あの頃の自分は、なぜ「教科書の純文学」を遊び道具にしていたのか

先日、友人・Y氏の書いた短編小説を査読させて貰う機会に恵まれた。 

Y氏の小説はこれまでも何度か読ませて頂いているのだけれど、ホラーを軸に多彩なジャンルを組み合わせ、自分の味として昇華させてみせる氏の名料理人ぶりには毎度驚かされてばかり。とりわけ、自分が号泣しながら読破し「水星の魔女に負けないくらい『slash』が似合う」と熱弁した小説に至ってはなんと賞を取ってしまい、筆者まで諸手を挙げて大喜び。自分にとっても2023年を象徴する一大イベントとなっていた。

 

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して、今回の査読である。 

「純文学はボーボボ」という謎めいたコメントと共に渡された小説は、これまでとは異なり「純文学」なのだという。純文学、と聞いて「教科書に載ってるようなアレか……?」という浅ッさい感想を抱いてしまう自分に果たして咀嚼できるのだろうか、という不安と共に読み進めた氏の新作だが、結果、自分は情けないことにそれを理解しきることができなかった。 

ぼんやりと「こういう話なのだろうな」というイメージは掴めたし、どの要素がどの要素と接続されるのかも朧気ながら理解できる。しかし、自分の得た認識はどれもこれもふわっとしていて、結果「ピースもあるし、完成図もあるのになぜか組み上げられる気配のないジグソーパズル」のような不確かな理解のままで本を閉じることになってしまったのである。 

査読を頼まれておきながら恥ずかしい限りだけれど、当人には自分の得た素直な感想――勿論、何もかもが「分からなかった」ワケではなく、自分に言語化できる魅力も数多くあった――をフィードバックし、少しでも執筆の役に立てればと思う次第だ。 

一方、そんなY氏の小説を拝読して、不意に「懐かしさ」を覚える瞬間があった。ぼんやりと「こういう話なのだろう」という輪郭は掴めつつもその核心に触れられた感覚はなく、そのビターな物語をどう受け止めるべきなのか行き場のない不安を感じてしまう……というこの感覚は、まさに学生時代、教科書で「純文学」=夏目漱石の『坊っちゃん』。梶井基次郎の『檸檬』。ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』といった、文学界の傑作に触れたあの時に抱いたものと同じだったのだ。

 


では、当時の自分はそのような感覚に一体どう向き合っていたのだろうか。 

前述の作品群に対しては、勿論国語の授業で「筋道立った読み解き」こそ行っていたが、浅薄な天邪鬼だった自分はそのような授業に真剣に向き合っていた試しがない。せいぜい「算数よりは楽しい」といった程度の熱感だ。 

なら、作品の意図を読み解こうと頭を悩ませていたか? そんなことはない。 

なら「自分は馬鹿なんだな」と落ち込んだか? それも当然違う。 

あろうことか、自分はそのような作品から「ネタにできそうな要素」を引っ張り出し、ある種のミームとして遊び道具にしていたのだ。

 

 
名作とは往々にして「印象的な一文」が付いて回るもの。レモンを爆弾になぞらえた表現や、『少年の日の思い出』で登場した「つまり君はそういうやつだったんだな」という台詞など、そういったキャッチーなものを休み時間のネタにしていたのが、かつての自分の「純文学」に対する振る舞いだった。 

自分は、なぜそんな恥知らずな振る舞いをしていたのだろう。 

実は、そんなに深く考えるようなものではないのかもしれない。「まだ幼く、目に映るものが面白くてしょうがなかった」という、ただそれだけの理由なら「子どもだからね」と一笑に付して終わる話だ。 

けれど、もしその行動が(意識的にせよ、そうでないにせよ)「自分の理解できない作品を矮小化して、理解できない自分を正当化しようとしていた」という動機によるものであるなら、自分はそれを看過してはならないだろう。
 
「自分の理解できない物事を矮小化して、理解できない自分を正当化する」


……文章として見るとあまりしっくり来ないかもしれないけれど、この行動には社会人の方なら少なからず心当たりがあるのでは、と思う。 

大きな問題を起こした人間が、それを自ら「一笑に付す」ことで、その問題があたかも大したことではないかのように振る舞う。 

自分の知らないこと・知らない世界に「分からない」「知りたい」と興味を持つのではなく「くだらない」という否定や嘲笑から入ることで、それを知らない・分からない現状を肯定する。 

自分はこのような行動を様々な場所で目にしてはその度に歯軋りしてきたけれど、「理解できなかった名著からミームを抽出し、ゲラゲラ笑って遊び道具にする」というかつての自分の振る舞いは、それと同じ――もといそれ以下の「下卑た」行動。幼かったからという一言では済まされない、極めて愚かな行動だったと思えてならないのだ。  

 

 

この話は、何も幼少期に限ったことではない。 

自分はつい数年前まで、アイドルやスポーツなど「人気だけど自分とは縁がないジャンル」に対して「楽しみ方が分からない」というような旨をわざわざ口に出すことがあったのだけれど、これも前述のものと同じだろう。大人になってまで幼少期の悪癖を残していたのかと――実は、気付いていないだけで「今も同じようなことをしてるんじゃないか」と思うと身の毛がよだつ。 

自分がそのような行動の意味を自覚できたのは、『アイカツスターズ!』や『Free!』といった、同ジャンルを題材にした傑作たちに触れ、その魅力に気付くことができたから。この経験がなければ、自分は今も「矮小化」をし続けていたのかもしれないし、そういった作品に感謝すればするほど、同時に自分の行いがいかに惨めで不躾なものだったかを実感してしまう。 

であるなら、自分はそれらのジャンルだけではなく、問題の「純文学」というジャンル、そしてあの時馬鹿にしてしまった作品たちに正面から向き合う必要がある。 

その結果、もし「しっかりと咀嚼し、味わう」ことが叶わなかったとしても、その再会を通してかつての / 今の自分の幼さを認めることができたなら、その時自分はようやく「大人」になれるのではないかと、そう思うのである。

総括感想『ウルトラマンブレーザー』- 新機軸と販促を両立させた「優等生」が問いかける、“コミュニケーション” の在り方とその可能性

2024年1月20日ウルトラシリーズの最新TV作品『ウルトラマンブレーザー』が最終回を迎えた。

 

 

従来のニュージェネレーションシリーズと大きく異なる雰囲気や『Z』以来の「メイン監督:田口清隆監督」という大看板によって、放送前から絶大な盛り上がりを見せていた『ブレーザー』。 

事実、本作は数々の意欲的な取り組みは勿論、それらに甘えることなく特撮、玩具、シナリオなど各所にこだわりが伺える「丁寧な」作品であり、そのことはファンから大きな歓迎を持って迎えられた――が、一方では「販促」という言葉を中心に様々な議論が飛び交っていたのもまた事実。 

今回の記事では、そんな本作の魅力・賛否両論点を大きく3つの視点に分けて総復習。筆者の個人的な感想も交えつつ、半年に渡る『ブレーザー』と私たち視聴者とのコミュニケーションを振り返ってみたい。


※以下、作品に肯定的な内容/批判的な内容や、ウルトラシリーズ各作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 

《目次》



イントロダクション~『ブレーザー』前夜


ウルトラマンブレーザー』は、2023年7月に放送を開始したウルトラマンシリーズの最新TV作品。
発表当初は、前々作『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』、そして前作『ウルトラマンデッカー』の流れを汲んだ『ニュージェネレーションガイア』作品ではないことが賛否両論となっていたけれど、それ以上に注目を集めていたのは『ブレーザー』という作品そのものの特異性だった。 

 

主人公=ヒルマ ゲントの、ウルトラシリーズ初となる「妻子持ち」+「隊長」設定。 

『Z』では設定考証、『トリガー』では脚本家として活躍された田口監督の朋友・小柳啓伍氏のメイン起用。 

『Z』以来となる味方のレギュラーロボット=アースガロンの登場……。 

と、これらだけでも『ブレーザー』は話題性十分だったのだけれど、自分が特に衝撃を受けたのはブレーザーというウルトラマンに、過去作の要素が全く絡まない」こと、そして何より、プレミア発表会で披露された大量の新怪獣たち! 

 

ウルトラシリーズのような巨大特撮作品は、膨大な制作費を必要とすることから「シリーズの継続放送」が極めて困難な作品。フィールズの傘下に入って尚立ちはだかったこの問題に対し、円谷プロダクションは長年の積み重ねから「勝利の方程式」を導き出した。それこそが、ニュージェネレーションシリーズの「新作2クール+列伝系番組2クール」という放送形態、そして 

・過去作要素を持ったウルトラマン (商品展開のしやすさ+付加価値の高さ=売り上げに対するある種のセーフティネット

・既存怪獣の再登場 (コストカット+人気怪獣の再登場による話題性獲得+発売済みソフビ人形の販促等) 

だった。つまり、この2点はニュージェネレーションシリーズの強みである以上に「ウルトラシリーズを継続放送する上で、避けられない宿命」だとばかり思っていたのだ。   

(脱せる日が来るとしたら、それは早くても「このままウルトラシリーズの人気が上がり続けて数年経った頃」だと思っていた)

 

だからこそ、この発表は製作陣の「脱・ニュージェネレーションシリーズ」という意気込みや「リスクを抱えてでも、これまでとは違うものを見せる」という覚悟が感じられたし、そんな製作陣の熱意や「ウルトラシリーズがここまで戻ってこれたこと」に放送前からいたく感動してしまっている自分がいた。ニュージェネレーションシリーズを応援し続けてきて、本当に良かったよ……!!

 

 

「空想特撮作品」としてのブレーザー

 

〈「怪獣の扱い」が生み出すリアリティ〉

 

こうして、放送前から話題沸騰となった『ブレーザー』。では、いざ放送開始となった本作はどのような作品であったのか。その魅力を大きく分けて3つの視点から分析してみたい。 

まず最初に見ていくのは「 “空想特撮作品” としてのウルトラマンブレーザーについて。

 

 

ウルトラマンブレーザー』の特徴は? という質問があったら、おそらく半数近くかそれ以上の方が「世界観」と答えるのではないか――と、そう思える程に『ブレーザー』の世界観は特徴的だった。 

 

「宇宙飛行士の間で語り継がれてきた存在のコードネーム」としての「ウルトラマン」であったり、SKaRDが単なる怪獣対策チームではなく「特殊怪獣対応分遣隊」という肩書きを持った地球防衛隊の特殊部隊であったり、そんな地球防衛隊の歴史が詳細に作り込まれ、初報段階で発表されていたり……。田口監督と小柳啓伍氏の「癖」がふんだんに詰まっているであろうこれらの設定は放送前から大きな話題となり、『ブレーザー』が「ネクサス以来のハードSFになるのでは」と噂されるようになるまでそう時間はかからなかった。

 

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して、初報から約3ヶ月。発表会でも第2話『SKaRDを作った男』を先行上映するなど、長い長い焦らしを経て第1話『ファースト・ウェイブ』が放送。その盛り上がりたるや、おそらく『X』や『Z』以上=ニュージェネレーションシリーズが始まって以来最大のものだったように思う。

 

 

1話が丸々対バザンガ戦に充てられるという「シチュエーションドラマ」を極めたかのような内容に「野生児」という意外なアイデンティティーを披露したブレーザー……。この怒涛の初回は、自分のようなシリーズファンは勿論、普段ウルトラシリーズに触れていない方々までもが大絶賛。なんと翌週の7月15日時点で再生数500万を記録するという凄まじい好スタートを切ってみせた。 

しかし、『ブレーザー』の巧さとはそんな第1話の路線=ハードSFという作風を「貫かなかった」ことだろう。

 

 

ゲントがテルアキたちを尋ね、SKaRDのメンバーを集めていく姿が描かれた第2話『SKaRDを作った男』以降、本作は従来のウルトラシリーズらしい「どことなく牧歌的なムード」を漂わせるようになり、作風も同様に従来通りのバラエティに富んだものとなった。 

その路線に対しては「これまでのニュージェネと変わらない」という声 (ニュージェネレーションシリーズにも様々な作風があるため、このやたら射程範囲の広い揶揄には「じゃあ何をすればニュージェネっぽくないのか」と問い質したい思いもある) も散見されていたが、果たして『ブレーザー』は「ハードSF」路線を捨てたからといって、これまでの歴史に埋没する作風になっていただろうか。 

自分は、そこには明確な「NO」を突き付けたい。というのも、第2話以降も本作には「SF」としての強度と、そのためのこだわりが満ちていたからだ。

 

僕らのスペクトラ

僕らのスペクトラ

 

(そもそも、第1話『ファースト・ウェイブ』の路線を継続していたら、悪い意味で『ネクサス』の再来になること請け合い。きただにひろしさんが歌う、明るく熱い令和流王道ヒーローソング『僕らのスペクトラ』が、この番組は大丈夫だという確信を持たせてくれた。歌詞も印象的な名曲だ)

 

第2話以降も『ブレーザー』には多彩な怪獣が登場、シリアスなものから牧歌的なものまでバラエティ豊かなエピソードが展開されていったけれど、その中で徹底されていたのが「リアリティラインを落とさない」という姿勢。 

分かりやすいところで言うと、まず挙げられるのがゲードス、タガヌラー、レヴィーラ、ドルゴ、ニジカガチ、デマーガ親子、デルタンダル、モグージョン、ズグガン……といった「地球怪獣」についての描写。彼らはその出自や生態が各主役回で入念に掘り下げられるだけでなく、各話のストーリー自体が怪獣たちのバックボーンありきのものとして構築されていた。この作劇が彼ら怪獣の実在感や「SFとしての強度」に繋がっていたのは言うまでもないけれど、本作において真に注目すべきは、彼ら地球怪獣よりもむしろ「宇宙怪獣」たちの扱いだろう。

 

 

前述の通り、そのバックボーンが丹念に描写されることで確かな存在感を得ていたのが地球怪獣。一方、そんな地球怪獣たちの対になっていたのが本作の宇宙怪獣だ。 

理性を感じさせない (ゴルザ等にも通ずる、ウルトラ怪獣らしい趣の) 目と、通常の生物ではおよそ持ち得ない武装を備えた宇宙甲殻怪獣・バザンガ。 

そんなバザンガと似た「目」を持ち、あらゆる電子機器を制圧する宇宙電磁怪獣・ゲバルガと、その幼体である汚染獣イルーゴ……。 

彼ら「ウェイブ」怪獣たちは、出自はおろか生態さえろくに明かされず、異様なビジュアル・能力も相まって (特にゲバルガは) 不気味かつ強烈な存在感を放っていた。 

しかし、それだけならきっと従来のシリーズ通り「宇宙怪獣だもん、そういうものだろう」と多くの方が受け流してしまったかもしれない。そこにブレーキがかかり、彼らの異質さが「違和感」としてしっかり機能していたのは、彼らの対となる存在=地球怪獣たちの描写が丹念に行われていたからだろう。地球怪獣の出自や生態が丹念に描写されたからこそ、出自も生態も謎だらけなウェイブ怪獣たちが「異常なもの」として感じられる土壌が作られていたのだ。 

……と、このように「多くの新怪獣」と「緻密な作劇」が噛み合ったことで作り出されるリアリティとケレン味の共存。これこそ『ブレーザー』という作品の一つの真骨頂と呼べるのではないだろうか。 

(宇宙怪獣の中には、一体だけウェイブ怪獣でない存在=ガラモンという例外もいたけれど、このガラモンの存在があったからこそ「バザンガとゲバルガが、同じ軌道で地球に侵入している」という事実が判明、彼らの出自は同じなのでは、という推理に繋がる第13話『スカードノクターン』での一幕は、まさに本作きってのウルトラC。こういう「製作陣としてもイレギュラーであろうモノが、シナリオ上であたかも “必然” であるかのように捌かれる瞬間」の気持ち良さは唯一無二……!)

 

 

〈『ブレーザー』各監督総評〉

 

このように、怪獣の描写・作劇で「空想特撮作品」として近年希に見る強度を見せてくれた『ブレーザー』。本作の世界観を支えた要素といえば、他にも「防衛隊管轄の一組織として描かれるSKaRD」「最低限しか登場しない宇宙人 (セミ人間とザンギルについては、エピソードそのものの雰囲気を「番外編」めいたものに落とし込むことで、作品そのものへの影響を抑えるという配慮がなされていた。お見事……!) 」など様々な試みが挙げられ、全てに触れていたらキリがない。 

そこで、このパートでは最後にブレーザー』各監督による画作りについて取り上げてみたい。

 

 

ブレーザー』に参戦された監督は、メイン監督の田口清隆氏、シリーズでお馴染みの辻本貴則氏 (辻は一点しんにょう)、越知靖氏、武居正能氏、そして『Z』『デッカー』を経ての参加となった中川和博氏と、初監督作品として第13話『スカードノクターン』を手掛けられた宮﨑龍太氏の6名。 

ニュージェネレーションシリーズといえば、各監督の映像が作品を重ねていくにつれ進化していくのが大きな醍醐味。本作もその例に漏れず、歴戦の猛者たちによる「進化合戦」が大きな見所となっていたように思う。

 

 

特撮・ドラマ共にキレの良い画作りや、思わず息を呑んでしまうような「見たことのない映像」を毎シリーズお出ししてくれる我らが田口清隆監督は、メイン監督として第1.2.3.14.15.24.25話を担当。アースガロンの発進シークエンスのようなフェチズム溢れる演出や、第14話『月下の記憶』ラストでのゲントとエミのやり取り (「いいよ。……許可する、やれ」) に代表される「粋」な魅せ力が今回も遺憾無く発揮されていたけれど、やはり今回の田口監督といえば欠かせないのが第14話におけるデルタンダル戦。よもや、ウルトラシリーズのTV作品で「変身から決着まで、全てが空中戦かつ擬似的なワンカット」というとんでもない映像が見れるだなんて、一体誰が予想できただろうか。

 

 

監督デビュー間もない田口監督といえば、やはり『ギンガS』のファイブキング戦が印象的だけれど、そこに並べて語りたいのが第12話『君に会うために』でのメトロン星人ジェイス・ギンガ・ビクトリーVSゾアムルチ戦の長回しワンカット。 

本来ならそれだけでも見応え抜群の「2分間の長回しカット」なのに、今回のそれは前述のように最初から最後まで空中戦。更にはカット割りの妙で「インナースペース描写までシームレスに繋がっているワンカットのように見せている」というオマケ付き。ともすれば、自分は映像そのものの迫力よりもそういった「滲み出る情熱と執念」に圧倒されてしまったのかもしれない。 

こうして振り返ると、つい「10年経てば特撮もここまで進化するんだな」などと感慨深くなってしまうけれど、それも全ては田口監督のアイデアと努力、経験の積み重ねがあればこそ。そういった意味では、このデルタンダル戦は「10年に渡る田口監督の歩み」を象徴する名バトルと言っても過言ではないかもしれない。

 

(ブレーザーの田口監督といえば、こちらのもちふわガヴァドン回も外せないところ。現代の子どもたちに鋭く切り込んだシナリオは勿論、“二次元と三次元をシームレスに行き来” し、文字通り “絵を食べている” ようにしか見えないガヴァドン周りの特撮は圧巻……!)

 

 

続いては『R/B』以来のレギュラー監督で、坂本監督ばりのド派手な画作りと田口監督ばりの「ミニチュアオタク」ぶりに定評のある辻本監督。 

辻本監督は『ブレーザー』では第4.5.6.16.17話を担当。前2作に比べて今回は横軸のエピソードに終始されていたが、モグージョンとザンギルのデザインを自ら手掛けられただけでなく、得意のガンアクション演出がアースガロンの戦闘に存分に活かされていたり、第4話『エミ、かく戦えり』では液状化するレヴィーラをアナログ特撮で生々しく描いてみせたりと、今回も作品に大きな爪痕を残してくれていた。 

しかし、ここで個人的な氏の注目ポイントを挙げるなら、それは特撮よりもむしろ「人間ドラマパート」の方

 

 

『タイガ』以前は人間ドラマの演出に手探り感があり、特にメリハリの付け方に難があるように感じられた辻本監督だけれど、氏は『Z』以降メキメキと力を付けられ、『デッカー』第23話「絶望の空」におけるカナタ・アガムスの対話シーンがその「帰結」となっていた。 

(一触即発の空気感や、鏡面反射を使った2人の「表情劇」の巧みさ・臨場感は、その道の実力者である武居監督の映像と見紛う程のもの。元来特技監督としての実力は一級品だっただけに、とうとう唯一の弱点を克服された……! と当時は小躍りしてしまったもの)

 

して、そんな辻本監督の手腕が存分に発揮されていたのが第17話『さすらいのザンギル』。

 

 

同エピソードの見所といえば (辻本監督入魂であろう「粋」すぎるザムシャーのゲスト出演に触れたいのは山々なのだけれど) 何といっても唐橋充氏演じるザンギルとゲントの会話劇。日本の文化を学んでいるが、宇宙人故の「ズレ」があるザンギルと、そんなザンギルに少しずつ歩み寄っていくゲント。そんな2人のコミュニケーションそれ自体の見応えは勿論、自分が何度見ても涙してしまうのがこちらのシーン。

 

「俺は……ゲント。ヒルマ ゲントだ。“彼” は、ウルトラマンブレーザー
「ありがとう、ゲント殿。ブレーザー殿」
「……コーヒーがまだだぞ」
「それだけが唯一……心残りじゃのう」

-「ウルトラマンブレーザー」 第17話『さすらいのザンギル』より

 

2人の「対話」に移入させてくれるカメラワークや、ゲントがザンギルのコーヒーを彼の席に残してからEDに入るまでの「間」……。継田淳氏お得意の「ほんのりビターな味わい」と唐橋・蕨野氏両ベテラン渾身の演技を辻本監督が見事にまとめあげた、他の『ブレーザー』とは異なる雰囲気の / だからこそ際立つ名シーンと言えるだろう。

 

 

こうして、辻本監督がドラマ面でもその力を発揮したのと対照的に「特技監督」としての力を更に伸ばしていたのが武居監督。 

武居監督は、前作『デッカー』のメイン監督だったこともあってか本作には中盤から登板。第20.21話、そしてゲバルガ前後編の第11.12話という大舞台を任され、見事『ブレーザー』屈指の盛り上がりを描ききってくれた。ドラマパートを得意とする武居監督と「コミュニケーション」というテーマが色濃く関わる第11.12話は素人目に見ても相性抜群で、まさに氏の面目躍如となっていたように思う。 

(ちなみに「田口監督メインの作品で、ドラマが大きく動く第11.12話を武居監督が担当する」というのは、まさに『Z』と同じ配役。『Z』ではどの回をどの監督に撮って貰うか、という点まで田口監督のディレクションがあったとのことだけれど、今回も似たような経緯があったのかもしれない。田口監督から武居監督への信頼が垣間見えて嬉しい限り……!) 

 

 

前述の通り、『ブレーザー』の武居監督はドラマだけでなく特撮パートも大きな見所。 

元々武居監督は特撮畑の方ではなく、そのため『劇場版ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』などで特撮パートの不馴れさ (アクションのもっさり感や “キメ” の弱さ) が足を引っ張ってしまうことが多かった。しかし、そんな武居監督は『タイガ』以降急激に特技監督としての力を伸ばし、『トリガー』第6話「一時間の悪魔」や『デッカー』第15話『明日への約束』等では坂本監督・辻本監督ばりにキレのある一大決戦を作り上げるまでに至っていた。 

して、今回の『ブレーザー』である。第11話『エスケープ』時点でゲバルガの「胸の顔が顔に見える」「何らかの意思を感じるが意図が掴めない不気味さ」の演出に唸ったりもしたけれど、最大の見所は第12話『いくぞブレーザー!』クライマックスにおけるブレーザーVSゲバルガ……というより、この戦いで初登場となったチルソナイトソードの必殺技=オーバーロード雷鳴斬の「魅せ」っぷり!

 

 

「稲妻と共に飛び上がり急降下、ゲバルガを一刀両断」という一連の流れは、緩急のメリハリや大胆な煽りアングル、ド派手なエフェクトに最後のヒーロー着地と、一つ一つの演出がこれでもかと冴え渡っており、それこそ「ここだけ坂本監督が撮ったんじゃないか」と思えるほどにヒロイックな映像として仕上がっていた。……けれど、それはきっと気のせいではなく、武居監督自身が他の監督陣の長所を積極的に吸収し、自分自身の力として昇華させた結果なのだろうと思う。 

そう考えると、当初は田口監督や坂本監督、辻本監督といった特撮のプロフェッショナルたちに話題を持っていかれがちだった武居監督がここに「至った」ことは、それ自体がニュージェネレーションシリーズの積み重ねそのものといっても過言ではないだろうし、だからこそ、このオーバーロード雷鳴斬は殊更に「響く」ものだったのかもしれない。

 

(本作の武居監督と言えば第21話『天空の激戦』も外せない名編。アンリとヤスノブのストイックかつ暖かい関係性は勿論、宇宙まで股にかけてのデルタンダルBとの激戦は、こちらもやはり武居監督の進化を感じさせる大迫力の仕上がりだった)

 

 

田口監督、辻本監督、武居監督、この3人に比べ、一際「クセ」の強い映像を撮られるのが誰あろう越監督。 

『タイガ』でのデビューから『Z』『トリガー』『デッカー』とシリーズを重ねるにつれ猛スピードで成長してきた越監督は、本作では第9.10.18.19話を担当。『デッカー』では、テラフェイザーの初陣や1クール目の〆となる第10話~12話を任されていたが、今回は遂にパワーアップ回 (第19話『光と炎』) 担当という大役を担うことになった。

 

 

越監督の「味」と言えば、何といってもその奇抜な演出の数々。ウルトラマンフェスティバル (現・ウルトラヒーローズEXPO サマーフェスティバル) の舞台演出や『機動戦士ガンダム00』由来のエフェクトなど、一体どんな演出が飛び出してくるか分からない楽しさ・魅力はまるでビックリ箱のようだ。 

ブレーザー』ではそういった既存作品のオマージュは控え目だったものの、久しぶりの「パペット+操演怪獣」であるイルーゴや、ブレーザーを遥かに上回る巨体を誇るブルードゲバルガ等、オマージュ・引用に頼らない「正攻法」での越イズムを披露。その最たるものと呼べる第9話『オトノホシ』は、ストーリーを長尺の演奏シーンに託すという大胆な構成や、季節の移り変わりを魅せる擬似ワンカット演出、モノクロの画+『ウルトラQのテーマ』で〆るED……など、大胆ながらも効果的な演出が唯一無二の味わいを作り上げており、『ブレーザー』きっての異色作として大きな反響を呼んでいた。

 

 

(名編『オトノホシ』については、こちらの記事がその魅力を余すことなく語られています。感想ブログ『Crow's Note』さんでは、『ブレーザー』をはじめ様々な作品の10000字級感想が贅沢にも各話ペースで楽しめるので「エピソード単位での咀嚼がしたい」という方には大変オススメです……!)

