こがれんアーカイブ

特撮・アニメの感想記事を中心に、作品の魅力を日々発信中。

傑作ノベライズ『小説 機動戦士ガンダム00』が見せてくれた “真のセカンドシーズン” について

「オールタイムベスト作品」と一口に言っても色々あるけれど、自分の中ではとある作品がその頂点に君臨し続けている。今から約20年前、2007年に放送開始したTVアニメ機動戦士ガンダム00 (ダブルオー)だ。

 

 

西暦2307年という “私たちの生きる世界の未来” を舞台に、武力による戦争根絶を掲げる私設武装組織・ソレスタルピーイングの戦いと、それによる世界の変化、そして人類が迎える「来るべき対話」を描いたSF大作こと『ガンダム00』。 

壮大なスケールに誠実なテーマ、徹底的にこだわられた音楽とその演出、魅力的なキャラクターやメカニック……と各方面に隙のない魅力を備えた本作に、物語の楽しみ方を覚えたばかりの中学生だった自分は心底魅了されてしまって、普段なら滅多に触れない外伝や設定資料、ドラマCDなども時間をかけて少しずつ買い揃えていき――しかし、その中で一つだけ「買ったはいいものの、ずっと本棚の中で眠り続けている」ものがあった。角川スニーカー文庫から出版された『小説 機動戦士ガンダム00』である。

 

 

購入したのは確か大学生になる直前。当時は「ノベライズ」の魅力を分かっておらず、様々なノベライズに触れた今では逆に「大切な作品だからこそ、自分と合わない内容であってほしくない」という不安が生まれていたり……と、向き合う機会を逃し続けていた小説00。 

しかし、いざ覚悟を決めてページを開いてみると、そこに待っていたのは『00』という作品を丁寧に小説化しつつ、原作の間隙を埋める/欠点を補うことで完成度を大きく底上げしてくれる、まさに理想的なノベライズ――もとい「00という作品に欠かせないピース」とさえ呼べそうな代物だった。 

そして、そんな本作の恩恵を特に受けていたのが、放送当時から賛否両論が大きかったTVシリーズ後半ことセカンドシーズン。今回は、このセカンドシーズンを中心に『小説版00』の魅力や名文・名シーンを可能な限り書き留めておきたい。

 

《目次》

 

 

はじめに -「小説 機動戦士ガンダム00」とは

 

『小説 機動戦士ガンダム00』とは、ファーストシーズンの放送終了直後の2008年4月1日より、全9巻 (ファーストシーズン3巻、セカンドシーズン5巻、劇場版1巻) で展開された同作のノベライズ作品。 

同じ「角川スニーカー文庫」レーベルから出版されたガンダムTVシリーズのノベライズが概ね5巻構成なのに対してこちらはTV放送分だけでも8巻構成であったり、監修を本編のシリーズ構成を務めた黒田洋介氏、監督の水島精二氏、SF考証の千葉智宏氏が務め、挿絵も柳瀬敬之 (本編のメカニックデザインを担当) 羽音たらく (外伝作品のキャラクターデザインなどを担当) が手掛けられていたりと、大枠の時点でその「本気ぶり」は明らかなところ。 

では、実際のところ本書はどのようなノベライズになっていたのか、その魅力・見所は以下の通り。

 

 

再構成による巧みな “小説化”

 

映像作品のノベライズで肝になるのが「改編」の多寡だ。早い話が「リメイク」と「原作通り」のどちらにどれだけ寄っているか、という話。

 

 

例えば、同じガンダムシリーズのノベライズである『小説 機動戦士ガンダムAGE』は、フリット編こそ概ね原作に忠実だが、セム編は半分以上がアセム・ゼハート・ロマリーの学生時代になっていたり、キオ編 (三世代編) に至っては、クライマックスの展開が本編とは全く異なるものになっていたりする。先の例で言うなら、このガンダムAGEは「リメイク」と「原作通り」を5:5で折衷したものと言えるかもしれない。 

では、肝心の00が一体どうなっていたのか……というと、自分の体感では「リメイク:原作通り」=「2:8」といったところ。一言でまとめるなら、小説00とは「細かい改編によって原作をスマートに小説化しつつ、所によっては原作をブラッシュアップ・グレードアップさせている傑作ノベライズ」なのだ。 

そんな「細かい改編」の一つとして挙げられるのが、視点の切り替えを踏まえた巧みな再構成。その一例として『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』のクライマックス、ダブルオークアンタパトリック・コーラサワーを助けながら参戦するシーンを見てみたい。

 

 あれ? オレ、生きてる……。
「つーか、何が起きて……」
 辺りを見渡した彼の目が、とある一点で止まった。接近してくるGN粒子の光が見えたのだ。
「あれは……あの光は……」
 青と白の機体――かつて連邦軍に “二個付き” と呼ばれたダブルオーガンダムと雰囲気のよく似たソレスタルビーイングの新型ガンダム
 躍動感に満ちあふれたフォルム。左肩に装備された巨大な盾。
 あいつだ
 あいつが来やがった。
 見つめていたパトリックの表情がはじめは笑みに、それから怒りに変わる。
 拳を振り上げて、パトリックは理不尽な文句を言った。
「ったく、なんだよ、来るんならもっと早く来いってんだ!」
 飛来する機体にパトリックが叫ぶ。
ガンダム!」

-「機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」P.312~313 より

 

原作では、パトリックはダブルオークアンタのビームで宇宙空間に吹き飛ばされ、そこからロックオンの「来たのか!?」ハレルヤの「遅ぇんだよ!」グラハムの「待ちかねたぞ、少年ッ!」に続くのだけれど、それは画で状況が理解できる映像作品だからこそ。もしこのシーンを忠実に小説にしようとしたら、いちいち視点を切り替え、各機の状況を描写し……というのが三連続で続いてしまい、テンポの悪さでダブルオークアンタ登場のカタルシスを大きく損なってしまう。 

このような「映像だからこそ伝わる表現」について、本作は積極的に再構成していくスタンスを取っており、その一例がこのダブルオークアンタ登場シーン。結果、原作のテンポ感と「クアンタの登場に仲間が湧き立つ」という大筋はそのままに、なんと「パトリックが刹那の参戦を歓迎する」という、原作にはなかった激アツシーンが生まれているのである。

 

 

とはいえ、「来たのか!?」から始まる一連がなくなるのは残念……という方もいるだろう。そんな方に向けて、本作は「カットせざるを得なかった名台詞は極力本編に捩じ込み、無理だったらニュアンスだけでも残す」スタンスを取っている。 

例えば、問題の「来たのか!?」については、上記シーンの後、「俺に任せな!」とガンダムサバーニャが刹那の進行ルートを切り開くシーンでロックオンの台詞に組み込まれており、カハレルヤの「遅ぇんだよ!」については、台詞そのものがカットされた代わりに下記の台詞が新たに付け加えられている。

 

「これが超兵の力だ!」
「違う」
 ハレルヤが言い、同じ口からアレルヤも言う。
「これは、未来を切り開く力だ!」
 ――行けよ!
 心の中でハレルヤがダブルオークアンタに向かって命じ、
 ――行け、刹那!
 アレルヤが仲間の背中を押す。
 それに応えるように、サバーニャとハルートが作り出した進行ルートを、ダブルオークアンタが飛翔していく。
 トリガーを引きながらロックオンが独りごちる。
 見たかよ。これが、ソレスタルビーイングだ!

