ウルトラマンZ『最後の勇者』でぼくらのエースが語った48年越しの真実について語りたい

 

本日放映されたウルトラマンZ 第19話『最後の勇者』見ましたか皆さん。

 

いやぁ素晴らしかったですね今回!!!!最高だった!!!!!ウルトラマンZで何回言ってるか分からないけど最高でしたね!!!!!!昭和2期のウルトラマンが大好きなんですよもう!!!辻本監督ありがとう!!!!根元歳三さんありがとう!!!!!!!!高峰圭二さん…………!!!!!ありがとうございます!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

スゥ……(深呼吸)

 

 


今回のような“過去の主役ウルトラマンをフィーチャーしたエピソード”の歴史は古く、まるで主役であるかのような熱い演出が振る舞われたり、本編のエピローグになっていたりとベクトルは多種多様ながら、そのいずれもが多くのファンを魅了してきた。

 

過去作のファンは勿論、そのエピソードをきっかけに新規のファンが増えることも少なくなく、それこそ『ウルトラマンZ』をきっかけに『オーブ』『ジード』を視聴し虜になってしまう新規ファンが大量に生まれていることはその好例だ。これまでもそういったムーブメントを引き起こしてきた良質な客演エピソードの数々は、現在までの長きに渡ってウルトラマンシリーズが愛されている大きな要因の一つと言って差し支えないだろう。


そして今回の『最後の勇者』もまた、その例に漏れず『A』リアルタイム世代でない自分もボロボロと泣いてしまうくらいには素晴らしい客演回だった。

その“素晴らしい点”は挙げればキリがなく、それら全てについて小一時間ずつ語りたいのは山々なのだが、大きな所はエース専門家の方々に任せるとして、この記事では今回のとある台詞にスポットを当ててみたい。


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「どんな生き物も、攻撃を受ければ痛みを感じ、恐怖を覚え隙が生まれる。だが超獣はそんなものは感じない……!」


物語の流れとしては、その後の台詞と合わせて“ゼットに超獣の特性を伝え、容赦をせず畳み掛けるように激励する”台詞である。

 

ただこの台詞、『ウルトラマンエース』というヒーローを語る上であまりにも大きな意味を持っている爆弾、オタクらしく言うならば“エース村を消し飛ばす超時空消滅爆弾”だったのだ。

 


ウルトラマンエースは1972年に放送された『ウルトラマンA』の主役を飾ったヒーローで、ウルトラ6兄弟の1人として根強い人気を誇るウルトラマンだ。主人公の1人である北斗星司を演じたのは、今回もエースの声を演じてくださった高峰圭二氏。

 

そんな彼は他のウルトラ兄弟同様に今でも幅広い層から支持されているが、エースについては一部のファンからやや特殊な形で支持を受けている節がある。
その“支持”がこちら。

 

ギロチン王子 (ぎろちんおうじ)とは【ピクシブ百科事典】


要約すると、エースはその切って斬って伐りまくる異様に殺意の高いファイトぶりから“ギロチン王子”や“切り裂き魔”などの愛称(異名)で親しまれてもいるのだ。

参考までに、その一例がこちら。f:id:kogalent:20201031203801j:image

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(うわぁ…………)

 


とまあこのように“ギロチン王子”や“切り裂き魔”という呼称は誇張でも何でもなく、実際にエースがTV本編でぶった切った敵はなんと14体。エースの代名詞“メタリウム光線”で仕留めた敵が22体であることを考えるとこれがいかに異常な数かがよく分かる。
(ラスボスであるジャンボキングを仕留めたのも切断技というのだから驚きだ)

 

こうなった理由については諸説あるが、最も大きな理由としては“他ヒーローとの差別化”が挙げられるだろう。

 

ウルトラヒーローシリーズ 05 ウルトラマンエース

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  • 発売日: 2013/06/29
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 


『A』が放映された1972年は、あの初代『仮面ライダー』など多くのヒーロー番組が放送されていたヒーロー戦国時代。『A』はそれらに負けない魅力を備えたヒーロー番組として産み出された作品であり、“男女合体変身”や“怪獣を越えた超獣”など、作品に挑戦的な要素が多いのはそのためである。

 

そして当のエースにもまた他のヒーローに負けない個性と魅力が求められた結果、彼は『ウルトラマン』特有の魅力である“光線技”に長けた戦士となった。その技数はなんと40以上、しかもジャックのように武器を用いる訳でもなく己の身一つでこの数であり、結果彼は今も光の国で“光線技の名手”と讃えられている。

 

そんな“光線技の名手”ことウルトラマンエースだが、他ヒーローとの差別化だけでなく絵面のマンネリを打破する狙いもあってかその技は色も多彩、形も多彩なら、怪獣の仕留め方もまた多彩。中でもギロチン技は見た目も敵の仕留め方も他の技と根本的に異なるため印象に残りやすく、エースの背負った“他ヒーローとの差別化/マンネリ打破”という命題にうってつけだったためか、何度も形を変えて使われることになった。

 

……と、そういった背景から生まれたのがエースのギロチン技の数々。イカれたメンバー(ギロチン)を紹介するぜ!


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最もメジャーなギロチン技とされ、漫画『ULTRAMAN』でもエーススーツの技として採用された“バーチカルギロチン”。相手は死ぬ。


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ウルトラ兄弟のエールを受けて誕生した本編初のギロチン技であり、連続八つ裂き光輪というエグい技“ウルトラギロチン”。相手は死ぬ。


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最後にして最強の敵、ジャンボキングを屠った技“ギロチンショット”。相手は問答無用で死ぬ。

 

他にも『最後の勇者』でゼットに刺さらんとするバラバの剣を吹き飛ばしたX字の“サーキュラーギロチン”。敵の首を吹っ飛ばす、横一文字のカッター“ホリゾンタルギロチン”。多くのナイフ型光線で敵を切り裂く“マルチギロチン”。更に伝統の八つ裂き光輪こと“ウルトラスラッシュ”に、どこからともなく現れるシンプルな(のでかえって殺意が感じられる)剣“エースブレード”………………。

 

多いわ!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

背景がどうあれ、前述の異様な撃破率に加えこれほどのバリエーションを誇るギロチン技は“光線技の名手”ことエースを語るにおいては欠かせないトピックであり、リアルタイム世代にしろ後続世代にしろ『A』を視聴したらこれらの技が印象に残るのは当然だ。

 

やがて時が経ち、そうした『A』ファンがウルトラを撮る側になった結果、エースが新たなギロチン伝説を刻んでいくのは自明の理であった。

ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟 [DVD]

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平成における初の本格客演となった映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』では強敵Uキラーザウルス・ネオを相手にウルトラギロチンを披露し、後年の映画『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』『ウルトラ銀河伝説』では2年連続でバーチカルギロチンが登場。そしてエースがフィーチャーされた『ウルトラファイトビクトリー』ではバーチカルギロチンとウルトラギロチンが『A』当時の楽曲と共に使われてファンを湧かせた……と、平成における客演のおよそ半分かそれ以上はエースがギロチン技を用いているのである。みんなギロチン大好きかよ……(物騒)


また、映像作品外でもエースのギロチン旋風は止まらない。『ウルトラマンフェスティバル』などの舞台やゲーム作品でもエースはギロチン技を頻繁に使用しており、特にファン人気の高い伝説の作品『ウルトラマン Fighting Evolution 3』でのエースは必殺技として5つものギロチン技+エースブレードが使えるというファン感涙ものの仕様となっていた。そういうところだぞFighting Evolution。


