより洗練されたものになっているほか、シンフォギア装者たちの歌もより個々のキャラクター性に紐付いたものとなっている。  

その変化が特に顕著なのが、翼の歌うこちらの2曲。 

絶刀・天羽々斬

絶刀・天羽々斬

月煌ノ剣

月煌ノ剣

 

『G』での翼が歌う『月煌ノ剣』は、しがらみから解き放たれた翼の成長を反映するように、第1期の『絶刀・天羽々斬』よりも明るく軽快なリズムに仕上がっているのが特徴。しかし、それ以上に目立つのは、三味線の音や

「防人の歌は 風林火山 念仏はもう 唱え終わったか?」

という歌詞など、全編に渡って彼女を象徴する「和」のテイストが取り入れられていること。
キャラクターとの親和性は勿論、各々の楽曲が異なるベクトルに特化して一層の独自性を持つことは、様々な歌が交錯する『シンフォギアG』における演出上の必然とも言えただろう。

 

 

こうして、進化を遂げた『シンフォギアG』のビジュアルと楽曲群。その効果は初回から遺憾なく発揮されており、EPISODE1『ガングニールの少女』では、開幕早々「超絶作画でノイズと戦う響&クリス」という画が飛び出し、ヒーローソングの王道を見せる (涙が出るほどカッコいい) 響の新曲『正義を信じて、握り締めて』と併せて大きな話題を呼んでいた。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

更に、続くEPISODE2『胸に力と偽りと』においては、無限に増殖する強力なノイズを前に響・翼・クリスの3人が最大火力のフォーメーション「S2CAトライバースト」を発動。3人が同時にシンフォギアの最終兵器「絶唱」を使用し、それを響が束ねることで、最大級の火力として解き放つという超大技だ。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

「Superb Song!」
「Combination Arts!」
「Set, Harmonics!」

3人同時絶唱、トライバースト専用に変形する響のシンフォギア、そして流れ出すシリーズ屈指の名BGM『S2CA/Voltage Maximum』!!

「これが私たちの……! 絶唱だぁぁぁぁッ!!」

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ


落涙……! ただひたすらに、落涙……ッ!!!!  

何度見ても、あまりの熱量に思わず涙してしまうこのシーン。そう、様々なブラッシュアップの結果、2話にして最終回クラスの圧倒的な熱量を叩き付けてくるとんでもないアニメ、それが『シンフォギアG』なのである。

 

(『S2CA/Voltage Maximum』が気になる方、是非こちらのBlu-ray特典のサウンドトラックをお聴きください……!)

 

こうして、序盤から早々にその「進化」ぶりを見せ付ける『シンフォギアG』。しかし、本作を語る上で何より欠かせないのは、やはり新たな敵として立ちはだかるシンフォギア装者たちの存在だろう。  

響たちと相対するシンフォギア装者=マリア・カデンツァヴナ・イヴ (CV.日笠陽子) 、月読調 (CV.南條愛乃) 、暁切歌 (CV.茅野愛衣) の3人。彼女たちが、本作の敵組織=「フィーネ」に所属するシンフォギア装者である。 

この「フィーネ」という組織の正体は、前作の黒幕=フィーネ由来の聖遺物研究機関である「F.I.S.」。マリアたち3人はこのF.I.S.で育てられ、シンフォギアをはじめとする聖遺物運用試験の被験者となっていた孤児……だったのだが、研究者の一人であるナスターシャ教授 (CV.井上喜久子) に連れ出され、ある目的のために奔走することとなる。 

それは、前作終盤の出来事に端を発する「月の落下」という未曾有の大災害から人類を救済すること。世界の首脳部により隠蔽され、響たち特異災害対策機動部二課さえ知らないこの事実に対し、可能な限り多くの人命を救済する――。それが、どう見ても悪役な彼女たちF.I.S.の真の目的なのである。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

そんな重い使命を背負い、「正義では守れないものを、守るために」と、月の落下という事実を知らない二課の装者とも火花を散らすマリア、調、切歌。 

「実験の被験者だったが故にシンフォギアの扱いに慣れている」というアドバンテージを持っている彼女たち……なのだが、3人は何も生粋の戦士という訳ではないし、彼女たちと同行するナスターシャ、そして組織の専属生科学者であるウェル博士 (CV.杉田智和) も、あくまで単なる一研究者でしかない。そんな素人集団であるF.I.S.が、果たして「人類の救済」という大きなお題目を背負えるのか――というと、背負えないのである。しかし、その「不釣り合いな重荷」こそが、彼女たち、もとい『シンフォギアG』の唯一無二の魅力に繋がっている。 

烈槍・ガングニール

烈槍・ガングニール

 

「フィーネ」……を名乗るF.I.S.、その表向きのリーダーであり、高圧的かつ毅然とした立ち振る舞いが特徴的な女性、マリア・カデンツァヴナ・イヴ。響のガングニールと出自を同じくする「黒いガングニール」を纏い、本作のラスボスらしい風格をこれでもかと放っている彼女だが、このマリアこそがF.I.S.の魅力を体現していると言っても過言ではない存在。というのも……。  

 

この始末。 

一見すると、よくあるネットの悪ふざけ=マリアの行動が視聴者に揶揄された結果かと思われるかもしれないが、ところがどっこい、マリアはこの見た目、この風格でありながら正真正銘のポンコツなのである。そこが良い……!!

 

ただ、マリアがそんなポンコツと化してしまったのは、彼女の「能力が足りなかった」訳ではなく、彼女が「与えられた役割にとことん不向きだった」という、あくまで相性の問題。 

というのも、マリアはこんなカリスマ全開の見た目でありながら、その実非常に温厚で争いを嫌う、ごくありふれた優しい女性。そんな彼女が女王めいた振る舞いを見せるのは、切歌や調を引っ張り、「マム」と慕うナスターシャ教授の期待に応えるため。そして、かつてF.I.S.の実験中に命を落とした妹=セレナ・カデンツァヴナ・イヴ (CV.堀江由衣) の死を無駄にしないため。 

しかし、マリアが結果的に「表面的にはラスボスの風格を出しながらも、その裏で盛大に事故を連発する」……という、一風どころかかなり風変わりなキャラクターと化していたことを考えると、「強い人間」を演じることができるポテンシャルを持ってしまっていたこと自体が、マリアにとって大きな不幸だったのかもしれない。 

例えば、最初の「事故」として挙げられるのが、EPISODE 2『胸に力と偽りと』において、ライブ会場の聴衆を人質に取ったシーン。 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

人々の前でガングニールを纏い、「フィーネ」の名の下に世界へ宣戦布告するマリア。ナスターシャの計画では、おそらくここで月の落下についての情報開示や各国との交渉準備を行うなど何らかの目論見があったのだろうが、人質を前に動けない翼を見かねたマリアは、それを待たずして人質を解放してしまう……だけでなく、その行動を即座にナスターシャから窘められてしまう。  

その後も、民間人に死傷者が出たり、米国政府の罠に掛かった結果 (正当防衛とはいえ) 人間を手にかけなければならなかったりと、様々な形で罪を背負ってしまうマリア。その度に心を折り砕かれて泣き叫ぶ彼女の姿は、米国チャートを席巻する歌姫/世界を救済する武装組織フィーネの首魁という印象とは似ても似つかないもの。そう、彼女はとことんまで悪役が似合わない女性なのである。

 

一方、マリアの表立った立ち振る舞いはそんな「弱さ」とは無縁の、優雅かつ気高いもの。幼い頃から聖遺物実験の被験者だったこともあって極めて高い戦闘能力を持ち、ガングニールを纏った際は「アームドギアを使うことなく、最強の装者=翼と互角に渡り合う」という大金星を挙げていた。 

そんな「強者」としての顔と、まだ幼さを残した「ただの優しいお姉さん」としての顔。そんなギャップこそがマリア・カデンツァヴナ・イヴの真骨頂であるのだけれど、当の本人にとっては、そんな「重荷を背負い、偽りを演じ続ける」在り方は地獄そのもの。 

実際、作中の彼女はほぼ全てのシーンで無理をしているか、もしくは苦しみに顔を歪めており、見ているこちらも次第に「ポンコツ」だの「ただの優しいマリア」だのと言っている心の余裕がなくなってくる。本作後半の重くシリアスな雰囲気は、彼女の葛藤と苦悩によるものが大きいと言っても差し支えないだろう。

 

 

首魁であるマリアがこのようにおよそ「悪役らしくない」F.I.S.。では、残る2人のシンフォギア装者が悪役らしいかというとそんなことはなく、それどころか、問題の2人はむしろ本作の癒し枠として名高い最年少の装者コンビ。それが、鏖鋸・シュルシャガナのギアを纏う淑やかな黒髪の少女=月読調と、獄鎌・イガリマを振るう金髪の天真爛漫な少女=暁切歌の2人だ。  

  古代メソポタミア・キシュ市の都市神ザババが携える一対の武器=鏖鋸・シュルシャガナと獄鎌・イガリマ。そんな聖遺物と惹かれ合った調と切歌は、まるで姉妹のように仲良しで、常に行動を共にする親友同士でもある。 