-「機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」P.312~313 より

 

確かに「遅ぇんだよ!」はカットされてしまった (せざるを得なかった) けれど、そこに込められた「ハレルヤから刹那への信頼」というニュアンスはしっかりと残されており、それどころかアレルヤとハレルヤから刹那への想い」という一層美味しい台詞が生まれているのでむしろプラスと言えるだろう。 

(最後のロックオンの台詞は、終盤の「俺たちは……ソレスタルビーイング!」の場所を前述の理屈で入れ替えたものと思われる。ハルート組の「切り開くんだ!」「未来を!」「明日を!」については残念ながら完全カット)

 

もちろん、このような再構成はファーストシーズンやセカンドシーズンでも頻繁に行われている。戦闘中の台詞を戦闘後に配置替えしたり、本編の時点で不要/悪目立ちしていたシーンをカットしたり……。それら、原作へのリスペクトが溢れた様々な工夫によって、本作は無駄のない +「駆け足感」を感じさせない、非常に理想的な「小説版00」として仕上がっているのである。

 

閉ざされた世界

閉ざされた世界

 

文章化の価値 - 文章ならではの「補完」と「美しさ」

 

ここまでは「小説化する上での改編」に注目してきたけれど、そうなると気になるのは「これといった改編がない箇所はどうなっているのか」という点だろう。 

ノベライズ作品の中には、原作通りの部分が「原作垂れ流し」のように淡々と描かれているものも少なくないが、本作においてはこの部分も大きな見所になっている。第一のポイントは、文章による「テーマ性の補完」だ。 

この点が顕著なのが、ファーストシーズン第24話、ロックオンの遺したデュナメスにフェルトが手紙を届け、刹那がハロに「ロックオンのそばにいてやってくれ」と想いを託す下記のシーン。

 

LOVE TODAY

LOVE TODAY

  • Taja
  • アニメ
  • ¥255

 死者に手紙を送ったり、機械に向かって「そばにいてやってくれ」などという行為が、ある意味でいかにバカバカしく、何の役にも立たないことはわかっている。
 だが、それを行うことで、いくばくかでも心の安穏が得られるのなら、それは決して無意味などではない。
 それを行えるのが人だから。
 それが人だから。
 人は世界を構成する最小で根本的な要素だ。世界を変革するということは、人の意識を変革することと同じなのかもしれない。
 しかし、それは少数の政治首脳部を動かし、戦争放棄を明文化することと――結果としてそれが望ましいにしても――決して等価ではないと思う。
 世界と向き合うということは、人と向き合うということなのかもしれなかった。

-「機動戦士ガンダム00」第3巻『フォーリンエンジェルス』P.294~295 より

 

『00』はファーストシーズンとセカンドシーズンで雰囲気の異なる作品だが、その中心にあるのは「マクロ的視点からミクロ的視点への変化」である。 

ソレスタルビーイングという組織の理念に則り戦う刹那たちが、各国家群、そして世界全体と対峙する =「組織VS組織」の枠組みに比重が置かれているのがファーストシーズン。一方、地球連邦VS反地球連邦という構図の単純化によって「個人VS個人」の戦いが掘り下げられていくのがセカンドシーズン。 

世界から個人へ、マクロからミクロへ。ドリルダウン式に「戦いが起こる理由」そして「平和を手に入れる方法」を解き明かしていくこの流れこそが『00』の大きな魅力であり、件の文章は、そんなファーストシーズンからセカンドシーズンへの橋渡しにもなっている。このような「文章媒体だからこそ、より深くテーマに触れられる」点も、本書のノベライズとしての大きな強みと言えるだろう。

 

フレンズ

フレンズ

  • STEPHANIE
  • J-Pop
  • ¥255

 

もう一つのポイントは、「文章化されることで、本編とは異なる美しさを放つシーンがある」こと。この点に関しては、あれこれ言うより実際の文章を見てもらうのが一番。『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』のクライマックス、宇宙に「ELSの花」が咲き誇った名シーンだ。

 

クオリア

クオリア

 矛盾。
 思惑。
 思慮。
 妬み。
 憂い。
 憎しみ。
 悲しみ。
 それらを超越したものが、そこにあった。そこに漂っていた。
 花は何も言わない。
 しかし、雄弁に語る。
 たったこれだけのことで、世界は一つになるのだと――

-「機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」P.354~355 より

 

 

「後発作品」だからできる辻褄合わせ

 

小説00第1巻の発売日は、TVでファーストシーズン最終話が放送された数日後。そのため、小説ではファーストシーズンの内容に後発作品=セカンドシーズンや外伝の内容が反映されている箇所がある。その一例がこちら。

 

「……刹那……答えは……出たのかよ……」
 ……いや、別にいい。答えが出なくとも。
 刹那、わかるか? おまえは、昔の自分から変わろうとしているんだ。ガンダムで変えようとしているんだ。過去から、未来へと……。
 おれはダメな男でよ。あの時以来、時間は止まったままだ。どれだけ世界を変えようとしても、おれが変わろうとしていなかった。過去にとらわれていた。
 だからさ、おまえは変われ。
 変われよ、刹那……。変えられなかった、おれの代わりに……。

-「機動戦士ガンダム00」第3巻『フォーリンエンジェルス』P.261 より

 

言わずと知れた、初代ロックオン・ストラトスことニール・ディランディの死亡シーン。だが、ここで彼が発している「おまえは変われ」「変えられなかった、おれの代わりに」という台詞は、セカンドシーズン第15話『反抗の凱歌』において、刹那が夢の中で対峙したニールの台詞から逆輸入されたものである。 

「夢に現れたニールが本編にない台詞を言い、それが刹那の転機となる」という同話の流れは (解釈のしようはいくらでもあるけれど、それはそれとして) ツッコミどころと言われたら否定できなかったので、こうしてそのフォローが行われたのはファンとしてありがたい限りだ。 

他にも、セルゲイの視点でアンドレイの名前が出ていたり、名前こそ伏せられているがソレスタルビーイングの支援組織 (漫画『00F』などに登場する組織「フェレシュテ」を指していると思われる) への言及があったり……。これら、後発作品だからこそできる数々の補完によって、小説00は「それ単体では後付けにも見えた要素」の違和感を和らげ、感連作とのパイプも強固にするなど、00の「ひとつなぎの作品としての完成度・まとまり」を大きく高めている。それは、実際はライブ感で製作された部分も少なくない00という作品が「最初から本編も外伝も作られた上で放送されていたら」という、ある種のifサーガと言っても大袈裟ではないかもしれない。

 

 

セカンドシーズンの描写補完 

 

〈前談 - セカンドシーズンについて〉

 

自分にとって『00』セカンドシーズンは非常に思い入れが強い作品だ。 

ファーストシーズンで蒔いた種が、沙慈の成長を筆頭に様々なドラマを花開かせていく構成、毎話「次回は一体どうなるんだ……!?」と感じさせる巧妙な引き、よりミクロな視点に踏み込み「戦いを終わらせる方法」を探っていくドラマ、ファーストシーズン終盤の絶望から徐々に這い上がっていく逆転劇のアツさ、更に進化した楽曲演出やケレン味抜群の演出……。 

これらに加え、自分はそもそも「続編もの」それ自体が好きなオタクなので、成長したキャラクターのビジュアルや、より派手になったガンダムのデザイン、絆の深まったマイスターたちの掛け合いなど一つ一つの要素に大興奮。結果、中学生当時の自分はこのセカンドシーズンから『00』にドハマりしてしまい、それから20年弱が経った今もガンダム00を真性オールタイムベストとして掲げ続けることになった。 

しかし、その20年弱の間に、このセカンドシーズンにはいくつもの「看過できない欠点」が潜んでいることを知ってしまったのもまた事実。

 

 

セカンドシーズンの問題点としてよく取り沙汰されるのが、ファーストシーズンに比べ単純化した勢力図や、トランザムライザーのスーパーロボット感。 

勢力図については、そもそも「統合された世界に起こった歪み」の物語なのでそれ自体は自然なこと。マクロ的視点からミクロ的視点への移行、という構成からも妥当な変遷と言える――が、ファーストシーズンの複雑な世界構造に魅せられたファンにとって「見応え不足に感じてしまう」ことは否定できないところ。 

次に、トランザムライザーのスーパーロボット感について。意識共有領域は物語で重要な役割を果たす他、所謂「ニュータイプ空間」という前例があり、ダブルオーガンダムのインフレを象徴するライザーソードも、ツインドライヴ→ダブルオーライザートランザムライザーと、インフレの過程が理屈を持って丁寧に/段階的に描かれてきたため、これらはどちらも『00』の中で浮いた存在ではなかった (ガンダムの範疇に留まっている) ……というのが個人的な意見。しかし、最も規格外なシステムでもある「量子化」については、これといった深掘りがないこともあって流石に浮いていると言わざるを得なかった。また、トランザムライザー……もといダブルオーライザーについては「マイスター4人に明確な格差が生まれた」という欠点の象徴になってしまっており、そのことも一連のヘイトを加速させた原因と言えるかもしれない。

