こがれんアーカイブ

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小説『骨灰』ひとくち感想 - 五感を蝕み “犠牲ありきの今” に杭を打ち込む、秀逸な現代建築ホラー

アニメ『蒼穹のファフナー』シリーズの脚本・シリーズ構成などで知られる冲方丁氏執筆のホラー小説『骨灰』ファフナーが大好きなオタクとしてはこの立て付けだけでも心惹かれたのに、裏表紙に書かれた下記のあらすじでガッと心を掴まれてしまったので前情報ゼロで購入。果たして、氏のホラー初挑戦作とは思えないくらい見事だった一作だ。


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大手デベロッパーのIR部に勤務する松永光弘は、自社の高層ビル建設現場の地下へ調査に向かっていた。目的は、その現場についての『火が出た』『いるだけで病気になる』『人骨が出た』というツイートの真偽を確かめること。異常なまでの乾燥と、嫌な臭気を感じながら調査を進めると、図面に記されていない、巨大な穴のある謎の祭祀場にたどり着く――。地下に眠る怪異が、日常を侵食し始める。恐怖の底に誘う衝撃のホラー巨編!

引用:「骨灰」作品ページ - KADOKAWA

 

最近流行りの建築系ホラーにSNS……それもTwitterが絡んでくるという今っぽさに、地下に眠る祭祀場というド王道。それだけだとやや心配になる要素ばかりだったものの、問題はそれをあの冲方丁氏が描くということ。一体どんな化学反応が起きるのかと楽しみでしょうがなかったところ、実際に読んで圧倒されたのはやはり氏の文章力。 

視覚情報がない=原則ジャンプスケアを使えない小説媒体は、その分生理的な嫌悪感を喚起しやすい性的モチーフやグロテスクなシーンを用いることが多いように思うが、本作は目や喉の乾燥、嫌な臭いなど、とかく「読み手の五感を刺激する」ことに特化した作風になっている。「画で恐怖させる」のではなく「画を想像させずに恐怖させる」ということは、則ち恐怖の根源が「無形のもの」であっても良いということ。結果、本作は「穴」という実態のないものを恐怖の根源として見事に演出しているのである。  

(これを映画でやってしまうと、視覚含めた五感が刺激されずやや無味な作品になってしまいかねない。自分の知る範囲だと『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』がこれに近い)

 

冲方氏の文章は、情景・心情ともに描写が丁寧だが取捨選択が的確なため「硬めで読みやすい」という変わった読み味になっていて、件の「五感を刺激する」作風も偏に氏の文章力があってこそ。 

また、この文章力は作品のギミックにも活かされていた。本作中盤からは、骨灰が化けた父が光弘の元に現れる (父が亡くなっていることを認識しながらも、目の前にいる父の存在を疑えない光弘の危うい精神状態の描写が本当に見事だった) が、あるタイミングから「頑張れ」という本当の父の声も響き出す。しかし、それが「頑張れ」という一言であることや、骨灰の声も同じ死者の声であり、同じように演出されていること、どちらも実体がないこと、その他幾重もの周到な仕込みによって、それが本当の父の声だとは簡単に気づけない。だからこそ、それが明確に分かった瞬間から始まる怒涛の逆転劇は「8割以上が “ひたすら光弘が翻弄され、事態が悪化していくだけ” なのは流石にどうなんだ……?」という不満を吹き飛ばして余りあるものだった。そして、この逆転劇パートで明らかになっていく本作のテーマこそが、自分にとって白眉と呼べる部分。

 

 

『骨灰』の舞台は渋谷やその周辺の都会であり、そこには多数の路上生活者が登場する。当初、光弘は彼らを自分とは別の世界の人間だと思い込み、彼らを無自覚に見下している様子さえあった。しかし、光弘は骨灰の影響で心身共に大きなダメージを負っていき、終盤では自らの家を失う寸前にまで追い込まれてしまう。  

人々が自分を避ける様に「なぜこうなったのか想像もしないのか」と憤慨する場面があったように、光弘は骨灰事件の中で「彼らは明日の自分かもしれない」「彼らは自然災害のような理不尽な目に遭った被害者かもしれない」ということを自分の身で思い知ることになる。その結果、光弘が本作のキーマンである路上生活者・原義一と接する態度は冒頭と終盤で全く異なったものになっている。そして、そんな光弘の認識の変化が最終的に彼自身を救うことになっていく。 