 

こうして、これまで以上に大胆かつ予測不能な演出で『ブレーザー』に大きな爪痕を残した越監督。しかし、本作ではそんな「演出」が波紋を呼ぶ場面も。

 

 

演出の為に、ある種の「設定改編」ないし「俺流設定」を付与してしまう……というのは、『トリガー』でも見られた (第17話『怒る饗宴.』において、第22話『ラストゲーム』に先駆ける形でトリガーダークをグリッター化させてしまった) 越監督の手癖で、それが良い方向で働く場面も少なくないものの、ことアースガロンの一件は「防衛隊側を悪く見せる」という演出意図それ自体の是非だったり、アースガロンは機械なので「黒目が理由もなく無くなることは有り得ない」という大きなツッコミどころを残してしまったりとネガティブな側面が強く、批判的な意見が数多く寄せられていた。 

越監督はX (旧Twitter) を頻繁にご覧になる方なので、このような反応にも少なからず目を通されているはず。何はともあれ、その結果が現れるであろう次のシリーズを楽しみに待っていたい……!

 

 

一方、これら歴戦の猛者たちに負けるかとばかりに奮闘されていたのが、第7.8.22.23話を手がけられた中川和博監督だ。

 

 

ウルトラシリーズでは『Z』第9話が初監督作品 (特技監督尾上克郎氏) で、『デッカー』から本編監督・特技監督を兼任するようになった中川監督だけれど、なんとウルトラ以外では毎年恒例のイベント「ゴジラ・フェス」で公開される短編特撮『フェス・ゴジラ』を手がけているのだという。 

この『フェス・ゴジラ』は短編ながらファンから高い評価を集めている作品で、その見所の一つが怪獣たちの「写実的 / 存在感のある演出」。そんな氏の手腕はリアルタッチな『ブレーザー』と非常に噛み合っており、第7・8話の「立ち姿だけで荒神としてのプレッシャーを振り撒くニジカガチ」などはその最たるもの。 

第8話のテルアキ・横峯教授の対峙や、第23話『ヴィジター99』におけるブレーザー・アースガロンのミサイル迎撃など、ドラマやヒロイック演出もそつなくこなされるマルチタレントぶりからも期待が高まる中川監督は、田口監督や坂本監督の継続参加が危ぶまれる今後のウルトラシリーズにとって間違いなく必要な人材。これからは一層ガッツリと作品に参加して欲しいところだけれど、果たして……?

 

 

(最後のお一人=演出部出身の宮崎龍太監督は、第13話『スカードノクターン』が監督デビュー作。SEの使い方など、細部にこだわりが見える “実相寺演出” や、表情やカメラワークで不穏さを匂わせるスタイルなど、今後に期待が持てる監督。越監督のように是非本編デビューと相成ってほしい)

 

ブレーザーの玩具展開とその「販促」

 

〈はじめに - 『ネクサス』というトラウマ〉

 

ここまで『ブレーザー』の世界観や画作りについて長々と振り返ってきたけれど、
続いて取り上げるのは、(筆者の体感上)同作中最も激しい激論が交わされていたポイント。 

そう、本作の「玩具展開」あるいはその「販促」についてだ。

 

 

ブレーザー』がさながら『ネクサス』のような作風になるのでは……と思われていた頃、ファンが最も懸念していたのが「玩具の売れ行き」。 

というのも、『ネクサス』は今でこそ根強いファンが多い人気作になっているが、当時は「数話に渡り(=最大4話)倒されない敵怪獣」「難解で重苦しいストーリー」「子ども向け番組としてはやり過ぎなホラー描写」といったネガティブ要素に「週1回放送」という前提条件が拍車をかけた結果、玩具売れ行きと視聴率不振から放送短縮が決定、ウルトラシリーズそのものを窮地に追い込んでしまった罪深い作品でもある。自分を含めた当時からのファンが『ネクサス』のようなテイストの作品に身構えてしまうのは、そういった経験から来る、謂わば防衛本能のようなものなのだ。 

とはいえ、当の円谷プロダクションにとっては自分のようなファンよりずっと『ネクサス』がトラウマ(タブー)となっているようで、本流のTVシリーズは『マックス』以降極めて陽性の作品が続き、ホラー・ミステリ作家の乙一安達寛高氏が脚本・シリーズ構成を手がけた『ジード』においてもそれは徹底されていた。シリーズが再び盛り上がり、ハード路線の作品が待望されることがあっても『ネクサス』の商業的な失敗がそれを許さなかったのである。

 

 

……と、そんな流れからの『ブレーザー』である。発表当初は多くのファンが『ネクサス』を思い出して期待と不安に駆られていたし、自分も当然その一人。だからこそ、本作の「設定や世界観でSF感を強めつつも、作品の雰囲気はあくまで陽性のものに留める(子ども向けエンタメ作品としての一線は越えない)」というクレバーな方向性には胸を撫で下ろす思いだった。 

しかし、時は視聴率よりも玩具売上が遥かに重視される令和の世。作風は問題なしとして、玩具展開の方はどうか――というと、その路線は近年の中では極めて異質なもの。同作のハードSF的な世界観を尊重したであろう異色の展開に「ちゃんと売れてくれるだろうか」とまたも『ネクサス』のトラウマを刺激されたのは自分だけではないはずだ。 

どれだけ雰囲気が明るくても、結局のところ玩具が売れなければ「失敗」と見なされてしまうし、そうなったらいよいよ「ハード路線のウルトラマン=失敗作」の方程式が完成、二度とお目にかかれなくなってしまう。そんな「分水嶺」とも呼べる『ブレーザー』の玩具展開は一体どのようなものだったのか、ここで一挙に振り返ってみたい。

 

 

〈『ブレーザー』のイレギュラー性と、2つの打開策〉

 

田口監督曰く「ニュージェネらしさ」をなるべく遠ざけるように作られたという『ブレーザー』。その一環として廃止されたのが「並列タイプチェンジ (オーブ バーンマイト、トリガー スカイタイプのような「基本形態の一つ」として扱われるタイプチェンジ) 」だ。 

この結果、ブレーザーは近年のウルトラマンたちの中でも特に謎めいた宇宙人として存在感を確立、そのことが「コミュニケーション」という本作のテーマに大きく寄与することになった――のだけれど、そうなるとタイプチェンジをプッシュしていた従来の玩具展開がごっそり抜け落ちてしまうのもまた事実。この点に対し、『ブレーザー』は大きく2つの新機軸、あるいは「打開策」を打ち出すこととなった。

 

ブレーザーブレスの「アニメーション」とニュージェネレーションヒーローズ

 

一つ目は、ブレーザーブレスのプレイバリューを「タイプチェンジではなく、ニュージェネレーションヒーローズでカバーする」というもの。

 

 

レジェンドヒーローをコレクターズアイテムでプッシュする、というのはシリーズではお馴染みの手法だが「ブレーザーはレジェンドヒーローをタイプチェンジにも技にも用いないので、レジェンドヒーローを推しても売れないんじゃないか」という、その懸念は至極もっとも。 

しかし、本作のレジェンドヒーローストーン、もといニュージェネレーションヒーローズストーンは些か事情が違っていた。鍵となるのは、ブレーザーブレスに備わる「アニメーション機能」である。

 

 

スパークレンスからウルトラディーフラッシャーに至るまで、変身アイテムの基本は「発光」「サウンド」「ギミック」の3つ。 

従来の玩具は、その中でも「サウンド」や「ギミック」を差別化して進化し続けてきたけれど、カードとメダルの欲張りセット=ウルトラゼットライザー、コレクターズアイテム側の多機能化=ガッツハイパーキー、変身アイテムではなく「武器」の方に注力=ウルトラデュアルソード、という近年の流れには、素人ながら「流石にもうネタ切れが近いのでは……?」と感じていた。素人目に見ても、サウンドとギミック周りは「やれることを全部やった」状態のように思えてしまったのだ。 

……と、そんな状態で現れたのが、件のブレーザーブレスという超新星だった。

 

 

ブレーザーブレスの特徴は、そのスペックをサウンドでもギミックでもなく「発光」に集中させることで実現した新機軸=ブレスに表示される多色アニメーション。税込7920円という高価格 (ウルトラディーフラッシャーは税込6050円なので、おおよそ2000円の価格差がある) も納得の鮮やかなアニメーションは眺めるだけでも楽しいもので、これまでとは全く異なる遊び甲斐を持った玩具になっていた。サウンドやギミックのシンプルさも、そんなアニメーションを心地好く楽しむことに一役買っていたと言えるだろう。 

そして重要なのが、そんなブレーザーブレスにはゼロ~デッカーにリブットを加えた「ニュージェネレーションヒーローズ」に固有のアニメーションが搭載されていること。 

(発光パターンの限界かコストの問題か、固有アニメーションが用意されているウルトラマンは、ニュージェネレーションヒーローズ以外だとティガやベリアルなどごく一部に限られている)

 

 

いかに近年活躍しているヒーローとはいえ、ウルトラメダルでもディメンションカードでも基本的に鳴る音声は同じ。……しかし、このブレーザーブレスには「異なるアニメーションが見れる」という従来と全く異なるプレイバリューが備わっている。だからこそ、今回に限っては「ヒーローとしても、ストーンとしても本編に関わらないニュージェネレーションヒーローズのストーンが、DXアイテムのパッケージを飾る」という異例の事態が実現。「本編との連動が弱い」というブレーザーの弱点をカバーしつつ、しっかり売上にも貢献するサポーターとして機能することになったのである。 

……という、この商品展開が「これまでのニュージェネレーションの積み重ねがあったからこそ、ブレーザーの並列タイプチェンジ廃止という挑戦に繋がった」という背景を具現化したもののように見えてしまうのは、果たして自分だけだろうか。

 

……それはそれとして、番組終盤の時期にこのようなニュージェネレーションヒーローズだけのセットを出すのはかなり強気な挑戦。春先のワゴンセールに並ばないことを祈るばかりだ。

 


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引用:『ウルトラマンブレーザー』第25話 (終) 「地球を抱くものたち」-公式配信- - YouTube  

(ブレーザーブレスといえばこちらの「インナースペース」の廃止……もとい簡略化も大きなトピックの一つ。案の定賛否両論となっていたものの、製作事情的にも玩具事情的にも「完全廃止」が難しい状況下、ここまでギリギリのラインを攻めたことはまさに英断。ブレスのみが映ることで「ゲントの表情を見せない=一体化の状況を曖昧にする」「ブレスのアニメーションが目立つ」「これまでと絵面が全く異なるため、むしろ印象に残る」等ポジティブな効果も多く、“折衷案” としては極めて理想的なものだったのではないだろうか。ちなみに筆者はスタイリッシュな玩具操作演出が大好物なので、ほんの少しだけ寂しさもあった)


②大型玩具の販売強化

 

ブレーザー』の玩具展開におけるもう一つの特徴が「大型玩具の販売強化」だ。……とは言うものの、強化というからにはこれまでの情報も不可欠。なので、まずは直近3作品とブレーザーの大型玩具展開 (一般店舗販売のものに限定) とその登場タイミングをおさらいしてみたい。

 

ウルトラマンZ】

・ウルトラゼットライザー (第1話)
・ゼットランスアロー (第5話)
・キングジョーストレイジカスタム (第11話)
・ベリアロク (第15話) 

ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA
・ガッツスパークレンス (第1話)
・サークルアームズ (第1話)
・ガッツファルコン (第2話)
・グリッターブレード (第12話)
・ナースデッセイ号 (第15話 ※バトルモード)
ウルトラ怪獣DX メガロゾーア第一形態 (第24話)
ウルトラ怪獣DX メガロゾーア第二形態 (第25話) 

ウルトラマンデッカー】
・ウルトラディーフラッシャー (第1話)
・ガッツホーク (第3話)
・ウルトラデュアルソード (第7話)
・テラフェイザー (第11話)
・デッカーシールドカリバー (第15話)
ウルトラ怪獣DX マザースフィアザウルス (第23話) 

ウルトラマンブレーザー
ブレーザーブレス (第1話)
ウルトラ怪獣アドバンス バザンガ (第1話)
・アースガロン (第3話)
ウルトラ怪獣アドバンス タガヌラー (第3話)
ウルトラ怪獣アドバンス ニジカガチ (第7話)
ウルトラ怪獣DX ゲバルガ (第11話)
・チルソナイトソード (第12話)
ウルトラマンブレーザー大決戦セット (第19話)
・ファードラン (第19話)
ウルトラ怪獣アドバンス ヴァラロン (第23話) 

お分かり頂けただろうか。並列タイプチェンジの廃止やインナースペースの簡略化などから「玩具を売る気がない」等とも言われていたブレーザーだけれど、その実態は見ての通り「売る」気満々だったのである。 

尚、このように大型玩具が充実した理由としては、「ブレーザーストーンがニュージェネ中心のラインナップとなり、売れ行きに不安があった」からこちらを充実させた……という線も考えられるけれど、同時期のスーパー戦隊シリーズ『王様戦隊キングオージャー』が小型の連動アイテムを廃止、変身アイテムやロボ玩具のような高価格帯商品に注力するという販売戦略を取っていることを踏まえると、ブレーザーも同様の「実験作」だったのかもしれない。

 

 

このように、やる気満々で展開された『ブレーザー』の大型玩具たち。しかし、これらは単にたくさんリリースされた……というだけでなく、それぞれの売り方、所謂販促戦略に様々な工夫が凝らされていたのも大きなポイント。 

変身アイテムであるブレーザーブレスは、前述の通り「並列タイプチェンジがない」という穴を新機軸の仕様 (アニメーション) で補う商品になっており、チルソナイトソードは、単体ではシンプルな商品であるものの、なんと後続商品のファードランと合体。チルソファードランサーとして音声が変化し、作中最後までレギュラー武器として走り抜けるという大活躍を見せてくれた。

 

(ファードランはそれ単体でも怪獣フィギュアとして遊べる優れもの。そのド派手なデザインに『爆転シュート ベイブレード』の聖獣を思い出したのは自分だけではない……はず!)

 

一方、ブレーザー玩具最大の目玉と言えるのが大型怪獣ソフビの大量展開。その数、なんとTVシリーズの玩具としては実に『ジード』以来となる総勢6体! 

ブレーザーがタイプチェンジしない」「アースガロンという格好の相手役がいる」「メイン監督が田口監督」と、怪獣が活躍する土台が揃っていることや、『Z』『シン・ウルトラマン』と続いているソフビブームなど、ある意味「出るべくして出た」所もある本作の大型怪獣ソフビ群。しかし、この商品展開に注がれている情熱はそんな簡単な言葉で済ましていいものではない。それを感じさせるのが、ウルトラ怪獣シリーズの新たなブランドであるウルトラ怪獣アドバンス」だ。

 

 

ウルトラ怪獣DXとほぼ同サイズでありながら箱入り仕様、という何ともオタク心をくすぐる本シリーズは、アドバンスの名前通り「それぞれが独自の可動ギミックを持っている」というとてつもない代物。

 

触覚と腕部装甲の可動で形態変化を再現可能……というのは勿論、可動の都合で腕部素材が硬質素材製になっており、手にした時の重量感がたまらないバザンガ。

 

バザンガ同様約2000円というお値打ち価格ながら、ぐりんぐりんと動く長い鎌で高いプレイバリューを確保。第23話『ヴィジター99』での大活躍を経て各地の在庫が狩り尽くされるという伝説を残したタガヌラー。

 

迫力のディテールや、顔がガラリと変わる派手なギミックが印象的ながら「Mod.2ユニットを付属させる」という巧すぎる商法がそれ以上のインパクトを残しニジカガチ

 

そして、付属の組み替え用パーツによって第一形態と第二形態を再現できる他、爆弾まで付属するという贅沢仕様が魅力な反面、全国でどれかしらを失くす子どもが多発した (自分は幼少期にザラブ星人付属の翻訳機を紛失して泣いていた) であろうヴァラロン。

 

これだけのギミックや付属品を搭載しながら、本シリーズの価格はウルトラ怪獣DXと同程度かそれ以下に抑えられており、加えて、タガヌラーは第3.17.23話、ニジカガチは第7.8.17話、ヴァラロンは第23~25話とそれぞれが作中に3話ずつ登場。バザンガはゲバルガと共にV99怪獣として何度もピックアップされるなど、商品アピールもしっかり欠かさなかった (いずれも「販促」と感じさせない理由があるのが見事!) ウルトラ怪獣アドバンス。 

新年号の『月刊トイジャーナル』によると、ブレーザーの玩具売上は昨対越えの好成績を残したのだという。このウルトラ怪獣アドバンスが、そこに少しでも貢献できていますように……!

 

(尚、ゲードスは頭部触手の伸縮、レヴィーラはクリア成形、ドルゴはメガショットの着脱と、本作では通常ラインナップのソフビにもアドバンスめいた豪華仕様のものがちらほら。採算、取れていてくれ……!)

 

〈 “アースガロン問題” を考える〉

 

ここまで『ブレーザー』の玩具展開やその販促について触れてきたけれど、本作の文章に「販促」という言葉を使うのは少し、いや、正直かなりの抵抗がある。その理由が「アースガロン問題」だ。

 

 

アースガロン問題 (勝手に命名しました) とは、かいつまんで説明するとブレーザーでアースガロンが中々白星を上げられない」ことを「アースガロンの販促がなっていない」という観点から批判する論調のこと。 

自分がこの話題を目にしたのは、確か2クール目に入るか入らないか……といった時期のこと。なるほど、確かにアースガロンが未だに単独で敵を倒せていない時期だ。正直、自分も本作におけるアースガロンの扱いには些か不満があるのだけれど、それは果たして「販促」という概念と結び付く問題なのだろうか。まずは、このアースガロン問題と「販促」との関係性を整理してみたい。

 

①アースガロンと「販促」

 

この問題を「販促」という観点から考えるには、まずはアースガロン、もといDXアースガロンの玩具的な立ち位置を確認しなければならない。早速、DXアースガロンとそれに近い立ち位置の商品=価格帯やリリース時期が近い、直近3作品の商品たちを比較してみよう。 

・ゼットランスアロー (第5話登場、税込4180円)
・サークルアームズ (第1話登場、税込4378円)
・ガッツファルコン (第2話登場、税込2420円)
・ガッツホーク (第3話登場、税込2420円)
・ウルトラデュアルソード (第7話話登場、税込5478円)
・アースガロン (第3話登場、税込5280円) 

こうして並べて見ると一目瞭然。アースガロンとは、所謂「番組序盤に発売される、変身アイテムとは別の高価格帯玩具」の系譜にあたる商品だと言える。 

しかし、この手の玩具は「DXルーブスラッガー」の不振からか翌年の『タイガ』で一旦廃止、ゼットランスアローも時期を後ろ倒しにして発売された……という前例があるように、「変身アイテムが優先され、ヒットに繋がり辛い」という不遇のポジション。そのため、直近の『トリガー』では「サークルアームズを基本3形態全てが常用」し、『デッカー』では「変身アイテム以上のプレイバリューを持つ」「番組後半までメイン武器として使われる」と、このポジションのプッシュを強化する試みが行われてきた。 

して、おそらくこのプッシュをもう一回り推し進めるべく、 

・ロボ玩具が3作連続で好評を博した 

・変身アイテムを買わずに武器を買う人は少ないが、武器でなくロボならそのパターンも開拓できる 

・怪獣ソフビのプッシュとも噛み合う 

・防衛隊のロボットなら、終盤まで無理なく出番を作れる 

など、様々な「勝算」を踏まえて大幅に路線を変更、武器玩具というレギュラーに代わる新たなチャレンジとして生まれたのが「DXアースガロン」なのではないだろうか。

 

 

こうしてリリースされたアースガロンは、第3話『その名はアースガロン』で大きな話題を呼び、通販サイトの男児向け玩具売り上げランキングで1位を獲得するなど大健闘。本来ならこの時点でミッションコンプリートなのだが、アースガロンに与えられた至上命題は「これまでよりも継続的に販売実績を残す」こと。そのミッションを果たすべく、その後もアースガロンは作中で活躍 (販促) を見せていった。 

・勝利の決め手を作る (第4話、第12話、第21話など) 

ブレーザーと激突 (第6話) 

・Mod.2 解禁 (第8話) 

・初めて怪獣を撃破 (第18話) 

・Mod.3 解禁 (第21話) 

ブレーザーと共にフィニッシュを決める (第22話) 

・Mod.4 解禁 (第24話) 

・最終決戦の立役者となる (第25話) 

他にも、二足歩行型ロボットという長所を活かして作戦行動の要になったことは数知れずで、総じてほとんどのエピソードでしっかりと存在感を発揮していたアースガロン。チルソナイトソードやファードランといった後続の大型玩具を食い過ぎない……という前提も加味すると、アースガロンの販促は極めて「理想的」なものだったように思うのだ。 

(気になる点があるとすれば、Mod.3ユニットがプレミアムバンダイ版のアースガロンにしか付属しないこと。「ヴァラロンに付属させる」という選択肢が取られなかったのは、後半はアースガロンの活躍が比較的少なかった=アースガロンを持っていないのでヴァラロンも買わない、という層がいることを警戒したとも考えられるが、売り方として不誠実な印象は否めない)

 

 

②アースガロン問題の本質 -期待とハードル

 

こうして、バンダイから与えられた命題に見事応えてみせたアースガロンとその販促。……では、なぜアースガロンは「販促がなっていない」と言われたり、そうでなくとも、その活躍ぶりが賛否両論を呼んでいたりするのだろうか。 

前述の通り、自分もそうした「アースガロンの活躍ぶりに疑問を感じた」視聴者の一人。その気持ちを言語化するなら、それは「期待しすぎた」の一言に尽きるだろう。

 

 

自分がアースガロンに期待していたこと。それは「これまでの防衛隊メカとは異なり、もう一人のヒーローとして大活躍してくれる」こと。 

これまでなら防衛隊の主力メカにここまで過度な期待を託すことはなかっただろうけれど、ことアースガロンについては「そう思わずにはいられない」条件が揃いすぎていたのだ。 

ブレーザーがタイプチェンジするかどうかさえ不明瞭な中、ガッツリ「ジョイント」があるDXアースガロン 

・『ゴジラ×メカゴジラ』に登場するメカゴジラ (三式機龍) を思わせるデザイン 

・OP『僕らのスペクトラ』ラストカットで、アースガロンの方がブレーザーより手前にいる 

・『Z』は勿論『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』等ロボット作品に定評のある田口監督が企画段階から関わっている 

ここまで条件が揃っている+番組からも熱烈にプッシュされている状況、加えて前3作が『Z』(特空機が随所で熱く “魅せ” てくれた) 、『トリガー』(アキトVSダーゴンを始め、ナースデッセイ号がバトルモードで大活躍) 、『デッカー』(1クール目終盤からはテラフェイザーが味方 / 敵として物語の真ん中に居続けた) なのだ。それらを経た上でここまで段違いの推し方をされようものなら「これまでの防衛隊メカとは異なり、もう一人のヒーローとして大活躍してくれる」と、そのくらい大きな期待をかけてしまうのも道理ではないだろうか。

 

 

では、実際のところアースガロンはどんな活躍を見せてくれたのか――というと、確かに終始作品の顔として活躍、これまでとは桁違いの存在感は発揮していた。が、それ以上の「爆発」があったかと言われると、どうにもピンと来るものがないのだ。 

ブレーザーの戦いをアシストするのも、様々な表情を見せるのも、作戦行動の中核を担うのも、言ってしまえばこれまでのメカやロボットで見られたもの。パイロットによって戦闘スタイルが変わる、というのもそこまで表に出る演出ではなく、搭載されたAI=EGOISSも、その無機質なテンションがAIらしくはあったが「表情豊かで愛嬌のある」アースガロンとはどこかミスマッチに思えて、自分は愛着を深めるどころかむしろ好感度が下がってしまった節さえある。

 

 

一方、アースガロン最大の目玉にして、オンリーワンの個性とも言えるのが「様々な武装でパワーアップしていく」こと。ところが、自分はこの点の描かれ方にも「ん?」と首を傾げてしまった。 

第3話の初陣以降、ブレーザーにフィニッシュを持っていかれてばかりだったアースガロン。そのことに対し、ハルノ参謀長からは叱責は勿論「ブレーザーよりも早く怪獣を撃滅してみせろ」という指令まで飛ぶ始末。リアルな世界観が売りの『ブレーザー』らしい納得の展開だ。 

当然、視聴者としては「ブレーザー兼SKaRD隊長であるゲントはこの板挟みの中でどう動くのか」と期待させられてしまうのだけれど、その後もフィニッシュを決めるのは常にブレーザー。このことを受けて「いつアースガロンがフィニッシュを持っていくのか」「これは溜めの期間なんだ」「アースガロンの初勝利はさぞや熱いものに違いない」「きっと、それこそがMod.2の初陣なのだろう」……と、どんどん脳内ハードルが上がっていったのは自分だけではないと思う。 

だからこそ、第8話『虹が出た (後編) 』においてアースガロンMod.2が初出撃、ニジカガチのクリスタルを破壊した――時は、正直、そのシチュエーションに燃えきれない自分がいた。「確かに熱いんだけど、期待した程じゃなかったかも……」と。 

(それはそれとして、第8話『虹が出た (後編) 』は大好きなエピソード。「ゲント回と思わせてからのテルアキ回」という転回や、ニジカガチの圧倒的な存在感など、特撮もドラマも中川監督の映画的な撮り方がバッチリハマっていた名編だ)

 

 

その後も、アースガロンは第12話『行くぞブレーザー!』で活躍を見せるも、ここでもフィニッシュ=「美味しいところ」はブレーザーに持ってかれてしまい、アースガロンの「上げに上げたハードルを越えてくれるほどの活躍」=言うところの “爆発” はますます遠退いていった。 

確かに、アースガロンの活躍それ自体は決して悪いものじゃない。けれど、高まりきってしまったハードルに対してはどうしても物足りなかったというのが本音。だからこそ、アースガロンMod.2の販促期間が終わり、チルソナイトソードに主役が移った2クール目はもはや祈るような思いだった。「この際 “爆発” しなくてもいいから、せめてカッコ良く怪獣を倒してくれ」と。アースガロンの戦績どうこうというより、ただ単に「溜飲を下げさせてほしかった」のだ。 

なので、その後アースガロンがイルーゴを単独で撃破したり (ややコメディ寄りの流れで) ブレーザーと共にレッドキング (二代目) &ギガスを倒したりした時も「そうだけどそうじゃないんだ……!!」と複雑な気持ちになってしまったし、こちらの溜飲を下げてくれそうな最大のチャンス=第21話『天空の激戦』におけるデルタンダルB戦でもフィニッシュを決められなかったことで、もう選り好みなんてできないと覚悟を決めるしかなかった。「アースガロンが怪獣を倒した、良かった」と、そうして無理やり自分を納得させる他になかったのである。

 

 

最終回、アースガロンはまさしく「こちらの予想を越えた」大活躍を見せてくれたけれど、それが「期待していた方向性ではなかった」ことに突っかかりがなかった、と言えば嘘になってしまう。 

「グリッタートリガーエタニティとトリガーダークの共闘」をはじめ、こちらの見たいものを全て出しきった上でトリガートゥルースという隠し球を出した『トリガー』のように、アースガロンにも盛大な晴れ舞台が……例えば「デルタンダルB戦のフィニッシュを飾る」だとか「第24話でヴァラロンを撃退する」だとか、そういった「カッコいい戦闘ロボとしての面目躍如」が事前にあった上でなら話は違ったと思うのだけれど、それらが見れない状態での最終回は「評判の中華料理屋に招待されてワクワクしていたら、なぜか絶品の寿司が出された」ようなもの。そんな状況下では、その寿司が涙を流すくらい美味しかったとしても「美味しい中華料理が食べれる」という期待が満たされなかったモヤモヤのせいで、折角の美味しい寿司も十分に楽しめないというものだろう。 

結局のところ、このアースガロン問題は「アースガロンはこれまでのロボットとは一味も二味も違うぞ!」というプロモーションを打った製作陣に対し、「これまで見たこともない味方ロボが見れるぞ!」と期待し、ハードルを上げ過ぎてしまった一部のファンたち(自分含め) がぶつかった結果、思ったより大きな火災になってしまった……と、あくまでそんなシンプルな話だったのだと思う。 

そう、シンプルな問題なので、数週間後に控える劇場版でアースガロンが「これまでのロボットとは一味も二味も違う活躍」を見せてくれさえすれば、きっとこの問題は綺麗さっぱり解決するはずなのだ。『劇場版ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』でXioのメカニックを大活躍させた功績があり、更に『劇場版ウルトラマンZ』を撮れていない分の情熱を持て余してしまっているであろう田口監督なら「やってくれる」と信じて、この問題についての言及はここで打ち止めとしたい。どうか、自分のような亡霊が成仏できる展開が拝めますように……!