 

 

しかし、これらのようにフォローができるものはまだ軽傷の部類。セカンドシーズンにおける最大の問題点として挙げられるのが「キャラクターの描写不足」だ。 

目に見えて持て余され、立場や目的がよく分からないまま退場してしまった王兄妹とネーナ・トリニティ。 

描写が不足した結果、展開が唐突に感じられて感情移入を妨げてしまった2代目ロックオン・ストラトス=ライル・ディランディとアニュー・リターナーの関係性。 

心情描写の不足から印象の悪化を招いてしまった沙慈・クロスロードマリナ・イスマイールアンドレイ・スミルノフ。 

そして、主人公格でありながらそれらすべてを背負ってしまった結果、インターネットどころかドラマCDでも散々な扱いを受けることになってしまったアレルヤ・ハプティズム……。彼らの有り様が、セカンドシーズンの評価を大きく損なっている最大の原因と言っても過言ではないだろう。 

しかし、そんな彼らの描写不足を大幅に補完し、セカンドシーズンの汚名を「原作の流れを変えないという前提の上で」可能な限り返上してくれたのがこの小説00。その手腕の程を、各キャラクターごとに振り返っていきたい。

 

泪のムコウ

泪のムコウ

 

〈紅龍の想いと王留美の役割〉

 

ファーストシーズンから登場し、その可愛らしくミステリアスなキャラクターが大きな人気を集めた王留美。しかし、セカンドシーズンからはめっきり出番が減り、目立った活躍もないまま第21話『革新の扉』で紅龍との確執を暴露、そのまま兄妹揃ってネーナに殺害されてしまう……と、「最終版に入る前の最後のチャンスで無理やり畳まれた」感が顕著だった王兄妹。 

小説でも彼女の動向・顛末それ自体は変わらないものの、彼女が変革を望む理由や、そのきっかけとなった王家の内部事情が詳細に明かされている他、件のセカンドシーズン第21話で紅龍が留美を庇ったシーンに下記の文章が挿入されており、本編では「精神面の未熟さによって跡取り候補から下ろされ、留美を歪ませる原因を作った」ことしか明かされなかった紅龍の人となりが大幅に補完されている。

 

「……留美……」
 すまなかった、と心の中で妹に謝る。
 自分がふがいないばかりに彼女の世界を灰色に染めてしまった。
 自分が背負うべき苦痛を、彼女に背負わせてしまった。
 間近で見てきたからこそ、彼女の心の痛みがよくわかる。だからこそ、彼はそばにいて妹を守ろうと誓ったのである。王家の血統から外してもらい、彼女の護衛役に志願したのもそのためだ。
 体も鍛え、武術も修得した。精神的なことを理由に先代から見限られた彼が、肉体を動かす方に才があったというのは、いささか皮肉な話でもある。
 だが、その鍛えられた肉体が、いまは彼女を守った。
 ソレスタルビーイングイノベイターを天秤にかけ、そのどちらをも渡り歩いて目的を達しようとする王留美のことを卑怯者だとののしる者がいるかもしれない。
 だが、世界に光を取り戻したいと願う、その一点において、彼女は純粋だと紅龍は思っていた。
 ゆえに、彼は王留美がやや行きすぎた行動をとっても、常に彼女と共にいたのである。
 少年期に妹を守ると抱いた誓いは、いまも胸にある。それは贖罪なのかもしれない。
 だが、いまは、贖罪よりも、肉親としての情が願ってやまなかった。
 留美……。
「い、生きて……!」
 彼女の体を通路側へ突き飛ばした。
『お兄様っ!』

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第4巻『アニュー・リターン』P.326~327

 

前述の通り、彼ら兄妹の顛末は小説でも変わらない。しかし、この文章が入ることによって、彼女もまた、アンドレイやルイス同様「運命の分かれ道」にいたことが浮き彫りになっていく。 

人は誰もが過ちを犯す。だからこそ、人は己の意志で変わらなければならない。アンドレイやルイスは、致命的な一線を踏み越えた上で、それでも「自身の変革」を選ぶことができた。 

留美も「過ちを犯した被害者」という点では彼らと同じであったが、彼女は2人のようにはなれなかった。それは、留美が “自らが変わる” という選択肢も、紅龍が遺した願いも、最後に差し出された刹那の手と共に振り払ってしまったから。 

劇場版で登場した純粋種のイノベイターデカルト・シャーマンの死は「イノベイターであっても、自身が変わることを選べなければ未来を創ることはできない」ことを示すものだった。同様に、留美の死も「選べなかった」側の末路として描かれたものだったのかもしれない

 

罠

 

ネーナ・トリニティの死とその存在意義〉

 

セカンドシーズンで描写不足が目立ったキャラといえば、留美と共に筆頭に挙げられるのがネーナ・トリニティ。 

ファーストシーズンのラストで留美に拾われ小間使いをしていたかと思えば、内心では留美にもイノベイドにも牙を剥いており、最終的にはリジェネと結託するも、これまでの報いを受けて無惨に散っていったネーナ。本作では、その行動理由が文章で語られるため本編よりは唐突感が薄まっている……ものの、「我儘で傲慢な子どもが力を手に入れてしまった結果生まれた、空っぽな魔物」という本質が本質=本筋を変えない限り補完のしようがない空虚な存在なので、他のキャラクターと比べて「補完されていた」という感覚は薄い。にもかかわらず、ネーナがサーシェスに辱しめられたことが匂わされる僅かな一節が小説00でも1.2を争う知名度を誇ってしまっているのは、こう……ある意味ネーナらしいと言えばネーナらしいトピックかもしれない。   

……こう書くと、この記事で彼女について取り上げるべき事柄はこれといってないようにも思えてくるけれど、彼女も彼女で壮絶な「小説ならではの見せ場」を持っている。それがこちら。

 

『死にたくないね……』
 当たり前のことを言うな! あたしは生きるんだ! 死んでたまるか。
『でも、ママとパパは――』
 死んでたまるか!
『そんな言葉すら言えなかったぁ!!』
 敵の声が激したと同時に、赤い爪が動いてコクピットモニターの映像が途絶えた。直後、そのモニターを貫いて赤い爪先が現れ――。
「ああっ――!」
 ネーナの顔がこれ以上もなくのけぞり、痙攣し、やがて前屈みになって、ごばっと大量の血を吐き出す。
 貫かれていた。
 敵機の赤い爪がネーナの腹部を突き破り、内蔵を潰し、上半身と下半身をつないでいるのが左右にある脇腹の繊維だけとなっていた。
「あっ……く、うっ……」
 彼女は辛うじて意識をつなぎとめ、一度歯を食いしばり、そして残された生命エネルギーをすべて吐き出すかのような勢いで絶叫した。
「チ……チクショォォォォォッッッ――!」
 その声が消えぬ間に赤い爪がさらに押し込まれ、ネーナの肉体はスローネドライと共に爆発の炎に飲まれて消滅した。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第4巻『アニュー・リターン』P.359~365

 

どれだけ残酷な死を迎えてもおかしくなかったネーナだけれど、流石に2008年の放送倫理ではVガンダムのようなことはできなかったのか「スローネドライが四肢切断され、レグナントのビーム (?) で爆散する」というフィニッシュに落ち着いていた。 

が、倫理の縛りから解放された本作においてはこの通り、作中最も残酷に/丹念にその死が描かれているのである。あまりキャラクターの死に様で騒ぐのも良くないけれど、20年越しに見ることのできた「然るべき死」には流石に胸がすく思いだった。  

が、ここでネーナの死がグロテスクに描かれたことの真意は「そこ」にはなかった。

 

trust you

trust you

  • 伊藤 由奈
  • J-Pop
  • ¥255

 人を殺してまで仇を討って、両親は喜んでくれるのだろうか?
 沙慈と顔をあわせることができるのだろうか?
 ――できない。
 ママとパパの笑顔が消えていく。
 沙慈の笑顔が消えていく。
 自分の踏み入れた世界に、彼らはいないのだ。
 口からもれていた嗚咽が、やがて声の奔流となる。
「――ああ、ああああああ!」
 そして彼女の喉が、ひくっと震え――。
「うわああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」
 宇宙空間に絶叫がこだました。
 ルイスの世界は変革を遂げた。
 しかし、そこに愛はなかった。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第4巻『アニュー・リターン』P.359~365

 

そう、ネーナ・トリニティの死に様よりもずっと丹念に描かれるのがこの「ルイスの精神崩壊」シーン。ここで抜き出した文章はほんの一部でしかなく、実際はもっと多くの文量をかけて「ルイスが初めて人を殺めてしまったこと」の悲痛さと絶望が生々しく描かれている。 

ネーナのグロテスクな死はあくまでこの前振りに過ぎなかったのだけれど、このルイスの絶望こそがネーナ・トリニティというキャラクターの最後にして最大の存在意義。この絶望を深く研ぎ澄ますことこそが、ネーナに対する最大の「補完」と言えるのかもしれない。  

(が、それはそれとして「ルイスの世界は変革を遂げた。しかし、そこに愛はなかった」の一文がとても美しい……!)