しかし、彼女たちもマリア同様に「幼くして孤児となった」という悲痛な過去を持つ少女たち。そんな背景のためか、特に調は世界への不信感を強く持っており、響との初遭遇時においては彼女に容赦ない言葉を吐いてみせた。

「話せば分かり合えるよ! 戦う必要なんかッ」
「偽善者……」
「え?」
「この世界には、貴女のような偽善者が多すぎる……! “だから そんな 世界は 切り刻んであげましょう!”」 

(BGMとシームレスに繋がる形で、“だから~” 以降がそのまま歌になるという、シンフォギアならではの巧みな演出が光るシーンでもある) 

鏖鋸・シュルシャガナ

鏖鋸・シュルシャガナ

 

月の落下を知りながら、世間にそれを公表することなく己の利益で動く大人たち。そして、孤児であった自分たちを救ってくれなかった大人たち。閉じた世界で生きてきた調にとって、外の世界とはそんな「敵」が跋扈する世界であり、前作において地球を守り「ルナ・アタックの英雄」と讃えられる響たちが、調にとってそんな大人たちと同じ=「自分の利益のために善を行う偽善者」にしか見えなかったのも、彼女の境遇を思えば頷ける話だろう。

 

獄鎌・イガリマ

獄鎌・イガリマ

 

そして、そんな危なっかしい調のパートナーを務めるのがイガリマの装者=暁切歌。 

無口で少し抜けたところのある調に対し、快活で朗らか、常に調の前に立っている切歌は、一見すると調の姉のようにも見える……のだけれども、彼女の「調のお世話係」としてのメッキは、なんと僅か4話で剥がれ落ちてしまう。 

 

察しの良い方はお分かりかもしれないが、実のところこの2人は「調が切歌頼りに生きている」のではなく、「切歌こそが調に依存している節がある」という、見てくれと本質がまったく逆のコンビ。 

物静かな中に激情を秘めた調と、一見お調子者のようだが、その実生真面目で寂しがりな切歌……というこの2人の関係性が、本編終盤で大きな意味を持つことになってくる。

 

世界への敵意こそ持っているものの、まだ幼いきりしらコンビ、最年長の装者ではあるが、背負った重荷にはおよそ不釣り合いな精神性のマリア。こんなメンバーで、F.I.S.は本当に大丈夫なのだろうか……というと、ダメなのである。中でも、前述の「マリアによる人質の解放」が大きかったのか、EPISODE 2の戦い以降、F.I.S.は表立った活動を行うことがすっかりなくなり、次の動きを見せるまでの間=EPISODE3、4においては、装者たち……とりわけ、前作で描かれなかった翼とクリスの日常が描かれることになる。

 

 

シンフォギアG』の舞台は秋。そして、響、翼、そしてクリスが通うのは私立リディアン音楽院の「高等科」。ともなれば、当然行われることになるのが文化祭! その文化祭に向けてピックアップされるのが、なんとこれまでほとんど接点のなかった翼とクリスだというから、当時は手を叩いて喜んだものだった。  

作画や楽曲、演出などの著しいクオリティアップだけでなく、前作で「見たかったけど見れなかったシーン」を惜しみなく見せてくれることも『シンフォギアG』の大きな魅力。その一つが、前作においてはほとんど描かれなかった翼とクリスの日常だ。 

シンフォギア (第1期) 』において、翼・クリスが響と和解したのはどちらも後半。翼はEPISODE 9『防人の歌』でプライベートでの姿を見せてくれたが、クリスは和解直後にそのまま最終章へ突入してしまったため、響たちとの日常が描かれることはついぞないままに終わってしまっていた。 

そんな背景を経た本作で「満を持して」描かれた彼女たちの学園生活は、見ているだけで目が焼かれてしまいそうになるほど眩しく、幸せまっしぐらな素晴らしいものだった。

「ヤツらが……ヤツらに追われてるんだ!もう、すぐそこにまで!」
「何!? ……特に不審な輩など見当たらないようだが?」
「そうか、上手く撒けたみたいだな」
「ヤツらとは一体?」
「あぁ……。なんやかんやと理由を付けて、あたしを学校行事に巻き込もうと一生懸命な、クラスの連中だ」
「……ふふ」
「フィーネを名乗る謎の武装集団が現れたんだぞ? あたしらにそんな暇は――って、そっちこそ何やってんだ?」
「見ての通り、雪音が巻き込まれかけている “学校行事” の準備だ」

本当に、本っ当にさりげない日常の1コマ。けれども、幼少期に孤児となって以来「奴隷」あるいは「道具」としてしか生きてこれなかったクリスが、こうして級友に愛され「いてもいいところ」を得たこと。更には、第1期では同級生に「近寄りがたい」と距離を置かれていた翼がさらっと学校行事の準備に駆り出されているばかりか、クラスメイトに「翼さん」と呼ばれ、学友として親しまれていること……。 

そんな彼女たちの交わす一言一言が、第1期から彼女たちを見てきたファンとしてはずっと待ち焦がれてきた「戦いから離れた場所で手に入れた幸せ」そのものであったし、どこかかつての奏を感じさせる「学校の暖かさに戸惑うクリスに、柔らかい笑顔を浮かべる翼」は、彼女の成長を何より物語っている大切なシーンと言えるだろう。 

そして、そんな「これが見たかった」が爆発するのが、続くEPISODE 4『あたしの帰る場所』!

 

 

遂に始まったリディアンの文化祭=秋桜祭。その目玉イベントである勝ち抜き歌合戦の壇上に立つのは、なんと響・未来の級友であり、第1期終盤では未来と共に勝利に貢献した板場弓美 (CV.赤﨑千夏) 、安藤創世 (CV.小松未可子) 、寺島詩織 (CV.東山奈央) の、通称「シンフォギア3人娘」! 声優が声優だけに凄い歌を披露してくれるのかと思いきや、披露されたのは確かに「凄い歌」だった。 

 

Q「 (このキャストに歌わせる歌が) これでいいの?」
Aこれが “良い” んだッ!!!!!!!

 

   

上記リンクは公式サイトの用語解説ページなのだけれど、ねぇ、見てくださいこの文章量。そして迸る「昭和の特撮ヒーロー番組」への愛……! そう、とても今更だけれど、このシンフォギア』は異様なまでに特撮 (ヒーロー) 作品へのリスペクトに溢れたシリーズでもあったりするのである。 

そのうち、とても分かりやすいのがこの『電光刑事バン』のようなオマージュ要素。『バン』がメタルヒーローシリーズ第1作『宇宙刑事ギャバン』のオマージュであるのは勿論 (フォントまで一緒なところに凄まじいこだわりを感じる) 、本作『シンフォギアG』は、おそらくシリーズ中最も数多くのオマージュ/小ネタが散りばめられた作品。せっかくなので、その一例をご覧ください。

 

・翼の変身シーン、ギアを纏う際のSEが『ウルトラマンティガ』の変身ポーズ~巨大化シーンと同じもの 

・響の変身シーンや「S2CAトライバースト」発動時などいくつかのSEが『ウルトラマンダイナ』の変身シーンと同じもの 

・最終回に登場する敵の見た目が、ウルトラシリーズの敵怪獣である「ゼットン」に酷似しているばかりか、爆死する際に放つ温度が「1兆度」

(原作者がシンフォギアシリーズと同じゲーム『ワイルドアームズ』シリーズにも、ゼットンと酷似したボスエネミーが登場する) 

・EPISODE 6において、響の変身シーンなどいくつかの要素が『仮面ライダークウガ』のものに酷似 

他にも『ウルトラマンメビウス』のSEが頻繁に使われていたり、『ウルトラマンガイア』を思わせる着地シーンがあったり、後半で「メルトダウン」を起こしかけるキャラクターの行動可能時間が「2分40秒 (ウルトラマンレオの地球での活動限界時間) 」だったり、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。ありがとうシンフォギア!!大好き!!!!

 

しかも、これらのオマージュ(?)要素の数々は特撮作品に限った話ではなく、様々な映画・アニメ作品にも及んでいる。中でも、特に当時話題となったのがこちらの一曲。 

英雄故事(Ver.Training Day)

英雄故事(Ver.Training Day)

 

修行シーンで響、そして弦十郎が突如歌い出したこの歌は、なんとジャッキー・チェンの代表作『ポリス・ストーリー/香港国際警察』の主題歌! 往年のアクション映画によって (?) 常人を遥かに越える力を手にした弦十郎らしい選曲であるし、しかもこの歌が使われたエピソードのサブタイトルはそっくりそのまま『英雄故事』! 原作者である上松氏、そして金子氏の、もはや執念のような凄まじい愛を物語るエピソードだ。 

(しかも、この歌をバックに繰り広げられるシーンには『ロッキー』や他のジャッキー・チェンにまつわる小ネタが満載だったりする。お、オタク~~~!!!!!)