こうしてウルトラマンエースは昭和から平成にかけて、長い長い期間をかけてギロチン使いとしてのアイデンティティーを構築していき、そこにニコニコ動画を初めとしたネットやSNSが拍車をかける形で、エースは“ギロチン王子”や“切り裂き魔”としての名声(?)を不動のものとしていくこととなった。

Twitterを中心に(なぜか)大人気となった同じ円谷発の特撮ヒーロー『レッドマン』が、怪獣を通り魔的に(主にナイフや槍といった武器で)仕留めていくことから“赤い通り魔”として話題になったことも無関係ではないだろう。

(ネットを中心に構築されたイメージにはゾフィーの“ファイヤーヘッド”など過剰にネタ寄りで好き嫌いが分かれるものも多いが、エースは本編時点で幾度となく殺意の高いファイトを展開しているからか“エース=ギロチン王子/切り裂き魔”はむしろ語り草として好意的に語られることの方が多い印象だ)

 

 

そして“エース=ギロチン王子/切り裂き魔”というイメージが定着して久しい令和の時代、まさかまさかのTVシリーズにエースが降臨したのが今回、ウルトラマンZ 第19話『最後の勇者』。

メビウス』44話以来実に13年振りの、しかも今年がアニバーサリーとなる他のウルトラマンを差し置いての客演に各所で話題となった本エピソードは、長らくニュージェネレーションシリーズのウルトラマンたちを支えてきた辻本監督×根元脚本の初タッグが遺憾無く力を発揮した傑作に仕上がっていた。f:id:kogalent:20201031205208j:image

敵は初の復活となる隠れた名超獣ことバラバ。『A』では放射能の雨というトンデモ武装を引っ提げエースを圧倒したが、今回は“ヤプールの怨念の集合体”という『A』後半の超獣やUキラーザウルスを思わせる設定で登場、ウインダムやキングジョーストレイジカスタムのみならず、現行の最強フォームことデルタライズクローを、異次元バリアという新兵器や鎌・鉄球・剣といった数々の武器を使いこなして完封してみせた(ラスボスを除くと、ニュージェネシリーズではファイブキング、グルジオレギーナといった準ラスボスクラスの怪獣しか成し遂げていない偉業?だ)。


そんなバラバに苦戦するゼットたちの前に、『A』本編のBGMを引っ提げて登場したぼくらのエース。新造されたのかいつも以上に美しいエースだったがその戦い方は健在で、サーキュラーギロチン、パンチレーザーに始まりバーチカルギロチン、ウルトラネオバリヤー、スラッシュ光線、メタリウム光線、タイマーショット、アロー光線、エースブレードにストップリング(こんな技あったっけ……)といった数々の光線技を披露し、超強化されたバラバを楽々圧倒してみせるレジェンドぶりを見せてくれた。格闘が妙に泥臭いのも実にエースらしい。

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そこに参戦するは“エースの力で変身する” “ギロチン技を使う” “レッドマンみたいな見た目” “よりにもよって槍使い”と謎の作為(粋な計らいとも)を感じてしょうがないウルトラマンゼット ベータスマッシュ。

 

エースはそんなゼットに助言を送り“ウルトラホールを持つ”という自身のポテンシャルに気付かせることで、まさかの合体技“スペースZ”を発動。劇場版のような特大演出で放たれたスペースZでバラバを撃破せしめ、最後にエースがゼットの“名付け親”だという、ウルトラの父の養子というエースの(半公式?)設定を思うと妄想が捗る関係性と、ゼットの名前に込められた願いが語られ〆。

 

……と、そんな一連の中でさりげなくエースが語ったのが、問題の「どんな生き物も、攻撃を受ければ痛みを感じ、恐怖を覚え隙が生まれる。だが超獣はそんなものは感じない……!」という台詞だ。


“ギロチン王子”というエースのアイデンティティーと、そこに至る流れを踏まえた上で改めてこの台詞を見てほしい。

そう、実はこの台詞によって“彼がなぜギロチン技を初めとする殺意の高い技で戦ってきたのか”という、誰もが漠然と「そういうものだ」と思っていた命題に、48年という長い年月を越えて、初めて公式からその理由が与えられたのである。


エース以外のウルトラマンたちが主に戦ってきた“怪獣”はただの生き物。だからこそウルトラマンたちは(一部例外もあったが)決して過剰に怪獣を叩きのめすことはなかった、というより“その必要がなかった”。

 

しかしエースが相手としていた“超獣”はヤプールの作り出した生物兵器、或いはその怨念が産み出した怪物であり、恐怖など感じない殺戮兵器。だからこそエースはギロチン技のような殺傷力の高い技を駆使して超獣を“確実に”葬り続け、いつしかそういった技を得意とする戦士になった。彼の過激な戦いはお遊びでも何でもなく、それこそがエースのウルトラ戦士としての使命そのものだったのだ。

 

漫画『ウルトラマンSTORY0』ではエースがギロチン技を産み出した経緯が語られたが、今回はそれ以上の“ウルトラマンエースアイデンティティー”そのものの理由が(後付けではあるが)明かされた。それも決してわざとらしくなく自然に、ウルトラマンZとしての流れに水を差すこともなく、更には“怪獣を倒すことへの向き合い方”という『Z』のテーマにもそれとなく触れる形で。

 

演出上の都合から与えられたギロチン技が番組の一つの目玉となり、ファンに愛される語り草に転化し、いつしかそれがアイデンティティーに昇華していったというウルトラマンエース48年の歴史。その歴史に対する公式からのアンサーが、この令和の世にウルトラマンエース/北斗星司こと高峰圭二氏の台詞というこの上ない最高の形で紡がれた。

たった1フレーズの台詞でしかないが、そのたった1フレーズによって、『ウルトラマンエース』という戦士はここに今一度完成したとさえ言って良いのではないだろうか。


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ヒーロー客演の最高傑作の一つとさえ称される『ウルトラマンメビウス』44話『エースの願い』は『ウルトラマンA』という作品、あるいは主人公こと北斗星司と南夕子にとっての完結編となっていた。それから13年経った『最後の勇者』において、エースは『ウルトラマンエース』という己の存在に一つの決着を見せてくれた。

 

それは前述の台詞による所がある……かもしれないが、やはりそれ以上に、己の平和への願いを託せる相手『ウルトラマンゼット』とのクロスタッチが何よりの証だろう。f:id:kogalent:20201031210321j:imagef:id:kogalent:20201031210552j:image

ヤプールという怨念との“終わりなき戦い”を背負い続け、ある種の象徴となってしまったウルトラマンエース。そんな『A』から『Z』の手に、平和への祈り、戦いの終結という願いは託された。

 

ヤプールとの因縁を背負いながら進む戦士。世界を担っていく新世代に平和への願いを伝え続ける勇者。50年もの長い時を越えて尚変わらぬ信念を持ち続けるヒーローであり、後輩ウルトラマンからは慕われ、ファンやスタッフからも愛され続ける“ぼくらのエース”。

そんな彼の願いを継ぐゼットがどこへ向かい誰と戦うのか、間もなく訪れるであろうクライマックスを心して見届けていきたい。


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【感想/考察 スーパーダンガンロンパ2】異端なる正当続編~日向創の“超高校級”に前作プレイヤーは何を見るのか

 

スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園 (通常版) - PSP
 


発売から幾年月が経ち、遂にクリアした『ダンガンロンパ1・2 Reload』。収録された2本のゲームはどちらもたまらなく楽しいものだったが、そのうち『スーパーダンガンロンパ2』は待ちに待った完全初見=言わば“本番”であり、プレイ前のワクワク感たるや凄まじいものだった。


直前までプレイしていた『ダンガンロンパ(以下“無印”と記載)』は、アニメを視聴済みだったため大筋を把握した上でのプレイとなったが、それでもストーリーをより深く読み込むことができたり、コトダマアクションのようなゲームならではの要素に一喜一憂したりと、想定していた以上に楽しくプレイすることができた。なら、ほぼ0からのスタートと言っていい状態で挑む『2』は一体どれほどのものを見せてくれるのだろうか……?