 

 

マリナ・イスマイールに求められていたもの〉

 

沙慈・クロスロードマリナ・イスマイール。戦士ではない立場から平和を願う2人は、ファーストシーズンの頃からソレスタルビーイングに反する立場を取っていたが、この時期はソレスタルビーイングが「テロリスト」であるという点も印象的に描かれていたため、彼らのスタンスもごく自然なものだった。 

しかし、舞台がセカンドシーズンへと移り、ソレスタルビーイングが事実上の反アロウズ組織に変わると話は別。ソレスタルビーイングの行いは「矛盾したテロ行為」から「ヒーロー然とした戦い」に変わっているので (実情はともかく) それらを否定する沙慈やマリナの見え方・視聴者の心象はどうしても悪くなってしまう。そのため、2人に対してはファーストシーズンよりも入念なフォローが必要だったのだけれど、セカンドシーズンはファーストシーズンで撒いた種を回収することに忙しく、そのような小回りを効かせられるほどの余裕はなかった。 

……が、そのような放送の反響も踏まえつつ執筆された本書は話が別。

 

 

沙慈については、ソレスタルビーイングに対する「怒りと理解」の葛藤が詳細に描かれている他、刹那を糾弾する言葉や、カタロン基地を脱出する際の行動など、波紋を呼びがちな箇所一つ一つに沙慈自身の迷いや自己批判が添えられており、本編よりもずっと「大人」として描かれている。先のルイスの件も然り「人を殺した側とそうでない側」の線引きが印象的に描かれているため、彼が引き金を引くかどうか、パイロットになるかどうか、といった点も、ドラマとして更に見応えのあるものとなっていた。 

しかし、そんな沙慈以上に本書の恩恵を受けていたのが、アザディスタンを喪い亡国の皇女となったマリナ・イスマイール。決して武器を手に取らない彼女のスタンスが説得力を持って描かれていたパートとして、アザディスタンを喪った彼女をシーリンが慰めた際の下記の文章を挙げてみたい。

 

 マリナも (カタロン構成員たちの) 子供たちを思いやる心情には共感する。だが、そのために武器を手に取ることには賛同できなかった。流血は流血を招く。憎しみは憎しみを拡大させる。それを否定することから彼女の戦いは始まったのである。
 彼女は敵となる人間ですらも心底憎みきることができない。彼らとも手をたずさえることができれば、何と幸福なことであろうか。だが、そんな彼女の思いを、温室育ちの理想主義だ、と酷評する者がいることも知っている。彼女はそれにかぶりを振った。理想を理想として口にすることの、何が悪いというのだろう。それとも酷評した者は、全員が現実に即し、うちひしがれる様を見れば満足なのだろうか。
 子供たちの笑顔は、そんな彼女の心を優しく慰撫してくれるが、結果としてアザディスタン王国が滅亡したことを考えると、氷刃と化した冷風が精神の平原を吹き荒れるのだった。自分は間違っていたのだろうか、という後悔と苦悩がどうしても浮き上がってくる。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第2巻『無垢なる歪み』P.222

 

このように、小説ではマリナのスタンスに対する批判と、それに対するマリナの反論・葛藤もしっかりと描かれている。本編だけでは描かれなかった……というより、アニメという媒体では限度があった部分に、小説ならではのフォローが入っている、という方が正しいかもしれない。 

また、このシーンはそんなマリナに対し、シーリンが「戦うのよ」と呼びかける場面に続くが、アニメでは戦闘員として役に立つはずもないマリナにシーリンが「何」を求めているのかが明示されていなかった。そのことについても、小説ではしっかりとフォローが行われている。  

「マリナ、アザディスタンを再建するには、連邦を倒すしかないわ。戦うのよ。皇女であるあなたにはそうする義務がある」

 このときのシーリンの言葉に含まれた意味を、マリナはほぼ正確に洞察していた。シーリンはマリナにカタロンへ参加し、地球連邦の圧政と不平等から自由と自立を勝ち取る革命の象徴として起て、と言っているのである。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第2巻『無垢なる歪み』P.222

 

言われてみれば「それしかあり得ない」ので、このことを察せなかったのは自分が鈍いからなのかもしれない。 

ともあれ、小説ではこういったマリナ周りの描写が大幅に補填され、「戦場の中で誰も傷つけない道を選んだ」彼女がどれほど世界に必要な存在か、どれほど刹那に影響を与えたのかが浮き彫りになっている。王兄妹のように0が1になった (新しいシーンが生えた) わけではないが、00という作品に対する影響は計り知れないものがあるだろう。

 

TOMORROW

TOMORROW

 

アンドレイの「軍人として生きる」への想い〉

 

セルゲイ・スミルノフの息子であるアンドレイ・スミルノフ。子どものまま大人になってしまった彼は、その未熟さ・幼稚さから視聴者の不興を買うことが多かったけれど、その原因は幼くして母と死別し、父と断絶してしまったこと。多くの人々にとって最も身近な対話である「家族との繋がり」をテーマとして背負う彼は、その等身大さも相まって、ある意味では最も視聴者に近いキャラクターの一人だったと言えるかもしれない。 

そんな彼の御祓は本来なら劇場版まで待たなければならないのだけれど、こと本書においては、エピローグにおける「私は軍人として生きる」のシーンで既に十分すぎる御祓が描かれている。

 

Unlimited Sky

Unlimited Sky

 アンドレイは、アロウズが解体されたのち、地球連邦軍へと籍を移した。
 悪魔の所業のごとき、と報道機関から攻撃を受け続けているアロウズの元隊員となれば、連邦軍人から冷遇されることは目に見えており、そして、事実そうであった。 

 (中略) 

 しかし、それでいい、と彼は思っていた。
 父を手にかけたこと、アロウズこそが正義であると盲信していたこと、いま振り返れば何と幼稚だったかと赤面する思いである。
 だが、その傷こそが、前へ向こうとする姿勢の原動力であり、人の痛みに気づくことのできる優しさの源になると彼は信じる。
 あるいは、そう考えられるようになったことこそが、彼にとっての一番の変化なのかもしれなかった。 

 (中略) 

 罪を償う覚悟はある。だがいまは、目の前で配給品を受け取っていく人たちの平穏と幸福を願う。彼らの住む国の早期復興と政情安定を願う。
 それは偽善と揶揄されることなのかもしれないが、そのために微力をつくすことが、いま何より先決なのだと思った。それがなしえたとき、いくらでも罰は受けよう。
 ふと、それに思い至ったとき、アンドレイはソレスタルビーイングの理念の一端に触れたような気がした。
 どのような悪名や汚名を着ることもいとわず、「戦争根絶」に向けて邁進する。
 だが――。
 それでも彼はソレスタルビーイングを支持しようとは思わない。
(……私は軍人として生きる)
 それが彼の誇りであり、それが彼の生き方だからだ。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第5巻『再生』P.393

 

アンドレイは地球連邦軍内でアロウズ時代の罰を受け続けており、彼が尽くしているのもかつてアロウズの蛮行によって傷ついた国であった。エピローグで彼が復興に従事しているのは、メメントモリの最初の犠牲となったスイール王国なのだという。 

