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ウルトラシリーズとアイカツ!シリーズ、他特撮・アニメが中心の長文感想ブログ。

総括感想『ウルトラマンアーク』- 想像に "現実を変える力" はあるか? 新体制の挑戦作が描いた「想像力」とは何だったのか

2025年1月18日。ウルトラシリーズの最新TV作品『ウルトラマンアーク』が最終回を迎えた。

 

 

一見すると堅実・無難なようで、その実「田口清隆・坂本浩一両監督を欠いた状態で作られる、過去作の要素が絡まない完全単独作品」という、前作『ブレーザー』とは異なる意味合いで今後のシリーズを左右する作品だった『アーク』。 

この半年間、自分はその動向や反響をシリーズファンとして毎週ハラハラしながら見守っていたのだけれど、その結果は「良い方向にも悪い方向にも大いに盛り上がる」という何とも歯がゆいもの。今回の記事では、そんな本作の魅力・賛否両論点を大きく三つの視点から総復習。筆者の個人的な感想も交えつつ、『アーク』が半年に渡って描き続けた「想像力」の意味について考えていきたい。

 

※以下、作品に肯定的な内容/批判的な内容や、ウルトラシリーズ各作品のネタバレが含まれます。ご注意ください!※

 


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引用:「ウルトラマンアーク」最終話、意外だったシュウの行動 戸塚有輝&金田昇が明かすクライマックス秘話【ネタバレあり】 - シネマトゥデイ

《目次》

 

 

はじめに ~『アーク』前夜

 

ウルトラマンアーク』は、2024年7月に放送を開始したウルトラシリーズの最新TV作品。(一部怪獣を除き) 過去作品の要素が絡まない点では前作『ブレーザー』と同じだが、田口清隆監督のネームバリューや新規怪獣を大量投入するプロモーションによって「お祭り騒ぎ」状態だったブレーザーに比べると、『アーク』に対する世間的な盛り上がりはやや弱かった印象だ。 

一方、自分や周囲のシリーズファンは、本作のある要素=「メイン監督:辻本貴則」という一文にそれはもう盛大に盛り上がっていた。

 

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辻本貴則監督 (辻は一点しんにょう)といえば、『X』のガーゴルゴン前後編でシリーズに初参加、『R/B』以降レギュラー登板となったニュージェネお馴染みの監督。自分の中では『R/B』『デッカー』でメインを務められた武居正能監督と並んで、次世代のウルトラを担うであろう「未来の看板監督」という認識の方だった。 

そんな辻本監督が、朋友・継田淳氏と共にウルトラマンを創る。シリーズファンにとってそれは紛れもないビッグニュースだったし、スタッフに田口清隆・坂本浩一両氏の名前がないことも、田口監督か坂本監督がいなければ今のウルトラマンは立ち行かないという言説、所謂「田口・坂本神話」からの脱却を願っている身としては (もちろん、残念な気持ちは大いにあったけれど) 非常に大きなトピックだった。 

設定面を見ても、『Z』以降再びレギュラー設定となっていた「主人公が所属する防衛隊」が廃されていたり、ウルトラマンアークが「人間の想像力から生まれたウルトラマン」というグリッドマンを思わせる特異な出自を持っていたりと、本作は一見堅実・無難なようで、その実「これはかなり思いきった挑戦なのでは?」と思わせてくれる要素が目白押し。事前に解禁されている情報が少なかったこともあって、一体どんなウルトラマンが観れるのだろうとあれこれ期待を膨らませつつ、放送開始のその日を心待ちにしていた。 

では、いざ放送開始となった『アーク』がどのような作品であったのか。その魅力を「空想特撮作品として(世界観・映像)」「商業作品として(玩具展開・販促)」「物語作品として(文芸・テーマ)という三つの視点から分析してみたい。 

 

 

「空想特撮作品」としてのアーク

 

帰ってきたウルトラマンと「SKIP」という発明〉

 

初報においても話題となっていた通り、本作はタイトルバックの処理やフォント、ファイティングポーズなど至るところに『帰ってきたウルトラマン』のオマージュが散りばめられている。その一環なのか、本作はその「空想特撮作品」としての手触りもどこか『帰りマン』に近しいもの。

 

 

近未来が舞台の怪獣映画/SFサスペンスとして作られていた『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に対し、『帰ってきたウルトラマン』は1971年当時の世相を色濃く反映した「怪獣がいる世界のスポ根・ホームドラマ」とでも呼ぶべき作品。ある種の泥臭ささえ感じさせるストイックな人情劇に、個性豊かな怪獣・宇宙人、そしてウルトラ兄弟の客演をはじめとするイベント性が加わることで生まれた、シリーズを代表するエンターテインメント作品だ。 

『アーク』に感じるのは、そんな帰りマンの「怪獣がいる世界のドラマ」感。人間ドラマに比重を置きつつ、2024年の世相が反映された星元市という街を舞台に、市井の人々の生活と隣り合わせの「怪獣災害」を描く――というこの構図は、なるほど確かに『帰りマン』を思わせるものと言えるかもしれない。 

(このことは、前作『ブレーザー』をウルトラマンウルトラセブンと重ねて置き換えると飲み込みやすい)

 

が、そうはいっても『帰りマン』……あるいは昭和第二期ウルトラシリーズの素朴かつ等身大な雰囲気は、現代にそのままお出しするには些かミスマッチ。そのことを踏まえて用意された (かもしれない) 『アーク』の画期的な設定が、本作のホームにあたる組織「SKIP」の存在だ。 

 

ウルトラシリーズには「防衛隊のジレンマ」というものがある。怪獣や宇宙人を取り扱う都合上、主人公が防衛隊縁の組織に所属している方が無理なく話を回せるけれど、組織としてのリアリティを突き詰めると、ウルトラシリーズの強みである「バラエティ感」を損なってしまう (自由なストーリー展開ができなくなってしまう) ……例を挙げるなら、主人公が防衛隊に所属していない『R/B』は話運びにやや無理が出てしまっていたけれど、逆に『ネクサス』ほど突き詰めるとウルトラシリーズの強みや「子ども向け」という側面を損なってしまう、というジレンマだ。 

主に昭和第二期ウルトラシリーズで見られた「市民の相談を受けて調査に出向く防衛隊」はちょうどこの折衷になっていたけれど、流石に現代のリアリティラインにはそぐわない。ニュージェネレーションシリーズで見られた「ヴィランの立ち回りで話を牽引する」というスタイルもあくまで飛び道具=何度も使えるものではなく、紆余曲折を経て従来のスタイルに立ち戻った近作では、この中間地点を探っていくことに細心の注意が払われていたように思う。 

(『ブレーザー』が『ファースト・ウェイブ』の路線を初回きりにしたのは、この点への配慮が大きかったのだろうと思われる)

 

して、そんな状況で生まれたのがSKIP。初めてその名前を見た時は「スキップ……?」と首を傾げてしまったのだけれど、いざ蓋を開けてみれば、彼らはこの問題における「最適解」とさえ言える大発明だった。

 

怪獣防災科学調査所・通称「SKIP (スキップ/Scientific Kaiju Investigation and Prevention center) 」。怪獣が出現した際の対応力としての『防衛隊』とは違い、地域に密着して怪獣災害の調査、予測、予防対策、事後対策等を専門とする国立研究開発法人。

引用:怪獣防災科学調査所 SKIP - 円谷ステーション

国立研究開発法人、というと何やら研究所のような雰囲気を感じてしまうけれど、SKIPはあくまで地球防衛隊の提携業者、ないし下請けのような組織。過去の例で言うなら『怪奇大作戦』のSRI (警察では対処しきれない案件に対し、独自の立場・視点から科学捜査を行う民間の研究組織) が最も近い存在と言えるかもしれない。 

そして、SKIPの最大の強みと言えるのが「地球防衛隊の提携業者、ないし下請けのような存在」というその微妙な立ち位置。これを武器に、SKIPはこれまでウルトラシリーズが幾度となく受けてきたツッコミ=「それって防衛隊のやることじゃないのでは」を悉く完封してみせたのである。

 

 

古代遺跡らしき謎の物体の調査、下町のお悩み相談、一般研究者との共同調査、無線を嗜む一般市民への聞き取り調査、果ては怪獣という名のAI捕獲作戦……。防衛隊というお役所であれば稟議や協議が必要なものも、本来なら「民事」の範疇に括られてしまう困り事も、SKIPであればむしろ前のめりに取り組める。かといって「その分リアリティラインが落ちているか」というとそんなことはなく、SKIP内ではむしろひっきりなしに専門用語が飛び交い、大がかりな機材が必要な時には、防衛隊とのパイプ役=石堂シュウが活躍してくれる。SKIPとは、防衛隊のジレンマを綺麗にかいくぐりつつ「令和に求められるリアリティ」で自由な物語を出力できる、ニュージェネレーションシリーズ……ひいては、ウルトラシリーズにおける歴史的な発明だったように思うのだ。 