“無印以上の地獄”という前評判を聞き、自分のメンタルへの心配と不安と相当な覚悟を抱えて挑んだ本作。以下はしがないオタクのコロシアイ生活体験記その2、『スーパーダンガンロンパ2(以下“2”と記載)』編になります。

 

 

※以下、ネタバレ全開のため注意!

 

 

 

 

 

 


スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園


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『2』は、そのタイトル通り無印から数々の進化を遂げた正当続編だ。ゲームとしての大まかな作りはハードが同じこともあって無印とほぼ共通。グラフィックの向上は勿論のこと、インターフェースの改善にやりこみ要素の追加など、続編として非常に生真面目なブラッシュアップがなされている。


目玉となる学級裁判でのアクションやミニゲームもよりバリエーション豊かになっており、この点もまた正当進化と言えるポイント。中でも“反論ショーダウン”と“同意”は議論やストーリーの流れに特に噛み合っており、物語の盛り上がりに一役も二役も買っている。日向の「それに賛成だ!」は、苗木の「それは違うよ!」とはまた異なる、彼らしい魅力に溢れた決め台詞だ。

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他にも様々な魅力を持った『2』であるが、中でも注目したいのはそのストーリー。『無印』はその奇抜なゲームシステムやサイコ/ポップな独自の世界観が魅力である一方、非常に明快で前向きなテーマを謳うストーリーが大きな魅力を放っていた。では『2』はというと、世界観は概ね継承しているものの、イントロダクションの時点で“何かがおかしい”雰囲気を醸し出すものになっていた。

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その顔ぶれが主人公を含めて一新されたメインキャラクターたち。彼らはかの事件で壊滅したはずの希望ヶ峰学園の生徒であり、更には“修学旅行が舞台”というトンチンカンな状況。一見すると無印と別の世界線の話、もしくは前日譚のようであるが、猛烈に太っている十神の姿がその予想を押し潰してくる。誰だお前……?

 

更にダメ押しとばかりに現れるのは、苗木誠のアナグラム風の名前と緒方恵美女史の声を持ち、極め付けには苗木と同じ“超高校級の幸運”である狛枝。どれもこれもが無印をプレイしたファンとしてはワクワク待ったなしの要素ばかりで、「無印をプレイしてくれてありがとうございます! 最高の続編を用意したので是非ご賞味ください!!」というスタッフからの歓迎の手招きが透けて見えるようだった。

 

 

しかし。

 

 


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絶句。

蓋を開けてみればそれらの手招きは盛大な釣り餌で、待っていたのは大きな大きな落とし穴だった。最初の事件における犠牲者は他ならぬ十神であり、加えて狛枝こそがその元凶という驚愕の真相が明かされる。“続編もの”の芳醇な香りに釣られやってきた無印プレイヤーを限界まで叩き落とすこの展開は、歓迎どころか「無印をクリアしたくらいでいい気になってる君に最高の地獄を用意してやったぜ!」というスタッフの宣戦布告のようでもあり、事実、この最初の事件を持って『2』は真に始動していくこととなる。

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『2』も物語の大筋は無印と共通しており、閉ざされた空間でコロシアイ生活を強いられる“超高校級”のキャラクターたちが、学級裁判を通して絶望に立ち向かっていく姿を描いたものになっている。どちらもほの暗い世界観こそ共通であるが、オムニバス風味の痛快推理劇だった無印に対し、『2』は更に重苦しい空気感の下で強い縦軸を持って進む、言うなれば青年漫画風味の物語だった。


そんな『2』の核の一つは勿論、主人公こと日向創である。日向は苗木のような“超高校級の希望”の核となり得る強い心も前向きさも持たない本当にごく普通の少年で、自身の“超高校級の才能”が思い出せないことから仲間たちにコンプレックスを抱いている(声帯からして“超高校級の探偵”だと一瞬でも思ったのは筆者だけではないはず)。“胸を張れる自分になる”という真っ直ぐで人間味のある目標も相まって、ある意味苗木よりも忠実なプレイヤーの写し身となり得る等身大の主人公だ。

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そんなプロフィールのためか、序盤の彼は周りに心配されても斜に構えたり、苗木と異なり仲間の死に心を閉ざしかけてしまったりと(本来ならそれが普通なのだが)マイナスな印象の描写が多く、執拗なまでに“等身大”なキャラクター造形になっている。

 

しかし最後までプレイしてみれば、日向創という主人公がマイナスから始まることそのものが『2』のミソであった。最終局面で判明する彼の正体は、人工的な“超高校級の希望”こと万能の天才“カムクライズル”の器であり、日向創そのものは“超高校級の才能”を持たない予備学科生、つまりは正真正銘“ごく普通の一般人”に過ぎなかったのだ。


『2』は、そんなマイナスからの始まりを強いられたものの、奇しくも学園生活の記憶を奪われたことで他の“超高校級”の面々と同じスタートラインに立つことができた日向が、仲間たちとの絆を糧に成長し、最終的には“超高校級の希望”こと苗木を越え得る存在に到達するという成長物語であった。

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主人公の成長というテーマは古今東西どのような作品でも用いられる王道中の王道であり、無印においても主人公である苗木は大きな成長を見せていた。日向と同じく自らの平凡さにコンプレックスを持つ彼が、持ち前の前向きさを糧に絶望に立ち向かい“超高校級の希望”に進化していくというストーリーは痛快なカタルシスに満ちたもの。しかし、苗木が日向と異なっていたのは、その成長が序盤である程度完成されていた点である。

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苗木は『無印』1章において心が折れかけてしまうも、霧切らのサポートを受けつつ立ち上がり、裁判後には舞園ら仲間の死を「乗り越えたりせず、引き擦っていく」という強い決意を口にする。この時点で彼という主人公はある種完成されており、2章以降は口数の少ない霧切や、冷静さを欠くことの多い石丸などに代わり周りを引っ張る場面も見られるようになっていく。これは霧切という頼もしいパートナーが最序盤から苗木や仲間たちの精神的支柱として機能していたことや、苗木自身の持っていた“前向きさ”という“超高校級の希望”の核となる素質など、様々な要因が可能にしたものだろう。

 

 

対する日向は、前述のように苗木以上の平凡な少年である。“超高校級の才能”は元より、能力も心も目立った特徴を持ち合わせている訳ではなく、更に皆を支え得る存在だった十神は最初の犠牲者となり、1章において日向を導いた狛枝に至ってはその事件の元凶であった。奇跡的に皆と同じスタートラインに立った彼は、一歩前進するどころか早々に更なるドン底へ突き落とされてしまったのである。


