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感想『映画 ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード / 映画 仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者』- 90分に凝縮された「ゴジュウ」の本懐と「ガヴ」の原点

『キングオージャー×ギーツ』『ブンブンジャー×ガッチャード』と、ここ最近は「スーパー戦隊仮面ライダー、どちらの劇場版も面白い」という状況が続いている。一時期のニチアサを思うと本当に幸せなことだと思うし、牛歩でも様々な問題が改善に向かっているのだろうか、と期待を抱かずにはいられない。 

して、今回の『ゴジュウジャー×ガヴ』もそれら同様「2作とも面白い」作品だったが、両作揃っての満足度では突出したものがあった。そんな手応えの正体を考えながら、今回の傑作2本立てについて振り返っていきたい。


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引用:『仮面ライダーガヴ&ゴジュウジャー』2本立て夏映画、7月25日公開決定!特報&ティザービジュアル公開 - シネマトゥディ

 

《目次》

 

 

感想『映画 ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード』

 

要素メガ盛り、やってることは荒唐無稽……と思いきや、その実不思議なほど筋が通っている、という独特な視聴感が癖になる現行スーパー戦隊『ゴジュウジャー』。本作は、テーマである「願い」にスポットを当てることで、その本質を浮き彫りにするような作品になっていた。

 

 

「厄災」の生き残りである強敵・ペスティアによってテガソードが倒され、ゴジュウジャーとブライダンが一時共闘する――という、いかにもヒーロー映画な筋書きを背負った本作。しかし、いざ蓋を開けてみるとそれは「トンチキなバトルを掻い潜り、通すべき筋を見つけていく」という紛れもない『ゴジュウジャー』の型。そして、本作はその過程で「テガソードの正体」というトピックに迫っていく。 

テガソードとは、かつて生存の危機に瀕した人々が、その「生きたい」という願いによって生み出した文字通りの神。そんなテガソードを打ち倒したペスティアは「平和を手に入れたことで人々の願いは濁り、純粋さを失い、結果テガソードの弱体化を招いてしまった」と嘯くが、テガソードはそんな弱き人間をこそ愛するのだと、全人類に向けて愛を叫んでみせる。

 

 

吠が「願いに綺麗も汚いもない」と言ったように、テガソード――あるいは『ゴジュウジャー』が肯定するのは「善い願いを持つこと」ではなく「願いを持つこと」そのもの。 

そも、願いとは弱さから生まれるものである。弱いから、欠けているものがあるから、それを埋めようと願う。その願いが人格を形作り、個性という花を育てていく。もし願いを捨てて他人に合わせる生き方を選んでしまったら、それはモリスのような「心を失った群体生物」と何ら変わるところがないだろう。 

強い存在である必要もなければ、綺麗な存在である必要もない。欠けているものがあるなら、それを埋めるために手を伸ばせば良い。思えば、同じことを説き続けてきたのがスーパー戦隊シリーズであった。

 

 

願いとは不完全の象徴であり、不完全とはスーパー戦隊の核である。ならば、願いとはスーパー戦隊と表裏一体の概念であり、だからこそ、願いを持つ者はそれだけで「スーパー戦隊」足り得る。その具現として、テガソードの真の姿・テガソードオリジンが世界中に指輪を贈り、「願いを持つ者」という共通項を持ってして、文字通り全人類が戦隊となっていく。  

それは、ゴジュウジャーがナンバーワンバトルやユニバース戦士を通して描いてきた「誰だってナンバーワンになれる」という可能性の表れであるだけでなく、「願いを持つ者=すべての人間は、戦隊という屋号で繋がることができる」という、戦隊概念の超・超・超拡大解釈の帰結でもある。  

であるなら、吠たちがはぐれものであることなんて「ゴジュウジャーがそれぞれにゴレンジャーハリケーンを持つ」のと同様、もはや些細な問題であり「個性の一環」に過ぎない。彼らは決して孤独ではないのだ。

スーパー戦隊シリーズが積み重ねてきた歴史に、そして日々を戦うすべての人々に贈る愛のエール。それこそが、この『復活のテガソード』であり、ゴジュウジャーという作品が描こうとしている到達点なのかもしれない。

 

WINNER! ゴジュウジャー!

WINNER! ゴジュウジャー!