正義という御題目を隠れ蓑に、半ば父への当て付けで軍に入っていたアンドレイ。そんな彼が、両親のような「自分が傷つくことを厭わず、人々を救うために力を尽くす者」を軍人の理想とし、己の身でそれを実践する。それは先にも触れた劇場版の先駆け=十分すぎる御祓であり、本編の流れを変えることなく、文章だけでキャラクターの印象を覆してみせたこの一連は、まさに本書の「本領発揮」と言って差し支えないだろう。

 

 

ライル・ディランディと “知らない記憶” たち

 

〈セカンドシーズンとライルの補完〉

 

セカンドシーズンの描写不足といえば、どうあっても避けられないのが2代目ロックオン・ストラトスことライル・ディランディについての問題。

 

 

カタロンのスパイ (パイプ役) としてソレスタルビーイングに籍を置いた彼がガンダムマイスターとして生きる決意を固めるまでの一連のドラマは、自分は大好きだけれど「尺が足りてたか?」と言われると……どう頑張っても首を縦には振れない。 

そのことが表出する=小説00が本気を出すのはセカンドシーズン後半からだけれど、かといって前半のロックオンに何も補填がないかというとそんなことはない。ティエリアとのシミュレーションやフェルトとのキス周りなど、これまで述べてきたキャラクターよろしく彼の描写も大幅に追加されており、特にロックオンの感じていた「孤独」が一層伝わりやすくなっているのは大きなポイントだ。 

また、セカンドシーズン前半における彼の描写としては、下記の『メメントモリ攻略戦』クライマックスもファン必見の一幕。

 

 兄の用いていた称号――それが自分の実力を認められ、仲間だと受け入れられての呼称だと思えば嬉しいが、兄の実績と比較されてようやく「合格点」としての呼ばれ方だとすれば反発心が頭をもたげる。
 いささかひがみっぽいか……。
 だが、ソレスタルビーイングの仲間たちは、この大事な戦いで、大事な場面で、もっとも重要な役目を与えてくれた。
 その期待に応えることは、まあ、悪くない。
 だからさ……。
 狙撃手は自分の右目と右手の指先に神経を集中させた。
 ロックオン・ストラトス
 いいじゃねぇか。
「その名の通り……狙い撃つぜぇぇぇっっッ!」

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第3巻『散りゆく光の中で』P.218~219

 

この一連は、ライルがコードネームを受け入れ、ティエリアらも彼のことを「ロックオン」として受け入れる契機となる重要なシーン。その過程がこうして深掘りされているだけでも嬉しいのに、それ以上に揺さぶられるのは「だからさ……。」という一言の追加。ライルが兄からロックオンを継承したことを表現する上で引用するのが「ニールが最後に狙い撃った際の台詞」だなんて、こんな熱い+説得力のある引用が他にあるだろうか。

 

 

〈真説 アニュー・リターン〉

 

セカンドシーズンの問題点は? と訊かれて、アニュー・リターナーを挙げない人はまずいないだろう……と、そう思ってしまうくらいには、彼女とライルの物語は描写不足が際立っていた。

 

 

第10話で初登場、以来ロックオンから声をかけられたり「ライルでいい」というお墨付きを貰ったりしたかと思えば、第18話で突如「ロックオンと同じベッドで寝ている」という画がお出しされたアニュー。確かに、ガンダムシリーズではメインキャラ同士がいつの間にか恋人になっていることは少なくないけれど、この2人の「恋仲になるきっかけが描かれず、関係性に感情移入できないまま、その関係がストーリーの柱になる」という顛末は極めて稀なケース。というより、普通はあってはならないことだろう。 

これには製作陣も流石に焦ったのか、本編終了後に発売されたドラマCD=ブレイクピラー後の空白の4ヶ月を描いた『アナザーストーリー 4MONTH FOR 2312』では2人が恋仲になる瞬間が描かれ、スペシャルエディションではなんとそのシーンが追加カットとして映像化されるという珍しい逆輸入が行われていた。 

しかし、ロックオンとアニューの関係はそれでようやくスタートラインに立ったようなもの。恋仲になる瞬間が描かれたところで「なぜ2人が惹かれ合ったのか」は依然として不明瞭で、自分は必死に頭をこねくり回して「お互いにソレスタルビーイングの新入り同士、傷を舐め合うように惹かれ合ったのかもしれない」と半ば無理やり納得しようとしていた。当時刊行されていた小説版に、事実上の「回答」が載っているだなんて知りもしないまま。

 

「ロックオンって呼ばれるの、本当はあまり好きじゃないでしょう?」  

 (中略) 

 ……何でわかったんだ?
 その思考に愕然としたのは、ライル自身であった。
「何でわかった」……?
 ということは、ライル自身が気づいていなかっただけで、ロックオンと呼ばれることに嫌悪感を抱いていたということなのだろうか? 

 (中略) 

 こうして指摘されなければ、彼自身でも気づけなかったことを、どうしてあの新任の操舵手は気づけたのだろうか?
 そう思いはじめたら――以前から目を惹かれてはいたが――さらに惹きつけられるようになっていった。
 そして、気づいた。
 彼女はおれと同じだ。
 フェルトやミレイナと談笑しているアニューを見かけたとき、ライルはそれに気づいた。
 フェルトたちへ笑みを浮かべている彼女の後ろに、もうひとり彼女がいる。楽しそうに話している自分の姿を、もうひとりの彼女が後ろから悲しげな笑みで見ているのだ。
 それは目に見えない小さな溝。他者との間にあるささいな違和感。どうしても他者と同位できない自分の影。
 アレルヤティエリアから「ロックオン」と呼ばれ、快活に応じ、だが頬の一隅をこわばらせていた――おれと同じだ。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第4巻『アニュー・リターン』P.24~P.27

 

本書はこれまで、あくまで「シーンを追加する」「台詞を増やす」「順番を入れ換える」など、あくまで本編に調味料を加え、加工し、調理するようなスタンスを貫いていた。 

しかし、ことロックオンとアニューに関しては、このように「無からシーンを生やす」ことも厭わない。それだけ著者の木村暢氏――そして、本作を監修されている本編のシリーズ構成担当・黒田洋介氏、監督・水島精二氏も、2人の関係を描ききれなかったことには忸怩たるものがあったのかもしれない。 

そんな予想を後押しするかのように、ロックオンとアニューについては「アニュー視点」での完全新規シーンまで存在している。

 

 ライル・ディランディ。
 彼の中に彼自身でさえも自覚していない欠けた部分を見いだしえたのは、彼女自身が自分の過去を欠いていたからかもしれない。 

 (中略) 

 アニューが彼の欠けた部分を気づいたように、ライルもまた彼女の欠けた部分に気づいたのだ。
 ある日、ふと二人だけの機会を得たとき、ライルは口はばかるように視線を泳がせ、それから言った。
「気づいちまったから言うんだが……あんた、自分に自信を持っていいんだぜ? 別に何がないわけじゃないし、ないなら作っていけばいいし。あんたはあんたなんだ。何も誰かに遠慮したり、自分から一歩引いたりすることはないんだ。過去がどうだろうと、あんたはアニュー・リターナーで、それだけで十分なんだ」
 そして、彼は照れを隠すような偽悪的な笑みを浮かべて言葉をつないだ。
「もし何か欠けてるんだったら、おれが個人的に埋めてやってもいい」
 そのときは彼の軽口を笑ってすませたが、心の隅で起きた揺動をとめることはできなかった。
 何者でもない自分を受け入れてくれる。
 自分が自分でいることを肯定してくれる。
 そのことがただ、彼女は嬉しかった。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第4巻『アニュー・リターン』P.260~P.261

 

ロックオンは兄に対するコンプレックス、アニューは記憶喪失。それぞれの理由から自信を持てない2人の姿と、彼らがお互いを特別に感じた理由を、描写の追加・拡張ではなく「複数の完全新規シーン」で丹念に描写する……。こんな贅沢な補完を自分は他に知らないし、それは自分の中で20年もの間燻っていたどす黒いモヤモヤを晴らすに十分なものだった。 