 

 

「コミュニケーションの物語」を作り上げたもの、彼らが辿り着いたもの

 

〈 ニュージェネヴィランズの集大成? “V99” の功績〉

 

ここまで、怪獣や世界観・玩具等の側面から『ブレーザー』の特徴を振り返ってきたけれど、最後に見ていくのは文芸・ドラマ面。この点から本作を振り返るならば、何よりもまずヴィランの不在」について触れなければならないだろう。

 

 

『ネクサス』『ギンガS』等を経て、『オーブ』のジャグラス ジャグラー以降お馴染みとなった「シリーズを通して立ちはだかる敵キャラクター」=通称「ヴィラン」枠。
彼らの存在は、強いフックで縦軸の物語を引っ張っていく反面、シリーズの「1話完結」「怪獣」といった強みとは食い合わせが悪く、とりわけ『ジー (後半) 』~『タイガ』の3作については「製作陣も彼らを持て余しているんじゃないか」と勘繰ってしまう程には、その扱いに「ぎこちなさ」が感じられてしまう状態となっていた。 

このことを受けてか、三者三様の形でヴィランに向き合い、ウルトラシリーズにおける「活かし方」を模索していたのが『Z』『トリガー』『デッカー』の3作品だ。

 

ヴィラン枠=セレブロが作中終盤まで物語に深く関与せず、ヘビクラ隊長ことジャグラス ジャグラーが彼を追う探偵役となった『Z』。

 

『Z』とは対照的に、闇の三巨人との対決や縦軸に軸足を置き「1話完結と連続ドラマの両立」をギリギリまで攻めた『トリガー』。

 

前半は「ヴィラン不在」の作品として進み、バズド星人アガムスが正体を明かす後半は彼との対峙が中心になっていった『デッカー』。

 

ヴィランの存在を極力抑えたZに、むしろプッシュしたトリガー、そして両者のいいとこどりとも言えるデッカー……というこの3作を経て、8年ぶりの「ヴィランが存在しない」作品となった『ブレーザー』。 

自分は当初「ヴィランでやれることはひとまず全部やったように思えるし、田口監督メインだからバンダイも折れたのだろう」などと簡単に考えてしまっていたのだけれど、本作を見るとどうやらそんな単純な話ではないらしいことが分かってきた。 

というのも、本作の縦軸を担う存在=V99は 

・折り返し地点まで、その存在が伏せられている 

・ごく一部の怪獣としか関わりを持たない 

・探偵役をエミが担うことで「SKaRD VS 怪獣」という基本構造に影響を出さない 

……というもの。
ヴィランではないヴィラン枠、唯一無二の「縦軸役」ことV99だけれど、そのディテールにはセレブロやアガムスたちを通して積み上げられていった「ヴィランを表に出しすぎず、それでいて縦軸として機能させる」為のノウハウが惜しみなく詰め込まれていたのだ。 

そして、そんなセレブロやアガムスが生まれたのも、伏井出ケイや霧崎たち歴代ニュージェネヴィランたちの積み重ねがあればこそ。このことを踏まえると、「脱ヴィラン」の象徴のように扱われがちなV99は、一方で「ニュージェネヴィランの集大成」とも呼べる存在であり、この点はV99の魅力や功績を考える上で決して忘れてはならない「根幹」であるように思えてならない。

 

 

こうして生まれた未知の存在「V99」は『ブレーザー』作中でその唯一性を存分に発揮。第12話『いくぞブレーザー!』ラストの「セカンド・ウェイブ」発言を契機にその存在が明示され (ここで第1話のタイトル『ファースト・ウェイブ』が “仕込み” だったと明かされる作劇の妙よ……!) 、エミがその正体を追う探偵役になるも、V99はその正体どころか、そもそも怪獣なのか宇宙人なのかさえも明かされないという前代未聞の「秘密主義」を敢行してみせた。 

その秘密主義によって、V99は「表舞台に出てこないし、正体も一向に明かされない」不気味な存在として無二のアイデンティティーを確立。その結果として「本編に顔を出さない (尺を食わない) 」ことと「存在感を出す」ことの両立=長年求められ続けていたウルトラCを見事に成し遂げており、この点こそが、本作が縦軸に尺を取られることなく「1話完結の空想特撮作品」として自由な作品作りを行っていけた最大の要因と言えるだろう。

 

(尚、このV99に非常に近い存在だったのが『X』のグリーザ。V99は、ニュージェネのノウハウを経て完成した “理想的なグリーザ” という見方もできるかもしれない)

 

〈 引きの美しさと、キャスト陣の魅力 〉


こうして生まれた本作屈指の発明=V99。本作が最後の最後まで怪獣中心の作劇を貫けたのも、ドラマや人間関係を丹念に描けたのも、どちらもこのギミックの恩恵があればこそ。 

他にもV99が『ブレーザー』に与えた功績は数知れないけれど、中でも印象的なのが「美しい “引き” 」の数々だ。

 

「ニジカガチの声を聞いて微笑む横峯教授」という、様々な解釈ができる上品な〆が印象的な第8話『虹が出た (後編) 』。

 

事件の終わりではなく、ツクシたちの「音楽家としての “終わり” 」を持って幕が下りる第9話『オトノホシ』。

 

「アイツが……守ってくれた土だ……!」という最後の一言に、不器用な親子のコミュニケーションが帰結する第20話『虫の音の夜』……。

 

他にも、前述の第17話『さすらいのザンギル』ラストシーンなど、本作では1話完結エピソードが「美しく、余韻のある引き」で〆られることが非常に多い。 

シナリオ上1話完結のエピソードになっていても、ヴィランが元凶だったり最後に縦軸シーンが挟まれたりするせいで「1話完結としてのパッケージが纏まらず、後味が悪くなってしまう」現象が散見されていたニュージェネレーションシリーズ (「R/B」第4話『光のウイニングボール』、「タイガ」第18話『新しき世界のために』など) を経た上だと、これらの「〆」は一段と味わい深いものになっており、この点もまた、V99という設定の大きな功績と言って差し支えないだろう。

 

(〆の良さという点では、間をたっぷり使っての「溜め」からタイトル影絵を叩き付け、そのままエンディングに入る……というさながら映画のような引きが上品だった第1話『ファースト・ウェイブ』も印象深い)

 

一方、このような「美しい〆」を実現できたのは、何もV99だけの功績ではない。

 

BLACK STAR

BLACK STAR

  • MindaRyn
  • アニメ
  • ¥255

 

「登録者100万人のYouTuber兼アニソンシンガー」という肩書きも納得の歌声や、クールビューティーな見た目から飛び出す朗らかな人柄など数多くの魅力を持つMindaRyn氏。本作のED=『BLACK STAR』と『Brave Blazar』はそんな氏の透明感のある歌声がピッタリのセンセーショナルな楽曲で、とりわけ『ファースト・ウェイブ』や『さすらいのザンギル』『虫の音の夜』などは、文字通り「この歌ありきの〆」だったように思う。 

また、このような〆――もとい、『ブレーザー』の上品で引き締まったドラマを作り出すことができた理由として、やはりゲント役・蕨野友也氏をはじめとするキャスト陣の尽力を欠かすことはできないだろう。

 

 

ブレーザー』の主役である特殊怪獣対応分遣隊SKaRD。ナイトレイダーとは異なるリアリズムを感じさせる組織描写など独自の個性が際立つこのチームだけれど、その特徴の一つがキャスト陣の年齢層の高さ。 

最年少のエミ隊員役・搗宮姫奈氏は27才。筋肉コンビ (?) ことヤスノブ隊員役・梶原颯氏とアンリ隊員役・内藤好美氏はなんと同い年の29才。そしてゲント隊長役・蕨野友也氏は歴代TVシリーズ主人公最年長となる36才、テルアキ副隊長役・伊藤祐輝氏は37才でその一つ上と、SKaRDはおそらく歴代防衛チームの中でも最も年齢層が高いチームになっている (年齢は2024年2月時点でのもの) 。 

そんな経験豊富なメンバー故か、彼ら『ブレーザー』キャスト陣は非常にストイック、かつ演技が成熟した方々ばかり。番組序盤から「近すぎず、遠すぎない」SKaRDの絶妙な距離感を構築してみせただけでなく、台詞でなく「演技で語る」ことが必要な脚本に見事応え、数多くの名シーンを残してみせた。

 

「教授の所には、俺が。テルアキはアースガロンを頼む」
「いえ……。教授とは私が話します。教授の本は何度も読みました、考えは誰より分かっているつもりです」
「だが最悪の場合、教授の命を奪うことになる。……君にそれができるか?」
「貴方になら、できるんですか」
「……」
「……」
「……分かった。ただし!……無理はするなよ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第8話『虹が出た (後編) 』より

 

「SKaRDの情報担当として、あの事故についてもっと調べても良いですか」
「いいよ。……許可する、やれ」
「……ウィルコォ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第14話『月下の記憶』より

 

中でも個人的なお気に入りがこの2つ。確固たる意志とゲントへの信頼を胸に、初めて「隊長命令に逆らう」テルアキ。危険地帯に足を踏み入れるエミを「SKaRD隊長」として、そして一人の「父」として送り出すゲント……。これら2つは、どちらも言葉そのものではなく「表情」「声色」といった非言語コミュニケーションで想いを伝えるものであり、だからこそ、互いへの揺るぎない信頼が伺える「粋」なシーン。 

ヤスノブやアンリ、そしてハルノ参謀長らに至るまで、このような「言葉以上のもの」を伝えられるアクターが集められたのが『ブレーザー』という作品。それはおそらく、本作のテーマ=「コミュニケーション」という難題に向き合い、描ききる上でそんなキャスト陣が必要不可欠だったからではないだろうか。

 


(ド真面目ながらも天然な一面を持つ本作の座長=蕨野氏。自分が1月2日に観劇した『ウルトラヒーローズEXPO 2024 ニューイヤーフェスティバル』では、前日に起こった大きな悲劇に対し「自分に今できることを全力ですることが、誰かの笑顔に繋がると信じている」というコメントを残されており、その姿はまさにヒルマ ゲント本人だった。まだ劇場版が控えているけれど、半年間本当にありがとうございました……!)

 

ブレーザーが描いた「コミュニケーション」〉

 

本作のテーマは、「コミュニケーション」です。<人間とウルトラマン><人類と怪獣・宇宙人><戦場の戦士と会議室の司令官><親と子供>…。それぞれの立場や思考の相違から生まれる対立を乗り越えて協調するために、気持ちを伝える「対話」がいかに大切か。現実社会でも起こりうる様々な対立に登場人物たちが立ち向かう姿を、明るく楽しいエンターテイメントとして「ウルトラマン」の空想世界で描き出します。

引用:新テレビシリーズ『ウルトラマンブレーザー』テレビ東京系 2023年7月8日(土)あさ9時放送スタート!ウルトラマンシリーズ初、変身する主人公は隊長! - 円谷ステーション

ブレーザー』が初報の段階からプッシュしていたテーマ=「コミュニケーション」。SNSの発達や今も続くパンデミックなどから「ディスコミュニケーションによる争い」を目にすることが増えてきた現代にマッチしたこのテーマが、果たしてどのように「ウルトラマン」に落とし込まれるのか……。テーマがテーマなのでこちらも思わず身構えてしまっていたけれど、いざ蓋を開けてみると、本作のメッセージは予想よりもずっとシンプルで、とても真っ直ぐなものだったように思う。

 

 

ゲントとSKaRD隊員たち。ゲントと家族。ヤスノブと彼の愛するマシンたち。テルアキと父親。アンリと「ツクシのおじさん」。エミとドバシ。そして、V99と人類。25話の中で『ブレーザー』は様々なコミュニケーションを描いてきた。見方によっては、SKaRDが怪獣に向き合い、その生態から分析していくというフォーマットも、SKaRDと怪獣のコミュニケーションと呼べるかもしれない。 

そして、これら多彩なコミュニケーションを通して描かれていたのが「相手を “知ろうとする” ことの大切さ」。ここで重要なのは、それが「相手を知る / 分かること」ではないという点だ。

 

 

SNS全盛という言葉さえも古びてきた令和の時代、今や誰もが情報と繋がっており、分からないことは調べられるのが当たり前、よほど専門的なことでもない限り、誰もがあらゆることを「分かって当然」という恐ろしい時代になっている。 

しかし、そんな令和においても「分からない」と日夜人々を悩ませているものがある。それが「他人の気持ち」あるいはそれを知る為の手段=コミュニケーションだ。 

……なんて偉そうに書いているけれど、他でもない私自身が、そんな「コミュニケーションに悩んでいる現代人」の一人。職場の人間関係に辟易し、友人との通話が終われば「なんであんなこと言ったんだろう」と後悔し、LINEを開けば受信メッセージの解釈と返答のシミュレーションに頭を使い潰し、それでもディスコミュニケーションという呪いから逃れられた試しのない、現代に溢れ返っている「喋るコミュ障」という怪物だ。 

そんな自分にとって、大好きなウルトラシリーズが「コミュニケーション」をテーマに据える……というのは、嬉しいとか悲しいとかではなく「興味深い」報せだった。自分が、もとい老若男女が抱える深刻な悩みにウルトラシリーズが一体どう向き合うのか。それは「ウルトラシリーズならではの回答」となるのか否か――と、そんなことを思っていた頃は、よもや本作のウルトラマンが「意志疎通さえできない未知の存在」であり、そんな彼とゲントとのコミュニケーションこそが本作の真髄であるなどとは、この時は予想することさえできていなかった。

 

 

惑星M421からやってきた謎の巨人、ウルトラマンブレーザー。「明確な自我を持つが、意志疎通の手段がない」という、シリーズでも唯一無二の個性 (単に無口なだけのギンガ、意志があるのかどうか未だに不明なビクトリーのような “似て非なる” 例はいくつか存在している) を持つウルトラマンで、跳ねて、吠えて、光線ではなく槍で戦うその姿はまさに野生児か獣のそれ。そのあまりの衝撃から、当初は「正義の味方なのかどうか」さえ危ぶまれていた異色のヒーローだ。 

(ウルトラマンサーガの系譜を感じるデザインもあって、ティザームービーの段階では「神秘的な宇宙人なのでは」と囁かれていたのが今となっては信じられないエピソード。神秘路線でも野生児路線でもしっくりくる、複雑で有機的なデザインラインはブレーザーの大きな魅力の一つだろう)

 

その「謎」ぶりは作り手も意識的に演出していたようで、V99の存在が伏せられていた1クール目では「ブレーザーは一体何者なのか」「ゲントとブレーザーはどんな状態 / どんな関係なのか」……等、ブレーザーの存在そのものがある種のフック (縦軸要素) になっていた。 

今までも出自や目的が語られないウルトラマンは大勢いたけれど、本作のようにそれを「謎」として提示する作劇は類を見ないもの。その後も、視聴者に発破をかけるように「ゲントの身体を乗っ取るブレーザー (第9話) 」「ベビーデマーガを倒そうとする手を、もう一方の手が止める (第10話) 」といった場面が投げ込まれ、緊張感と共に「この先、一体どんなものを見せてくれるのか」というハードルが高まっていき――それがピークに達したタイミングで放送された第11話『エスケープ』の次回予告に、テレビの前で変な声を上げてしまったのをよく覚えている。

 

 

ヒーロー (ニュージェネ) 然とした要素を廃してきたブレーザーだからこそ、ここで「いくぞブレーザー!」というある種の決め台詞が生まれることは勿論、ブレーザーへの呼びかけという「コミュニケーション」をそのままサブタイトルにするという粋さや、この局面で登場するチルソナイトソード……など、これまでの溜めをここで爆発させるぞ! という熱量が伝わってきた第12話『いくぞブレーザー!』の次回予告。 

して、いざ放送された第12話は、そんな次回予告の熱量や1クールかけた “溜め” に恥じない一大決戦、そして「ブレーザーとゲントが繋がる瞬間」をしっかりと見せてくれた。

 

「俺を……帰還させようとしたのか……? あの時」
『誰か! 逃げ遅れた人はいないかッ!? ……早く逃げろぉっ!!』
「これは……ブレーザーの記憶、なのか……?」
『こっちだーッ!!』
ブレーザーも、命を救おうとしてたのか……。俺と同じじゃないか! 」

-「ウルトラマンブレーザー」 第12話『いくぞブレーザー!』より

 

宇宙装備研究所第66実験施設で出会った時に自身の手を掴んだのも、ベビーデマーガに向けられた手を止めたのも、第11話『エスケープ』での敵前逃亡も、全てはブレーザーが「命を救おうとしていた」から。ブレーザーは、最初からずっとゲントと同じ想いを抱いて戦っていたのだ。 

結局、このエピソードではブレーザーの出自・正体が明かされることはなかった。けれど、仮に「出自・正体が明かされた」だけだったら、ゲントはブレーザーを信じることも、「いくぞ、ブレーザー」と呼び掛けることもなかっただろう。それもそのはず、誰かと絆を育む上で重要なのは、その人の出身地でも職業でもなく「想い」。それが重なり、心を通わせることができたのなら、共に歩む理由としてそれ以上のものは何もないのである。 

日々コミュニケーションに難儀している自分にとって、ゲントとブレーザーが辿り着いたこの純粋で真っ直ぐな回答はまさに「ハッとさせられる」ものがあった。「コミュニケーションの本質とは、相手の情報を集めて正解を導くものではなく、互いの想いを伝え合おうとするその意思じゃないか」……と、このエピソードは自分にそんな当たり前のことを思い出させてくれたのだ。

 

 

コミュニケーションに正解はない、という言葉をよく耳にするけれど、それは至極当然のこと。家族であろうと友人であろうと、他人はどこまで行っても他人であり、その思考を読むことはできない。従って、人間には字面通りの「完全な相互理解」は不可能と言えるだろう。しかし、「それでもいいんだ」と、相手のことを「 “分かりきる” 必要はない」と示してくれたのが『ブレーザー』だった。 

一心同体、一蓮托生の関係でありながら、ゲントはブレーザーのことを何も知らないし、ブレーザーもまた、ゲントのことを何も知らない。けれど、ゲントはブレーザーのことを知ろうと歩み寄り続け、ブレーザーもまた、そんなゲントに応えようと、その命を救おうと必死だった。2人は、お互いのことが「分かった」から繋がれたのではない。「分かろうとする」こと=手を伸ばし続ける、その姿勢こそが2人を繋げたものだったのだろう。

 

 

「相手を “分かる” のではなく “分かろうとする” 」こと。人間同士に完全な「相互理解」は不可能だけど、そうして手を伸ばすことで通じ合うものもある――と、結果 (相互理解) ではなくその過程 (コミュニケーション) をこそ肯定した『ブレーザー』。 

このことを踏まえると、本作のラストで立ちはだかったのが「コミュニケーションを放棄した結果生まれた被害者」=V99だったことには深い納得がある。本作に敵がいるとすれば、それは「分かろうとしない」こと。コミュニケーションの放棄が生む、偏見や暴力に他ならないからだ。

 

 

〈『地球を抱くものたち』で描かれた “答え” 〉

 

「コミュニケーションの放棄」が生んだ被害者であるV99は、最終回『地球を抱くものたち』で地球を再訪。ヴァラロンによって危険分子 (地球人類) を排除しようとする彼らに対し、エミたちが選んだのは抗戦ではなく対話。そのメッセンジャーとなったのが、V99由来の身体と「SKaRDと育んできた知性」を備えた存在=アースガロンだった。 

これまでずっと「カッコよく戦ってくれ」「活躍してくれ」「強くなってくれ」と願われてきたアースガロンが、最後の最後で「言葉」を最大の力として戦いを終わらせる。そのことが (視聴者からアースガロンに向けられる期待をも折り込んだ) 壮大な “反戦” のメッセージに思えて、だからこそ胸を揺さぶられたのは自分だけではないだろう。力を持たないから話し合いを選ぶのではなく「力を持ちながらも話し合いを選ぶ」ことが知性の価値であるなら、それこそがアースガロンに与えられた真の役割だったのなら、マシンではなく「SKaRDの仲間の一人」として迎えられたアースガロンにとって、それは何よりも美しいゴールだと思えてならないのだ。

 

 

信頼の形として、知性の形として、一貫して様々な「コミュニケーション」の在り方を描き続けてきた『ブレーザー』。そんな本作が最後の最後に描いたものは、「コミュニケーション」という概念に備わるプリミティブな側面だった。

 

 

想いさえ繋がっているのなら、他に何も要らない。言葉がなくても、ゲントとブレーザーは固い絆で結ばれていた。……なら、なぜ最終回における「ブレーザーの “言葉” 」がこんなにも涙腺に響くのだろうか。

 

ブレーザー、聞こえるか! お前は、最後まで俺の命を守ってくれたんだな……! ありがとう。この戦いは、俺たちSKaRDで行くよ」
「オ、レ……オレモ、イク」

-「ウルトラマンブレーザー」 第25話『地球を抱くものたち』より

 

チルソナイトソードの力に大興奮していたり、SKaRDの「ブレーザーは仲間」という言葉に熱を発して喜んでいたり、その無邪気な様子から「野生児」どころか「赤ん坊」のようだと視聴者から可愛がられていたブレーザー。しかし、ゲントの中で地球人のコミュニケーションを学び、ゲントの口癖 (象徴) を自分の言葉として口にしたブレーザーの成長は、まさしく赤ん坊が言葉を習得する流れそのもの。それは、それだけ彼がゲントを想い、信頼している証であり、そのことは、子どもを持つ親であるゲント自身が誰より理解していることだろう。

 

 

どれだけ信頼しあう間柄でも、相手の想いを形にして見ることは不可能。だからこそ、コミュニケーションには常に不安や齟齬が付き纏うし、家族だろうと親友だろうと、些細なきっかけでいとも容易くすれ違いが生まれてしまう。ならば、そんな自分の想いが見えるように「形」にすればいい。言葉として、あるいは贈り物として、相手に「自分は貴方のことをこう想っています」と伝えればいい。 

人の想いが見えないことは時に救いでもある。だからこそ、曖昧で不確かな「想い」を形にすることは時に恐怖を伴うし、その曖昧さに甘えてしまう局面も多いだろう。……けれど、それもまた、ある意味では「コミュニケーションの放棄」に他ならないし、コミュニケーションとは決して「恐ろしい」だけのものではない。多くのリスクを孕む一方、時にそれ以上のものをもたらしてくれるのもまた「コミュニケーション」なのだ。 

人の想いが分からないからこそ、通じ合った瞬間を幸せに思う。 

不和が絶えないからこそ、固い絆が愛おしい。 

辛い時や泣きそうな時、誰かの応援こそが一番の力になってくれる。 

私たちはコミュニケーションに日々苦しめられているけれど、一方ではコミュニケーションに生かされてもいるのだ。 

ウルトラマンが人々の応援に力を貰うように、誰かとの繋がりとは、時に何物にも替え難い力になってくれる――。そのことを体現していたのが、本作最後の隠し球=「ブレーザー光線」だったように思う。

 

 

第10話『親と子』等で示唆されたように、ゲントの意志が宿るのはブレーザーの右半身。一方、左腕にあるのは結婚指輪にブレスレット、そしてブレーザーブレス=みんなからの想いの形。であるなら、両手をクロスすることで放つブレーザー光線とは、双方の想いの繋がり=本作で描かれてきたコミュニケーション、あるいは「繋がりがくれる力」が具現化したもの。 

繋がりを力とするヒーロー・ウルトラマンブレーザー誕生の産声として、テーマを総括する最後の〆として、そして「地球人と異星人が融合したヒーロー」という初代ウルトラマンアイデンティティーに対する58年越しのアンサーとして、この技はまさに『ウルトラマンブレーザー』を締め括るに相応しい一撃だったのではないだろうか。

 

(私たちが言葉を発しない謎の異星人=ブレーザーに愛着を持つことができたのは、カッコよく、元気に、ワイルドに、繊細に、感情豊かにブレーザーを演じてくださったスーツアクター・岩田栄慶氏の熱演があればこそ。長年ニュージェネレーションヒーローズを演じ続けてきた岩田氏にこんな大舞台が用意されたことは勿論、遂に岩田氏自身が「ウルトラマンの声」を担当、最後には台詞まで口にする――というのは、ニュージェネレーションシリーズのファンとしてはまさに感無量の出来事だった。岩田さん、本当にありがとうございました……!)