(SKIPという存在は『オーブ』のSSPや『タイガ』のE.G.I.S.など、様々な非防衛隊チームの積み重ねがあって初めて生まれたものだということはここではっきりと書き残しておきたい)

 

SKIP-出動(UA_M-20)

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  • provided courtesy of iTunes

 

〈『アーク』各監督総評〉

 

本作のテーマは「想像力」。円谷プロダクションの永遠のテーマであり、近年は「空想の力」というフレーズで前面に押し出されているそれを番組のテーマとして掲げることには期待も不安もあったけれど、『アーク』はその大看板に恥じないものを映像・文芸の双方で示してくれたように思う。 

文芸の面には後ほど触れるとして、ここでは本作の映像を手がけた監督陣――田口・坂本両監督不在の中、このプレッシャーを乗り越えた皆さんの活躍をおさらいしていきたい。

 

 

『X』でシリーズ初参加、『R/B』からはシリーズのレギュラーとなり「ミニチュア特撮へのこだわり」と「ケレン味溢れるアニメ的演出」の両立てで注目を集めた辻本貴則監督。近年は『デッカー』第23話におけるカナタ・アガムスの対話シーンなどドラマパートにおいても優れた演出力を発揮されており、各方面に隙のない「メイン監督の器」……だったので、今回のメイン抜擢には思わずガッツポーズ。自分『ラストゲーム』や『さすらいのザンギル』が大好きなんですよ……!

 

 

これまでも『Z』『ブレーザー』で「田口監督がとんでもないものをお出しした後をバッチリ引き継ぐ」という流れを見せてくれたように、辻本監督は『ブレーザー』の次回作という高いハードルを初回からしっかりと飛び越えてくれた。衝撃的な「三分間ワンカット戦闘」はもちろん、第3話『想像力を解き放て!』においては、ディゲロスの爆破シーンでカポック人形を採用。近年でも、人形爆破それ自体は『トリガー』第1話などで使われていたけれど、このディゲロス爆破は「スーツから人形への切り替わりポイントが全く分からない」という点で一線を画するもの。 

辻本監督は、みんな大好きアークトリッキーテクニック (首を傾げて想像力を発揮、バリアを割り始めたりするあの一連の技名) の産みの親。前作のスパイラルバレード大喜利を発展・継承し、作品のテーマとも紐付いて最終回まで大活躍だったトリッキーテクニックは自分も大好きだし、第3話の「アークファイナライズをムチにしてバリアの盲点からディゲロスを貫く」という、まさに意表を突かれるフィニッシュには思わず拍手してしまったのだけれど、自分が最も感動したのは件の人形爆破。「現実と作り物の見分けが付かない」この瞬間はまさに特撮の真骨頂で、アナログ特撮の魅力を追究し続けてきた辻本監督の集大成であるようにも思うのだ。

 

 

ブレーザー』第11話の告知を最後に、ご自身のX (旧:Twitter) の更新がない武居正能監督は『アーク』では第4・5・6・11・12・18・19話を担当。 

ギヴァス前後編の夕・夜景や、そして『トリガー』第2話以来久々となる水中戦など、他の監督陣とは異なる方向から特撮の面白さを探求する姿勢は本作でも健在。しかし、本作における武居監督最大の見せ場として挙げたいのは、第6話『あけぼの荘へようこそ』と第19話『超える想い』の二編。

 

 

武居監督の真骨頂といえば『R/B』第2話や『ブレーザー』第12話などにも顕著だった情感たっぷりのドラマ演出。第6話のクロコ星人の回想シーン、特に「あけぼの荘で働く日々」→「故郷を想って沈む彼を支える女将」の 一連は画作りも相まって作中屈指の涙を誘われるシーンになっていたし、様々な事情からゲントたちを出せなかったのであろう第19話において、それでもウルトラマンブレーザーが「ヒルマ ゲントのブレーザー」だと示す手段として「左手を差し出して力を渡す」という見せ方をしてくれたことには (ヒーロー共闘としての物足りなさに思うところはあるけれど) ブレーザー』ファンとして大いに感謝……!

 

 

『アーク』で越知靖監督が担当されたのは、第7話 (ルーナアーマー初登場) 、第8話 (インターネット・カネゴン) 、ザンギル前後編、第22話 (白い仮面の男) 、第23話 (トリゲロス) と凄まじいラインナップ。初監督が『タイガ』第13話であることを含めると凄まじい躍進ぶりなのだけれど、実際問題、坂本監督が不参加かつ辻本監督がメインに集中されていた本作においては、越監督の「ド派手担当」ぶりがこれまで以上に欠かせないものになっていた。第17話『斬鬼流星剣』での三アーマー無双を何度もリピートしてしまったのは自分だけではないはず……!

 

 

越監督最大の強みは、特撮に限らずアニメ・舞台など様々な作品からインスパイアを受け、それを実写特撮に落とし込む天井知らずの熱量。『Z』第17話や『ブレーザー』第10話など、その熱量がたたって事故を起こしてしまうこともあったけれど、『アーク』ではそんなこともなく、越監督の想像力が如何なく発揮されていた印象だ。 

とりわけ、第22話『白い仮面の男』における「色」で想像力の喪失・奪還を示す演出は『ブレーザー』第9話『オトノホシ』の発展・継承も感じさせる越監督の真骨頂。自由な発想で「雰囲気」を練り上げる手腕には特筆すべきものがあるし、そろそろメイン監督に登用されてもおかしくなさそうな頃合いだけれど、果たして……?

 

 

トリッキーテクニックをはじめ各監督が様々な試みを行われていた『アーク』だけれど、一方では「監督の体制」そのものについても大きな改革が行われていた。それが、実に『Z』以来となる監督・特技監督分業制の復活だ。

 

 

内田直之監督は、『Z』~『デッカー』の総集編枠 (第13話) を監督され、今回遂に本編デビューと相成った若手監督で、あおりや俯瞰の多用、ミニチュアの撮り方によってセットを広く見せるこだわりが印象的なほか、第10話『遠くの君へ』ではアークとノイズラーの戦闘をほぼ全て空中戦で描いたり、第21話『夢咲き鳥』ではアトラクション用のため口が開かないキングオブモンスを「画面外にいる時やミニチュアセットなどで口が隠れている時などに限り鳴き声を鳴らす」という手法でカバーしたりと、「爪痕を残そう」という気概とそれに見合った実力を兼ね備えたニューホープ。 

そんな内田監督は、今回なんと「特技監督」という肩書きでの参加。ドラマ・特撮で監督を分ける体制は、ニュージェネレーションシリーズでは『タイガ』の第7・8話、『Z』の第9・10話でしか行われていないレアケース。それを久々に復活させた理由は「本編監督」の顔ぶれを見れば明らかだろう。

 

 

第9・10話の本編を担当された湯浅弘章監督は、主にテレビドラマを舞台に活躍されているため、特撮パートまで監督するには高いハードルがある状況。これをカバーする方法として分業制が復活したのだと考えれば合点がいくし、事実、湯浅監督が撮影された二編――特に、第9話『さよなら、リン』については、子ども向けでは明言できないギリギリのラインを「演技で語る」という非常にストイックな作劇が試みられており、ドラマの撮影経験が豊富な氏の手腕、そして「分業制」の強みが如何なく発揮された傑作だった。 

(湯浅監督が本作に参加されたのは、おそらく辻本監督も参加された『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』の縁によるもの。辻本監督がメインでなくなっても、どうか今後も分業制を活かしてウルトラへの参加を続けてほしい……!)

 

 

第20・21話を監督されたのは、今回がウルトラ監督デビューとなる秋武裕介監督。こちらは湯浅監督とは違い監督デビューしたての若手ホープで、分業制が用いられたのは「特撮パートのクオリティを担保することで、本編パートを新人発掘の登竜門とする」ことが理由だろうか。 

しかし、秋武監督の画には既に「技」を感じるものが多く、特に第21話『夢咲き鳥』の「冒頭では “上がる途中” でカットが割られる階段を、ラストでは “画面外に上がりきる” 場面で締める」ラストシーンには目を見張るものがあった。X (旧:Twitter) への投稿や実相寺監督の演出を思わせる色使いからも熱心なウルトラファンであることは明らか。是非今後もウルトラへ参加していただきたいし、このような分業制を活かした新規開拓が今後も恒例となってくれますように……!