 

 

しかし、これら『電光刑事バン』『英雄故事』のシーンは決してオマージュネタのためだけにあるものではない。重要なのは、この世界に生きる人々は「誰もが心の中に歌を持っている」ということ。  

前作『シンフォギア (第1期) 』において、翼が「歌は戦いの道具ではない」ことを示したように、これらのシーンが『シンフォギア』の世界においても、現実同様あらゆる人が歌を愛し、歌と共に生きてきたことを教えてくれるのである。 

ファンとしては、ただでさえ「見たかったもの」である「装者以外の歌唱シーン」。それがこうした形で実現したばかりか、それぞれ個性たっぷりに描かれたことにはひたすら感謝しかないし、それがこうして作品において欠かせないピースになっていることは、間違いなく『シンフォギアG』の巧さの一つと言えるだろう。

 

そして、件の「秋桜祭勝ち抜き歌合戦」で歌への愛を示すキャラクターがもう一人。 

 

クリスがようやく手に入れた日常。その眩しさと幸せを具現化したこの2分半は、シリーズ随一の名場面と呼び声高い伝説のシーン。クリスの成長、この世界における「歌」の意味、ささやかな日常こそが持つ煌めき……。戦場だけが『シンフォギア』の魅力ではないと示す、『シンフォギアG』ひいてはシンフォギアシリーズを語る上で欠かせない名場面だ。

 


こうして、一躍勝ち抜き歌合戦のチャンピオンへと躍り出たクリス。こんな凄まじいものを見せ付けられて挑める者など――  

「チャンピオンに……」
「挑戦デェース!」

いた。  

あろうことか、敵陣ド真ん中で歌い始める切歌と調。しかも、その歌は在りし日の奏×翼のボーカルユニット=ツヴァイウィングのナンバー『ORBITAL BEAT』! 第1期ではインストが流れるに留まっていたこの歌が、形を変えてようやく歌われるという粋な演出だ。 

ORBITAL BEAT(Ver.ZABABA)

ORBITAL BEAT(Ver.ZABABA)

 

「優勝者に与えられる権限で、クリスのギアペンダントを奪う」という名目で歌合戦に参加した2人。しかし、心から楽しそうな彼女たちの姿は、歌を愛するごく普通の少女そのもの。響だけでなく翼とクリスも、ここで彼女たちと戦う必要がないこと、別の道があるはずだと確信することになる。

13話中5話で早くも生まれた「F.I.S.の装者と和解できるかもしれない」というささやかな希望。そのきっかけが「歌」というのは、シンフォギアであればこそ、なまじ言葉にするよりも真っ直ぐに感じられるもの。そんな演出の妙に魅せられていた視聴当時は、ここでクリスたちの平穏で幸福な日常が描かれ、そして「戦わない道」という希望が提示されたことが、全てこの先の地獄に対する前振り=嵐の前の静けさ、だなどとはこれっぽっちも思っていなかった。 

そう、ここからが『シンフォギアG』真の幕開けだったのである。

 

Vitalization

Vitalization

 

歌合戦の折、響らに対して独断で決闘を申し込んだ調と切歌。そんな彼女らの身勝手を利用したのが、F.I.S.所属の生科学者であるウェル博士だ。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

聖遺物を初めとする異端技術に精通しており、適合係数を高める薬剤「LINKER」を精製・改良したり、服用後の体内洗浄法を確立したりするなど非常に優秀な科学者で、余命いくばくもないナスターシャを延命できる数少ない人物でもあったウェル。 

彼はそんな優秀な能力の一方で「自分が “英雄” として讃えられる世界を作るためには、どんな犠牲も厭わない」という真性のエゴイストでもあり、ソロモンの杖でノイズを操り、人を容赦なく殺戮する姿が作中では度々描かれていた……のだけれど、F.I.S.のメンバーが「自分の手を血に汚すことを恐れるあまり計画を破綻させてしまう」マリア、「まだ幼く、使命感が希薄な」切歌と調、「彼女たちに非道を強いることを悔やむ」ナスターシャといった状況であるため、ウェルの悪辣な行動が命綱であったのもまた事実。「『シンフォギアG』における唯一の悪役」という一言では評しきれない複雑な背景の人物だ。 

(その割に、杉田智和氏の怪演や顔芸の数々もあってか非常に人気の高いキャラクターだったりもする)

 

そんなウェルが切歌・調の焚き付けた「決闘」を引き継ぐ形で響たちに挑んだのがEPISODE 5後半。マリアらのようにギアこそ持たない彼だったが、巧みにノイズを操る戦術、そしてF.I.S.の目的の鍵でもある完全聖遺物=生物兵器ネフィリムが3人を追い詰める。 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

「聖遺物を食らう生物兵器」であるネフィリム。この怪物を育てるためにウェルが画策したのが「シンフォギア装者」を餌とすること。いやいや、シンフォギアはそんな感じの作品では……と、当時の自分は油断していた。油断しきっていた。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

絶句。  

悲鳴を上げることもできず、「ヒッ」と小さく震え上がったあの感覚も、響の腕が食い千切られた状態でエンディングに入ってしまった時の絶望感も全部、10年近く経って尚鮮明に思い出せるし、当時もやはり思ったものだ。シンフォギアG、始まった…………」と。 

そして、残念なことにその不穏さを全く裏切らない展開を見せ付けてきたのが、続くEPISODE 6『奇跡――それは残酷な軌跡』。  

腕を食われた響は、その深刻なダメージがトリガーとなって第1期以来の「暴走状態」に陥るばかりか、なんとアームドギア生成の応用で腕を復元。ネフィリムをあっさり撃破してししまう。 

これは万事解決か……と思われたが、問題はその後。この6話をきっかけに、響たち二課、そしてF.I.S.、全ての歯車が最悪の方向に回り出していくのである。

 

 

メディカルチェックに入った響から採取されたのは、金属質でおよそ人間のものではない「体組織」。翼、クリス、そして未来は、弦十郎から「響の体内にあるガングニールが響を蝕んでおり、このままシンフォギアを纏い続ければ響は死ぬ」という事実を知らされる。これまでシンフォギアを纏ってきたことによる密かな蓄積に加えて、先の暴走がその進行を爆発的に早めてしまったのだ。 

しかし、その事実が明かされるより早く、当の響はウェル博士の暴挙に遭遇。翼の警告を振り切りシンフォギアを纏ってしまうばかりか、ウェル博士救出のために現れた調・切歌を救う代償に、ガングニールごとメルトダウン寸前に陥るという絶体絶命の危機に瀕してしまう。

「なはは~、つまり、胸のガングニールを活性化させる度に融合してしまうから、今後はなるべくギアを纏わないようにしろ、と! あは、ははっ」
「いい加減にしろ! “なるべく” だと? 寝言を口にするな! 今後一切の戦闘行為を禁止すると言っているのだ!」
「翼さん……」
「このままでは死ぬんだぞ……! 立花ッ!!」
「そんくらいにしときな! このバカだって、分かってやってるんだ……!」

「奏の残したものに響を殺させたくない」そして「二度と仲間を失いたくない」という思いからか、気丈に振る舞う響に正面から食ってかかる翼。そんな翼を止めはするが、「自分がフィーネの下でソロモンの杖を起動させなければ、こんなことにはならなかった」と思い悩むクリス……。 

こうした仲間同士の衝突や自責は、描写によっては不快に感じられたり、キャラクターの精神的な成長を逆行させたりといった多大なデメリットを孕むもの。しかし、響を巡る一連のくだりにそのようなマイナスな印象が一切感じられないのは、描かれる衝突が全て「互いへの親愛と善意」に基づくものだからだろう。  

響に死んでほしくないからこそ厳しく当たる翼も、その仲介をしつつ誰より自分自身を責めてしまうクリスも、どちらの行いも全てこれまでの積み上げと成長、そして響への親愛があればこそ。特にクリスは、本作前半において「新しい居場所を見付けたことによる幸せ」が印象的に描かれている分、尚更納得感の高い地獄が出来上がっているという始末。 

このように、これまでの丁寧な積み重ねが (最悪の形で) 活きているからこそ、この “善意の連鎖” は過酷ではあれど不快ではない見事なクリフハンガーに仕上がっており、それが皮肉にも本作後半の大きな見所になっている。そして、その最たるものが「翼を撃ち、F.I.S.へと寝返るクリス」という、多くの視聴者を驚愕させたEPISODE10のラストシーンだろう。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

一方、響たちと時を同じくして、マリアたちF.I.S.にも崩壊の足音が忍び寄っていた。
全ての始まりはEPISODE 7『君でいられなくなるキミに』終盤で起こったある異変。  

色々とややこしいからか、視聴者にも、弦十郎を初めとする二課の面々にも「F.I.S.」と呼ばれていたマリアたちだが、彼女たちの組織の名前は「フィーネ」。なぜその名を選んだのかと言えば、一つは彼女たちF.I.S.が、現代におけるフィーネ=櫻井了子由来の研究機関だったから。そしてもう一つは、首魁たるマリアが「転生したフィーネ本人」だったからだ。 