 

最後に~『ブレーザー』が残したもの、拓いたもの

 

空想特撮シリーズとして、商業作品として、そして「コミュニケーションの物語」として、様々な点から創意工夫と飽くなき情熱が盛り込まれた『ブレーザー』。けれども、筆者の肌感覚やYoutube上の再生数などを見ると、残念ながら本作は『Z』程のムーブメントを起こすには至っていなかったようにも思う。その大きな要因として考えられるのは、 

・縦軸やイベント性が抑えられており、次回への引き(フック)が弱かったこと。 

・シリーズ未視聴者が思わず食いつくような、ウルトラシリーズとしての「 “分かりやすい“ 新しさ」に欠けていたこと。 

の2点。多くの新規ファンを獲得した『Z』と異なり、日頃シリーズに触れていなかった方にとって「いつものウルトラマン」の域を出る印象を与えられなかった=コンテンツが氾濫する現代において「これは見たい!」と思わせるほどの強いフックを発揮できなかったのかもしれない。 

(自分の観測範囲内でも、第1話『ファースト・ウェイブ』は日頃ウルトラシリーズを見ない方々も注目していたが、そのような方々は回を重ねるごとに離れていってしまっていた。けれど、イベントも ”新しさ” も満載の新しい / 奇抜なウルトラマンからは、ブレーザーのような上品な味わいは生まれなかっただろう)

 

しかし、『Z』ほどのムーブメントにならなかったというのは『トリガー』『デッカー』も同じで、むしろ玩具の売り上げは堅調に右肩上がりを続けている。それはおそらく、本作の魅力=多くの怪獣やSFとしての強固な魅力、硬派かつ暖かいストーリーが「見続けた」方々、ないし子どもたちにはしっかりと届いた証拠なのだろうと思うし、たとえ大きなムーブメントにならなかったとしても、『ブレーザー』という「丁寧な作りの意欲作」がしっかりと成果を残したことは、今後のウルトラシリーズにとって間違いなく大きな財産となるだろう。 

(個人的な意見だけれど、本作はおそらく「一気見」が非常に適した作品。アーカイブ化されたことで、本作はこれから一層その評価を上げていくのではないだろうか)

 

それに、『ブレーザー』という作品はまだ終わっていない。本作の「本番」とさえ言えそうな作品が、もうすぐそこまで迫っているのだ。

 

 

『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』以来、なんと4年ぶりとなるウルトラシリーズの劇場用作品。その名はウルトラマンブレーザー  THE MOVIE 大怪獣首都激突』!   

田口監督がメガホンを取ってこのタイトル。ド級の怪獣映画が見れることは間違いないだろうし、欲を言うなら『劇場版 ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』並かそれ以上の手に汗握る大激闘を期待したいところ……!

 

 

更に、2月には横浜、3月には大阪で『NEW GENERATION THE LIVE ウルトラマンブレーザー編 「未来へ…」 』がそれぞれ上演予定。これ以上何を望もうか、という大盤振る舞いだけれど、もし一つだけ欲を言っていいなら、それはやはりブレーザーと “ニュージェネレーション” の関係」について。

 

 

ブレーザーと入れ替わって始まった新番組『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ』。1年前の番組からタイトルを引き継ぎつつも、その中身は全くの別物……というかなり挑戦的な番組で、『Z』以来となるユカ、『デッカー』ではステージの客演のみだったイグニス、そして『ウルトラヒーローズEXPO 2022 サマーフェスティバル』のゲストキャラクターだった「マウンテンガリバーⅡ-Ⅴ」というメインメンバーもさることながら、驚きだったのはブレーザーがさらっと「ニュージェネ」の枠に入っていること。 

ニュージェネ10作目のデッカーを経て始まった『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ (2023) 』がニュージェネの総括的な内容で、更に『ブレーザー』がそんな「ニュージェネらしさ」を意識的に廃していたことから、自分はてっきり「ブレーザーから新しい世代が始まるのでは」と期待していたのだけれど、円谷としてもようやく定着してきたニュージェネというブランドには中々区切りを付けられないのだろう。

 

 

とはいえ、思えばゼロやギンガ、ビクトリーも以前は「ウルトラ10勇士」という括りに入っていた存在。作っていくものではなく「できていく」のが枠組みであるなら、全てはブレーザーに続く新しいウルトラマンに委ねられているのかもしれない。 

なら、今私たち視聴者がすべきことは『ブレーザー』という作品から受け取ったものに向き合い、日々の「コミュニケーション」について考え、行動に移していくこと。 

感情に流されるのでもなく、伸ばされた手に甘んじるのでもなく、「俺が行く」と自ら手を差し伸べられるような人間に『ウルトラマンブレーザー』を通して少しでも近付くことができたのなら、それこそがこの作品との理想的な "コミュニケーション" と言えるのではないだろうか。

 

「今度はもう、離すなよ」

-「ウルトラマンブレーザー」 第25話『地球を抱くものたち』より

 

感想『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』- 20年越しの “回答” と怒涛のファンサービスで紡がれる、納得の「SEED」完結編〈ネタバレあり〉

今からちょうど20年前。小学生中学年の自分にとって初めての “リアルタイム” ガンダム作品、それが『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』だった。

 

 

スーパーヒーロー作戦』でガンダムと出会い、その後『劇場版 機動戦士ガンダム』や『機動戦士Zガンダム』など少しずつシリーズを追いながらも、なぜか前作『機動戦士ガンダムSEED』を経ることなく見始めたSEED DESTINY。SEEDを見ていないこともありストーリーはさっぱり分からなかったけれど、それでもガンダムモビルスーツのカッコよさで夢中になっていたことをよく覚えているし、その輝きは高校生になって『SEED』共々見返した時も一切衰えていなかった。 

ただし、物心ついてから見返すと目に余る点が多かったのも『DESTINY』の現実。中でも「とある2人の扱い」については、納得できないあまり古文の授業中に突如泣き出したり (情緒不安定) 、初めて二次創作 (アカウントを削除されていたので永久欠番) を書き出してしまうほど。それもこれも、「この不満が解消されるされる機会=劇場版SEEDはもう作られることがないのだろう」という諦めがあったからだ。   

だからこそ、昨年突如発表された本作『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は、自分にとっては「嬉しいサプライズ」であるだけでなく「10年来の悲願が果たされるかもしれないラストステージ」。人によっては、この「10年」が「20年」になるだろうし、そんな方々は、自分よりも遥かに大きく重い覚悟を持って本作に臨まれたのではないだろうか。 

かくして、多くのファンの期待とプレッシャーを背負って公開された『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』。20年越しの続編となった本作は一体如何なる代物だったのか、ストーリーは勿論、様々な観点からネタバレ全開で語っていきたい。

 


※以下、『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』のネタバレが大量に含まれます、ご注意ください!※

 

 

引用:https://twitter.com/SEED_HDRP/status/1725997308498591895?t=QB1nq3g28ZB6Zg7Dp4RfFQ&s=19 - 機動戦士ガンダムSEEDシリーズ公式Xより

 

《目次》

 

 

「機体シャッフル」という隠し球

 

『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は、2002年放送のTVアニメ『機動戦士ガンダムSEED』そして、2年後の2004年に放送された『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の更なる未来を描いた、ガンダムSEEDシリーズの最新作。OP主題歌担当の西川貴教氏が本人名義=T.M.Revolution名義ではなかったり、カガリ・ユラ・アスハの担当声優が交代していたりといった一部の「お察し」事案こそあるものの、監督・脚本・劇伴・楽曲担当・声優がほぼそのまま再集結するということもあり、単なる続編の域を超えた「一大プロジェクト」然とした雰囲気を醸し出していたのが印象的だ。 

蓋を開けてみれば、本作はそんな盛り上がりに恥じない「要素盛り沢山の、SEEDシリーズファンムービー」として非常に豪華な仕上がりになっていたが、中でも分かりやすくこちらの心を掴んでくれたのが、冒頭からこちらの度肝を抜いたサプライズ=機体シャッフルと「隠し機体」の存在だろう。

 

 

本作の看板=ライジンフリーダムガンダムイモータルジャスティスガンダム。機体公開時に「なんでデスティニーの後継機がいないのか」と困惑したのは自分だけじゃないだろうけれど、この時はよもやシン・アスカジャスティス。行きます!」等という台詞が聞けるとはこれっぽっちも思っていなかった。

 

 

そう、なんとイモータルジャスティスガンダムパイロットはアスランではなくシン! 

確かにタイムライン上ではこの説を提唱している人が少なくなかったけれど、自分は「『SEED』はそんな気をてらうタイプの作品じゃない」とばかり思っていたし、スクリーンでジャスティスに搭乗するシンを目の当たりにしても「後半でアスランイモータルジャスティスに乗るんだな」などと呑気に予想していた。が、なんとイモータルジャスティスとライジングフリーダムは中盤で完膚なきまでに大破、おまけにアークエンジェルまで綺麗に消し飛んでしまった。  

この時点で先の展開が全く予想できなくなってしまったし、ストライクフリーダムガンダム弐式とデスティニーガンダムSpecⅡという隠し球には劇場で思わず目を見開いてしまった……のだけれど、ここからも尚サプライズが控えているなどと一体誰に予想できただろうか。

 

 

そう、お出しされたのはなんとアスランが駆るストライクフリーダムというとんでもない代物。 

『DESTINY』以降散々ネタキャラ扱いされてきたアスランへの救済なのか、本作のアスランはこれ以上ない最高のタイミングでズゴックに乗って」参戦・キラを救出したり (思わず声が漏れそうになるくらいアガったけれど、このタイミングでのダークホースが「赤いズゴック」というオタクぶりには1周回って笑いも漏れてしまった。アスランがあの構えを至極真面目に取ってると思うと面白すぎる) 、劇中で何度もアスランは格が違う」という旨の言及があったり、キラを拳で説得したりと凄まじい汚名返上ぶりだったけれど、スーパーコーディネイターであるキラ専用に調整されたストライクフリーダムを乗りこなす姿は、それら「アスラン上げ」の中でも最たるものと言えるだろう。 

シン×イモータルジャスティスという組み合わせも、「シンがジャスティスを任されている」ことが劇中で意味を持っていたり、後半でも「ジャスティスだから負けたんだ!!」というあまりにもシンらしい迷言が飛び出したりと単なるサプライズ・ミスリードに留まるものではなく、この機体シャッフル演出だけ見ても「大胆さと繊細さを併せ持つ」本作の巧さが滲んでいると言えるだろう。 

ちなみに、専用機を “おさがり” 以外でコンバートするのはガンダムシリーズを見渡しても一部でしか見られないレアケース。『SDガンダム Gジェネレーション』や『スーパーロボット大戦』を思い出してニヤリとしたのは自分だけではないハズ……!  

(機体シャッフルとは似て非なるものだけれど、「マリューミネルバ級旗艦の指揮を執る」というのも、マリューとタリアの友情を形にしたようで熱いシチュエーションだった)

 

 

アレンジBGMの衝撃と、シン・アスカの戦い

 

本作の「ファンムービー」ぶりと言えば欠かせないのが、数々のアレンジBGM。
劇場版ガンダムといえば『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』においても『FIGHT』や『TRANS-AM RAISER』など人気楽曲がアレンジされてファンを湧かせていたけれど、本作も負けず劣らず、多彩な楽曲を新規BGMとして復活させてみせた。その中でも特に大きな「文脈」が乗っていたのが、こちらの『出撃!デスティニー』だろう。

 

 

こちらの原曲は、言わずと知れた『DESTINY』の顔『出撃!インパルス』。そんなDESTINYを代表する曲が復活することはそれだけで十分にアガるのだけれど、本楽曲のアツさはそれだけではないのだ。

 

 

誰もが本作に求めていたであろう最高のシチュエーション=「味方として活躍するデスティニーガンダム」。デスティニーガンダム SpecⅡがシンたちの前に現れた瞬間からこちらのテンションもうなぎ登りだったし、シンが「苦い記憶」も多いであろうデスティニーを心底嬉しそうに歓迎しているのも嬉しかった……! 

(ここの表情もそうだけれど、本作のシンは “自分の信じる場所で戦えている” からか終始表情豊かで、彼の「良くも悪くも純粋で素直」な魅力が全開だった。こういうシンがずっと見たかったのよ!!)

 

で、そんなシンが満を持してデスティニーに乗り込んだところで流れるのが『出撃!デスティニー』! そもそも『出撃!インパルス』のアレンジがこの名前であることとか、ヒロイックな楽曲で襲撃するデスティニーだとか、それら一つ一つの要素だけでも十二分に熱いのだけれど、思い出してもみてほしい。『出撃!インパルス』が本編中で使われていたのは、主に『DESTINY』前半=シンがインパルスで名実ともに「主人公」を張っていた頃。つまり、『出撃!インパルス』のアレンジを背負って飛び立つデスティニーは、まさに「『DESTINY』の主役を最後までシンが張っていたら」というifの体現。この一瞬、デスティニーは紛れもない「主人公機」として演出されていたように思えてならないのだ。

 

 

そして、シンVSブラックナイトを彩るこちらの劇伴『対決の刻』の一節には、なんと『覚醒 シン・アスカ』のアレンジが! 

(組曲形式の楽曲で、前半には『翔べ! フリーダム』のメロディも見られる)

 

本作の主人公はあくまでキラだけれど、このような粋な演出を背に、近・中・遠距離武装のコンビネーションや分身をフル活用してブラックナイトを圧倒、『HDリマスター』のメインビジュアル (下記) で〆るデスティニーのカッコよさは「前作主人公」どころか「主人公」のそれ。 

フリーダムやジャスティスとの共闘が見れなかったのは残念ではあるけれど、そんなことが気にならないくらい華やかな「リベンジ戦」の機会をシンとデスティニーに与えてくれて、本当に本当にありがとうございました……ッ!!


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引用:「機動戦士ガンダムSEED DESTINY HDリマスター Complete Blu-ray BOX」が2023年7月28日(金)に発売決定! オーディオコメンタリーを新規収録するエピソードの投票キャンペーンが開催 - アニメイトタイムズ

 

ちなみに、他のアレンジ楽曲では『SEED』からフリーダムとジャスティスの共闘シーンで人気を博した『後方支援』のアレンジが含まれている『熾烈な戦い』も嬉しかったのだけれど、ある意味一番驚かされたのは『決意の出撃』。ラクスの歌としてお馴染み『静かな夜に』のこんな方向性のアレンジが聞けるとは、そのシチュエーションも含めこれっぽっちも予想していなかった……!

 

 

デュランダル議長と、デスティニープランの是非

 

他にも、キラ (ライジングフリーダム) とシン (イモータルジャスティス) がデストロイ相手に共闘したり、アグネス・ギーベンラートがSEEDシリーズでは初の「生き残った桑島法子となったり、「傷の舐め合い」と揶揄され、曖昧な描写に留まっていたルナマリア→シンの恋愛感情が深掘りされたり、お馴染みのバンクシーンだけはわざわざ原作からそのまま持ってきたりと、自己言及めいたファンサービス (一部はキャスト陣への “けじめ” のようにも思える) が満載だった『FREEDOM』。 

しかし、ガンダムSEEDといえば最大の懸念点はそのストーリー。とりわけ続編の『DESTINY』はシンからキラへの主役交代をはじめとした「ツッコミどころ」が多く、本作も、いくらファンサービスが満載でもストーリーで台無しにされては無意味になってしまう。傑作と名高いノベライズを手掛けた後藤リウ氏が脚本に携わっているという安心材料こそあったけれど、やたら不穏なPVや悲痛なニュアンスの強いED『去り際のロマンティクス』などもあり、余談を許さない状況が続いていた。 

ところが、本作のストーリーは (詰めの甘さや強引さこそ目立つものの、総じて) 「痒いところに手が届く」仕上がりだったように思う。

 

C.E.75、戦いはまだ続いていた。
独立運動ブルーコスモスによる侵攻……
事態を沈静化するべく、ラクスを初代総裁とする
世界平和監視機構・コンパスが創設され、
キラたちはその一員として各地の戦闘に介入する。
そんな折、新興国ファウンデーション王国から、
ブルーコスモス本拠地への合同作戦を提案される。

引用:STORY - 劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』公式サイト

 

公式サイトのイントロダクションは勿論、PVにおいてもその内容は徹底して伏せられていた『FREEDOM』。しかし、『劇場版00』が「誰と戦うのかさえ分からなかった」ものであったのに比べると、今回はそんな大まかな流れはある程度予想することができた。そりゃあ、「ブラックナイト」なんて名前の部隊が敵にならん訳がないよね!!

 

 

本作でキラたちの前に立ちはだかるのは、ザフトからの支援でユーラシア連邦から独立した王政国家=ファウンデーション王国。 

作中中盤、そんなファウンデーションの宰相=オルフェ・ラム・タオをはじめとする中枢部の面々が「コーディネイターを統率する」という目的で作られたコーディネイターの亜種=アコードであると明かされるのだけれど、意外だったのはその正体よりもむしろ「デスティニープラン」に根付いた彼らの思想。そう、彼らは「デスティニープランが実行されていたら」という『DESTINY』のifを体現する存在だったのだ。

 

デスティニープラン
プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルによって提唱された人類救済計画。人々の遺伝子を解析し、その結果を基に適切な職業に就かせることで個々の差別意識をなくすというもの。しかし遺伝子に特化した選別は人々から自由意思を奪い、結果的に人間の可能性を摘み取るものであった。

引用:KEYWORDS - 劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』公式サイト

『DESTINY』終盤でデュランダルが掲げた計画=デスティニープラン。上記解説にもある通り、それは「人間の可能性を摘み取るもの」とされ、キラやラクスによって否定されることになった。しかし、このデスティニープランは「悪」として一蹴されるには惜しい、彼の主張通り「より善き未来を作る」ための鍵となり得るものだったようにも思うのだ。 

というのも、デュランダルがこのプランを掲げるに至ったのは、遺伝子上の問題からタリアとの恋を諦めざるを得なかった過去や、友人であるラウ・ル・クルーゼが絶望のまま世界に牙を剥き、散っていったことが大きな理由。 

事実、もしデュランダルが生まれる前からデスティニープランが実行されていれば、タリアとデュランダルのような悲劇は生まれなかった=デュランダルが絶望を味わうことはなかったし、そのような恋愛問題以外にも「将来への不安」「自分にあった職業が見付けられない苦労」といった、堅実世界でも多くの人々を苦しめている問題が解消されることになる。また、それぞれの人間が「自分に合った」道を与えられる世界になれば、コズミック・イラを覆う「他者より先へ」の思想も弱まり、クルーゼやレイのような悲しい存在が産み出されることもなくなるかもしれない。 

確かに、デスティニープランは「人々から自由意思を奪い、結果的に人間の可能性を摘み取るもの」だろう。けれども、人の自由意思や可能性があっても、そんな人々の命が奪われ、尊厳が踏みにじられ、悲劇が生まれ続けているのがコズミック・イラ世界。 

シンやミーアの人生を道具にして、多くの命を自分の為に奪ったデュランダルの行動は決して許されない「悪」だったけれど、「全てを救えないのであれば、自由意思や可能性を犠牲にしてでも人間の未来を救う」という彼の理想=デスティニープランそれ自体は、必ずしも「悪」とまでは呼べないもの――選ばれるべき未来の「選択肢」としては十分なものだったのでは、と思えてしまうのだ。

 

 

そんなデスティニープランを提唱するデュランダルの前に立ちはだかったのがキラたち。しかし、デスティニープランを最後の救済とするデュランダルに対し、キラは何かを示すでもなく「その救済を否定することで生まれる咎は、自分が背負う」と宣言してみせた。 

『SEED』終盤では、デュランダルのように人類に絶望したクルーゼが、世界を導くのではなく「滅ぼそうとした」のに対し、彼同様人類の愚かさで生み出され、背負わされた残酷な運命によって苦しんできたキラが、自ら「それでも、守りたい世界がある」と肯定、クルーゼを食い止めることが一つの回答・希望として示されていた。 

一方、『DESTINY』のデュランダルVSキラはそんな『SEED』と構図こそ似ているけれど、世界を争いと悲劇ごと滅ぼそうとしたクルーゼに対し、人々の自由意思と可能性を狭めることで、争いと悲劇をなくそうとするのがデュランダル。彼を止めることで生まれる争いや悲劇を「罪」として背負っていく覚悟を示すキラの姿それ自体が一つのメッセージとなっていたのは確かだったものの、一つの希望を示したデュランダルに対し、それをただ否定するだけで終わってしまったキラたちの姿は、自分の目にはデュランダルも言っていた通り「傲慢」に映ってしまった。 

勿論、デスティニープランを実行する為に手段を選ばず、大量殺戮にまで手を出したデュランダルと話し合いの余地はなかったし、キラやラクスの行いは正しかった。けれど、確かな悪性を持ってしまった「デュランダル議長」に引っ張られて、デスティニープランという「一概に否定すべきものでない」ものをも真正面から否定してしまったのは悪手だったのではないか、兵器のように、もし世界がデスティニープランを正しく扱えたのなら、少なくともコズミック・イラから争いは消えたのではないか――と、そんな思いが、『DESTINY』という作品に対する消えないわだかまり・しこりとして自分の中に残り続けてしまったのだ。 

……だからこそ、デュランダルの台詞が使われていた第2段PVを見て「まさか」と思ったし、その期待は作中で見事に回収されることとなった。

 

 

前述のように「デュランダル議長の蛮行を止めたのは正しかったけれど、彼の理想まで否定することが正しかったのか」……と、そのことに作中序盤から言及するのが、なんと他でもないキラ・ヤマト本人。 

彼がデュランダルの言葉に苦しむ姿は、悲痛でこそあったけれど間違いなく「見たかったもの」。しかし、デスティニープランはそんな「序盤のみ顔を出す前作要素」という扱いに留まらない。 

ファウンデーション王国のトップ=オルフェたちアコードは、前述の通り「デスティニープランが実行されていたら」というifを体現する存在。そんなファウンデーションが敵として立ち塞がる本作『FREEDOM』は、まさに「デスティニープランは正しかったのか」について問いかける=『DESTINY』の詰み残しを回収する物語でもあったのだ。

 

 

デスティニープランの再否定 - 新たな世代が示す「答え」

 

「デスティニープラン」についての問題が再び顔を出すのは作中中盤、ブラックナイトによってコンパスが壊滅したその後だった。

 

「闇に堕ちろ、キラ・ヤマト

-「劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」より

 

(彼らの精神操作が「闇堕ち」かどうかには一考の余地があると思うのだけれど、それはともかく) キラがアコードに利用されたことがきっかけとなり、コンパス一行はブラックナイトに完全敗北。一方、ラクスはオルフェによって連れ去られるが、彼らは「ここがラクスの帰る場所」だと言って憚らない。曰く、ラクスもまたアコード=コーディネイターを統率する為に生まれた存在であり、中でもオルフェとラクスは、お互いが「対になる」者として生まれた存在だったのだという。 

しかし、このラクスとオルフェの「対になることが決定された」関係というのは、何もこの2人に限った話ではない。デスティニープランが実行された世界では、このような婚姻関係が人々に強いられる「当たり前」になってしまうのだし、それに反するラクスやイングリットの想いは「罪」になってしまうのだ。 

確かに、デスティニープランが実行されれば「デュランダルとタリアのような」悲劇はなくなるかもしれないが、それは一方で新たな悲劇を生んでしまう。一見して「小を犠牲にして大を救う」救済策のように思われたデスティニープランは、その実新たな火種を生んでしまう=「小を犠牲にして大を救うが、新たな “大” を生んでしまう」もの。デスティニープランを阻止するというキラの選択は間違っていなかったということが、20年の時を越えて遂に『SEED』自身によって明言されたのである。

 

 

しかし、ここまでだけでは「デスティニープランを否定しただけ」という点において『DESTINY』から何も変わっていない。「なら、どうすればこの戦いは終わるのか」という命題への「回答」が作品内で示されなければ意味がないのだ。 

『SEED』世界における戦いは根深く、ナチュラルとコーディネイターの争いを映画の中で終わらせるのは不可能だ。そんな状況に対し、『FREEDOM』は非常に割り切った――ある種「開き直った」かのような描写で回答を出してきた。

 

 

シンを闇に堕とそうとするブラックナイトたち。しかし、シンの中には今もステラとの繋がりが輝いていた。

 

 

一方、ズゴックの中から現れたインフィニットジャスティスガンダム弐式 (最高のバカ演出をありがとう!!!!!!) を駆り圧倒的な力を見せるアスランに対し、その心を読もうとするシュラ。しかし、アスラン心頭滅却、心をカガリへの想いで満たすことでこれに対抗してみせる。 

そう、ブラックナイトという「デスティニープランの体現者」たちを否定するのは、シンとステラ、アスランカガリという「種を越えた絆・愛情」なのだ。

 

本作終盤では、イザークディアッカ (ミーティア装備の新型デュエル&バスターガンダム、夢かと思った)  ファウンデーション側についたザフト軍を打倒する際に (これまでの悲劇を) 忘れていないからこそ、終わりにせねばならんのだ」と呟く一幕があった。 

世界は巨大なシステムであり、それを変えようとするなら必ず「歪み」は避けられない。ならば、歪みを越えて未来を作っていけるのは人の想いだけであり、彼ら若い世代の中にはその萌芽がある。なればこそ、そんな新たな世代の可能性 (自由) を狭めるもの=デスティニープラン (運命) は否定されなければならないのだ。 

(それはそれとして、シンに対する「こいつの闇は深すぎるゥーーッ!!」とか、アスラン心頭滅却した結果出てくるのがカガリへの性欲だとか、ちょっとこの辺は悪ノリが過ぎる気もする……! いや実際笑っちゃったからこちらの負けなんだけど!!)