 

 

『アーク』の玩具展開とその販促

 

〈玩具展開の縮小と物価の壁〉

 

『アーク』の玩具展開について考えるには、何よりもまず「展開規模の縮小」について触れなければならない。論より証拠、ということで、直近二作品と『アーク』で一般販売された中~大型玩具は以下の通り。

 

ウルトラマンデッカー】
・DXウルトラディーフラッシャー
・DXガッツホーク
・DXウルトラデュアルソード
・DXテラフェイザー
・DXデッカーシールドカリバー
ウルトラ怪獣DX マザースフィアザウルス
・ウルトラディメンションカードセット (8種) 

ウルトラマンブレーザー
・DXブレーザーブレス
ウルトラ怪獣アドバンス バザンガ
・DXアースガロン
ウルトラ怪獣アドバンス タガヌラー
ウルトラ怪獣アドバンス ニジカガチ
ウルトラ怪獣DX ゲバルガ
・DXチルソナイトソード
ウルトラマンブレーザー大決戦セット
・DXファードラン
ウルトラ怪獣アドバンス ヴァラロン
ブレーザーストーンセット (7種) 

ウルトラマンアーク】
・DXアークアライザー
・DXアークアイソード
ウルトラ怪獣アドバンス ディゲロス
ウルトラ怪獣アドバンス ギヴァス
・DXアークギャラクサ
・アークキューブ (4種)

このように、前提として『アーク』は中~大型玩具の展開が少ない。ならばソフビ人形やウルトラアクションフィギュアが多いか、と言われるとそういうわけでもなく、単純に展開規模が縮小しているのである。 

元々、『トリガー』→『デッカー』→『ブレーザー』とシリーズの玩具展開規模には波があり、アークはトリガー後のデッカーに相当=ブレーザーより展開が小さいのは既定路線だったのかもしれないけれど、それは『デッカー』よりも規模が小さい理由の説明にはならない。一体なぜ『アーク』の玩具展開はここまで縮小してしまったのだろうか。 

一見すると、それは「DX玩具にレジェンドヒーローをラインナップしなくなった」ことによる影響=レジェンドヒーローからの完全脱却、という挑戦のようだけれど、そもそもレジェンドヒーローをDX枠でラインナップするのは「ディメンションカードやブレーザーストーンは単価が安いため、レジェンドヒーローでかさ増しする必要があったから」でしかなく、キューブ同様に単価が高いガッツハイパーキーでは作中に登場するゼット・リブットしかDX枠での一般販売は行われなかった。 

では、この展開縮小の理由とは一体何なのか。根拠として真っ先に考えられるのは、やはり「物価高騰」だろう。

 

 

『ギンガ』に合わせて税抜500円の新価格帯に生まれ変わったウルトラソフビシリーズは (玩具が付属したものを除くと) 、『X』で一部が600円、『オーブ』で一律600円、『デッカー』で一律700円に値上がりし、『アーク』ではアーマーを装着したアークや一部の怪獣ソフビが800円 (ギルバグのみ900円) に値上がりとなった。今後発売予定の怪獣ソフビは800円がスタンダードになっているため、おそらく今年か来年にはヒーロー・怪獣ともに800円がソフビの基本価格になると思われるけれど、「リニューアル以前の価格に戻ってしまった」と考えると、物価高騰の脅威が身に染みる……。 

またソフビ以外にも、ガッツハイパーキーとほぼ同じ仕様のアークキューブが1.5倍高額な「税抜1500円」に設定されているなど、この時点で『アーク』の玩具展開におけるハードルが高かったのは想像に難くない。しかし、だからといって「単に点数を少なくする」だけでは当然売上が下がるだけ。展開を縮小する一方で、本作の玩具にはある戦略が施されていた。それが「プレイバリューの拡大」である。

 

 

〈 (ある意味では) シリーズ最大のプレイバリュー〉

 

物価高騰に対する妥協案、あるいは精力的な玩具展開を行った前作との兼ね合いとして、玩具展開そのものは縮小傾向にあった『アーク』。となると、当然その「少ない玩具」をどう訴求するかが課題となってくるわけだけれど、本作が取った手段とはズバリ「徹底的なプレイバリューの拡大」であった。

 

 

まず一つ目はアークキューブ。キューブそれ自体はガッツハイパーキーとほぼ同じものであり、いくら『トリガー』から三年が経ちメイン購買層が入れ替わっているとはいえ、それだけでは訴求力に欠けるのも事実。そこで、このアークキューブにはウルトラシリーズ初の「全DX玩具と連動する」という高いプレイバリューが付与されていた。

 

 

ストリウムブレス、エクスラッガー、オーブカリバー、ジードクロー、ルーブコウリン、タイガトライブレード、ベリアロク、グリッターブレード、デッカーシールドカリバー、ファードランと、ニュージェネレーションシリーズのDX玩具には必ず「コレクションアイテムと連動しない」ものがあり、そういうものに限って最強形態のメイン武器というのがこれまでの通例になっていた。 

(この点を加味してか、サークルアームズやウルトラデュアルソードは最強形態の登場後も頻繁に使われていた)

 

これを踏まえて『アーク』を見てみると、なんと変身アイテム=アークアライザー、前半のメイン武器=アークアイソード、後半のメイン武器=アークギャラクサーが全てアークキューブに対応しており、しかもアークギャラクサーはアライザーともアイソードとも異なる「三連セットで音声が変わる」という、キューブを集めていれば集めているほど楽しくなる豪華仕様となっている。 

確かに、アークキューブはそれ単体で見ると「高くなったガッツハイパーキー」の域を出ないかもしれないが、全てのDX玩具と連動するというプレイバリューは唯一無二。点数を出せない状況をカバーするだけの、十分な訴求力を備えた玩具だったと言えるのではないだろうか。 

……ただ、このキューブ周辺玩具には、その拡大したプレイバリューを損なうある問題点もあった。その点は後述。

 

 

また、販促の強化という面ではウルトラ怪獣アドバンスにおいても特徴的な取り組みが行われていた。

 

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詳しくは上記の記事に譲るけれど、ウルトラ怪獣アドバンスとは「サイズアップ+アイテムごとに異なるプレイバリュー」が売りの新ソフビシリーズ。『ブレーザー』ではバザンガ、タガヌラー、ニジカガチ、ヴァラロンが発売されていたが、これらの販促として 

・バザンガ=V99の象徴として度々回想される 

・タガヌラー=第23話などで再登場し、味方怪獣めいた扱いに変化 (劇場版にも登場し、そちらでは普通に駆除される) 

・ニジカガチ=第17話で再登場 

と、作中で各々出番が増やされており、彼らが一過性の玩具となることに待ったをかけようとしていた。そんなブレーザー期の販売結果がどこまで反映されたのかは分からないけれど、『アーク』の怪獣アドバンスはこれらを更にブラッシュアップした販促が行われていた。 

・ディゲロス=トリゲロスという「別怪獣」として再登場 (ゼロゲロスとして劇場版にも登場) 

・ギヴァス=「ヒーロー」として再登場 

どちらも「やっていること」それ自体はブレーザー期のそれと変わらないが、「別怪獣」になるのも「ヒーロー」になるのも、単なる再登場とは意味合いが大きく異なる=それだけ購買意欲が掻き立てられるもの。それぞれの変化がストーリー上でしっかり意味を持っていた点も含めて、彼らの販促は非常に効果的かつ秀逸なものだったと言えるだろう。

 

 

〈玩具操作問題の終着点 -『アーク』のバンク演出〉

 

今しがた述べてきたことと真っ向から矛盾するのだけれど、『アーク』玩具、もといアークキューブとその連動玩具には「プレイバリューが低い」という欠点があった。確かに「キューブとアライザー、アイソード、ギャラクサーが連動する」という点は明確な優位点なのだけれど、その優位性を「音声面の弱さ」が大きく損なっているのである。

 

 

ガッツハイパーキーと連動するガッツスパークレンスとサークルアームズには「音声の掛け合い」というシステムが搭載されていた。ハイパーキーから鳴る「ゼペリオン!」という音声に、スパークレンスは「ブートアップ!」サークルアームズは「ソードフィニッシュ!」のように異なる音声が対応し、キーの数だけ様々な掛け合いが楽しめる……というものだ。同様のシステムがアークキューブにも搭載されているのだけれど、こちらは「音」のみであり「声」がない。この点において、アークキューブはガッツハイパーキーと比べて明確に劣っていると言えるだろう。 

この点に対し、アークアライザーはパズル的な要素、アークアイソードは複数色のリレー発光、ギャラクサーは複数キューブの組み合わせや振動センサー、のように各玩具が独自の強みを付与されていたが、それでも「声」という分かりやすいフックを失ったリスクをカバーしきれているかどうかは怪しいところ。 