2人を切り裂いた刹那の選択も、彼らが最期に交わした「私たち、分かり合えてたよね?」「ああ、もちろんだとも」という会話も、刹那を殴りつけるロックオンの姿も、どれももう今までのようには見られない。こうしてしっかり描かれてみれば、『アニュー・リターン』とは、ライル・ディランディという男にとっても、他者との対話を描く00という作品にとっても、文字通りなくてはならない大切なピースだったのだ。

 

「……そっちに行くのはもう少し後だ。そのときまで待っててくれよな、アニュー……」
 そこに名を刻まれた彼女に語りかける。
 彼女の墓の下にも、兄の墓の下にも、遺骨や遺品といったものは収められていない。入っているのは思い出だけだ。
 ここに置いていくわけじゃない。預けていくだけ。
 思い出したくなったら、ふとライル・ディランディに戻りたくなったら、またここに戻ってくる。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第5巻『再生』P.391

 

trust you

trust you

  • 伊藤 由奈
  • J-Pop
  • ¥255

 

アレルヤ・ハプティズムへの「納得」

 

〈前談 - アレルヤの “作中での扱い” について〉

 

自分にとって、ガンダム00は文字通り真性のオールタイムベスト作品。当然そのキャラクターたち――とりわけ主役である5人のマイスターたちは押しも押されぬ一番星ばかりだが、その中で仮に一人だけ選ぶとしたら、自分は迷わずアレルヤ・ハプティズムを選ぶだろう。

 

 

リアルタイム視聴当時、自分がアレルヤを好きだと自覚したのはセカンドシーズン第3話『アレルヤ奪還作戦』。これまでずっと悲観的で、死に場所を探しているようでさえあったアレルヤの、決意が漲った「――必ず!」という表情、からの『00 GUNDAM』をBGMにしたアリオスのデビュー戦に自分はいたく魅了され、最終回の超兵復活で大いにに湧き立ち、劇場版の「それでも善だ!」の台詞、そしてアレルヤともハレルヤとも区別のつかない「明日を!!」という叫びで彼らに心底惚れ込んでしまった。  

……が、それだけに自分は「セカンドシーズンのアレルヤ」を見ているのがどうしようもなく辛かった。

 

 

アレルヤが所謂「不遇」だったのはいつからか。決定打になったのはファーストシーズン第19話『絆』で刹那・ロックオン・ティエリアの3人が真に和解する場に立ち会えなかったことなのだろうけれど (PSP用ゲーム『第2次スーパーロボット大戦Z』では、ここにアレルヤも立ち会うという改編が行われている。感謝……!) 考えてみれば、ハレルヤという存在にスメラギしか触れない時点でやや「扱いに困っている」ような節はあった。 

とはいえ、それだけならまだ取り戻せる余地はあった。問題はやはりセカンドシーズンで、第3話で華々しく復活したはいいものの、戦闘で目立った活躍もなく「マリーの奪還」という目的は第7話で早くも達成、その後も「パーティーでは待機組 (第8・9話) 」「ハレルヤが復活するがその後しばらく音沙汰がない (第10話~第18話) 」「非戦闘員の脱出をサポートするため戦闘には不参加 (第11・12話) 」「メメントモリ攻略戦でトランザム要員となり、戦闘には不参加 (第13話) 」「メメントモリ攻略戦でマリーをミッションに組み込んだスメラギを糾弾する (第14話) 」「セルゲイがアンドレイに討たれたものの、セルゲイとの対峙はピーリスが担うことになる (第18話~)」「ピーリスの復讐を止めようとするが、彼ではなく沙慈がその役割を担う (第19話~) 」……と、加点ポイントがないまま減点だけが重なっていき、戦闘面の見せ場も片手で数えるほどしかない有り様。 

ヒリングとの最終決戦でこれまでの鬱憤を晴らすかのような大活躍を見せてくれたものの、一連の不遇ぶりはそれで清算するには重すぎた。アレルヤ……もとい超兵組の大活躍も、彼が背負った物語への決着もバッチリ描かれる劇場版や、劇場版後の「ハレルヤへの向き合い方」が描かれる『ガンダム00 Festival 10 "Re:vision" 』がなければ、自分は今も『00』という作品を心のどこかで呪い続けていたかもしれない。 

……と、このような状況で、突如小説版00という事実上の新規供給――それも、自分が行っていた「納得」に対する答え合わせが多分に含まれた――が降ってきたのだから、それはもう自分にとってとんでもない大事件だったのである。

 

太陽

太陽

(キャラクターソングのリリース順も、なぜか刹那→ロックオン→ティエリアアレルヤの順番だった。イジメ……?)

 

アレルヤの描写補完と “答え合わせ” たち 〉

 

本書におけるアレルヤの描写補完はアニュー周りほど大仰ではなく、あくまで台詞の追加や心情描写といった「補完」の域に留まるものだった。しかし、彼について考え続けてきたオタクにとってはどれもこれもが至上のご褒美。例として、ファーストシーズン第11話『アレルヤ』における超人機関襲撃後、アレルヤがスメラギの部屋を尋ねるシーンを見てみたい。

 

「あれは……何ていうか、ハレルヤに背中を押されて……というか、突き飛ばされて、それでトリガーを引いたんです。でもそれを、ぼくは他人のせいにはしたくない。だからぼくは、ぼくの意思でトリガーを引いたと思っています」 

 (中略) 

「同類たちの意識が一つ一つ消えていくなかで……ぼくは安心していたんです。同類たちの命と一緒に、ぼくの過去が消えていくような気がして。ぼくの中の忌まわしい過去と、忌まわしい記憶が」 

 (中略) 

「ひどい人間ですよね。過去なんて消せるはずないのに。他人の命を犠牲にして過去を清算しようだなんて……」
「そうね、ひどい人間だわ」
と言って、それからスメラギは悪戯っぽい微笑みをみせた。
「だって、私たちは希代のテロリストだもの」 

 (中略) 

「なぜ、このような苦いものを……」
 苦いものを飲み下すのも大人ってものよ。
 そう言うように、スメラギは目を細めて微笑んだ。
「――そのうちわかるわ、きっとね」

-「機動戦士ガンダム00」第2巻『ガンダム鹵獲作戦』P.138~141

 

アレルヤの物語は「受容」の物語でもあった。ハレルヤという負の衝動/エゴイズムを自分自身であると受け入れ、他人を通して自分を赦し、そうして初めて、人は「善」を為せるようになる。本質が歪んでいても、その行動が人の命を救うなら=未来を切り拓くものであるならば、決して間違ってはいないのだと。 

「人間が善を為すためには」という普遍的なテーマ――ソレスタルビーイングという存在、あるいは『00』という作品そのものを内包した彼の物語において、この「苦いものを飲み下すのも大人ってものよ」という台詞はまさに核心を突いたもの。引き金を引いたことを「他人のせいにしたくない」と口にするアレルヤの姿は、このエピソードがアレルヤの物語における重要なターニングポイントであると、より深く理解させてくれるものになっていた。 

……と、このように、ファーストシーズンの描写補完は「元々不足とは思っていなかったところに思わぬプラスがある」というものがほとんど。一方、セカンドシーズンの描写補完は、元々「ここはどうなのよ……!?」と感じていて、自分の中で必死に理屈をつけていたり「こうだったんだろうな」と妄想で補っていた点について、公式からの「自分達はこう思ってました」という回答=ある種の答え合わせになっているのである。 

例えば、第3話でトレミーに帰還したアレルヤがライルを目にした時の「ロックオン! どうして!?」「そのリアクション飽きたよ」というやり取りの後に、ティエリアから「彼はニール・ディランディの弟だ」という説明がなかったことについては、アレルヤは説明を受けていたが、いざ目の当たりにすると我を忘れて訊いてしまった” というニュアンスが添えられていた。このガンダムマイスター、可愛すぎない……!?