だが彼は数多の学級裁判を経て、着実に成長を果たしていく。その糧となったのは七海ら仲間たちとの絆であり、「コロシアイを起こさないでくれ」というペコの願いや「生きることを諦めるな」という田中のメッセージなど“死んでいった仲間たち”の残した想いもまた、日向の成長を力強く後押ししていった。それら多くの想いを無駄にしないためにと、傷付きながらも懸命に立ち上がる日向の姿には胸を打つものがある。第3の学級裁判にて、罪木に最後の証拠を突き付けんとする彼が漏らした「怯むな、臆すな、逃げるな……!」という言葉はそんな日向をこの上なく象徴したものであるし、人の想いに誰よりも深く向き合っていける感受性は“特別な才能”とは言えないまでも、間違いなく彼の強さであり才能の種であったと言えるだろう(彼がもっと早くにそのことに気付き、自信を持ってさえいれば、あるいは九頭龍の言う“超高校級の相談窓口”となる未来もあったかもしれない)。

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一方、その成長に対し壁となって立ちはだかるのが、本作のもう一つの核であり“影の主人公”とも言える狛枝凪斗だ。f:id:kogalent:20200914233944j:image

彼は日向らと同じコロシアイ修学旅行の参加者でありながら、敵でも味方でもなく崇拝する“希望”の徒として動く第三勢力であった。日向(プレイヤー)らを翻弄しつつ1人真実/絶望に近付いていく彼の存在は、緒方恵美女史の狂気と色気溢れる名演もあって『2』のエンジンとなっており、同時に『2』におけるライバル/アンチヒーロー的なポジションを一手に担ってもいる。

そんな彼を様々な意味で象徴する台詞であり、1章でのみ聴くことができる「それは違うよ……」に震えたり奇声を上げたりしてしまったプレイヤーは多いはず(私は後者)。もっと聴きたかった……。

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しかし、彼が“影の主人公”と言える真の所以は、その在り方が日向と美しいほどに相反している点にある。

日向は“超高校級の才能”を持たない予備学科生で、仲間と共に歩むことで痛みを受け止め、前に進むことができる一般人。一方狛枝は、己の持つ“超高校級の才能”によって、ただの一人で、痛みを厭うことなく進み続ける特異な存在。その狛枝が日向を翻弄し先を行くということは、日向の歩みそのものを真っ向から否定する事でもある。仲間たちの想いを背負い進む日向にとって、狛枝は“仲間たちのためにも”越えなければならない存在であったのだ。


そんないかにも宿敵然とした日向と狛枝だが、実のところ“似た者同士”という側面も持っていた。特別な才能を持たないが故に希望を求め、希望に縛られていた日向と、“超高校級の幸運”という才能に縛られていたが故に希望を求めていた狛枝。共に“才能”という概念に囚われているお互いの在り方からか、狛枝は日向が自分と同じ“希望の傍観者”であるとして親近感を抱いており、日向もまた(彼の奥底に近しいものを感じるからか)狛枝を憎みきれずにいる、といった奇妙な関係性が何度も描かれていた。だが、だからこそ“近しい在り方”でありつつ“超高校級”である狛枝はまさしく日向の影であり、これまでの自分から成長/脱却することをテーマとして背負った日向にとって、狛枝は“自分自身にとっても”越えなければならない存在でもあったと言えるだろう。

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数々の因縁をその身に抱えた狛枝だったが、こうした“主人公と相反する在り方で状況を掻き回しつつも、邪険にできない不可思議な心根を持っている”人物だったからこそ、彼は終盤まで敵でも味方でもなく、しかし日向らの壁として立ちはだかり続けるという特異なポジションであり続けることができたのだろう。

 


成長する日向、壁として立ちはだかる狛枝。
それぞれの道を歩み、片や希望を、片や絶望を手にしていく両者の関係性は、コロシアイ修学旅行最後の殺人事件となる5章で遂に爆発する。

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『2』最大の見せ場と言っても過言ではない5章。あの狛枝が殺人の被害者になるという点そのものも驚きなのだが、何よりの衝撃は、狛枝という人間が持つ狂気がこれでもかと凝縮されたその学級裁判にあった。


“絶望の残党”であった日向ら五人を殺し、未来機関の使者だけを生き残らせるという、“希望への奉仕”に自らの命と才能を捧げる狛枝の澄みきった狂気。そして最後の一手に自らの“超高校級の幸運”を用いることで推理そのものを封じるという、狛枝にのみ許された完全無比の策略。誰よりも希望を愛し、誰よりも自分の才能に囚われ、それでいて誰よりも純粋である狛枝にしか作り得ない、まさしく“最大最後の”学級裁判である。

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また、この学級裁判が『無印』江ノ島戦以来の“VS”図式を取っている点にも注目したい。『ダンガンロンパ』は推理モノの基本とされる「犯人が誰なのか分からない→物語終盤で決定的な証拠を掴み特定→直接対決」という王道の図式を取っているが、『無印』の江ノ島戦と『2』のこの裁判に関してはドラマ『刑事コロンボ』などに見られる「序盤で犯人を特定→直接対決の中でそのトリックを打破していく」という、犯人との攻防そのものをメインに据えた図式(に類するもの)を取っている。

 

これにより、モノクマ(江ノ島)/狛枝という、それぞれの作中において立ちはだかった壁と主人公たちとの満を持しての直接対決が存分に描かれることとなる。後のことを踏まえると“前作ラスボス戦と似た図式”が取られているのは、やはりこの裁判が『2』のラストとしての意味合いを一定量持っているからかもしれない。

 

 

日向の対極の存在として常にその上を行き、翻弄し続けてきた狛枝。日向たちが積み上げてきた“仲間たちとの絆”という希望が絶望を打ち砕けるほどに輝くものであるかどうか、その審判を実質的に狛枝が下すというこの展開は、狛枝という男のラストステージとしても、日向の成長物語のラストステージとしてもこの上ない見事なシチュエーションと言えるものだった。

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困難を極めた裁判は、紆余曲折の果てに事件のクロこと、未来機関の使者である七海の自白という形で幕を下ろす。日向らは七海・モノミの消滅と引き換えにその命を繋ぐこととなり、狛枝は自らの希望に殉ずる形で“超高校級の絶望”に一矢も二矢も報いて見せた。完全なるものではないにしろ、それは実質的に狛枝の勝利のようでもある。


しかし、この結末は間違いなく日向たちの掴み取った“勝利”だった。プログラムである七海は自らが未来機関の使者(裏切り者)であると誰にも打ち明けられなかったことを「“そういう風にできている”から」と語っており、本当ならば自白など不可能な存在だ。それを可能としたのは皆を助けたいという七海の想いであり、その想いを形作ったのは、他ならぬ日向たちが彼女と紡いできた絆。つまりはこれまで日向が積み重ねてきた“希望”そのものだった。そんな彼女の想いと全ての痛みを受け止め、日向は七海をクロに指名する。それはまるで自分たちを支えてくれた七海からの“卒業”のようでもあり、 美しくも悲痛に過ぎる別れだった。

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『2』が積み上げてきた希望と絶望の集大成とも言えるこの一連。奇しくも狛枝は、自らが求め続け、その礎になりたいと願っていた“希望が最も輝く瞬間”を自らの手で作り出すこととなった。そういった意味でも、この決着は『2』における2人の主人公が迎えたエンディングとしてあまりにも“正しい”もののように思えてならない(個人的に、日向についてはここがある種のトゥルーエンド、6章~エピローグが“真エンド”のようなものだと感じている)。