例えば、アークアライザーのパズル要素は、ブレーザーブレスのアニメーションのように様々なパターンが用意されているわけでもないので飽きられやすく、アークアイソードはキューブに対応して掛け合いがあるが、前述の通り「音」だけのためキューブによる違いが分かりづらくアークギャラクサーにも似た問題が確認されている (声がないため、キューブの組み合わせで “何の技” が発動しているのかが分かりづらい) 。 

しかし、この明確なマイナスポイントについて作り手が自覚的でないはずがなく、『アーク』ではこれらをカバーし得る試みが行われていた。それが「作中での玩具演出」である。

 

 

『デッカー』までのニュージェネレーションシリーズにおいて、ウルトラマンのタイプチェンジや必殺技はウルトラマン内のイメージ空間=インナースペースで変身者自身がアイテムを操作して発動するのが定番となっていた。 

子どもが真似できるように、ウルトラヒーローは「玩具の操作手順」をしっかり見せなければならない。ニュージェネレーションシリーズの歴史は、その制約の上でどれだけカッコよさを演出できるか/どれだけ玩具操作をスタイリッシュに見せられるか、という挑戦の歴史でもあり、その結果、オーブカリバーやキングソード、グリッターブレードなど切れ味抜群の名バンクが数多く生まれることになった。 

しかし、どんなにスタイリッシュでも「素顔の人間がウルトラマンのアイテムを操作する」画から玩具感を消すのは事実上不可能に近く、そのことがウルトラシリーズの視聴層拡大を狙う円谷プロダクションにとっての「悩みの種」だったことは想像に難くない。その打開策としてか、前作『ブレーザー』ではストーンのセット時のみゲントの腕が映り、チルソナイトソードの操作はブレーザー自身が行うという新たな演出が試みられたが「腕だけ映る演出が不自然」「ウルトラマンがレバー操作を行うとかえって玩具感が強調される」など、それはそれで賛否両論を呼ぶことに。 

では、一体何が正解なのだろうか。この一見手の施しようがない「玩具操作問題」に対し、『アーク』はまず「変身後はウルトラマンに玩具操作を一任する」というアンサーを提示。それだけ聞くと、ブレーザーと同じ「ウルトラマンがレバーを操作するとかえって違和感が出る」問題に直面してしまいそうなものだけれど、ヒーローのアイテム操作が一概に「カッコ悪い」とは限らない。

 

 

別シリーズの話になってしまうのだけれど、分かりやすい例が仮面ライダーディケイド。ディケイドは、強化形態であるコンプリートフォームへの変身に「ケータッチ」というスマホ風のアイテムを用いるが、その変身シークエンスは「ディケイドが画面上のアイコンを順番にタッチしていく」というもので、端から見ると画面を覗き込んでゲームをしているようにしか見えないシュールな光景になっている。 

一方、ディケイドは普段の変身・フォームチェンジや必殺技の起動にもアイテム=カードと変身ベルト (ドライバー) を用いているが、それらがシュールに見えるかというとそんなことはない。それはおそらく「カードを構える→ノールックでベルトに装填する→大振りでドライバーを閉じる」という一連のシークエンスが、アイテム操作を「ポーズ」の一環として自然かつスタイリッシュに処理しているから。要するに、問題はアイテムの使用それ自体というよりも、玩具の仕様とその「見せ方」なのだ。 

仮面ライダーはあくまで「人」である上にメカニカルな見た目をしていることが多いため、ウルトラマンよりも「アイテム操作による違和感が少ない」というアドバンテージこそあるが、理屈自体はウルトラマンも変わらない。事実、アークは満遍なく工夫を凝らすことで、見事「玩具操作感」を打ち消したのである。

 

 

第一の工夫は「キューブのセットに手を用いない」こと。アライザーとギャラクサーにはアークの額から生成されるキューブが自動でセットされ、アイソードについては「宙に浮かぶキューブを剣のスロットでキャッチする」という非常にスタイリッシュなモーション (上記動画の2:15頃を参照) が取り入れられており、違和感の軽減を越えて見事「カッコ良さ」へと昇華させていた。

 

 

次に挙げられるのが「操作シークエンスの簡略化」。 

チルソナイトソードをはじめ、ウルトラマンの玩具には「レバー・ボタンの操作回数で必殺技が変わる」のような分岐操作が導入されていることが多い。これは十中八九プレイバリューの確保が目的なのだろうけれど、前述の通り『アーク』玩具は全てのDX玩具がアークキューブの認識機能を備えており、そのような分岐操作に頼らずともプレイバリューは十分。結果、アライザー・アイソード・ギャラクサーの操作シークエンスはいずれも「キューブをセットしてワンアクション」というシンプルなものに統一されている。 

これらは、メインターゲットである子どもの遊びやすさという点で優れているのはもちろん、ウルトラマンアークがアイテムを操作するにあたり「その手順をつぶさに見せる必要がない」ということにも繋がっており、ここに、前述の「キューブのセットに手を用いない」が加わることで、アークが行う手順は「アライザーを回す」or「トリガーを引く」という単純操作にまで絞られる。その上で、アライザーは回す動作を「ポーズ」にし、アイソード/ギャラクサーは「トリガー操作を演出上オミットする」という一手間を加えることで、アークは「インナースペースの完全廃止」と「玩具操作感の低減」という、一見不可能かと思われた目標を見事両立してみせたのである。 

尚、このアークのアイテム操作演出には「子どもが真似できない」という声も見られていたが、前述の通り「何をすれば変身/必殺技ができるか」というシークエンスについてはほぼ網羅できている上、「子どもが真似できないアイテム操作はするべきでない」というのであれば、天下無双の大人気+大ヒット作『仮面ライダーW』におけるドライバー間のメモリ転送なども「真似できない」ものに該当してしまう。 

また、今はバンダイから詳細な操作手順を解説する「BANDAI MANIA!」という子ども向けの解説動画も随時アップされており、このような状況下で尚「子どもが真似できるよう、ウルトラマンや変身者に玩具そのままの手順を再現させる」ことは、メリットよりも「ウルトラマンの視聴層拡大の妨げになる」というデメリットの方が大きいように感じられる。個人的には、『アーク』のこの方針が今後も継続される、あるいは更に発展していくことを祈るばかりだ。 

(議論の余地があるとすれば、それはむしろトリガー操作のオミットと “アークアライザーの絵柄を揃えるギミックは子どもには難しい+なりきり遊びを阻害するのではないか” という点だろう)

 

 

閑話休題 - アークの「スカされ」問題について

 

「空想特撮作品としてのアーク」「玩具とその販促」について振り返ってきたので、最後に本作の文芸・物語に触れていきたいのだけれど、そこに入る前に、本作が賛否両論となった最大の理由であろうもの=「スカされ」問題について整理しておきたい。

 

 

ウルトラマンZ』が第6位にランクインした2020年以降、ウルトラシリーズは毎年「ネット流行語大賞」にノミネートされてきたが、残念なことに『アーク』はノミネートに至らなかった。これはあくまで一つの指標でしかないし、ネットでバズるかどうかが作品の評価を決めるわけではないけれど、少なくとも「話題性」という点において『アーク』は『Z』~『ブレーザー』期にやや差を付けられてしまっていたように思う。 

その理由としては、第一に「キャッチーさ」があるだろう。ティガの真髄を継ぐと豪語したトリガー、そのトリガーの続編であるデッカー、異例尽くしだったブレーザー……と、『トリガー』以降の近作は、作品の大枠の段階で既にキャッチーなものばかりだった。しかし、肝心の『Z』については、ゼロの弟子という何とも言えない建前や、ジードからさほど間を置かずに投入されたベリアル要素のためか、放送前はさほど話題になっていなかった。話題になったのはあくまで「放送後」のことであり、『アーク』も放送後に話題になる可能性は十分にあったと言える。 

にもかかわらず、本作が話題性の面であまり振るわなかった、あまつさえ賛否両論に傾いてしまったのは、本作が「跳ねなかった」……もっと具体的に言うなら、跳ねそうな要素・場面が「スカされる」ことが多かったからかもしれない。自分が『アーク』を観ていて感じた、あるいは「スカされた」という感想がSNSなどで上がっていたものについて、一つ一つ整理していきたい。

 

① アークの「アーマー」設定

 