 

先史文明期の巫女にして、「自分の遺伝子を持つ人間を媒介に、何度でも復活する」という転生能力を備えた超常存在であるフィーネ。『シンフォギア (第1期) 』において、自身の末裔の一人=櫻井了子の人格を上書きする形で復活を遂げた彼女だったが、彼女は次の転生に備えてか、聖遺物の研究と平行して「自身の遺伝子を持つ孤児」=「レセプターチルドレン」と呼ばれる少女たちを集めていた。それが調、切歌、マリア、セレナたちであり、これこそがF.I.S.で彼女たちが育てられていた本当の理由。 

そのため、櫻井了子亡き今、マリアが新たなフィーネの転生先として目覚める……というのは十分に有り得る話で、ウェルが彼女たちに同行したのも、先端技術を牛耳る存在=フィーネと同行することが自身の目的にとって好都合だったからだ。 

しかし、マリアがフィーネであるということは、いつかはマリアの意識・人格がフィーネに塗り潰されるということ。フィーネを覚醒させまいと奮闘する調と切歌だが、その疲労で前後不覚に陥った調は、鉄骨の落下に巻き込まれかけてしまう。そんな調を切歌が庇った瞬間――  

2人を守ったのは、なんとフィーネが使う防護障壁。「マリア=転生したフィーネ」というのは、ナスターシャがウェルを引き込むためにでっち上げた全くの嘘だったのである。  

一方、ナスターシャは自分の身体の限界が迫るにつれ、自身を気遣うマリア・調・切歌に十字架を背負わせたことを悔やむようになり、(それが弱者を切り捨てる結果になりかねないことを分かった上で) 米国政府に世界を救う使命と異端技術を託すことを決意する。 

世界よりもマリアたち3人を取るという、身勝手だが美しい「親心」。しかし、この選択こそがF.I.S.の運命を決定付けてしまうターニングポイント。図らずも響たちと同じく、F.I.S.もまたそれぞれの善意によって歯車が盛大に狂い始めてしまうのだ。

 

 

会談に向かったナスターシャとマリアを待っていたのは、取引に応じず一方的に異端技術を接収しようと罠を張っていた米国政府のエージェントたち。窮地に陥った2人を「会談を破綻させようと、ウェルが放ったノイズたち」が救ったことで、自ずとウェルがF.I.S.の主導権を握ることとなってしまう。 

愛すべき「マム」だが、人類救済という目的を捨てようとしたナスターシャ……から、残虐な手段を厭わない外道だが、確かな能力と目的意識を持ち、人類救済というゴールに事実上最も近い男であるウェルに移った計画の主導権。
そんな状況下で、マリア・調・切歌の3人は改めて「自分は何のために、何を成すのか」を問われることになる。

 

「偽りの気持ちでは世界を守れない、セレナの想いを継ぐことなんてできやしない。全ては力……力を持って貫かなければ、正義を為すことなどできやしない! 世界を変えていけるのはドクターのやり方だけ。ならば私は、ドクターに賛同する!」

自分の甘さが計画を歪め、様々な「余計な犠牲」を生んでしまったことを悔やみ、犠牲を出してでも計画の完遂を目指すというウェルに賛同したマリア。

 

「マリアが苦しんでいるのなら……私が助けてあげるんだ」

かつての自分達のような「救われない弱者」を生みかねないウェルに反発し、苦しむマリアを救うためにF.I.S.を一人飛び出す調。

 

「たとえあたしが消えたとしても、世界が残れば、あたしと調の思い出は残るデス……!」

ウェルのやり方やF.I.S.の使命ではなく、「自分がフィーネに塗り潰される前に、調に世界を残したい」という思いで戦う切歌。 

初めは「世界を救う」という目的で団結していたF.I.S.。しかし、マリアはセレナ、調はマリア、切歌は調のことを想うあまり=響たち同様、彼女たちもまた “善意” によってバラバラになってしまうのである。

 

Dark Oblivion

Dark Oblivion

 

こうした “善意の連鎖” により悪化の一途を辿る本作中盤。注目すべきは、ここに至って尚「どうすれば彼女たちは救われるのか」も「どうすれば地球は守られるのか」も、何一つ示されていないことだろう。  

事態を悪化させているのは主にウェルの所業だが、彼は災厄の「元凶」ではない。更には、仮にウェルを倒すなり逮捕なりできたとしても、月の落下という未曾有の事態を知ったばかりの二課にはそれを打開する術がない。「ヒーロー/ヒロインもの」の文脈を色濃く持っている本作だが、同ジャンルで見られるような「○○を倒せば解決する」といった指針がないために、その物語の最終到達点が全く予測できないのである。 

にも関わらず、前述のように本作中盤は何もかもが悪化の一途を辿っていく。お先真っ暗な状況下で、破滅の足音だけが確かに近付いてくるというスリル。それが本作の面白さでもあるのだけれど、それはそれとしてED前の引きには毎回心臓が張り裂けそうになっていた。

 

響の腕が食べられて終わるEPISODE 5。「響の身体がガングニールに蝕まれている」ことが明かされた状態で彼女の変身を見せ付けられるEPISODE 6。切歌と調をフィーネのバリアが守るEPISODE 7。そして「ノイズとの戦いに巻き込まれた未来が爆発に巻き込まれてしまう」EPISODE 8のラストシーン。  

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

「 “戦いから遠ざけることで響を救う” という使命を弦十郎から託された未来が、そのために響と出掛けた先で行方不明になる」という、狂いに狂った歯車が導いた最悪の事態。善意が破滅を呼び、予測不能の展開を次々と叩き付けてくる『シンフォギアG』らしい展開と言えばそうなのだけれど、それさえも「未来がシンフォギアを纏い、響の前に立ちはだかる」ことの前振りに過ぎなかったなどとは、一体誰が予想できただろうか。

 

 

F.I.S.が保有する聖遺物の一つである「魔を払う鏡」こと歪鏡・神獣鏡 (シェンショウジン) 。この神獣鏡は「聖遺物由来の効果を除去する」という対魔の力を持っており、その力で、人々を救う人工大陸「フロンティア」の封印を解除することが彼らの計画における最終段階であった。 

その最終段階に備え、神獣鏡の出力増大=櫻井理論に組み込まれていた神獣鏡のシンフォギア化を進めていたウェル。そんな彼にとって、「マリアが見知らぬ少女を連れ帰ってきたばかりか、その少女はシンフォギアに対する高い適性を持っている」という報せは、まさに青天の霹靂だっただろう。 

しかし――と、「いくら私立リディアン音楽院の生徒=シンフォギアへの適性が見込まれた少女とはいえ、なぜそこまで高い適合係数を持っているのか」という至極当然の疑問を投げかけるナスターシャ。その質問に対し、ウェルは迷いなく答えてみせる。

 

「愛、ですよ」

 

 

(なぜそこで愛、と思った方はこちらをご参照ください。なんでちゃんと解説があるの……???)

 

そんな “愛” ――「響を戦わせたくない」という想いを「響が戦わなくていい世界を作る」という形に歪められ、即席のシンフォギア装者に変えられてしまった未来。「シンフォギアキラー」とでも呼ぶべき圧倒的な力を振るう彼女を止めるために、遂に戦場へと舞い戻る響。 

僅か2分40秒というタイムリミットの中で彼女で歌い上げるのは、後にも先にも「このたった一度きり」の歌『Rainbow Flower』! 

Rainbow Flower

Rainbow Flower

 

戦いではなく、人助けのため……それも、世界でたった一人の、かけがえのない「あったかい陽だまり」を救うために響くこの歌は、戦士としての響の生き様/魂を歌い上げる『正義を信じて、握り締めて』とは異なり、「人間」立花響の想いを言葉にして紡いだもの。 

そんな歌に、響の生存限界、そして「愛VS愛」という「善意が悲劇を呼んできた」本作において、まさに極限状況とでも呼ぶべきシチュエーション……。それは同時に、響にとって「破滅の運命そのものとの戦い」とも呼べる大舞台。シンフォギアG』の、そして「立花響」の大きなターニングポイントとして描かれる決死の人助けは、文字通り息もつかせぬ壮絶な展開を見せ付ける。 

 

響の決死の想い、そして、彼女を死なせないために全力を尽くす弦十郎、藤尭、あおいの3人。それを持ってでも圧倒的に不利な状況を覆したきっかけは、他ならぬ「未来の愛」。 

響の全てを受け入れ支える「良妻賢母」そのもののような存在である未来だが、彼女は何も最初からそのような存在だった訳ではない。そのことを顕著に表しているのが、『シンフォギア (第1期) 』EPISODE 8『陽だまりに翳りなく』におけるこの台詞だろう。

「私、響が黙っていたことに腹を立ててたんじゃないの! 誰かの役に立ちたいと思ってるのは、いつもの響だから……!でも、最近は苦しいこと、苦しいこと、全部抱え込もうとしていたじゃない? 私は、それがたまらなく嫌だった。また響が大きな怪我をするんじゃないかって心配してた! だけど、それは響を喪いたくない私のワガママだ!」