だが、この決戦が本作のエンディングとなることはない。それはストーリー的な意味では勿論のこと、何より日向が主人公として紡いできた成長にピリオドを打つ最後のピースが欠けているからである。

 


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七海との別れを経て『2』が一つの区切りを迎えたことをきっかけに突入する最終章。舞台は遂に『無印』と繋がり、全ては『無印』のその後にあたる時間軸で起こっている“更正プログラム内での出来事”であったこと、黒幕の正体が江ノ島の残したアルターエゴであったこと、日向の正体がカムクラであることなどが怒濤の勢いで明かされていき、日向らは正真正銘最後の戦いに突入することになる。


不二咲アルターエゴの再登場、“11037”による論破、『2』仕様の反論カットインと『無印』のBGMを引っ提げて参戦する苗木、続けて現れる霧切と(本物の)十神。最高級のファンサービスが雨あられと降り注いだ先で日向に与えられたのは、“超高校級の希望になり得るか、あるいは越えられるか”という文字通りの最終試験だった。

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最終章は、まず前半が(作品性質上避けられないことなのだが)コロシアイ修学旅行、そして『無印』との繋がりについての種明かしパートとなり、中盤は江ノ島の登場~苗木らの参戦によって完全に『帰ってきたダンガンロンパ』状態となる。秀逸なファンサービス要素のような魅力もあるし、シナリオ上仕方ないことではあるのだが、この前~中盤は特に要素の渋滞ぶりが否めず、展開が非常にスムーズだった『無印』最終章や『2』5章の盛り上がりに比べるとこの『2』最終章は些かバランスを欠いてしまっている。しかし、これらの要素も含めることでやっと日向の物語が真に完結する点には思わず膝を打った。

 

『2』の物語は、前述の通り日向創の成長を核として描いてきた。5章までの戦いを経て彼は“希望”の担い手として一つの成熟を見るが、それでは同じ主人公であり“超高校級の希望”の苗木に及ばぬ存在として終わってしまうに過ぎない。そこで彼に与えられたのが“真の主人公(超高校級の希望)になり得るか、あるいは越えられるか”という命題だ。

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苗木、霧切、十神の参戦により一同は江ノ島を追い詰めるが、彼女の切った最後のカード=プログラム世界を強制シャットダウンした場合、“絶望の残党”である『2』メンバーは“超高校級の絶望”に戻ってしまい、中でも日向はカムクライズルの人格に戻るため”日向創としての死”を迎える、という絶望的な事実により、日向たち5人は自分たちの存在と世界の平和を天秤にかけるという最悪の選択肢を突き付けられてしまう。

 

もしかしたら、強制シャットダウンを行っても日向の人格は消えないかもしれない。左右田、ソニア、九頭龍、終里は超高校級の絶望に戻っても更正できるかもしれない。そんな僅かな希望に懸けることが日向らにとって残された道であったが、そうだとしても、強制シャットダウンは七海ら死んでいった仲間たちの復活の可能性を絶ってしまうかもしれないという側面をも持っていた。そんな“自分と仲間と世界の存在を懸けた選択”のかつてない重さに対し、追い詰められた日向は「俺はそんな選択を下せるような強い人間じゃない」と心の中に閉じ籠ってしまう。日向が抱え続けてきた“自信/自己愛の欠落”という問題が、この最終局面において彼に牙を剥いてしまったのだ。

 

 

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元より、日向の物語は“自分を信じる心”の欠如から始まっていた。才能がない、他人に認められるだけのものがない。だからこそ彼は希望ヶ峰学園に憧れ、そこで“自信を持っていい理由”を獲得することに希望を見出だしていた。
そんな日向にとって“誰かを死に追いやっていくことの連続”であるコロシアイ修学旅行は、彼に大きな成長をもたらしはしても、決して彼に自信を与えるものではなく、むしろその心を苛み続けてきた。彼は自身の成長とは裏腹に、“胸を張れる自分”という目標から次第に遠ざかってしまっていたのだ。

 

しかし、そんな日向の自己認識には一つの根本的な誤りがあった。そのことを示していたのは、七海と共に消えていったモノミが日向たちの先生として残した最期の言葉である。

 

「無理に誰かに認められなくてもいいんだからね。そんなことで自分を責めたり他人を責めたり……でもね、そうじゃないんでちゅ。他人に認められなくても、自分に胸を張れる自分になればいいんでちゅ! だって……自分こそが、自分の最大の応援者なんでちゅから! そうやって自分を好きになれば、その“愛”は一生自分を応援し続けてくれまちゅよ」

 

“超高校級の絶望”に堕ちた『2』メンバー全員へのメッセージであろうこのモノミの言葉は、例外なく日向にも向けられている。日向に必要だったものは、誰かに認めて貰えるための理由――“才能”ないし何かしらの“ステータス”を得ることではなく、自分に胸を張れる自分であること。そしてそんな自分を信じてあげること。

 

閉ざされた日向の心象世界に現れた七海は、そんなモノミを含め、死んでいった仲間たち全員の遺志を継ぐかのように日向へメッセージを託す。

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「才能があろうとなかろうと、自分を信じる心こそが一番大切なもの」であり、この島で成長してきた日向はもう自分を信じていいと。自分を含め消えた仲間たちは、その想いを託した日向たちの道行きと共に在り、どんなことがあろうと消えはしないのだと。それら七海の言葉は、日向に欠け続けていた最後のピース=“自分を信じる心”を与えていく。

 

日向は常に仲間たちと共に困難を乗り越えてきた。そして彼らはこれからもずっと背中を押してくれている。そんな彼らを信じることで、日向は遂に“彼らの信じる自分を信じ、そしてその可能性を信じる”という境地に辿り着く。

 

答えを得た日向に「キミなら未来だって創れる」という最後のコトダマを託し消えていく七海。彼女の言葉を背に、日向は自分の中で囁く絶望(才能に縛られ、その果てに絶望へと堕した自分=カムクライズルの姿をした“かつての自分”)を乗り越え、確固たる“己”と共に覚醒する。

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覚醒を果たした日向は、七海から託された“未来だって創れる”という“可能性”のコトダマによって周囲の全てを論破/破壊していく。苗木の語る“希望”の通り、日向たちの生還には大きなリスクが伴う。江ノ島の語る“絶望”の通り、彼らにとっては選ばないことが最も楽な選択肢。そういった全ての発言を、論破する訳でなくただただ破壊していった。

 

日向の信じる“自分たちの可能性”は文字通りあくまで可能性であるため、何かを筋道立てて論破することはできない。だが逆に、何物にもその“可能性”や“それを信じる心”を否定することもできない。だからこそ日向はコトダマで全てを破壊し、自分たちを縛り付けていた選択肢(世界のルール)を「それでも俺は、自分たちの未来を信じている」と打ち崩していったのだ。

 


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恐るべき速度と威力でその場の発言を破壊していく日向の姿は、ロジカルに発言を論破するというルールの上で成り立つ『ダンガンロンパ』というゲームそのものをも破壊していくようであり、彼らの持つ“世界のルールを越えた新しい選択肢を創れる”という可能性=彼らに秘められた“未来”をプレイヤーにもありありと叩き付けてくる。