ウルトラマンアークは、エックス以来約十年ぶりとなる「複数のアーマーを纏う」ウルトラマン。アーマーは個別にスーツを作る必要がないことから製作が比較的容易であり、結果全22話+劇場版という短尺だった『X』においては、ゴモラエレキングベムスターゼットン、ベータスパークと五つものアーマーが登場、ステージ限定のアーマーも含め、非常に多くのアーマーが活躍することになった。 

それを踏まえての『アーク』であり、更にモチーフは惑星。ステージ限定の土星アーマー=サトゥルーアーマーの登場が早い段階で告知されていたこともあり、自分は「ほとんど形態変化がなかったブレーザーとの差別化として、多彩なアーマーチェンジをウリにしていくのだろうな」とばかり思っていた――のだけれど、蓋を開けてみればアークのアーマーチェンジは本編内では三種類。その活躍含め、デッカー以前のタイプチェンジとさほど変わらないな……という印象は拭えなかった。

 

(アーマー設定は、現在人気を博しているウルトラアクションフィギュアとは相性抜群で、だからこそ殊更積極的に展開してほしかった……という思いもある。しかし、そうなると高価格玩具であるキューブを大量に出さなければならないという問題もあり、この点が待ったをかけてしまったのかもしれない)

 

②「想像力」で生まれたウルトラマン

 

ウルトラマンアークは、宇宙人・ルティオンがユウマのイメージする「さいきょうのヒーロー」を依代にして生まれたウルトラマンであり、変身アイテムや武器、アーマーも、そのほぼ全てがユウマの絵をベースに生まれたもの。このロマン溢れるキャッチ―な設定は、しかし「テーマに関わりこそすれ、それそのものが物語にうねりを与えることはない」もの=所謂「フレーバー」の域を出ない要素だった。唯一、ルーナアーマーについては第7話『満月の応え』において「母の教えを想って描いたヒーローの形」というエモーショナルな文脈が用意されていたし、この点がもっと掘り下げられていれば、ギャラクシーアーマー初登場時の「スケッチブックに新たなページが追加される」演出がより美味しいものになったのでは……と、そんなたらればをいつまでも考えてしまう。

 

(ルーナアーマーが母親の想いに応えたものだったのに対し、ソリスアーマーは父親と特段の関係があるわけではなかった。ユウマがこれを描くに至ったエピソードは「ある」のだろうし、父親の存在が大きなものだったためなまじ序盤の強化形態であるソリスアーマーとは絡ませられなかったのかもしれないけれど、結果的にソリスアーマーの登場が無難な形に収まってしまったのは否めない)

 

③『帰ってきたウルトラマン』要素

 

前述の通り、やたらと『帰ってきたウルトラマン』要素が詰め込まれた本作。辻本監督は「特に意識していない」と言っていたけれど、ウルトラマンジャックウルトラ兄弟の中でピックアップされる機会が少ないこと、レグロスやゼットなど、ウルトラ兄弟に縁のある次世代ヒーローが近年続々と生まれていることから、「ストーリーに大きく関わることはないのだろう」とは思いつつも、客演回、ないし何らかの関わり (ユウマがアークを描いたイメージ元がウルトラマンジャックであることがほのめかされる、など) くらいはあってくれないかな……と内心祈り続けていたが、蓋を開けてみれば本当に何もなかった。勝手に期待しただけと言われたらそれまでだけど、『Z』後のエースの人気を見ると『帰りマン』のファンとしては期待せずにはいられなかったのだ。悔しい……。

 

(結果、ニュージェネレーションシリーズのTV本編においてジャックが取り上げられたのは依然この回のみ。辻本監督が手がけた第22話だけならともかく、武居監督までジャックをピックアップする『タイガ』の帰りマン優遇は本当に何事だったのだろう……?)

 

④ ギャラクシーアーマーキューブの誕生経緯

 

ルティオンたちにとっての太陽=恒星ソニアの崩壊から逃れるため、ゼ・ズーという指導者が「ゼ・ズーゲートによって余剰エネルギーを放出する」という計画を実行。偶然その放出先の一つにあった惑星=地球を守るために、ルティオンはゼ・ズーゲートを封印。地球に大きな影響を与えるその存在は、地球防衛隊によって「オニキス」と名付けられた――というのがオニキスの正体。これを解放し、作戦を強行しようとするゼ・ズーやその配下・スイードとの戦いが本作後半のメインストーリーとなるのだけれど、このオニキス問題を一旦解決した第15話の展開が、自分はどうにも引っかかってしまっていた。

 

 

第15話『さまよえる未来』では、スイードが操る宇宙獣・ザディーメによってオニキスの封印が解かれかかってしまうが、遅かれ早かれオニキスの解放は避けられないもの。生半可な強敵怪獣よりも遥かに厄介なこの問題を前にユウマも一度は折れかけるが、彼はアークの想いを受け止めることで再起。解放寸前のオニキスを前に、ユウマが「想像力を解き放て!」と叫んだ時にはこちらのテンションも最高潮で、アークが想像力を解き放つ瞬間を固唾を呑んで見守っていた……のだけれど、何を思ったかアークは単身オニキスに突撃、自ら封印を破ると、煙の中から現れたアークはギャラクシーアーマーの力を手にしていて――。 

な、なるほど!アークはオニキスをギャラクシーアーマーに変えたのかァ~! とは、ならなかった。理由は簡単、そうなる理屈が全く分からないからだ。

 

 

この時点で示されていた/推測が可能だったキューブの出自は二つ。一つは「ルティオンたちが持っている “エネルギーをキューブ状にする能力” 」によるもの。これはまさにゼ・ズーゲートをオニキスとして封印したのと同じ手順だが、その封印が解けようとしているのが問題なので「オニキスをギャラクシーアーマーキューブに変換できた理由」とするには不自然だ。 

もう一つは「ユウマの想像力」から生まれたもの。ルティオンがユウマの想像力で再生したからなのか、ウルトラマンアークはユウマの想像を元にエネルギーを形作る能力を備えている。この力とルティオンが本来持っていた力が溶け合った結果生まれたのがアークキューブなのだろうけれど、ギャラクシーアーマーキューブはそのような「内側から出力した」ものではないので今回は無関係だ。 

これらのことから、ギャラクシーアーマーキューブの出自は「なんかよく分からんけど想像力を解き放ったら生まれた」ということになってしまう。想像力ってすげー!と片付けられたら良いのだけれど、自分の場合はどうにも納得することができなかった。 

というのも、それまでの『アーク』においては、想像力こそが苦難を乗り越える「鍵」として描かれてきた。ディゲロスには「光線を鞭にして死角から攻撃する」という発想がなければ勝てなかったし、「かもしれない」という可能性から目を背けていたら、リヴィジラの発見やギヴァスとの対話は成し得なかった。想像力は、常に "力だけでは解決できない" 問題に対する切り札だったのだ。 

一方、オニキスのキューブ化はこれらとは根本的に違う。あの事態を打開できた鍵とは「オニキスをキューブ化する」という閃きよりも、むしろそれを可能にしたルティオンの超パワー。なにせ、そんな力があるなら最初からオニキスをどうするかで悩む必要なんてなかったし、そもそも「ルティオンの力ではオニキスを御しきれない」から問題だったのに、回答が「ルティオンの力でオニキスを御しました」では筋が通らない。一番知りたいのは「HOW」なのに、それが丸々抜けてしまっていては納得も何もあったものではないだろう。 

だから想像してくれ、という話なのかもしれないけれど、お出しされた映像だけでは「想像力がこの解決に "どう" 働いたのか」が全く分からないし、ユウマとルティオンが改めて心を一つにして最強の力を手に入れる、という熱いシチュエーションがこうも「前のめりに考えないと咀嚼できない」ものになっていては、せっかく盛り上がったテンションに急ブレーキがかけられてしまう=ギャラクシーアーマーの初陣を心行くまで楽しむことができないし、テーマ以前にヒーロードラマとしてどうなのかと首を傾げてしまう。加えて、考えたら考えたで結果が「知恵の輪が解けなかったのでハンマーで壊しました」も同然の、想像力以上にパワーがモノを言う盤外戦術ではどうあってもモヤモヤが勝ってしまうというもの。この点に関しては、今後もインタビューなどを追って真相を確かめていきたい。

 

(後の展開も踏まえてか、第15話では「オニキスがどうなったのか」が明言されることはなかったため、もしや何らかのトリックが……? と期待したがそんなこともなかった。一時は「ゲートが壊れ、飛び出したエネルギーをキューブに変換した」のかとも思ったけれど後の展開を見るにそういうわけでもなく、考えれば考えるほど泥沼だった。想像力が足りていないのだろうか……)

 

⑤ 「ブレーザー客演編」問題

 