 

 

また、セカンドシーズン第4話『戦う理由』においては、前述のファーストシーズン第11話『アレルヤ』での一連を踏まえて、今度は「アレルヤがスメラギの悩みを聞きに来た」シーンが描かれていたが、蓋を開けてみれば、その実話をしているのはスメラギではなくアレルヤ……というややとんちんかんな状況になっていた。 

その後、アレルヤの方から「戦う理由、見つけられますよ。スメラギさんなら」という言葉をかけているので、最初からこれを伝えるのがアレルヤの目的だったんだろうな……と脳内補完していたところ、本書では「スメラギを励ましに来たが、上手く話題を出せずに悩むアレルヤ」「スメラギに促されるまま自分のことを話してしまい、気づいてから申し訳なくなるアレルヤの姿が描かれており、「やっぱりアレルヤの目的は自分語りじゃなくスメラギを励ますことだったんだ!」とスッキリすることができた。にしてもこのマイスター本当に可愛 (割愛) 

これらの描写は、もしかすると「本編の反響を踏まえた後付け」なのかもしれないけれど、そこに「作り手の “こう在るべき” 」という認識が現れているのは紛れもない事実。そのような公式回答、あるいは公式見解によって、セカンドシーズンのアレルヤについていくつもの「答え合わせ」をすることができた=公式と自分の「アレルヤへの認識」が一致していたと、製作陣が「アレルヤをぞんざいに扱っていた訳じゃなかった」と分かったことには、まるでこの20年間が報われたような想いだった。ありがとう、小説00……!!

 

 

〈第14話『歌が聴こえる』について〉

 

前述のような補完が数多く見られる小説のアレルヤだが、中でも見事な補完の一例として、セカンドシーズン第14話『歌が聴こえる』の「アレルヤが、メメントモリ攻略戦でマリーを作戦に組み込んだスメラギを咎める」シーンを見てみたい。

 

 アレルヤは顔を上げ、モニターに映るスメラギに向かって言った。喉から絞り出される声が、重く、硬く、冷たく、無数の棘を持つことはどうしようもなかった。
「……でも、もう二度としないでください。お願いします」
『……ええ、わかってるわ……』
 スメラギは眉をひそめてうなずき、アリオスの前から離れていった。彼女の背が第一格納庫から通路へ移るのを待って、アレルヤはシートに体をうずめた。
 指先で前髪を払う。軽い自己嫌悪があった。
 スメラギを責めるべきではないとわかっている。だが、どうしても抑えきれなかった。
 彼女をもう二度と戦場には戻したくない。彼女の手を再び血塗られたものにしたくない。彼女に人並みの生活を送ってもらいたい。それはマリーを託してくれたセルゲイ・スミルノフ大佐との約束であるし、またアレルヤの戦う理由でもあった。
 だが、それを根本的に叶えるためには戦いをなくすしかない、アロウズを叩くしかない。でも、いますぐにどうこうできるものでもない。
 ――力が欲しい。
 強くそう願う。忸怩たる思いがある。
 彼は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「……ハレルヤ……」
 ……ぼくはどうすれば……。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第3巻『散りゆく光の中で』P.243~244

 

本編では、このシーンはスメラギの「わかってるわ」で終わっているので、そこから下は本書のオリジナルシーンとなっている。 

メメントモリ攻略戦においてマリーの力が必要だったのは誰の目にも明らか。そもそも、アレルヤは自分の我が儘でマリーをトレミーに乗せてもらっている立場なのだから、スメラギを一方的に責めるのはお門違いもいいところ。……と、そのことはアレルヤも分かっているはずだけれど、本編の「スメラギを責めるだけで終わっている」描写だけでは、アレルヤの詳細な心情まではどうしても読み取れない。結果、「アレルヤもそのことは分かっているけれど、どうしても言わずにはいられなかったのだろうな」と好意的に解釈する他なかったし、そもそも、アレルヤが「身勝手な人間」と捉えられかねない描写の存在それ自体が大きすぎるショックだった。  

と、そんなところにこの小説オリジナルシーン。「あの台詞の背景はこうであってほしい」という理想がそのまま公式からお出しされたばかりか、アレルヤが自分の力不足=ハレルヤのいない現状を憂う、という美味しいシーンまで追加されているのである。ともすれば、この一連こそが小説00における「一番嬉しかった補完」とさえ言えるかもしれない。 

(なお、小説では展開上、同じ第14話でリヴァイヴとの戦闘中に放った「ハレルヤがいなくてもッ!」という台詞がカットされている。上記の台詞はこのカット分の補填、あるいはこの台詞に繋がるアレルヤの葛藤を深掘りしたものと取ることもできる。本当に巧いよこの小説……!)

 

 

アレルヤにとって “セカンドシーズン” とは何だったのか〉

 

ファーストシーズンのアレルヤは、自分の本質・罪の象徴である――と思い込んでいた――ハレルヤを拒みつつも、一方ではいつか下される裁きの時、あるいは死に場所を求め続ける儚い青年だった。しかし、彼は戦いの中で「ソレスタルビーイングが命を懸けた行いに下される答えを、自分自身で確かめる」ことを誓い、そのために「生き残る」と決意する。 

それがたとえエゴだとしても、他人を傷つける選択だとしても、自分は生きる。生きなければならない。仲間たちとの日々がアレルヤとハレルヤを繋ぎ、彼らを「真の超兵」へと誘う――。それが、ファーストシーズンを通して描かれたアレルヤの成長であった。

 

 

その後、セカンドシーズン最終盤では満を持してアレルヤ×ハレルヤのコンビが復活。その際のハレルヤは「マリーだけ見てろ」とアレルヤに喝を入れており、これまでよりも彼に寄り添った様子が見られていた。 

アレルヤとハレルヤは同一の存在。ハレルヤがアレルヤに歩み寄ったということは、アレルヤもまたハレルヤに歩み寄ったという証。セカンドシーズンにおいても、アレルヤとハレルヤの間には何らかの関係性の変化があったと然るべきだろう。  

自分は、アレルヤが「マリーを守る」という彼自身の戦う理由、そして「自分たちのような存在が二度と現れない世界にする」というガンダムマイスターとしての戦う理由を見つけたことが、2人の関係性を変えた要因だと思っていた。生きる理由、戦う理由という「これまでハレルヤやソレスタルビーイングの理念に任せていたもの」を自らの意志で選び取ったことは、同時に彼が自らの背負うべき罪=ハレルヤを受け入れたことでもあるからだ。 

しかし、いざ小説を読んでみると、そこでは自分が思い至らなかった観点から2人の関係の変化が描かれていた。問題の描写が行われているのは、第22話『未来のために』でマイスターたちが出撃する際の下記のシーン。

 

Unlimited Sky

Unlimited Sky

『マリーでいい』
「えっ?」
 訊き返すと、彼女は言った。
『そう呼びたければ、それでいい。しかし、私は……』
 口ごもるように彼女の声が消える。
 それにアレルヤは答えた。
「わかってるよ」
 今度はピーリスの方が『えっ?』と尋ね返してくる――そんな息づかいだけが聞こえた。
 音声のみの通信だったので、彼女の表情まではわからないが、おそらくは軽く目を見はっていることだろう。
 対して、アレルヤは小さく微笑んでいた。
 なぜ微笑んでいるのか、彼自身にも不明だった。
 だが、ピーリスがアレルヤの心情をくみとって「マリー」と呼ばれることを受容、あるいは譲歩したように、アレルヤも自分の心を一歩引かせたとき再認識したのである。
 マリーとピーリスは決して別々の人格ではない。
 意識の底では記憶を共有している。
 思い返せば、彼女の主人格がマリーであったときもセルゲイ・スミルノフ大佐の話が出てくることは多かったではないか。
 そして、スミルノフ大佐と共にいたのはピーリスだ。
 彼女が大佐の仇を討ちたがっていることは理解している。しかし、それはむしろ、彼女が情に厚いことを証明するものなのではないだろうか。
 彼女の優しさは、いささかも損なわれてはいない。それが嬉しい。
 過去に戦火を交えた因縁や気性の激しさから、ややピーリスを持てあまし気味だったことは否定しえない。ピーリスという存在を受け入れたつもりで、受け入れてなかったのかもしれない。
 だが、いま、その胸の奥にわだかまっていた感情が、ゆるゆると氷解していくような気がする。
 マリーとピーリスは、体を同一にした双子のようなものだ。自分とハレルヤがそうだったように。
 ならば、彼女を守ることに何の違いがあるというのだろう。
 アレルヤは操縦桿を強く握り、表情をひきしめた。
アーチャーアリオスアレルヤ・ハプティズムソーマ・ピーリス――目標へ飛翔する」