勿論、論破できていないことは疑いようのない事実であり、日向の覚醒によって状況が具体的に変わった訳ではない。自分を信じ、仲間を信じ、その可能性=未来を信じる日向が選ぶのは“強制シャットダウンを行って外へ出て、そこから自分たちの運命を変えていこう”という可能性を度外視した結論であり、江ノ島が「そんなの希望でも絶望でもない」と驚くのも当然だ。

 

しかし日向の叫びは左右田たち4人にも届き、彼らもまたそれぞれに仲間を信じ、自分たちを信じることで虚無から脱していく。苗木が希望を伝染させて絶望を乗り越えたように、日向もまた自らの“未来”を伝染させていくことで、自分たちを追い詰めた虚無の破壊、江ノ島の打倒を遂に成し遂げたのだ。

 


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己と仲間たちの未来を信じることで、希望にも絶望にも縛られない新たな道を切り拓いていく日向。そこには確かに“超高校級の才能”が現れているが『2』の作中でその正体が明言されることはなかった。

 

一見すると、それは苗木と同じ“超高校級の希望”のように思える。“超高校級の希望”が苗木の“前向きさ”から生まれたものであるように、日向のそれも“自分たちを信じる心”から生まれたものであるし、更には苗木同様“周囲への伝染”を行うことで状況を覆していたりと両者の共通点は多い。

 

だが、日向の“超高校級の才能”の核となっているものは“希望”ではなく“未来”だ。日向たちにとっての“未来”とは、エピローグでの苗木の言葉を借りるなら“懸命に前に進むこと”そのものであり、それ自体は希望でも絶望でもない。同時に、そのどちらにもなり得る/どちらをも壊し得る可能性の塊である。

 

これらのことを踏まえると、日向の“超高校級の才能”とは“可能性の塊=未来を伝染させ、あらゆる不可能を可能にしていく可能性の力”。すなわち『超高校級の未来』とでも呼ぶべきものではないだろうか。


勿論それは単なる予想でしかないが、少なくとも日向の手にした“才能”が仲間たちの存在があって初めて発現したものだということは間違いない事実だ。覚醒のトリガーを引いたのが七海なら、そこに至る日向の成長も仲間あってのもの。そして日向の言う“未来”もまた、仲間たちと一緒だからこそ進んでいける世界だ。そんな仲間たちと、その想いに深く向き合ってきた日向との絆が創り出した“超高校級の未来”は日向と仲間たちとの絆の結晶とも言えるだろう。

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仲間がいなければ力が出せないことは弱さだ、というのはその通りで、本編序盤の日向はまさにその証左と言える“何者でもない”存在だった。だが彼は仲間を得て、絆を育み、想いを受け取っていくことで、こうして“超高校級の希望”さえも越える力を引き出すことができた。“仲間との絆で生まれる力”には弱点こそあるが、発揮できる力は1人で作り出せるものよりも遥かに大きい。それこそが彼の辿り着いた“超高校級の未来”の真髄であり、人の想いに誰よりも深く向き合い、共に歩んできた日向創という人間の真骨頂のように思える。


“日向創は、彼1人では苗木誠(超高校級の希望)を越えることはできないが、仲間との絆があれば越えることができる”


この苗木と日向の関係は、漫画『DEATH NOTE』クライマックスにおける台詞「2人ならLに並べる 2人ならLを越せる」に通ずるものがある。主人公夜神月を後一歩の所まで追い詰めた名探偵『L』を継ぐものと目されながらも、彼に及ぶことなく侮られていた少年『ニア』が、自らと同じLを継ぐものとされていた少年『メロ』の尽力を受けて夜神月に決定的な罪の証拠を突き付けた際に放った台詞だ。


日向もまた、1人では決して苗木に及ばない。でも仲間となら苗木と並べる、苗木を越せる。彼のような前向きさがなくても、日向自身に超高校級の才能がなくても、絶望に負けてしまった過去があっても、希望が見えない暗闇の中であっても、それでも仲間との絆のようなそれぞれの理由やきっかけさえあれば誰にでも未来は拓くことができる。

 

“弱くてもいいんだよ”

 

という、このどこまでも優しく力強いメッセージこそ日向が悟ったことであり、本作『スーパーダンガンロンパ2』がプレイヤーに伝えたかったメッセージなのではないだろうかと、そう思えてならない。

 

 


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こうして振り返ると、プレイ時は聞いていた通り“無印以上の地獄”のように感じていた『2』も、思った以上に気落ちせずに思い起こすことができた。心が鍛えられたというのも勿論あるだろうし、アイランドモードで誰もが幸せなIFを見られたからというのもあるだろうが、何よりも大きい理由は、エピローグにおける日向の背中だろう。

 

本編後に日向たちがどういう顛末を迎えたのか、触れられはすれど詳しく語られることはない。それでも苗木たちを見送る彼の背中は、細かい言葉がなくとも“胸を張れる自分”に彼が辿り着いたことを示していた。そんな日向の背中を思うと、不思議とゲームを駆け抜けた自分の背中まで押されているような気分になってくる。こればかりは拗らせたプレイヤーの妄想などではなく、本当に、ただ素直に抱いている感想だ。


それは等身大の主人公であった日向の成長を見守り、追いかけ、共に走ってきたプレイヤー自身もまた、彼から大きな希望を貰うことができたから……という紛れもない事実なのだろうと思う。ゲームから何かを物理的に得ることはできないが、ゲームに生きているキャラクターたちから受け取ることができるものは数知れない。日向と七海が紡いだ絆のように、住んでいる世界が違っていようが、データが残っていようがなかろうが、受け取った大切なものがそこに“在る”ことには何の関係もないのだ。


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ダンガンロンパ』は絶望をこれでもかと突き付けてくるゲームであり、その点は疑いようもない。だとしても、苗木や日向たちはいつもそれ以上のものをプレイヤーに与えてくれる。


『2』以降もアニメやゲームで繰り広げられていくという希望と絶望、そして未来の物語。日向たちにまた会える日は来るのか、プログラム世界で散っていった仲間たちはどうなるのか。それらが明かされる日が来るのか来ないのか。現状は分からないことだらけだが、今はただ日向の背中を信じつつ、いつか訪れるであろう彼らとの再会に思いを馳せたい。

 

 

ありがとう『ダンガンロンパ1・2 Reload』。本当に素晴らしい作品でした。

【感想 ダンガンロンパ無印】7年越しで原作ゲームに挑んだアニメ勢は推しが増えて絶望に暮れる

 

ダンガンロンパ1・2 Reload - PSVita

ダンガンロンパ1・2 Reload - PSVita

  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: Video Game
 

 


発売から幾年月、遂にクリアした『ダンガンロンパ1・2 Reload』。作品を終えて、ここまで絶大な「この感想を書き留めておかねばなるまい……!」という使命感と責任感に駆られる作品は、後にも先にもこのダンガンロンパシリーズぐらいなのでは、と思ったり。

 


今から7年も前(嘘でしょ?)になる2013年7月。アニメ『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』が放映された。ストーリーの面白さに惹かれはしたものの、今以上にグロテスクな描写への耐性がなかった当時はあのピンク色の血さえ阿鼻叫喚モノで、そのため物語の記憶は“誰が死んで誰が生き残るか”程度しか残っていなかった。(ゲームをプレイするにあたって)最低の記憶の残り方に思わず頭を抱えた。

 

それから7年、グロテスク描写への耐性とそれなりの覚悟を持って挑んだことで、初めて『ダンガンロンパ』を存分に楽しめたと言えるのが今回の『ダンガンロンパ1・2 Reload』。以下はそんなオタクのコロシアイ生活体験記その1、『(無印)ダンガンロンパ』編になります。作品を知っている方向け+アニメ視聴済のためやや薄味の感想になっていますがご容赦を。

 

 

※以下、ネタバレ全開のため注意!