 

Meteor -ミーティア-

Meteor -ミーティア-

 

かくして、アスランやシン、ルナマリアなどがそれぞれに決着をつけていく中、満を持して現れる新型フリーダム=マイティーストライクフリーダムガンダム 

挿入歌がよりによって (フリーダムガンダムの初陣などで強い印象を残した)Meteor -ミーティア-』であることも相まって、そのド派手なカッコ良さ・神々しさにはたまらないものがあったけれど、一方では「オルフェがこのままラクスとキラによって倒されてしまうのは、“未来を掴めた者” からの押し付けになってしまうのでは」という懸念もあった。「可能性」を尊重する世界には、未来を掴める者もいれば、掴めない者もいる。役割に縛られながらも、対になるラクスと絆を育めなかったオルフェが、このクライマックスで「デスティニープランを否定したことで切り捨てられる弱者」のメタファーへと姿を変えていたからだ。 

しかし、機体と共に散るオルフェは一人ではなかった。彼の隣には、彼をずっと愛しながらも「運命」の前に涙を飲んでいたイングリットがいてくれた。 

それはきっと、「可能性のある世界であればこそ、どんな絶望の側にも光がある」という示唆であり、デュランダルらデスティニープランに望みを託した者や「デスティニープランを否定したことで切り捨てられる弱者」たちへの救済=本作の「回答」における最後のピースであるように思う。

 

 

決められたレールがないからこそ不安が絶えないのが現実だけれど、決められたレールがないからこそ、どこで「希望」に出会えるか分からないのもまた現実。 

会社をクビになってしまっても、転職先が天職になるかもしれない。夢が折れても、別の道でもっと大きな夢を叶えられるかもしれない。思いがけず出会った相手が、生涯のパートナーになるかもしれない……。そんな「かもしれない」があるからこそ、私たちは辛いことがあっても前を向いて進んで行ける。可能性とは、それだけで人生を支える糧になってくれるものなのだ。 

そして、そんな「可能性の世界」を生きていく上で必要なものこそ、本作でキラとラクスが見失い、最後には取り戻すことができたもの=他者とのコミュニケーション。『DESTINY』では鳴りを潜めていた人間らしさも露わに、悩み、苦しみ、涙を流し、最後には「裸で想いを伝えあった」キラとラクスの姿は、歴代『SEED』作品のセルフオマージュである以上に、この上なく美しい本作の「回答」だったように思えてならない。

 

Reborn

Reborn

 

おわりに - 本作最大の「救済」

 

2時間という尺にありったけのファンサービスを詰め込み、物語としても可能な限りの「回答」を提示し、過去作、とりわけ『DESTINY』の詰み残しを回収、佐橋俊彦氏が再び手掛けられた劇伴も、歴代『SEED』アーティストによる楽曲群も垂涎必至な名曲ばかり……と、ちらほら見受けられる難点を補って余りある程の圧倒的な魅力に満ちていた『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』。 

そんな本作の数ある魅力の中で、敢えて「一番の感謝ポイント」を選ぶとすれば――自分は、エンディングにおける「護り石と指輪を見せ合うアスラン&カガリ」を真っ先に挙げるだろう。

 

Result

Result

 

理由については諸説あるけれど、『DESTINY』において「冷遇」とさえ言える扱いを受けていたアスラン&カガリ。 

具体的なところで言うと、終盤ではカガリが指輪を外しており、アスランが「いいんだ、今はこれで……。焦らなくていい。夢は同じだ」というやたらふわっとした台詞を吐いたり、スペシャルエディションでは接吻が頬へのキスに修正+カガリが指輪を外すシーンがわざわざ追加されていたり……。何とも複雑ながら、福田監督の「破局した訳じゃない」という言葉だけが、自分のようなアスカガ推しには最後のセーフティネットだった。 

からの『FREEDOM』である。アスランカガリへの性欲を垣間見せるシーンでさえアスランお前、ちゃんと今でもカガリをそういう目で見てるんだな……!!」と厭な安心を得てしまったのに、その直後にジャスティスのコントロールを請け負うカガリという2人の強固なパートナーシップが感じられるシーンが爆誕 (能力が高いパイロットは他にもいるだろうに、ここでカガリを選ぶところが……!) 、極め付けとして件のハウメアの護り石と指輪を見せ合うシーン」である。これアレだ、『ウルトラマンガイア』の我夢と藤宮がお互いの変身アイテム見せ合うヤツ!! 

これらをペアリングにして肌身離さず持ち歩いている……というのは、則ちお互いへの愛情が健在で、いつか結婚することを諦めていない証。こう考えると、前述の「今はいいんだ」もハッキリした意味を持って聞くことができる。つまるところ、件の台詞は「今はお互いにやるべきことがあるからパートナーとしては過ごせない。けれど、その時が来たらもう一度やり直そう」という決意の現れだったのだろう。 

(一方、アスランメイリンに対して終始ドライな態度を貫いていた。それはきっと、アスランにとってメイリンが今も「巻き込んでしまった相手」という認識のままだということなのだろうし、メイリンには気の毒だけど正直安心してしまった。健気なのは素敵なことだけれど、どうかメイリンメイリンで幸せを掴んでほしい……) 

 

去り際のロマンティクス

去り際のロマンティクス

 

こうして、本作が『DESTINY』の内容も回収しつつ、アスランカガリの間にある愛も絆も見せてくれたおかげで、古文の内容で2人のことを思い出し、それが「悲恋」なんじゃないかと感じて泣き出してしまったり、2人をくっつける (+シンを主役にする) ために初めて二次創作に手を出した10年前の筆者も、初のリアルタイム作品が『DESTINY』だった20年前の筆者も報われました。『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』、本当に本当にありがとうございました!! 

この想いを書き留めた上で、次は入場特典で配布されたまさかのアスラン×カガリの公式小説を読んでいきます。何が出てくるかまだ分からないので怖さもあるけれど、とりあえず一言だけ。 

 

アスカガ大勝利!! 希望の未来へレディ・ゴーッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

れんとの『大洗旅行』レポート ~ガルパンと海鮮グルメに仮面ライダーを添えて~

『ガールズ&パンツァー』という作品をご存知だろうか。 

2012年に放送されたTVアニメ作品である『ガールズ&パンツァー』、通称『ガルパン』。「戦車を用いた団体競技=戦車道を通して、少女たちが心を通わせ成長していく」という一見異色の取り合わせながら、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』等で知られる脚本家・吉田玲子氏による繊細なストーリーや、ビジュアル・戦略共に見応えのある「戦車VS戦車」の試合、人気イラストレーター・島田フミカネ氏がデザインを手がける個性的なキャラクターたちなど、本作はイロモノのようでその実「王道」の魅力が満載。 

大きな反響を呼んだTVアニメに続き、2015年には「戦車道」ならではのアツすぎる内容が話題を呼んだ劇場版が爆発的なブームを巻き起こし、今も「最終章6部作」が逐次公開中……と、ここ10年以上に渡ってアニメ市場を牽引している大人気作品だ。

 

 
して、そんな『ガルパン』の舞台となるのが茨城県の大洗市。 

キャラクターたちが日常を過ごす舞台となっているのは勿論、時には「町そのものが試合場になる」など作中でも極めて印象的に扱われており、一方の大洗市も、無数のパネル設置やコラボ商品の販売・積極的なイベント展開など、文字通り「町を挙げて」ガルパンを応援、『ガルパン』と二人三脚でブームを後押しし――結果、このコラボはなんと年間経済効果7億円 (2013~2014年) ふるさと納税額1億円突破 (2015年) と前代未聞のスマッシュヒットを連発し、ガルパンブーム、ひいてはアニメの「聖地巡礼」概念を定着させる程の大きな起爆剤となってみせた。

 


 
今回の記事は、そんな「ガルパンの聖地」大洗に足を運んだレポート記事。ガルパン要素は勿論、大洗で出会った逸品や名スポット……加えて、期せずして出会ってしまった、とある『仮面ライダー』作品の聖地や、ウルトラシリーズにまつわるちょっとしたサプライズについて、自分自身の備忘録も兼ねて書き記しておきたい。

 

《目次》

 

Grand symphony

Grand symphony


大洗観光1日目 - 聖地とグッズとあんこう

今回の大洗旅行のきっかけは、大学時代の後輩に「大洗に行きませんか」と誘って貰えたこと。 

その後輩は以前にも『劇場版』や『最終章』の観賞会を開き、劇場版を見て以降止まっていた自分のガルパン熱を叩き起こしてくれた恩人であり、年1以上のペースで大洗に足を運んでいるというガルパンのプロ。今回の同行者は、彼以外もその大半が大洗に数回足を運んでいる猛者ばかりで、(ありがたいことに) 自分は完全なる「おんぶにだっこ」状態だった。 

大洗に何が待っているのかもよく分かっていないまま、朝9時、某モノレール沿線からレンタカーで出発。おおよそ3時間の旅路を経て大洗に到着すると、まず訪れたのは大洗漁港側の「大洗海鮮市場」!  

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そう、ガルパンインパクトで時々忘れそうになるけれど、大洗といえば海産物で有名な関東屈指の港町。この大洗海鮮市場は、大洗漁港で水揚げされたばかりの海産物を販売するだけでなく、その場で調理もしてくれるグルメスポット。 

普段は中々お目にかかれない市場の迫力に圧倒されていると、一行はそのままとある店=大洗海鮮市場に隣接する寿司屋『お魚天国 いきいき店』の中へ。  

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捕れたての海産物をそのまま寿司として出してくれるこちらの『お魚天国』。しかし、まず目を見張ったのは何といってもその圧倒的なボリューム。  

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伝わるだろうか、このデカさ。  

この店のネタは何もかもが大ボリュームで、あらゆるネタのデカさ、そして「厚み」が軒並み一般的な店の1.5~2倍はあったような気がする。それは焼き海老やあおさの味噌汁といった寿司以外のメニューも同様で、それでいてハチャメチャに美味い……!! 

これらに加えて、タレがべらぼうに美味かったイカ焼き、えびなども含めて10皿ほどを完食。10皿というと少なく思われるかもしれないけど、前述の通り一皿のボリュームがボリュームなので体感では15~20皿ほど食べた気分。これで一人頭4000円は安すぎる。高いんだけど安い……ッ!!  

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(えんがわ、ヒラメ、スズキの三種盛。厚みと肉感が凄まじく、既存のネタとはもはや別物!)

 

こうして開幕から凄まじい洗礼を浴び、寿司屋外でも「蒸しウニ」という海版スイートポテトのような珍味 (人生初ウニ!!) を味わったりしつつ次のエリアへ。 

向かったのは、『ガルパン』本編では映り込む程度の登場だったものの、大洗を一望できるスポットとして人気の大洗マリンタワー。  

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タワー内から大洗を見渡すと、程近い場所に大型フェリー・さんふらわあを発見し、同船が停泊する大洗港フェリーターミナルへ。さんふらわあについては諸々の事情で自分だけやたらハイテンションで、一人で外に出てさんふらわあの写真を連写。この時間帯、太陽の位置とかの諸々が絶妙に写真映えするそれだったんですよ……!!  

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(おそらく、今回自分が撮ったものではこれがベストショット。寒空に身を曝した甲斐があったというもの……!)

 

フェリーターミナルに続いて向かったのは大洗駅。遂に本格的な『ガルパン』の聖地だ。


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(華さんがセンターという珍しいビジュアル。勿論顔ハメ写真は撮影済み)

 

大洗駅は『ガルパン』作中でも度々登場する目玉スポットの一つで、駅構内の売店までしっかり作中に登場していたり。そのためか、駅外に設置された上記パネル以外にも、駅構内に「あんこうチーム以外の隊長たち」が集合した特製ビジュアルが設えられているというこだわりよう! 

そのビジュアルでのクリアファイルなども売られているので、そりゃあ買わない訳にはいかないでしょうよ!とお金を出して「予想外の出費だなぁ」などと思っていたら、ここから先はそんな「予想外の出費」ラッシュだった。

 

 

宿泊先である旅館・肴屋本店から少し歩いた所にある昔ながらの商店街=大洗町商店街 (厳密には、曲がり松商店街や永町商店街など、複数の商店街をまとめての呼称らしい) 。ここでは道行く店という店に様々なキャラクターのパネルが設置されている……のだけれど、パネルが設置されている「だけ」だと思ったら大間違い。  

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例えば、今回訪問した店の一つがこの『ヴィンテージクラブ むらい』さん。オシャレな外観と、貴重なビールバーで注がれるビール「ギネスビール」が特徴的なこの店には、オレンジペコのパネルやオレンジペコ縁の寄贈品を展示したギャラリーが設けられていたり、  

 

衣服やタオルの販売店で、アンチョビのパネルが設置されている『山戸呉服店さんでは、アンツィオをはじめとする各高校のイメージタオル (キャラクターをプリントしてある、といったものではなく、校章やチームのアイコン等をあしらったオシャレなものばかり!) が販売されていたり……と、単にパネルが設置されているだけでなく、各キャラクターを大切にされていることが伝わる「何か」が必ずあるのが大きな魅力だ。  

そして、中でも自分にぶっ刺さりだったのがこちらの『味の店 たかはし』さん! 

 

大洗の地元グルメであり、『ガルパン』作中にも登場している「みつだんご」。みたらし風のたれをかけた串団子にきなこをまぶしてある……という、みたらしもきなこも大好きな自分にとってはまさに夢のような一品だ。 

だんご自体も、普通のものより柔らかく平べったい形になっていて、たれやきなこがよく馴染むというこだわり仕様。あまりの美味しさに1日目も2日目も食べてしまったけれど、まだまだ食べたりないくらいには美味しかった……!  

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(これで一本あたり70円という価格破壊ぶり。もっと高くしていいのよ!?!?)

 

ちなみにこちらの『味の店 たかはし』さん、なんと設置されているパネルは華さん!よく食べる+大和撫子ということで納得のセレクトだ。 

やはりここにも誕生日クリアファイルが売っているということで、僅かに残っていたという過去年度分も含めて購入。結果、華さんがセンターな大洗駅限定クリアファイルと合わせて、グッズの華さん率がエグいことに……! 隊長組に比べて商品化の機会に恵まれない彼女も聖地にかかればこの通り。ありがとう大洗!! この投資は、積年の感謝を込めた支払い……!!  

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(中列右は大洗駅隣の観光案内所「うみまちテラス」で購入したもの。ポニテ武部は見逃せない!!)

 

こうして並々ならぬ盛り上がりを見せてくれた商店街巡り、その〆はなんと古墳。商店街を抜けて住宅街に踏み入ると、その奥になんと古墳 (確か「磯浜古墳群」) が佇んでいるのである。恐るべし大洗。 

この古墳、歴史的な背景以上にフォトスポットとして知られている名所で、期せずしてここに立ち寄ったタイミングは夕暮れ時。腹ごなしの散歩になったり、いい感じの写真がたくさん撮れたりと、およそ古墳らしからぬスタイルで満喫。……うわ、旅行っぽいことしてる!!  

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(いい感じに雰囲気が出ている筆者だが、頭の中はこの後に控えた夕食のことでいっぱい)

 

こうして日も暮れ、お腹も鳴り始めたところでいよいよ今回のメインイベント=夕食へ。 

前述の通り、実質的に初大洗の自分に対し、同行者は大半が大洗熟練者。そんな彼らが、なぜガルパンのイベントがやっていない時でも足繁く大洗に通うのか――というと、その理由の一つがあんこう鍋。中でも、この『味処 大森』のあんこう鍋が絶品なのだという。    

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ガルパンを象徴するアイコンでもあるあんこうを用いた濃厚な鍋料理で、「どぶ汁」とも呼ばれるあんこう鍋。同行者の皆が絶賛するこの料理については、しかし自分には大きな不安=「自分、あんこう鍋が苦手なんじゃないか」という懸念があった。 

自分は刺身や寿司こそ大好きだが、生牡蠣のような「クセが強め」+「ゼラチン・コラーゲン系の食感」がやや苦手な人間。一方同行者たちはそんな生牡蠣が大好きな面々。ひょっとして、自分にあんこう鍋は合わないのではないか……。そんな不安が晴れぬまま、いざ対面――!  

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う、美味そう……。  

今回食べたのは、オーソドックスなあんこう(どぶ汁) 、出汁を加えずに作る、より濃厚などぶ汁=「漁師のどぶ汁」、そしてあんこうの唐揚げ、あんこうのともず(酢みそで食べる刺身) 、焼き蛤、〆の雑炊+うどん。結論から言うと、これがハチャメチャに美味しかったんですよ……!!    

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確かに、懸念はある程度当たっていた (唇など、あんこうのコラーゲン的な部分はあまりピンと来なかった) けれど、それ以外はまさにパーフェクト。 

あんこうの出汁、特製出汁、味噌から作られる鍋は「どぶ汁」という名前に反してクセが少なく、それでいて魚介らしい旨味が存分に出ていて、敢えて例えるならとんこつとちゃんこを足して2で割ったような食べやすいお味。野菜は勿論、特にあんこう白身は文字通り絶品の仕上がり!   

このあんこう白身は今回の大洗旅行でも特に刺さった食材で、一緒に堪能した「あんこうの唐揚げ」なども美味中の美味。クセがないながらも濃厚な味わいが、どぶ汁や唐揚げといった味の濃い料理にベストマッチで、一人暮らしでありながら自宅用のあんこうの唐揚げ購入を本気で悩んだほど。 

市場で食べた蒸しウニなども然り、こういった「自分一人では触れなかったであろう食材・料理」に出会えるのは、誰かと行く旅行の大きな醍醐味。次回は、今回チャレンジできなかったギネスビール等にも挑んでみたいところ……。

 

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(ちなみに、前述のあんこうに並ぶかそれ以上に美味しかったのがこの焼き蛤。牡蠣のようなサイズ感や濃厚な味わいにも驚かされたけど、それ以上に「汁」が美味しすぎて、食べた瞬間あまりの衝撃に「アッ!?!?!?!?」と声を上げてしまったり。お、俺は悪くねェ!!)

 

あんこう鍋を堪能し終わると、時刻はあっという間に21時。このまま飲み明かしたい気持ちを抑えつつ、旅館――もとい、1日目最後の聖地、『割烹旅館 肴屋本店』へ!  

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(こちらはチェックイン時に撮影したもの)

 

商店街近くにあるこちらの旅館は『ガルパン』本編に2回登場。その2回とも戦車に突っ込まれているというガルパン名物。『ガルパン』に浅い自分にも「ワシの店がァ~!!」のくだりは印象的だったし、パネルがご丁寧に聖グロリアーナ女学院 (TV第4話で突っ込んでいた)ダージリンであることや、映像そのままな店の外観には内心拍手喝采だった。ガルパン×大洗の象徴だよこれ!! 

そんな肴屋本店さん、館内にもダージリンのパネルが別途あるだけでなく、各種ポスターが展示されていたり、聖グロリアーナ仕様の手帳が販売されていたりと、大洗の中でも一際ガルパン愛が溢れる名スポット。こちらの大部屋で『ガルパン』TV本編と劇場版からいくつかのシーンを抜粋した観賞会を行いつつ、12時という健康的な時間に就寝。激動の1日目、これにて終幕……!

 

 

大洗観光2日目 - 神社と惣菜と〆のケーキ

 

大洗旅行2日目、朝。 

健康的かつ美味しい朝食を頂き、各々は出発前にそれぞれの時間を過ごしていた。ちなみに筆者は『ウルトラマンブレーザー』の最終回をリアルタイムで見ていた。  

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(固唾を飲んで『ブレーザー』最終回を見守る筆者の図)

 

そうこうしているうちに外出組が帰宅。チェックアウトの時間となり、まず向かったのは巨大な鳥居が有名な大洗磯前神社!  

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(勿論こちらも『ガルパン』の聖地。あんこうチームがこの階段を戦車で降りるという離れ業をやってのけていたが、負傷者が出ないのが不思議なくらいの急勾配だった)

 

お守りやおみくじを買ったり、長い階段を登ったり、見事な猿回しに感服するも、お金を出そうとしたら一万円札と100円未満の小銭しかなかったり (流石に万札は出せず、小銭を全部出すことしかできなかった。本当に申し訳なかったです……) といったイベントを楽しみ、印象的なフォトスポットをカメラに収めつつ、ここからは各地での軽食ラッシュへ。 

 

博多明太子で有名な株式会社かねふくが運営する『大洗めんたいパーク』。様々な明太子製品の販売は勿論、イートインや工場見学まで完備と、まさにパークの名に恥じない複合施設だ。こちらで「明太ぶたまん」を頂き、お次は惣菜店『かじま』さんへ。 

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揚げ物を中心に、惣菜・弁当・海産物を販売されているこちらのお店。その最大の目玉として案内されたのが、この「ずわいがにたっぷりコロッケ」!  

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「蟹のコロッケ」と言えばカニクリームコロッケだけれど、なんとこのコロッケは文字通り蟹の身を包んで揚げたコロッケ。この贅沢さながら価格は360円とお値打ちで、更には全国コロッケグランプリで複数回の受賞歴もあったりと味もお墨付き。みつだんご共々、大洗に来たらマストな一品だ。 


(かじまさんに設置されているパネルは自動車部のホシノ。彼女への愛が内装やインタビューなど各所で伺い知れるのが嬉しいポイント!)

 

コロッケに舌鼓を打った後は、ヴィンテージ商品の古着を中心に取り扱うアパレルショップ『CLOSET』さん、そしてショッピングモール『大洗シーサイドステーション』へ。

 

 

CLOSETさんから徒歩圏内にある大洗シーサイドステーションは、『劇場版』で試合の舞台にもなった大洗最大級の商業施設。 

ガルパン専門のグッズショップである『大洗ガルパンギャラリー』 (ここではガルパン×プリンセス・プリンシパルのクリアファイルを購入。こんなコラボいつの間にやってたの……!?) がある他、目玉として欠かせないのが、SAZA COFFEE大洗店で限定販売されている『マリー様のモンブランケーキ』!

 

 

その名の通り、主にBC学園戦車道チーム隊長・マリーが食べているケーキをそのまま再現したこちらのモンブランケーキ。飲み物がセットで1500円とそれなりに値が張るけれど、一般的なモンブランよりもさっぱりとしていて飽きの来ない上品な味わいだったり、ケーキ下部がメレンゲになっている=押田の「三日月型に食べる」という特徴的な食べ方が再現可能だったりと、値段に恥じないクオリティを誇る一品。 

この縦長のケーキを試合中に食べているマリー様、一体何者なんだ……? とつい思ってしまったけれど、そもそも試合中に紅茶を飲んでいる+溢さない無敵のダー様がいるので今更だった。

 

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(こちらがケーキの実物。写真に全く劣らないどころか、むしろ写真よりデカくない? と思わされるレベル。魚もケーキもデカい町、大洗……!)

 

こうしてケーキを食べ終え、最後にもう一度大洗商店街へ。各々思い残すことがないよう店を巡る (自分はここでみつだんごをもう一本購入)  と、時刻はあっという間に16時。 

名残惜しさはありつつも、今回はこれまで。さらば大洗、また会う日まで――!


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(このポーズの由来はマジック・ザ・ギャザリングから。ガルパンじゃないんかい!!!!)

 

余談 - 突如現れた『仮面ライダー』の聖地

 

・大洗海鮮市場
・大洗マリンタワー
・さんふらわぁ
大洗駅
・大洗商店街
・磯浜古墳群
・味処大森
・肴屋本店
大洗磯前神社
・大洗めんたいパーク
・かじま
・CLOSET
・大洗シーサイドステーション 

この2日間、自分が大洗で訪れた場所はご覧の通り。……これらの中に、とある『仮面ライダー』作品で印象的に登場した「聖地」があることにお気付きだろうか。

 

仮面ライダークウガ!

仮面ライダークウガ!

 

 

「次に狙う獲物は、アレか」
「海に浮かぶ太陽の上で、324が消える……」
「さっきから五代さんの言うてること、綺麗事ばっかりやんか!」
「そうだよ。本当は……綺麗事がいいんだもん」
「 “どうでもいい殺しはさっさと終わらせて、もっと大事なゲームを早く始めたい” 」
「 “これ” でしかやり取りできないなんて……悲しすぎるから」

-「仮面ライダークウガ」 第40話『衝動』次回予告より

 


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そう、仮面ライダークウガ』第41話『抑制』において、未確認生命体第44号ゴ・ジャーザ・ギのゲリザギバスゲゲルの標的となった大型フェリーこそが、1日目に対面した「さんふらわあ」!  

このさんふらわあ、実は上記の『仮面ライダークウガ』以外にも『キカイダー01』『劇場版 仮面ライダーV3』『仮面ライダーアギト』『仮面ライダーW』『劇場版 秘密戦隊ゴレンジャー』『ゴジラ対メカゴジラ』と数多くの特撮作品に登場している「特撮の聖地」なのだけれど、中でも『仮面ライダークウガ』においては、前述のように「怪人の殺人ゲームの標的」として狙われたり、さんふらわあ号の外見が物語上重要なファクターとして用いられていたり、クライマックスではクウガが船上でゴ・ジャーザ・ギとの激闘を繰り広げたり……と、その扱いが抜きん出て印象的。 

自分にとって『仮面ライダークウガ』は非常に特別な思い入れの作品なので、マリンタワーさんふらわあを見付けた時は思わず目を疑ってしまったし、こんなところで出会えたのはあまりにも嬉しいサプライズ。ありがとう大洗、また来るよ大洗!!


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(これは嬉しさのあまり、同行者に必殺のダブルライジングカラミティタイタンをキメてしまう筆者)

 

おわりに - 「ウルトラ」なサプライズと大洗という町

 

それは大洗旅行1日目の日中、大洗商店街にある玩具店「ジョイショップ タグチ」さんでのことだった。

 

 

趣のある、まさに「昔ながらの玩具店」なジョイショップ タグチさん。こういう店は田舎から上京してきたオタクにとってまさに天国で、単にその雰囲気を味わうだけでも楽しかったのに、店内にはジードクローやオーブスラッガーランス、ひいてはエッグベースにパルスブレイガーといったレア物が山ほど置かれているので興奮が止まらなかった。こういうの、こういうの大好き!!

……が、しかし、この店で何より素晴らしかったのは、そういったレア物ではなく店主のお人柄だった。

 

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(今回購入した品物たち。過去年度分の無料配布リーフレットというレア物もあったのでありがたく拝借……!)

 

前述のレア物を総なめするとキリがないので、今回は欲しいと思った頃には店頭から捌けてしまっていた『ウルトラマン ニュージェネレーションスターズ』仕様のカードセットや、ウルトラアクションフィギュアのトリガーダーク (これはこれでレア物) で我慢。 

で、これらを購入する際 (自分が傍目に見ても分かるほど盛り上がっていたのか)  店主さんが一声かけてくださいまして。少し話をした結果、なんとご厚意でとある “非売品” をくださったんです。それがこちら。  

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パッと見ただけでは何が何やら、という人が大半であろうこちらのアイテム、なんと数十年前からある由緒正しき代物=玩具店向けに配られるPOP代わりの下敷き(おそらく2020年上半期版)  である。 

無料配布のリーフレットとは違うため基本的に配布はされないし、例外的に貰えたとしてもそれは当然子どもだけ (自分も幼少期に数枚だけ持っていたけれど、どう貰ったのかは記憶にない) 。そんなレア物を頂けたことは勿論嬉しかった……のだけれど、何より嬉しかったのは、このグッズをくださった店主さんのご厚意そのもの。  

都会で社会人をやっている自分にとって、そこに満ちていた「人の優しさ」は何にも代え難いエネルギーだったし、ある意味では美味しい料理や様々な聖地以上に活力を貰える出来事でした。ジョイショップ タグチさん、本当にありがとうございました……!