詳細は後に語られるが、未来のことを「陽だまり」と言う響こそが、未来にとっては眩しく輝く太陽そのもの。しかし、リアリストである未来には、そんな響を喪うことが (彼女の危なっかしさもあって) 何より怖かったし、彼女はそんな自分の気持ちが「独占欲」のような後ろめたい気持ちであることも自覚してしまっていた。 

少年漫画風味の作品である『シンフォギア』に不釣り合いな生々しい「愛」を持っていただけでなく、その醜さから目を背けない誠実さを併せ持ってしまったが故に悩む少女、それこそが小日向未来であり、響が未来を愛してやまないのは、そんな彼女の誠実な愛の所以でもあるのだろうと思う。 

しかし、響は響であるが故に、未来の「懺悔」に特に触れることも気にすることもなかった。響の「当たり前の日常」に戻ることができたのは、未来にとって何より嬉しいことだったのだろうけれど、それは同時に未来にとっての罪=自分のエゴで響を傷付けたことに対しての「罰を受ける/償う機会」=御祓の場を失ってしまったとも言えるのではないだろうか。

 

そして巡ってきた今回の『シンフォギアG』EPISODE 10において、自分の愛 (エゴ) を肥大化させられ、あろうことか響本人と戦わされてしまった未来。しかし、それは彼女へ与えられた御祓の場でもあった。 

歪鏡・シェンショウジン

歪鏡・シェンショウジン

 

「響を戦わせたくない」というのは、前述の通り彼女がずっと持ち続けてきた愛の一つだった。それは確かに響の意思と反するある種のエゴかもしれないが、客観的に見て「悪」とは到底思えないもの。しかし、響を支えたい・響とずっと一緒にいたいと願う彼女にとって、そんな気持ちが自分の中にあることが許せなかったというのは道理だろう。 

そして、件の戦いにおいて未来はそんな自分の忌むべき「エゴ」に、彼女自身の望む「愛」で打ち克ってみせた。

「戦うなんて間違ってる。戦わないことだけが、本当に暖かい世界を約束してくれる。戦いから解放してあげないと……」 

「違う! 私がしたいのはこんなことじゃない!こんなことじゃ……ないのにぃぃーー!!」

未来の「愛」が作ったこの隙が、響たちを助けて作戦の成功に繋がったこと。そして作戦が成功した結果、未来のギアが解除されただけでなく、響を蝕んでいたガングニールが除去されたこと。これこそ未来が第1期で果たせなかった「御祓」であり、それは響を解放するに留まらず、まるで『シンフォギアG』そのものを覆う呪いをも祓ったかのように、物語の流れを大きく変えていくことになる。  

未来の愛と、響の愛。いつだって、装者たちの運命を変えていくのは思いを重ねること=「手を繋ぐ」こと。響がギアを失い、敵味方が入り乱れるという混沌の中、残る少女たち――翼とクリス、調と切歌にはそれができるのか、ここから物語がどう転がっていくのか、当時は予想などこれっぽっちもできなかったし、何が待ち受けるのか分からない恐さこそあったけれど、それだけに目が離せないのもまた事実だった。

 

 

神獣鏡の光によって封印から解かれた、カストディアンの遺産=超巨大遺跡「フロンティア」。その中に秘蔵された異端技術で月の落下を食い止めること。それが成し得なかったとしても、人口大陸としての役割をも持ったフロンティアによって、可能な限り多くの人々を救い出すこと。それがF.I.S.の計画の全貌であった。 

しかし、フロンティアの制御を請け負ったウェルが真っ先に行ったのは、その力で「月の落下を早める」こと。「人類を減らせば、自分が人類を導く英雄になれる」と暴走を始めるウェル、そして落下する月を止めるべく、ナスターシャとマリアは、フロンティア内部で見付け出した「月の落下を食い止める、もう一つの手段」を実行に移す……と、こうして遂に始まる『シンフォギアG』最終章。 

絶望的の状況下で繰り広げられる最終決戦は、しかし、EPISODE 5以降の鬱屈とした空気を吹き飛ばして有り余るほどのカタルシスをもって、本作を右肩上がりに盛り上げていく。 

 

フロンティアへと向かう翼、そして、響の説得で「自分のやりたいこと」に向き合う覚悟を決めた調。彼女たちの前に立ちはだかるのは、F.I.S.の軍門に下ったクリス、そしてウェルの計画を守ることで調に世界を残そうとする切歌。 

リアルタイム当時は、まさかこんな対戦カードになるとは予想さえしていなかったし、それぞれの戦いが見せる「更なる予想外」は、それら一つ一つがまさに『シンフォギア』の真骨頂と呼ぶべきとんでもない代物だった。

 

 

世界への憎しみも、F.I.S.の正義を為そうとする信念も確かに持っていた調と切歌。しかし、まだ若干15才の子どもでしかない2人にとって、大義よりも何よりもお互いの存在やマリアのことが大切なのは当然のこと。だからこそ、この戦いにおいて2人はこれまでにない最大の気迫を持って力を振るう。 

響VS未来に続いて「エクストリーム痴話喧嘩」などと言われたりもする調VS切歌だが、この戦いに「シンフォギアらしさ」が満ちている理由はそこではなく、お互いがお互いへの “愛情” 故に戦うこと。そして、2人の戦いに合わせて流れ出す "この歌"にこそあるだろう。 

Edge Works of Goddess ZABABA

Edge Works of Goddess ZABABA

 

一見すると調・切歌のデュエット曲 (ユニゾン) のようにも思えるこの歌。この局面で2人のデュエットというのはそれだけでも昂るものがあるけれど、この歌はその実「デュエット」の一言で済ませていい代物ではなく、謂わば『シンフォギアG』における最大の仕掛けの一つだった。というのも……。

 

調の歌、『鏖鋸・シュルシャガナ』。

鏖鋸・シュルシャガナ

鏖鋸・シュルシャガナ

 

切歌の歌、『獄鎌・イガリマ』。

獄鎌・イガリマ

獄鎌・イガリマ

 

そして問題の歌、『Edge Works of Goddess ZABABA』

Edge Works of Goddess ZABABA

Edge Works of Goddess ZABABA

 

お分かり頂けただろうか。 

そう、問題の歌=『Edge Works of Goddess ZABABA』とは、なんとこの2つの歌が文字通り一つに合わさって生まれた歌なのである。  

「2人で1人である調と切歌の在り方を表す最大の仕掛けが、2人の楽曲そのものに既に仕込まれていた」という凄まじい事実が、よりによって2人が戦う瞬間に明かされる……というこの演出は、もはや粋とかそういう次元を越えた達人技であるし、シンフォギアシリーズの楽曲を手掛ける音楽クリエイター集団「Elements Garden」、そしてその代表にして、このとんでもないギミックを考案した『シンフォギア』の音楽プロデューサー、上松範康氏の手腕が恐ろしいくらいに発揮された、文字通りの「伝説」と言えるだろう。 

(ちなみに、『シュルシャガナ』の作曲&編曲と『Edge Works~』の編曲を手掛けられたのは菊田大介氏だが、この“仕込み”が読まれないようにする狙いもあってか、なんと『イガリマ』は作曲:中山真斗氏+編曲:藤田淳平という全く別のタッグが担当している。プロデュースされた上松氏は勿論、この御三方の実力もあってこそ生まれた伝説……ッ!)

 

Next Destination

Next Destination

  • 高垣 彩陽
  • アニメ
  • ¥255

 

そんな調と切歌に続く戦いは、こちらも意外な対戦カード、翼 VSクリス! 

年齢で見ても「仲間たちのおかげで、新しい居場所を見付けたシンフォギア装者」としても先輩・後輩の2人であるが、クリスを友/後輩として受け入れている翼に対し、今一歩踏み出せず、彼女のことを名前 (名詞) で呼んだこともないクリス……という、何とも微笑ましいもどかしい関係性の2人。そんな2人がこのクライマックスでぶつかることになるのは予想外だったけれど、実際のところ、クリスが何らかの目的で寝返ったのは (視聴者からしても、翼たちからしても) 自明だったため、『Edge Works of Goddess ZABABA』の衝撃に比べると些か見劣りしてしまいそうなこのパート。しかし、そんなこちらの予想を軽々しく飛び越えていくからこそ『シンフォギアG』は名作なのである。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

ウェルによって爆発する首輪を嵌められ、否が応でも全力を出さざるを得ないクリス。そんな彼女の様子を察し、その狙いを探りつつ応戦する翼。「首根っこ掴んででも、居場所へ連れて帰る」という翼を前に、後のないクリスはある「懸け」に出る。

「風鳴、先輩。次で決める……昨日まで組み立ててきた、あたしのコンビネーションだ!」
「ならば、こちらも真打をくれてやる!」

波状攻撃を仕掛けるクリスと、一点突破からの面制圧でそれに対抗してみせる翼。戦場を爆発が包み込んだ後、フロンティアでウェルの前に現れたのは、傷付いた翼を運んできたクリスだった。

「約束通り、二課所属の装者は片付けた。だから、ソロモンの杖をあたしに――」

「ソロモンの杖の奪還」という真の目的を果たすべく、ウェルに迫るクリス。クリスの首輪 (爆弾) が壊れているという“想定外”に動揺するウェルだったが、周到な彼はギアの適合係数を低下させる薬剤=アンチリンカーを散布。ただでさえ消耗した上でのアンチリンカー。そんな状況下では、さしものクリスもノイズに抗う術はなく……。 

絶刀・天羽々斬

絶刀・天羽々斬

「そのギアは……! まさか、アンチリンカーの負荷を抑えるために、敢えてフォニックゲインを高めずに “出力の低いギアを纏う” だと!? そんなことができるのかッ……!?」
「できんだよ。そういう先輩だ」

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ  

 

そう、『Edge Works of Goddess ZABABA』を越え得るジョーカーとは、「第1期バージョンの天羽々斬を纏う翼」というまさかまさかのサプライズ!! 