 

感想『映画 仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者』

 

当初は「パラレルもの」「丸太を持つグロッタ姐さんなどのネタ要素」「記憶喪失のゲスト」といった情報ばかりで具体的な話が聞こえてこなかったので、ははぁ、パラレル世界でファンサをしつつ、ゲストが新しいライダーに変身する感じの映画だな……と早合点してしまい鑑賞モチベーションが低かったのだけれど、いざ公開されるとタイムラインが「令和夏映画で一番好き」「人の心がない」など悲喜交々。これは自分の目で確かめねば、と重い腰を上げて鑑賞したところ、なるほどアクション (画作り) ・ファンサービス・ストーリーのいずれも抜かりない、まさに令和夏映画屈指の出来映えであった。

 

 

まず触れたいのがアクション (画作り) 面。本作は本編でメイン監督を務められている杉原監督が手がけられており、例によって実写・合成の境界が崩れるダイナミックな映像が満載。冒頭のポッピングミフォームからしてグミ要素 (崩れる鎧) マシマシで魅せてくれるし、終盤の「ホイップ兵VSミューター兵」「ヘクセンハイムVSカリエスC3」などド派手な画も盛り沢山。ブルキャンバギーの存在から、ガヴにライダー的な見せ場を期待していなかった身としては「カリエスにバイクで挑むショウマ」の一連は不意を突かれて大興奮だったし、ショウマ・絆斗・ラキアによる「最強フォームへの同時変身」は脳汁が溢れて止まらなかった。これらの時点で元は取れた……とさえ言えた本作だけれど、個人的に「白眉」と挙げたい部分は他にある。

 


(それらの戦闘シーンを際立たせてくれたのが劇伴。『EAT ME!』を劇場の音響で浴びれた冒頭はそれだけでテンションが振り切れてしまったし、カリエスとの最終決戦を『最後の審判』のアレンジで彩るという采配には劇伴のオタクとして頭が下がる思いだった。坂部剛さん、ありがとうございます……!!)

 

〈コントロールの行き届いた作劇と、ストマック家の「上品」な演出 〉

 

一つ目の白眉は、そのコントロールの行き届き方……具体的には「こちらの感情を的確に把握した」作劇。 

というのも、本作には前述の通り数えきれないほどの不安要素があった。本編とは関わりの薄そうな「パラレル世界」という舞台、ネタ的な扱いを予感させる仲良しストマック家、「どうせライダーに変身するんだろう」と邪推してしまったガヴ持ちのゲスト・タオリン、これといった情報がないため、所謂「劇場版のために用意されたボス」の域を出ないだろうと思われたミューター……。 

が、その実本作の舞台は単なるパラレル世界ではなく「闇菓子が存在しなかったら」という『ガヴ』のif世界。そんな世界で、唯一ショウマだけが別人である=ショウマは闇菓子という存在がなければこの世にいなかった、という残酷な事実は、非常に仮面ライダー的であるもののそれ故に残酷で、ショウマがもう一つの世界 (以下、パンフレットでの言及に倣い「B世界」と呼称) を見て回る姿……特に、ひだまりで「母とその “人間の娘” 」を目にしてしまい、挙動不審になる様子には文字通り目も当てられなかった。 

一方、そんなB世界におけるショウマが本作のキーパーソン=タオリンであり、彼はミューターの首魁・カリエスとその部下・クラープ (カリエスのフォーム名含め、すべて虫歯関連の用語で統一されているのが巧い) がガヴの採取を目的に作った培養体の一人。この培養体周りは「お菓子の家という牧場」「ガヴは直接 “剥ぎ取る” ことで採取する」と、アマゾンズもかくやというエグさで描かれており、タオリンがガヴを剥ぎ取られたシーンなどではしっかり血まで出ている有様。……というか、ここで「タオリンが死ぬ」という展開からして予想外も予想外。このエグさは「今のライダーでここまでやっていいんだ!?」という驚きと同時に、ミューターに倒すべき悪としての説得力、あるいは確かな「格」を与えてくれていたように思う。

 

(仮面ライダーカリエス、C1からC3という「虫歯の進行」が名前にもデザインにも落とし込まれた名デザインで、世界氏の名演も相まって近年のダークライダーでもトップクラスの存在感を放っていた)

 

格といえば、当初はネタ的な扱いが懸念されていたパラレルストマック家がしっかりと活躍していたのも大きなポイント。


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引用:ストマック家が一致団結!?最凶の敵・仮面ライダーカリエス登場 映画『仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者』映画『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード』本予告 - YouTube

 

序盤こそコメディタッチに描かれていた彼らだけれど、それは単なるギャグ堕ちではなく「闇菓子が存在しなかったら」という地に足のついたifの姿。この時点で大いに感心させられてしまったのだけれど、度肝を抜かれたのは彼らがクラープからショウマを救う一連。 