「第16話から第19話が、一ヶ月かけての “ブレーザー編” になる」という触れ込みを見た時の興奮たるや凄まじかった。本編はもちろん、舞台作品でさえ他ヒーローとの共演が滅多になかったブレーザーが満を持してアークと共闘する……というだけでも盛り上がるのに、ザンギルやアースガロン、バザンガら怪獣軍団も参戦し、しかも一話どころか四話に渡ってという前代未聞ぶりである。後半のOPにヘルナラクが映っており「まさかブレーザー客演回が……!?」と期待を煽っていたことも、このお祭り騒ぎを後押しする要因になっていたと思う。しかし、残念ながらその実態は「こちらの思っていたものとは違う」ものだった。

 

 

結論から言うと、決して悪くはなかった。第16話『恐れの光』ではモグージョンの攻撃がシュウの本当の思いを引き出すという話運びが光っていたし、第17話『斬鬼流星剣』は坂本監督もかくやという各アーマーの大活躍はもちろん、ザンギルが新たな友と出会い、ようやく "コーヒーを飲んで" 現世に別れを告げられた姿は感無量。満を持してブレーザーが登場した第19話も、ゲントたちを登場させないことで「番外編」感を抑え、見ず知らずの世界の為に戦う人がいるという主題の描写に注力。左手を繋いで力を託すブレーザーの姿で「あの」ブレーザーだと示す気配りも欠かさず……と、このように各エピソードに見所がなかったわけではない。けれど「期待していたものだったか」と訊かれれば首を振らざるを得ないのだ。

 

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『Z』以降、『トリガー』『デッカー』と、ブレーザーを除いて定番になっていた終盤の客演回。方向性は様々ながらもいずれも大きな話題を呼んでおり、今回の『ブレーザー』は話数を見ればその立ち位置……に見えてしまうのが当然の心理。その上で「四週に渡るブレーザー編」であるかのように宣伝されたり、ブレーザーの登場前に、声だけとはいえザンギル本人が登場して印象的な活躍を見せたりと、こんな盛大な前フリをされてしまったら「これまで以上」のものを求めてしまうのはやむを得ないだろう。 

確かにブレーザー編は「悪くはなかった」けれど、問題はこのような前提の上でお出しされてしまったことによるガッカリ感。同じラーメンでも、何となく入ったお店で食べるラーメンと「大人気のラーメン屋に数時間並んだ末に出されたもの」とでは、こちらの「美味しいと感じるハードル」は全く違うものになるし、ブレーザー編のそれは、視聴者の心理を想像し損ねてしまった、ある種の誇大広告と言われても仕方のないものだったように思うのだ。

 

 

また、第19話と同日にはこちらの座談会が配信。これを見て「アークにSKaRDが出るのはほぼ確定か」と思うのは無理のない話だろうし、本編に出せないなら「出ないので代わりにこちらで」とでも明言しなければ、それは視聴者を “騙す” ことに片足を突っ込んでいるようなもの。何らかの事情があるのは察せられるけれど、それは普段からシリーズに触れている自分のようなオタクだから言えること。『トリガー』『デッカー』のように「映像面を充実させてキャスト面の事情をカバーする」といったフォローがあるわけでもなく、一連の出来事がファンの気持ちを無視した “作り手の自己満足” に見えてしまったのも、不信感を煽った一因だろう。 

なお、この座談会では「ギャラクシーアーマーとファードランアーマーの揃い踏み」が披露されたほか、年末年始のイベント『ウルトラヒーローズEXPO ニューイヤーフェスティバル』では、時空を超えて召喚されたアースガロンにテルアキが搭乗しており、アークに「恩は必ず返すのがSKaRDだ」と熱い想いを口にする一幕があるなど、観たかったものが次々と本編外で回収されるという何とも複雑な事態が発生。上品かつ「理にかなった」作品作りは確かに良い面もあるけれど、それにかまけて肝心要のエンタメ性を欠き、視聴者をガッカリさせたり話題にならなくなるようでは、結局のところ本末転倒ではないだろうか。

 

(皮肉なことに、同期の特撮ヒーローである『爆上戦隊ブンブンジャー』においては、ゴーオンジャー、トッキュウジャー、ゴーカイジャーといった歴代ヒーローの客演が非常に大きな話題となり、番組の盛り上がりに一役も二役も買っていた。もし一連の事態が「ウルトラシリーズの展開が安定したことによる慢心」によるものであるなら、可能な限り早く軌道修正してほしい……)

 

⑥ キングオブモンスと「ガイアよ再び」

 

2クール目のOPで『アーク』へのキングオブモンス参戦が確定した時は、自分の観測範囲内では誰も「ガイアの客演」という話はしていなかった。流れが変わったのは、おそらく下記の報せが出てからだったと思う。

 

 

あらすじの内容、脚本・監督、少し前にブレーザーが客演したばかりだったこと、そして何より『デッカー』第9話でも「ニセダイナのソフビが発売されたが特に本編に登場することはなかった」という一件があったことから、自分はガイアの客演はまずありえないと思っていたし、SNS上で叫ばれていたガイア客演への期待には少しばかり距離を感じてもいた――のだけれど、放送終了後に「これ」を知ったことで一転、これは期待せざるを得ないよ……と納得してしまった。

 

 

第21話の放送に合わせた『ガイア』の動きはソフビの発売だけではなかった。なんと、後日談を描いたオリジナルビデオ作品『ガイアよ再び』が同日にTSUBURAYA IMAGINATIONで配信開始していたのだ。 

これが、キングオブモンスの登場作である『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』のYouTube無料配信、などであればまだ「キングオブモンスのプッシュ」と受け取ることができたかもしれない。けれど、よりによって『ガイアよ再び』というタイトルをここで投入してくるのは、ブレーザー編同様「期待するな」という方が無理な話、これもある種の誇大広告と言うほかないだろう。

 

 

⑦ 第24話『舞い降りる夢幻』問題

 

『アーク』第24話の放送を控えた2025年1月10日、TSUBURAYA IMAGINATIONで隔月配信されているトークバラエティ番組「尊哉の部屋」に出演された辻本監督は、そのエンターテイナーとしてのセンスを存分に発揮する傍らSNSで、作品が自分の想定とは異なる方向に盛り上がってしまうことがある」というコメントを残されていた。その翌日に放送された『アーク』第24話を観て、自分はこのコメントの真意を知ることになった。

 

ウルトラマンアークはトリゲロスとの激闘の末、大爆発の中に消えた……。だが、暗闇の中で目を覚ましたユウマの前にアークが現れる! そして彼の口から語られる新たな真実!? SKIPでの日々、怪獣たちとの戦い、そして、アークとの思い出ーーそのすべてが、今までの16年間のすべてが、幻だというのだ!!

引用:「ウルトラマンアーク」最終話エピソード発表 夢幻獣ギルバグ襲来、ユウマが最後の決断下す - シネマトゥデイ

2024年12月27日、各ニュースサイトで上記のあらすじが発表され話題を呼んだことは記憶に新しい。一見すると荒唐無稽なあらすじだけれど、ギルバグが「夢幻獣」というゼ・ズー縁の怪獣とは異なる肩書きや異様な外見を持った怪獣であることや、劇場版が「21.5話」の立ち位置であると仄めかされていた (年明けの特別総集編でこのことが明言された) こと、ユウマという主人公の「自分自身を抑圧しつつ、時折妙にはしゃぐ」という子どもっぽさ、そして本作のテーマが「想像力」である事実もあって、少なくとも自分はこのあらすじが全くの事実無根とは思えなかったし、ウルトラシリーズにかねがね「前代未聞の展開」を期待していた身としては、むしろ「この通りであってほしい」と願ってすらいた。 

とはいえ、流石に「すべてがユウマの夢の産物」というには無理がある。なので、自分はこのアークの言葉を「夢を現実にできるギルバグの力を利用して、全てを “夢” だったことにできる」=絶望的な現実、例えば “トリゲロスとの戦いでユウマの命が消えようとしている” ことなどから彼を逃がすための策 (嘘) であり、最終回のあらすじに書かれた「アークとの別れは、夢で見てきた世界に生きる代償」とはそういう意味なのでは、とばかり思っていたのだ。 

しかし、いざ蓋を開けてみれば「16年間のすべてが幻」というのは単なるスイードの罠であり、ギルバグはザディーメらと同じ宇宙獣の一体。要するに、それは前代未聞の展開でもなんでもなく、これまで幾度も描かれた「幻覚を使った宇宙人の罠」と同じものに過ぎなかったのである。 