 

Never Say Goodbye

Never Say Goodbye

 

自分にとって、所謂「聖地巡礼」旅行はこれで二度目。前回訪れたのは『結城友奈は勇者である』の舞台である香川県観音寺市だったのだけれど、今回の大洗も前回の観音寺も、共通しているのは「接する方々が優しい方々ばかりだった」こと。そこには「金を落とすから優しくしておこう」といった打算のない、ごく自然な暖かみがあったように思うのだ。  

それはきっと、皆様の人柄は勿論、町自体が『ガルパン』や『ゆゆゆ』のようなコンテンツを愛してくれているからなのだろうけれど、この状況は決して当たり前のものじゃない。本来、自分達のような「アニメ目当てで来る余所者」は煙たがられる存在だろうし、大洗や観音寺が自分達を暖かく迎え入れてくれるのは、現地の方々の寛容さや、マナーを守り、ファンの印象を守ってくれた先輩方の努力のおかげ。そういったたくさんの人々によって、あの暖かさは作られているのだろうと思う。  

来年でも再来年でも、そう遠くないうちに自分はまた大洗に足を運ぶことになるはず。その時は、今回以上の感謝とマナーを肝に銘じて、その上で心行くまで大洗という町に浸ってみたい。  

大洗の皆様、自分を大洗に連れていってくれた友人たち、本当に本当にありがとうございました。いつかまた “大洗に帰ろう” ! 

2023年は “試練” の年だった - 明日の自分に残しておきたい「3つのメンタルケア方法」について

皆さん、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか。「試練とシルドロンって似てるようで似てないな……」という気付きを大晦日に得た男、虎賀れんとです。

 

 

毎年の大晦日といえば、自分にとっては「1年に1回、自分自身の記事を書く」という貴重な機会。今年も例によって1年を振り返り、記事にしてまとめてみたい――のだけれど、今年はこれまでの2年でかかっていたブーストが切れた「試練」の年。  

なので、今回の記事は前2作のような「今年は素晴らしい年だった!」とは毛色の違うもの。大変だった1年を振り返りつつ、来年に良い繋ぎができるよう、明日の自分に「辛い時はこうすると良いよ」という今の気付きを届ける為の備忘録になります。  

自分のために、あるいは、自分のように「楽しいこともあったけど、大変なこともあった」という1年を過ごした誰かのために、恥を忍んで、自分が2023年を通して見つけた3つの「辛い時のメンタルケア方法」を書き残してみたい。


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《目次》

 

前提 - 「試練」とは何ぞや

 

本題に入る前に、そもそも表題の「試練」とは何ぞや、という話なのだけれど、読んで字の如く「今年は何かとハードな年だった」ということです、

 

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最初に年末記事を書いたのは2021年。この年最大のトピックは春の転職で、その直前は本当に過去最悪のドン底メンタルだったのだけれど、この転職が成功してからというもの、あれよあれよと追い風が吹いてきたような感覚がありました。 

転職先が自分に合ったものだったり、ブログを趣味として確立することができたり、Twitterスペースの実装で交遊関係が大きく広がったり。それに加えて「身の回りでガンダム00が流行る」という最高の異常事態が発生したこともあり、年初のドン底ぶりを補って余りある楽しい1年になった……というのが、自分にとっての2021年。

 

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そして、続く2022年は2021年の追い風を受けて更に一層加速した年に。 

予てからの趣味であるTRPGジャンルで合同誌 (シナリオ本) を製作、ゲームマーケットで出版したり、Twitter上で繋がった人とリアルで交流を持たせて貰ったり、ブログで自分なりの「目標」を持ち、それを無事に達成できたり……。これら一つ一つのおかげで、長年積み上がってきた自分への不信が少なからず払拭され、同時に「自分にはこんなにもたくさんのありがたい縁があるんだな」と感謝に浸る年にもなりました。

 

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さて、そんな自分史上でも希に見る凄まじい2年間を経て迎えた2023年。その内容はというと、 

はてなブログの仕様変更により、個人ブログそのものが読まれ辛くなった 

・人間関係のトラブルが増えた 

(某制度実施の影響もあり) 仕事が過酷を極めた

・大好きな俳優が亡くなられるなど、ショックな出来事が多かった 

・生活環境の激変により、その前後が非常に忙しくなった 

……と、まるでこれまでの追い風が途絶えた=電池が切れ、ブーストがなくなったかのような試練の1年でした。 

しかし、かといって「辛いだけ」ではなく、昨年以上に楽しいことも多かったし、自分なりに現状の対策=落ち込んだ時に、自分を立て直す方法を探ってもきました。という訳で、早速そんな「2023年に見付けた、自分なりのメンタルケア方法」を記していきたいと思います。

 

 

①ちゃんと寝て、ちゃんと休むこと

 

前述の通り様々なトラブルに見舞われ、何かとメンタル不調が多かった2023年でしたが、一つ気付いたのは「よく寝れたかどうか」で、自分のメンタルが明らかに違うこと。具体的には、「よく寝れた日」は頭に「やるべきこと、やりたいこと」が浮かぶのに、そうでない日は「嫌なことや、忘れたいこと」ばかりが頭に浮かぶんですね。

ただ、難しいのは「じゃあ、休みの日にたっぷり寝ればいいのか」というとそうではない、ということ。かかりつけ医の話も参考にしつつ自分なりの見解をまとめると、ざっくり下記のようになります。 

・できれば、毎日7~9時間ぐらいの睡眠時間を確保すること(人それぞれに “自分に合った” 睡眠時間があるので、この辺りを目安にそれを探す) 

・できるだけ同じ時間に就寝・起床すること (毎日の睡眠タイミングを一定にすることで、体内時計が安定し、睡眠の質が上がる) 

・上記2点から「寝溜め」は効果がない (良質な睡眠でないので疲労が取りきれず、体内時計もガタガタになってしまう) 

睡眠薬アミノ酸、善玉菌などは「飲み過ぎてはいけない」(飲み過ぎると寝覚めが悪くなったり、日中に眠気が残ったりする) 

これらを意識していると、だんだん「よく寝れたかどうか」が掴めてくるんですが、やはり「よく寝れた」日がないと、(年齢もあってか) 身体の疲労が抜けきらないし、上記のような「ネガティブな考えが浮かぶ」モードになってしまうんです。そして、そういう時に動くと大抵ロクなことがない。

 

 

たとえば、これは23~25日のクリスマスに遊び呆けた直後、とあることが気にかかってしょうがなくなってしまった時の投稿。あまりに落ち着かなくて、友人のスペースでこのことを訊いてしまった結果、空気は壊すわ話はまとまらないわ語弊は生むわと凄まじい迷惑をかけてしまい……。 

今もこのことには若干の突っかかりがあるものの、あくまで「若干」程度。ましてや「その事で頭が一杯になる」ということはなくなっていて、今思うとこの時の自分は「3日連続で遊んだ反動」で心身共に疲れきっていた=ネガティブモードに入っていたのだろうな、と思います。 

(その節は本当に申し訳ありませんでした……!)

 

……ともあれ、今後はこういう事態にならないよう、少しでも自分のメンタルに異常を感じたら、動く前に「ちゃんと寝て、ちゃんと疲れを取る」こと。これを、2024年の目標の一つに据えたいと思います。

 

 

②コンテンツに浸ること

 

前述のように大変なことが多かった2023年だけれど、一方では、たくさんの素晴らしいコンテンツに出会うことができた1年でもありました。

 

 

他にも『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ』『ウルトラマンブレーザー』『ウルトラマングロス』『王様戦隊キングオージャー』『Yes!プリキュア5』シリーズ、『ふたりはプリキュア Splash☆Star』、『進撃の巨人』『星合の空』『金の国 水の国』『トップをねらえ!』『モスラ (平成モスラ3部作) 』『虐殺器官』『RRR』『THE FIRST SLAM DUNK』、再履修では『のんのんびより』や『空の境界』……など、そのようなコンテンツに浸っている時は、考えさせられることこそあれネガティブな思考に陥ることはなく、むしろ創作意欲をはじめとした「エネルギー」をたくさん貰うことができました。 

そんな作品の中でも、自分にとってとりわけ特別な存在となったのがアイカツスターズ!』。

 

 

自分にとっての2023年といえば、何といっても『アイカツスターズ!』と向き合った年。 

2022年末に最初の感想記事をアップしてからというもの、全100話と向き合いながら記事を書き続け、現在執筆中の記事はなんと14本目……と、自分は本当に年がら年中この作品と向き合っていたし、大袈裟でなく「『アイカツスターズ!』のことを考えない日はない」1年だったと思う。  

当然、こんなにも熱量を持って、しかも「それを形にしながら」作品に向き合ったことは初めてのこと。そんなこの作品の「特別さ」については感想記事の方で触れるとして、本作をこの「メンタルケア」の流れでピックアップしたのは、見ていると「自分も頑張ろう」と思えてくる作品だから。 

というのも、夢を追う少女たちを通し「誰にでも可能性がある」「失敗しても / 負けたとしても、その先で掴めるものが必ずある」と、勝ち負けを越えた所にある希望を描きつつ、その前提として「本気で挑戦する」大切さをシビアに問いかけるのが『アイカツスターズ!』という作品。そんな本作を見てきたこの一年、自分は何度も「ネガティブなことを考えているこの時間で、もっとやれることがある」「悩むなら、その挑戦の中で悩もう」と喝を入れて貰ったし、この先もきっと、挫けそうになった時や道に迷うことがあった時、 この作品の力を借りることになるのだろうと――これまでとは違う意味で「人生」と言える作品になっていくのかもしれない、と思っています。 

(勿論、本作はアニメ作品としてのクオリティそのものも非常に高く、テーマだけでなくストーリーや演出、楽曲等の素晴らしさなど深々と刺さったポイントは数知れず。作品として純粋に楽しみつつ背中を押して貰える本作は、エンターテイメント作品として極めて理想的なものなのでは……?)

 

まずは①で挙げたように「ちゃんと寝て、ちゃんと休む」ことが第一だけど、その上で悩んだり迷ったり苦しむことがあれば、そんな時はこの『アイカツスターズ!』のような素敵なコンテンツにエネルギーを貰い、自分の背中を叩くこと。折角オタクなのだから (?) 、それを存分に活かさなきゃ勿体ないし「大好きな作品に恥じない生き方を」というのは、これからも自分の指針として持ち続けておきたいところ……!

 

MUSIC of DREAM!!!

MUSIC of DREAM!!!

  • せな・りえ・みき・かな from AIKATSU☆STARS!
  • アニメ
  • ¥255

 

③落ち着いて、周りを見渡してみること

 

これまで挙げてきたような方法を試しても――きちんと寝ることで身体を健康にしても、好きなコンテンツに触れてエネルギーを貰っても、それでも不安や後悔を全て頭から消せるか、というとそうとは限りません。 

例えば「取り返しの付かない大きな失敗をしてしまった」時の後悔などは、そうした外的な手段ではどうしても消しきれないもの。そんな時に試すべきは「落ち着いて、周りを見渡してみる」ことだと思います。

 

 

人間、どうしても「良いものと悪いもの」では後者の方が目に付いてしまうもの。特に手痛い失敗をした際などは、毎日の中で得た「良いもの」を見落としがち。 

自分も、そのような失敗をすると「もうダメだ」と項垂れて世界から突き落とされたような気持ちになってしまうけれど、今のような比較的落ち着いた状況で現状を振り返ってみると「自分に差し伸べられている手は」自分が思っているよりもずっと多い」のだと気付きます。 

日頃仲良くしてくださる方々との交流、創作物へのコメント、遊びの誘い、頂いた評価やプレゼント、他にも、自分の場合は「この作品を見てほしい」「ここに行ってほしい」という依頼など……。ありがたいことに、人からの信頼は自分が思うよりもずっと身近に溢れていて、そういったものを忘れ、失敗と後悔で自分を卑下し続けるのは、そういった「自分を信用してくれる方々」に対して不誠実だと思うのです。

 

覆水盆に返らずと言うように、一度「やってしまった」ものはどうにもならないもの。その反省は必須だし、償えるならば全力で償わなければならないのだけれど、もしそれが「償いきれない」「どうにもならない」ものであるなら、そこでずっと立ち止まっていても何も変わらないし、最悪事態を悪化させてしまうかもしれない。 

だからこそ、そういった失敗・後悔には自分の中で「区切り」をつけつつ、自分を信用してくれる方々をこれ以上裏切ることがないよう / 同じ轍を踏まないように、次への糧にして前に進む……と、時にはそんな決断も必要なんじゃないかと思います。

 

 

補足 - メンタル不調時にやってしまいがちなNG行動

 

①ちゃんと寝て、ちゃんと休むこと 

②コンテンツに浸ること 

③落ち着いて、周りを見渡してみること 

自分なりのメンタルケア方法としてこれらの3つを挙げてみたけれど、そんなメンタル不調時にやってしまいがちなNG行動のうち、特に注意しなければならないものが「特定の誰かに対する (直接的にしろ、間接的にしろ) 攻撃的な言葉を発して / 書いてしまう」こと。  

誰かに「誰かに腹が立ってしょうがない時」というのは当然あって、自分もついTwitter (X) に愚痴を書いてしまうことがあります。しかし、その結果どうなるか……というと、確かに自分の気持ちは多少スッキリするかもしれないけれど、無関係なフォロワーが「もしかしたら自分のことかな」と傷付いてしまうかもしれないし、そうでなくても「誰かに攻撃的な言葉を書いた」という事実が自分の中でしこりになって、罪悪感が生まれて、具体的なトラブルにならなくても「あんなこと書かなきゃ」と後悔することになったりします。 

「自分の方が悪いかも」と思った時には手遅れ、というのもザラだし、いくら相手が悪かったとしても、同じ土俵に上がってしまったら自分も同罪。これらを忘れてしまうと、いくら前述のケアを頑張っても無意味、という事態に発展しかねないし、そもそも、どんな理由があっても、人のことを悪く言うことにプラスなんてないんですよね。  

その時間やエネルギーを他のもの (コンテンツの摂取や創作等) に充てる方がずっと有意義だし、そもそもその苛立ちも「ちゃんと寝れていない」ことが原因かもしれない……と、これらのことは前述の3つのケアと併せて、とりわけ強く意識しておきたいところです。

 

 

自分は昔から精神的に脆弱で、それをどうにかできないかと長らく悩んできました。結果、昨年「その改善が難しい」ことが判明し、ならどうするか、と自分なりに1年格闘した結果がこの3+1つ。 

ただ、この答えが出せたことと、それを実践できているかどうかはまた別の話。誰より自分自身がこれを胸に刻んで、実践して、人に迷惑をかけない・自分自身後悔のない1年にすること。少し苦い〆にはなってしまうけれど、このことを2024年の抱負として、今年は筆を置かせて頂きます。 

改めまして、今年もありがとうございました。生活環境の変化もあり、来年以降は今年ほどブログの更新ができないかもしれませんが、創作活動そのものには変わらず……もとい、新しい試みも含めて一層精進していければと思いますので、来年も引き続き『れんとのオタ活アーカイブ』をよろしくお願いします!

イベントレポート『ツブコン2023』+『ミッションネーム “ガイア” XIGファイターズ Get glory!』- TDG25周年を締め括る、涙と奇跡の “超時空の大決戦”

2023年11月25・26日、円谷プロ創立60周年を祝う円谷作品の祭典=「TSUBURAYA CONVENTION」が (リアルイベントとしては4年ぶりに) 復活開催、「ツブコン2023」の名の下に、東京ドームシティをツブコン一色に染め上げていた。

 

 

2日間、東京ドームシティの各エリアでトークショースペシャルゲストのサイン会 / 撮影会、ウルトラヒーローとの撮影会(ウルトラショット)、果てはステージショーや音楽ライブまで多彩なイベントが開催され、そのすぐ側ではワンダーフェスティバルのように様々な企業がブースを出展する物販エリアが展開されている……と、まさに「祭典」としか言いようのないツブコン。 

自分のような分身能力を持たない薄給サラリーマンにはイベント制覇など到底無理なので、それらの中から「自分でイベントを選び、スケジュールを組んでいく」必要がある。結果、今回自分が選んだ (もしくは、友人からチケットをお譲り頂いて行くことができた) ものは以下の通り。 

・オープニングセレモニー 

・ウルトラショット (コスモス&ジャスティス、ネオス&セブン21) 

・NEW GENERATION THE LIVE スターズ編 TSUBURAYA CONVENTION 2023 SPECIAL STAGE 

・『ウルトラマンガイア』25th ミッションネームガイア XIGファイターズ Get glory! 

ULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023 

山田裕貴の「ULTRAMAN:RISINGのおかげで、ウルトラマンプロ野球選手、2つの “小さい頃からなりたかったヒーロー” になれた」というエピソードやダークネスヒールズのアニメ化、そしてまさかのダークホース「 “かいじゅうのすみか” を題材にした本格SF小説」に歓喜したオープニングセレモニー。 

ウルフェス2012の再演を交えた歪な構成に疑問符を浮かべつつも、『ANOTHER GENE』要素の回収や初の生ウルティメイトファイナルに息を呑んだジードパートや、遂に帰還し、トライスクワッドとの再会に本当に涙するヒロユキが拝めたタイガパート、そして何より圧巻のニュージェネ大集合に拍手喝采だった『NEW GENERATION THE LIVE スターズ編 TSUBURAYA CONVENTION 2023 SPECIAL STAGE』。 

そして、フューチャーモードのコスモス、そしてクラッシャーモードのジャスティスという『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』コンビと念願の写真が撮れるも、なぜかジャスティスが神妙な浮かべていたウルトラショット。

 

  

 

大混雑の物販エリアを横目にこれら3つのイベントに参加、帰宅した頃にはもうお腹一杯の疲労困憊だった1日目のツブコン2023。しかし、ここからがこのイベントの「本番」だった。  

詳細なレポートは他の参加者諸兄にお任せするとして、今回の記事では、その中でも特に「事案」だった2つのイベント=『ウルトラマンガイア』25th ミッションネームガイア XIGファイターズ Get glory!、そしてULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023について振り返っていきたい。

 

※下記、『TSUBURAYA CONVENTION 2023』内で開催された各イベントの他、2023年秋に公演された舞台『TDG THE LIVE ウルトラマンガイア編 〜未来への誓い~ 』等関連作のネタバレが含まれます、ご注意ください!※

 

《目次》

 


前段 ~ 「ニュージェネガイア」問題と『TDG THE LIVE ウルトラマンガイア編』という回答

 

それでは早速、ツブコン2日目における最初の「事案」こと『ウルトラマンガイア 25th ミッションネームガイア XIGファイターズ Get glory!』を振り返っていきたい……のだけれど、その前に、2023年のウルトラシリーズを象徴するトピック=「ニュージェネレーションガイア」問題に触れておかなければならない。

 

kogalent.hatenablog.com

 

「ニュージェネレーションガイア」問題とは、要するに『トリガー』『デッカー』と「NEW GENERATION TD」シリーズが続いたことでほぼ自明だった「次のTVシリーズは作品はニュージェネレーションガイアだろう」という予想に反し、新作TVシリーズが歴代作品と関わりを持たない『ウルトラマンブレーザー』だったことに賛否が巻き起こった……という一連の出来事。
この問題は当初こそ様々な意見・憶測が飛び交ったものの、『ブレーザー』のメガホンを取る田口清隆監督から直々にコメントが出された (参考:https://cocreco.kodansha.co.jp/telemaga/news/feature/blazar/3DoYX) こと、ブレーザーが『ガイア』の魂を継ぐかのようなSFを見事見せてくれていること、そしてもう一つ、円谷プロから衝撃的な「回答」が出されたことで、事実上の「終止符」が打たれることとなった。

 

 

ウルトラマンガイアとウルトラマンアグル、2つのスプリーム・ヴァージョン (SV) が一つになって生まれた「地球が生んだ究極の光」=ウルトラマンガイア スーパー・スプリーム・ヴァージョン。 

夏のイベント『ウルトラヒーローズEXPO サマーフェスティバル 2023』で初登場して以降人気爆発となったこの新たなスーパーウルトラマンは、ステージで「トリガー・デッカーと並び立つ」シーンがあることからも明らかな「ニュージェネレーションガイア」そのもので、何かと波紋を呼びがちだったNEW GENERATION TDGにおける絶対的な回答として大きな反響を呼んでいた。

 

 

一方、そんなスーパー・スプリーム・ヴァージョン唯一の欠点が、2021年の『ウルサマ』で初登場となったアグルSVと異なり「ストーリーが用意されなかった」こと。 

というのも、SSVは前述の『ウルサマ2023』ライブステージにおけるフィナーレ=所謂「おまけパート」での登場であり、ステージ本編内で解禁された新規スーツのゼロ (ワイルドバースト) やゼット (デスシウムライズクロー)インパクトが絶大だったこともあって、正直「せっかくのガイア25thに勿体無いな……」と、そう思っていた。「例の舞台」の報せを聞くまでは。

 

 

『TDG THE LIVE』とは、その名の通り、25周年を迎えた『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』をメインにした舞台作品シリーズで、 その第3作がこの『TDG THE LIVE ウルトラマンガイア編 〜未来への誓い~ 』。 

脚本を執筆するのは、本家ウルトラシリーズは勿論、前作『TDG THE LIVE ウルトラマンダイナ編』において「ラセスタ星人、ヒマラと共に戦う中で、本当の “ウルトラマン” へと成長するグレゴール人」「 “ダイナ主体の” ウルトラマンサーガ」という驚愕のシチュエーションでファンの度肝を抜いた足木淳一郎氏。だったら今回も……というこちらの予想通り、この『ガイア編』もその内容はまさに驚天動地の代物だった。 

・ガイアV1とアグルV1のスーツを用いた、生『ウルトラマンガイア』第25~26話+第41話のアグル復活シーンの生ダイジェスト(ナレーションは、今回なんと主演として登壇された高山我夢役・吉岡毅志氏!) 

・所謂「司会のお姉さん」枠がなんとKCBのアナウンサー (とカメラマン) 

・ガイアとアグルを主人公に『ガイア』の25年後を描くストーリー 

・第42話『我夢VS我夢』のビゾームと同じ手口を使うサタンビゾーに追い詰められ、なんとV1に「ヴァージョン・ダウン」してしまうアグル (しっかり「ヴァージョン・ダウンといったところか」と言及される) 

・ガイアから光を渡されV2にヴァージョン・アップし、クァンタムストリームなどの「ガイアの技」を習得、更には第26話『決着の日』と同じ台詞+BGMでスプリーム・ヴァージョンに転身するアグル  

(その後、ガイアV1、V2、SV、アグルV1、V2、SV VSファイブキングというとてつもないシチュエーションまで爆誕。ここまでが前半=『ヴァージョンアップ・ファイト! ~side Blue~ 』)

 

・根源的破滅将来体の迎撃に向かうも、ガイアをワームホールに逃がし、一人囚われるアグル 

・ギンガの地球へ飛ばされ、アドベンチャーで帰還する我夢 (ビクトリーが我夢に「自分と近い力」を感じたり、企画段階でのみ存在していた『ギンガ』に我夢が出演するプロットの回収にもなっていたりと非常に芸が細かい……!) 

・ビクトリーから託されるビクトリウムを基点に、我々「地球に生きる命」の光を届け、ガイアとアグルを復活させる「ミッションネーム・ガイアよ再び」  

・我々の望みに応じて、ティガ・ダイナ・ガイア・アグルを集結させる「赤い球」  

・復活したゾグを迎え撃つ為にガイアとアグルが合身、誕生するウルトラマンガイアSSV 

(ここまでが後半=『地球はみんなの星』)

 

 

これが!!!!!これが「NEW GENERATION GAIA」……ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

『ティガ』を現代風に再解釈した作品と言える『トリガー』、ウルトラマンダイナから受け継がれた光である『デッカー』……に対し、ストレートな「25年後の続編」の中で自ら「NEW GENERATION GAIA」へと至ってみせたガイアとアグル。  

舞台という限られた尺、かつ「環境問題」の複雑さからか、トリガーやデッカーのような「テーマの再解釈・再定義」には踏み込み切れなかったものの、その分ファンサービスに全力投球してくれた本作は、TVでニュージェネレーションガイアが描かれなかったことを補って余りある満足度の、謂わば盛大な「感謝祭」。様々な可能性を拓きつつも多々波紋を呼んでしまった令和TDG3部作を「有終の美」で締め括る、これ以上ないグランドフィナーレだったと言えるのではないだろうか。

 

 

ウルトラマンガイア』25th ミッションネーム “ガイア” XIGファイターズ Get glory!① - トークショーパート

 

前置きが長くなったけれど、ここからは気を取り直してツブコン2023激動の2日目。その幕開けを飾ったのが、問題の「事案その1」こと、『ウルトラマンガイア』25th ミッションネームガイア XIGファイターズ Get glory!だ。

 


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引用:https://twitter.com/tsuburaya_event/status/1728585677087097165?t=ZxzJ7Xh5tet8grrQigrv9A&s=19

 

『XIGファイターズ Get glory!』は、その名の通り、『ウルトラマンガイア』の25周年を祝し、主人公=高山我夢役・吉岡毅志氏と、藤宮博也役・高野八誠氏は勿論、なんと 

・チームライトニング 梶尾克美リーダー役=中上雅巳氏 

・チームファルコン 米田達彦リーダー役=賀川黒之助氏 

・チームシーガル 神山篤志リーダー役=権藤俊輔氏 

・チームハーキュリーズ 吉田悟リーダー役=松田優氏 

・チームハーキュリーズ 桑原孝信役=中村浩二氏 

と、XIG各チームのメンバー5人が集結、更に司会進行を務めるのはオペレーション・クルー ジョジー・リーランド役のガウ氏と、実に8人もの『ガイア』キャストが顔を揃える、リアルタイム世代のファンにとってはまさに夢のようなトークショーだった。  

(ちなみに、本イベントの会場は東京ドームシティホテルB1Fの大宴会場。ツブラヤストアで後々販売されそうなXIG隊員証に加え、少なく見積もっても3000円はかかるであろう弁当まで用意されており、友人と「いつ食べろっていうんだ……」と困惑しきりだった。オッケーのアナウンスが出たので開演前に食べました)

 

そんな本イベントでは、インタビュー/クロストーク形式で各キャスト陣から様々な思い出・裏話が語られたのだけれど、その内容は「乗員が乗員だけに、XIGスティンガーの中が熱くて狭かった」「我夢が細すぎてチームハーキュリーズの面々に心配されていた」のような思わず笑ってしまうようなものから、「チームファルコンは生き急ぐかのような戦い方の準レギュラーだったので、いつ退場するのかとハラハラしながら台本を読んでいた」という笑っていいのかどうか怪しいものまで多種多様。 

中でも個人的に印象深かったのが梶尾克美リーダー役=中上雅巳氏のトーク。「アッコの姉ちゃんが糸でグルグル巻きになっちゃって」「ビルにファイターから飛び込んで」と、梶尾の主役エピソードである第30話『悪魔のマユ』の内容に踏み込んで言及したり、「撮影中、いつ自分がウルトラマンになるのかと楽しみにしていた」のような裏話を披露したり、最終章の印象的な場面として、第50話『地球の叫び』での「忘れていたわけじゃない……。ファイター1機飛ばすのに、どれだけ大勢の人が働いていたのかを」という梶尾の台詞を「ガイアという作品を作っているスタッフの方々と重なった」と引用してくださるなど、氏の『ガイア』愛にこちらまで嬉しくなる素敵なトークだった。

 

 

ウルトラマンガイア』25th ミッションネーム “ガイア” XIGファイターズ Get glory! ② - ステージパート

 

他にも、ジョジー役のガウ氏こそが「Get glory」の名付け親 (石室コマンダー役・渡辺裕之氏に候補を渡され、その中からガウ氏が選んだのだとか) ことが明かされたり、権藤俊輔氏と中村浩二氏が終始「ガイアのスーツアクター」ではなく「神山と桑原を演じた俳優」としてトークされるなど、あまりにも貴重な機会だった今回のトークショー。 

しかし、このイベントはお値段20000円という超高額スペシャルイベント。トークショーに豪華弁当、しっかりしたノベルティ……に加えてもう一つ、凄まじい「ご褒美」が待っていた。それが、本イベント冒頭に行われたスペシャルステージだ。

 

ウルトラマンガイア!

