こがれんアーカイブ

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感想『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』-「重力」が縛り付けるものと「肉体」の呪い

自分が『機動戦士ガンダム』をはじめとする、所謂「宇宙世紀ガンダムシリーズに触れたのは学生時代のこと。当時の自分には、富野由悠季監督の「説明を廃し、生きた台詞とアニメーションでドラマを語る」描写――とりわけ「重力」を巡る概念論がどうにも難解で、その苦手意識から中々一連の作品を再視聴できずにいた。 

しかし、そんな自分に解釈のヒントをくれる作品がこの令和8年に現れた。機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』である。

 

※以下、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』の内容が含まれます。今後の『閃光のハサウェイ』の展開に対する言及はありません※

 

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引用: 1月30日公開 | 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』本予告 - YouTube

 

宇宙世紀ガンダムシリーズ……特に富野由悠季氏が監督された作品群には「重力に魂を引かれた」という表現が頻出する。自分はこれを「地球という母に甘えず、そこから巣立つこと」を説く親子論のメタファーなのだと思っていた。子どもが独り立ちをすることで、地球環境(母)は命を取り戻し、巣立った人間(子)もまたニュータイプ(正しい大人)に進化できるのだと。 

けれど、それらの作品を観ていると「重力に魂を引かれた」という言葉には別の意味もあるように感じられてくる。親子という概念ではなく、文字通り「重力によって縛られていたものが、宇宙に出て解放される」とでもいうような……。その「何か」を考える上である種の副読本となってくれたのが、今回の『キルケーの魔女』であった。

 

 

本作中盤では、ギギがケネスを「凶暴」と評し、ケネスがそれを「肉体から来るフラストレーション」と返すやり取りがあった。 

肉体があるから他者を欲し、他者とすれ違う。心は肉体に引っ張られ、時に判断を誤らせる。肉体に固執するから「死」が怖くなる。『キルケーの魔女』においては、これら「肉体を持つことによる呪い」が執拗なまでに描写されていた。 

ハサウェイは――すべての始まりであるクェスとそこから連なるギギ周りは言わずもがな――精神を病んだ影響でケリアの悪い面ばかり目についてしまったり、オエンペリで行われた「目に見える痛み」に感情移入し判断を躊躇ってしまったりと、肉体に引っ張られている自分を強く意識し「世俗や肉欲からの解脱」を自らに強く言い聞かせていた。ミーム的文脈で取り沙汰されがちだけれど、この「肉欲」とは決して性欲に限った話ではなく、肉体由来の感情や衝動……理性で割り切れない、人間としての不完全さそのものを指すのだろうと思う。 

そんなハサウェイに対し、再会したギギは「神様になればいい」と嘯く。人間を辞めるも同然の在り方を目指す彼は、なるほど確かに「重力に抗い、天に昇ろうとしている」のかもしれない。

 

 

「肉欲から脱しなければ」と自身を追い詰めるハサウェイに対し、ケネスは「肉欲からは逃れられない」とある種の見切りを付け、むしろそれを謳歌しているようにさえ見える。 

人は肉体を持っている以上完璧な存在にはなれない。その諦念があるから、彼は他人に媚びず実力で地位を勝ち取り、自分の衝動に逆らわず生き、ギギの持つスピリチュアルを素直に信じた。不完全な人間の語る「小綺麗な理屈」よりも、彼女の纏う運命の方がケネスにはよほど信じられるものだったのかもしれないし、清濁をあるがまま受け入れる彼は「重力に抗わず、そこに在る」存在と言えるだろう。 

(そんなケネスと対称的なのが、卑怯を嫌いスピリチュアルを信じず、自分の「肉欲」そのものを自覚していないレーンなのだろうけれど、陰鬱な本作ではそんなレーンの青二才ぶりがかえって癒しになっていた。マフティーが観光地にいる訳ないだろォ!!)

 

 

一方、肉欲に固執し、ステータスによって自らの「生」を拡張しようとする大人を目の当たりにしてきたギギは、そのような肉欲と己を切り離して生きてきた。だからこそ、本作前半の彼女は「生に執着がない」と口にしていたのだろうし、ハサウェイに惹き付けられたのも、自分自身が希薄ないし「希薄であろうとする」彼に近いものを感じたからなのかもしれない。 

ハサウェイとケネスの間で揺れ動くギギは、水面に浮かんだ(重力と浮力の間で揺蕩った)後、ハサウェイの元へ向かうことを決意。彼との再会を果たした際には、ニュータイプ的な反応ではない本物の「死への恐怖(肉欲)」を露にするようになっている。 

肉欲に抗おうと=天へと昇ろうとするハサウェイ。肉欲を受け入れ=地に足をつけたケネス。肉欲の有無で揺れ動く=水面で揺蕩うギギ。この構図を観ていると、自ずと本作……あるいは宇宙世紀ガンダムにおける「重力」の意味も見えてくる。 

重力は肉体に対してかかるもの。重力の重さは肉体の重さであり「肉欲の重さ」でもある。つまり、重力に魂を引かれた人々とは「肉欲から逃れられない人々」のことを指す表現であり、ダカール演説に象徴される「宇宙に出ることで、人間はその能力を広げることができる」というニュータイプ論は、「肉体ありきの不完全さ・フラストレーションから解放されることで、人がより自由にその力を発揮できるようになる」という、現実を正しく見据えた展望、あるいは未来への希望だったのだと思う。

 

 

これまで、宇宙世紀ガンダムシリーズでは「重力に魂を引かれる」のではなく「重力を振り切って独り立ちすること」が説かれてきた。しかし、それは何も「肉欲を完全に捨てろ」ということではないのだと思う。人としてのエゴを完全に捨て去ってしまったら、それはもう人間ですらないからだ。 

だから、自身の「人間らしさ」を捧げて罪を償おう在ろうとするハサウェイの手からは温もりが零れ落ちていき、逆にギギは「人間」として歩き始めることができた。ギギがマフティーと合流したことは(ケリアの件もあり)不吉な流れにも思えるけれど、一方でそれはハサウェイが人間に戻る最後のチャンスなのかもしれない。 

ハサウェイが、ギギが、ケネスがそれぞれどのような道を選ぶのか。ベルトーチカ・チルドレンではなく、アニメ映画『逆襲のシャア』から繋がっていると判明した本作が、小説版と異なるルートに行くのかどうか……。それらが明らかになるその時を、ファンとして首を長くして待っていたい。ところで。

 

 

マフティーが誇るゴールデンモフモフ爆良ポニテちゃんことミヘッシャはどうなったんです!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?(肉欲)