翌週の最終回では「ギルバグはラスボスではなかった」「夢が現実になることを利用した展開になっている」と、第24話の違和感を踏まえた展開を見ることこそできたけれど、自分にとってはどうしても「あらすじで期待したような展開ではなかった」というネガティブなフィルターがかかってしまったし、そもそもこれは『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』のあらすじを「闇の巨人・ティガダークに変身してしまったダイゴは、衝動のままに少女を殺めてしまい――!?」と書くようなもの。キャッチーだからといって、物語における脇道をまるで本題であるかのように扱うのは、これもやはり誇大広告、あるいは「嘘」の類いであり、およそミスリードの一言で済ませていいものではないはずだ。 

(ミスリードとの境界線があるとすれば、それはおそらくその「フェイント」が「面白さ」に繋がるかどうか。そもそも、前振りと異なる内容をお出しすることは「視聴者を騙す」ようなもの。『シン・ウルトラマン』の本編と違うPV映像が受け入れられたのは、それが不意打ちだった+サプライズ的な面白さというリターンに直結していたからであり、キャッチーな大見得を切って人を集めたならば、その期待以上のものを提供するのが「集まってくれた方々に果たすべき責任」というものだろう)

 

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これら一つ一つは、それだけ見ると些細に思えるかもしれないし、これまでの作品にも似たような問題は見受けられていた。しかし『アーク』の場合、それらが不運にも「盛り上がりどころ」とバッティングすることが多かった。その結果、本来なら不満を相殺するはずの「アガる」エピソードたちが、むしろその不満を増大させるという事故を起こしてしまい、ネガティブな話題がポジティブな話題を上書きしてしまうことになった。『アーク』が派手さではなく「品の良さ」で勝負するタイプの作品であったことも、これに悪い意味で拍車をかけてしまったのかもしれない。 

確かに、それは言ってしまえば「ファンが勝手に期待して勝手にガッカリした」というだけの話なのだろう。しかし、少なくともブレーザー編、ガイア客演、第24話の三つについては「宣伝の方法に問題があった」と言わざるを得ない。『シン・ウルトラマン』の大ヒットなどにも見られるように、現代のコンテンツ戦略においては「宣伝によるカスタマーコントロール」は必要不可欠であり、作り手が視聴者の心理を読んだ宣伝を打てず、あまつさえ顰蹙を買ってしまったのであれば、それは少なくとも「成功」とは呼べないからだ。 

ブレーザーや第24話の予告に盛り上がってしまったファンの一人としては、このことを学び・教訓として反省しつつ、今後の円谷プロが「こちらの反応に焦る」のではなく「こちらを掌の上で転がす」くらい余裕のあるコンテンツ戦略を見せてくれることに期待したい。

 

(なお、ブレーザーやガイアの問題が発生していた時期には、折悪くTSUBURAYA IMAGINATIONの方でトラブルが連発していた時期でもあった。これらの不信感が積もり積もって界隈全体を覆っていたあの時期の重苦しい空気は、当分忘れられないだろうと思うし、忘れてはいけないのだろうと思う)


「想像力の物語」が描いたもの - 想像に「力」はあるのか?

 

〈『ウルトラマンアーク』とは - 想像力が結ぶ「縁」の物語〉

 

閑話休題、と言いつつ長々とネガティブな話をしてしまったけれど、それもすべては『アーク』の文芸についてフラットな目線で考えるため。そこには、ネガティブな話題に埋もれさせてはいけない大切なメッセージが描かれていたからだ。

 

 

『アーク』のシリーズ構成は大まかには『ブレーザー』を踏襲しており、前半は「一話完結としつつも、少しずつ謎や布石が散りばめられていく」後半は「ゼ・ズーとの対立が軸になるが、彼らが直接絡んでくるのはごく一部のエピソードのみ」という、縦軸と横軸をバランス良く両立させたものになっている。そのシリーズ構成に「リアリティと自由度の両立」が可能なSKIPが加わることで、本作は非常に多彩かつ見応えのあるエピソード群が並ぶ、ウルトラシリーズとして極めて理想的な構成に仕上がっていた。 

しかし、ここで特筆すべきは「それら多彩なエピソードが "想像力" という線で綺麗に繋がっていた」という点だろう。 

 

第6話『あけぼの荘へようこそ』は、現実的な考えと過去の経験から可能性を排除しようとするシュウと、今そこにいるクロコ星人たちの姿から「可能性」を信じようとするユウマの対立、そして、一連の出来事から想像力の何たるかを知るシュウの成長が描かれた重要な一編。 

 

第9話『さよなら、リン』は、山神サトルとリンの関係を敢えて「言葉を廃して」描くことで、二人の想いの正体を私たちに想像させる=「人の気持ちを想像する」という、ある意味最も身近な想像力について問いかける挑戦的なエピソード。 

 

第5話『峠の海』は「過去の経験や常識に囚われた」牧野博士とヒロシが、逆転の発想でその前提を打ち破り、怪獣リヴィジラに辿り着く/想像力を欠いていた過去を払拭するという、ド真ん中ストレートで「想像の力」を描く名編。想像力というと子どものものと思われがちだが、それは大人にとっても必要だと示す役割を担ってもいた。 

他にも「その背景を想像せず、ただ排除することが “怪獣対策” として正しいのか」と問いかけた第7話『満月の応え』、顔の見えない相手との絆を描いた第10話『遠くの君へ』、想像から「認識論」にまで踏み込んだ第22話『白い仮面の男』など、本作のエピソードは各々違う毛色を持ちながら、そのすべてが「想像力」というキーワードで繋がっている。謂わば、ウルトラマンアークとは「想像力をテーマにしたオムニバス作品」であり、その物語の中で少しずつ紡がれていくのが「想像には、本当に “力” があるのか」という問いかけだ。

 

 

情報公開当初は「素朴でファンタジックな作品になるのでは」とも囁かれていた『アーク』は、蓋を開けてみれば『ブレーザー』と同等のリアリティラインで「現実」を描く作品になっており、それこそが本作における壁=想像を捨てさせる/阻むものとして描かれていた。 

第2話で行われていたマンション建設の背景には「怪獣災害で家を失った人々」の存在があり、第6話ではあけぼの荘が不況に苦しんでいる姿が描かれていた。そのような現実的な問題を、『アーク』は決して茶化さない。想像の力を描きつつも、それは決して「万能ではない」と描くのもまた、本作の誠実さの表れだと言えるだろう。 

では、想像の力には限界があるのだろうか。想像とは、現実の前では無力なのだろうか。そんなシビアな命題に対し、本作は極めて明解かつ現実的な回答を提示してくれた。それを一言で表すなら「縁」だろうか。

 

「さよなら……。あの頃の私」
「リン! あの、あのね! ユピーは……リンのことが大好き!だから、だからね! リンには元気でいてほしい!」

-「ウルトラマンアーク」 第9話『さよなら、リン』より

 

過去の思い出と決別し、その痛みに一人涙するリンを救ったのは、ある意味では「山神への想い」の結晶、つまりは「決別した過去の象徴」とも言えるユピーだった。山神と袂を分かつことになったとしても、彼を想って走ってきた過去が無駄になるわけじゃない。リンだけでは気付けなかったそのことをユピーが気付かせてくれたのは、リンが彼をモノではなく「対等の個人」として扱っていたから。彼を生み出し、その心と向き合ってきたリンの想像力がユピーという「友」を作り、その友が他ならぬリンを救い出すことになったのだ。 

『アーク』においては、このような「想像力が生んだ "縁" が道を拓く」場面が度々描かれていた。中でも最たるものが、クロコ星人に始まる下記の一連だろう。

 

「君のおかげで、彼を撃たずに済みました」
「どうしても、悪人とは思えなくて」
「過去の話を聞いたから?」
「それよりも……このサインが、なんだか暖かく見えたんです」
「同じものを見ていたのに……想像力の差か」
「えっ?」
「人の身になって考える。胸の内を思いやる……。そのために想像力は不可欠です。私もまだまだですね」

-「ウルトラマンアーク」 第6話『あけぼの荘へようこそ』より

 

クロコ星人の一件において、ユウマはクロコ星人と女将を信じようとシュウを説得。この時間が、結果的にクロコ星人がシャゴンに特攻する=シュウの認識が覆るきっかけとなり、そのシュウが防衛隊の上層部に掛け合い、クロコ星人を早期に解放したことが、第12話『お前はギヴァス』にて今度はユウマ自身を救うことになった。 

そして、その縁が更に巡り、予想外の形で繋がったのが第21話『夢咲き鳥』。 

 

誰も予想できなかったであろうギヴァスの再登場、そしてアークとの共闘! 二つの姿を的確に使い分けるだけでなく、ソリスアーマーとの「月と太陽」タッグまで見せてくれるギヴァスの暴れっぷりは、相手があのキングオブモンスであることもあって手に汗握る名バトル。 