ウルトラマンガイア!

  • 田中昌之
  • アニメ
  • ¥255

 

再び現れた根源的破滅将来体と戦う最中、ワームホールに飲み込まれてしまったガイアとアグル。変身が解除された2人が迷い込んだのは、なんとこのイベント会場。ジョジーではなく「ガウ」として接するガウ氏と、「我夢」「藤宮」として現れた2人のアドリブトークはそれだけですこぶる面白かったのだけれど、「初めてガイアに変身した時、どんな気持ちだった?」という質問に対する我夢の返答=「どうしてみんな僕がガイアだって知ってるんだぁ~~っ!?」という台詞で思わず息を呑んでしまった。な、生の『超時空の大決戦』だこれ!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

事態の元凶は、根源的破滅将来体の使徒を名乗る存在。別世界で弱体化するというガイアの弱点を付く為に、赤い球 (勿論『超時空の大決戦』の彼女) を利用し、ガイアとアグルを我々のいる「ウルトラマンがフィクションである世界」に飛ばしたのだという。 

自分が25年越しに「勉くんになってる!!」という喜びと「THE LIVE ガイア編を経てもまだまだ切り口があったのか……!」という冷静な感動とでこの時既に情緒がおかしくなり始めていたし、「赤い球の呼びかけに応じて、参加者が “がんばれ” の光を届ける」ことでティガ・ダイナが降臨、ガイアSV・アグルSVと並び立った時には「20000円の元、取れたァ~~~!!!!!!!」と拍手喝采の狂気乱舞。ところが、このステージの「真髄」はここからだった。


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引用:ツブコン2023『ウルトラマンガイア』25周年イベントにキャスト集結!ガイア&アグル全ヴァージョンも揃い踏み!見逃し配信もスタート! - 円谷ステーション

 

4人のウルトラマンに撃破された根源破滅使徒が最後に呼び出した最強の怪獣は、なんと今回が初復活となるキングオブモンス! (自分含め、おそらくその場の) 誰もが「ラスボスはゾグかファイブキングだろう」と予想していた中、突如叫ばれた「キングオブモンス」の名前に会場は騒然、現れた新造スーツに歓声と絶叫が響き渡るというとんでもない事態に。 

……というこの状況下、本ステージは更なる衝撃のサプライズを放り込んできた。


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引用:ツブコン2023『ウルトラマンガイア』25周年イベントにキャスト集結!ガイア&アグル全ヴァージョンも揃い踏み!見逃し配信もスタート! - 円谷ステーション

 

赤い球が観客の想いを糧に呼び出したもう一人の人物。それはなんと、KCBのレポーター・吉井玲子 (役の石田裕加里氏) 御本人! 石田氏は『ガイア』出演後すぐに女優業を引退されていたため、今回の出演はともすればキングオブモンス以上のとてつもないサプライズだった。 

そして、彼女=吉井玲子がいるということは、ただでさえ劇場版のように「赤い球に祈ってティガ・ダイナを呼び出す」ことができた我々が、今度は本編最終章のようにガイア・アグルへ想いを届けられるということ。

 

Lovin' You Lovin' Me

Lovin' You Lovin' Me

  • B. B. WAVES
  • アニメ
  • ¥153

 

玲子さんに背中を押され、口々に「ウルトラマン」「ガイア」「アグル」の名を叫ぶ観客一同。その想いが届き、ガイアとアグルは (TV最終回の変身と同じ構図で) ウルトラマンガイア スーパー・スプリーム・ヴァージョンへと合体変身! 

そんな「ガイアとアグルが一つになった姿」であるSSVの隣に並び立つティガ&ダイナ。そして、彼ら3 (4) 人の前に立ちはだかるのはキングオブモンス。それはまさしく、我々TDG世代が待望してやまなかった「ティガ・ダイナ・ガイア・アグルが、共にキングオブモンスに立ち向かう」という夢を具現化したものであり、正真正銘「TDG25周年のグランドフィナーレ」。  

ウルトラマンガイア』こそが第1話から追いかけた初めてのヒーローだった自分にとって、この1時間半は文字通り最高の「ご褒美」でした。ありがとう、ウルトラマンガイア……!!


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引用:ツブコン2023『ウルトラマンガイア』25周年イベントにキャスト集結!ガイア&アグル全ヴァージョンも揃い踏み!見逃し配信もスタート! - 円谷ステーション

 

ULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023

 

こうして、ツブコン2023 2日目の幕開けから1000000億万点を叩き出した『ウルトラマンガイア』25th ミッションネームガイア XIGファイターズ Get glory!。 

ステージ、トークショーの後には、観客の「ガイアー!」「アグルー!」の声でガイア&アグル全ヴァージョンが登場、キャストと並んでのフォトセッション……というとんでもない時間も控えており、イベントは最高潮のまま幕を下ろすこととなった。

 

 

が、まだまだツブコン2023 2日目は始まったばかり。友人たちが各々の戦場へ向かう中、自分はようやく物販コーナーに入れたり、20年来の念願だった「ネオス&セブン21とのウルトラショット」を撮ったり、勢い余ってトリガー&カルミラの写真を購入してしまったりと東京ドームシティを駆け巡り、来る17時からは最後のイベント=『ULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023』に参戦。

 

 

サムネイルの時点で超豪華な面々が並ぶ本ライブ。そのセットリストは以下の通り。(全て敬称略)  

1.ウルトラQ メインテーマ (演奏)
2.ウルトラマンの歌 (出演者一同)
3.オーブの祈り (影山ヒロノブ&ボイジャー)
4.英雄 (遠藤正明)
5.Buddy,steady.go! (林勇畠中祐)
6.GO AHEAD 〜すすめ!ウルトラマンゼロ (つるの剛士&ボイジャー)
7.ウルトラマンマックス (松原剛志)
8.インパーフェクト (オーイシマサヨシ)
9.ウルトラマンX (ボイジャー)
10.ウルトラマンギンガの歌 (ボイジャー)
11.ウルトラマンガイア! (松原剛志)
12.Wake up Decker! (SCREEN mode)
13.カナタトオク (影山ヒロノブ)
14.僕らのスペクトラ (きただにひろし)
15.TAKE ME HIGHER (佐久間貴生)
16.ご唱和ください 我の名を! (遠藤正明)
17.Promise for the future (畠中祐)
18.GEEDの証 (濱田龍臣&ボイジャー)
19.Spirit (松原剛志)
20.Trigger (佐久間貴生)
21.Hands (オーイシマサヨシ)
22.ウルトラマンメビウス (松原剛志ボイジャー)
23.ウルトラマンダイナ (前田達也)
24.ULTRA HIGH (影山ヒロノブ)
25.君だけを守りたい (つるの剛士)
26.ウルトラマンレオ (真夏竜)
27.ウルトラマンタロウ (福沢良一)
28.ウルトラセブンの歌 (出演者一同)

 

あ、圧巻……!  

あまりに豪華すぎてどこから言及したものか……となってしまうけれど、まず感動させられたのは「平成ウルトラマン」のOP主題歌をコンプリートしてくれたこと。当然一部はカバーでの歌唱だったけれど、その「カバー」にこそ感動させられるものも多く、中でも、フルコーラスが初披露となった佐久間貴生氏歌唱版『TAKE ME HIGHER』には『ティガ』『トリガー』双方のファンとしてまさに感無量だった。

 

 

前述の『TAKE ME HIGHER』以外にも、遠藤正明氏による『英雄』のカバーや、松原剛志氏×ボイジャーによるミックス版『ウルトラマンメビウス』、オーイシマサヨシ氏による『インパーフェクト (自分は『インパーフェクト』がSSSS.シリーズの中で一番のお気に入り楽曲なので嬉しくて嬉しくて……!) など、本ライブでは実質的な「サプライズ枠」が満載。 

他にも、『Wake up Decker!』や『ご唱和ください 我の名を!』、果ては『僕らのスペクトラ』に至るまで観客のコール・合いの手が限りなくパーフェクトだったり、登場したウルトラマンたちのパフォーマンスが非常に凝っていたり (『ウルトラマンレオ』では、登場したレオが真夏竜氏とダブルフラッシャーの構えを取るという粋なファンサービスも!) と、どの歌も文字通り「語り尽くせないくらい」素晴らしいもの。本当に、本当に最高のライブをありがとうございました……!

 

 

おわりに ~ ツブコン2023に満ちていた “愛”

 

前述の通り、素晴らしい演出や歌唱で大盛り上がりだった『ULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023』。しかし、その中には数ヵ所、他と異なる方向性での “愛” と “敬意”、そして “感謝”  に満ちた瞬間があった。  

それは、故・水木一郎氏の楽曲=『オーブの祈り』『GO AHEAD 〜すすめ!ウルトラマンゼロ〜』。スクリーンに氏の姿が映し出されたり、アーティストやウルトラマンのパフォーマンスが「空の向こうへ歌を届ける」ものになっていたり、各々が「アニキ」への感謝の言葉を述べたり……と、アーティストやスタッフ、観客一同で氏への祈りを捧げる特別な時間になっていた。 

そして、ウルトラマンの音楽に深く携わり、光の国に旅立たれたばかりの方がもう一人。

 

 

アンコールでの『ウルトラセブンの歌』合唱終了後、舞台から捌けるつるの氏が叫ばれた「団さん」の名前。その名前に思いを馳せつつ、退場アナウンスを耳にしていると――入れ替わるように流れ出す『戦え!ウルトラマン』の歌。そして、スクリーンに映し出される『大決戦!超ウルトラ8兄弟』での郷秀樹=故・団時朗氏の勇姿。 

瞬間、会場の解散ムードが消滅。半数以上の観客が席を立たず、更には (自分含めた) 皆で『戦え!ウルトラマン』を歌い始めるという、およそ終演後とは思えない「もう一つのアンコール」が幕を開けた。その合唱は『戦え!ウルトラマン』が終わり、『帰ってきたウルトラマン』に歌が変わっても止むことなく、会場からは「団さんありがとうーー!!」「寂しいよーー!!」といった声が聞こえ続けていた。

 

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一時は『ウルトラマンZ』で終わるかもしれないとさえ言われていたウルトラシリーズだけれど、2023年の今も『ウルトラマンブレーザー』が放送中かつ『ULTRAMAN:RISING』も配信間近と、むしろシリーズは一層の盛り上がりを見せている。 

それは、『ウルトラマンZ』や『シン・ウルトラマン』を初めとした人気作によってシリーズに脚光が当たったから……というのは勿論だけれど、何よりの理由はキャスト・スタッフら「製作陣の愛」なのだろうと思う。  

『XIGファイターズ Get glory!』にせよ『ULTRAMAN MUSIC LIVE~ウルトラマン魂2023~』にせよ、このツブコンで開かれたイベントは、いずれも我々視聴者だけでなく、他ならぬ作り手たちが作品をこよなく愛し、大切にし続けてくれたこそ実現したもの。だからこそ、このツブコンのみならず、円谷作品のイベントはどうしようもなく「暖かい」。

 

 

そして、そんな「ツブコン」は来る2025年に第3回が開催予定。  

激動の2年後に備えて、自分もせっせと倹約に励み、持てる力で円谷プロ作品を応援し――そして、いつまでも作品を愛してくれるヒーローたちの姿に恥じないよう、真っ直ぐ前を向いて毎日を生き抜いていきたい。

感想『アイカツスターズ! 99話』 白鳥ひめという偶像、桜庭ローラというライバル。“ふたりの忘れ物” が導く、それぞれの原点と未来図

それは、3ヶ月前のことだった。

 

 

第86話『涙の数だけ』視聴後、情緒不安定な状態でぬけぬけとこんなことを呟いていた矢先、続く第89話でひめから衝撃的な発言が飛び出した。

 

「ドレスを制する者が、アイカツを制す……。これが、世界を巡った私の答え」

-「アイカツスターズ!」 第89話『星々のダイアリー』より

 

このタイミングでこの発言、自分はひめが何らかの形でアイカツ!ランキングに乱入するものとばかり思っていたのだけれど、その予想は根本的な所で間違っていた。そもそも、白鳥ひめとは『アイカツスターズ!』における頂点そのもの。作中においてアイカツ!ランキングは「世界一のアイドルを決める戦い」と言われていたけれど、その正体は「白鳥ひめへの挑戦権を懸けた戦い」に他ならなかったのだ。  

かくして、決勝を制したゆめに与えられた最終決戦の切符。しかし、第99話『ふたりの忘れ物』というサブタイトルが指すのは「ゆめとひめ」の2人ではなかった。 

続く第100話の内容を踏まえると、今回こそが本当の「実質的な最終回」。そんな第99話の主役となった “彼女” は、一体何を忘れており、ひめとゆめの戦いに何を見出したのか。第49話『一番星になれ!』から一年を経て改めて描かれた、ゆめたち3人それぞれの物語を振り返ってみたい。

 

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(第98話以前の感想は、こちらの記事か『アイカツスターズ!』タグからどうぞ!)


《目次》

 

 

「M4」が辿り着いた場所

 

ヴィーナスアークとの別れ、そして上級生組=ゆず&リリィのラストエピソードが描かれた97・98話。S4戦が描かれなかったことでいよいよ内容が予想できなくなってしまった99話だけれど、ゆめとローラがフィーチャーされたアバンと『ふたりの忘れ物』というサブタイトルに思わずグッと拳を握り、そのままスン……と力が抜けてしまった。当然と言えば当然なのだけれど、ここでゆめとローラの物語が描かれるということは、ローラ自身は勿論、小春、真昼、あこもこれ以上の単独主役エピソードは描かれないということ。これまで誤魔化し続けてきた『アイカツスターズ!』との別れにいよいよ覚悟を決めなければならない時が来たのだ。  

……と、そんなこちらの寂しくも感慨深い気持ちを最初に代弁してくれるのが「アンナと諸星学園長」であるところに『アイカツスターズ!』という作品の誠実さを感じて熱いものが込み上げてきてしまった。

 

「似た者同士ですね、あの子たち」
「というと?」
「虹野はああやって桜庭のために、仕事の合間に走り回っている。桜庭も時間がない中、虹野のために幹部とミーティングを重ねている……。初日から遅刻したり、ステージで倒れたり……色々ありましたけど」
「成長したな、2人とも」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

アイカツスターズ!』には様々な大人たちが登場するけれど、ゆめ・ローラを見守ってきた存在と言えばやはりこの2人。自分は年齢的に先生側の人間なので、彼女たちの成長に目を細める2人の姿に深々と感情移入してしまうし、彼らもまた「ゆめ・ローラの成長によって報われた」のだろうと思うと、まるで自分のことのように嬉しくなってしまう。  

(ひめ&ゆめのエキシビジョンステージを “諸星姉弟が揃って見守る” 姿に涙してしまったのは自分だけではないはず……!)

 

思えば、彼ら以外にも『アイカツスターズ!』には「子どもを見守る大人たち」が数多く登場していた。八千草・デーブ・玉五郎の先生チームやヴィーナスアークのじいや、ベリーパルフェのプロデューサー・デザイナーたちに、内田永吉を初めとする様々なゲストキャラクターたち……。出番は少なくても、彼ら大人たちの言葉にはそのことを忘れさせるほどの説得力があり、ここぞという時に「大人の視点」からゆめたちを導く彼らの背中が、ゆめたちアイドルの成長……転じて「物語の説得力」に繋がり、作品全体をグッと引き締めてくれていたように思う。  

そして、そんな大人たちよりも近い立場からゆめたちを導いていたのが、ひめたちS4、そしてすばるたちM4だ。

 

 

四ツ星学園男子寮のトップスターであるアイドルグループ=M4。女児向けアニメ作品とはあまり縁のない人生を送ってきた自分からすると、彼らは所謂「学園のプリンス」枠にしか見えなくて、『アイカツスターズ!』という作品の力を知らなかった当初は「あまり見せ場もなくフェードアウトしそうだな」という先入観さえ持っていた。 

しかし、程なくして彼らは「そんな枠に留まる存在じゃない」ことをストーリー上ではっきりと示してくれた。

 

「少なくとも、あの2人はお前のライブを楽しみにしてるんだ。……ちなみに、俺なんて1枚だ」
「え?」
「初ライブで売れたチケット」
「たった1枚!?」
「数なんて関係ねぇだろ。目の前の1人のファンを満足させれば、それは10人になって、100人になって……いつか1000人になるんじゃねぇの?」

-「アイカツスターズ!」 第10話『ゆめのスタートライン!』より

 

「あのさ……。お前、何のためにアイドルやってんの? すばるのためにアイドルやってんの? 本当に、それでいいの?」

-「アイカツスターズ!」 第17話『本気のスイッチ!』より

 

ゆめとあこの2人に「過去の自分」を見てしまったからなのか、すばるとかなたは何かと2人を気にかけつつ、それぞれのやり方で道を指し示していく。その誠実でストレートな言葉は、先生よりも近く、しかしS4よりも隔たりがある……という独自の距離感を持つM4だからこそ示すことができた、文字通りの「道標」であったように思う。

 

 

この時点で「あまり見せ場もなくフェードアウトしそうだな」という自分の先入観を覆してくれたM4だけれど、ここから彼らはより踏み込んだ関係性の変化、有り体に言うなら「恋愛」の色を漂わせ始める。 

自分は、性別問わず恋愛描写の好き好みが激しくて、歯に衣着せず言うなら「とりあえずくっつけました」的な恋愛 (のような何か) をお出しされると一気に醒めてしまう面倒くさいオタク。なので、当初M4が出てきた時もそこが懸念点だったのだけれど、幸い本作の恋愛描写はその真逆=とても丁寧かつ「アアアアァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 (良い意味で) 悶えたくなってしまうような代物ばかりだった。

 

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あことかなたの関係性については、これまでもこちらの記事などで触れてきた通り。かなたの不器用ながら実直な「無償の愛」が徐々にあこの心を動かしていく様には見ているこちらもドキドキさせられてしまったし、溜めに溜めた88話で、遂にあこの口から「吉良かなた」の名前と「ありがとう」が飛び出した瞬間には頭をゴンゴン打ち鳴らさずにはいられなかった。 

一方、これまで記事で触れる機会はなかったけど、ゆめ×すばるの関係性も自分にとっては十分すぎる特大事案。未熟でひたむき、かつ「M4・結城すばるを何とも思っていない」稀有な存在であるゆめに対し、かつての自分を重ねてか「良き先輩」として接し続けていたすばる。ゆめの成長につれて2人はいつしか「良き友人」になっていき――と、この1年目序~中盤の展開だけでも自分は大好きだったのだけれど、2人の関係性に叩きのめされてしまったのは第37話『トキメキ!クリスマス』でのこと。

 

「なんだ? うまくいかなかったのか?」
「ううん、ライブは大成功だったよ。私も全力でやったし、皆も喜んでくれた。でも、もっと何かできたんじゃないかな~って思っちゃうんだよね!」
「……! 俺も同じこと考えてた」
「えっ?」
「ファンも仲間も “良かった” って言うけど、俺は満足できない。もっと凄い、もっと良いステージにしたいって思っちまう」
「だよね! ……あんな風になりたいな。誰よりも高いところで、誰よりもキラキラ輝く、一番星みたいに!」
「……一番星、か。道のりは長くなりそうだな」
「分かってるよぅ! でも、絶対なるんだから!」 

(中略) 

「ちょっと、どいてくれるかな……!」
「んっ?」
「重いんですけどぉ……」
「ご、ごめん!」
「ふぅ……」
「ありがとう、すばるくん! ……あれ、どうしたの? 顔真っ赤だよ?」
「えっ、うおあぁぁっ!?」
「ふふっ、ゆでタコ……」
「う、うっせ……」
「じゃあねっ!メリークリスマ~ス!!」

-「アイカツスターズ!」 第37話『トキメキ!クリスマス』より

 

こんなん!!!!!!!惚れるに!!!!!!!!!!!!!!決まっとるやろがい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!  

最初はゆめを妹のような気持ちで見守っていたものの、徐々に彼女に肩入れしてしまい、第36話で彼女の克己を見届け、トドメとばかりにここで初の「すばるくん」呼び。ホラー映画の王道として「観客が “これは何だろう?” と身を乗り出したタイミングにホラー演出を叩き込む」というものがあるけれど、これも実質的には同じもの。数ヶ月もの時間をかけて、すばるからゆめに「大丈夫か?」「心配だな」と歩み寄らせたところに、36・37話で特大のキラめきを叩き込む必殺のカウンターパンチ。こんなん胸を撃ち抜かれないハズがないし、少なくとも自分は引くほどすばるに感情移入してダメになってしまった。  

第37話『トキメキ!クリスマス』は、第36話『虹の向こうへ』での克己を経たゆめがセルフプロデュースの権化と化す=本格的に輝き始めるエピソードでもあるので、この回ですばる同様ゆめにハートを握り潰されたのは自分だけではないはず。これが……これが「胸がキュンキュンする」ってヤツ……!?

 

 

こうして、ゆめに「すばるくん」呼びをされたことですばるは見事陥落。続く第43話『チョコっと歌にこめる想い☆』ではとうとう「ライバル」として認め合う (こちらまで変な汗をかいてしまう「ゆめからすばるへのチョコ」のくだりも大好きだけど、ここでゆめが「M4の輝きを知る」過程を入れてくれたのが素晴らしかった……!) に至り、あことかなたも前述の第87話で「あこがかなたを意識してしまうようになる」と、この上ないフラグを立てた2組だけれど、悲しいかな、この4人での具体的な「進展」はそれ以上描かれることはなかった。……けれど、それは考えれば考えるほど「仕方のないこと」だと思えてならない。 

まずはあことかなた。お互いに真意を口に出さない2人だけれど、第87話時点で2人が互いに特別な感情を持っているのは明らか。後はもう一押し――なのだけれど、如何せんそのもう一押しに問題がありすぎる。というのも、あこはすばるという「憧れの王子様」もいれば、きららという「相思相愛の相手」もいる。もしこれ以上あこ×かなたの関係性を進めようとするなら、きららとの間に「優劣」をつけることになってしまうし、あこの中で「すばるへの憧れ」に引導を渡す為のエピソードも必要になってしまうだろう。  

そこまで「恋愛」という概念やジェンダー的な問題に踏み込んでしまうのは『アイカツスターズ!』の本題から逸れてしまうし、本作の「1話辺り約15分」という尺で消化するには無理があるだろう。かといって、この問題に数話かけるには話数が足りないのもまた事実……と、考えれば考えるほどがんじからめ。その先へ無理に突っ込むのではなく「あこがかなたに振り向いた」という一番美味しいタイミングで2人の物語を終えたことはまさに英断だったと言えるし、ファン、きらら、そしてかなたといった「自分を見てくれる人」にどう向き合うかが成長の肝だったあこにとって、それは何より美しいエンディングだったように思えてならないのだ。

 

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こうして、まさに「やれるところまでやりきった」感のあったあことかなた……に対して、件の第43話以降大きな進展を見せることがなかったゆめとすばるの物語。けれど、それこそ考えるまでもなく「仕方のない」ことだと思う。何せ、ゆめには桜庭ローラと七倉小春という最高のパートナーたちがいる。残酷な話だけれど、ゆめの中には「すばるが入ることのできる余地」が最初から存在しなかったのだ。

 

 

片や『劇場版アイカツスターズ!』、片や第72話『二人の一番星☆』で実質的な告白ないしプロポーズに至っており、作品が作品なら間違いなく手を繋いだりおでこをくっつけたりでは済まなかったであろうゆめとローラ / 小春の関係性。「同性かつ相思相愛のパートナーがいる」という点ではあこ&きららも同じなのだけれど、 

・あこの物語には最初から「男女恋愛」の前提があった (すばる絡み)  

・あこときららの関係は「2年目」から 

・あことかなたの関係は「1年目」から 

といった前提条件を考えると、あこの物語においてはむしろ「あこ×かなた」の方が先に発生していたもの。結果的に、描写の多い「あこ×きらら」と、長く積み上げられてきた「あこ×かなた」で、丁度良い塩梅に釣り合いが取れているように思えるのだ。  

対して、ゆめ×すばるの場合は 

・ゆめの物語には「恋愛」の前提がない (当初はM4に対して興味ゼロ)  

・ゆめとローラ、ゆめとすばるの関係はどちらも「1年目」から 

・ゆめと小春の関係は「入学以前」から 

……と、その前提条件は概ね「ローラと同程度かつ小春未満」というもの。これに加えて、作中では当然「ゆめ×ローラ」「ゆめ×小春」に比重が置かれる為、ゆめにとってのすばるがローラや小春よりも重要な存在になる理由がなく、すばるがゆめに告白したとしても結果は見えてしまっているのだ。 

結果、ゆめ×すばるの関係は、あこ×かなたとは違った意味で「これ以上進められない」ものであり、第43話以降進展がなかったのも仕方がないと言えるのではないだろうか。  

(仮にすばるが告白→ゆめが振る、といったシナリオがあった場合、ゆめにもすばるにも遺恨が残ってしまうだろうし、それを解消する為には相応の尺が必要になってしまうが、前述の通りアイカツスターズ!にそんな尺の余裕はないし、あこが関係せざるを得なくなるので尚更だろう)

 

 

アイカツスターズ!』は全100話という長期作品。最初から全ての話数にプロットが立っていた訳ではないだろうし、むしろ全100話でありながら「中だるみがなく、最初から最後までずっと面白い」「レギュラーキャラクター全員の物語が美しく完結している」時点で破格の完成度と言えるだろう。 

このことを踏まえると、あくまで準レギュラーでありながら一貫した物語を持ち、綺麗に締めてくれたかなたの物語こそがイレギュラーと言えるだろうし、すばるの物語がにっちもさっちも行かなくなってしまったのは殊更に「仕方のない」こと。ましてあさひと小春、のぞむとアリアの件にツッコミを入れるのはそれこそ野暮だろう……と、そんな予防線を張っていたので、第99話ですばるが――それも「ゆめが男子寮に迷い込む」という第1話そっくりなシチュエーションを経て――登場した時は変な声が出そうになってしまったし、こちらが想像していたよりもずっと潔く、誠実な「決着」ぶりには内心頭を下げずにはいられなかった。

 

「丁度良かった。言いたいことがあったんだ」
「言いたいこと?」
アイカツ!ランキングの優勝とS4決定戦の連覇、おめでとう」
「ありがとう!」
「それと……」
「んっ?」
「お別れだ」
「えっ、何で!?」
「いやっ、別に会えなくなる訳じゃないんだけど……俺の、気持ちの問題」
「気持ち?」
「お前のステージを見て、俺ももっともっと世界で勝負しなきゃって思った。だから、ちゃんと肩を並べられるアイドルでいたいから……それまでは、アイカツに集中する」
「分かった、ライバルだもんね!」
「ライバルぅ!?」
「え、違った!? 同じアイドルとして、そのっ……」
「……ふんっ」
「ひっ!? あ……すばるくんも頑張ってるし、私も負けてられな――痛ったぁ~~っ!!」
「続きは、俺が世界一になってから!」
「もう~っ!」
「じゃあな、虹野ゆめ」
「……気持ちの問題、かぁ」 

「見ーちゃった!」
「うぉあっ!?」
「ほぼ告白、みたいな?」
「うっ」
「完全にスルーされたけどな」
「お前ら……!」
「いいなぁ~、青春だよねぇ」
「あはははっ!」
「やめろぉぉ~~~っ!!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

いつか世界一になり、ゆめに正面から想いを伝えられるよう、ひとまず自分の気持ちに「決着」を付けるという潔さ。そして、そんな彼の行動こそが、ゆめが「忘れ物」を見付けるヒントになる――。第87話のあこ×かなたよろしく「このがんじがらめの状況下で、こんなにもピンポイントな “正解” を叩き出せるものなのか」と感動してしまったし、彼のゴールが「ゆめの歩みを受けて、自分も “世界一” を目指して新たな一歩を踏み出す」であることには特別な感慨もあった。 

というのも、すばるとは「ゆめと共に走る訳ではないが、その歩みを最初から見守り、やがて魅了された」人物。則ち、ある意味作中で最も「我々視聴者の目線を代弁している」キャラクターとも言える。  

アイカツスターズ!』を最終回まで見届けて、自分も「本気で夢を追ってみたい」と思わされた身としては、そんなすばるが最終的に「夢に向かって新しい一歩を踏み出す」という爽やかなゴールを見せてくれたことには、まるで作品を見ている自分まで背中を押して貰えたような頼もしさがあった。観客として競い合うゆめたちを見ていたところに「俺たちも頑張ってみようぜ」と肩を叩いてくれる――あるいは『アイカツスターズ!』という作品とこちら側の架け橋になってくれる存在。それこそが「結城すばる」だったのかもしれない。

 

 

虹野ゆめの “忘れ物”

 

すばると会った翌朝、ゆめはローラから「一緒に忘れ物を探さない?」と持ちかけられ、彼女と共にこれまでの思い出を辿ることになる。  

(すばるが玉砕した直後に “これ” をお出しするの、作品の思想が露骨すぎやしません!?)