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第5巻『再生』P.77~79

 

「僕やソーマ・ピーリスのような存在が、二度と現れない世界にするために」という言葉を受け、マリーと呼ばれることを受け入れたピーリス。その優しさが、アレルヤに「彼女もまた、マリー・パーファシーである」ことを気づかせた。 

アレルヤとハレルヤ、マリーとピーリスは、それぞれ記憶と身体を共有した双子のようなもの。つまり、マリーの優しさはピーリスの優しさであり、ピーリスの怒りはマリーの怒りでもある。思いは一つでも、その「表れ方」が違うだけなのだ。 

それは、一人の人間に様々な側面があることと一体何の違いがあるのだろう。ピーリスを内心で拒絶していたアレルヤは、ここでようやく彼女を含めた「マリー・パーファシー」という人間を心から受け入れることができたのだ。 

そして、アレルヤが彼女への理解を深めたことは、転じて彼自身=アレルヤ・ハプティズムとハレルヤへのより深い理解にも繋がっている。

 

 

アレルヤもハレルヤも同じ一人の人間。ハレルヤの残虐性はアレルヤのものでもあり、アレルヤの「マリーを守りたい」という想いは、ハレルヤの想いでもある。多種多様な感情が渦巻き、善と悪が際限なくぶつかり合い、その結果として様々な「顔」を持つのが人という生き物であり、そういった意味では、アレルヤとハレルヤもあくまで「ごく普通の人間」に他ならない。 

そして、アレルヤとハレルヤの相克が「一個人の中で行われる善悪の葛藤」であるならば、アレルヤが抱え続けてきた悩みへの回答も自ずと浮かび上がってくる。 

人がある感情を持つことは、それと相反する別の感情を「打ち消す」ものではない。誰かを憎みながらも愛することは矛盾ではないし、悪人が正義に憧れることもあるだろう。つまり、たとえハレルヤが生に執着する残虐なエゴイストでも、それはアレルヤの中にある「善を為そう」という心を否定するものではない。アレルヤが、ハレルヤを抱えたままに「善」を為すことは――悪を抱えながら善を為すことを、世界が “偽善” と呼ぼうとも――決して「間違い」であるはずがないのだ。  

アレルヤが晴れやかな表情を浮かべて出撃したのは、ピーリスとマリーの関係を受け入れ、彼女を守りたいという想いを新たにできたから。けれど、彼はきっとこの瞬間、彼女だけでなく自分自身=アレルヤとハレルヤの関係をも理解し、心のより深い部分で受け入れていた。マリーという自分と鏡映しの存在を通して、自分自身との対話を果たす。アレルヤ・ハプティズムにとって、セカンドシーズンとはそのような物語だったのではないだろうか。

 

 艦を降りて旅に出たいと初めて言ったとき、プトレマイオス2の仲間たちは、こぞって彼に翻意を促した。だが、彼は頑として首を縦に振らなかった。
 ティエリア・アーデからヴェーダを介して届けられたメッセージ――ヴェーダ内から発見されたというアレルヤの過去データと、そこに記されていた彼の出身地――を見た瞬間、彼の中にたとえようもない情動が奔騰し、どうしてもそれが抑えきれなくなったのである。
 自分はどこで生まれたのか、自分は何者であるのか。
 どのようなルーツがあるのか。
 どうして超兵となったのか。
 自分のことを記憶している人間は残っているのか。
 それを実際に見て、聞いて、知って――。
 彼は “納得” したかったのである。
 世界を構成するひとりの人間として、自分の存在にどのような意味があるのかを。

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第5巻『再生』P.391

 

自分という存在を認め、受け入れることができたアレルヤは、マリーと共に世界を巡る旅へと出発する。記憶を失い空っぽだった彼が、マリーという他人に祝福 (名前) を貰い、自分自身と対話し、やがて自分と世界との繋がりに向き合っていく。刹那やライル、ティエリアが「対話によって自分を変革させた」者であるならば「対話によって己を形作っていった」のがアレルヤという青年。00という作品のテーマをその身に宿し、物語を通して己を作り上げていった彼は、紛れもない『00』主人公の一人だった――と、そう改めて思わせてくれた小説00には、いくら感謝をしてもし足りない。愛を持って『00』を書いてくださったこと、同作をより一層好きにさせてくださったこと、そして絵コンテのみの幻に留まっていた「イノベイターへの覚醒」を形にしてくださったこと、本当にありがとうございました……!!

 

 

おわりに - まだまだ語り尽くせない『小説00』

 

ここまで、25000字以上かけて (とは言っても、その何割かは小説本文の引用だけれど) 魅力を語ってきた小説00だけれど、その魅力はまだまだ語り尽くせない。 

セカンドシーズン第18話『交錯する想い』ラスト、刹那が「会いに行こう、ルイス・ハレヴィに」と手を差し出すシーンでは、本編と違って「沙慈が、すれ違い様に刹那と手を打ち合わせる」という粋な演出がなされていたり、リヒティの台詞や心情がクリスとの顛末を踏まえて細かく変更されていたり、ファーストシーズンで沙慈がルイスへの返事をはぐらかしていたのは、両親の死をきっかけに、彼の中に「現実的な視点 (自分がいなくなることへの懸念) 」と「約束が裏切られる辛さ」が根を張っていたから、と説明されていたり、2008年4月時点で「0ガンダムパイロットが物語に絡む」ことが示唆されていたり、リボンズの計画では、ティエリアが内部からソレスタルビーイングを滅ぼすはずだった」こと、つまりは『Prototype』の謎カットの真相が明かされたり (卵が先か鶏が先か、という話だけれど) ……。 

また、これは00に限らずノベライズ全般に言える話だけれど、小説を読みながら「ここのBGMはこれであってほしかった」というifを自分で実現できるのも非常に楽しい体験だった。自分はメメントモリ攻略戦で『Prototype』が流れたり、ダブルオーライザーの初ドッキングで『O-RAISER』が流れる未来をずっと夢想してたオタクなんですよ……!

 

 

が、これらを一つ一つ語っていてはキリがない。それに (ここまで散々書いておいて今更だけれど) この記事に触れてくださるような00ファンの皆様には、なるべく何も知らない状態でこの小説版に触れ、その魅力――とりわけ、文章で紡がれる「真のセカンドシーズン」の衝撃を直に浴びてほしいところ。 

というわけで、今回の記事はここまで。最後はこの小説00を象徴する素晴らしいパートを引用して締め括りとさせていただきたい。 

ここまで長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。いつかまた、『00』が再び動き出したその時に……!

 

Unlimited Sky

Unlimited Sky

 ティエリア・アーデは、夢を見ていた。
 いや、夢を見ていたように思っているだけかもしれない。
 それでも、ふいに浮かんだイメージは、彼に懐かしい顔を思い起こさせるものであった。
 その「懐かしい」という念を抱くこと、それ自体が、彼の人間らしさを証明するものなのかもしれない。
 クリスティナ、リヒテンダール、モレノ、彼らがいまのクルーたちと一緒にブリッジにいる。スメラギ、ラッセ、フェルト、ミレイナ、イアン、リンダ、刹那、アレルヤ、そしてロックオンがなぜか二人いて、同じ顔に同じ笑みを浮かべて肩を組み合っている。
 それは単なるイメージで、勝手な想像で、ありうべからざる現実なのかもしれない。だが、ついと彼の口元をほころばせるものであった。 

 (中略) 

 共に戦ってきた仲間たち。もし、彼らと再会することがあったら、それは新たな戦いの開始を告げる合図なのかもしれない。
 彼らと会えないことはいささか心寂しく思うが、彼らと会えないことこそが重畳なのだと思う気持ちもある。
 だからこそ、深い眠りへつく前に、この言葉を送ろう。
 彼らにわざわざ伝える必要はない。心の中で思っていればいいだけのことだ。
 再会を願って、だが再会しないことを祈って。
「……さようなら……みんな……」

-「機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン」第5巻『再生』P.395~398