 

 

 

 

 

 


ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生】

 

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ダンガンロンパシリーズは“ハイスピード推理アクション”と銘打たれ、推理ゲームにアクション要素をはじめ様々なゲーム性が加わることで誕生した独自色の強い作品。本作はその1作目だが、とても初作とは思えぬ安定感を誇っており、洗練されたストーリーも相まって抜群の面白さを誇る傑作だ(VITAへの移植にあたって主にインターフェース面へのテコ入れが行われており、不評だった点もその多くが改善されているとのこと)。


その肝は何といっても隔離された学園内における“コロシアイ学園生活”を舞台に繰り広げられるスリルに満ちたストーリーと、各章クライマックスにて行われる“学級裁判”パートのため、上述の通りストーリーの大筋=誰が死に、誰が生き残るかを知っている私は、おそらくそこまでこのゲームを楽しむことはできないだろうとタカをくくっていた……のだが、その予想は1章で早々に覆されてしまう。f:id:kogalent:20200913183309j:image

実際にゲームをプレイして最も痛烈に感じたのは、“自分でプレイすること”と“外から見ている”ことがどれほど違うかということ。要はホラーゲームを自分自身でプレイする場合“感情移入”どころか“感覚移入”まで起こってしまうために、何倍も何十倍も怖くなるアレだ。そのため、アニメを見ていたとしても、ゲームをプレイすることで接する物語は肌触りが全くの別物なのだ。


そのことを今回、最初の殺人(舞園事件)から早速突き付けられることになった。実際に舞園と交流し、アニメでは分からない苗木と舞園のお互いに対する心情を知り、その上で彼女が無惨に命を散らす。この時点でアニメ以上のダメージを負っていたが、何よりも問題だったのは、その死体を“自分自身でまじまじと見つめて、調べる”行為が思っていたよりもずっと深々と心に突き刺さるものだったこと。結果、2つ目の事件が起こった時に心がポッキリ逝ってしまった。

 



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今回のプレイにあたっての最も大きな変化として挙げられるのが、「不二咲くんめっちゃ(可愛)いいやんけ!!!!」という真理に気付けたこと。アニメの時は全く気にならなかっただけに、7年という時間の長さを(色々な意味で)しみじみと実感するなど。

 

純真無垢な小動物系良心としての存在感、重いコンプレックス、“超高校級のプログラマー”らしいオタクぶり、分厚い殻に閉じ込められた彼なりの信念、それらに散りばめられた凄まじい数のギャップによる圧倒的可愛さなど、その魅力を挙げるとキリがない。

 

故に、ええ、死にましたよね……(筆者の心も)。

 

死ぬ、というか“無惨に殺される”ことを知っている上でキャラクターに惚れ込むことほど参ることはない。こんなに悲痛な気持ちで推しが増えるのは初めてだった。


だがそれは好機でもある。死ぬと分かっているからこそ通信簿(個別イベント)収集で早々に彼へ舵を切れる訳ですよ~~!!! などと息巻いたものの、後一歩という所でコンプリートならず死亡。ただでさえ“自分の推しの死体を何度も、まじまじと見なければならない”というショックが大きい上に、この末路を知っていながら交流を深めきれなかったというとんでもない敗北感が重なり、結果ゲームを放置。ふて寝……圧倒的ふて寝……!!

先輩プレイヤーのエールもあり1週間で立ち直れたものの、それがなければ本当にそこで終わっていた可能性さえある。推しがいるオタクはこういう時に弱いが、それでも推してしまうのがオタクの性なのだからしょうがない。辛い。

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しかし、そこから更に驚かされたのは、不二咲事件における学級裁判でのこと。あれだけ惚れ込んだ不二咲を殺した大和田が処刑されることの辛さもまた、アニメの時とは比較にならないものだったことだ。

 

死体に向き合うのもプレイヤー自身なら、犯人を指名すること=自分の仲間を殺すのもプレイヤー自身。彼らの希望を打ち砕き、死に追いやることの責任とその重みがそのままプレイヤーの肩に乗っているのである。ここで初めて、自分は苗木が味わっている残酷な現実にプレイヤーなりにしっかりと寄り添うことができたのだなと思い、血を吐いた。血を吐いて、それからこのゲームの素晴らしい(くらいに人の心をぐちゃぐちゃにするシナリオの)出来に心底ひれ伏した。

 

 

そんな不二咲の一件も含め、今回のプレイを通して味わった大きな感動の一つが「ダンガンロンパのストーリーはこんなにも良くできていたのか」と気付けたこと。『ダンガンロンパ』には、この手の推理ものでは欠かせない数々の奇抜な展開は元より、“キャラクターへの感情移入のさせ方”については特に他の追随を許さない圧倒的な魅力があると感じている。


というのも、ダンガンロンパは“多くのキャラクターが物語中に脱落していく”ので、それらのキャラクターに対する描写できる部分は否応なしに少なくなる。にも関わらず彼ら彼女らの死にはショックがなければいけないし、犯人に死を突き付ける(た)ことにも相応の躊躇いを生まれさせなければならない。つまりそれほどに深い感情移入をプレイヤーにさせなければならない。その上“過剰に特定個人を描写すると怪しまれる”というジンクスまで付いて回るがんじがらめぶり。自分がライターだったら匙を投げるか妥協するかの二択まっしぐらだ。f:id:kogalent:20200913185532j:image

しかしそこを妥協しないのがダンガンロンパチュートリアルボス的なポジションの桑田は(おそらく意図的に)感情移入をさせるような掘り下げや誘導がされないので例外だが他は違う。舞園は裁判の中でその隠されたキャラクター性が露になっていくし、不二咲は舞園が死んだことを受けて“一同の良心”的なポジションを早々に確立し、プレイヤーを惹き付ける。大和田はそんな不二咲と友情を深めていくが、当の彼こそが不二咲を殺めてしまう……。特に描写の手際の良さが際立つのは序盤で脱落するこの三人だが、その後も殺人の被害者や犯人となるキャラクターたちはいずれも(わざとらしくない程度に)絶妙な流れとタイミングを持って舞台から退いていくため、その掘り下げや関連するプレイヤー心理の誘導は見事の一言。


そんな、アニメ視聴時とは全く異なるストーリー体験と心を抉る物語に振り回されつつ、更なる二つの事件を乗り越えていく。その最後に待っていた不二咲の写し身“アルターエゴ”の突然の処刑という傷口に塩を塗りたくった後に中濃ソースをぶちまけるような、およそ人間の所業とは思えぬ最低最悪のサプライズ(絶対に許さない)に心を再び擦り潰されたことで再起に時間を取られるというアクシデントもあったが、この辺りになってくると流石に経験値が積まれたからか心も頑強になり、これまで目につかなかった“殺人トリック”周りの要素も冷静に振り返ることができるようになってくる。

 