しかし、このギヴァス参戦に胸を打たれた理由はそれだけではない。キングオブモンスという強敵からアーク (ユウマ) を救ったのがギヴァスであること――則ち、クロコ星人の一件から連なる「縁」であることが、『夢咲き鳥』というエピソードにおける回答にもなっていたからだ。 

 

人生に疲れ、ドリちゃんだけが自分の救いだと思っていた芝アオイ。けれど、彼女には自分を気にかけてくれる家族がいて、リンという友人もいる。 

ギヴァスという予想外の存在がアークを救ってくれたように、人は自分が思わぬところでたくさんの縁を結んでいる。そして、そのように自分を救ってくれる「縁」とは、いつかの自分が誰かを想った「想像力」が紡いだもの。それこそが、形を持たない想像力がくれる「現実に立ち向かう力」なのではないだろうか。 

一方、想像が持つもう一つの力が、本作の主人公=飛世ユウマを通して描かれていた。

 

 

〈「走れ、ユウマ!」と想像の力〉

 

自らの名を冠したゼ・ズーゲートによって、恒星ソニアの余剰エネルギーを他の銀河へと流し込んでいた星々の指導者=ゼ・ズーと、その腹心であるスイード。彼らの一派は、他人の痛みを想像できない「現実」の化身として描かれていたが、自分には彼らの行動を「悪」と断じることができない。なぜなら、彼らの目的は侵略でも破壊でもなく、あくまで自分たちが生き延びること。それに「自分が生きるのに手一杯で、他人の痛みまで背負いきれない」と想像を放棄する彼らの在り方は、毎日のように凄惨な事態が起こっているこの世界で生きる自分にとって、決して他人事と済ませられるものではないからだ。 

しかし、どんなに自分が生きるのに手一杯でも、どんなに他人の痛みを背負うことが辛くても、それでも決して誰かを想う心を忘れないのが、本作の主人公=飛世ユウマの生き方だった。

 

 

僅か七歳にして両親を喪い、祖母と二人で生きてきたユウマ。そんな過酷な境遇でありながら、彼は腐ることも道を踏み外すこともなく、他人を想う心を決して忘れなかった。彼がその生き方を貫くことができたのは、父・テツヤの「走れ、ユウマ!」という言葉があったからだろう。

 

 

「走れ、ユウマ!」がモノゲロスに襲われたユウマの父・飛世テツヤの遺言だと知った時、ほんの僅かな違和感があった。普通なら、そんな状況で出てくるのは「逃げろ、ユウマ!」ではないのかと。しかし、この作品を最後まで見届けて、この言葉は飛世テツヤが「本来なら逃げろと言う場面だが、敢えて “走れ” と言った」ものだと確信することができた。 

というのも、ルティオンとモノゲロスの戦いに巻き込まれたテツヤは、おそらく自分がユウマにかける言葉が「遺言」になることも、それが今後のユウマの人生を決定づけてしまうことも分かっていた。きっと、だからこそ彼は「逃げろ」ではなく「走れ」と叫んだ。理不尽な現実を前に、逃げる (幸せだった過去に閉じ籠もる) のではなく、辛くても下を向かず、未来を向いて走り続けてほしいと、そんな願いを込めて。ユウマを救った「走れ、ユウマ!」という言葉は、テツヤがユウマの未来を想う「想像力」が形を成したものだったのだろう。 

その言葉が支えとなって、ユウマは痛みに負けて閉じ籠るのではなく「痛みを忘れるために走る」道を選ぶことができた。彼がヒーローを描いていたのも、決して逃避ではなく「走る」一環=「両親を見捨てることしかできなかった自分」から変わるための糧だったのだろうと思うし、もしテツヤが「逃げろ」と言っていたらその未来はなかったはず。彼は、父・テツヤの想像力によって「心」を救われ、未来へ進むことができたのだ。

 

 

これだけの力を持ちながら、しかし「想像力」とは決して特別なものではない。人であれウルトラマンであれ、誰もが等しく持っているのが想像力。それは則ち、この飛世親子の関係は決して唯一無二のものではないということ。誰にでも「飛世テツヤ」がいる、ということでもある。

 

「やはり君は……走り続けるんですね」
「かけがえのない友がいれば、どこまでだって走れる。……あなたのおかげで、それを知りました」

-「ウルトラマンアーク」 最終話『走れ、ユウマ!』より

 

私たちは、誰もが誰かの想像力に救われながら生きている。それは家族の愛情や友の想いかもしれないし、会ったこともない誰かの絵や文字に込められた祈りかもしれない。その存在に気付くことができれば、自分も誰かを大切にすることができる。そうして想いが巡り、また新たな縁が結ばれていく……。この想いの輪/円弧こそが、想像力がもたらす「力」のカタチであり、ウルトラマンアークから子どもたちに託された「誰もが誰かのヒーローになり得る」という希望のバトンなのではないだろうか。

 

 

おわりに -『アーク』と私たちの「現実」

 

地球の平和を取り戻したユウマは、自分の中にいる「家族」=ルティオンの星を救うため、彼らの銀河へと旅立っていった。 

過去にも、ウルトラマンジャックをはじめ「最後に旅立っていった」ウルトラマンは何人もいたけれど、彼らの中には「帰ってきた」者もいれば、旅立った先で友を待つ選択をする者もいた。アーク=ユウマはおそらく前者であり、それを示唆するのが最後のホットラインなのだろうけれど、彼の帰還が「明言」される日が来るかは分からない。怪獣ホットラインが鳴ることそれ自体に希望を見出だすあのラストこそが、想像力をテーマとした本作における最も美しい締め括りだったというのはもちろん、2月公開の劇場版に留まらず、毎年後日談が描かれている『NEW GENERATION THE LIVE ウルトラマンアーク編』でさえも「本編内の出来事」である可能性があるからだ。

 

壮絶な戦いを乗り越え、日常を取り戻したSKIP星元市分所の面々。シュウとユピーは定期的に実施している怪獣災害避難訓練の真っ最中だった。そんな二人の元へ、とある人物が地球に再び危機が迫っていることを告げにやってくる…!そして現れる、予想だにしなかった新たなる脅威!さらに激化する戦いの中、敵が目をつけたのはユウマの持つ想像力だった…… 地球の平和を守るため、みんなの想像力を解き放て!!

引用:STORY - ウルトラマンNEW GENERATION THE LIVE 公式ホームページ

 

一体どのような意図に基づく試みなのかは分からないけれど、それが大きな「挑戦」であるのは紛れもない事実。他にも、前述の玩具とその販促、SKIPという設定など、一見シンプルな作品にも思える『アーク』は、その実今後に繋がる挑戦が数多く盛り込まれた意欲作だった。放送前のインタビューで、辻本監督が「これまでのウルトラマンとこれからのウルトラマンを考えて、今撮るべきウルトラマンを撮った」と語られていた所以は、もしかするとこの辺りにあるのかもしれない。

 

 

……となれば、やはり気になるのは「これからのウルトラマン」という言葉。ブレーザーにアークと、直近のウルトラマンは「総集編番組」と特に連動してはいないので、ゼロやゼットが新作に関わるというわけでもないのだろうし、監督・脚本が誰になるかも含めて予測不可能だ。 

しかし、今はまだ次のウルトラマンに頭を切り替えるべき時期ではない。自分はまだまだ『アーク』という作品、もとい、この作品が描いた「想像力」というテーマに向き合えていないからだ。 

自分は、ユウマのように「人の身になって考える。胸の内を思いやる」ことができているだろうか。ゼ・ズーのように「他人の痛みから目を逸らして」いないと言い切れるだろうか。答えはNOだ。人の心が不可視である以上、想像に明確な答えはなく、これらの問いに「YES」と胸を張って答えられる日はきっと永遠に来ないのだろう。 

だから、今もふとした時に逃げたくなってしまう。目を背けたくなってしまう。想像して悩むくらいなら、最初から想像しない方がマシだと考えてしまう。けれど、これからはその考えに『ウルトラマンアーク』がブレーキをかけてくれる。ユウマたちに学び、自らの在り方と向き合い、かけがえのない友を得るまでに至った石堂シュウの姿を前にして「想像することを諦める」という選択肢はあり得ないから。 

もし、あのホットラインが『アーク』の物語におけるラストシーンだとしても、自分はまだまだ「ありがとう、ウルトラマンアーク」とは言えそうにない。いつかこの作品に正面から向き合い、その言葉を堂々と口にできるようになるその日まで、自らの「想像力」と肩を組んで走っていく。それが、この作品を見届けた大人としての責務なのだろうと、そう思う。