この路上生活者に代表されるように、本作は過去と現在における「 “今” の犠牲となったもの」に鋭く切り込み、私たちが知らずに背負っている罪を浮き彫りにする作品だ。しかし、それは「罪を自覚しろ」と一方的に責め立てるものではなく「その罪を知り、決して忘れることなく、しかしそこに囚われずに生きるべきだ」という中庸を説いているように思う。そのことを象徴するのが本作のラストシーン。

 

 そう考えつつ、眼下の歩道に立ってこちらを見上げている者たちを、ごく自然に見つめ返していた。
 父と、原義一を。
 目を逸らすべきだができなかった。窓に手を当て、二人を呼び寄せたいと思った。
「何見てるの?」
 美世子が、光弘の視線を追いながら訊いてきた。
 ――知ってるか? おれたちみんな、死者の上で生活しているんだ。  

  (中略)  

「人通りが増えたな、と思って」
 父と原義一が見上げるのをやめ、行き交う人々とともに自分たちも生者であるかのように歩き始めた。
 光弘も、彼らを目で追うことはせず、家族がいるほうへ静かに顔を戻した。

-「骨灰」P.471~472 より

 

渋谷の地下に流れ着いた父の遺品と、そこに宿る父の魂。そして、同じく渋谷の地下に人柱として生き埋めにされてしまった原義一。2人が光弘を眼下から見上げる姿は「過去の犠牲が今を支えている」という本作の骨子そのものであり、一連の出来事で現世と隔世の境界が曖昧になってしまったのか、光弘は彼らにごく自然に親しみを感じてしまっている。 

しかし、光弘はあくまで彼らを追いかけはしない。それは、作中でも言われているように/神という概念がそうであるように、霊や怨念は本質的に善悪を持たない自然災害のようなものだから。であればこそ、我々は犠牲となった者を忘れず、哀悼の意を持ちつつも、そこに囚われてはならない。未来へ受け継ぐべきは「記憶」であって「因縁」ではないのだ。  

そして、このようなメッセージは前述の『蒼穹のファフナー』にも色濃く表れている。

 

蒼穹

蒼穹

死が土へと還ることだと言うなら 死者の上に立っているようなものさ

- angela蒼穹」より

 

ジャンルこそロボットアニメだが、ファフナーもまた「過去の犠牲があって今がある」ことへの哀悼、そして「未来へ受け継ぐべきは記憶であって因縁ではない」ことを謳い上げる作品。その最終章では、犠牲への哀悼の先にある「犠牲ありきの平和そのものの否定」が明確に描かれていた。  

それこそが冲方氏の描こうとしていたもの、あるいは氏の本懐なのだろうと思うけれど、『骨灰』は現代日本を舞台としている都合上「犠牲ありきの平和そのものの否定」を明確に描くことは叶わなかった。そのためか、本作は決して少なくない苦味を残して幕を下ろす。

 

シマオカ本社の狙い通り、駅には多くの若い買い物客が戻ってくるだろう。しかも来年は東京オリンピックだ。大勢の観光客も来る。たとえ予想外の災害などに見舞われたとしても街の未来は明るいはずだ。それだけの “埋め合わせ” がなされているのだから。

-「骨灰」P.471 より

 

光弘は、土の中に眠るものを知り、それを悼みつつも過去に囚われない生き方を選ぶことができた。しかし、その中庸の結果か、それとも自身が生み出してしまった犠牲から無自覚に目を背けてしまっているのか、彼は各所で行われている “埋め合わせ” を少なからず受け入れてしまっているようにも見えた。でなければ――仮にそれが表面的な話に過ぎなかったとしても――ここで「街の未来は明るい」などとは到底口にできないだろう。 

そんな光弘に対し (操られていたとはいえ) 自分の手であれだけの犠牲を出したのに、その他人事みたいな語り口はどうなんだ」という憤りがないと言えば嘘になる。しかし、自分に彼を咎められる権利があると思うこともできないのだ。 

私たちの身の周りにも、大なり小なり本作で描かれたような「犠牲ありきの今」が溢れ返っており、私たちも無意識のうちにその加害者になっているかもしれない。本作中では辿り着けなかった「犠牲ありきの平和に対する否定」に近づいていくためには、私たち一人一人がそんな現状を知り、自覚し、その上で日々を誠実に生きていくしかない。 

けれど、それは何も「具体的な活動を始めろ」「物理的な成果を上げてみせろ」という大仰な話に限るのではなく、例えば「傷ついた隣人を思いやり、手を差し伸べる」という素朴な善行もまた、本作が示す道のりに含まれているのだろうと思う。自分には “亡くなった原義一が荒木奏太の側に回らなかった” という事実が、そのことを示す証左であるように思えてならないのだ。