記事冒頭でも触れた通り、響・翼・クリスのシンフォギアのデザイン変更については、これといって作中で言及がされないため、当時は「敵のシンフォギアが黒いので、区別がつきやすいようにデザインが変更された」ものだと思っていたし、事実、こういった「作中では見た目が同じ扱いのデザイン変更」は特撮・アニメではよくあること。しかし、こちら側がそう思い込むことさえ作り手の想像通りだったのだろう。 

何もかもが予想外の展開に、ウェルよろしく「そんなことができるのか……ッ!?」と言わざるを得ない我々視聴者に投げ掛けられるのは「できんだよ、そういう先輩だ」の一言。そう、この演出は響でもクリスでもなく、誰あろう風鳴翼だからこそ担えたもの。 

思えば、『シンフォギア (第1期) 』ではイチイバルのクリスを圧倒、フィーネをも単身で追い詰めた他、『シンフォギアG』においても、マリアと唯一同等に張り合えただけでなく「切歌を一歩も動かさずに封殺する」など、翼はシリーズを通して「格が違う存在」として描かれ、それは水樹奈々氏というプロフェッショナルの演技・歌唱も相まって無頼の説得力を放っていた。そんな翼だからこそ、我々の想定を越えたこの演出も、「ギアを纏う際のフォニックゲインを微調整する」という、素人目に見てもとんでもない技量にも、困惑より先に「納得」が来てしまうし、ここに来て懐かしい「黒と蒼の天羽々斬」が復活するという超弩級のロマン展開に心から喜ぶことができるのだ。

 

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ

 

翼の活躍でノイズは殲滅、クリスの救出とソロモンの杖の奪還も完了し、全てが “作戦通り” に終わったことで無事を確かめ合う2人。 

しかし、“同士討ちしたと見せかけて、爆煙の中でクリスの首輪を切断する” という作戦には事前の打ち合わせなど一切なく、クリスの「風鳴、先輩。次で決める……昨日まで組み立ててきた、あたしのコンビネーションだ!」という一言から、翼がその狙いを汲み取り実現させたものだった。 

「共に研鑽し、組み上げてきた戦い方 (コンビネーション) だからこそ、どうすれば躱せるかも、どこに隙があるかも分かってくれている」というクリスの期待に見事応えた翼だったが、クリスには一つ疑問が残っていた。

「一人で飛び出して……ごめんなさい」
「気に病むな。私も、一人では何もできないことを思い出せた。何より、こんな殊勝な雪音を知ることができたのは僥倖だ」
「…………そっ……それにしたってよ、なんであたしの言葉を信じてくれたんだ?」
「雪音が “先輩” と呼んでくれたのだ。続く言葉を斜めに聞き流す訳にはいかぬだろう」
「それだけか?」
「それだけだ。さあ、立花と合流するぞ」

「守るべき居場所」だけでなく「自分を受け止めて貰える、頼もしい先輩」にも出会うことができたクリス。そして、亡き奏の想いを確かに継ぎ、先輩としてクリスを優しく受け入れる翼……。中盤以降すれ違ってきた2人の優しさがようやく報われ、お互いにありのままの想いをさらけ出せたこの暖かい「ゴール」は、彼女たちが1人ではなく「2人」だからこそ紡ぎ出せたものだった。 

どれだけ強く相手を想っていても、皆がその想いを一人で抱え込んでしまったがために悲劇が起こり続けた本作。それは翼とクリスも例外ではなく、2人がこうして真に分かり合えたのは、クリスが翼への想いを込めた「風鳴先輩」の一言を、翼が心でしかと受け止めたからこそ。響と未来がそうであったように、彼女たち2人もまた「互いの想いを繋げる」ことによって、悲劇の運命に抗ってみせたのである。

 

教室モノクローム

教室モノクローム

 

彼女たちが改めて示したように、シンフォギア』において、答えは常に繋いだ手の中にこそあるもの。そして、それこそが「不和」という敵に抗う唯一にして絶対の方法。しかし、彼女たちはまだ幼い子どもであり、その力にはどうあっても限界がある。 

彼女たちがそんな「どうにもならないこと」に直面した時、それを支えてきたのは常に大人たちの存在だった。

「敵とか味方とか言う前に、子どものやりたいことを支えてやれない大人なんて、カッコ悪くて敵わないんだよ」

第1期から『シンフォギア』の物語を支え、引き締めていた大人たち。その頼り甲斐は本作でも健在で、上記の言葉で調の背中を押した弦十郎をはじめ、藤尭やあおい、緒川たちによって、装者一同はこれまで数多くの窮地を救われてきた。 

本来、「世界を守る」といった重責や過酷な宿命は、子どもたちではなく大人たちこそが背負うべきもの。それを響たちに託さざるを得ない葛藤と「彼女たちが “子ども” であれるように」と奮闘する彼ら大人たちの背中は、この『シンフォギアG』においても印象的に描かれていた……が、調と切歌の窮地を救った「大人」は、あまりにも意外な存在だった。

 

 

切歌の刃が調を捉えようとしたその時、調が展開したのは「以前にも、切歌と調を守ったものと同じ」光波バリア。新たなフィーネの器とは、マリアでも切歌でもなく調だったのだ。 

そのことに誰より傷付いたのは、自身の早とちりで調に刃を振るってしまった切歌。「消えてなくなりたい」とイガリマで自害を試みる切歌、そして、そんな彼女を庇おうとする調……を守ったのは、誰あろう「調の中にいたフィーネ」その人だった。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

調の身代わりとなり、魂を刈り取るイガリマの一撃に消え行くフィーネ。彼女が響の想いを受け取り、「転生などせず、今を生きる人間に未来を託そうとしていた」という事実は勿論、バラルの呪詛という「不和を生むもの」を誰より嘆いていた彼女が、皮肉にも自分の身を呈して調と切歌の絆を守ることになったというこの一連は、「"本当は敵なんていない" 物語」ことシンフォギアとして、この上なく美しいものに感じてしまう。

 

かくして、切歌が試みた自害は、結果的に調の中にいたフィーネを消滅させ、他ならぬ調を救うことになった。切歌の罪悪感、彼女を守りたい調の愛情、そして、響から想いを受け取ったフィーネの誠意……。これまで牙を剥いてきた「善意の連鎖」がここに来て全てを救っていくのは、それが以前とは異なり、「調たちが ”自分自身の、偽りない信念" で戦ったからこそもたらされた "報い" 」だからであると、そう思えてならない。

そして、未だ救われぬ最後の一人=フロンティアで奮戦するマリアの元には、ガングニールを失った「ただの立花響」が駆け付ける。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

同じガングニールの装者であるマリアと響。しかし、傷付き失い続けるばかりのマリアに対して、響は融合症例として危機に瀕しながらも切歌や調、未来を救い、胸のガングニールを失って尚、調の冷えきった心を溶かしてみせた。そんな2人の明暗を分けたものは、EPISODE 11『ディスティニーアーク』における、響のこの台詞に象徴されていると思う。

「私、自分のやってることが “正しい” だなんて……思ってないよ。以前大きな怪我をした時、家族が喜んでくれると思ってリハビリを頑張ったんだけどね、私が家に帰ってから、お母さんもおばあちゃんもずっと暗い顔ばかりしてた……。それでも私は、自分の気持ちだけは偽りたくない。偽ってしまったら、誰とも手を繋げなくなる」

かつて、響がツヴァイウィングに救われ、奏や多くの観客が命を落とした災厄の日、最も多くの死傷者を生んだのは「ノイズそのもの」ではなく、ノイズによって「パニックになった群衆自身」だったのだという。そのため、響のような数少ない生存者に非難が集中、「人殺し」という事実無根のレッテルまで張られてしまい、結果、家族の為にリハビリに全力を尽くした響を待っていたのは「自分のせいで立花家そのものに矛先が向いてしまう」という残酷な現実だった。 