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ダンガンロンパは“サイコポップ”を謳うだけあって、ビジュアルも世界観も現実と解離しすぎない程度に全力でズラした不可思議なものになっているが、殺人周りについては驚くほど生真面目で周到な仕上がりになっているように思う。いかにも“学園内で起こる殺人”風味でありながら、加害者性を逆転させることで意表を突いてくる桑田の殺人、殺人周りのトリックはオーソドックスなものの、不二咲の性別というゲームならではの派手な仕掛けによって難易度が大幅に向上する大和田の殺人。セレスの殺人以降も同じで、きちんと推理に挑もうにも(犯人は知ってるのに)トリックが解けず難儀することが多かった。そこ、ただプレイヤーが下手なだけとか言わない。


キャラクター描写も然り、破天荒なゲーム性ながらもこういった“丁寧にすべきところ”をある種極端なほど律儀に押さえている点は、ダンガンロンパというゲームが広く受け入れられている大きなポイントなのではないかと思う(それだけに、随所に突如挟まれるショッキングな展開が心をよりデタラメに抉り取っていくのだが)。

 


そうしてどんどん溜まっていく黒幕への怒りが爆発する頃合いで、まるでその感情の推移さえもスタッフの思うままだと言わんばかりに、最後の殺人では一気にストーリーの核心へ踏み込んでいく。個人的に『ダンガンロンパ』のストーリーで特に上手いのはこの最終章だと感じていて、これまでほとんど触れられることがなかった“16人目” “黒幕(モノクマ)の正体” “コロシアイ学園生活の真相” “霧切の正体“といった数々のトピックが満遍なく織り込まれた謎解きは“説明”感が0と言っていいほどに薄く、“真相を暴いていく楽しさ”が加わった分、むしろこれまでの推理で最もカタルシスに満ちたものだった。f:id:kogalent:20200913183856j:image

正体不明の被害者というまさかの切り口で展開される難事件を通して追い詰められる苗木と霧切、そこからの再起による逆転劇といった大筋は“これまで行ってきた裁判のアップグレード版”とも言える。その過程で徐々に全ての謎が解けていき、そのまま黒幕との決戦に突入するという流れには作中屈指の熱量があり、アニメの記憶がなければ……と凄まじい後悔に襲われた。


かくして迎えた最終決戦において、遂に明かされる苗木の真の存在意義。“超高校級の学級”という狼の群れに1人入ってしまった羊も同然の彼が、自分の唯一の取り柄としていた“前向きさ”を最強の武器として最後の絶望に立ち向かっていくクライマックス。皆の絶望をこれまで行ってきたコトダマアクションで論破していくという爽快さは、これまでの鬱憤を晴らすような痛快さに満ちており、ダンガンロンパという作品の本懐のようでもあった。

この“プレイしてきたゲーム体験”をメタ的に捉えて活用する手法は後発の傑作ゲーム『undertale』などにも通ずるものがあるが、『ダンガンロンパ』のクライマックスが持つハイテンションさには、元々このゲームが備えていた圧倒的なテンポ感もあって独自の熱量が感じられる。f:id:kogalent:20200913184013j:image

また、そんな苗木というキャラクターを語る上で欠かせないのが“プレイヤーの写し身”としての造形の素晴らしさだ。彼はその運で希望ヶ峰学園への入学を勝ち取った“超高校級の幸運”とされており、つまるところ単なる一般市民に過ぎない。彼はそういった自分の平凡さを気にしていたり、舞園に恋い焦がれたりと度々その“普通ぶり”が印象的に描かれることで、あくまで平凡な少年というキャラクター性をどこまでも貫いていく。


そんな彼がただ一点非凡であったのが“仲間の死を乗り越えず、引き擦っていく”ことができるほどに“強く前向きな心”を持っていたことだ。その一点が非凡で、かつその一点に苗木誠というキャラクターの力と魅力が集約されていることで、プレイヤーは彼に自身を投影させつつも、彼の道行きを見守りたい、応援していきたい、ついていきたいという気持ちに駆られる。彼がいつしか“超高校級”の面々の精神的な支柱のようになっていったのも、この点による所が大きいだろう。


だからこそ、苗木が自らの唯一の取り柄だとする“前向きさ”で皆を絶望から救っていき、その流れで彼の本当の“超高校級”が明かされるという終盤の流れには、彼と共に歩んできたプレイヤーならば手に汗を握らずにはいられない圧倒的な説得力がある。また、この“困難に折れず立ち向かう前向きさ”をこそ最高の武器なんだと肯定するストーリーは、どこかここまでプレイしたプレイヤーに対する熱いメッセージのようにも思える節がある(“Reload”のクリア後にプレイできるおまけモードにおいては、あるEDの台詞でやはり“プレイヤーのここまでの健闘に対する感謝”とも取れるものがあるので、これを少なからずスタッフからのメッセージ/作品テーマの一つと見るのは間違いではないだろう)。


激しい問答の末、打ち出される最後の言葉「希望は前に進むんだ!」はまさしく上述した苗木の在り方、そしてこのダンガンロンパの物語を象徴する一言で、最高の盛り上がりを持って黒幕を葬る一手になる。そうして、驚くほど爽やかな達成感のままに『ダンガンロンパ』の物語は幕を閉じる。

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陰鬱な世界観からは想像もできない、絶望的だが救いも感じられ“諦めない心こそが希望”/“希望があるから諦めずに前を向ける」を地で行くラストシーンは、エンディングとしてあまりにも美しかった。それはおそらく、苗木の前向きさと“皆の死を乗り越えず、引き擦っていく”という愚直なまでに真っ直ぐな歩みが手繰り寄せたグッドエンドであり、この美しいエンディングこそ『ダンガンロンパ』が本当に描きたかったものなのだろうと思わずにはいられない。

 



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こうして“ゲームとしての面白さ”という土台の上で展開するその緻密なストーリーの魅力を7年越しに痛感したのが、私の『(無印)ダンガンロンパ』体験でした。そして舞台は、完全初見となる“本番”こと『スーパーダンガンロンパ2』へ。こちらもネタバレ満載のため、閲覧にはご注意を……。

 

 


余談だが、上でも少し触れた『ダンガンロンパ1・2 Reload』での新規コンテンツであり、無印ダンガンロンパのおまけモードにあたる“スクールモード”では、所謂恋愛ゲームの要領で各キャラクターとの個別エンディングを見ることができるが、舞園、江ノ島(戦刃)、不二咲の3人については特にファン必見の内容に仕上がっているため、ダンガンロンパ無印のファンであるなら是非プレイを勧めたい。

 

はじめましてのご挨拶

初めまして。
虎賀れんと(こがれんと)と申します。



このブログは、特撮やアニメ観賞が生き甲斐の私虎賀れんとが、作品の感想・考察などを形として残すことを目的とした、所謂オタ活の保管庫となっております。


特撮・アニメ・ゲームなど様々なジャンルで思いの丈を書き綴っていく予定ですので、暖かく見守って頂けますと幸いです。


また作品について誰かと語ることが大好きな性分でもありますので、ご意見・ご感想などもお待ちしております。SNSで僕と握手!(不審者)



そんな当ブログですが、本日早速初の記事を更新予定です。
今後も短文から長文まで様々な記事を気ままに投稿していきますので、何卒よろしくお願い致します!





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ちなみに、ブログアイコン↑は名作ロボットアニメ『ガン×ソード』から。こちらもおすすめですぜ旦那!