というのも、このシーンでランゴは「ウチの末っ子たちが世話になったようだな」という台詞と共に登場する。この「末っ子たち」はあくまでミューターに拐われたシータとジープを指す言葉であり、そもそもこの世界にショウマは存在していない。けれど、ランゴがショウマを抱えた状態で言われるため、その台詞はまるで「ショウマも含めたもの」のように聞こえるのだ。  

闇菓子がなければショウマは生まれなかった。闇菓子がなければストマック家は道を踏み外さなかった。両者は決して交わらないという一線も、ストマック家の格も守りつつ「けれど、道を踏み外さなかったストマック家で、平和に過ごすショウマも見たかった」という視聴者の願いを叶えてくれるこのシーンの、なんと上品なことだろう。我ながら信じ難いことだけれど、自分が本作中で最も――どんなスペクタクルや悲劇よりも――感銘を受けたのは、他ならぬこのシーンだったかもしれない。

 

 

〈 『仮面ライダーガヴ』の帰還〉

 

もう一つの白眉として挙げたいのは、本作が「自分の観たかった『仮面ライダーガヴ』」であった点。

 

 

自分は『ガヴ』という作品が好きだけれど、正直なところ最近やや乗りきれていない節がある。その大きな理由は「お菓子とフォームチェンジが紐付いたドラマ」という本作ならではの旨味が薄まってしまったこと。  

ショウマという人でもグラニュートでもない (=人でもグラニュートでもある) はぐれものを、人間界と繋げてくれたのが他ならぬお菓子。それからも、ショウマにとってお菓子は「人との交流」の象徴・思い出として彼を支え、その物語はケーキングフォームやヴァレン・フラッペカスタムといった形で大成していった――が、ブリザードソルベやオーバー/マスターガヴ、アラモードモードなど、後半になるにつれその必然性が薄まっていき、デンデの過労問題も併せて徐々に窮屈……あるいは「無理がある」シチュエーションが増えていった。『ガヴ』後半の「面白くなくはないのだけれど」感は、このような「ガヴ特有の旨味」が薄れたことに起因しているのだろうと思う。 

それだけに、今回のヘクセンハイムはまさに「自分の好きだった『ガヴ』の帰還」と呼べるものになっていた。

 

 

敵も舞台も本編とは異なる本作だが、その作劇は「お菓子を通じてゲストと交流を深め、それが巡り巡ってショウマの力になる」という本編序盤のフォーマットを踏襲したものになっている。違うのは、これまではお菓子を貰い、作り、分け合っていたショウマが、今度は「教える側」に回っていること。お菓子の美味しさ、作る楽しさ、そしてそれを分け合う喜び……といった数々の幸福を、今度はショウマがもう一人の自分=タオリンへと繋いでいく。  

そうして彼らが作るのは、本作のタイトルにもあるお菓子の家。お菓子の「家」を作っていく過程で、記憶がなく、どこにも居場所を見出だせなかったタオリンが「自らの居場所を見出だし、幸せの味を知る」というストーリーテリングは、お菓子を取り入れたドラマとして『ガヴ』という作品全体で見ても突出して美しいものだったように思う。 

食べ物の前では誰もが平等だ。人間とグラニュートのハーフであり、異世界人でもあるショウマがお菓子を通して人間と繋がれたように、種族も、立場も、記憶の有無も関係なく「美味しい」という幸せを共有できるのが食事――ひいては「お菓子」の素晴らしさ。お菓子の家から生まれたウエハウスゴチゾウが「各ライダーに等しく力を与える “場” 」を作り出す力を持っていたのは、それが『ガヴ』におけるお菓子の本質だったからなのかもしれない。

 

 

この2作には、他にも数えきれないほどの魅力があった。多彩なゲストによるユニバース戦士とまさかのBGMメドレー、マジレンジャーゴセイジャーといったアニバーサリー組のピックアップ、大きく跳ねたテガソードというキャラクターの魅力。ガヴ ヘクセンハイムのデザインや演出、ショウマとタオリンの2人に焦点を当てるという思い切った/それ故に研ぎ澄まされた脚本、本業を忘れそうになるFANTASTICSの名演に、遂に現れた新ライダー・ゼッツ……。 

パンフレットをお供にそれらの魅力を噛み締めつつ、右肩上がりに盛り上がる『ゴジュウジャー』、そして最終局面に入った『ガヴ』本編をしっかりと味わい尽くしていきたい。