自分の行動が、どんな結果を招くかは誰にも分からない――。そんな世界の儚さ・残酷さを知った響が選んだのは、せめて自分の気持ちを偽らず、真っ直ぐに生きること。そして世界の残酷さに押し潰されることなく、本当の想いを伝え合えるように「人と手を繋いでいく」こと。 

「手を繋ぐ」ということは、自分の気持ちが相手にそのまま伝わってしまうこと。自分の気持ちをさらけ出すということ。だからこそ、響は「自分を偽ったら、誰とも手を繋げなくなる」と語ったのだろう。

そんな勇気ある行動=「手を繋ぐ」ことは、「不和」をこそ真の敵とする『シンフォギア』シリーズにおいて、常に事態を打開するきっかけになっていた。響が『シンフォギア』の主人公たりえていたのは、ガングニールの融合症例だからでもなく、弦十郎の弟子だからでもなく、何より彼女の信念が「手を繋ぐ」ことにこそあったからなのかもしれない。そして、彼女が貫いてきた曇りなき信念は、遂にその手に「槍」を手繰り寄せる。

「マムがこの男に殺されたのだ、ならば私もコイツを殺す! 世界を守れないのなら、私も生きる意味はないッ!!」
「意味なんて、後から探せばいいじゃないですか……! だから、生きるのを諦めないで!」

(奇しくも、奏の言葉をきっかけに) 響の口から聖詠が零れると、マリアのガングニールが強制解除、光子となって響に収束・再構成されていく。

「何が起きているの……!? こんなことってありえない! 融合者は適合者ではないハズ……!これはあなたの歌? 胸の歌がしてみせたこと!? あなたの歌って何? 何なの!?」
「撃槍ッ!! ガングニールだぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

「偶然から力を手に入れた」融合症例だった響が、この最終局面において遂にガングニールに「適合する」という衝撃的な展開は、響の雄叫びと共に身体が芯から震え上がってしまう名シーン……だけれども、このシーンが「シ・ン・フォ・ギィィッ――ヴウゥワアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」程話題に上らないのは、響がガングニールに適合する側で、全てを喪い絶望に暮れるマリアの姿があまりに痛ましいからかもしれない。

 

 

「自らの心を偽らない」という信念を貫く中で何度も傷付き、同時に多くの大切なものを手に入れ、遂にはガングニールに適合してみせた響。その傍らでは、「自分の心さえも偽る」ことで全てを背負おうとしたマリアが、その膝を折ってしまっていた。この状況を作り出した要因は、きっと響とマリア本人の資質ではなく、2人が「誰かと手を繋げたかどうか」……というその一点だろう。

 

響は、その胸に偽りなく歩んできたことで命を散らす寸前まで追い詰められたが、彼女を救ったのは弦十郎のような頼れる大人たち、そして未来をはじめとする仲間たちが手を差し伸べてくれたこと。響が繋いできた手そのものが、巡り巡って彼女をこの世に繋ぎ止めてくれたのだ。 

一方マリアは、自らに課せられた宿命全てに「誰かの手を借りることなく」一人で向き合っていた。それはセレナや調、切歌らを過酷な現実から守るために彼女が培ってきた「強さ」であったけれど、その強さのために、彼女は「世界に敵対する新生フィーネ」という分不相応な重荷を背負えてしまっていた。背負えてしまっていたからこそ、彼女は道を誤り、調は一人奔走し、切歌はフィーネの影に一人怯えてしまっていた。 

いくら強かろうと装者最年長だろうと、マリアはあくまでただの優しい少女に過ぎない。彼女に必要だったのは、罪を背負える「強さ」ではなく、むしろ誰かに手を伸ばし、助けを求める「弱さ」だったのではないだろうか。

 

事情があったとはいえ、ウェルの行いを是とし、自らの手を血に染めてしまったマリア。しかし、彼女もまた被害者の一人。罪こそあれ、彼女が救われてはいけない理由はない。響が、未来が、翼が、クリスが、調が、切歌が……。皆が運命のしがらみから解き放たれていくならば、彼女もまた、その貫いた正義に相応しい報いを受けてもいいはず。なのに、なぜ彼女は残された力=ガングニールまで奪われなければならないのか、響のガングニール適合は感動的だったけれど、響がまるでマリアから最後の希望を奪ったように見えてしまう……と、最初はそう思っていた。 

しかし、それは違った。マリアは、ガングニールを喪うことでこそ「救われた」のである。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

ナスターシャがフロンティアで発見した人類救済策。それは大量のフォニックゲインを月へ照射し、遺跡の機能を回復することで通常の軌道に戻すというもの。 

早速フロンティアの機能 (?) で全世界に向けて放送を行い、事の経緯を語った上で「皆の歌を貸して欲しい!」と自ら歌い出すマリア。しかし、誰も歌わない……というか、歌うに歌えないのだろう。それもそのはず、「月は巨大な人工物であり、機能不全に陥ったせいで間もなく地球に落下してしまう。その状況を打開するには歌の力で月の機能を回復する必要があるが、それには世界中の歌が必要」と突然言われても、信じられる訳がない。 

そもそも、この一連は本作を見ているこちらも「どういうことなの……」と困惑してしまうシーンなので、何も知らない『シンフォギア』世界の一般市民にしてみれば尚更だろう。手を挙げるだけで良かった『ドラゴンボール』、なんて親切だったんだ……。 

いくら彼女が切実であっても、そんな荒唐無稽な話を前にしては誰も動けるはずがなく、またしても挫けそうになるマリア。いろんな意味で「それはそうだろうよ……」と切なくなってしまうけれど、当人たちからすれば、他にやりようがない状況なのもまた事実。 

そんな状況下、追い討ちとばかりにウェルの手で区画ごとフロンティアから切り離されるナスターシャ、そして唯一残ったもの=ガングニールのギアさえも喪ってしまうマリア。こう追い込まれてはマリアでなくても再起不能になってしまうだろうし、彼女にとっての一番の問題は「降りかかる状況があまりに過酷すぎる」というその不幸だったのでは……と思わされてしまうほど、その絵面は痛々しいものだった。 

しかし、もし響がウェルに向けられた槍を止めていなかったら、一線を越えてしまったマリアは今度こそ立ち直れなくなっていただろうし、響がガングニールを解除していなければ、彼女は自分の本音を口にすることなどなかっただろう。 

不幸続きのマリアだったけれど、今ここで響と再会し、彼女がガングニールを纏ったことは彼女にとって間違いなく幸運だった。いつだって、響は誰かを苦しみから解き放ち続けてきたし、今この時も、響はマリアが誰とも手を繋げなかった原因である「責任を果たすための偽りの自分」=黒いガングニールを彼女から引き剥がすことで、マリア自身を覆っていた「殻」をも砕いてみせた。そう、彼女は「奪われた」のではなく「解き放たれていた」のである。  

引用:「戦姫絶唱シンフォギアXV」放送直前企画!<おさらいシンフォギア>- 戦姫絶唱シンフォギアXV 公式ホームページ  

 

そうしてマリアが本来の自分に戻ったからなのか、ここで彼女の前に現れたのは亡き妹=セレナの幻影だった。

『マリア姉さんのやりたいことは、何?』
「歌で……世界を救いたい。月の落下がもたらす災厄から、皆を助けたい」
『生まれたままの感情を、隠さないで』
「セレナ……」

常にセレナの形見=壊れたシンフォギア「アガートラーム」のペンダントを握り締め、彼女の遺志を継ぐことを自身に課していたマリア。しかし、セレナが願っていたのは、自分の犠牲を意味のあるものにすることでも、世界を守ることでもなく、あくまで「マリアが幸せである」こと。だからこそ、彼女は最期の瞬間にもマリアの無事に安堵していたし、この瞬間も彼女はマリアに「やりたいことは何?」と問いかけた。 

響と未来、翼とクリス、調と切歌。彼女たちは皆、お互いの想いがすれ違ったことで起こった悲劇に苦しみながらも、最終的にその想いを重ねる=手を繋ぐことで道を切り拓いてきた。そして、残されたマリア――セレナとの死別以降、自らを「偽りの自分」で覆い隠してきた少女もまた、ここでようやく「セレナを守れなかった自分」から解き放たれ、セレナ自身と手を繋ぐことができた。だからこそ、彼女が「本当の “やりたいこと” 」と共に口にした『Apple』が、これまでマリアの呼び掛けで動 (くに動) けなかった世界中の人々の心を動かし、莫大なフォニックゲインの共鳴現象を引き起こしたというのは、文面から滲み出るダイナミックさとは裏腹に、胸に染み入るような「納得」を伴う展開だった。 

うら若い少女たちが自らを曲げて、偽わらなければ救えない世界に価値なんてない。同時に、もし彼女たち自身が世界を救いたいと願ったならば、その想いは報われて然るべきなのだ。 

(『Apple』が引き起こした世界規模の共鳴現象は、後のシリーズで語られることを除いても、第1期と本作で描かれてきた描写を踏まえればいくらでも理屈だった説明をすることができる。しかし、マリアの純真が引き起こしたこの奇跡をあくまでロジックで語ろうとするのは、むしろ野暮というものだろう)

 

www.symphogear-g.co

 

フロンティアに収束された世界中のフォニックゲインは、ナスターシャ教授の尽力によって月遺跡へと照射され、遂に月はその恒点軌道を回復。地球の危機が回避されると共に、F.I.S.の正義はここに報われることとなった。そしてそれは、調、切歌、そしてマリアが、遂に自分達を縛る全てのしがらみから解き放たれたということでもある。 

月の落下を阻止した以上、残る問題は暴走するフロンティアの心臓=ネフィリム。同じ目的のために、満を持して装者6人が共闘するこの瞬間に込み上げる感動は、とても1クール作品のそれには思えない特大のもの。 

翼&クリスに響が合流し、次いで調&切歌が、そしてマリアが次々と駆け付けてくるだけでも感涙ものなのだけれど、ネフィリムの炎が彼女たちを包み込んでからの一連は「聖詠と絶唱のメロディ」から成る奇跡の楽曲『始まりの歌』もあって、文字通り涙なしには見られない最高のクライマックスだ。 


(動画冒頭、「ベスト・オブ・シンフォギア 3位」のシーンをご覧ください!) 