 

この時点での自分は (次回予告を見てないので)「ふたりの忘れ物=もう一度ステージで競い合うこと」だろうと思っていたのだけれど、2人が1年目の印象的なスポットを巡り、やがて「例の海岸」に辿り着いたことで「あっ………………」と声が出てしまったし、その答え合わせをするかのように現れたひめの姿には思わず息を呑んでしまった。 

1年目で2人が戦ったのは第49話、そして今回は第99話。自分は第100話でひめとゆめの戦いが描かれるだろうと予想していたのだけれど、思えばこの第99話ほど2人の再戦に相応しい話数もない。そんなことを考えつつ、真っ直ぐに “気持ち” をぶつけるゆめと目を細めるひめの姿で涙腺を緩ませながらも、この時の自分は「ひめの “切り札” 」のことで頭が一杯になっていた。

 

「ゆめちゃんとの勝負、どうだった?」
「私は、世界で最も強い光は太陽だと思っていた。でも “一つの星の輝きに照らされて、周りの星々も輝き、空全体が光に満ちる” ……あんな輝き方があるなんて知らなかったわ」
「そうね。世界には知らないことや、驚くことがまだまだたくさんあるわよ!」
「それは……!?」
「ふふっ、私の切り札よ。これを見たら、ゆめちゃんもとっても驚くでしょうね」
「ヒメ シラトリ……。貴女という人は」
「勝負もアイカツもどうなるか分からない、だから面白い。そう思わない?」

-「アイカツスターズ!」 第97話『Bon Bon Voyage!』より

 

ヴィーナスアークを解散しようとするエルザを、ひめが言葉巧みに (ポーカーの勝敗まで逆手に取って) 説得するという、グッと来る一方で彼女の底知れない強かさに変な笑いが漏れてしまうこのシーン。ここでひめが明かした切り札=「月」のアイカツカードの衝撃たるや凄まじいものだった。 

ひめの切り札が「エルザさえ存在を知らなかった、10番目の星のツバサ」というところまでは予想できていたけれど、その天体はなんと太陽と対になる「月」。『MUSIC of DREAM!!!』OP映像でひめが月を見上げてたのってそういうことだったのか――! と、ここで「やられた」と感じている自分はまだまだ『アイカツスターズ!』素人だった。

 

「永遠の輝きを放つ “月のドレス” 。しなやかな美しさと真の強さを秘めた、エターナルプリンセスコーデ……。金色に輝く羽が、私を未来へと導いてくれる」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

月の「星のツバサ」じゃなくて「月のドレス」!?!?!?!?  

確かに、第89話時点での自分は「これ銀河のドレスだろ!!」などと騒いでいたけれど、ひめがエルザに見せたカードがツバサのカード1枚だったことで (第89話でひめが持っていたカードの枚数を忘れて) ひめの切り札=月のツバサだと思い込んでいたし、ひめの口から「エターナル」の文字が出てきてひっくり返ってしまった。「太陽のドレス」が複数存在することのサプライズが第96話の肝だったのに、そこから更に「月のドレス」を出してくる『アイカツスターズ!』、そういうところ (が大好き) だぞ!!  

(「月のドレスを誰にも知られることなく手に入れ、今の今まで隠し通してきた」ひめの物語はそれだけで優にアニメ1クールが作れる内容だし、『アイカツスターズ!』は本当に最後まで第25代S4の「敢えて語らないからこそ作品に深みが出ているのはとても分かるけど、それはそれとして見せてくれ!!」案件が盛り沢山だった……)

 

 

しかし、ここでひめが明かした切り札が星のツバサではなく「月のドレス」であったことは、則ち太陽のドレスを手にしたゆめと対等に戦う条件が揃ったということ。そんな2人の純然たる「実力勝負」に相応しく、ゆめとひめが共に歌い上げるのは『スタートライン!』

 

スタートライン!

スタートライン!

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これまでも数度同じステージで並び立ち、第16話『ミラクル☆バトンタッチ』では『スタートライン!』を共に唄っていたゆめとひめ。けれど、今ここで同格のドレスを纏い、同じステージで同じ歌を唄う2人の姿を見ていると、不思議とそれが「初めて2人が並び立った瞬間」のように見えてしまう。そう思わせてくれる程に成長したゆめの姿が、一見実力差のあるこの戦いを「どちらが勝つのか分からない」もの=文字通りの “決戦” へと昇華させていた。 

白鳥ひめというアイドル=1年目における「越えられなかった壁」の象徴であると同時に、第10話では真の「ゆめのはじまり」を彩ってもいた『スタートライン!』。そんな前提に加えて「アイカツスターズ!にハマったきっかけの一つ」という個人的な文脈まで乗っているこの歌が (本作の、事実上の) 最終決戦を飾る……というのは、半ば予想していたとしても涙せずにはいられなかった。むしろ、展開を予想できていたからこそ「予想以上の感動が押し寄せてくる」事実に尚更胸を打たれてしまったのかもしれない。  

そして、そんな『スタートライン!』の一節――「輝きたい衝動に素直でいよう」というフレーズこそが、この戦いの命運を分けたものだったように思う。

 

「それでは、結果発表です!」
「よりステージで輝いていたアイドルが、勝者となる。勝ったのは――虹野ゆめ!」
「……!」
「おめでとう、ゆめちゃん! 素晴らしいステージだったわ……!」
「ひめ先輩……」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

ドレス、ステージ、そして歌。同じ条件下での戦いだったからこそ、それは紛れもないゆめの勝利。しかし、技術などで周囲に劣る面もあるゆめが、長らく絶対王者として君臨してきた最強のアイドル=ひめを上回ることができた「決め手」とは何だったのだろう。 

この勝敗について考えていくには、このステージから更に遡り、2人それぞれの「在り方」について振り返っていかなければならない。

 

 

 

ひめのスタートライン!

 

歴代S4屈指の実力者、そして世界レベルの歌姫であり、S4決定戦を待たずしてS4の座に就いたという特異な経歴を持つ「アイドルすぎるアイドル」=白鳥ひめ。彼女は人格面でも確かな強さと優しさを持ち合わせており、まさに非の打ち所がないトップスターそのもの。 

アイカツスターズ!』を見始めて間もない自分にとっては (諸星学園長とのやり取りなどもあって) その完璧ぶりがかえって「裏があるのでは」と怪しく見えたのだけれど、程なくしてそれが勘違いだったこと、そして彼女には全く別種の「危うさ」があることを思い知らされてしまった。

 

 

その嚆矢となったのが、第11話『密着!白鳥ひめの一日』。タイトル通りひめの一日に密着するエピソードなのだけれど、そこで明かされたのは「起きている時間の大半を “アイドルとしての在り方” に捧げているため、休息であるはずの昼寝が趣味/娯楽になってしまっている」という衝撃的な事実。  

一体何がそこまで彼女を駆り立てるのか、彼女は何を求めてアイカツをしているのか――。「不思議な力」と戦った過去などが明かされ、その強さの裏にあるものが語られていく中、第49話『一番星になれ!』において、遂にひめ自身の口から「アイカツの中で求めるもの」が明かされた。

 

「私ね、S4としてアイカツしていて、分かったことがあるの」
「なあに?」
「それはね、“一人で輝くよりも、みんなで輝いた方がずっと素敵だ” ……ってこと。これからも、たくさんのアイドルにもっともっと輝いてほしい。だから、みんなの光になれるように……みんなに道を示せるように、今日は私が一番輝く星になる!」

-「アイカツスターズ!」 第49話『一番星になれ!』より

 

ひめがアイカツの中で求めるのは、ひたすらに純粋な「アイドルが放つ輝き」。みんなを輝かせる為に、みんなが輝く為に、みんなを導く一番星になる。それこそが、彼女のアイカツの根底にあるものだったのだ。  

しかし、この崇高で純粋な想いには、同時にそれ故の「危うさ」も隠されていた。

 

「今回はゆめちゃんが勝ちましたが……その姿を見て “頑張ろう” って思う人たちがいっぱい出てきたはずです。だから次は……ふふっ、誰が勝つんでしょうか?」

-「アイカツスターズ!」 第96話『みんなで輝く!』より

 

これまでの彼女の発言にあった違和感の正体。それはおそらく、「ひめ自身が “みんな” の中に入っていない」こと。 

みんなの為に自分の時間を使いきり、みんなの為に一番星で在り続け、競い合うみんなの姿に優しく微笑む。こうして振り返ると、彼女が夢見る景色の中にはいつも「ひめ自身」がいない。自分には、そんな彼女の姿がまるで「人としての在り方を捨てた神様」=文字通りの「偶像 (アイドル) 」に見えてしょうがないし、若干15.6才の少女がそんな在り方を自ら望み、当たり前のように受け入れている姿には、どこか恐怖さえ感じてしまう。「アイドルすぎるアイドル」という一見ユニークなキャッチフレーズは、その実彼女の特異性を的確に捉えた、皮肉で残酷な名フレーズだと言えるかもしれない。  

(ひめは0才で赤ちゃんモデルとして芸能界デビューを果たし、以降子役、アイドルと、生まれてこの方ずっと「カメラ」を意識する人生を送ってきた。「他人のための自分」であることの方が多く、かつその生き方を愛してしまった彼女が「偶像」になってしまうのは、自身が望むと望まざるとに関わらず避けられないことだったのかもしれない)

 

 

一方、そんな白鳥ひめの輝きに魅せられたのが虹野ゆめ。彼女は当初こそ「ひめ先輩のようなS4になりたい」と豪語していたものの、当のひめ本人、そしてリリィの言葉を受けて考えを改め、自分自身の夢を追い求める本当の第一歩を踏み出すことができた。 

そして、その道でゆめが見付けた「自分自身の願い」こそが、彼女をひめと同じステージへと導いていくこととなる。

 

「今の私には一つだけ、エルザさんに負けないものがあります」
「負けないもの?」
「想いです。私、今まで一緒にアイカツを頑張ってきたみんなと、一緒に輝きたいって思ってきました」
「……フッ、貴女らしいわね。だけど一つだけ言っておくわ。パーフェクトなアイドルは、決して他人と一緒に輝いたりしない。たった一人でキラめくの」
「私の想いは、それだけじゃありません」
「?」
「アイドルみんなで光り輝いて、周りの人全ての心を輝かせたい、って思ってるんです。いつも私たちアイドルを導いてくれる先生たち。いつも私を応援してくれているファンのみんな。今日のステージは、そんなたくさんの仲間が一緒に作り上げてくれたんです。だから私は、今日ここにいる全ての人の心を輝かせたいって思っています。その強い想いだけは、エルザさんには負けません! ……それが、私の想いです」

-「アイカツスターズ!」 第96話『みんなで輝く!』より

 

一人で輝くのではなく、みんなで輝くこと。奇しくも「ひめを目指さない」ことによって、それまでよりもずっとひめの本質に近付いたゆめは、しかし、ひめのような偶像=他人の為に自らを捧げる存在にはならなかった。それはきっと、生まれながらにしてカメラに囲まれ、「不思議な力」も諸星の指導と己の努力で克服してしまい、第25代S4という仲間を得た頃には「完成」してしまっていたひめに対し、ゆめは「仲間と手を取り合い、弱い自分を受け入れて前に進んできた」……という、この違いによるものだったのではないだろうか。  

(そして、そんなゆめの仲間の一人こそが他ならぬひめ。どこまで意識していたかは分からないけれど、ひめ自身こそが、ゆめが「第二の白鳥ひめ (偶像) 」と化してしまうことを食い止めるセーフティラインになっていたと言える)

 

 

仲間の支えによって、ひめと近い道を歩きつつも「人」として踏み留まることができていたゆめ。そんな彼女の有り様は、第99話におけるこのやり取りで顕著に示されていた。

 

「ひめ先輩に、お返ししたいんでしょ?」
「でも……何をすればいいんだろう?」
「ゆめは?」
「え?」
「ゆめはどうしたいの? 大事なのは、ゆめの気持ちじゃない?」
「私は……去年ひめ先輩に負けて、ここでたくさん泣いた。次こそ勝つって誓った。その時の約束を果たしたい」
「うん」
「確かに……約束したわね、ゆめちゃん」
「ひめ先輩!?」
「私も、ここに来る度思い出していたのよ」
「私、ひめ先輩ともう一度ステージで勝負したいです。私の……気持ちの問題です! 去年のS4戦でのステージ、あれから私、いろんな経験をして、たくさん成長しました。だから、今度は負けません!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

2年に渡る戦いで大きく成長し、アイカツ!ランキング決勝にも「エルザさんにアイドルを辞めてほしくない」「エルザさんにも輝いてほしい」の一心で臨んでいたゆめ。それはまさに、アイドル・虹野ゆめの「みんなで輝く」という想いを体現するものだった。 

しかし、ゆめがひめに叩き付けた想いはそれらとは異なるもの=白鳥ひめに憧れ、負けて涙し、次は必ず勝つと誓った、ただの人間・虹野ゆめの個人的な「気持ち」。それこそが、ゆめが2年間の成長の中で置き去りにしてしまった「原点」であり、彼女が取り戻した「忘れ物」だったのではないかと思う。

 

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「アイドル論」というと大袈裟かもしれないけれど、『アイカツスターズ!』という作品は、アイドルたちに「自分の為にアイカツすること」と「ファン (他人) の為にアイカツすること」の双方を願って / 託していた。自分勝手なアイドルに本当の輝きは宿らない。けれど、他人の為に自身を犠牲にしてはいけない / アイドル自身が笑顔でなければならない――と。  

事実、本作を通してゆめたちはその「両立」を各々のやり方で成し遂げていき、それこそが彼女たちの大きなターニングポイントとなっていった。自分を支えてくれる人々の大切さを知り、アイドルとして大きく成長したゆめたちが、その上で「人」としての夢に手を伸ばし、情熱を燃やし、何度挫けても諦めないからこそ、その姿に私たちは魅了され、背中を押され、彼女たちを応援せずにはいられなくなる。  

そして、そんな「人間らしさ」という輝きこそが、ひめという絶対的なアイドルが唯一取り零していた忘れ物。この時、誰よりも「輝きたい衝動に素直でいよう」というメッセージを受け取らなければならなかったのは他ならぬ「ひめ自身」であり、彼女を象徴する歌=『スタートライン!』こそが、皮肉にも白鳥ひめを “偶像” から解き放つに最も相応しい歌だったのだ。

敗北後も、勝者となったゆめを「おめでとう、ゆめちゃん!」と迷いなく抱き締めたり、エルザからの誘いを笑顔で躱したりと相変わらずの底知れなさを見せていたひめ。しかし、もし彼女の中で密かに「越えるべき目標」が生まれていたのなら、ゆめの存在がひめにとっての新たな「原点 (スタートライン) 」となっていたのなら、それはこの上なく『アイカツスターズ!』最後の戦いに相応しい結末ではないだろうか。

 

 

桜庭ローラの “忘れ物”

 

月のドレスを手にしたひめと、自身の「忘れ物」を思い出したゆめによる最高のステージ。その眩しい輝きに照らされて、ローラもまた自らの「忘れ物」に辿り着いていた。

 

「ホントだ……。ゆめ、ワクワクして、大事なこと……思い出したよ。凄く、凄く面白いじゃないっ!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

ゆめに「忘れ物を一緒に探しに行かないか」と持ちかけるも、自分自身は一向に「忘れ物」に辿り着けていなかったローラ。 

前述の通り、自分は「ステージでの再戦」こそが2人の忘れ物だろうと思っていたので、ゆめの忘れ物が明かされる一方で「じゃあ、ローラの忘れ物って何なんだ……?」と首を傾げずにはいられなかった。が、その回答はステージ後、他ならぬローラ自身の口から明かされることになる。

 

「見付けたよ」
「えっ?」
「私の忘れ物。伝え忘れてた、私の気持ち。……おめでとうーーっ! ゆめーーーっ!!」
「!」
「間違いなく、一番星だーーーーっ!! ……だけど、次に勝つのは私。私の原点は、ゆめだから」 

 

「一人じゃ、きっとここまで来れなかった。近くでゆめが走り続けてくれたから、“どんなに悔しくても、自分に負けない” って、“また次に向かって頑張ろう” って、そう思えた。私もずっと、一番になったゆめを越えたいって思ってきたから……今、ワクワクが止まんないよ! もっともっと凄い自分になって戻ってくるから……! 未来の私は、絶対負けない!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

ローラの忘れ物=「伝え忘れていた気持ち」とは、この台詞のどこかの部分ではなく、一連の言葉全てなのだろうと思う。 

ゆめへの「おめでとう」は第96話でも伝えていたけれど、ここでの「おめでとう」「間違いなく一番星だ」は少し意味合いが異なるもの。それは文字通りの祝福であると同時に、ローラ自身の「私の負けだよ」という敗北宣言。ライバルであるゆめが、自分よりもずっと高いステージに登ってしまったことを認める叫びであり、その意味合いを察しているからこそ、この時のゆめはどこか複雑そうな表情を浮かべていたのかもしれない。 

けれど、それをローラが思い切り口に出し、その上で心からの笑顔を浮かべられたのは、きっと「ゆめがひめを越える姿」を目にできたから。相手がどんなに眩しい星であっても、それは “絶対の一番星” じゃない。そのことを自分自身の目で確かめられたからこそ、ローラは「ゆめに勝ちたい」という情熱=自分のアイカツの原点がゆめであると思い出すことができた。奇しくも、ゆめとローラの忘れ物とは「あの星を越えたい」という同じ想いだったのだ。

 

「ゆめに、休む暇なんてあげないんだからね」
「……うんっ、私だって!」

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「「 痛ったぁぁ~~~っ!」」
「あ~、スッキリしたっ! これで私も、新しいスタートラインに立てるよ。次はふたりで勝負ね!」
「約束だよ、ローラ!」
「お互いの、全てを懸けて……!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より

 

夕景で向かい合うゆめとローラ。この構図はおそらく『劇場版アイカツスターズ!』のオマージュなのだろうけれど、2人はあの時のように額を重ねることもせず、「一緒に歌いたい」と望むこともしない。それぞれに進むべき道があり、それぞれの「叶えたい夢」がある2人は、もうずっと一緒にはいられない。 

だからこそ、ここでローラが告げるべきは永遠のライバル宣言。居場所こそ離れてしまうけれど、それでも自分の中にはずっとゆめがいる。そして、ゆめにも自分をずっと忘れさせない。それは、今の彼女に伝えられる最大の「ありがとう」であり「大好き」のメッセージ。  

そんなローラの気持ちを受け取ったからこそ、ゆめもここでようやく満面の笑顔を浮かべられた。向き合う2人の画は、構図こそ『劇場版アイカツスターズ!』とは似て非なる (ゆめの方が “上” にいる) ものだけれど、その笑顔はあの時――まだ現実の残酷さや世界の広さを知らなかったあの頃同様に、あるいはそれ以上に晴れ晴れとしたもの。そんな2人が「額をぶつけ合い、その上でお互いの肩を寄り添わせる」姿は、本作が描いてきた絆の在り方そのものであると同時に、『アイカツスターズ!』という作品における、ある種の「トゥルーエンド」に思えてならない。

 

 

桜庭ローラと『アイカツスターズ!

 

アイカツスターズ!』という作品の好きなところは数あれど、この作品がここまで「響く」ものになった最大の理由は何かと訊かれれば、それは間違いなく彼女=桜庭ローラの存在だ。 

「勝負」がテーマの作品とはいえ、ターゲット層からして本作はあくまで明るく真っ直ぐなサクセスストーリー……と、そんな予想を覆すかのように、ローラはゆめに敗北し、また敗北し、そのドン底で「答え」を見付けて這い上がってみせた。結果、彼女はS4決定戦でゆめへのリベンジを果たすことこそ叶わなかったけれど、勝ち負け以上に大切なこと=「自分らしく輝くことができれば、誰もが誰かの “一番星” になれる」ことを知り、スパイスコードのミューズを継承し、S4さえも越えて星のツバサを獲得。遂にはその歌で世界への道を切り拓いてみせた。 

主人公=ゆめのライバルという「敗北が運命付けられた」キャラクターであるローラだからこそ紡ぎ出せた、この生々しく / 泥臭く / 切なく、そして情熱的な物語。その (ひとまずの) エンドマークを飾った彼女の「心からの笑顔」には、きっと自分だけでなく、当時から数多くの視聴者が救われたのだろうと思う。 

 

 

人間、誰しも失敗や敗北は怖いもの。勇気を出して踏み出しても勝ち残れるのはほんの一握りだし、それなら最初から踏み出さなければいい――と、そんな選択をしてしまう「閉じた人間」である自分にとって、何度負けても諦めずに立ち上がり、勝ち負けを越えた「かけがえのないもの」を手に入れていくローラの姿はまるで篝火のよう。だからこそ、第86話『涙の数だけ』でローラが出会ったマラソンランナー=前川綾乃の「彼女の歌にいつも励まされています」という言葉は、自分自身の思いが『アイカツスターズ!』作中で代弁された瞬間でもあった。ローラの苦痛や葛藤、そこからの克己がいずれも「ホンモノ」だったからこそ、自分はこの作品をフィクションと割り切らずに見ることができたし、そんな彼女がいたからこそ、自分はこの作品にのめり込み「自分も頑張ってみたい、本気で夢に向かってみたい」と思うことができたのだ。  

そして、「勝負」というテーマを残酷なくらい真摯に描いた本作が、それでも「爽やかで前向きな作品」という根幹を貫くことができたのもまた、勝負の “負の側面” を背負ったローラの物語が深く描かれ「競うことは争うこととは違う」と示されてきたから。きっと、彼女なしでは『アイカツスターズ!』は成立しないのだろうし、『アイカツスターズ!』以外の作品において、桜庭ローラという存在が生まれることはないのだろう。  

なればこそ、桜庭ローラとはこの作品における正真正銘の「もう一人の主人公」。実質的な最終回と言える第99話の主役が「ゆめとローラ」であったことが、その何よりの証明になっていたと言えるのではないだろうか。

 

……しかし、本当にローラが『アイカツスターズ!』の主人公であるなら、彼女がもう一人の主人公=ゆめに「負けた」状態で終わって良いはずがない。

 

 

第100話『まだ見ぬ未来へ☆』ラストシーンで前触れもなく現れた謎のコーデ。後追い勢かつデータカードダスの情報をほぼ仕入れていない自分にとって、文字通りの幻覚か何かにしか見えなかったそのドレスの正体は、なんと「火星の “太陽のドレス” 」ことエターナルスパイスコーデだった。  

振り返ってみれば、『劇場版アイカツスターズ!』におけるゆめの妄想シーンでしかS4服に袖を通せなかったローラ。そんな彼女が最後の最後で太陽のドレスを纏い、ゆめと文字通り「並び立って」みせたのは、ゆめ&ローラというW主人公に対する最大のリスペクトであると同時に、「作品としては2人のライバル関係に一区切りを付けなければならないけれど、『アイカツスターズ!』のフィナーレは、そうした “閉じた” ものではなく “未来に開かれた” ものでなければならない」……という、作品としての「矜持」そのものだったようにも思う。  

そんなラストシーンのサプライズを含めて、こちらの予想を遥かに越える「最上」を次々に見せてくれた第100話。その内容は、自分にとっても一区切りとなる次回=『アイカツスターズ!』最後の感想記事で向き合っていきたい。

 

 

「この2年間、いろんなことがあったよね」
「私たちのアイカツは、未来へ進んでいく!」
「これは、さよならじゃなくて……!」
「次回、アイカツスターズ!『まだ見ぬ未来へ☆』掴め、アイドル一番星!」

-「アイカツスターズ!」 第99話『ふたりの忘れ物』より