「惹かれ合う音色に、理由なんていらない」(『Vitalization』からの引用とは思えないほど、本作を体現する台詞になっているのがあまりに綺麗……!) と、調と手を繋ぐ翼。お互いに、自身の “やらかし” ぶりを笑いながら手を繋ぐクリスと切歌。 

これまでぶつかり続けてきた彼女たちだけれど、本作ではそれと同じくらい「彼女たちが通じ合える存在」であることも描かれてきた。そして、そんな彼女たちを阻んできた「月の落下」という大災害はもう存在しない。だからこそ、ここで彼女たちが分かり合えることに細かい説明なんて挟まれない。全てのしがらみから解き放たれ、信じ合える仲間たちと手を繋いだ少女たちにとって、全ての奇跡は――復活したセレナのギア「アガートラーム」にマリアが適合するという奇跡さえも、「安いもの」であって然るべきなのだ。

 

引用:各話あらすじ - 戦姫絶唱シンフォギアG 公式ホームページ

 

ノイズたちの巣=バビロニアの宝物庫にて、最終形態となったネフィリム、そして無数のノイズたちを殲滅。最後の仲間=未来の助力もあって、無事に全てを終わらせることができた響たち。しかし、曲がりなりにも多くの罪を犯してしまったマリア、調、切歌には、避けられない迎えが待っていた。 

 

響の腕が食べられたEPISODE 5以降をはじめとして、非常にシリアスで胸が締め付けられるような展開が続いていた『シンフォギアG』だが、その締めくくりは、あまりにも爽やかで晴れやかなものだった。 

それは、月の落下阻止やネフィリムの撃破、ウェルの逮捕によって物語が綺麗なハッピーエンドを迎えたから……というのは勿論あるけれど、響たち全員=「逮捕されることになったマリアたちを含めた “全員” が、心からの笑顔を浮かべられていたこと」に尽きるだろう。

 

月の落下に端を発する一連の事件――後に「フロンティア事変」と呼ばれる本作の出来事に翻弄された7人の少女たち。そんな彼女たちが身を持って示してくれたのは「手を繋ぐ」ことの大切さだった。 

そのことについて、本作のラストシーンにおける未来と響のやり取りがある一つの「気付き」をもたらしてくれる。

「ねぇ、響」
「え?」
「身体は平気? おかしくない?」
「心配性だなぁ未来は……へへっ。私を蝕む聖遺物は、あの時全部綺麗さっぱり消えたんだって」
「響……」
「でもね」
「え?」
「胸のガングニールはなくなったけれど……奏さんから託された歌は、絶対に無くしたりしないよ。それに、それは私だけじゃない。誰の胸にもある――歌なんだ」

先代ガングニール装者=天羽奏。彼女から響に託された歌とは「ガングニールの聖詠」だけではない。それが彼女自身の口から語られたのは、第1期のEPISODE 8『陽だまりに翳りなく』におけるこの台詞。 

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ

「戦っているのは私一人じゃない。シンフォギアで誰かの助けになれると思っていたけど、それは思い上がりだ……! 助ける私だけが一生懸命じゃない、“助けられる誰か”も、一生懸命……!」
『おい、死ぬな!目を開けてくれ……生きるのを諦めるな!!』
「本当の人助けは、自分一人の力じゃ無理なんだ。だから、あの日あの時、奏さんは私に “生きるのを諦めるな” と叫んでいたんだ!今なら分かる気がする……!」
「そうだ……! 私が誰かを助けたいと思う気持ちは、惨劇を生き残った負い目なんかじゃない! 2年前、奏さんから託されて、私が受け取った……気持ちなんだッ!!」

奏から響が託された歌。それはガングニールのシンフォギア=「誰かを守る力」、そして「生きるのを諦めるな」という言葉=誰かを助ける為に必要な「想い」。 

前述のように、本作において響たちシンフォギア装者が破滅に抗うことができたのは、それぞれの手を繋ぎ、想いを重ね合わせたからこそ。それを体現したのが立花響という少女だったが、彼女の「手を繋ぐ」という信念の一端を担っていたのは、他ならぬ天羽奏の存在。 

奏の「生きるのを諦めるな!」という言葉は、一人では何も変えられない / 誰も助けられないこと、想いを繋げてこそ運命は変えられるのだということ――即ち、『シンフォギア』世界における最大の「答え」を響に託すと共に、シリーズを貫くテーマを何より象徴する言葉だったのだ。

 

このように『シンフォギアG』が描いたものは、本質的には第1期から連なる「いつだって、“繋いだ手” だけが明日を拓く」という暖かで真っ直ぐなメッセージ。しかし、本作はそれをよりドラマチックに、ダイナミックに描き切り、カタルシス満載のエンターテインメント作品へと昇華させてみせた。   

そのクオリティや、作品に込められた「祈り」がもたらす感動は、本作を「『シンフォギア』シリーズのみならず、あらゆるアニメ作品の中でも指折りの傑作と言って差し支えないもの」たらしめていると感じるし、この文章を読んでくださった皆様に、そんな本作の魅力が少しでも伝わること、ないし、この文章が本作の魅力を思い出すきっかけとなることを、今はただ祈るばかりである。

 

虹色のフリューゲル

虹色のフリューゲル

 

人間への暖かな希望を謳った『シンフォギアG』放送から約10年。私たちが生きる令和の世は大きな病魔に蝕まれており、物理的に「手を繋ぐ」こととは縁遠い世界へと日々変化し続けている。 

しかし、本作が描いてきた「手を繋ぐ」ことは、何も物理的な意味合いとは限らない。
クリスの信頼を翼が受け止めて形にしてみせたように、切歌と調の想いが連なって運命を覆したように、響と未来がお互いに愛をぶつけ合ったことで呪いが解かれたように、そして、マリアが偽りの自分を脱ぎ捨ててセレナの願いに向き合ったことで、世界の救済を成し遂げたように……。そんな彼女たちのように、身近な友や大切な誰かと偽りない想いを伝え合うこと。これらもまた、シンフォギアが描いた「手を繋ぐ」ことに他ならないだろう。

 

現実とは過酷なもので、人と人とが分かり合うことは口で言うほど簡単なことじゃない。自分を偽らずに生きることは、途方もない覚悟と勇気がいることだ。 

しかし、響たちはそんな現実に全力で抗い続け、その果てに世界を救ってみせた。たとえフィクションの物語だとしても、その気高さや、彼女たちが示した「手を繋ぐことでこそ未来が拓ける」という答えに、一体何の疑いがあるだろうか。 

我々の生きるこの世界には、月の落下のような極大災厄こそないものの「病魔」や「天災」といった災害はごく身近に潜んでおり、いつ何が起こり、誰がいなくなってしまうとも分からない。その点では、ノイズが跋扈する響たちの世界と何も変わらないし、だからこそ、私たちも日々「真摯に想いを伝えること」を怠ってはいけないのだろうと思う。そして、「手を繋ぐこと」の難しさ、その大切さを伝えてくれる本作と出会えた幸運を、この先もずっと胸に刻んで噛み締めていたい。

 

 

しかし、そんな『シンフォギア』シリーズにはまだ「先」がある。 

フロンティア事変を乗り越え、ガングニールの正規適合者となった響、真に手を取り合えた翼とクリス、そして、新たな道を歩み出すことになるマリア、調、切歌……。彼女たちに一体どんな物語が待ち受けているのか、高い完成度を誇る『戦姫絶唱シンフォギア (第1期) 』と『戦姫絶唱シンフォギアG』を経て生まれた第3作=『戦姫絶唱シンフォギアGX』は、我々に一体どんな景色を見せてくれたのか。 

10周年を迎えた『シンフォギア』シリーズの歩みを、この先も引き続き振り返っていきたい。